第六話 A person who never made a mistake never……
漫画などで驚いた時に目が飛び出る演出がある。
あくまでも演出だ。実際に目が飛び出る人間なんていない。
いや眼窩から眼球が多少飛び出すことはあるだろうが、あんなギャグ調にゴムボールのようにはならないだろう。
しかしその瞬間は、あの瞬間だけは自分の顔がそんな風になっているのではと思った。
彼女も酷く驚いたようで目を真ん丸にしている。というかそんなに大きな声を出すのかと、そこにもビックリした。
優太朗は珍しく目線を合わせることもせずにただ彼女を見下ろす。数時間が経ったような気がしたが、実際には五秒と経っていない。
先に舌を動かしたのは意外にも優太朗だった。
まあ、とはいっても──
「は、はな、は、はなな、はなづ、づきさっ!?!?!?」
──こんな風に、口から出たのはまるで新言語かのような言葉だったが。
こうして作られた言語が、この宇宙のどこかでは公用語になることを祈る。
それはそれとしてこのままでは図書室で奇声をあげる変な奴だ。何か日本語を紡がなければ。
しかし言葉が見つからない。何を言っても舌が回らないことが自分で理解できる。
それに彼女だって何も言わずにただ茫然としている。ならわざわざこちらから行かなくてもいいのではないだろうか。しかしそれではただ見つめあう変な二人になってしま──
「うるさい。」
花月さんを見るのに夢中になっていた俺は、背後から近づいてくる司書の先生に気づかなかった。なんてどこか聞いたようなフレーズを頭の中で思い浮かべている間に、頭頂部に少し硬めのファイルが直撃する。
「痛だっっ。」
「いてっ。」
続いて花月さんにもしっかりとファイルが落ちる。
司書の七五三掛先生は呆れたような顔で二人の顔を見ていた。
「一応図書室だから静かにしろ。喋るなとは言わないし運命的な出会いを果たすのも勝手だが、叫ぶのはナシだ。」
「「す、すみません!!」」
「はい、分かったら手を動かせ。……ところでお前は誰だ?」
七五三掛先生は記憶を探るように瞳に疑いを宿し、優太朗に顔を近づけてきた。
「え、あ、二年六組の髙木です! 明……東谷に呼ばれて助っ人として……」
「なるほど分かった。ならいい。……ほら、花月さんは背が低いんだからあっちでも手伝いな。」
「えっ、は、はい! 分かり、ました……」
花月さんが先生に連れていかれる直前、ちらりとこちらを見上げた彼女と目が合った。
しかし何を言うこともなく、彼女は振り返って離れて行ってしまった。
その小さい背中を見つめながら、少し下に視線を下げる。
真堂高校の上履きには赤、青、緑のどれかの色のラインが入っている。彼女のそれは優太朗と同じ緑色だった。つまり──
に、二年生!?というか同世代、同学年!?全然後輩とか、何なら中学生くらいかと……。
驚愕が収まらない。いつまで経っても新たな驚きが頭に生まれる。
こんな奇跡的なことがあるだろうか。何万、何憶分の一の可能性を引き当てればこんなことになるんだ。
本棚の掃除にも身が入らない。今だったら何にも集中できなさそうだ。
「優太朗ー? どうしたんだ? なんか大声出してたけど。」
明が顔を覗かせて首を傾げている。幸い、さっきまでの流れは見られていなかったようだ。もし見られていたら何ヶ月イジられたか分かったものじゃない。
「……いや、な、何でもない……。ちょっと、ビックリしただけ。」
「……ふーん。そっか。てっきり本に潰されたんかと思った!」
「この巨体が潰される訳ないだろ。」
落ち着こう。深呼吸をして、ゆっくり目を開ける。
別にそんなに驚くようなことじゃない。……いや、それは嘘だ。めっちゃ驚いた。
でも驚くフェーズが終わったらそれ以上にリアクションを取る必要なんて無い。
なのに何だろうこれは。
本を運ぶことに喜びとか、楽しさとか、感じる訳がない。
なら何だというのだろう、これは。
なんでこんなに、口元が綻んでしまうのだろう。
ああ、本当は分かっている。胸の内では理解している。
嬉しいんだ。
きっとさっき顔を合わせていた時からずっと、嬉しいと思ってしまっていたんだ。
歳も、目線も、住所も、色んなものが遠いと思っていた彼女が、思っていたよりもずっと、近い人に思えたから。
もしかしたらこれから、もっとたくさんあの笑顔を見れるんじゃないかなんて期待もした。
「…………花月さん……」
「ん? なんて?」
いつの間にか隣にいた明がこっちを向いていた。
というか知らず知らずのうちに声に出していたことの方が問題だ。
「う、え、え、いやいや!? 何でもない! マジで! 何でもねーから!」
「お、おう? 分かった。……なんかえっちな本でもあったか?」
「んなもん高校の図書室にあってたまるか……」
気を付けよう。今は掃除の時間だ。集中すればそれだけ早く終わる。
よし、あまり彼女のことは考えないようにして──
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
──なんてできるはずもなかった。
一生頭から離れてくれない。できることなら誰かに助けて欲しいくらいだ。
本棚の掃除をしている時もずっとボーっとしていて、何度埃が目に入ったか分からないくらいだった。おかげさまで瞳が凄くシパシパする。
「優太朗! 今日はマジでありがとうな! おかげで助かった!」
明は目が焼けるような眩しい笑顔を向けて白い歯を見せた。
大抵の悩みならこの笑顔一つで吹き飛んでいたことだろう。しかし今回はそうもいかなかった。
「いや……こちらこそありがとうというか……なんというか……」
「?? 俺なんかしたっけ?」
「まあ……あんま深く考えなくていいかも。……とりあえず、ありがとう。」
そう言って優太朗は辺りを見回す。掃除が終わった図書室は図書委員たちの駄弁り場になっていた。
しかし花月さんの姿は無い。ついさっき掃除が終わって先生が話をしていた時は確かにいたのだが。
「じゃあ、帰ろーぜ。優太朗なんか用あるんだろ?」
「いや、別に用とかじゃねーけど……まあ、帰るか。」
まだ少し未練があるかのように図書室の中を見回したが、やはりあの小さな人影は見当たらなかった。
昇降口から出て踵をスニーカーに合わせる。
夕陽が傾いて、そろそろ沈んでしまいそうだった。
結局花月さんのまた明日はどうなったんだろう。図書室で会ったから店には来ないのだろうか。
……それとも、店でもまた会えるのだろうか。
そんなことを考えてるとまた頬が緩んでしまい、つい自分にニヤけ癖でもあるのかと疑いたくなる。
いい加減ここ数日の自分の気持ち悪さにうんざりしてきた。
もしかして今まで気づいていなかっただけで、ずっとキモかったのではとそんな風に思ってしまう。
春の一番星は何というのだろう。
こちらを見ている。宇宙の目が一足早く夜を告げている。
「はあ……やっぱ俺図書委員向いてないと思うわー。昼休み潰れることもあるしー。」
「まあ仕方ないだろ、委員争奪戦負けたんだし。それにどうせ昼休みも駄弁ってスマホ弄ってるだけじゃつまらないだろ?」
「えー……だったら体育係とかの方がよかったー! 俺、本とか読まねーし!」
まあそれはかなり解釈一致だし、誰が見てもそういうタイプの人間に見える。
明たちに自分の家のことを言っていない理由のうち、一つがこれだ。三人とも本が好きなタイプではない。
ましてや男子高校生だ。カフェだーと遊びに来てうるさくでもされたら困る。まあこいつらはそういうところ弁えてると思ってはいるが、万が一という事もあるだろう。
「そうか? 意外と明なら楽しめそうだけどな。」
「いや楽しめるかどうかは置いといてだろ! そりゃただカウンターに座ってるだけだって楽しめる自信はあるけど……向いてるかどうかは別だし。本好きな奴がやった方が使う方からしても助かるんじゃね? おすすめの本とか聞かれても俺じゃ『ブラック・ジャック』とかしか勧めらんねー!」
『ブラック・ジャック』があの図書室に置いてあることに少しビックリなのだが。まあ名作なら漫画も置いておく価値があるという判断なのだろう。
二人は校門に向かって歩みを進める。
優太朗は右隣の明を向いていただけなのだ。
別にいつもならそっちを向いたりはしない。
明がいたから見ていただけなのだ。
校門を通った次の瞬間、明の向こう側にその横顔が見えた。
思わず立ち止まってしまう。
背が低い彼女は少し俯いて、小さな白いリュックを背負ったまま立ち尽くしていた。
いや、立ち尽くしているのはこちらもだ。
学校の表札を隠すように、何かを待っているように、少し緊張しているように立っている彼女を見つめたまま、歩みが止まる。
彼女はふとこちらを見上げて、顔を真っ赤に染める。
人間の顔ってこんなにリトマス紙みたいにすぐ赤くなるのかとちょっと驚いてしまった。
斯く言う俺はきっと間抜けな顔をしている。自分の意志で口が閉じれないのは幼児の頃以来だ。
何を言おうか迷っている間に恐らく十秒ほどが経過した。彼女も言葉を発さないという事は同じことで迷っているのだろう。
そして初めに口を開いたのは、その二人のどちらでもなかった。
「優太朗ー? どうしたん? 知り合い?」
いつの間にか隣に誰もいなくなっていたことに気づいて、戻ってきた明がそう言った。流石にこれだけ見つめあって知らない人は通じない。かと言ってどう紹介するのが正しいのか分からない。
考えろ。
適切な言葉をできる限りの脳細胞を活用してひねり出す。それを舌で精査し、疑わしくない説明を息に乗せて伝えた。
「……は、花月さん。う、うちの常連のお客さん……」
「…………常連?」
俺は本当にバカなんだと生まれて初めて理解した。焦っていたとはいえここまでの悪手を選ぶことはなかなか難しい。
焦りを隠すためにかなりハッキリと口にしたのが裏目に出る。聞き間違いや台詞を噛んだといったような言い訳は通じないだろう。
「あ、え……えっと、ち、違くて……」
「ん? えっ、ウチの制服じゃん! 何年生!? 何組!?」
幸いと言うべきか。明は花月さんの方に興味が移ったようだ。
とはいえさっきの発言はしっかりと聞かれていたようなので、ふとした時に思い出されるかもしれない。言い訳は考えておこう。
「えっ、あっ、わ、わたしは……」
「俺、二年六組の東谷 明!」
明のぐいぐい来る姿勢には花月さんも押されている。初対面であそこまで親しく距離を詰められるのには流石に畏敬の念を抱かざるを得ない。
「……はい、知ってます。図書委員の自己紹介で聞きました!」
「………………え?」
「……明、お前……」
「ち、違っ、違くて! その……ごめん!! 俺、女子の名前全然覚えてなくて……」
社交性の塊だと思っていた明にもそんなミスがあったとは。結構衝撃だ。
「ふふっ。まあ真堂ですし、男子と女子の隔たりがあるのは仕方ないです。」
そう言った花月さんは一瞬、本当に一瞬だけこちらに目を向けてきた。
目が合った優太朗は思わず顔を背けてしまう。
失礼な事をしたとは思っているが、どうしても変な羞恥心が邪魔をしてくる。
何なのだろう、これは。説明がつかないが、嬉しいと思ったことが気恥ずかしい。
「いやーでも同じ委員会の人の顔くらいは覚えてた方がいいだろー! ぐぬぬ、ごめん!!」
「いえいえ、本当に大丈夫ですよ! わたしは二年二組の花月 彩葉です!」
「同い年じゃん! よし、完璧に覚えた!」
モヤモヤと頭を悩ませる優太朗のことなんて気にせず、二人は明るく話している。
……というかこの二人、打ち解けるのが早すぎないか?本当に真堂の生徒なのか?
あまりに仲良さそうに話す二人は、普通の共学高校の生徒かと勘違いしてしまうほどだ。周りの生徒たちに変な目で見られるかも、とか気にしないのだろうか。
いや、花月さんはともかく明は気にしないだろうなと、根拠のない自信がある。
「優太朗ー、常連さん借りちゃってごめんなー? 何か話あるなら俺、待ってるぞ?」
「え、あ……」
突然そんなことを言われても何を話せばいいかなんて分からないし、別に話したいことなんて…………沢山あるに決まってる。
大丈夫だ、同い年の女の子と話すなんてそんなに難しいことじゃない。しかも相手はここ数日、よく話した人だ。怖がることなんてそんなに無い。
まず意識するのは目を見ることだ。そして少し背を屈める。
「……は、花月さん……。お、同い年だったんですね……。しかも同じ高校……」
「……そ、そうですね……わたしもビックリしました……」
なんとぎこちない会話だろうか。高校生にもなってここまで会話が下手だと将来が思いやられる。
彼女は赤い顔を不器用に歪めて笑顔を作り、消え入りそうな声を零した。
「……た、髙木さんは…………」
「……え?」
「た、髙木さんは、髙木くんだったんですね……!」
なんと可愛いことを言うのかと感心してしまった。まるでこの瞬間が、小説の中の一節だったような錯覚すら覚える。
やはり本が好きな人は、その分表現力も優れているのだろうか。
とにかく、何だか胸をちくっと刺されたような刺激を受ける。
「……は、はい。花月さんは…………は、花月さんですね。」
「……………………?」
首を傾げて不思議そうな顔をする彼女を見て顔が熱くなる。
今、何を言おうとしたんだ俺は。変な呼び方しようとしなかったか?
視線が宙を舞い、呼吸が下手になる。自分の奇行を忘れようと学ランの端を掴み、誤魔化すために話題を適当に探った。
「そんなことより! 花月さんはなんでここにいたんですか? 友達を待っていたとか?」
「えっ……と……そ、それもそうなんですけど。……た、髙木くんも待ってました。」
は?聞き間違いだろう。いつから俺の耳にはこんなに都合のいい翻訳機が搭載されていたのだ?
しかし、恥ずかしそうに髪で顔を隠そうとする彼女の様子を見ていると、勘違いではないのかもと思ってしまう。一応聞き間違いという罠カードを伏せておいたので、彼女がそう言ったという体で話を進めても大丈夫だ。
「……え……な、なんで俺を?」
「ち、違うんです!」
違うらしい。
「その……伝えなくちゃいけないことがあるんです! でも、今は時間が無いので…………れ、連絡先、交換してもらえませんか?」
違くなかった。彼女は俺のことも待っていた。
というか連絡先?確かにいつでも連絡が取れれば楽だ。しかし……。
「連絡先ですか? ……でも、真堂ですよ、俺たち。あんまりそういうのは……」
彼女はスマホを手に持ったまま呆然としている。
何かを言いたげに視線を上下させて、小さく苦い顔をした。
きっと少しだけ酷いことを言った。あの顔を見れば分かる。
嫌な気持ちになった。
こっちまで嫌な気持ちになった。
「……そうですよね。真堂はそういうの、変ですもんね。……おかしなこといって、すみません。」
彼女は今まで見たことがないような切ない笑顔を浮かべて、きっと頑張ってあらゆる沈鬱を取り繕っているであろう声を絞り出した。
何をしているんだろう、俺は。笑顔が見たいとは言ったがこんな笑顔が見たかった訳じゃない。
そもそも断った理由もよく分からない。なんで断ったんだ?
真堂で男女の間に連絡先の繋がりがあることを嫌がった?
そんな訳ない。嫌な訳がない。だって、彼女との関りが増えるのは良いことだ。嬉しいことだ。
ああ、きっと……怖かったんだ。
高校に入ってから、優太朗の意識は以前に比べて少しだけ変化していた。
失うのが怖い。一度手に入れたものが手の上から零れるのが嫌だった。なら、そもそも手に入れなければいい。
いつのまにか、そんな臆病者に成り下がっていた。
完全に間違ってるとは思わないし、そうすることを変だとも思わない。
しかしその影響で誰かが、大事な人が傷ついている。
笑顔を貰っておいて、それを自分から壊した。
手に入れなければいいなんて臆病な考えで、既に手に入れたものをこの手で投げ捨てようとしている。
「……でも、わたしは気にしません。友達も、真堂では男の子とはあんまり関わらない方がいいっていつも言ってます。……でも、わたしは、髙木さ……くんともっと話したいです……」
彼女は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
顔が熱くなる。手が震える。
すごく恥ずかしいことを言われた気がする。
彼女も内心では恥ずかしかったのか、真っ赤な顔がさらに燃え上がった。
そんなに恥ずかしいのならそんなこと言わなければいいのにと思わなくもないが、きっと勇気を出してくれたのだろう。
そうだ。彼女は勇気を出せる人だった。
『き、昨日! すみませんでした! 失礼な事しちゃって……帰り際だったのに続きを取って欲しいって、変でしたよね。時間を気にしていなくて……』
はっきりと覚えている。
こないだだって緊張しながらも態々謝ってくれた。悪くもないのに謝ってくれた。
そして今、俺はまた悪くない彼女に謝らせてしまっている。
彼女は勇気を出せる人だ。
この小さな体で、頑張って心を言葉にできる人だ。
対して俺はどうだ。
頑張ることを諦め、心に背いて生きている。
彼女の真っすぐさだけは裏切りたくないなんて考えながらも、こうしてピントの合わない目であなたの方を向いている。
……ダメだ。これじゃダメだ。
いつまでこうして臆病に生きているんだ。
そもそも何がそんなに怖い?失う事?……そう言われれば納得するしかないが。
でも花月さんにこんな顔をさせること以上に怖いことがあるか?
さあ、優太朗。勇気を出せ。失敗は進行中の成功であると偉い人も言っていた。
その大きな体にあるのが太い骨だけではないと証明しろ!
「…………花月さん。……これで、いいですか? 俺、『Lynk』以外にメッセージアプリとかやってなくて……」
スマホを開いて彼女にQRコードを見せる。
彼女から見れば一貫性のない行動に見えるかもしれないけれどこうするしかない。これさえできれば今は満足だ。
「……い、いいんですか? ……し、失礼します!」
彼女は焦っているように、急いでいるようにスマホを操作してQRコードを読み込んだ。
途中でスマホを落としそうになってこちらも少し焦ってしまった。
そして優太朗のスマホが振動し、友達ではないアカウントからスタンプが送られてきた。
思わず失笑してしまいそうになるような、変な顔のライオンのスタンプ。こんなスタンプを使うのかとまた少しビックリもした。
「できましたか?」
「はい、間違ってないです。」
「よかった……間に合って。……じゃ、じゃあ、お二人は早く帰ってください! 急がないと……そろそろ来ちゃうかもしれないので……」
「えっ?」
急に、どっか行って!と言われたかのようで激しい衝撃が脳を揺らす。
しかしすぐに地に足をついて、彼女の顔を見て尋ねた。
「……来ちゃうって何がですか? 何か──」
「あの。……彩葉に何か用ですか?」
突如、右の方から声がした。女子の声と分かるくらいの高さではあったが、圧を感じるような低い声。
バッと声の源を見ると、そこには一人の女子生徒が立っていた。
まず思ったのは、背高っか!!だった。
優太朗ほどはなくとも、きっと170センチ代後半くらいはあるだろう。スラッとしていてモデルのようだ。立ち姿も姿勢がよく、カッコよく見える。
その女子は黒いセミディほどの髪を揺らして優太朗と彩葉の間に割り込んできた。
「……あまり、彩葉に近寄らないでください。……さ、帰ろう、彩葉。」
一瞬、かなり鋭く睨まれ、蛇の前の蛙のように舌も動かない。
名前も知らない彼女は彩葉の手を掴んで、駅の方へと早足で去っていく。
「し、栞! 分かったから……」
彩葉はチラリとこちらを見たが、すぐに前を向いて行ってしまった。
何か言いたげな、眉を歪めた顔が目に焼き付いて離れない。
離れていく二人の背中を見つめて呆然としていると、彼女たちが進んでいった方向で待っていた明が駆け寄ってきた。
「優太朗、だいじょぶか? なんかめっちゃ怖い人に絡まれてたよなー!」
「ああ……うん。確かにちょっと……怖かったかも。」
「てか背高くね!? 俺より高えんだけど!」
「うん……凄かった。」
ずっと呆然としていた。まだ道の遠くにぼやーっと見える二人の人影を追っている。明の声に適当な返事を返してしまう。
「いや優太朗の女難の相が止まんねー……」
「……女難の相? どゆこと?」
「だって最近ずっと女の子関連で色々悪いことばっかり巻き込まれてるじゃん! 女の子庇ってボコられたり、図書室でも先生に怒られてただろ? そんで今のだし。」
いえ、それ女の子関連というか全部花月さん関連です。
しかし、確かに考えてみれば最近花月さんと関わって色々とあった。悪いこともあったが、それ以上にいいことがたくさん。
今日だって一歩踏み出せたのは花月さんのおかげだ。本当に彼女はたくさんのものをくれる。
「……いや、悪い事ばっかりじゃないよ。」
「……そうなん? あんまり感じられねーんだけど。……てかそれより気になってることあんだけど~?」
「気になってること?」
「……常連って何?」
……完全に忘れていた。誤魔化すのはもう諦めたほうがいいだろう。
しかし今は色々なことがあって頭が焼けかけている。説明するのすら少し億劫に感じてしまう。
整理するべきことだけで『花月さんと同じ学校だった』『花月さんが同い年だった』『花月さんと連絡先を交換した』『なんか怖い人に花月さんに近寄らないように言われた』と脳がになる。よくよく振り返ると同じ名前が何度も出てきてるような……と思ったが気のせいだと思うことにした。
とにかく、今は説明する余裕がないと思った。
「……すまん、後で話す。ちょっと今日は……もう疲れた……」
「……そっか。まあいいよ。でも絶対後で問いただすからな!」
「うん……」
疲労感を露わにしてフラフラと歩く。明はずっと何か話していたが、優太朗の記憶には何も残っていなかった。
駅に着いてからも頭はポケッとしていた。自分が今何を考えているのかもよく分からない。
ホームのベンチに座りながら流れていく電車と時間を眺めていた。
今になって連絡先を交換したという事実が頬を緩ませてくる。いい加減自分にニヤケ癖があることを受け入れた方がいい。
「優太朗はどう思う? やっぱヤバいかな?」
「へ?」
「お前またボーっとしてただろー。二週間前の課題出してないって話!」
「いや普通にヤバすぎだろ。お前何のために部活辞めたんだよ。」
「辞めたんじゃなくて、辞めさせられたんだよー!」
本当にいい奴だ。『常連』の件も全く問い詰めて来ない。
提出物に甘いのが玉に瑕だが、それに関しては優太朗も人のことは言えない。大体二日遅れで提出物を出している。
やがてホームに電車が入ってきて、明は座席に座った。優太朗はいつも通り、ドアの近くに立っている。ここにいれば座っている人たちの邪魔にもならないし、どちらのドアが開くのかも分かりやすい。
明は疲れているのか座るなり、リュックを抱いて眠ってしまった。彼が降りるのは優太朗の二つ先の駅なので、起こせない分少し心配だ。
ガタンガタンと揺れるたびにつり革が頭に当たりそうになって少し怖い。なんてそんなことを考えていると、ポケットの中が小さく揺れる。
スマホを開くとメッセージの通知が来ていた。
そこには、設定したばかりでまだ名前も変えていないアカウントが表示されている。
一気に心臓が縮むような感覚を覚えたが、はやる気持ちを抑えきれずにメッセージを開く。『花月 彩葉』と書かれたトークを押すのに三秒ほど躊躇したが、やはり手を止めることはできなかった。
『すみません。今日行けなくなっちゃいました。』
そんな短い文章と共に土下座をしているライオンのスタンプが送られてきた。
この可愛いライオンのスタンプは何なのだろう。どこかで見たことがあるかと聞かれれば微塵もそんなことは無い。
女子ってこんなスタンプを使うのかと少し興味が惹かれたが、そんなことを聞くような場面ではないだろう。
『大丈夫です。』
慣れた手つきでそう入力してから、送信ボタンに触れる直前で手が止まった。
……なんか硬くないか?
ついさっきまでは客と店員だったから硬いくらいが当たり前だったが、同い年の女子と考えると急に冷たく感じてしまう。
これでは、約束も守れないなんて、と失望したような返事じゃないか。
本当に残念なんて思ってはいない。だって花月さんの誠実さはよく知っている。きっとさっきの背が高い友達と用事でもあるのだろう。ならばそちらを優先して欲しい。カフェなんていつでも来れるのだから。
しかし本心からの大丈夫を伝えるにはどういう文章を送ったらいいのか分からない。
幸い、手元には文明の利器の代表ともいえるような便利な情報源が存在している。
『メッセージ やわらかく』で検索して一番上に出てきたサイトをとりあえず開いてみた。早くしないと既読無視をしているみたいで心苦しい。
そのサイトによれば、!マークを付けたり、伸ばし棒を使うといいらしい。
確かに、頭の中で文章を作っただけでやわらかくなったのが分かる。
『大丈夫です!』
こうすると一気によくなったように見える。なるほど、これからは意識するようにしよう。
仄かな緊張を残しながらも送信ボタンを押し、ふぅと一息吐いた。
送ってしまえばこちらのものだ。もう取り返しがつかないのなら緊張したって仕方ない。
しかしメッセージの一つや二つでこんなに緊張していては、この先のコミュニケーションはどうなってしまうのだろうか。そこまで気負う必要はないと分かってはいるのだが、女子の連絡先が増えたこと自体が中学生ぶりなのでどうしても勝手が分からない。
車窓から空を見て目を細めた。
これから、もっと色々なことが起こるかもと少しだけ胸が躍った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
自室のベッドに顔から突っ伏して大きなため息を吐いた。
「返事が……来ない……」
まだ少し冷たかったのだろうか。既読がついたまま音沙汰がない。
モヤモヤとした心を知らんぷりして少し湿った髪をかき上げた。
母に花月さんが今日は来れない旨を話したらかなりシュンとしていた。
顔を合わせる準備くらいはしていたらしい。
「……伸びたな……」
前髪を指先で摘まんで小さく呟く。そろそろ切らなければと思うが、肩辺りまで伸びた襟足はこのまま変えるつもりはない。
風呂上がりの熱が肌を少し赤らめていた。
眼を閉じると眠りに落ちてしまいそうだ。今日は本当に色々なことがあった。
というかここ数日の情報量が多すぎる。花月さんと出会ってからは毎日忙しくて仕方がない。
ウトウトと天井の照明を見ていたその時、ピロンと音が鳴ってスマホが揺れた。
急に眼が覚めてスマホを探す。さっきどこかに放り投げた記憶を辿ってタオルケットを捲った。
画面の通知欄には名前を変更し忘れていた『花月 彩葉』というアカウントが映っていた。
『今日は行けなくてすみません! 今度絶対にまた行きます!』
相変わらず悪くも無いのに謝っている。いや、人によっては悪いと思うこともあるのかもしれない。
まあ一旦そこはスルーした。返事が来て嬉しい気持ちの方が勝っている。
『本当に大丈夫です! また待ってますから!』
文章の中の自分はとても気さくに見える。しかし!マークを付け過ぎではないだろうか。今までに送った文章、全てに付いているとなると最早怪しい気もする。
『本当にすみませんでした! カフェの件も、栞の事も……』
『あっ栞っていうのは背の高い子です!』
でも彼女もいっぱい付けているし、最近の若者たちの間ではそんなにおかしなことでもないのかもしれない。
そんなことより、あの人はやっぱり栞というらしい。最後に花月さんがそう呼んでいたのが聞こえた。
『いえ、気になりませんでした!』
ここは!マークを付けなくてもよかったかもしれない。これでは声が大きい人みたいだ。
『栞も本当はいい子なんです。昔にちょっと男の子といざこざがあってあんな感じですけど……』
……聞きたくない。
答えによっては辛いのは俺だ。
……でも、その義務はあると思う。
『いじめとかですか?』
『はい。小学生の時に背が高いからって、男子にいじめられることがあったんです』
嗚呼。合っていて欲しくない事ほどよく当たってしまう。
いじめなんて、身近にあるものなんだからどこで被害者と邂逅するか分からない。
しかしここであって欲しく無かった。
花月さんの友達にいて欲しく無かった。
『なるほど。じゃあこっちからもあんまり近づかないようにします。』
苦い顔でそんな文章を送ってしまった。苦い顔をすれば罪悪感を感じているようで楽だから。
『でもちゃんと話せば、栞も分かってくれると思うんです。髙木くんがいい人だってこと!』
胸が痛い。
頭が痛い。
ああ。そんなんじゃないんだ、花月さん。俺はいい人なんかじゃない。
特に、栞さんみたいな人にとっては尚更。
だから、そんな過大評価を俺に下さないで欲しい。
だって俺は、俺だって、人間なのだから。




