第七話 好し悪し
昔──といっても中学生の頃だから約二年前だが──に優太朗の中学ではいじめがあった。
まあいじめなんてどこにでもある。日常のあらゆるところ、人間だけではない。自然界にだっていじめはある。
何度も違うコミュニティに所属する人生なら、少なからず遭遇することになるだろう。
優太朗の中学校は近くの小学校から殆どの生徒がスライドで入学してきていたので、入学式でも九割五分ほどの生徒はよく見た顔だった。
もちろん時折違う小学校からも進学してきていたが、それでも大体はどこかで他の生徒との繋がりがある人だった。
そんな中、そいつは誰とも繋がりを持たないままその中学に入学してきた。
普通ならば友達の一人や二人くらい自然にできる。優太朗の中学は市内でもかなり素行が良い方だったし、本当に一人も友人がいない方が珍しいというものだ。
しかし、そいつにはいくつもの問題があった。
顔も良いわけではない。髪型だって変だった。いつも柔軟剤の臭いがキツく、授業中に近くにいるとクラクラしてくる。いつもアニメのクリアファイルを何枚も持ち歩いていて、知らないアニメの話ばかりしていた。運動神経も悪かったし、教室でも奇怪な行動ばかりしていた。
仕方のないことだ。人によって好きなものなんて全然違うし、他人に合わせてばかりだった俺がそいつを強く否定するのはおかしい気がする。
けれど、仲良くもなかった。
だって話が通じない。向こうの話もこちらに通じない。
仲良くしたくないというより、仲良くできなかった。
教室に置いておいたタオルを勝手に触る。
筆箱に付いているキーホルダーを勝手に弄る。
授業中の変なタイミングで急に笑い出す。
皆、そいつが嫌いだった。
陽キャたちにはもちろん、友達が少ないような人たちにも嫌われていた。
優太朗は教師によく相談されていた。
席替えのたびに隣の席でもいいかと聞かれた。
誰もそれをよしとしないから、一切の厭いも浮かべずに首を縦に振った。
胸の内に『仕方ない』という心を仕舞って。
だから、基本的には一年の間に複数回同じ人と隣の席にならないようになっているのに、優太朗はそいつと同じクラスだった二年間で四回も隣の席になった。
本当に、ほんっとうに臭いがキツかったが、それを本人の前で露わにしたりはしなかった。
席替えが発表された時は、なんでだよー!と分かりきっている結果をネタにしたりもした。
クラスメイトに嫌われないように露骨に優しくはしなかったが、裏では多くの妥協があったことを皆は知らない。
でもそれが、最悪というほど嫌なものでもなかったというのが本音だ。
中三のある日。優太朗はハッキリとしたいじめの現場を見た。
教室の隅で三人組に、そいつは囲まれていた。
優太朗は廊下を通った時にチラリとそれを見ただけだが、状況はしっかりと理解できた。
ヒーローなら、カバンを投げ捨てて助けに行ったのかな。
漫画の主人公とかなら、間に割って入ったのかな。
優太朗にはそれができなかった。
ううん、それも違うと思う。
助けたら、次は自分がいじめの対象になるかもとか、後で考えたりもした。
でもその時に俺の頭にあったのは──
──別に、いっか。
そんな冷酷な考え。
そいつを、助ける気にはなれなかった。
だって、いじめられて当然だと思ってしまったから。
自分を変える気のない、受け入れられるように変わるつもりのない人間が、他人に拒絶されるのなんて当たり前だと思った。
俺は十分、よくしてやってると思う。
普段から悪口を言ったりしないし、暴力なんてもっての外だ。
どれだけ普段から妥協してやったと思ってる。
まだ求めるのか?自分は何も変わらないくせに、俺に助けて欲しいと、そんな目を向けるのか?
勘弁してくれ。面倒見切れるか。
そうして、俺はそれを見て見ぬふりしてその場を去った。
結局、最後にはヒーローに向いていなかった、という結論に行きつく。
全員を分け隔てなく愛する存在にはなれないのだと突きつけられる。
自分の中にも好きな人と嫌いな人があって、価値には上下がある。
その中で助けたいと助けたくないがあった。
もちろん、助けたい人が大多数だけど、少数ながら助けたくない人がいるという事実が、また挫折を加速させる。
他人の善し悪しを自分の中で定めてしまうなんて、傲慢で最低だ。
だから、花月さん。俺はいい人なんかじゃないんだよ。
普通の人。
なんなら、栞さんにとっては最悪の人かもしれない。
どうか、勘違いはしないで欲しい。
『すみません。今日はもう寝ます。』
この会話から逃げたくて唐突にこんな返事を送ってしまった。
しかも!マークすら付け忘れている。
送った後から見るととても冷たい返事に見えてしまう。
今からでも取り消してしまおうか、なんて考えは既読を付けられてしまったので消え失せた。
『こっちこそごめんなさい! 私もそろそろ眠くなってきてたんです!』
『おやすみなさい!』
本当に!マークが多い人だ。人のことを言えた者ではないがやや多すぎやしないかと、軽い呆れ笑いを浮かべる。
『おやすみなさい。』
既読が付いた直後に、布団に入ったライオンのスタンプが送られてくる。
スマホを閉じて枕元に投げ捨て、ベッドに倒れ込んだ。天井を見上げて溜めた息を吐きだす。
こんな時に考えるのはいつも同じ事ばかり。
あのとき、ああしていれば何かが違ったのかもしれない。
自分に嫌気が差すことも少なかったのかもしれない、なんて。
後悔に意味があるかと問われればあると思う。過去を振り返ることによって学べることもたくさんあるのだろう。
しかし大事なのはその振り返り方だ。
懐かしむように見るのなら微笑ましい。探るように見るのならきっと何かを見つけられると思う。
しかし、悔いるように見た場合、そこに生まれる意味は自責に違いない。
やはりあのとき彼を助けていれば、きっと今でも温かい自己欺瞞に浸かっていられたのだろう。
すっかり目が覚めてしまった今の俺に、あの頃へ戻ることは不可能だ。
人生という長い道を、皆何かしらの導を目指して歩いている。
皆、前を向いて、時々振り返りながら歩いている。
後ろを向いていても、戻る事なんてきっとどんなお金持ちにもできやしない。
でも俺だけが、古い憧憬を見つめ続けながら後ろ向きに歩いている。前を向いても、とっくに導なんて見えなくなってしまった。
だから導だったものを見つめていたくて、ずっと未来に背を向けている。
もしかしたら明日には人の道から転げ落ちているかもしれない。
……けれど最近は……少しだけ、前を向きたいと思ってしまう。
人の道というのは俺以外の人も大勢歩いていて、関係が近い人は横を歩いているのが分かる。だから最近は視界の端に長い黒髪が時折映り込んできて……何故かその人には真っすぐに向き合いたいと思う。
どれだけ横を向いても、後ろ向きに歩いている俺には頭の後ろ半分しか見えない。
どんな顔をして、どんなものを見つめて、どんな風に歩いているのか。それを知りたくて仕方がない。
けれどやっぱり……怖いという気持ちは、ずっと胸の中にはある。
もう一度、大きなため息を吐いた。
軽い動悸すら感じる。
もう眠ってしまおう。
考えたくないことは寝ている間に勝手に頭で整理してもらおう。
ガバッとタオルケットを被って電気を消す。
今日ばかりは常夜灯すら点けておきたくなかった。暗闇の中に身を漬からせておきたかった。
きっと明日には少し気持ちも晴れているはず。大丈夫。
そんなどうしようもない期待を抱えて、優太朗は眠りについた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「優太朗ーーー!!!」
「……はい。」
「いつになく元気が無い……前嗣先生! これは流石に病院では?」
「…………カウンセラーの人でも呼べば。」
前嗣はいつも通りの冷たい声で呟く。
「なるほど。カウンセラーの叶采くん? どう思いますか?」
「えー、コホン。とりあえず鬱でーす。元気出して!」
そう言って肩を掴まれ、大きく揺さぶられる。
彼らなりに元気を出そうとしてくれているんだと分かっている。でも心に突っかかっているものはそれで取れるようなものじゃない。
悪いのが自分だと分かっているから励まされてもいい気分にはなれない。何ならいじめを肯定されているようで嫌だ。
こいつらにあれを肯定させたくない。あれは俺の弱さで、俺の横道だ。
そんなものから目を背けることなんて許されないし、誰かに背負わせることもあってはならない。
「……皆、大丈夫。別に元気が無いわけじゃねーよ。……大丈夫。」
できるだけ大きく、自然に笑ってそう言った。
今回に関しては笑うことは不謹慎だと思うし、別に笑うほど気分は良くない。けれど友達を心配させないためにはこれくらい普通だ。
偽ることは、楽でいい。
「そっかー。元気出たならよかったー。」
「……ほら、二時間目始まる。」
叶采と前嗣はいつも通りの気楽さと素っ気なさで言葉を投げかけてきた。
その方がこちらとしてもありがたい。気を遣わせるのは一番避けたい事態だ。
唯一、明だけは何も言わないで席へ戻った。
一番騒がしい奴が何も言わないのはおかしいが、それでも今はそんなことを気にしていたくはなかった。
どうにかなるように祈ることしかできない。
こいつらに俺の罪を悟られたくない。
されどこの罪から逃げることは許されない。
隣の席の明をチラリと見る。
しかしいつも通り、別に何かを考えているようではなかった。
安心していいのか微妙だが、それでも今はまだ他に、絶対にやらなければならないことがある。
二時間目の始まりを告げるチャイムと共にポケットから素早くスマホを取り出して『Lynk』を開いた。
当たり前のように『花月さん』の名前を押し、まるで歴戦のギャルかのような速度のフリックで文章を入力していく。今だけは自分の親指が十字を統べるものになった気分だった。
「……よし。」
十分に勇気を出したと言える。
怖さを乗り越えたわけでは無いけれど、黙ったままだといつか耐えられなくなりそうだった。というかもう耐えられそうにない。
ここ数日で嫌というほど顔を合わせて話すことの大切さをよく理解した。
もし花月さんに謝りに行ってなかったら、もし花月さんがお礼を持ってこなかったら……きっとこんな行動はしなかった。
当たり前だ。
『放課後に呼び出す』なんて真堂でやれば危うい事この上ない。誰かに見つかればどれだけ盛られて噂になるか分かったものじゃない。
しかし昨日、真堂だからと言ってそんなに気にしなくていいと思えた。というかそれ以上に大事なことがいくらでもある事を知った。
ならば怖がることなんて無い。むしろ何も伝えない方がおよそ百倍は怖いだろう。
「…………ぎ! ……たかぎ! ……髙木!」
「は、はい!!」
「課題。やってある?」
「あ、ああ、やってある! ちょっと待って……」
あまりに色々考えすぎて前の席の小松崎の呼びかけに一切気づかなかった。
課題用のノートを手渡して再び思考の世界に意識を落とす。
正直不安なことでいっぱいだ。もし花月さんに用事があったら……いや、その時はまた呼べばいい。
絶対に、これだけは言わないといけないと思う。
言わないまま彼女と仲良くはしていられない。
いや……もう、仲良くするなんて選択肢は無いのかもしれない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「ゆうたろー。今日はなんか用事ある?」
「え? ああ……いや、ある。めっちゃある。ごめん。」
「いやいや、謝んなくていいって! また明日な!」
「ああ、また明日。」
明に手を振って、足早に図書室に向かう。
花月さんからは『友達には図書委員の用事があると言っておいたから行けます』と数時間後に返信が来た。
正直、誠実な彼女に嘘を吐かせてしまったという罪悪感はある。こんなことはもう無いようにしよう。もしあったとしても数日前には言っておくべきだ。
少し震える手をパシンと叩いて深呼吸をした。
「……優太朗、大丈夫かな。やっぱ色々ありそー。」
「んー? どういうこと?」
叶采は首を傾げて明に問い返した。彼視点、特に違和感を感じることはなかったからだ。
優太朗はいつも通りの笑顔を浮かべていたし、彼自身が大丈夫だと言っていた。
「……なんかさ、昨日優太朗と色々あったんだよ……。図書委員の仕事終わった後……」
明は記憶を探って、昨日あったことをできる限り思い出しながら二人に語った。
「……で? その女子と髙木の関係は?」
「……聞いてない。ってかそこなんだよー! 後で話すって言ったくせに今日何にも教えてくれねーし。でも元気ない時にこっちから問い詰めるのもなんかアレだろ!」
「明、えらーい。ちゃんと優太朗のこと考えてるじゃん。」
明は天井を仰いで小さなため息を吐く。
友達のことは考えたい。できる限り考えたい。
でも考えていいのか分からない。話さないということは隠したいということである可能性が高い。
「……ま、いいんじゃない? 髙木が後で話すって言ったなら話すでしょ。話さなかった時に問い詰めれば?」
「うーん……そうなんかなー……。でも……」
「明は……髙木のこと、あんま信じてないよね。」
「────え?」
思わず間抜けな声が漏れた。
そんなつもりはなかった。ただ優太朗が心配で、気になることが少し多過ぎただけ。
けれど、信じていないと言われればそうなのかも知れない。少なくとも前嗣はそう思ったということだ。
「……俺、そろそろ帰るから。じゃ。」
前嗣はそう言って席を立ち、スタスタと教室から出て行ってしまった。
明はどこか遠くを見ながら何も言わない。
「んー……別にそんな考えなくてもいーんじゃない? オレは優太朗が泣きついて来たら助けてあげるつもりー。明も、それくらいのスタンスでいたら?」
叶采の気楽さはいつも周りの人間をも気楽にしてくれる。しかし今の明にとっては、何とも言い難いものだった。
「……うーん、そっか。そうかも。……よし! まぁ考え過ぎても良くないもんな! ほら叶采、前嗣追っかけよーぜ!」
とりあえず元気を出すことにだって意味はある。明はもちろんそんなこと考えてすらいないが、今は空元気が心地よかった。
まるで、普段の自分と同じようだから。
一方、優太朗は普段の心持ちなんてどこかに置いて来てしまったかのようだった。
図書室へ向かう足は重くない。その足が支える心が重い。
あの過去のことを彼女に伝えたら、もし自分がいい人間なんかではないと彼女に知られたら……一体、どんな反応をされるのだろうか。
軽蔑される?叱られるかな?それとも……気を遣われて何も言われないだろうか。
正直、彼女の優しさを考えれば全てあり得ると思う。
栞さんのことを考えて俺から離れる可能性はある。
俺を引っ張って無理やり前を任せてくれるほどお母さん気質ではないかも知れない。
気を遣って何も言わない可能性は……一番高い気がした。
まぁ、そんなことを考えても意味があるわけでは無い。
結局、結果はその時にならないと分からない。
深く呼吸をして放課後の図書室に一歩を踏み入れた。
辺りを見回した感じ、恐らく花月さんはまだ来ていない。
待つ場所とか決めていなかったが、そもそも放課後に図書室に来る生徒なんてそんなに多くない。どこにいても分かるだろうと思い、奥の方の椅子に座った。
特にすることがないので、窓の外を眺めて夕陽に目を細める。
不思議と心は落ち着いていた。
いや、落ち着いているふりをしていないと色々と考え過ぎてしまうからそうしているだけだ。
目を閉じ、頭の中でシミュレーションを進める。結局どんなに考えたってその時に伝える言葉が全てだが、不安を紛らわせるためには考えることが必要だった。
花月さんが目の前にいるとき、俺はちゃんと勇気を出せるだろうか。
……いや、大丈夫だ。昨日できたことは今日だってできる。それは分かってる。
ただぐるぐる考えていたいだけだ。時間を忘れ、周りから隔絶された脳を動かしていると楽になる。
大丈夫。準備はできている。きっと頑張れるはず。そんなに深く考える必要はな──
「あの……髙木くん。待たせちゃいましたか……?」
「は、はい! いえ、全然大丈夫です!」
テーブルを見つめていた頭を上げ、ビクッと立ち上がる。
咄嗟に出た言葉は肯定か否定か分からない。
見下ろした彼女の姿はいつも通り可愛らしかった。
「ご、ごめんなさい。栞に色々説明するのに時間かかっちゃって……でも上手く誤魔化せたと思います……」
「こちらこそごめんなさい……。わざわざそんなことをさせてしまって。もし都合が悪そうだったらまた今度でも俺は大丈夫なんで……」
「いや、今日で大丈夫です……」
気のせいだろうか?何だか今日の花月は少し元気がない気がする。いや、元気がないと言うより大人しいと言った方が的確だろう。
普段はもう少し自信を感じるというか何というか……まぁ、普段なんて言えるほど関わりが長いわけではないのだが。
「……花月さん、なんか……緊張してますか?」
「え、えっ!? い、いや! そんなことは……な、無いです!!」
思っていたよりずっと強く否定されてしまい、やはり見当違いだったのだと自分を戒める。
「そ、そうですか? すみません……。それで、話したいことがあるんですけど……」
「は、はいっ! わ、わたしは準備ができてます!」
「は、花月さん? 本当に大丈夫ですか?」
もはや日本語すら危ういとしか言いようがない彼女の慌てように、思わず心配になってしまう。緊張どころか恐怖されてるのではないかと思いたくなる。
よく見れば顔も真っ赤だ。しかしこれは夕陽のせいかもしれないので確信は持てなかった。
彼女は長い髪を手で掴んで顔を隠そうとしながら黙っている。何が彼女をそんなふうにするのだろうか。
「えっと……とりあえず、そんなに緊張するような話じゃないんで……ゆっくり聞いてください。座りましょうか。」
優太朗は椅子に腰かけて彼女の顔を見上げた。
「……は、はい……ごめんなさい……」
「悪くないので謝らないでください。……落ち着きましたか?」
彼女の赤らんだ顔が少しずつ柔らかい血色に戻っていくのを確認して首を傾げる。
彼女は胸に手を置いてそっと深呼吸をし、困り眉のまま優太朗を見つめ返してきた。
こちらから見ていたはずなのに思わず目を逸らしてしまうが、すぐに真っ直ぐに向き合う。
「ふぅ……止めちゃってすみませんでした。それで、お話って何ですか?」
何度言っても悪くない時に謝る癖は抜けないようだ。こちらが言えたことではないが。
「……えっと……昨日の、栞さんの件で……」
「…………えっ? 栞……ですか?」
花月さんは呆然とするように口を開けてしまった。と思ったら渋い顔で腕を組み、何かを考え始める。
そんなに意外だっただろうか。
昨日の今日で話があると言ったら大体想像はつくと思ったんだが。
「とりあえず栞さんの苗字を教えてもらえますか? 流石に今の仲で名前呼びは落ち着かなくて……」
「あっ、愛染です。愛に染まった栞で、愛染 栞です。」
「なるほど、愛染さんですね。……それで、本題なんですけど……」
一拍置いてもう一度深呼吸をした。
「……昨日、愛染さんは、花月さんに近寄らないよう、俺に言ったじゃないですか。」
「……? はい。でもそれは──」
「俺は、そうしようかなって思ったんです。だから、そのことを話すために呼びました。元々、俺たちは真堂の生徒ですし。」
たはは、と情けなく笑いながらそう言った。
分かってはいたことだが、花月さんは愕然としている。口をぽかんと開けて少しだけ震えているように見えた。
当たり前だ。昨日の彼女の言葉を思い出す。
『……でも、わたしは気にしません。友達も、真堂では男の子とはあんまり関わらない方がいいっていつも言ってます。……でも、わたしは、髙木さ……くんともっと話したいです……』
凄く嬉しかったし、気恥ずかしかった。
今思えばあの時言っていた友達というのは愛染さんの事だったのだろう。
「で、でも! ……真堂だからって、わたしは……」
「わかってます。俺だって多分、真堂の生徒ってだけならこんなこと言わなかったと思います。」
「じゃあ……!」
夕陽が雫を通り抜けて、彼女の紺色の瞳を煌めかせる。
そんな顔をさせたくは無かったが、今だけは仕方がないことだと割り切るしかない。
「……でも、問題は愛染さんの方で……」
「し、栞には、バレないようにします!」
「えっと、そういう問題じゃなくて……花月さんは昨日、俺をいい人だって言ってました。でもそれは、少なくとも愛染さんにとってはそんなこと無くて……そんな愛染さんと仲がいい花月さんと、仲良くなんてできないんです。」
花月さんの顔はいつの間にか険しくなっていた。真顔に近しいものだが、相変わらず瞳は潤んでいる。
そもそもどうしてそんなに俺と仲良くしていたいのかも分からない。
恩なんて考えなくてもいいのに。
「……いい人じゃない、訳ないです。なんでそんなに、自分を悪く言うんですか……?」
「…………元々、話すつもりでした。……俺は昔──」
優太朗は全てを話した。それはもう話すべきだと思ったことを全て。
誰もを助けられるヒーローになりたかったこと。
それなのに数年前にクラスメイトが虐められているところを見捨てたこと。
それからずっと、あまり自分を肯定できないこと。
彼女はずっと静かに、真剣に話を聞いてくれた。
こんな無様な姿を、呆れもせず。
「……とまあ、色々あったんです。俺の言っている意味が分かりましたか? 愛染さんにとって俺は、どう解釈しても悪い人なんです。」
花月さんはしばらく何も言わなかった。
幸いだったのは、やはり放課後の図書室に訪れる生徒など殆どいなかったということだろう。こんな会話、少しでも聞かれていたら気まずくてやってられなかった。
一分ほどの沈黙を経て、彼女は小さな口を開いた。
「……でも、やっぱりわたしには……髙木くんがいい人に思えます。」
思わず、優太朗は目を見開いてしまった。
そう言った彼女の瞳が酷く真っすぐで、一片の揺らぎも無かったからだ。
そんな反応は予想だにしていなかったし、あったとしてもこんな当たり前みたいに言われるとは思わなかった。
「え、ええ? いや、それは花月さんがまだあんまり俺のことを見てないから……助けてもらったっていう先入観があるからそう思うだけですよ! 一週間くらいの俺しか知らないから……」
「まだあんまり髙木くんを見てない……ですか。……ふふっ、ならやっぱり、尚更いい人に見えちゃいます。」
「なっ……なんで……」
いつしか花月さんの顔には淡い微笑みが浮かんでいる。
分からない。分からない。分からない。
分からなすぎる。
分からなすぎるのに……嬉しく思ってしまう自分が嫌だ。まるで期待していたみたいじゃないか。
「だってそれ、髙木くんは虐めてないじゃないですか。」
思わず言葉に詰まってしまった。
「い、いや、虐めては……無いですけど……。でも! 実質いじめに加担したようなもので……」
「……髙木くんは、その人のこと、どう思ってたんですか? 友達?」
またもや言葉に詰まる。俺はあいつをどう思っていたのだろう。
間違いなく友達ではない。他人?まぁ確かに。
でも実は……ずっと思っていたのは……こんなに、酷い評価だったのかもしれない。
「…………好きでは、無かったです。」
「それだけですか?」
「……嫌いでした。」
あーあ。言ってしまった。一番言ってはいけないことを言ってしまった。
もう終わりだ。これを言ってしまえば戻れない。
誰もを助けて、皆に好かれるなんてあり得ない。
「……そうですか。じゃあ、仕方ないんじゃないですか?」
「仕方ない……? 仕方ないわけないです。ヒーローになりたいなんて言ってる奴が、誰かを嫌うなんて……」
「でも、髙木くんは人間です。」
そうだ、としか言いようがない。
俺は人間だ。どうしようもなく人間だ。高望みをし過ぎただけの、ただの人間だ。
「……でも、手が届く人は助けてあげるべきじゃないですか?」
「そうですか? わたしだってきっと、嫌いな人が虐められてたら……多分スルーしちゃいます。」
「えっ……? 花月さんが……?」
「はい。だって、嫌いなんですもん。仕方ないじゃないですか。それに、いじめに割って入るなんて怖いです。もしかしたら自分が虐められる側になるかもって、そう思っちゃいます。」
同じ考え、と言えばそうなのかもしれない。けれど実際にそれを行なってしまったのは俺だけだ。
やっぱりそんな簡単に片付けられることではない。
「……嫌いでも、助けた方がいいと……思うんです。」
「それはわたしも思います。でも嫌いな人より、わたしは自分が大切です。……髙木くんももっと、自分を大切にしてもいいんじゃないですか?」
それは無理だ。皆を助けられる人になるには、自分のことなんて考えていられない。ただでさえヒーローの才能がない俺は、自分を犠牲にするくらいでないといけないんだ。
「……それでも、やっぱり……そもそも嫌うことがいけないことで……」
「そんな筈ありません。だって、やっぱり髙木くんは人間ですもん。嫌いな食べ物、好きな食べ物。嫌いな教科、好きな教科。嫌いな作品、好きな作品。嫌いな人、そして好きな人。そういうものが、あっていいと思います。」
どうしてこんなに肯定してくれるのだろう。
俺はてっきりちょっと非難されるか、若しくは無かったことのように扱われて少しずつ距離を取られるものかと思っていた。
「……好き嫌いで人を判断するのは……いけないことじゃ、ないですか……?」
「いけないことじゃないです。人間なら当たり前のことだと思います。髙木くんが嫌だって思ったら、ちょっとはそれから逃げてもいいんです。善悪の善し悪しじゃなくて……仲が好い、仲が悪いの好し悪しに従うことも大事だと思います!」
目頭が熱くなってきた。
泣くわけにはいかない。これ以上の無様を晒すわけにはいかない。
どうしてこの人はこんなに優しいんだろう。
こんなにも人の心を安らがせることができるなんて、とても羨ましい。俺もこうなりたかった。
しかし"それ"はもう置いてきてしまった。
いつまでも後ろにある。取りに行くことはできない。
「……ごめんなさい……やっぱり俺は──」
「わたしは、何も他人のためを想うのをやめた方がいいって言ってるわけじゃないんです。……皆んな、皆んながほんのちょっとだけ、他人のためを想うんです。そしたら、皆んなが楽になると思いませんか?」
「……そんなので、足りるんですか……? たかが、ほんのちょっとの想いで……」
彼女は先ほどまでとは打って変わって、期待や希望に目を輝かせた。
子供のようだと思った。無邪気な空論だと思った。
なのに──
「九割で自分のことを想って、残りの一割を皆んなに分け与えるんです。そしたら、色んな人が色んな人のことを救い合いながら、自分のことも大切にできると思いませんか?」
──どうしてこんなに、心が揺れるんだろう。
「名付けて、『ワンフォーワンアンドオール・オールフォーワンアンドオール』です! どうですか? いい案だと思いませんか?」
──どうしてこんなに、笑みが溢れてしまうんだろう。
……でもやっぱり、それは空論だ。人間はそんなに素晴らしい生き物じゃない。欠点だらけの生き物だ。
「……でも、皆んなそんな風には生きられないです、多分。……花月さんだけがそれを考えていたら……花月さんだけが損をすることになっちゃいます。」
「……そうですね。でも、それならそれでいいかなって。だって、他人のためは気持ちいいですから!」
頭を撞木にぶっ叩かれたかと思った。
忘れていたことだ。いや、忘れてはいなかったかな。
でも少なくとも、長らく俺の中から消えていたものだ。
他人のためが気持ちいいことだなんて、とっくの昔に知っている。
それを求めていた筈なのだから。ただ、いつの間にか承認欲求に取って代わられただけ。
彼女は、俺が求めていたものと同じものを求めている。しかもそれを、前に見据えている。
俺は、いつまで後ろを向いているのだろう。
「……確かに……そうですね。でも……それはもう……置いて来ちゃったんです。皆が未来に見ている物が、俺にとっては過去にあるものなんです。だから……」
心で綴る言葉と、舌が吐く言葉は全然違う。
前を向けるものならそうしたい。そうしたいよ。
でも方法がわからない。どうしたらいいのか知らない。
知らないけれど……こんなに肯定してくれる花月さんなら……彼女ならもしかしたら……なんて、思ってしまうのはあまりに図々しい。
「……花月さん。……変な解釈を、言うので……適当に流してくれてもいいんですが……俺は、人生ってのは歩くことだと思うんです。一本の同じ道を、夢とかなりたいものとか、大事な光を目指して皆んな歩いていると思ってるんです。……でも俺にとっての光は、もう後ろから戻ってこなくて……そのせいで俺は、前を向けないんです。」
もはや彼女に目も合わせられない。大事にしていたはずのことすら忘れるほど変な気分だ。
こんな気持ち悪い解釈を人に打ち明けることになるとは思わなかった。
弱音の吐き方まで気持ち悪い。
「ふふっ、わたしもおんなじように考えてます。人生って、道を歩くみたいですよね。時々小石とかあったり。」
俺はこの人をみくびっていた。まさかこんなにも優しい人だとは思っていなかった。
優しさを通り越して妙にすら感じられる。
俺なんかをそんなに肯定する意味がわからない。
この人は俺に、何を言いたいのだろうか。
「……でも、やっぱり髙木くんは少し考え過ぎだと思います。だって、夢を見失うこととか、置いてきちゃうこととか普通だと思っちゃうんですもん。わたしも、子供の頃はケーキ屋さんやりたかったんです。今は違いますけど……でもそれって、いつでも取り戻せると思うんです。置いてきちゃったものは確かに拾えないですけど、似たようなものをもう一回始めればいいんですよ! それに、夢が変わることだってよくあることだと思いますし!」
──ああ、この人は……本当にすごいなぁ。こうなりたい。きっと、何か凄く眩しいものを目指して歩いているんだろうなぁ。俺なんかとは違う。
でも、だからこそ……
「……でもそれは、後ろを向き続けていることには関係ないです。……俺はずっと、あの頃の夢を……」
「なら、違うものがある方を向いたらいいじゃないですか!」
……果てしなく期待してしまう。この人なら、俺のことをどこまでも助けてくれるんじゃないかって。
「……何を、見たらいいんですか。」
「何でもいいと思います。……そうだ! わたしを見てください。髙木くんの解釈通りなら、きっとわたしもその道にいますよね! なら、取り敢えずわたしが髙木くんの光になります。その上でまたどこを向くか考えてください。その答えを、わたしは絶対に応援しますから!」
本当に、この人は……超がついてド級がついてウルトラぐらいつけてもいいくらいの……お人好しだ。救いようがないくらいの善人だ。
だからこうして、思わず笑ってしまう。
涙が出そうなくらい嬉しいのに、涙よりずっと笑顔の方が止まらない。
こんな人に出会えて、俺は幸運だった。それだけは断言できる。今までの人生の全ての不幸と比べてもこの幸運の方が大きいに決まっている。
「……花月さん。……本当に、いいんですか? 俺は多分……これからもたくさん、後ろを向きたくなる時が来ると思います。まだ、あの夢を捨てきれていないですから。……それでも、俺の光でいてくれるんですか?」
「……はい。もちろんです。わたしはわたしにできる限り、髙木くんの役に立ちたいんです!」
ありったけの感謝を伝えたい。
この胸から溢れそうになる想いを溢すことなく伝えたい。
真っ直ぐ向き合うことも、忘れてはならない。
優太朗はゆっくり顔を上げた。少しずつ彼女の体が視界に入ってくる。
長い髪と小さな顔、小さな口、柔らかそうな頬。
綺麗な瞳に焦点を合わせ、もう目を逸らしたりはしない。
「……すみません、こんなに弱音ばっかり吐いて……」
馬鹿野郎。
言いたいことと言ってることが全くもって違うじゃないか。
これではまたいつもみたいに──
「ふふっ、謝らないでください。それに、弱音を吐けるのって強さの証でもあると思いますよ。わたしだったら、自分の弱いところは他の人には見せたくないって思いますもん。」
……どこまでいっても、優しいという印象しか抱かない。
悪くないのに謝る癖は花月さんだけじゃ無かったなと、軽く微笑む。
息を吐いてもう一度、今度は間違えないように彼女の瞳を見つめた。
「……花月さん、本当に……ほんっとうに、ありがとうございます。花月さんに会えた俺は……幸せ者ですね。」
できる限り、全てを込めてそう笑う。俺を救ってくれた彼女の笑顔を真似るように。
これからは、俺が目指すものは彼女なのだから。
精一杯に真っ直ぐに、他人を救えるような笑顔を心がけよう。勇気を出して、何でもしてみよう。それはきっと、俺を導いてくれるはずだ。
瞼を開き、彼女の顔を見る。きっと笑ってくれていると思った。
しかし、思っていたようなものとはずっと違う……何だか、すごく困ったような赤い顔をしていた。
「し、幸せ者ですか……? そ、そうですか……。力になれたなら……よかった、です……」
消え入るような小さな声でそう言う彼女は、ふわふわとした髪で顔を隠そうとしている。
小動物のような仕草が可愛らしい。
夕陽よりずっと赤く見える顔は何が原因だったのだろうか。
「……えっと……一応、これで話は終わりなんですけど……何か、ありますか?」
自分で言っておきながら、何だこの面接みたいな終わり方はと恥ずかしくなってきてしまう。
彼女は小さく咳払いをして頬をぺちぺちと叩き、真っ直ぐこちらを見つめてくる。
「……じゃあ、髙木くん。約束しましょう! これから、取り敢えずは私を見て生きてください。あと、好し悪しとか、やりたいことに従ってください。髙木くんが頑張ってきたのは知っているので……これからはもっと欲張っていいんですよ!」
小さな手を前に出し、小指を立てている。
日本に生まれたなら大抵の人はこれだけで何を求めているのかは分かるだろう。もちろん、優太朗も分かっている。
約束は、少し怖かった。破ったら彼女を嫌な気持ちにさせてしまうかもしれないなんて杞憂。
でももう逃げない、というかここまでしてくれた彼女に報いなければという気持ちの方が大きかった。
こちらも、大きな手を前に出して小指を立てる。
「……はい。約束です。」
二人の小指がそっと触れ合い、小さい方から絡みついた。それに続いて大きな方も巻きつき、小さく揺れる。
「指きーりげんまーん、嘘つーいたら……どうしようかな。針千本は痛いし……」
「べ、別に針千本でも良いんじゃないですか? 流石に花月さんが俺に針を飲ませることなんて無いと思いますし……」
「でも、それじゃあ約束破り放題じゃないですか! ……そうだ。じゃあ、破ったらその度に……わたしに髙木くんのことを教えてください。まだ、何にも知らないので!」
正直に言おう。流石に可愛すぎて心臓が跳ねた。
俺がこんなんじゃなかったら多分恋に落ちていたと思う。
それくらいに可愛かった。もはや恐ろしいほどだ。
「……えっと、すみません。嫌でしたか? ならもっと別のものに……」
「あ、ああ! すみません! ちょっと……なんて言うか……ボーッとしてました!」
少し放心し過ぎたようだ。
あなたの可愛さに見惚れてましたなんて恥ずかしくて言えるわけがない。ただでさえ、既に顔が熱くて手汗が止まらないというのに。
指きりで良かったと心底思う。
「そうですか? じゃあ、改めて。……指きーりげんまーん、嘘つーいたら髙木くんのことを教えてもーらう! ゆーびきった! ふふっ、約束ですよ?」
実は指きりをしている間も彼女の顔ばかり見ていた。
ふと思ったのだが、いつの間にか真っ直ぐに彼女の顔を見つめてもそんなに恥ずかしく無くなっている。前までだったら勇気を出さないと見つめることも無理だったのに。
これも、大事な一歩かもしれない。
人の道。しばらく後ろを向いて歩いて来たが、今日、横向きくらいにはなれた気がする。横を向きながら歩くなんてまるで蟹のようだが、それでも大きな成長だ。
本当に全部、花月さんのおかげ。頭が上がらない。
これからも多分、何度か後ろを向きたくなることがあるだろう。
でもきっと……昔の夢より彼女の方が眩しい。
なら心配は必要ないだろう。
性懲りも無く花月さん頼りだが──
「……花月さん、これからも……よろしくお願いします。」
「はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします!」
──欲張っていこう。
もっと自分の欲に向き合ってみようと思う。
きっと、俺に必要なのは向き合うことだった。
花月さんに向き合ってからはどんどん、心がいい方向を向くようになった。
本当に、心から感謝したい。
優太朗はそっと小指を離し、普段なら絶対に引いていた手を彼女に向かって差し出した。
「花月さん、もし良ければ……俺と、友達になってくれませんか……?」
「………………へ?」
「え?」
彼女が首を傾げてあまりに間の抜けた声を出すものだから、思わずこちらまで首を傾げてしまった。
花月さんのこんな顔は初めて見る。
目を丸くするなんて表現がそのままの意味で言える日が来るとは思わなかった。
もしかして友達になるのがそんなに嫌だったのだろうか。だとしたら申し訳ないことをしてしまった。
謝ろうと思って手を引きかけた瞬間、彼女が立ち上がってこちらに身を乗り出して来た。
「な、え、わ、わたしたちって、友達じゃなかったんですか!?」
「えっ、友達だったんですか!?」
「も、もちろんじゃないですか!! 連絡先も交換したんですよ!?」
「い、いやそう言われればそうなんですけど……なんて言うか……友達って言うよりもやっぱり常連さんみたいなイメージが強くて……」
連絡先の交換なんてクラスメイト全員としているが、それでも友達というよりは知り合いぐらいの距離感の人もいる。だから自分が友達になっているとは思わなかった。
「……ふふっ。じゃあ、改めて友達です!」
花月さんは俺の手を握って明るく笑った。
大小二つの手が優しく重なり合っている。
結局、この笑顔を見せられてしまうと何も言えなくなってしまう。
やはり彼女と出会えたことは幸運だ。
これから、どれだけ彼女に救われることか、どれだけ彼女という光に近づけるのか。
不安も多いが、それは今更だ。どうせ未来は分からない。ならば全部忘れてできる限りに歩こう。
好き嫌いでわがままを言う時が人生で一回くらいあってもいいと思う。
欲張っていこう。
二人は握手をしたまま固まっている。
どのタイミングでこの手を離したらいいのか分からない。
俺はともかくなぜ花月さんは離さないんだ、この気まずさをいつまで保っているんだろう、なんて思っていたら彼女は耐えかねたように手を離した。
「……じゃ、じゃあ、わたしは帰りますね……! もしかしたら校門の前で栞に待ち伏せされてたりするかもしれないんで……」
「そ、そうですか? じゃあ……」
優太朗もそっと手を引いて、赤らんだ顔を隠そうとしながらそう言った。
「……髙木くん、じゃあ、また明日! じゃあね!」
「う、うん! また明日……です。」
そうして人が見当たらない図書室から彼女は出ていった。
おおよそ三十分の時間を経て、真っ赤な顔の二人は別れる。
彩葉は瞳を揺らしながら頬の熱を冷まそうと廊下を早足で歩き、優太朗は窓の外の夕陽をボーッと見つめていた。
「……花月さん……ふふっ……」
自分でも分かるくらいの気持ち悪い笑みを消そうと必死に頬を引っ張る。
心が軽くなった気がした。
いや、確実になっている。
生きているのがこんなに楽に感じたのは何年ぶりだろう。
低い本棚の上に頬を乗せ、目を瞑る。
夕陽の暖かさが羊たちを連れて来てしまった。
少しだけなら寝てしまってもいいだろうかと迷ったが、何とか目を覚ます。
「……よし……よし!」
鞄を拾い上げて肩にかける。頬に漏れ出しそうになる幸福感を胸に仕舞い、図書室から一歩を踏み出す。
春の夕陽に包まれながら、少しだけスキップでもしてみようと廊下を跳ねた。




