三春と慎太郎の話9
「キ……」
まさかの言葉に心臓がドコドコと暴れ出した。「キス」という言葉を思い浮かべるだけで目の前が真っ赤になって頭がクラクラする。
(き、キスを、僕と慎兄さんが……?)
もちろんキスなんて誰ともしたことない。だけど想像したことならある。
恋愛小説を読むたびに「これが僕と慎兄さんだったらな」なんて妄想したりした。こんなことを考える自分はおかしいのかもしれない、そう思ったこともあった。でも、壱夜兄さんと靜佳が付き合っているって聞いておかしくないんだと思った。現実には起こり得ないことだとわかっていてもifの世界を妄想せずにはいられなかった。
(高校のときは最後に見た高校生の慎兄さんを想像しながらめちゃくちゃ妄想したっけ)
手を繋いだりハグしたり、したことのないキスだって何度も想像した。そのことが急に蘇って「わーっ」と叫びたくなった。妄想するたびに体が熱くなったことまで思い出して居たたまれなくなる。
「キスしたくない?」
「し、したいです!」
食い気味に答えた僕に慎兄さんが驚いたように目を見開いた。しまったと思ってすぐに「ええと、その、あの」と言い訳しようとしたものの言葉が出てこない。
(だって、こんなチャンスもうないかもと思ったから……!)
きっとエッチな奴だと思われたに違いない。それは間違いないけど、僕だってずっと我慢してきたんだ。好きだという気持ちを抑えつけていた時間が長いぶん、焦る気持ちが勝手に強くなっていく。
したいと言ったものの、どうすればいいのかわからない。視線をさまよわせていると慎兄さんの指が唇をスルッと撫でた。
「んっ」
「はは、可愛い」
「慎に、」
からかわれたんだと思った。僕はこんなに必死なのにと訴えたくて名前を呼ぼうとした。だけどできなかった。
熱くて柔らかいものが唇に触れて息が止まる。慌てて目を瞑ると唇に感じる熱や柔らかさが一気に鮮明になった。
(慎兄さんと、キス、してる)
小説を読みながら思い浮かべたどんな妄想とも違った。慎兄さんの唇はとても柔らかくて、それにすごく熱い。近くにいるからか香水のいい匂いがたくさん鼻から入ってくる。どうしよう、心臓がバクバクして破れてしまいそうだ。それでもキスを続けたくて必死に目を瞑った。
慎兄さんがはむっと下唇を噛んだ。驚いて少しだけ唇を開けると上唇もはむっと噛まれて耳の後ろがじんじんしてくる。チュッチュッと聞こえてくる音は恥ずかしいのに、それ以上に気持ちがよくて頭がぼんやりしてしてきた。
(どうしよう……頭も体も溶けてしまいそう……)
どこもかしこもトロトロになった気がした。おまけに体の奥が痺れたようにジンジンする。これまでいろんな恋愛小説を読んできたけど、こんなふうになるなんて書いてなかった。気持ちがよくて嬉しくて、頭がフワフワしたり心臓がドコドコしたり、キスってなんて大変なんだろう。
(ちょっと息苦しいけど、でもやめたくない)
そう思っていたのに慎兄さんの唇が離れてしまった。残念に思っていると「約束なんてするんじゃなかったな」とつぶやく声が聞こえてくる。
そうっと目を開けるとすぐそばに慎兄さんの顔があった。さっきまでキスしていた唇が目に入り、心臓がドクン! と飛び跳ねる。
(もっとキスしたい)
そんなことを思うなんて僕はどうしてしまったんだろう。「何考えてんだ」と思っているのにキスがしたくてたまらない。
口に出すのが恥ずかしくて、代わりに唇を突き出した。いつもの僕ならこんな恥ずかしいことは絶対にやらない。それなのに体が勝手に動いてしまう。
「一種の拷問だな」
声が聞こえたあと、唇にまた柔らかいものがチュッとくっついた。気持ちがよくて「もっと、もっと」とクッションを抱きしめながら身を乗り出す。
(どうしよう、すごく気持ちいい……キスがこんなに気持ちいいなんて知らなかった)
僕は初めてのキスに夢中になった。もっとくっつきたくてクッションを掴んでいた手を離し、慎兄さんの腕を掴む。
「んふ」
下唇を強く吸われて声が漏れた。自分でも聞いたことがない甘えるような声に耳が熱くなる。それでもキスを続けたくてすがるように腕を掴む手に力を込めた。
慎兄さんの手が僕の頬を撫でた。「大丈夫、落ち着いて」と言うように何度か撫でた指が耳たぶをふにっと摘み、そのまま熱くて柔らかい唇がゆっくり離れていく。
「慎、に、さん」
唇が痺れてうまく話せない。それでももっとキスしたいと言いたくて目で必死に訴えた。
「あー……これは間違いなく拷問だな。まさかこんなに可愛くおねだりされるなんて思わないだろ。でもここで焦るわけにはいかない。それにここで手を出したら間違いなく二海たちに殺される」
「ふたみ、にいさん……?」
慎兄さんのつぶやく声は小さくて、かろうじて聞き取れたのは二海兄さんの名前だけだった。兄さんがどうしたんだろうと見つめると「なんでもないよ」と微笑み返される。
「それよりご飯にしようか。パスタならすぐに用意できるよ。ソースはたらことカルボナーラがあるけど、どっちがいい?」
ご飯の話が出たということは、もうキスは終わりということだ。思わず「ご飯なんて後でいいのに」と思ってしまった自分が恥ずかしい。
「じゃあ、カルボナーラで……」
「了解」
慎兄さんがソファから立ち上がった。袖をまくりながらキッチンに向かう後ろ姿を名残惜しい気持ちで見つめていると、視線に気づいたのか慎兄さんがくりると振り返る。
「今夜泊まっていく?」
「えっ?」
「よかったらだけど」
まさかの提案に心臓がまたうるさくなってきた。
(どどどどどうしよう)
そんなことを思いながらも心の中は決まっていた。僕だってもっと一緒にいたい。せっかく両思いになれたのに、ご飯だけで今日が終わりなんて残念すぎる。キスだって本当はもっとしたい。
「と、泊まりたいです」
前のめりになりながらそう答えると、慎兄さんが目を細めて笑った。
(ちょっとは遠慮したほうがよかったのかな)
それとも僕がもっとキスしたいと思っていることに気づかれてしまったんだろうか。僕があまりにエッチな奴で呆れてしまったのかもしれない。
(でも、いつまで好きでいてくれるかわからないし……)
それならいまのうちにしたかったことを全部しておきたいと思った。こうして慎兄さんの部屋に来ることもそうだし、一緒にご飯を食べたり出かけたりもしたい。でも、一番したかったのはお泊まりだ。部屋に泊まるなんて、まさに恋人! って感じがしてずっと憧れていたんだ。
「あの、本当に泊まっていいんですか?」と尋ねると「もちろん」と返されて内心「やった」とガッツポーズをした。
「泊まるなら壱夜さんに連絡しておいたほうがいいよ。黙ったままだときっとすごく心配するだろうから」
何度も頷いてからスマホを取り出した。
(今夜は、慎兄さんの家に、泊まります……っと)
メッセージを入力しながら自分の大胆さに改めて驚く。
(こんなに積極的になったの、生まれて初めてかも)
これもきっと恋人になったからだ。
(恋人……僕と慎兄さんが恋人……)
頭のてっぺんからプシュッと湯気が出た気がした。「夢じゃないよね」と思いながら自分の唇を触る。指先でちょんと触れただけなのにジンジンして慌てて指を引っ込めた。それでも慎兄さんとキスしたんだと実感したくてもう一度触ってみる。
思っていたより熱い。それに少し腫れぼったくなっているような気がした。
(夢なんかじゃない。僕は慎兄さんとキスしたんだ)
しかも恋人のキスだ。嬉しくて顔がニマニマしてきた。「ふへへ」と笑っているとピロンという音がして慌てて画面を見る。
『慎太郎にはメッセージ送っておいたから』
メッセージは二海兄さんからのものだ。僕宛じゃなく壱夜兄さん宛に違いない。慎兄さんの部屋に泊まるというメッセージは兄弟のグループメッセージで送ったから、先に二海兄さんが気づいたのだろう。
(っていうか、慎兄さんにメッセージって何を送ったんだろう)
セーラー服の写真が頭に浮かんだ。また変なものを送ってなければいいけどと思いながら眉間に皺を寄せる。
(二海兄さんにはちゃんと言っておかないと)
そんなことを考えながらしばらくスマホの画面を見ていたけど、結局壱夜兄さんからの返事はなかった。二海兄さんが駄目だと言わなかったから大丈夫だとは思うけど少し気になる。
(もう一度メッセージ送ったほうがいいかな)
そう思ってあれこれ文面を考えていたけど、「パスタできたよ」いう声がして慌てて顔を上げた。そのまま食事をしている間に壱夜兄さんのことはすっかり忘れてしまい、僕は生まれて初めて恋人と過ごす夜を堪能することに夢中になった。




