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「力加減は大丈夫?」
「はい、あの、大丈夫です」
受け答えがおかしくないか心配になったものの、すぐに気持ちがよくなって頭がボーッとしてくる。長い指でグーッと頭皮を揉まれるのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
最初は慎兄さんが触っていると思うだけで首のあたりがソワソワした。緊張して全身カチカチだったのに、いつの間にか気持ちがよくてウトウトしている。「慎兄さんが上手だからなんだろうな」と尊敬しつつ、気がついたらすっかり眠気に負けてしまっていた。
そんな僕に気づいたのか、慎兄さんは何も言わずに髪を洗ってくれた。長い指が優しく頭に触れるたびに、僕はフワフワした浮遊感と心地よさにうっとりした。
(何もかも初めてのことばっかりだけど……すごく気持ちいい……)
フワフワしたりウトウトしたり、ここがどこで何をしているのかわからなくなる。
「寝てる顔も可愛いなぁ。あーやばい、キスしたくなる」
近くで慎兄さんの囁くような声が聞こえる。
(……あれ……? 僕、眠って……?)
ゆっくり目を開けたら、慎兄さんに見下ろされていてびっくりした。一瞬夢かと思ったけど、そういえば頭を洗ってもらっていたんだっけと思い出す。
「気持ちよかった?」
「え、と……」
お湯の音が聞こえなくなっているということは“すぱ”というのは終わったんだろう。それなのに頭が暖かい。どういう状況かわからなくてキョロキョロと視線を動かす。
「ホットタオルしてるから、あと少し眠ってていいよ。終わったら起こしてあげるから」
「は、はい」
どうやら僕は完全に眠っていたらしい。恥ずかしくて小さい声で返事をしたら、慎兄さんがニコッと笑いかけてくれた。
(……笑顔がかっこよすぎてつらい……!)
慌てて目を瞑ったものの、ドキドキしているせいか今度は眠ることはなかった。
ホットタオルというのが終わったあと、席に戻ったら慎兄さんが首や肩を揉んでくれた。首に手が触れたときは一瞬ビクッとしてしまったけど、別に嫌だったわけじゃない。むしろ触られたことが嬉しくて顔まで真っ赤になってしまった。
(慎兄さんに触られるのはまだ緊張するけど、でもこうやって触られるの、嫌じゃない)
椅子に座ったときは緊張でガチガチだった。髪を切る前に「希望の長さとかある?」と聞かれても答えることすらできなかった。いつも行く床屋では毎回同じように切ってもらうだけだから長さなんて考えたこともない。何て答えればいいのか焦っていると「俺好みにしても平気?」と聞かれて思わず「はいっ」と答えていた。
(いま考えると、俺好みってすごい言葉だよね)
美容師ってみんなああいうことを言うんだろうか。そうだったとしても、慎兄さんに言われて嬉しくないはずがない。
(それにこんなにたくさん触ってもらったし……って、これじゃ変態みたいだ)
恥ずかしくて顔がますます熱くなる。髪を切るのも染めるのも、シャンプーするのもマッサージするのも全部慎兄さんがやってくれた。こんな贅沢な時間は二度とない。僕にとって一生の宝物ができた。
ドライヤーで乾かしてくれている慎兄さんを鏡越しにそっと見る。この顔もしっかり覚えておかなくてはと何度何度もも鏡を見た。
「乾かすときは手櫛でも綺麗にまとまるからね。こうやって根元からかき上げるみたいにして内側も乾かして……はい、終わり。内側をちょっとすいておいたから乾くのも早いはずだよ。せっかくだから少しだけ整髪料つけておこうか」
「は、はい」
お洒落な容器からクリーム状の整髪料を指で取るとサッサッと艶々の髪に塗る。慎兄さんの手が動くたびにいい匂いがしてまたうっとりした。普段整髪料を使うことがないから、それだけで急にお洒落になったような気になる。
「はい、完成」
改めて鏡を見た僕は、あまりにもお洒落な髪の毛にポカンとしてしまった。顔は同じなのに、もっさりした田舎者がちょっとだけ都会の人になったように見える。染めた髪もお洒落すぎて自分じゃないみたいだ。
「後ろはこんな感じね。ここではそんなに目立たない色味だけど、太陽に当たったら綺麗に見えるから」
合わせ鏡の中の後頭部には、黒い中に違う色の髪の毛が何本も入っている。慎兄さんいわく何とかという横文字の染め方らしく、全部を染めるよりずっとお洒落だ。
(タブレットで写真見せられたときはどうなるかと思ったけど、これなら変な目で見られないかな)
僕みたいな田舎者でもおかしくないように見えるなんて、やっぱり慎兄さんはすごい。
「時間が経ったら少し色が抜けて明るくなるけど、その頃は髪も伸びてるだろうしまた切りにおいで」
「え……?」
一瞬聞き逃してしまった。鏡の中の慎兄さんを見ると、「また俺が切ってあげるから」と言われてギョッとする。
「あ、あの、また、切りに来るんですか?」
思わずそんなことを口走ってしまい、慌てて「ええと、そうじゃなくて」と口ごもった。
(こんなこと言ったら失礼じゃないか!)
そう思っていても、こんなお洒落な美容院にまた来るなんて僕には無理だ。視線をウロウロさせていると、鏡の中の慎兄さんが「あはは」と笑った。
「三春くんは相変わらず遠慮がちだなぁ。急に連絡してくる二海とは大違いだ。もし俺に切られるのが嫌じゃなかったら、ぜひ来てほしい」
「そんな、嫌だなんて絶対に思わないです」
「よかった。それじゃあ連絡先交換しようか」
「え?」
「店に電話で予約してもらってもいいけど、俺がいないときもあるからね。直接メッセージもらったほうがありがたい」
「でも、あの、」
さすがにそこまでしてもらうのは迷惑じゃないだろうか。それに僕から慎兄さんに連絡なんてできるとは思えなかった。どんな文章を送ればいいか考えて考えて、結局送れないような気がする。そう思ったけど、会計のときに「スマホ貸してくれる?」と言われて慌てて渡してしまった。
こうして家族以外は数人しか登録していないメッセージアプリに、慎兄さんの連絡先が加わることになった。
いつもと違う髪型と初めて髪を染めたからか、帰り道は周囲の目が気になって仕方がなかった。同時に「慎兄さんに切ってもらった」なんて浮かれ足にもなる。それでも「あんな奴がなんであんな髪型を?」と思われているような気がした僕は、気がつけばいつもより早足に家へと向かっていた。
ようやく家にたどり着くと、ちょうど出かけようとしていた二海兄さんと玄関で鉢合わせた。
「おぉー、可愛いじゃん」
「可愛いって……」
僕が「ただいま」と言う前に「想像以上に可愛くなったな」なんて言われて、思わず呆れた顔になってしまう。
「な? 慎太郎に任せてよかっただろ?」
「それはまぁ、そう思うけど」
お洒落になりたいとは思っていないけど、慎兄さんにいろいろしてもらえたのは嬉しい。だって、こういうことでもない限り慎兄さんに近づける機会なんて僕にはないんだ。
「……なに?」
スニーカーを履きながら、二海兄さんがじっと僕を見ている。何だろうと思って声をかけたら「うーん、こりゃあかえってまずいかもなぁ」なんて言い出すから思わずムッとしてしまった。
「そりゃあ僕みたいな男にはこんなお洒落な髪、似合わないと思うけどさ。でも、勝手にあれこれ言ったのは二海兄さんだからね」
「違うって。可愛くなったのは当然として、これじゃ余計な虫まで寄って来そうだなって思っただけ」
「虫……?」
もしかして、最後につけてもらった整髪料に虫が寄って来るってことだろうか。たしかにいい匂いがしたから春なら虫が近寄ってきたかもしれない。でもいまは秋の終わりで、帰り道で虫に纏わり付かれるなんてことはなかった。
「二海兄さんって、たまに変なこと言うよな」と思いながら靴を脱いでいると「一応、気をつけろよ」とまた言われる。
「ま、諦められなかったのは慎太郎もだし、あいつが責任持ってくれんだろうけど」
「責任って何のこと?」
よくわからないことを言いながらドアを開けた二海兄さんにそう尋ねた。すると「おまえも兄貴も、ろくでもない輩にモテるってことだよ」と言いながらにやりと笑う。
「ちょっと、それじゃあ意味がわからない」
「心配すんな。おまえも兄貴と一緒で彼氏が守ってくれるだろうからさ。その彼氏が一番ろくでもねぇけどな」
「え? って、彼氏って、僕そんな人いないからね!」
「わーってるって。んじゃ俺、優美んとこ行ってくるから」
「鍵、ちゃんと締めとけよ」と言いながら二海兄さんが出て行った。夕方から優美ちゃんのところに行くということは泊まってくるってことなんだろう。
二海兄さんと優美ちゃんはつき合いが長いベテランカップルだ。優美ちゃんは小さいときからよく知っている幼馴染みで、僕や壱夜兄さんとも仲がいい。二人とももう二十九歳だし泊まることだってしょっちゅうある。
(結婚しないのかなぁ)
優美ちゃんは絶対に結婚したがっている。それなのに待たせっぱなしだなんて、二海兄さんはヘタレなんだろうか。鍵をかけながら、二海兄さんが最後に口にした言葉を思い出した。
(彼氏が守ってくれるって……そんなの、僕にいるわけないじゃんか)
そもそもなんで彼氏なんだ。彼女がいるかもしれないって思わないんだろうか。
(そりゃあ、僕はずっと慎兄さんしか見てなかったけどさ)
そのせいか、いままで女の子を好きになったことは一度もなかった。だからといって慎兄さんと付き合いたいなんて大それたことは思っていない。告白しようと思ったことももちろんなかった。
だって、相手は七歳も年上なんだ。それに慎兄さんは昔からすごくモテていたし、そんな慎兄さんが僕を親友の弟以上に見てくれるはずがない。
(わかってるけど、やっぱり諦めきれないっていうか……)
それでも慎兄さんが都会に行ったときに一度は諦めた。思い出すとつらくなるから、最初のうちはできるだけ思い出さないようにもした。ここ二、三年はようやく「懐かしいなぁ」なんて写真を眺めたりできるようになったけど、今日からまた少しだけつらくなるような気がする。
(だって、実際に会ったら昔の気持ちを思い出してしまうっていうか)
小学生のときは慎兄さんのことばかり考えていた。会うのは恥ずかしいのに会えないと悲しくなる。だから、いつもこっそり覗き見なんてことまでしていた。そんな僕に気づいた慎兄さんがニコッと微笑んでくれるのがたまらなく好きだった。
(そう、ずっとずっと好きだったんだ)
でも、好きなままでいても仕方がない。中学生になってそれがわかった。だから忘れようと努力した。それなのに今日会ってしまったせいで昔の気持ちが蘇ってしまった。
(しかも前よりもっと好きになってたなんて)
きっとずっと我慢してきたせいだ。“片思いだった人”は“いまでも一番好きな人”になってしまった。
(いまさらそんなこと思ってもどうにもならないのになぁ)
僕みたいな田舎者はかっこいい慎兄さんの隣にはふさわしくない。しかも僕は男で立派な大人でもない。
(壱夜兄さんみたいな大人の男だったら、少しは違ってたのかな)
壱夜兄さんは優しくて大人で、それに弟の僕から見ても綺麗な人だ。女性的じゃないのに、かっこいいっていうよりも綺麗って言葉が似合う大人の男だと思う。
(だから靜佳と付き合ってるって聞いたときも変だとは思わなかった)
むしろお似合いだと思った。靜佳は小学二年生のときに海外から引っ越してきた幼馴染みだ。生まれたときから海外暮らしだったからか、子ども心になんて大人っぽいんだろうと思ったのを覚えている。
そんな靜佳と壱夜兄さんは恋人だ。二十六歳と三十二歳なんてそれなりの年の差だと思うけど全然そんな感じがしない。むしろ大人の恋人という感じで素敵だなぁといつも思っている。
二海兄さんだってチャラチャラしているけど高校のときはイケメンで有名だった。ファンクラブもあったみたいだし、いまでもすぐナンパされるんだって優美ちゃんが嫉妬するくらいにはモテるらしい。
(それに比べて僕は……)
小さい頃から何をしても自信が持てなかった。年が離れているから兄さんたちは可愛がってくれたけど、外に出たらただの冴えない男でしかない。人見知りで社交的でもないし、そんなだからモテたことなんて一度もなかった。兄さんたちとばかり一緒にいたから友達と呼べる人もほとんどいない。
そんな僕がかっこよくてお洒落な慎兄さんと付き合うとか……。
(ないない)
あまりにもあり得なさすぎて思わずブンブンと頭を振った。
(そもそも幼稚園のときからずっと好きだったなんて、慎兄さんが知ったらドン引きだよ)
だから、僕がずっと好きだったってことは絶対に気づかれないようにしないと駄目だ。
「……髪、どうしようかなぁ」
慎兄さんは「また切りにおいで」と言ってくれたけど、僕から連絡することはできそうにない。今日いた三人のお客さんも想像どおりお洒落な感じで、働いている美容師の人たちもみんな素敵だった。そんなお店にまた行くのかと想像するだけで気後れしてしまう。
(うん、また行くなんて僕には無理だ)
おじさんにはびっくりされそうだけど、伸びてきたらいつもの床屋に行こう。何度か切っているうちにお洒落な色の部分もなくなるはず。そうしたらいつもの僕に戻って、そのうちお洒落な髪にしたことも忘れるに違いない。
せっかく連絡先を交換したけどメッセージを送ることはない気がする。わかっていたことなのに残念な気持ちもあって、スマホの画面をそっと撫でた。