第五話 心臓での邂逅
「髙木おはよー。やっぱ包帯やべー。これ、痛いん?」
「腕はまあ大した傷も無いしそんなに。ちょっとは痛いけどな。でもやっぱ一番キツいのは口の中かも。」
朝から隣のクラスの男子に絡まれる。まあそこそこ仲は良いし、高校生男子にクラス間の壁なんて存在しないも同然だ。
「ゆーーーーーたーろっ!! おはよー!」
突如背後から肩を組まれて少しよろめいた。鼓膜が破られそうな大声に耳がキーンと震える。
「あ、明……あんま耳元で叫ぶな……」
「うえっ!? ご、ごめん!」
優太朗はしかめ面を浮かべながら、明と教室に入った。
いつも通り前嗣はスマホを弄っている。あれで目が悪くないのはシンプルにズルいと思った。
「前嗣ー!! おはよー!」
「……おはよ。髙木は相変わらずだね。」
「あはは……まあ、そう簡単には治んねーわ。」
腕の包帯は今日も痛々しい腕を隠してくれている。擦り傷は瘡蓋や痕になってきて、青なじみも結構薄くなってきた。
母は、若さってすごーいと目を輝かせていたので、やっぱり年齢は関係あるらしい。
額のガーゼや口内の傷のことを考えるとまだまだ完全復活までは程遠い。
しかし今日は気分がいい。
何故って?そんなの決まっているだろう。
学校が終われば彼女に、花月さんに会える。
それだけだ。
それだけでこんなにも世界が楽しく感じる。愉快に見える。
「……ーい。おーい。……優太朗? なんかニヤニヤしてどうした?」
「えっ!? に、ニヤニヤはしてないだろ!」
「いやどう見てもしてるだろ! してるよな、前嗣?」
「……してる。」
「してんの!?」
よもや自分が学校でもニヤニヤしてるなんて思わなかった。家でなら何度だって母に揶揄われたが。
「んで、なんかあったん? あ、まさか……」
「ち、ちげーよ! んなわけあるか……!」
「いやまだ何も言ってねーんだけど。」
あまりに焦って早とちりしてしまった。確かにまだ何にも言われていない。
「……どうせ恋とか彼女とか言うんだろ? 分かってるって。」
「? いや、ちげーけど。」
「ちげーの!?」
「うん。てっきりあざらし大海戦のSSRとか当たったんかなって。」
説明しよう。『あざらし大海戦』とはそこまで人気でもないスマホゲームである。密かに高校生の間で流行ってはいるが、二年六組の皆に聞いても優太朗と明以外にプレイしている人はいなかった。
因みに、一年生の時に優太朗と明が友達になったきっかけのゲームでもある。
「いや……それは本当に違う。」
「まあもし当ててたら普通に腹パンだったけどな!」
「まさかお前が怪我人の腹を殴れるほど非情な人間だったとは……」
正直な話をすれば、優太朗はここ数か月、一度もあのゲームをプレイしていない。フレンド機能などが無かったのが救いだった。もしあったら最終ログイン日時が表示されてしまう。
「……てか違うなら何なんだよー。」
「い、いや、本当に何でもな──」
「おーい髙木ー。うわっ、マジで包帯ばっかじゃんか!」
突如後ろから声をかけられて少し驚く。振り返ると、そこには別のクラスの男子、時田が立っていた。
「お、おう、どうした? 何か用?」
「いや? 用事自体は他のやつにあっただけ。髙木に会いに来たのはついで。」
「……もう何となく分かったんだけど。」
時田は去年創部されたばかりの男子バレー部に所属している。
俺たちが一年生の時、とある漫画に影響された生徒が多く存在し、約十人程度の男子バレー部を創り上げたそうだ。
「なー! 男バレ部入ってくれよー。怪我治ってからでいいからさー。」
「はあ……それだと思った。入んねえって。何回目だよ、これ。」
「いいだろー……背高いんだし、何より経験者なんだろ? 入らない理由がねーって!」
彼の言う通り、優太朗は中学生の頃にバレーボールのクラブチームに所属していた。何かスポーツをやりたいという意志はあったが、野球は怖く、サッカーは純粋にセンスが無かった。
せっかくなので身長を活かそうと、母が提案してくれたのがバレーボールだったのだ。
しかしそこそこ上手くなったところで辞めてしまった。
まあ、それでもこんな弱小高校のバレー部に入れば即戦力くらいの実力はあるだろう。
「優太朗ってバレーやってたん!? 俺ら、それ知らねーんだけど!?」
明は心底ビックリしたような顔をしていた。
そういえば言ったことが無かったかもしれない。
「あーうん。まあ、そんなに上手くねーけど。」
「嘘つけよ! 髙木のスパイク馬鹿みたいに打点高いだろ。トスも上手いし。」
何故こうも余計なことを言うのか。
ああ、マズい。明の目がどんどんと輝きだしている。もはやキラキラと音が聞こえそうなくらいだ。
「ゆーたろー! なんで教えてくんないんだよー!」
「いや隠してるつもりは無かったんだけど……」
急に時田に肩を組まれ、教室の外へと引きずられた。
「ちょっと髙木借りてくなー。他の男バレ部員もいるからー。」
「ちょっ!? と、時田!? 明! 助けて!」
「じゃーなー。時田ー、できるなら男バレ部入れといていいぞー!」
「オッケー!」
「明!? おい!」
文字通り引きずられていく優太朗を、明は手を振って見送る。
前嗣もそれを尻目に見ながら小さく手を振っていた。
やがて優太朗が見えなくなると、明は前嗣の方に向き直る。
「……やっぱ優太朗なんかあったよな!? 最近こんな話しかしてない気がするんだけど!」
「知らないよ……。そんなに気になる? そこまで言うなら本人に聞いてみればいいじゃん……。」
「聞いただろ! 聞いたけどなんか誤魔化されたじゃんか! ……まさか、本当に女が!?」
前嗣はジトッとした目つきで明を見たが、すぐにスマホに視線を戻して気にも留めないように指を動かした。
「またすぐそういうのに結びつける……。真堂でそんなことあると思う?」
「最初に恋とか言い出したのは優太朗だろ! ていうか優太朗が自分から恋とか言い出したの初めてじゃね!? やっぱ怪しいな……」
「……いいでしょ別に。髙木に彼女ができたって明に彼女が出来る訳じゃないんだし。」
「言いすぎだろ!? いや確かにそうだけど!」
明は、いつも通り辛辣な前嗣の肩を揺する。ぐらんぐらんと前嗣の首が前後に揺れ、その姿はぶっ壊れた赤べこのようだ。
「……でも良かったな! 優太朗、笑ってたぞ。悪いことがあった訳じゃないっぽいな!」
「……笑ってたっていうかニヤけてたけどね。」
「いいだろどっちでも! まあ、一旦安心した。これで後腐れなく図書委員の手伝い頼めるな!」
「……それを言うなら気兼ねなくでしょ。」
自信満々に難しい言葉を使った明は、ドヤ顔のまま少しずつ顔が赤くなっていく。
しかしその顔には確かに安堵があり、前嗣はそれを密かに悟っていた。
「はあ……やっと解放された……。結局ホームルームギリギリじゃんか……」
本当に疲れた。男バレ部員三人に囲まれて褒め殺しにされた。
背が高いやら、腕が長いやら、最終的にはまつ毛が長いとか言われた。まあ自分でもまつ毛は長い方だと自負しているが。
教室に入ると明が目の前にいた。恐らく向こうも俺を探しに来てくれたのだろう。
「あっ! 優太朗!」
「ん? どした?」
「今日の放課後の図書室掃除、手伝ってくんね!?」
明はこんな感じなのにまさかの図書委員に所属している。普通、雰囲気的に文化祭の実行委員とかだろう。いや、きっと本人もそっちの方が良かったのだろうが。
係決めの時、明は確か文化祭の実行委員に立候補していたと思う。うちのクラスは立候補者が多くて、結局明は図書委員に収まってしまったというわけだ。
まあこいつは、図書委員は図書委員でしっかり楽しんでいる。
「うん。いいぞ。」
「マジ!? 助かるー! 後で絶対ラーメン奢る! いや、それ以外でも奢る!」
いい笑顔だ。
花月さんのように色が得られる笑顔ではないが、見ていて気分のいい笑顔ではある。こういうのが見られるのなら、やはり掃除を手伝うくらい苦でもない。
「じゃあ放課後よろしく! 頑張ろうな! マジでありがとう!」
「おう。任せと……け……?」
ふと、頭の中に何かがよぎる。大切な何か。本来なら忘れるはずのない何かを……
「……!!! ちょ、ちょっと待っ──」
明を引き留めようとした瞬間、ホームルームのチャイムが鳴り響いた。それと同時に担任の生出が入ってきてしまう。
こうなってしまえば流石に席に着かなければならない。
いや、大丈夫だ。明は隣の席だし、いつでも言える機会ならある。
焦る必要はない。まだ大丈夫。
ごめん、やっぱ用事あったわって言うだけだ。そもそも俺は図書委員じゃないんだから断ったって大丈夫。
よし。休み時間に言おう。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「よーし優太朗! レッツゴー図書室!!」
言えなかった……。
情けない。一回請け負った手伝いを断るのは怖くてできなかった。
もしかしたら嫌われるかも、なんてありえない妄想をしてしまう。
純粋な明に対しても色眼鏡をかけている自分がまた少し嫌になった。まるで信用していないみたいだ。
「ああ……うん。」
「いってらっしゃーい。がんばってねー。」
叶采が綺麗な笑顔で手を振る。
「ん? お前らは行かねーの?」
「ごめん優太朗。おれ今日家の用事なんだー。前嗣も妹の迎えだってー。」
「……お前ら、逃げたな?」
訝しむようなジトッとした目つきで叶采の顔を覗き込む。
彼はてへへと声を出すくらいの笑みで応えた。
「……はぁ。行ってくる。……じゃあな。」
「また明日ねー!」
「…………………また明日……!」
ただ、自信を持ってそう言えるのが嬉しかった。
これも花月さんのおかげ。どれだけのものを貰ってしまうのだろう。
今日も、帰ってから……会えたら……また何か……いや、帰るころにはいないかな。
廊下を歩きながら明の話を左耳から右耳へと一直線に貫通させながらそんなことを考えていた。
「なあ、優太朗? 聞いてる?」
「明、今日の図書室掃除って何時頃終わる予定?」
「へ? 急に? ……うーん全クラスから図書委員来るし、多分一時間くらいじゃね?」
即座にスマホを開いて時間を確認する。
午後四時二分。学校から駅までの距離や、電車の待ち時間などを考えれば家に着くのは六時過ぎくらいだろうか。
こないだは八時近くまで居たというし、きっと会える。でもあんなことがあった後で暗闇の中を歩きたくはないだろうし、明るいうちに帰ってしまうかも。せめて挨拶くらいはしたいな……。
「何ー? 何か用事あるの? なら別に帰ってもいいぞ! 元々俺の仕事だしな!」
正直かなり迷った。一度いいと言ったことを撤回するのはなんか嫌だ。でも花月さんに会いたい。
どっちを取ってもそこまで悪い結果にはならないと思う。明も花月さんも良い人だ。あとで謝れば……大丈夫なはず……なのだが……。
この時の俺はきっと少し変だったのだと思う。今までだったら適当に選んでいた選択も、今はもっと考えてしまう。こんな考え、生まれるはずもなかった。いや、気づくはずもなかったのだ。
どっちも取りたい、なんて。
あの夜、少しだけ欲張ったのが悪い方に進んでしまった気がする。
欲しいものが鮮明に見えるようになってしまった。
もしかしたらこれからずっとこんな感じなのかもしれないと思うと、少しこれからの人生を憂いてしまう。
ちょっとした選択のたびにこんなに迷っていたら大変だ。
「……いや、何でもない。図書室行こ。ちゃっちゃと終わらせよう。」
小さく微笑んで、ただそう言った。
何故だか明は少し目を見開いている。そんなに変なことを言っただろうか。
「……優太朗……ほんとに大丈夫か?」
「えっ、なんで? 本当に大丈夫だけど……」
「いや……なんか一瞬変に感じたから……まあ今は普通だけど。」
「え、怖。何? なんか憑いてる?」
「……まあいっか! ほら、もうすぐそこだぞ図書室!」
特別棟の角を曲がると既に図書室の室名札が見えている。明は容赦なく扉を開けて中に入ってしまった。
「失礼しまーす!」
しかし、その声は図書室に寂しく木霊した。
少し遅れた優太朗が図書室を覗き込むと、中には恥ずかしそうに白目を剥く明がいた。そしてきっちりと並んで座って話している女子生徒たちに、恐らく年少だからと気張って早く来た一年生たちが、話し相手もおらず気まずそうに縮こまっている。
明が知っているような二年や三年の男子たちの背中は見えなかった。
「……まあ、なんというか……ドンマイ。大丈夫、皆全然気にしてないと思うぞ。」
「……別にいいし。元気な挨拶は大事だろー!」
空元気を張る明と共に席に着き、軽く駄弁りながら先生を待った。
知った顔もちらほらと増えてきて、恐らく全員が揃ったあたりで司書教諭が現れる。
先生が何か説明している間も、優太朗は頬杖をついて窓の外をボーッと眺めていた。
どうしても意識が傾いてしまうのは許してほしい。
それだけ大きな存在だったのだから。
フッと隣にいる明の横顔を見る。
天秤にかけるわけでは無いが、明もとても大きな存在だ。高一の頃の尖っていた俺に諦めず話しかけてきてくれたのだから、それだけで感謝している。
おかげで友達は増えたし、毎日がそこそこ楽しくなった。
……俺は、こいつに報いることができているだろうか。
ダメだ、変なことを考えてしまう。花月さんの事とか、どっちが大事とか、気づいてしまった欲とか、色んなことを考えすぎて頭が回らない。説明にも集中できない。
考えることをやめれば、人は葦も同然だ。しかし考えすぎれば脳の重さに心が耐えられなくなる。
……とりあえず、今はいいか。あとで色々整理しよう。
頭の中ではそんなふうに考えながらも、結局説明が終わっても先生の言葉は何一つ記憶に残っていなかった。
「はあ…………」
「優太朗ー。俺眠くて全然説明聞いてなかったー。たすけてー。」
「いや俺も聞いてなかったわ……すまん。誰かに聞かねえと……」
このままでは二年六組の沽券に関わる。流石に与えられた仕事はきちんとこなさなければ。
とりあえず他の二年男子に尋ねてみよう。
「ごめん、平形。俺ら話聞いてなくて……何したらいいんだ?」
「ん-? あれ? 髙木じゃん。なんでいんの? 六組の図書委員って明じゃなかったっけ?」
「優太朗は助っ人! 七五三掛先生、呼べるならできるだけ助っ人呼んで来いって言ってただろー? だから探したんだけど優太朗しか来てくれんかった!」
またもや背後から明に肩を組まれ、耳元で大きな声が響く。いい加減自分の声量を把握して欲しいなどと思いながらも、うんうんと頷いた。
「なるほどなー。五組はそもそも探してすらないわ。えっとな? まずは本を全部出して……」
彼はかなりしっかりと話を聞いていたようで、掃除の順序、エリアの割り当て、片付けまでメモを見せながら教えてくれた。
平形ってこんなに真面目な奴だったのかと少し驚きながらも、優太朗は辺りを見渡す。
「……これ全部出すのか? 結構時間かかりそうだけど……。それに、片すのだって本の並びとか覚えてるわけねーし……」
「いや流石に本の並びなんて先生も覚えてないだろー。背表紙に本棚のアルファベットと番号が振られてるんだってよ。だから適当に全部出しても大丈夫!」
なるほど。まあそれくらいの手は打ってあって当然だ。でなければ返した本を元の場所に並べるのですら激ムズ作業になってしまう。
明はよく分かっていないような顔で間抜けそうに口を開いた。
「……じゃあとりあえず本を全部出せばいいんだな? なら簡単だな! よーし!」
学ランを脱ぎ捨てて椅子に掛け、ワイシャツの袖をまくる姿は何故かとても頼もしい。
きっとさっき説明されたことの半分も理解できていないだろうに。
「……まあ、そんなに難しいことはねーし……さっさと終わらそうぜ。」
「そーだな。髙木は背高いし、役に立つ! 明は適任見つけてきたなー!」
それぞれ持ち場について本を次々と本棚から出していく。長机に次々と書物が積み上げられていくのを見ていると、ふと年末を思い出した。
『BRANCH』だって一応カフェなので年に数回大掃除をする。
休業日を作って本棚の中身をひっくり返すそうだが、優太朗は年末しか手伝ったことがない。
まさか学校でもこんな量の本に囲まれることになろうとは。昔ほど活字に興味を持って毎日を過ごしているわけでは無いが、こう毎日書物に接しているとこれが自分の運命なのかと勘違いしてしまう。
天職は本屋だろうか。それとも図書館員?意外と編集者かもしれない。
……いや、そんなのありえない。俺は何にもなれないだろう。
なにせ、具体的な夢なんて何も無い。漠然と皆のためになりたいなんて思ってはいるが、もはやそのモチベーションも失せてしまった。
「はぁ……」
大きなため息を吐いて、分厚い小説を机の上に置く。周りの図書委員たちの話し声が何故か遠くに感じられた。
明は楽しそうに笑みを浮かべながら次々に本を運んでいる。
あんな風に、何でも楽しそうにできたら人生がどれだけ明るい事か。
皆のためなんて、偽善に過ぎない。まるで利他主義者かのように気取っているくせに、その正体は感謝や笑顔という檻に囲われた囚人だ。
まさに『二兎追う者は一兎をも得ず』だ。
まったく、先人というのはどうして未来に生きる者の心を的確に突いてくるのか。
思えば今日の欲張りだってこの言葉に刺されている。
明からの信頼を選ぶか、花月さんとの対話を選ぶか。
そんなに悩むようなことじゃない。どちらも、謝ればそれ以上責めてくるような人じゃない。
けれど俺は二兎を追いたいって思ったし、今回の選択では少なくとも一兎は得られている。
ああもう、またこんなにぐちゃぐちゃと考えてしまう。
これが所謂、多感な時期というやつだろうか。
もういい。頭を空っぽにしよう。『二兎追う者は一兎をも得ず』が素晴らしく的を射ている言葉だという事だけ覚えてればいい。
だいぶ本棚に隙が見られるようになってきた。よく見ると奥の方には埃が溜まっており、掃除の必要性を強く感じられる。
「……明、この本棚は後任せていいか? 隣やってくる。」
「おー! 後は軽そうなのばっかだし大丈夫だぜー!」
軽く頷いて隣の本棚に向かう。埃が舞っているからか鼻がムズムズしてしょうがない。
「……これ、一時間で終わるのか?」
推理小説の本棚を見ながら小さくそう呟いた。
ついさっきまで色々と無意味な考えを巡らせながら空っぽにした本棚と同じ規模のものがまだまだ残っている。
このままでは、恐らく家に帰るころには花月さんは帰ってしまっているだろう。
やはり、二兎を得られる場合なんてそんなに無いらしい。
上手い話は無いものである。
「はあ…………」
となると次に花月さんに会えるのはいつだろう。数日後かな。でも(推定)中学生の彼女にそんな余裕があるだろうか。中学生なんて金銭的にも時間的にもキツい時期だ。
そんなことを考えながら無心で本を取り出していく。腕いっぱいに抱えた本を一度机の上に置いて、再び本棚に戻る。
ふと、ある小説が目に入った。ここ数日、よく見たシリーズ。強く印象に残っている。
これ、こんなに人気なのか……?高校の図書室に置いてあるほど?まあ確かに面白かったが……。
本棚に並ぶ『珈琲味の出会い』に向かって手を伸ばす。
しかし次の瞬間、視界外から飛び出してきた細い指とこちらの手が接触してしまった。ラブコメならここから恋でも始まるようなシチュエーションだ。
だがここは現実なうえ、真堂高校では男女の関りは存在するだけで異質だ。そんなロマンチックな展開は無い。
「「す、すみません!」」
二つの声が重なり、優太朗は左に顔を向けた。
しかしそこには誰もおらず、視界の下から伸びている腕だけがあった。
最近、同じようなことがあった気がするがきっと気のせいだ。
顔を下に向けると可憐な顔がこちらを見上げている。
すまない。的を射ているというのは撤回しよう。『二兎追う者は一兎をも得ず』だって?誰だそんな嘘を世界にばら撒いたのは。
嘘じゃない?いいや、そんなはずがない。正しい言葉だというのなら、今のこの状況を上手く説明してみて欲しい。
なぜ今、俺の目の前には花月さんの顔があるのか説明してみて欲しい。
ドッペルゲンガーというやつだろうか。まさかこんなに近くにいるなんて。
顔を合わせたら死ぬというのは本当だろうか。だとしたら絶対に合わせてはいけない。
「……た、髙木さん……?」
なぜドッペルゲンガーが俺の名前を知っているのだろう。
なぜ目の前の彼女は心底驚いたような顔でこちらを見上げているのだろう。
疑問は尽きない。しかし一つの大きな謎は消えた。
彼女はドッペルゲンガーなどでは無く──
「「え、え、ええええええええぇぇっっっ!?!?」」
──本物の、花月さんなのだと。




