83.月の向こう側
「――終わったのか?」
街の中央広間に降り立ったライルの背から飛び降りると、アレスは座り込んだライルから眠り続けるシェリルを下ろして抱き上げた。シェリルを抱いたまま、空からも見ていた街の破壊の痕をあらためて見回す。日は落ちて紅い月が辺りを照らし、破壊された噴水の水がその光を反射して石畳の上に流れ出している。広間に面した建物も幾棟か崩れ傾いて、周囲の建物のなかで一番高かった教会の鐘楼は崩れ落ち、磨かれた白い石材の破片を撒き散らして広場の中に横たわっている。教会の入口から灯りが漏れて、中で忙しく働く者達の声が微かに聞こえる。遠く街の北側に、まだ燃えて夜空を照らしている場所が幾つか見えた。
「どらごんてぃあー、恐怖ノ石ガ全テノ敵ヲ滅ボシタノダ。」
「あの蒼い宝石が……」
「マダ死ニキレヌ物モイルダロウ。ソノ槍デ慈悲ヲクレテヤレ。」
「色々と世話になったな。あんた、どうするんだ?」
「モウ往カネバナラヌ……ソノ者ヲ、頼ム。」
ライルは眠るシェリルの顔を覗きこむと、アレスに向き直った。
「サラバダ。」
「ああ、この人のことは任せて欲しい。」
自分達から少し離れてから飛び立とうとするライルを見送って、他にどんな言葉をかければいいのか、アレスはわからなかった。しばらく紅い月にシルエットを浮かべて飛ぶライルを見送って、それから教会に向かった。
あの月の有るところがこの世界の果てだ。この仮想現実の、擬似的なヒルベルト空間の果てがそこにある。ライルは月に向かって飛んでいた。いつまでもこの世界に存在することは許されないのを知っていた。今はもうない故郷の映像を目指して、飛び立つときに一度だけアレスとシェリルを振り返り、そのあとはただ飛び続ける。このまま有限の物理シミュレートが可能な範囲を飛び出して、己を消失させるつもりだった。
月を突き抜ければそれは訪れる。月の向こうには何もない。仮想を構成する様々な要素も、幾つかの無理数の近似値として使われたコーシー列の完備性も失われ、羽ばたきは意味を成さなくなるだろう。なぜならそこから先はどんな運動もベクトルの連続性は定義されず。その長さとノルムは意味を成さない。目前に迫った紅い月、その映像の荒らさにライルは悲しくなった。眼を閉じていようかと考えたが、開けたままでいることにした。――そしてその時がきて、ライルは消滅した。
あの月の有るところがこの世界の果て――イオンは窓から月を見上げていた。
イオンとゲルダはドラゴンが死んで消えたあと、二人の獣人にそれぞれ背負われてマジューレの店に戻った。二人とも戦いのあった場所で、気を失って倒れていたらしい。目覚めると、ゲルダは教会に行くと云ったきり、何も話さないでもう一度出ていった。イオンはずっと、窓から月を見ていた。助け出されたテスは意識を失ったまま、眼を覚まさない。ライルに助け出された女性が、彼を発見して手当てをしてくれたらしい。マジューレ親方は一階にいるらしい。今夜は何も作っていないのか、階下からは物音一つしない。イオンはテスの眠るベッドに腰かけたまま、じっと動かなかった。
あの月の有るところがこの世界の果て。牢獄の天井だ。軽い気持ちで手をだした、暇潰しで遊ぶゲームのはずだった。それが何故こんな所で悲しんで泣いているのだろう。あの月が世界の蓋の場所。ここから出られない。帰れない。
ナニワが死んだ。ミスフォーチュンが死んだ。鹿が死んで『亀裂』を封じる方法もなくなった。街は焼けて、他にも大勢死んだ。テスとシェリルは眠ったまま、眼を覚まさない。
眠るテスの顔を見てイオンは、自分もこのまま眠ってしまいたいと思った。眠って二度と眼が覚めないように、朝になる前に世界が止まっていたらいい。もしも世界が止まらずに朝が来て、自分の隣が空っぽだったら、夜中に眼を覚ましたら、テスが死のエフェクトを撒き散らして消えていくところだったら――耐えられない。
一言も喋らないで出ていったゲルダ。彼女はこの世界で酷い思いしかしていない。彼女の苦しみも終わって欲しい。
このまま眠って、朝が来る前に世界が止まってくれたらそれがいい。これ以上誰も苦しまない。いつか終わりが来るなら今夜がいい。月を見ながら、イオンがそう考えていたとき、
聞いたことのある、それでいて耳慣れない音がした。音と呼べないような、もしかしたらイオンにしか聞こえない音かもしれない。水の中に一滴、水滴が混ざりこんで溶け込んで行く、そんな気がした。それは音にさえならなかった小さな出来事で、微かな力の産声のようだった。
イオンは何かを感じて、インベントリから泪の宝石を取り出した。それを見て衝撃を受ける。泪の形の宝石は、白く染まって輝いていた。新しいドラゴンティアー、純白の石が生まれていた。
「イオン……」
声がした。振り向くとテスが眼を覚まして、よろめきながら無理に上半身を起こそうとしていた。イオンを見て青い顔のまま笑っていた。
「テス……」
テスは自分にすがり付いたイオンに腕を回して抱き止めた。イオンの握りしめたチェーンの先で光る、泪の宝石を指でつまんでみた。――これの音だ、俺を起こしたのは。テスは輝く白い石を指先でそっと撫でた。
「イオン、ちょっと出掛けようか。」
「そうね、どうしても世界を救わなきゃならないみたい。」
二人は立ち上がった。




