第十一章「上位判定」
「……次は“上”だな」
そう口にした瞬間、空気が止まった。
さっきまでの現実の浅さすら、そこで一枚剥がされたように感じた。
風が止んだわけじゃない。
「……っ?」
何もしていない。
だが、確かに変わる。
「……違うな」
感覚。空間の手触り。
それら全部が、どこかへ“引かれて”いく。
レオンが低く告げた。
「……来るぞ」
次の瞬間。
空が、音もなく“開いた”。
「……またか」
神崎が顔をしかめる。
だが、在真はすぐに首を振った。
「……違う」
今まで見てきた裂け目とは質が違う。
「……軽すぎる」
圧がない。存在感もない。なのに、皮膚の下だけが先に反応していた。
「……いるな」
そこに“何か”がいると分かる。
神崎が眉をひそめる。
「……なんも感じねぇぞ」
「……だろうな」
在真は目を細めた。
「……下じゃない」
「……上だ」
その瞬間、“それ”が降りてきた。
ゆっくり。静かに。人の形に見える。
だが、見えるだけだ。
「……人か?」
神崎の声にも自信がない。
在真は即座に否定した。
「……違うな」
存在が薄い。
いや、薄いんじゃない。
薄く見せているだけで、その裏に重なりがある。
「……重ねてるな」
複数。
同時に存在している。
神崎が固まる。
「……は?」
「……なんだよそれ」
“それ”がこちらを見る。
「……次元が違うな」
レオンが初めて、はっきりと構えた。
「……危険だ」
だが——。
「……いい」
在真は口元だけで笑う。
「……上が来たな」
“それ”が口を開く。
音はない。
それでも意味だけが、直接頭の奥に流れ込んできた。
『観測』
静寂。
「……観測か」
短く返す。
『異常個体確認』
「……俺か」
その言葉に肯定も否定もない。
ただ、事実として置かれるだけの冷たさがあった。
“それ”がわずかに動く。
次の瞬間、空間が消えた。
「……っ!?」
何もない。
“無”と呼ぶしかない場所で、呼吸の形だけが遅れて残った。
神崎の声が遠くで歪む。
「……やばいな」
レオンの気配も急速に薄れる。
「……切り離されたか」
残ったのは、“それ”と在真だけ。
隔離されたのだと、体の奥が先に分かった。
だが、在真は剣を構える。
「……いいな」
ようやく向こうも、余計なものを挟まず直接来る気になった。
「……上、か」
“それ”が、もう一度こちらを見る。
『排除判定開始』
静かに、そう告げた。
静寂。何もない空間。音もない。重さもない。
前後左右の意味すら薄い。
立っている感覚だけが、かろうじて自分の中に残っていた。
少しでも気を抜くと、その感覚ごとほどけそうだった。
「……切り離されたな」
周囲を見る。
だが、見るという行為自体にあまり意味がない。
「……意味ねぇな」
空間そのものが存在しない。
立っているという感覚だけを、自分で辛うじて維持している。
「……ここは」
「……場じゃない」
その瞬間、“それ”が動いた。
だが——。
「……見えねぇ」
動きがない。変化も見えない。
それでも、体の奥だけが先に反応した。
「……来てる」
回避。
だが、その時点では何も起こらない。
「……遅い?」
違う。
次の瞬間、——ドンッ。
遅れて衝撃が来た。
何もないはずの場所で、骨の内側だけがあとから殴られる。
順番をずらされるのが気味悪い。
「……時間ズレか」
「……殴るより先に、消されるほうが面倒だな」
流れ。ズレ。
何もない空間の中で、ひとつだけ異物のように浮くタイミングがある。
「……判定より先に動く」
踏み込む。
「——斬る!」
——スッ。当たらない。刃は空を切った。
「……噛み合ってねぇな」
“それ”がわずかに揺れる。
『適応確認』
「……だろうな」
在真は息を吐く。
「……じゃあ、外れる」
踏み込む。
時間のズレに合わせる。
ほんの少し前。
未来視で拾った断片へ、今の自分を重ねる。
向こうの順番に入るんじゃない。判定の枠から半歩だけ外れたまま触りに行く。
「……今だ」
剣を振る。——ガキンッ。初めての衝突。
乾いた手応えが、何もない空間に確かに残った。
「……乗らなかったな」
“それ”が止まる。
一瞬だけ。
『異常』
その言葉と同時に、領域の質が変わる。
「……次か」
今度は“重さ”が戻った。
だが普通の重力じゃない。
骨の内側にまで沈み込んでくるような、異常に濃い圧だった。
肩も膝も重いのに、それ以上に名前のついた自分が沈んでいく感じが嫌だった。
「……重すぎるな」
体が沈む。
それでも膝はつかない。
「……変えてくるな」
“それ”がこちらを見る。
『排除継続』
「……鬱陶しい」
口元だけで笑う。
「……まだ落としきれねぇだろ」
踏み込む。重さの中。
筋肉じゃなく、存在の輪郭ごと押し上げる感覚で前へ出る。
普通に踏ん張っているのに、別の場所で自分を持ち上げ直している感じがした。
「……動けるな」
問題ない。
「——斬る!」
——ガキンッ!!
再び衝突。今度は深い。
さっきより確かに届いている。
「……通るな」
“それ”が初めて、わずかに下がった。
倒したわけじゃない。
こっちを、排除するだけの対象ではなく見直しただけだ。
勝った感触じゃない。
ようやく判定の外へ片足だけ出せた感じが残る。
静寂。
『……上昇確認』
その言葉に、在真は短く息を吐く。
「……ああ」
口元だけで笑う。
「……まだ入口だな」
「……ここからだ」
踏み込む。重力と時間、それに空間の手触り。
判定領域の手触りが、今度は全部同時に変わる。
「……全部来るな」
“それ”が動く。見えない。
だが、もうそれは欠点じゃなかった。
「……分かる」
未来視。感覚。
その全部をまとめて使う。
回避。——ドンッ。
衝撃が遅れて来る。
今度はさらに深い。
時間がずれているだけじゃなく、存在の乗り方そのものが違う。
「……合わせる」
ズレに。時間に。
向こうが基準にしているルール、その縁に。
「……そこだ」
踏み込む。
「——斬る!」
——ガキンッ!!
深い衝突。
前より明らかに手応えが違う。
「……入るな」
“それ”が初めて大きく揺れた。
『……異常増大』
「……だろうな」
在真は口元だけで笑う。
「……届いてる」
その瞬間、“それ”の気配が変わった。
さらに上。
判定を、もう一枚剥がしてくるような冷たさ。
「……来るぞ」
次の瞬間、空間が消えた。
「……っ?」
何もない。
無、としか言えない。
だが、それでも“それ”と自分が向き合っていることだけは分かる。
「……存在だけか」
残っているのは、そこに在るという事実だけ。
“それ”が告げる。
『最終判定』
「……気味悪いな」
息が漏れる。
「……やるだけだ」
踏み込む。
だが、距離がない。
位置もない。
前へ出るという表現すら、もう半分くらい間違っている。
「……形がねぇな」
「……なら」
剣を構える。
「……こっちも、きれいには収まらねぇ」
領域を広げる。さらに上へ。幸運。空間の手触り。時間。
ここまで自分の中へ積んできたもの全部を、切り分けずに重ねる。
勝つためじゃない。向こうの判定にきれいに収まらない形を作るために。
「……混ぜる」
「——斬る!」
——ガキィィィンッ!!
正面からぶつかった。
何もないはずの場所で、世界が一度だけ震えた気がした。
「……ずれたな」
“それ”が止まる。
一瞬。
『……同格認定』
静寂。
「……そうか」
息を吐く。
「……通っただけだな」
“それ”がわずかに頷く。
『排除中止』
その瞬間、空間が戻った。
重さ。音。
判定領域の硬い静けさが少しずつほどけていく。
「……止まったか」
“それ”が言う。
『資格取得』
「……資格か」
短く息を吐く。
「……まだ人間側に戻れるか、怪しいな」
音はない。
だが、その言葉が落ちた瞬間、確実に何かが“変わる”。
「……っ」
感覚と視界、認識の幅。
全部が一度に押し広げられる。
「……見えるな」
世界。いや——。
「……裏か」
空間の裏側にある流れが、皮膚の奥へ薄く触れてくる。
今までただそこにあると思っていたものが、何枚も重なって見えた。
「……見えすぎるな」
“それ”が静かに立つ。
『認識更新完了』
「……そうか」
軽く息を吐く。
今までとの違いが、言葉にするより先に体へ入り込んでくる。
「……触れるな」
『干渉可能範囲解放』
その瞬間、世界が“開く”。
基地も、都市も、ダンジョンも。
遠く離れているはずのものが、距離を失って同時に視界へ入ってくる。
「……やりすぎだな」
口元だけで笑う。
「……全部触れる」
“それ”が続ける。
『制限あり』
「……だろうな」
その時だった。
広がった視界の中に、ひとつだけ明らかな違和感が走る。
「……なんだ」
意識が細く引かれる。
世界の外、さらにその外へ、視線だけが先に届きそうになる。
今触れられる範囲より、もう一段遠い場所。
「……まだ上があるな」
“それ”がわずかに反応した。
『未到達領域』
「ああ」
「……行く」
迷いはない。
“それ”が最後に告げる。
『危険度:極大』
「……いい」
息だけで笑う。
「……関係ねぇ」
視線を上へ向ける。
世界の外。さらに外。
「……次だな」
その時、視界が戻った。
戻ったはずなのに、音だけが少し遅れて耳へ入ってくる。
現実に戻る。
基地があり、神崎とレオンがいる。
「……戻ったか」
人の声が一気に戻ってくる。
だが、少し遠い。
神崎がすぐ駆け寄る。
「おい、大丈夫か!」
「……問題ねぇ」
レオンが静かにこちらを見る。
「……変わったな」
「……ああ」
短く返す。
「……見える」
見えている景色の裏側に、まだ別の流れが貼りついている。
それが目ではなく、皮膚の奥に引っかかった。
神崎が苦笑する。
「……もう人じゃねぇな」
「……どうだろうな」
口元だけで笑う。
「……まだ上がある」
視線を上へ向ける。
世界の外、さらにその外。
「……行く」
意識を向ける。
その瞬間、空間が“開く”。
「……っ」
裂け目ではない。もっと滑らかに。もっと自然に。
まるで最初からそこへ繋がる道があって、自分が今ようやく見つけただけみたいに。
「……繋がってるな」
神崎が顔をしかめる。
「おい、それ……」
「……ああ」
短く答える。
「……上だ」
レオンが静かに言う。
「……戻れる保証はない」
「……だろうな」
「……関係ねぇ」
踏み出そうとした時、ガルが当然のように隣へ並んだ。
何も言わない。
ただ、行くなら一緒だという顔だけをしている。
神崎が舌打ちした。
「……ほんと行くのかよ」
「……来るか?」
軽く聞く。
神崎は一瞬だけ呆れた顔をして、それから笑った。
「行くに決まってんだろ」
レオンも小さく頷く。
「……同行する」
「……悪くねぇな」
在真はそのまま踏み込んだ。
世界の外へ。
次の瞬間、視界が消える。
音が消える。存在が薄れる。
「……っ」
感覚が抜ける。
足場も呼吸も、自分の輪郭さえ曖昧になる。
「……これ」
「……やばいな」
神崎の声も少しだけ掠れる。
それでも——。
「……問題ねぇ」
在真は意識を固定する。
ここで薄れて消えるなら、それまでだ。
だが、消える気はなかった。
次の瞬間、視界が戻る。
戻った瞬間、胸の奥にあった冷えだけがまだ消えなかった。
「……ここは」
何もない。
だが、それだけじゃない。
「……違うな」
“世界”じゃない。
空間ですらない。
「……層か」
何かが何重にも重なっている。
複数。同時に。
「……見えるな」
無数の世界。
「……やりすぎだな」
息が漏れた。
その時、“気配”が来た。
「……来るな」
前方。何もない。だが——。
「……いる」
確実に。神崎が低く言う。
「……これ、さっきのよりヤバいぞ」
レオンも構えた。
「……上位だ」
その瞬間、“それ”が現れる。
形はない。
だが、在真は息を吐いた。
「……重いな」
存在そのものが違う。
そこにあるだけで、こちらの輪郭を圧し潰してくる。
「……いい」
口元だけで笑う。
「……上、か」
“それ”がこちらを見る。
その瞬間、すべてが止まった。
思考すら。
『侵入確認』
その言葉が落ちる前から、こちらの輪郭を測られている感じがあった。
意味だけが、直接流れ込む。
「……ああ」
短く返す。
「……来た」
剣を構える。
静寂。何もない。だが——。
「……全部あるな」
空間の手触りと、時間と、輪郭。
「……来るぞ」
前方の“それ”。形はない。
だが、その存在自体が圧になっていた。
神崎が歯を食いしばる。
「……息が重い」
レオンが低く言う。
「……干渉されている」
「……だろうな」
だが——。
「……関係ねぇ」
踏み込む。
その瞬間、消える。
「……っ?」
視界が飛ぶ。存在が抜ける。
自分という形が、一瞬だけ抜き取られたみたいな感覚だった。
「……消されたか」
だが、すぐに戻る。
「……戻る」
意識を固定する。
自分が自分である場所へ、無理やり噛みつく。
次の瞬間、復帰。
「……効くな」
「……でも、消えねぇ」
“それ”がわずかに反応する。
『保持確認』
「……そうだ」
在真は息を吐く。
「……消えねぇ」
踏み込む。距離がない。
だが、ここまで来るとそんなことは問題にもならない。
「……邪魔だな」
斬る。
「——斬る!」
——何も起きない。
手応えがない。
「……当たらねぇな」
“それ”が動く。
動きがないのに、確実に来ている。
「……来てる」
回避。——遅れて衝撃。
さらに、在真の存在の端がわずかに削られた。
「……時間ズレか」
「……削ってくるな」
神崎が叫ぶ。
「これヤバいぞ! お前、輪郭薄れてる!」
レオンが前に出る。
「……触れるな」
「……ああ」
「……触れる」
踏み込む。時間のズレ。存在の層。
今見えているズレを、息ごと拾う。
「……そこだ」
剣を振る。——ガキンッ。初めての衝突。
かすかながら、確実に相手へ届いた。
「……触れたな」
“それ”が揺れる。
『干渉確認』
「……だろうな」
口元だけで笑う。
「……まだいける」
その瞬間、“それ”の気配が変わる。
さらに上。
今までよりも、もっと濃く、もっと深い圧。
「……来るぞ」
「……重いな」
剣を構える。
「……逃がさねぇ」
「……全部来い」
踏み込む。
“それ”の圧が上がる。
空間が歪む。時間がズレる。存在が薄れる。
輪郭の端から、自分の形だけ先にこぼれていく。
腕を上げたつもりなのに、感覚だけが少し遅れて戻ってくる。
握っているはずの剣の重さも、一瞬だけ遠い。
「……来るぞ」
何も見えない。だが——。
「……分かる」
回避。——遅れて衝撃。
それだけじゃない。
在真の腕の輪郭が、わずかに薄くなっていた。
見えているのに、そこに自分の腕がある実感だけが遅れる。
指を動かす。動く。
だが、自分のものだと感じるまでに変な間があった。
「……削られてるな」
「……これか」
「……存在ごと削る」
神崎が叫ぶ。
「おい! それヤバいぞ!」
レオンが低く言った。
「……侵食だ」
「……なるほどな」
在真は口元だけで笑う。
「……気味悪いな」
踏み込む。
「……削るなら」
剣を構える。
「……こっちもだ」
斬る。
「——斬る!」
——ガキンッ!!
衝突。今度は違う。
在真の刃が、“それ”の側の輪郭をわずかに削っていた。
「……削れてるな」
“それ”の一部が、薄く消える。
『侵食確認』
「……そうだ」
息を吐く。
「……なら通る」
「……なら」
踏み込む。
「……速さ上げる」
連続。
呼吸も、未来視も、領域も、全部を一段上げる。
「……重ねる」
——ガキンッ、ガキンッ、ガキンッ!!
“それ”が揺れる。
だが、次の瞬間、空間が閉じた。
「……っ」
動けない。
見えない檻じゃない。
前へ出るという結果だけを、途中で固定された感覚だった。
足を出したつもりなのに、踏み込んだ先だけが消えている。
体は前へ行こうとしているのに、結果だけがそこへ届かない。
「……固定か」
そのまま、存在が削られる。
痛みというより、自分の端から順番に欠けていく寒気だった。
指先から先に、自分じゃないものへ変えられていくみたいで嫌だった。
「……来るな」
だが——。
「……遅い」
無理やり動く。
閉じた空間を、領域で押し割る。
「——斬る!」
——バキィッ!!
今度は大きく入った。
「……入ったな」
“それ”が初めてはっきり揺れる。
『……異常』
静寂。
在真は息を吐く。
「……効いてる」
その瞬間、“それ”の気配がさらに変わった。
神崎が顔をしかめる。
「これ終わり見えねぇぞ!」
レオンは首を横に振る。
「……違う」
「……変わる」
“それ”が形を変える。
今までより明確に。
曖昧に重なっていたものが、ひとつの在り方へ収束し始める。
空気の噛みつき方が変わる。
次はもっと近いところから来る。
そう分かるより先に、肌が嫌がった。
「……出るな」
まだ奥へ変わる。
「……まだあるか」
剣を構える。
「……ここからだ」




