マリャル侯爵家潜入
グロートロップ王国の王都ソビラにはいくつもの貴族の屋敷がある。
貴族は領地にある本邸の他に、王都の屋敷も所有している。
現在グラシエラは、王都ソビラの閑静な地域にある立派な屋敷の前に立っていた。
(ここがマリャル侯爵家の王都の屋敷……)
グラシエラは自身が過ごしているメゼネス伯爵家の王都の屋敷よりも遥かに大きな屋敷を前にし、少しだけ肩に力が入った。
(マファルダお姉様の無実を証明する為に、『王宮殺人事件』の真犯人を探し出す必要がある。事件で殺されたペドロ様は、マリャル侯爵家の長男だった。ペドロ様の関係者を探っていく必要があるわ)
マファルダは真剣な表情である。
(ようやく偽りの身分を手に入れて、マリャル侯爵家で使用人として働きながら情報収集が出来るようになったのよ。絶対に何か情報を掴まないと……!)
グラシエラは深呼吸をし、気合いを入れた。
グラシエラは平民のふりをしてこれからマリャル侯爵家の使用人として働くのだ。
現在のグラシエラの服装は、質素な無地のワンピース。栗毛色の髪は低い位置で一つにまとめており、ローズクォーツのシンプルな髪飾りを着けている。
グラシエラはローズクォーツの髪飾りにそっと触れる。
(マファルダお姉様……)
改めて深呼吸をし、マファルダは口角をキュッと上げた。
このローズクォーツの髪飾りは、マファルダの遺品なのだ。生前、マファルダが特に気に入っていたものである。
マファルダのローズクォーツの髪飾りを身に着けることで、グラシエラはよりマファルダを身近に感じるのであった。
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「貴女が今日からハウスメイドとして働く人ね」
グラシエラがマリャル侯爵家の王都の屋敷に足を踏み入れると、中年女性のメイド長が出迎えてくれた。
ハウスメイドは家中の仕事をこなすので、マリャル侯爵家の王都の屋敷の全ての部屋に出入りしても怪しまれることはない。だからきっとペドロの交友関係などの情報を得ることが出来るであろうとグラシエラは予想したのだ。
「はい。グラ……じゃなくて、エラ・シルヴァでございます」
偽名を名乗るグラシエラである。
グロートロップ王国の平民の中で一番多いシルヴァという姓を使用することにしたのだ。
「分からないことがあれば教えるから、何でも聞いてちょうだいね」
「ありがとうございます」
メイド長は朗らかで優しそうだったので、グラシエラも少しだけ肩の力を抜くことが出来た。
マリャル侯爵家の王都の屋敷を案内され、仕事の説明を聞いたグラシエラは、早速ハウスメイドとしての業務を開始しつつペドロに関する情報を集めることにした。
数日間で得られた情報は、残されたペドロの遺品にボードゲームが多々あったことから、恐らくボードゲームを好んでいたのだろうということくらい。
(まだ数日しか経っていないのだから、仕方ないわね)
グラシエラは軽くため息をついて窓を拭いていた。
何度拭いても、硝子の窓は曇ったままである。
「あら、エラ、それでは窓の汚れは取れないわよ」
「エラ、窓拭きにはこの洗剤を使うと良いわ」
「ありがとうございます」
数日仕事をするうちに、ハウスメイドをしている者達とも話をするようになった。
グラシエラは自身より少し年上の先輩メイドの女性達から、洗剤を指先を揃えて両手で受け取る。
先輩メイド達に言われた通り、洗剤を使って窓を拭く。
すると先程よりも汚れが落ちていた。
「確かに、洗剤があると汚れが落ちやすいですわね」
グラシエラは曇りが少なくなった硝子の窓にそっと触れる。
その時、外からヴァイオリンの音が聞こえて来た。
先輩メイド二人は、目を輝かせながら外を見る。
「確か今日、近隣のお貴族様が音楽サロンを開いているとか。屋外での演奏会だそうよ」
「ヴァイオリンの音って優雅よね。何て曲かは知らないけど」
先輩メイド二人は、うっとりとした表情でヴァイオリンの音が聞こえる方に耳を傾けていた。
(この曲……マファルダお姉様がよく演奏していたわ……)
マファルダが生きていた頃、グラシエラはよく彼女にヴァイオリンを聴かせてもらっていた。
そして時にはマファルダと一緒に演奏することもあった。
マファルダとの思い出が溢れ出し、グラシエラは複雑な気持ちになる。
優しく温かく大切な思い出。しかし、それと同時にもうマファルダはこの世にいないことを突き付けられ、胸が締め付けられる。
グラシエラはヘーゼルの目を伏せた。
「エラ? どうしたの?」
先輩メイドの声にグラシエラはハッとし、顔を上げる。
先輩メイド達はグラシエラを心配そうに見ていた。
「いえ、何でもありません。……この曲、デニウソン・コスタ氏が作曲したヴァイオリン独奏曲でございますわ」
グラシエラは先輩メイド達に心配かけないよう、口角を上げて微笑んだ。
「へえ、初めて知ったわ。エラは物知りね」
「誰が作曲したとか、あたし達あんまり知らなかったわ。それに、独奏曲って何かしら?」
先輩メイド二人は目を丸くしていた。
「マリャル侯爵家も音楽サロンとか開いて欲しいわね」
「そうね。でも多分無理だと思うわ。だって、若旦那様、そういったこと興味なさそうだもの」
(若旦那様……。確か、マリャル侯爵家は今、ペドロ様の弟、アルヴァロ・ヴィトール・デ・マリャル様が実質的に当主の役割を果たしているのよね。マリャル侯爵閣下と侯爵夫人は、『王宮殺人事件』以降領地に引きこもっているみたいだし)
二人の話を聞き、グラシエラはマリャル侯爵家の事情を思い出した。
マリャル侯爵家の王都の屋敷に潜入する際、きちんと調べておいたのだ。
「そうよね。それに、五年前に若旦那様のお兄様、ペドロ様が殺された事件あったじゃない」
「ああ、『王宮殺人事件』ね。あれ以降マリャル侯爵家って何か大変そうなのよね。あたし達はきちんと仕事があってお給金も貰えてるから良いけどさ」
「でもあの事件の犯人、自殺したんでしょ?」
「そうそう。確か、マファルダって人らしいわ。メゼネス伯爵家の令嬢だって聞いてたけど」
マファルダの名前が出て来たことで、グラシエラの表情がピクリと動く。
窓の外には、灰色の雲が広がり始めていた。
グロートロップ王国の春は、天気が変わりやすい。
しかしグラシエラの様子に全く気付いていない先輩メイド二人は、好き勝手囀る。
「マファルダがペドロ様に横恋慕して殺しちゃったんでしょ?」
「そうそう。ペドロ様も酷いわよね。婚約者がいるのに同じく殺されちゃったフロールっていう男爵令嬢に手を出すだけじゃなく、マファルダにもね」
「お貴族様の恋愛事情、怖いわ。大声じゃ言えないけれど、何股もかけていたペドロ様の自業自得感もあるわよね」
「そうね。あ、そういえばペドロ様の婚約者だった方、『王宮殺人事件』以降どうなったか知ってる?」
「ええ、レアル伯爵家の令嬢だった方でしょう? もちろん知っているわよ。あの後、ベルナルド王太子殿下から見初められて、今ではイゾルダ王太子妃殿下よ。グロートロップ王国で王太子妃殿下を知らない方なんていないわよ」
「そうよね。イゾルダ王太子妃殿下は、七年前に海を挟んだ南部の大陸から入って来た疫病のワクチンや特効薬の入手ルートを開拓したのだから。当時伯爵令嬢だったイゾルダ殿下のお陰でグロートロップ王国内の疫病騒ぎは解決したようなものよね」
先輩メイド達がぺちゃくちゃ喋る中、グラシエラは俯き、唇を震わせていた。
ポツリポツリと雨が降り出し、近隣で開催されている音楽サロンの屋外コンサートが慌てて撤収される音が聞こえて来る。
(マファルダお姉様は犯人じゃないわ……! 好き勝手言わないで……!)
怒鳴りたい、叫び出したい気持ちを必死に抑えるグラシエラ。
窓の外の雨は、どんどん強くなっている。
(駄目よ、落ち着きなさいグラシエラ……! 今怒りを露わにしては駄目よ……! せっかくマリャル侯爵家の王都の屋敷に潜入出来たのだから……! 『王宮殺人事件』の真犯人に繋がる情報をまだ得ていないのだし……!)
グラシエラは必死に震える拳を力一杯握りしめていた。
「あら? エラ、どうかしたの?」
「あ、もしかして『王宮殺人事件』の話が怖かった? そうよね。白い部屋が血の海になった事件と言われているものね」
グラシエラの胸の内など全く知らない先輩メイド達は、きょとんとした表情である。
グラシエラは怒りを飲み込み、ニコリと品良く口角を上げた。
「いいえ、大丈夫でございます。お気遣い、ありがとうございます」
遠くの方が光った後、雷が轟いた。
上手く笑えているだろうか、グラシエラは少し不安だった。
しかし、先輩メイド二人の反応を見ると、それも杞憂に終わる。
「そう、良かったわ」
「エラもお貴族様の恋愛事情、怖いと思うわよね」
先程と変わらない様子で、二人は囀っていた。
「君達、まだ窓拭きが終わっていないというのに話し込んでいるのかい?」
その時、低く冷たい声が聞こえ、グラシエラ達はピクリと肩を震わせる。
声の方へ目を向けると、そこには仕立ての良い服を着た男性がいた。
グラシエラよりほんの少し年上で、先輩メイド達よりは少し年下に見える。
ブロンドの髪に、サファイアのような青い目。そして、思わず見惚れてしまいそうな甘く整った顔立ち。しかし、そのサファイアの目は冷たかった。
「若旦那様、申し訳ございません」
「今から向こうの窓も拭くところです」
先輩メイド二人は焦ったように謝っている。
アルヴァロ・ヴィトール・デ・マリャル。
今年十八歳になるマリャル侯爵家次男で、次期当主だ。
(このお方が……アルヴァロ様……)
グラシエラは少し警戒した。
まだ自身の正体と目的が知られるわけにはいかないのだ。
「エラ、急いで窓拭きを終わらせましょう」
先輩メイドに言われ、グラシエラはハッとする。
「失礼いたします」
アルヴァロに対しては軽く挨拶をし、先輩メイド達と共にその場を離れるグラシエラ。
(とにかく、マファルダお姉様の無実を証明しないと)
背筋を伸ばし、しなやかに歩くグラシエラだった。
一方アルヴァロは、その場を立ち去ったグラシエラの後ろ姿をじっと見ていた。
「あの新人使用人は……」
グラシエラの後ろ姿を見て、何かを考える素振りをするアルヴァロだった。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
数日後。
グラシエラはハウスメイドの仕事に大分慣れて、手際も良くなっていた。
そこへ、先輩メイド二人が通りかかる。
「エラ、何か若旦那様がお呼びよ。若旦那様の執務室まで」
「もしかして、何かやらかした?」
先輩メイド達はやや心配そうな表情だ。
「え……? 特に心当たりはございませんが……」
グラシエラは少しだけ冷や汗をかく。
(一体何かしら……?)
グラシエラは先輩メイド達に言われた通り、アルヴァロの執務室まで行く。
「エラ・シルヴァ、参りました」
執務室の扉をノックすると、中からアルヴァロの「入ってくれ」という声が聞こえた。
グラシエラは深呼吸をし、落ち着いて中に入る。
「何かご用でしょうか?」
グラシエラはなるべく動揺を見せないよう、気を張っている。
ブロンドの髪にサファイアの目。そして、女性なら誰もが振り返る程の、甘く整った顔立ち。
目の前にいるアルヴァロはどこか冷たく、考えを読ませないような表情である。
そのサファイアの目の奥は底が知れず、グラシエラは後ずさりしそうになったがぐっと堪えた。
「エラ・シルヴァ……。いや、こう呼んだ方が良いかな」
アルヴァロは冷たく意味ありげな笑みを浮かべる。
「グラシエラ・キアラ・デ・メゼネス嬢」
アルヴァロからそう呼ばれ、グラシエラはヘーゼルの目を零れ落ちそうなくらい大きく見開いた。
(どうしてそれを……!?)
まだマリャル侯爵家に潜入して間もない時期だが、早速アルヴァロに正体が気付かれるグラシエラだった。
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作中に登場した七年前の疫病騒ぎは過去作『クリスティーヌの本当の幸せ』でも触れています。
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『クリスティーヌの本当の幸せ』
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