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第九話 五月十日の二人

 ほんの少し、普段より目覚めが良かった。あんなに寝れなかったのに。

 明らかに昨日のおかげ。


 ベッドの上で体も起こさず、思い浮かべるものは花月さんの顔。

 いつも、思い出すのは笑顔だ。

 悲しい顔とか、辛そうな顔とか、見たことはあっても思い出したくない。

 何より笑顔が綺麗な彼女だ。どうしてもそれが一番好きな表情になってしまう。



『わたしはわたしにできる限り、髙木くんの役に立ちたいんです!』


 今でも昨日のあの言葉が残っている。

 というか、まだあれから半日とちょっとしか経っていないのだ。仕方ないだろう。



 スマホを手に取り、昨夜のことを思い出した。

『Lynk』を開いて彼女とのやり取りをもう一度確認する。


 数十分にわたるメッセージの砲撃戦の末、今日は花月さんがカフェに来ることになった。



 ……ごめん、すっごく嬉しい。

 別に前からそうだったけど花月さんに会えるだけで嬉しい。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 理由は明白だ。

 優しいから。眩しいから。

 彼女の真っすぐさは心がスッキリする。



 大きく背伸びをして姿見の前に立った。

 別にどれだけいいことがあったとしても何も変わってはいない。

 髪は長いままだし、腕には包帯が巻かれている。


 ただ、少しだけ、ほんの少しだけ『色』が良くなった気がした。


 花月さんの名前を教えてもらったあの時から、ずっと俺の目には色がある。

 こんなこと、ここ一年ほどはあり得なかったから、すごく変な気分だ。


 まつ毛に小さな寝癖がついているのが少し気になった。



  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  



「おい髙木ー! いつまでねんねんころりしてんのー。生物の授業で居眠りしてるようじゃ、古典とかもう死んでるんじゃないー?」


 そんな高柳先生の声で目を覚ます。

 寝ぼけ眼を数回の瞬きで無理やりに起こした。


「は、はい! すみません!」


 しかしいくら辺りを見回しても先生の姿は見当たらない。

 分かっている恐怖があるのにその正体が見つからないこの瞬間が、きっと生きていて一番怖いことだろう。


 数回キョロキョロと教室を見回した次の瞬間、すぐ横から聞きなれた声が聞こえてきた。


「起きた?」


 少しビクッと体を強張らせ、声の出どころの方を向いてできる限り元気よく答える。


「お、起きました!」


「はい、じゃあこの原核細胞と真核細胞の比較のところ囲んでねー。」


「え、あ、はい! 分かりました!」


 すぐさま資料集にピンク色のマーカーで線を引き、軽く目を擦った。


 高柳先生には何故か気に入られてしまっているのでこういうところでしっかりと弄られてしまう。

 クラス中の生徒たちからの視線が恥ずかしい。


「ゆーたろ、タンクになってくれてありがと! 俺も寝てた!」


「ふざけんな……! なんで俺だけ……」


 歯を見せて笑いながら囁く明に軽く怒りを覚えながら、笑みを浮かべて悪態をつく。


 普段なら逆だ。

 明が寝ているところを怒られて、それを俺が揶揄う。

 なのに今日は俺が怒られてしまった。


「珍しいな! 普段なら俺が怒られて優太朗は笑う側なのに。」


「いやほんとに。昨日あんま寝れなかったんだよ。」


「へー? 何かあったん?」


 少しだけ、しまったと思った。

 何故なら自分でもわかるくらいに顔が緩んでしまったから。

 明から見たらどんな顔をしているのか、なんて考えたくない。

 ふいっと顔を少しだけ逸らして知らんぷりをする。


「い、いや? 別に何も……何かよく分かんないけど寝れない日ってあるだろ?」


「んー、まぁ確かに! 俺はあんま無いけどな。」


 だって仕方ないだろ。花月さんが来てくれるって考えたらそれだけで嬉しくて心が躍ってしまったんだから。

 それだけで全然寝付けなかったんだから!


 まるで遠足前日の小学生だ。いや、最近の小学生だってこんなことにはならないかもしれない。

 授業中に寝るという時点で恥ずかしいのに、その理由が友達に会えるのが楽しみだった、なんて愧死(きし)モノだ。


 とにかくこんなこと絶対に言えない。

 一度言ってしまえばどれだけの間馬鹿にされるか分かったものじゃない。



  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  



「いやー! 今日も一日長かったなー。ゆうたろ、歳取ったら時間が早くなるってほんとかな? 俺全然感じねーんだけど。」


「ほんとじゃね? 俺は結構早く感じてきてるんだけど……こんなんじゃ二十歳(はたち)になる頃にどうなってることか……」


 いつも通りのくだらない話。

 まあ、男子高校生の会話なんてこんなものだろう。


 そんなことより、なんて言い方をしたら悪いかもしれないけれど、今の俺はあまりにも花月さんのことばかり考えていた。


「……と、いうことで優太朗君! 今日は用事ある?」


 そんな明からの言葉に、浮いていた意識を引っ張って頭にねじ込む。


 きっと彼は俺を遊びに誘って居るのだ。分かってる。

 明は遊ぶのが好きだし、俺だって好きだ。

 でも今日は、今日だけは、断るしかない。

 先に予定が入っているのだから、おかしいことじゃない。


 でも、思えば最近は全然こいつらと遊んでいない気がする。

 来週は付き合ってあげよう。

 前に明も言っていた。別にカラオケだって歌わなくても行けばいい。

 遊びなんていうのは一緒にいるだけでも楽しいもんだ。


「あー……すまん、今日もちょっと予定あるわ。ら、来週は開けとくから! 来週は……」


 少し歯切れが悪い返答になってしまっただろうか。


「おっけー! じゃあ来週な! 前嗣ー! 俺たちはカラオケでも行こーぜー」


 意外にも明は大して何も言わずに前嗣の方へと向かってしまった。

 きっと怪我のせいとか、良いように解釈してくれたのだろう。

 あまり物事を深く考えない明のことだ。大丈夫だと信じている。


「おう、またなー。叶采も、じゃあな。」


「うん、じゃーねー。」


 叶采にも別れを告げ、小さく手を振って教室から出た。

 スマホを開いても、特に花月さんから連絡が来ていたりはしない。


 別に期待していたわけでは無いが、少し恥ずかしくなった。



  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  



 見慣れた潮岡駅のホームに足を踏み出す。

 春の昼下がり。温かさが肌を撫で、心臓に妙な熱を持たせる。


 緊張はしていない。けれど不思議とソワソワする。

 ただ友達と会うだけなのに?

 そうだ。


 もう意識する必要すらない帰路をボーッとしながら歩く。

 高校生になってもう一年が経った。

 そしてすぐに二年が経って、俺は……どうなっているのだろうか。

 

 そんな杞憂を、ブンブンと首を振ってどこかへ追いやった。

 こんなに天気がいいのにアスファルトばっかり見て歩くなんて勿体ない。

 それに、今の俺が見るのは夢でも未来でもなく一人の女の子なのだから、そんなに悩まなくていい。



 ……なんて恥ずかしい考え方だろう。

 これが高校二年生の男子の考え方でいいのか?

 いや、いいのだろう。

 あの人が俺を肯定してくれたのだから、俺はそんなに迷わなくてもいい。

 どこまでも人任せな考え方だが、そうしたいと思う自分を今は大事にする。



 無意識と共に歩んだ足は、いつの間にか『図書喫茶BRANCH』の目の前に辿り着いていた。

 扉を開くとチリンとドアベルが震える。


 チラリと見た店内にはちらほらと人が見える。

 金曜日ということもあってか、普段よりは客も多い。

 とはいってもチェーン店のカフェの平日と比べても少ないくらいだ。


 厨房の方を覗き込んで母の姿を探すが、見当たらない。

 次の瞬間、十六年間聞き続けた声が背中を突き刺した。


「ああ、おかえり優太朗。」


「うわあ、ビックリした。ただいま。……あ、そうだ。今日花月さん来るって。」


「花月さん? 誰だっけ?」


「あ、えっと……こないだハンカチ届けた……」


 そう言うと母の顔はキラリと輝いた。


「あ、あの子! まあしっかり話したこと無いけど! じゃあサービスしてあげないとね。」


「うん。カウンターはやるから、来たら抜けるけどいい?」


「もちろん! あっ、でもちゃんと来たら教えてよ? お礼言わないと。」


 はいはいと頷いて階段を上がり、自室に入った。

 ここまで来て急に緊張してきたような気がする。


 一度深呼吸をし、制服に着替える。

 そして一度深呼吸をし、部屋から出る。

 そして一度深呼吸をし、階段を下りて、一度深呼吸をしてカウンターに立った。



 ……暇だ。

 緊張なんて吹き飛びそうなほど暇だった。

 カフェなんて一度提供が終わってしまえばやることは無い。

 無名な個人経営のカフェなんて尚更だ。


 頬杖をついていろいろと考える。

 主に、彼女と話すことを。


 考えても仕方ないのに考えてしまう。



 笑って欲しい。

 笑わせたい。

 そのために必要な事なんて分からないのに、そのためにするべき話なんて知らないのに。


 何を話せばいいのだろう。

 そもそも友達と話すことなんてこんなに考えることだったろうか。


 普段、明たちと話していることを思い出す。

 確か今日は……


『いやー! 今日も一日長かったなー。ゆうたろ、歳取ったら時間が早くなるってほんとかな? 俺全然感じねーんだけど。』


『ほんとじゃね? 俺は結構早く感じてきてるんだけど……こんなんじゃ二十歳(はたち)になる頃にどうなってることか……』


 ……こんな会話、花月さんにしたらどんな顔をされてしまうのか分かったもんじゃない。


 こんなことを考えてようやく、悩む理由がわかった。

 女子だからだ。

 単純だが、高校に入ってからほぼ女子と関わっていない。一年のブランクというのは若者でなくとも大きなものだろう。

 中学の頃まで、女子たちとどう話していたのかも思い出せない。



 ……とまあ、こんなことばかり考えているから時間がどんどん経っていく。

 時計に目を向けると、この制服に着替えてから二十分程が経過していた。


 本当はいけないことだがカウンターに隠れてスマホを開き、メッセージが来ていないことを確認する。


 もう少し何を話せばいいか考えておこう。


『珈琲味の出会い』は良い話のタネになるだろう。

 というか、そのために読み始めたようなものなのだから使わないと勿体無い。


 あとは……好きな食べ物とか?

 ウチのメニューの中で好きなものを聞くのはどうだろう。

 ……うん、良い気がする。よし、これでいこう。



 ああ、楽しみだ。どんな声を、どんな顔を、どんな色を向けてくれるのだろう。

 人に会うのが楽しみなのは久しぶりだ。


 なんて考えていたら、カフェの大きな窓から見慣れた黒髪が見えた。

 こちらを見て、たんぽぽの様な笑顔を浮かべながら少し小走りで入り口に向かっている。


 急いで話のタネを整理し、最後にもう一度だけ深呼吸をした。



 夏を思わせるようなドアベルの音が鳴り、彼女が笑顔で入ってくる。

 ああ、近づいてくる。

 なんでだろう。

 近づいてくるのに、迫ってくるのに、さっきまで考えていた話のタネは、全て消えてしまった。


 想像していたよりもずっと、素敵な笑顔だった。

 だから、思い描いていたシチュエーションが、全部安っぽく見えてしまった。

 こんな話をしたら、こんな答えを返してくるかな……なんて、全部ちっぽけだった。



「……髙木くん! すみません、遅くなっちゃいました! 待たせちゃいましたか……?」


「はい、待ってまし……いや、全然待ってなかったです。……いや、それは変だな……ちょっと待ってました……!」


 彼女はカウンターの前でこちらを見上げて目を丸くし、すぐにキンシバイの花のような笑顔を浮かべた。


「ふふっ、あははは! 何ですか、それ? 可愛いです。」


 まさかこんなに笑われるとは思わなかった。

 図らずも笑わせたいという欲が満たされ、頬が緩みそうになる。


「……えっと……注文、どうしますか? 今日はお母さんのサービスで何でも無料で良いらしいです。」


 絶対に話題の変え方を間違えた気がするが、取り敢えず話すにしても席に着いてもらった方がいいだろう。

 立ち話もなんなので、なんて言うくらいだし。


「えっ……? い、いや流石に大丈夫ですよ! 申し訳ないですし……」


「でもまあ、店長がいいって言ってるんですよ。」


「で、でも……なんでサービス……なんですか?」


 小さく微笑んで一歩後ずさる。


「それは、お母さんに直接聞いて下さい。」


 そう言って厨房に母を呼びに行った。

 慌ててホールに向かう母を尻目に階段を上がる。

 着替え──と言ってもエプロンを脱ぐくらいなのだが──を済ませて再びホールに向かい、ちらりと二人の会話を覗く。


「ねー、本当にありがとね! 優太朗はすーぐ無理するから。ちゃんと救急車とか呼んでくれないとどうなるか分からないの。」


「いえいえ、お礼なんて……全然大したことしてないです。むしろ、助けてもらったのはこっちの方で……」


「それはお互い様。こっちだって助けてもらったことに変わりはないんだから。それに、美味しい八ツ橋も貰っちゃったから!」


「あっ、美味しかったですか? それならよかったです! あれはお母さんの好きなお店なんです!」


「へぇーそうなの! 本当に美味しかったよ!」


 ……もうすっかり仲良くなっている。

 お母さんのコミュ力の高さも凄いが、花月さんのそれにも目を見張るものだ。

 明の時もそうだったが、初対面の相手と話すのが上手いのだろう。


「あ、優太朗。注文も終わったし、花月さん返すねー。」


「あっ、う、うん。分かった。」


 比べ物にならないほどぎこちない返事と共にカウンターの外に出る。


「……じゃあ、俺はココアで。」


 そう言って五百円玉をカルトンに置いた。

 母はこちらを見て呆れた様な顔をする。


「……はぁ……優太朗も無料(タダ)でいいから! ほら、さっさと行きなさい。」


 普段から払っているのだから別に今日だけ払わない理由なんて無いのだが。

 まあでも、これは店長の息子の特権だ。

 今日限り、甘えさせてもらおう。


 五百円玉を財布にしまい、何の気なく振り返った。


 するとそこには、当たり前だが花月さんが立っていた。ニコニコと柔らかい微笑みを浮かべている。

 今のやり取りを見られたという事実が何故か凄く恥ずかしく感じた。


「……えっと……花月さん? 何か面白かったですか?」


「えっ、あっ、違うんです! ごめんなさい、失礼でしたね……。せ、席はわたしのいつもの場所でいいですか?」


「はい、大丈夫です。いつものって、あの端っこですよね。」


「はい! 丁度夕陽が眩しくなくて良い位置なんですよ!」


 やはり考えて席を選んでいたようだ。

 楽しそうにこちらを振り返りながら、明るくも控えめな声と共に端の席を指差している。


 いつも通り、可愛らしいなと思った。

 どこが可愛いのかと聞かれれば全然わからないが、多分小さいからかなと自分を納得させる。


 こちらも楽しくなる微笑みに手を惹かれ、彼女の後に続いて席に着いた。


「……。」


「……。」


「……。」


「……。」


 こんなことがあるだろうか。

 さっきまでは普通に話せたのに、向かい同士で席に着くと一切の会話が無い。こんなことがあっていいのだろうか。


 何か言わなければ。何かを言わなければ。何でもいいから話を始めなければ。


「……あのっ……!」

「……たかっ……!」


 二人して固まる。

 まさか話し始めようとしたタイミングが被ってしまうなんて。

 最悪だ。

 もう少し彼女を待っていれば、若しくはもう少し早く話し始めていれば、こんなことにはならなかった。


「……ご、ごめんなさい。先、どうぞ……」


「えっ!? い、いや、花月さんこそ!」


「いや、本当にわたしは大丈夫なんで!! むしろどっちかと言ったら髙木くんの話が聞きたいので!」


 そうは言っても俺が話そうとしたことなんて『何を頼んだのか』という薄っぺらい内容だ。

 譲られた上でこんなことを話し始めたらどんな風に思われてしまうだろうか。


「俺のは本当につまんない話なんで大丈夫です!」


「でも、聞きたいです!高木くんの話なら、きっと何でもおもし......」


 どんどん小さくなっていく声と反比例して、彼女の顔はどんどん赤くなっていく。

 ここ数日で分かったのだが、この人は結構衝動で恥ずかしいことを言ってしまうのだろう。

 人の顔が赤く染まっていく様子というのは意外と面白いものだ。


「で、でも......何を注文したのか......なんてつまんない話ですよ......?」


「えっ、つまんなくないです!わたしが頼んだのは──」


「はい、お待たせ!ココア二つとティラミスね。」


 丁度いいところでお母さんがカップとケーキを持ってきた。

 花月さんはきちんとお礼を言って会釈をし、ケーキを見て瞳を輝かせている。


 普段の行いに人柄は出ると言うが、それは本当らしい。

 彼女の誠実さ、真っ直ぐさが表れている。


「……ティラミス、頼んだんですね。」


「はい! 前からちょっとずつスイーツとかサンドウィッチを制覇しようと思って、時々頼んでるんです。」


「……ドリンクは……いつもココア頼んでますよね? もう制覇したんですか?」


 そう尋ねると、彼女は少し目を見開いて小さく頬を染めた。

 そして照れ臭そうに笑い、カップを見つめる。


「……飲み物は、いいんです。わたし、このココアが好きなんで! ……変、ですか?」


「えっ!? い、いや、変じゃないですけど……」


 何か理由があるのだろうか。

 気にはなるが追求する様な事でもないと思った。


 こういうところでグイグイ行かないから他人のことを知る機会を逃しているのだろうと思うが、やはり迷惑になってしまうかもと考えると、立ち止まるが吉だと思ってしまう。


「……ティラミス……もしかしたら、ちょっとだけ苦いかもしれないんですけど……」


「そうなんですか? 取り敢えず、いただきます。」


 小さな手を合わせ、ニコニコ笑顔でそう言ってケーキフォークを手に取った。

 ティラミスの端の部分を取り分け、パクッと口に運ぶ。


「……うん! 美味しいです〜〜! 確かにちょっと苦味がありますけど、甘味と合わせれば丁度いい感じです。」


「そ、そうですか? ならよかったです。……俺、子供の頃からスイーツの中で一番ティラミスが好きで……しかもちょっと苦いのが好きだったんです。だから、お母さんが俺好みの味でレシピに加えてくれて……それで、昔友達にお勧めしたら苦いって言われちゃって。だから少し心配だったんです。」


「……髙木くんの好みの……そうだったんですね。……通りで、美味しいわけだ……」


 後半は何を言っているのか全く聞こえないほどの小さな声だったが、本当に美味しそうに食べているので安心した。

 別に自分が作っているわけでは無いが、ウチの物を美味しそうに食べている姿を見ると嬉しい。つい見惚れてしまう。


 小さな口で、ケーキの小さな欠片を咀嚼している様子はまるで小動物の如くだ。こういうところも可愛らしいという印象の要因だろう。


「……髙木くんも、食べますか? 好きなんですよね、ティラミス。」


「……えっ?」


 つい見過ぎてしまったと思い、慌てて少しだけ目を逸らす。


「いいですよ、ぜひ食べてください! そもそもサービスで貰ったものですし……」


「いやいや! せっかくのサービスなら花月さんが全部食べちゃってください。俺へのサービスじゃなくて花月さんへの物なので。」


 彼女はむーっと言わんばかりの不満そうな表情を浮かべ、小さく頬を膨らませた。


「……じゃあ、バレンタインです! ちょっと遅いですけど……」


「いや遅すぎですよ!? もうそろそろ三ヶ月経ちますけど!?」


「わたしは気にしません!」


「流石にちょっとは気にするべきじゃないですか……?」


 意外と天然らしさも持ち合わせているのかもしれない。普通、流石に三ヶ月遅れのバレンタインなんて考えつくだろうか。


「……一緒に食べたいんです。髙木くんの好物なのに、わたしだけが食べてるのはなんか……」



 ……優しい。

 またこんなことを考えている。だって優しいんだから仕方ない。

 本当に、そんなこと気にしなくてもいいのに。


 彼女の厚意を無碍にはしたくない。

 別にそこまで頑なに断る様な事でもないだろう。


「……分かりました。じゃあちょっとだけ貰いますね。」


「ほんとですか! どーぞ?」


 彼女は急に顔をキラキラと輝かせて、皿の上にフォークを乗せてこちらにスススと差し出してきた。

 それを見下ろし、一口いただこうと思ったところであることに気づいた。


「……あ。すみません、フォーク取ってきますね……」


 そう言って立ち上がると、彼女は大きな目を見開いて口を開く。


「わ、わたしは気にしませんよ!! 別に……大丈夫です!」


「い、いや、俺が気にするんで……。それに、花月さんも無理しなくていいですよ……?」


 結局、そう言って優太朗は厨房の方へ向かってしまった。

 一人残された彩葉は、ただでさえ小さな口を小さく開いて、一言だけ呟く。


「……はぁ~……流石にやりすぎた~~……」



 ケーキフォークを手に戻った時、花月さんは小さな顔を両手で覆っていた。

 何があったのか知らなかったから話しかける訳にもいかないと思い、何にもできない。


 そっと向かいの席に腰かけると、雰囲気を悟ったのかバッと顔を上げて無理やりな笑顔を見せた。


「お、お帰りなさい!」


「あっ、た、ただいまです。」


 ぎこちない返事を返して少しだけ目を逸らす。

 なんだか彼女の顔がまた少し赤くなっている気がして、あまり真っすぐ見れない。

 あんなに向き合おうと覚悟していたのに、いざそうしようとすると妙に恥ずかしくて……変な感じだ。


「髙木くん? 食べないんですか?」


「あ、ああ! いや、折角なんで一口だけ貰います。」


 ケーキフォークを太い指で持ち、本当にひとかけら、たった 五立方ミリメートルほどだけ切り分けて口に運ぶ。

 小さな欠片から仄かな苦みが口の中に広がった。すぐに後を追って甘味がついてくる。


 やはりこの味は好みだ。小さいころに母が作るティラミスをいくつも試食したのを思い出す。


「……うん。やっぱり美味しいですね。好きです。」


「そうですか! もっと食べてもいいですよ?」


「いや、俺はいつでも食べられるので。あとは花月さんがしっかり食べてください。」


 できる限りにこやかな笑顔を作って皿を彼女の方に戻した。

 ココアを飲んで、口の中に残るティラミスの味を甘味と一緒に流す。


「じゃあ、貰いますね。」


 彼女はまだ少し不満そうにしながらもケーキを一口食べると、すぐにキラキラと表情を輝かせた。

 よほど美味しかったのか、一度食べ始まると手が止まらないようだ。


 あっという間にケーキは影も形もなくなり、花月さんはニコニコと笑いながらココアを飲んでいる。

 小さな体ながら結構よく食べる方だなと感心した。


「……そういえば気になってたんですけど……聞いてもいいですか?」


「! はい! 何でも聞いてください!」


「えっと……いっつもここに来てる時、私服だと思うんですけど……わざわざ着替えてるんですか?」


 彼女は明るい笑顔のまま固まり、みるみるうちに顔が赤くなっていった。

 もう既に結構赤らんでいたのだが、もはや湯が沸かせそうなほどだ。


「え、えっと、えっと……」


 彼女は凄く動揺したようで、マグロの如く目を泳がせて落ち着かない。


「いちいち着替えてくるの、めんどくさくないですか? 別に制服でもウチは大丈夫ですよ。」


「ち、違うんです! いや、違わないんですけど……」


 思ったよりも動揺しているようだ。


「……確かに、着替えるために家まで帰ってから来るのは手間がかかりますけど……せ、制服の方がいいですか?」


「…………いえ? 私服も可愛いと思いますけど……なんでなのかなと思って……」


 そう言うと、再び彼女は固まってしまった。

 まるで、メデューサにガン見でもされたかの様だ。


 しばらく二人の間には沈黙が続き、互いに最初の言葉を検索していた。

 正直なんでこんなにも花月さんが動揺しているのか全く分からないが、とりあえず話題は変えておかなければと焦燥感が高まっていく。


 ここぞという時のためにフォークを取りに行ったときに考えた最終兵器を使う時が来たらしい。


「……花月さん。あの……花月さんの名前ってどういう字を書くんですか? 花に月に色に葉っぱですか?」


「……え?」


 相変わらず話題の変え方が下手すぎると心の中で自分を叱責する。

 明らかにポカンとしている彼女の顔を見ていると今度はこちらが固まってしまいそうだ。


「……い、いや、すみません。やっぱ何でも無──」


「──ふっ、あはは! 何ですか急に!」


 やはり、当初思っていたような『笑わせる』よりも『笑われる』の方が多い気がする。

 まあ、笑ってもらえるならば何でもいい……なんて言えば身も蓋もないが。


 でも、笑ってくれると一気に心が落ち着く。


「ふふ……。笑っちゃってごめんなさい。話、変えようとしてくれたんですよね。……私服は……ここにはおしゃれして来たかったんです。それだけです!」


「そう……なんですか? 別にウチはそんな大層なカフェじゃないですよ?」


「そんなこと無いです! 本を借りられるカフェなんて初めて見ました。わたしが今まで行ったカフェの中では断トツでお気に入りです!」


 図らずしてなんとか場を和ませることができたようでよかった。

 それにしてもこんなカフェにわざわざおしゃれして来たがる人がいるとは思わなかった。女子なら皆んなそう思うものなのだろうか。


「わたしの名前は、花に月に、彩る葉っぱです! 髙木くんはこうですよね。」


 言われてようやく思い出したのだが、Lynkの名前がしっかりと『花月 彩葉』だった。

 あんなに見つめた文字列なのに、まるで興味が無いみたいだ。全然そんなことないのに。


 彼女はナプキンに、凄く書きづらそうにペンを走らせている。

 普段からペンを持ち歩いているのかと思ったが、初めて会った時から小さなバッグを持っていた。そういうところもしっかりしているのだろう。


 そして書き終わった彼女のナプキンにはこう書かれていた。


『高木 優太朗』


 正直『朗』の部分が合っているのはかなり驚いた。俺のLynkの名前は『ゆうたろう』なので、確認することもできないだろう。

 あの夜の自己紹介をしっかりと覚えていてくれたのかと嬉しくなった。

 しかし……


「……ふふっ。惜しいですね。俺のは『(はしごだか)』です。まぁ、文字化けする時があるんで口の方が良いんですけどね……」


 そう言ってスマホのメモに名前を入力して見せた。


「えっ!? そ、そうだったんですか!? ごめんなさい、勘違いしてました……」


「いえいえ、俺の方こそ『色』の方だと勘違いしてましたし……」


 そうして顔を見合わせ、何が面白いのかもわからないのに二人で笑い合ってしまった。

 本当に何も面白くない。

 でもやっぱりこの人といると凄く楽しい。

 くだらない会話も意味がある様に思える。



 ああ、本当に。俺はこの人に出会えてよかったと心の底から思った。




 それからも少しだけ話をしていると、外が軽く暗んできてしまった。


「そろそろ帰りますか? あんまり暗くなっちゃうと危ないですし。」


「あっ、もうこんな……そうですね。今日は帰ります。……ふふっ、楽しかったです!」


「……駅まで送りますか?」


「え、い、いや、大丈夫ですよ! ……でも、そ、そこら辺までは……送ってくれたら……嬉しいです。」


 下手すれば死人が出ていてもおかしくない。

 この人の可憐さに触れた今までの人たちに実害が出ていないことが奇跡だと思った。


 全身に鳥肌が立つ様な感覚。

 心臓が破れてしまったんじゃないかと心配になる。

 心がいっそのこと、死んでしまいたいと感情の整理を放棄しようとしていた。


 尚更、自分がこんな状態であることを嘆きたくなる。

 もっと普通の状態だったなら、きっとそれは素晴らしい恋ができていたことだろう。


「……じゃあ、好きなところまで送っていきます。」


 声が震えている気がした。


「はい! その、最後にお母さんに挨拶だけしてもいいですか?」


「あっ、いいですよ! ちょっと待っててください。」


 まさか母に挨拶だなんて、まさかそこまでしっかりしてるとは思わなかった。

 正直な話、親が何を言うのか分からなくて少し怖いのであまり合わせたくは無いが、流石にここまでしっかり言われては断るわけにもいかない。


 厨房でバイトの人と話している母を呼び、ひと足先に外に出る。

 二人が何を話しているのかは気になったが、聞かなければ何も話していないのと同じなのでこれでいい。シュレディンガーもビックリの奇策だろう。


 もうあまり寒さを感じない空を見上げ、小さく息を吐く。

 ふと足元を見ると、茶トラの野良猫が尻尾を脚に擦り付けていた。


「……おい危ないぞ、モカ。大通りには出てくるなって。」


 勝手にモカという名前をつけて呼んでいるが、別に飼ってはいない。時折餌をあげているので懐いているだけだ。


 実は我が家では猫を飼っている。

 中学生の時に俺が拾って来たのだが、流石に飲食店でペットを飼うわけにはいかないということになり、裏の隠居に居てもらっている。


 その流れで一度野良猫に餌をあげたら、いつの間にか猫がよく来るようになってしまったのだ。

 まぁ、別にこんなことはどうでもいいのだが。


 チリンチリンとドアベルが鳴り、背後には花月さんが立っていた。


「お待たせしました。ありがとうございます。……わぁ、この猫ちゃん、野良ですか?」


 モカは気まぐれに路地に入っていってしまい、花月さんを置いて住宅街に消えていった。


「はい。餌をあげてたら懐いちゃって……。最早放し飼いみたいなもんです。」


「へー! いいですね! 髙木くんは猫派ですか?」


「はい、もう圧倒的に。俺が小さかった頃からこの辺りは結構猫が多くて。逆に犬にはあんまり触れてこなかったんで……」


「なるほど……わたしも猫派です! お揃いですね!」


「……ふふ、そうですね。」


 共通点があるのは喜ばしい。次の話に活かせる。

 猫の話なんて何を話すのか、全く分からないが。


 しばらく駅までの道を歩きながら、そんなことを考えていた。


「……髙木くん。ちょっと言わなきゃいけないことがあって……別にそんな深刻なことじゃ無いんですけど……」


「? はい、何ですか?」


「えっと……来週からもうテスト前じゃないですか。だから、多分勉強が忙しくてあんまり来れないと思う……みたいな……」


 少し絶句したが、別におかしなことじゃない。

 テスト前なのに勉強しない俺たちがおかしいのだ。


「……なんだ、全然大丈夫ですよ。テスト勉強だなんて、しっかりしてますね。俺なんかテスト前にもあんまり勉強しないですよ?」


「ふふっ。テストはちょっと頑張ってるんです。最近はずっと二位なんですよ!」


 花月さんの話でここが一番びっくりしたかもしれない。


 なんだかんだ言っても真堂高校の偏差値は上の下といったところだ。

 そんな中で二位をキープできるほどの実力。

 一位は皆んなご存知の生徒会長だが、まさか二位が花月さんだったなんて思いもしなかった。


「す、凄いですね……。そんなに頭いいなんて……だったらしっかり、今回も頑張ってください。応援してます。」


「はい! ありがとうございます! ……じゃあ、ここまでで大丈夫ですよ。取り敢えずそれを伝えたかっただけなんで!」


「……駅まで行きますよ?」


「いえいえ! 本当に大丈夫です。……じゃあ、ここで。また、今度絶対に来ます!」


 本当に少しだけ、別れが惜しい。

 でもいいんだ。

 この人なら絶対にまた来てくれる。


 小さく手を振ってにこやかな笑顔を浮かべた。


「……はい。是非また、来てください。その時は歓迎します。」


「はい! じゃあ、また! またねー!」


 相変わらず明るい笑顔を浮かべたまま小さな手を大きく振っている。

 やっぱり総評は『可愛らしい』がよく似合う。


「……またね。」


 相手に聞こえないくらいの小さな声でそう呟き、彼女の姿が見えなくなるまで小さく手を振っていた。


 薄暗い空を見上げ、静かに思考を巡らせた。

 きっと次に会えるのは二週間後くらいなのだろう。

 もしかしたら学校で会えるかもしれないが、しばらくはその日を楽しみに過ごそう。



 小さく息を吐いて彼女の顔を思い出す。

 跳ねるような心をしっかりと手に掴み、忘れることなくカフェの中に戻った。

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