三春と慎太郎の話5
慎兄さんに髪を切ってもらってから半月ぐらいが経った。少しだけ髪が伸びたような気はするけど、色は慎兄さんが言っていたみたいに「抜けて明るくなる」という感じには見えない。
(初めて染めたから抜けてるかなんてわからないけど……いや、抜けてなんかない……はず)
色が抜けてしまったら染め直さないと変になるんだろうか。ということは、あのお洒落な美容院にまた行かないといけないということだ。「どうか色が変になる前におじさんの床屋に切りに行けますように」と心の中で祈った。
(そんなに気にするくらいなら美容院に行くほうがいいんだろうけど……)
わかっていてもお洒落なお店の雰囲気を思い出すだけで気が引けた。それに行くとしたら慎兄さんに連絡しないといけないわけで、それが一番難しい。
(そりゃあ、もう一回会えたらいいなとは思うけどさ)
僕が想像したとおり、あの日から毎日のように慎兄さんのことが頭に浮かんだ。本当は会いたくて仕方がない。何度かメッセージアプリを起動したこともある。そんなに会いたいならお店を覗きに行けばいい。
(……って、それができればこんなにモヤモヤしたりはしない)
未練がましく毎日慎兄さんのことを考えているくせに、僕は何も行動を起こせないままでいた。
鏡に映っていたかっこいい顔や、僕の頭を優しく洗ってくれた長い指の感触が何度も蘇る。僕を見ながら最後に「またおいで」って言ってくれた笑顔が忘れられない。思い出すたびにドキドキするのに、同じくらい胸が苦しくなる。
(こんなんだから注文を聞き間違えたりするんだ)
この前は立て続けに三回もミスしてしまった。そのたびに常連さんたちは「いいよ」と笑って許してくれるけど、それに甘えてしまっている自分が本当に嫌になる。
僕は壱夜兄さんと同じ喫茶店でアルバイトをしている。といっても出勤は週に二、三回くらいで忙しいときの助っ人みたいなものだ。だからといって気を抜いているわけじゃない。自分ではしっかり働こうと思っているのにいつも失敗してしまう。
(何をやっても駄目だな)
こんな自分が情けなくて、ついため息が漏れてしまった。
高校を卒業した後、僕は大学に行くでもなく就職するでもなく家で暇な時間を持て余していた。大学や専門学校に行くことを考えなかったわけじゃないけど、家から通えるところに行きたい学校がないこともあって進学は早々に諦めた。
(そもそも、やりたいことがないんだよなぁ)
僕は昔からこうだ。何かに夢中になることがあまりなくて、幼稚園のときから一人で本を読んでいることが多い子どもだった。
おまけに要領が悪いからか、いつも兄さんたちに助けてもらってばかりいる。喫茶店でのバイトも壱夜兄さんの勧めで働くようになったくらいで、その喫茶店だって靜佳のおじいさんのお店だから採用されたようなものだ。
高校を卒業したあと、一人暮らしをしてみたいと思ったこともあった。だけど料理はできないし掃除だって得意じゃない。そんな僕に一人暮らしができるとは思えずあっさりと諦めた。兄さんたちも口を揃えて「一人は危ない」と心配するから、この先も一人暮らしはできないような気がしている。
(父さんは好きなことをすればいいって言ってくれるけど……僕の好きなことってなんだろう)
翻訳の仕事で海外にいることが多い父さんは「そばで見守ってやれないから」と言って僕の気持ちをいつも尊重してくれる。「無理はしなくていい、ゆっくりやりたいことを探せばいい」とも言ってくれた。でも、その好きなことが僕には見つからない。
「好きなこと……好きなこと……慎兄さんのことはずっと好きだけど」
浮かんだ言葉に慌てて頭をブンブンと振った。
(そういうことじゃないだろ!)
父さんが言う「好きなこと」はそういうことじゃないのに、“好き”という言葉を思い浮かべるだけで慎兄さんの顔が浮かんでしまう。
(好きなこと……やりたいこと……いくら考えても何も思い浮かばない)
小さいときから好きなことといえば本を読むことくらいで、それ以外だと写真を撮るのは比較的好きかもしれない。写真といってもスマホで空や花、野良猫なんかを撮る程度だから仕事にしようなんて思ったことはなかった。父さんの影響もあって翻訳された本もたくさん読んできたけど、そういう仕事をしたいと思ったこともない。
僕が好きなことは仕事に繋がらないことばかりだ。二十二歳にもなった男がこんなだなんて、さすがに引くレベルのような気がする。
(こんなんで、この先ちゃんと生きていけるのかな)
これから先も壱夜兄さんに養ってもらうことになるんだろうか。そんなの、いくら弟でも情けなさすぎて自分でも嫌になる。
俯いているとピロンと着信音が聞こえた。テーブルに置いたままのスマホを見ると慎兄さんの名前が表示されている。
「えっ!? 慎兄さん!?」
慌ててメッセージアプリを開いた。表示されているのは間違いなく慎兄さんの名前だ。
(今日の夕方五時過ぎに会えないか、って……今日って……今日!?)
慌てて時計を見た。三時過ぎということは五時まで二時間もない。
(ええと、車で迎えに行くから……って、迎えにって、慎兄さんがうちまで来るってこと!?)
どうしよう、慎兄さんが家に来る。一瞬「無理!」と思ったものの、迎えに来てくれるのに断るのは悪い気がした。そもそも僕に会いたいなんてどういうことだろう。僕はメッセージを見ながらテーブルの前をウロウロと歩き回った。
(落ち着け僕。“会いたい”じゃなくて“会えないか”だ)
きっと何か用事があるに違いない。そうだ、会いたいんじゃなくて会わないといけない理由があるってことだ。
(……もしかして、髪の毛がどうなったか気にしてるのかもしれない)
結局あれから一度も慎兄さんに連絡していない。だから、その後どうなったか心配してくれているんじゃないだろうか。それなのに会うのを断るなんて最低だ。
(どうしよう、髪の毛なんてちゃんと整えたことないんだけど)
慎兄さんが切ってくれたのにボサボサ頭で会うことなんてできるはずがなかった。僕は慌てて洗面所に向かった。
洗面台の脇にある棚には兄さんたちが使っている整髪料なんかも置いてある。何種類もある中で、美容院でつけてもらったのと似た容器のものを選んでほんの少し指に取った。
(二海兄さんが何種類も持ってるのが不思議だったけど、今回は助かった)
指に付けたのはいいけど、どうやって髪につければいいのかわからない。「慎兄さんはどうしてたっけ」と思い出しながら髪を梳くようにサクサクと指を動かした。
(なんだかちっとも変わってない気がするけど……って、そうだ、服!)
いま着ているのは部屋着のスウェットだ。壱夜兄さんは「可愛いよ」なんて言ってくれるけど、こんな普段着で慎兄さんに会うわけにはいかない。
大急ぎで階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込んだ。そのままクローゼットに上半身を突っ込んで奥をゴソゴソと漁る。
(たしかここに……あった!)
まだ下ろしていなかった綺麗なままのシャツと、外行き用のデニムパンツを引っ張り出した。
(そういえば今日はずっと曇りだって言ってたから外はきっと寒いはず)
それなら裏側にボアがついたズボンのほうがいいかもしれない。持っていたデニムをベッドに放り投げて、チェック柄のズボンを引っ張り出した。見た目は普通のズボンだけど裏側がボアになっているからすごく暖かい。真冬に雪が降ったときも大丈夫だったから、これならきっと寒くないはず。
(寒いとトイレが気になるからさ)
慎兄さんと会うのにトイレのことばかり気にするのは恥ずかしすぎる。よし、このシャツとズボンにして、上にコートを着れば……。
(って、コートはまだ早いか)
もうすぐ十二月だけど冬の分厚いコートは早い気がする。それなら、このへんにたしか……あった。
(厚手のパーカーなら変じゃないよね)
念のためマフラーをすれば寒くない。もし暑くなったらマフラーを取って、寒くなったらグルグル巻きにすればいい。
選んだ服を念のためベッドに並べて確認した。うん、これならかっこいい慎兄さんの隣にいてもおかしくない……気がする。真っ白なパーカーは壱夜兄さんが選んでくれたものだし、「似合ってる」と何度も褒めてくれた。中身が冴えない僕なのは仕方がないとして、服だけでも変じゃないものを着たい。
(よし、これで大丈夫)
時計を見ると四時を少し過ぎたところだった。
「……あぁ!」
しまった、慎兄さんに返事をしていない。慌ててスマホを探したけどベッドにも机にも見当たらなかった。
(テーブルに置いたままだ!)
バタバタと階段を駆け下りてリビングに駆け込んだ。テーブルに僕のスマホが置きっぱなしになっている。返事を送ろうと掴むと、画面に慎兄さんからの新しいメッセージが表示されていることに気づいた。
(無理ならまた今度……って、無理じゃない!)
僕至上一番というくらの早さで、でも変な文章にならないように気をつけながらなんとか返事を送った。
急いで着替えて、去年のクリスマスに二海兄さんがくれたコーデュロイ生地のボディバッグに財布やハンカチを突っ込む。念のためにもう一度洗面所の鏡で髪を確認し、整髪料をもう少しだけ拝借してからサクサクと塗りつけた。パーカーを着てから前も後ろも姿見でチェックして、ボディバッグを肩にかけてからもクルクルと全身をチェックする。そんなことをしていたら玄関のチャイムが鳴った。
(き、来た!)
心臓が壊れるんじゃないかと心配になるくらいドキドキしながら、僕は大急ぎで玄関に走って行った。




