第9話 好きな人との初めてのデートなのに、出発前に幼馴染の言葉を待ってしまいました
日曜日の朝、午前七時十二分。
目を覚ました瞬間、私は何か大切な予定があることだけを先に思い出した。
まだ瞼は重く、頭も完全には起きていない。それなのに胸の奥だけが早く目覚めたように落ち着かず、布団の中で一度寝返りを打ったあと、私は勢いよく身体を起こした。
今日。
竹下くんと映画へ行く。
水戸駅北口で十二時に待ち合わせをして、先に昼食を食べる。それから十三時二十分の回で、私が見たかった恋愛映画を見る。
学校の食堂ではない。
教室でもない。
愛ちゃんや小野寺くんもいない。
二人だけで、学校の外を歩く。
そう考えた瞬間、眠気は完全に消えた。
「……今日なんだ」
分かっていたことを、声に出して確かめる。
枕元のスマートフォンを手に取り、画面をつけた。通知は二件あり、一件は昨夜遅くに愛ちゃんから届いた「寝坊するな」というスタンプだった。
もう一件は、午前六時四十八分に竹下くんから届いている。
『おはよう。今日よろしく。雨降るかもしれないから気をつけて来てね』
胸が温かくなる。
竹下くんも、今日のことを朝から考えてくれている。
私はすぐに返信画面を開いた。
『おはよう! こちらこそよろしく。傘もちゃんと持っていくね!』
送る前に、少しだけ悩む。
『楽しみにしてる』
付け加えてもいいだろうか。
昨日も何度か言っている。
しつこいと思われないだろうか。
でも、本当に楽しみだ。
私は短く息を吸い、文章を続けた。
『すごく楽しみにしてる!』
送信する。
すぐに既読はつかない。竹下くんも準備中なのだろう。
私はそのまま春斗とのトーク画面を開いた。
昨夜の最後のやり取りが残っている。
『でも春斗に見てほしい』
『明日だけ』
服を着たら、写真を送る。
約束した。
正確には、私が一方的に送ると言って、春斗が渋々受け入れただけかもしれない。それでも、見てもらえることが嬉しい。
竹下くんとのデートへ行く服なのに。
愛ちゃんに言われた。
好きな子が、別の男とのデートに着ていく服を見せてくる。
春斗にとっては、かなり苦しいことなのだろう。
それを分かっているのに、私は見てほしいと思っている。
「……やっぱり、送らない方がいいかな」
スマートフォンを膝へ置き、私は天井を見上げた。
送らなければ、春斗は少し楽かもしれない。
でも、昨日は送ると約束した。
送らなかったら、春斗はどう思うだろう。
竹下くんとの時間へ自分を入れるなと言ったのだから、むしろ安心するかもしれない。
それでも。
私が出かける前に、春斗へ何も言わないのは落ち着かなかった。
私はベッドから降りた。
まず準備をする。
送るかどうかは、そのあと考えればいい。
◇
午前七時四十分。
洗面所で顔を洗い、髪を整えていると、母が後ろから覗き込んできた。
「今日は随分早いね」
「起きちゃっただけ」
「日曜日なのに?」
「予定あるから」
「誰と?」
私は鏡越しに母を見る。
「友達」
「女の子?」
「……友達」
「その間は男の子ね」
「何で分かるの」
「真理が朝から髪を三回も梳かしてるから」
言われて、自分の手が止まる。
確かに、同じところを何度も梳かしていた。
「変?」
「変じゃないけど、やりすぎると髪が逃げるわよ」
「髪は逃げないよ」
「男の子は逃げるかもしれないけど」
「お母さん!」
声を上げると、母が楽しそうに笑った。
「竹下くん?」
最近、母も春斗のお母さんも、私が何かあるたび竹下くんの名前を出す。
「……うん」
誤魔化しても仕方がない。
「二人で?」
「うん」
「どこ行くの?」
「映画」
「デートじゃない」
「まだ分からない」
「二人で映画に行くなら、十分デートでしょう」
愛ちゃんにも、春斗にも同じことを言われた。
「昼も食べるの?」
「うん」
「帰りは?」
「まだ決めてない」
「何時くらいになる?」
「夕方までには帰ると思う」
「分かった。帰り遅くなりそうなら連絡してね」
「うん」
母はそれ以上からかわず、私の髪を少しだけ手で整えた。
「楽しんできなさい」
「……うん」
「でも、無理に良く見せようとしすぎないこと」
「何で?」
「普段の真理を好きになってもらわないと、ずっと疲れるから」
昨日、愛ちゃんにも似たことを言われた。
変に自分を作らない方がいい。
竹下くんは、今の私をもっと知りたいと言ってくれたのだから。
「分かった」
「あと、春斗くんには言ったの?」
突然名前が出て、私は鏡の中で目を見開いた。
「何で春斗?」
「いつも一緒だから。今日会わないのかなと思って」
「学校ないから会わないよ」
「連絡は?」
「……少し」
「竹下くんとのデートなのに?」
母の口元が少し緩む。
「服、見てもらう約束した」
「春斗くんに?」
「うん」
「それはまた、春斗くんも大変ね」
「お母さんまで同じこと言う」
「だってそうでしょう」
母は少し困ったように笑った。
「真理は、竹下くんに良く見られたいのよね」
「うん」
「でも春斗くんにも、可愛いって思われたい?」
言葉が詰まる。
「……分からない」
「可愛いって言ってほしいなら、そうなんじゃない?」
「愛ちゃんにも言われた」
「大杉さん、しっかりしてるわね」
「私よりね」
「それは昔からでしょう」
「ひどい」
母が笑う。
でも、そのあと私の顔をじっと見た。
「誰かを好きになるのは、悪いことじゃないよ」
「うん」
「気持ちが揺れるのも、すぐに悪いとは言えない」
「二人を好きかもしれないってこと?」
「それを決めるのは真理だから、お母さんには分からない。ただ、誰かの優しさに甘えたまま、ずっと待たせるのはよくないかもしれないね」
春斗の顔が浮かぶ。
好きだとは、まだはっきり言っていない。
それでも、もうほとんど分かっている。
春斗は待っているのだろうか。
私が自分の気持ちへ気づくのを。
それとも、竹下くんを選ぶのを。
「今日、答え出さなきゃ駄目かな」
「今日一日で決める必要はないでしょう」
「でも」
「今日は竹下くんと出かける日なんでしょう?」
「うん」
「なら、竹下くんをちゃんと見てくればいいじゃない」
母の言葉は、愛ちゃんと同じだった。
私は鏡の中の自分を見る。
竹下くんをちゃんと見る。
春斗のことを考えない、ではない。
竹下くんといる自分を、ちゃんと確かめる。
「分かった」
私はもう一度髪を整え、洗面所を出た。
◇
午前九時二十分。
私は自室の床へ服を広げていた。
昨日、愛ちゃんと決めた組み合わせ。
淡い水色のブラウス。
薄いベージュのロングスカート。
白いカーディガン。
靴は、普段よく履いている白いスニーカーにするか、少しきれいめな茶色のパンプスにするかで迷った。
映画館まで歩く。
駅周辺も歩くかもしれない。
パンプスで足が痛くなり、変な歩き方になるより、スニーカーの方がいい。
でも、スニーカーでは普段と変わらなすぎる気もする。
私は二足を並べ、何度も見比べた。
その途中で、愛ちゃんからメッセージが届く。
『起きてる?』
『起きてるよ』
『服着たら写真』
『春斗みたい』
『春くんにも送るんでしょ』
『まだ迷ってる』
『送らないの?』
『春斗、嫌かもしれないから』
少し間が空く。
『それを考えられるようになったのは進歩』
『褒められた?』
『少し』
『でも約束したなら、送っていいと思う』
『いいの?』
『春くんが本当に嫌なら、昨日断ってるよ』
『断れないだけかも』
『それもある』
「あるんだ」
思わず声に出す。
さらにメッセージが来る。
『だから、送るなら感想を強要しない』
『可愛いって言ってほしい』
『強要してる』
『やっぱり駄目?』
『今日は竹下くんに言ってもらいな』
それが一番自然だ。
竹下くんとのデートなのだから。
私は『分かった』と返し、服へ着替えた。
ブラウスの袖を通し、スカートのファスナーを上げる。白いカーディガンは、少し肌寒くなったときのために鞄へ入れることにした。
鏡の前へ立つ。
派手ではない。
でも、学校の制服姿とは違う。
いつもより少しだけ大人っぽく見える気がする。
髪は下ろしたまま、片側だけ小さなピンで留めた。
愛ちゃんに写真を送る。
すぐに返事が来た。
『いい!』
『本当?』
『可愛い。スニーカーの方が真理らしい』
『パンプスじゃなくていい?』
『歩きやすい方』
『分かった』
私は白いスニーカーを履くことに決めた。
次に、春斗とのトーク画面を開く。
写真を送るボタンへ触れる。
止まる。
送れば、春斗は見る。
そのあと、何と返してくれるだろう。
変じゃない。
普通。
大杉が選んだなら大丈夫。
たぶん、そのくらい。
可愛いとは言わないと言っていた。
それでも、少し期待している。
私は鏡の前でもう一枚、全身が分かる写真を撮った。
顔は少し緊張している。
撮り直す。
今度は不自然に笑ってしまった。
もう一度。
何枚も撮っている自分が恥ずかしくなる。
「竹下くんに送るんじゃないのに……」
小さく呟く。
結局、一番自然に見える写真を選んだ。
『約束の写真』
文章と一緒に送信する。
送った瞬間、胸が大きく鳴る。
既読はつかない。
春斗はまだ寝ているかもしれない。
日曜日の朝。
普段なら遅くまで寝ていることもある。
私はスマートフォンを机へ置き、鞄の中身を確認する。
財布。
ハンカチ。
ティッシュ。
折り畳み傘。
充電器。
映画の時間が分かるメッセージ。
何度確認しても、スマートフォンが気になる。
五分経つ。
既読はつかない。
十分。
まだ。
「……送らない方がよかったかな」
胸の中へ不安が広がる。
春斗は、竹下との時間に自分を入れるなと言った。
昨日は最後に「明日だけ」と許してくれたけれど、朝になってやっぱり嫌になったのかもしれない。
メッセージを取り消したくなる。
でも、既読がついていない状態で消したら、春斗は何を送ったのか気にするだろう。
私は我慢して待った。
午前九時四十七分。
既読。
身体が固まる。
返事は来ない。
一分。
二分。
三分。
心臓が落ち着かない。
「何でこんなに緊張してるの」
今日は竹下くんとの約束の日なのに。
待っているのは春斗の返事。
ようやく通知が鳴った。
『変じゃない』
予想通り。
私は少しだけ肩を落とした。
『それだけ?』
送る。
すぐに既読。
『約束は変じゃないかだけ見るって話だっただろ』
『可愛いかも見て』
『竹下に聞け』
『春斗にも聞きたい』
昨日と同じ。
自分でもしつこいと思う。
長い沈黙。
『今日は言わない』
返ってくる。
胸が沈む。
『どうして?』
『俺が言って、お前が喜んだまま竹下に会いに行くの嫌だから』
息を止めた。
春斗の本音。
可愛いと思っていないから言わないのではない。
言えば、私が喜ぶと分かっている。
その喜びを持ったまま、竹下くんのところへ行くのが嫌。
『春斗』
『何』
『可愛いと思った?』
『聞くな』
『思ったんだ』
『調子乗るな』
否定しない。
胸の奥が熱くなる。
嬉しい。
竹下くんとのデート前なのに、春斗に可愛いと思われたことが、こんなに嬉しい。
『ありがとう』
『言ってない』
『分かったから』
『分かるな』
『無理』
少し間が空く。
『楽しんでこい』
短い文章。
昨日も言われた。
でも今日は、その言葉の裏にある苦しさが分かる。
『うん』
返す。
それから、少し迷って。
『行ってきます』
送った。
すぐに返事が来る。
『まだ早いだろ』
思わず笑った。
『十一時前に出る』
『遅刻するな』
『しないよ』
『傘』
『持った』
『スマホの充電』
『百パーセント』
『財布』
『ある』
『定期』
『電車だからある』
『本当に?』
『お母さんみたい』
『心配して損した』
『ありがとう』
春斗から返事が来なくなる。
でも、もう不安ではなかった。
私はスマートフォンを胸元へ抱え、鏡の中の自分を見る。
春斗は可愛いと言わなかった。
でも、思ってくれた。
そのことが顔に出ている。
少し笑っている。
愛ちゃんが見たら、怒るだろうか。
今日は竹下くんをちゃんと見る日なのに。
出発前から、私は春斗の言葉で浮かれていた。
◇
午前十時四十八分。
玄関で靴を履いていると、母がリビングから出てきた。
「もう行くの?」
「少し早めに」
「待ち合わせ十二時でしょう?」
「電車遅れたら困るから」
「一時間以上早いけど」
「水戸駅で少し見たいものあるし」
本当は、家にいると落ち着かないだけだった。
「忘れ物は?」
「ない」
「傘は?」
「ある」
「財布は?」
「ある」
「春斗くんにも同じこと聞かれた?」
私は振り返る。
「何で分かるの」
「顔」
「もう嫌」
母が笑う。
「楽しんでおいで」
「うん」
「竹下くんにも、春斗くんにも、変な期待だけ持たせないようにね」
靴紐を結ぶ手が止まる。
「今日、竹下くんと出かけるだけだよ」
「だからこそでしょう」
「……」
「優しくするのと、曖昧にするのは違うから」
「分かってる」
本当は、まだ分かっていない。
私は春斗へ可愛いと思われたい。
でも竹下くんとももっと近づきたい。
どちらにも、自分を見てほしいと思っている。
それがどこまで許されるのか。
いつまでなら迷っていていいのか。
分からない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関を出る。
日差しは薄く、空には白い雲が広がっていた。雨が降りそうな重さはまだないが、風には少し湿り気がある。
駅までの道を歩きながら、私は何度もスマートフォンを確認した。
竹下くんから、新しいメッセージ。
『今から出る。少し早く着くかも』
私はすぐに返す。
『私も今出た!』
『じゃあ駅で』
『うん!』
胸が高鳴る。
いよいよ始まる。
◇
午前十一時二十二分。
水戸駅へ着いた。
日曜日の駅構内は、平日の朝とは違う賑わいに満ちていた。
家族連れ。
買い物へ向かう若い女性たち。
部活動の荷物を抱えた中高生。
旅行用の大きな鞄を引く人。
改札前では待ち合わせをする人々が行き交い、駅ビルの入口からは店内放送と明るい音楽が流れている。
私は北口へ向かいながら、何度も髪を触った。
乱れていない。
ブラウスも変ではない。
スカートも大丈夫。
鏡代わりになる窓へ映った自分を確認する。
春斗は、可愛いと思った。
思い出し、頬が熱くなる。
「駄目」
小さく呟く。
今日は竹下くんをちゃんと見る。
愛ちゃんにも、母にも言われた。
春斗の言葉を持ったまま竹下くんに会うのは、少し違う。
私は北口の時計が見える場所へ向かった。
まだ待ち合わせより三十分以上早い。
当然、竹下くんは来ていない。
私は近くのベンチへ座り、スマートフォンを確認した。
『駅着いた』
送るか迷う。
早く着きすぎたと思われるだろうか。
待ちきれなかったのがばれる。
でも、竹下くんも少し早く着くと言っていた。
『先に駅着いたよ。急がなくて大丈夫だからね』
送信。
すぐに既読がつく。
『早い! 俺もあと十分くらい』
あと十分。
急に緊張が強くなる。
私はベンチから立ち上がり、また座った。
スマートフォンの画面を見る。
竹下くんとのトーク画面。
今日の予定。
映画のチケット。
昼食。
その上へ、春斗から新しい通知が表示された。
『もう着いた?』
驚く。
春斗の方から聞いてきた。
『今水戸駅』
『早すぎ』
『春斗もお母さんと同じこと言う』
『待ち合わせ十二時だろ』
『竹下くんもあと十分で来る』
送ったあと、少し後悔する。
わざわざ言わなくてもよかった。
春斗は細かいことを聞きたくないと言っていた。
『そう』
返事は短い。
『春斗は何してるの?』
『家』
『本読んでる?』
『今から』
『そっか』
会話が止まる。
私は画面を見つめた。
今から竹下くんが来る。
それなのに、春斗との会話を終わらせたくないと思っている。
『真理』
春斗から来る。
『何?』
『もう連絡するな』
胸が痛む。
『迷惑?』
『違う』
『じゃあ何で』
『俺が返すから』
意味を理解するまで少し時間がかかった。
私が送れば、春斗は返してしまう。
竹下くんとの時間へ、自分から入り込んでしまう。
『分かった』
送る。
『終わったらでいい』
『うん』
『楽しんでこい』
また同じ言葉。
『行ってきます』
返す。
今度は『まだ早い』とは来なかった。
私はスマートフォンを鞄へ入れた。
春斗のことは、今だけ少し奥へ置く。
竹下くんが来る。
◇
「久保さん」
名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
北口の人の流れの向こうから、竹下くんが歩いてくる。
学校で見る制服姿ではない。
白いシャツの上に薄い紺色のジャケットを羽織り、黒いパンツを合わせている。足元は白いスニーカーで、肩には小さめのショルダーバッグを掛けていた。
髪も学校より少し整えている。
見慣れない姿に、胸が大きく鳴った。
「ごめん、待った?」
「ううん。私が早く来すぎただけ」
「本当に早いね」
「竹下くんも早いよ」
「待たせたくなかったから」
さらりと言う。
心臓がさらに忙しくなる。
「今日、その服」
竹下くんの視線が私のブラウスからスカートへ動く。
私は緊張で背筋を伸ばした。
「変?」
「全然」
少し間がある。
「似合ってる」
「本当?」
「うん。学校と雰囲気違う」
「どっちがいい?」
聞いてから、また同じことをしていると気づく。
春斗にも聞いた。
でも竹下くんは、少しも迷わず答えた。
「今日の方が可愛い」
息が止まる。
周囲の音が遠くなる。
「……え」
竹下くんも、言ったあとに少し恥ずかしくなったらしい。視線を逸らし、耳が赤くなる。
「いや、制服も似合ってるけど」
「うん」
「何か、今日はちゃんと出かける感じするから」
「うん」
「変な言い方だった?」
「ううん」
私は胸の前で鞄の持ち手を握る。
「嬉しい」
素直に言った。
竹下くんがこちらを見る。
少し照れたように笑う。
「良かった」
春斗は言ってくれなかった。
竹下くんは、ちゃんと言ってくれた。
今日の方が可愛い。
その言葉に、胸がはっきりと高鳴る。
これが恋なのだと思う。
好きな人に女の子として見てもらえた喜び。
分かりやすく、眩しい気持ち。
「竹下くんも」
「俺?」
「学校と違う」
「変?」
「格好いい」
言えた。
言った瞬間、顔が熱くなる。
竹下くんも目を見開いた。
「ありがとう」
声が少しだけ小さい。
二人とも、すぐに目を合わせられなくなる。
駅前を行き交う人々は、私たちのことなど気にしていない。それなのに、周囲全てへ会話を聞かれているような気がして、私は落ち着かなかった。
「じゃあ」
竹下くんが少し咳払いをする。
「昼食、先に行こうか」
「うん」
二人で駅ビルへ向かう。
隣を歩く。
学校の廊下では何度か並んだ。
食堂へ向かったこともある。
でも今日は、全く違う。
制服ではない。
学校の友人もいない。
竹下くんの歩幅が、私に合わせて少しゆっくりになっている。
「歩くの遅くない?」
「大丈夫」
「俺、普段速いって言われるから」
「今はちょうどいい」
「じゃあ良かった」
自然な気遣い。
胸が温かくなる。
私は今日、竹下くんをちゃんと見る。
そう決めていた。
だから、春斗のことは考えない。
そう思った直後。
竹下くんの歩幅が私へ合っていることに気づき、春斗は最初から何も言わず同じ速度で歩いていたな、と考えてしまった。
私は小さく首を振る。
「どうしたの?」
「何でもない」
「緊張してる?」
「少し」
「俺も」
「見えない」
「久保さんより顔に出ないから」
「またそれ」
二人で笑う。
少しずつ、緊張がほどけていった。
◇
昼食の店は、駅ビルの中にある明るい雰囲気のパスタ店だった。
入口には数組の客が並んでいたが、思ったほど待たずに店内へ案内された。
窓際の二人席。
向かい合って座る。
店内には休日らしい賑わいがあり、近くの席では若い女性たちが買い物袋を足元へ置いて話していた。少し離れた席には小さな子どもを連れた家族がおり、厨房からは食器の音と香ばしい匂いが流れてくる。
私はメニューを開いた。
「何にする?」
竹下くんが聞く。
「迷う」
「昨日パスタって言ってたのに?」
「パスタの中でも迷うの」
「なるほど」
「竹下くんは?」
「カルボナーラ」
「早い」
「大体決めてた」
「じゃあ私も」
「合わせなくていいよ」
「違う。私も気になってた」
「本当?」
「本当」
少し笑われる。
私は結局、明太子のクリームパスタにした。
注文を終えると、二人の間へ少しだけ沈黙が落ちる。
食堂では周囲に知り合いがいた。
今日は完全に二人。
何を話そう。
昨日まで考えていた話題が、一瞬で全部消える。
「久保さん」
「何?」
「今日、本当に来てくれてありがとう」
「こっちこそ誘ってくれてありがとう」
「急だったから、断られるかと思った」
「どうして?」
「月曜一緒に帰ろうって話してたのに、急に日曜誘ったから」
「嬉しかったよ」
「本当?」
「うん。すごく」
竹下くんが少し安心したように笑う。
「良かった」
「竹下くんは、何で映画に誘ってくれたの?」
聞いてから緊張する。
重い質問だったかもしれない。
竹下くんは少し考えた。
「昨日、もっと久保さんのこと知りたいって言ったでしょ」
「うん」
「学校だと、周りに人が多いから」
「確かに」
「それに、二人でいても楽しいか知りたかった」
胸が強く鳴る。
「……今は?」
「楽しいよ」
即答だった。
「まだ始まったばっかりだけど」
「私も楽しい」
「良かった」
竹下くんは少し照れたように水を飲んだ。
会話が少し途切れる。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
春斗とは、黙っていても気まずくない。
竹下くんとは、黙るたびに少し緊張する。
でも、その緊張も嫌ではない。
相手が何を考えているのか知りたい。
次に何を話してくれるのか待ちたい。
それは、まだ近くないからこその楽しさなのかもしれない。
「久保さんは」
竹下くんが口を開く。
「俺のどこを好きになったの?」
手にしていた水のグラスを落としそうになった。
「え!?」
「ごめん、急だった?」
「急すぎるよ!」
「昨日、俺のこと好きそうって言ったら、間違ってないって」
「聞き間違いって言った!」
「でも否定できてなかった」
「……」
竹下くんは思ったよりよく見ている。
私の顔が分かりやすすぎるだけかもしれない。
「嫌なら言わなくていい」
「嫌じゃないけど」
私は視線をテーブルへ落とす。
どこを好きになったのか。
最初は、サッカーをしている姿だった。
入学して間もない頃、体育の授業でグラウンドへ出たとき、サッカー部の練習が見えた。竹下くんはまだ正式な練習時間ではないのに、ボールを拾い、先輩へ返していた。
そのあと、転んだクラスメートへすぐに声をかけた。
誰にでも優しい。
話すと笑ってくれる。
自分の努力を大げさに語らない。
「最初は、サッカーしてるところ」
「やっぱり?」
「格好いいと思った」
「ありがとう」
「でも、それだけじゃないよ」
「うん」
「困ってる人がいたらすぐ助けるところとか、誰にでも同じように話すところとか」
「そんなにできた人じゃないよ」
「私にはそう見えた」
「久保さん、俺を良く見すぎてない?」
昨日から何度か言われている。
私は竹下くんを、恋をした側の目で見ている。
「少しはあるかも」
「正直」
「でも、今日もっと知ればいいんでしょ」
「うん」
「竹下くんも、私を良く見すぎてるかもしれないよ」
「それはない」
「何で即答?」
「分かりやすいから」
「また!」
竹下くんが笑う。
私も笑った。
ちょうど料理が運ばれてくる。
湯気の立つパスタ。
クリームの香り。
二人で手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
食べ始めると、さっきまでより会話が自然になった。
竹下くんの姉の話。
二人とも大学生で、弟の服へ口を出してくること。
今日の服も、姉の一人に「それで行け」と決められたらしい。
「自分で選んでないの?」
「最初はパーカーで行こうとした」
「そっちも見てみたかった」
「絶対今より普通だよ」
「竹下くんなら似合いそう」
「それ、何でも褒めてない?」
「本当に思ってる」
「久保さんに言われると、何か信じたくなる」
竹下くんが少し笑う。
私の胸も温かくなる。
「久保さんの服は、大杉さんが選んだ?」
「何で分かるの?」
「昨日、相談してる感じだったから」
「半分は愛ちゃん」
「半分?」
「……春斗にも、変じゃないかだけ見てもらった」
言ってしまった。
竹下くんの手が少し止まる。
表情は変わらない。
でも、空気がわずかに変わった。
「春斗くんに?」
「うん」
「今日の服を?」
「うん」
「何て言ってた?」
聞かれ、胸が詰まる。
変じゃない。
可愛いとは言わない。
でも、否定もしなかった。
「変じゃないって」
「それだけ?」
「……うん」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
竹下くんは少しだけ視線を落とした。
「久保さん、本当に春斗くんに何でも話すんだね」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「付き合ってるわけじゃないし」
その言葉が、少しだけ痛く聞こえた。
竹下くんはすぐに笑った。
「ただ、俺だったら少し気になるかな」
「やっぱり?」
「うん」
「嫌だった?」
「嫌っていうより」
竹下くんは言葉を選ぶ。
「今日、俺と出かけるための服なら、最初に俺が見たかったかも」
胸が締めつけられる。
正しい。
春斗にも言われた。
竹下とのデートへ着ていく服を、別の男に可愛いと言ってほしいのか。
「ごめん」
「だから謝らなくていい」
「でも、私」
「春斗くんのこと、大事なんだよね」
竹下くんの声は責めるものではなかった。
だから余計に、誤魔化せない。
「うん」
「幼馴染だから?」
昨日までなら、すぐにそう答えた。
今日は、言葉が止まる。
「……それだけじゃないかもしれない」
正直に言った。
竹下くんの表情が少しだけ硬くなる。
「そっか」
「でも、竹下くんが好きなのも本当」
「うん」
「今日も楽しみにしてた」
「うん」
「それは嘘じゃない」
「分かってる」
竹下くんは水を飲み、少し考えてから続ける。
「俺、急ぎすぎたかな」
「え?」
「久保さんが俺を好きそうだって分かって、嬉しくなった」
「……」
「だから、二人で昼食食べたり、映画誘ったりした」
「嬉しかったよ」
「でも、春斗くんのことも気になってるなら」
「ごめん」
「謝らないで」
竹下くんが少し困ったように笑う。
「俺も、久保さんのことを知りたいって言ったばかりだから」
「うん」
「迷ってるところも含めて、知ればいいのかもしれない」
優しい。
竹下くんは怒らない。
すぐに答えを迫らない。
それが嬉しくて、同時に申し訳なくなる。
「竹下くん」
「何?」
「今日、来てよかった?」
「もちろん」
「本当に?」
「うん。服のことは少し嫉妬したけど」
「嫉妬?」
竹下くんが少し照れた。
「言わない方がよかった?」
「ううん」
「なら、嫉妬した」
胸が大きく鳴る。
春斗に「嫌」と言われたときも、私は少し嬉しかった。
竹下くんに嫉妬したと言われても、嬉しい。
私は、誰かに求められることが嬉しいだけなのだろうか。
それとも、二人だから嬉しいのか。
「何で笑ってるの?」
「嬉しかったから」
「嫉妬されて?」
「うん」
「意外と悪い人だね、久保さん」
「ごめん」
「冗談」
竹下くんが笑う。
重くなりかけた空気が、少しだけ戻る。
「映画、楽しもう」
「うん」
「そのあと、また話せばいい」
「ありがとう」
「でも」
「何?」
「今日は俺を一番見てほしい」
真っ直ぐ言われる。
胸が熱くなる。
「……うん」
「努力じゃなくて?」
春斗と同じことを言われた。
私は少し驚き、それから笑った。
「ちゃんと見る」
「約束」
「うん」
その約束をしたあと、残りの昼食はさっきより自然に楽しめた。
◇
映画館は休日の人で混雑していた。
入口付近には上映時間を確認する客が集まり、売店からはポップコーンの甘い匂いが漂っている。壁には大きな作品ポスターが並び、その一つに今日見る恋愛映画の主演俳優たちが映っていた。
「これだよね」
竹下くんがポスターを指す。
「うん」
「泣く?」
「たぶん」
「ハンカチ持ってる?」
「持ってる」
「なら大丈夫」
「竹下くんは泣かないの?」
「分からない」
「泣いたら見るね」
「見ないで」
「何で」
「恥ずかしいから」
二人で笑う。
チケットは竹下くんが事前に取ってくれていた。
中央より少し後ろ。
隣同士。
座席番号を見るだけで緊張する。
「飲み物いる?」
「うん」
「何がいい?」
「自分で買うよ」
「今日は誘ったから俺が」
「でもチケットも」
「チケット代はあとでもらう」
「飲み物は?」
「そこはいい」
「じゃあポップコーンは私が買う」
「半分ずつ?」
「うん」
二人で売店へ並ぶ。
塩味とキャラメル味で迷い、結局二種類が入ったものを選んだ。
「どっち好き?」
「塩」
「私キャラメル」
「ちょうどいい」
「でも途中で交換しよう」
「いいよ」
そんな小さな会話が楽しい。
映画館の暗い通路へ入る。
座席へ座ると、隣との距離が思ったより近かった。
肘掛け。
ポップコーン。
飲み物。
身体を少し動かせば、腕が触れそうになる。
上映前の広告が流れ始める。
周囲の照明が少しずつ落ちていく。
「久保さん」
竹下くんが小さな声で呼ぶ。
「何?」
「緊張してる?」
「少し」
「俺も」
「見えない」
「顔に出ないから」
「知ってる」
笑いそうになる。
暗くなった館内で、竹下くんの横顔がスクリーンの光に照らされる。
格好いい。
好きだと思う。
この人の隣に来られて嬉しい。
そう感じた。
映画が始まる。
物語は、長い間友人だった二人が、別々の相手へ恋をしながら、少しずつ互いの大切さへ気づいていく話だった。
最初は、偶然だと思った。
でも、物語が進むほど、胸がざわついた。
主人公の女の子は、憧れていた先輩と付き合う。
幼馴染の男の子は、何も言わず応援する。
それでも、女の子が先輩との約束へ向かうたび、男の子は笑って送り出す。
画面の中で、女の子は言う。
『あなたが喜んでくれないと、私も嬉しくない』
胸が痛む。
春斗の顔が浮かぶ。
昨日。
今日。
平気じゃない。
嫌だ。
でも行け。
楽しんでこい。
私は映画を見ながら、春斗を考えている。
竹下くんをちゃんと見ると約束したのに。
私は膝の上で両手を握った。
隣から、ポップコーンが差し出される。
竹下くんが小さな声で聞く。
「大丈夫?」
「うん」
「泣いてる?」
「少し」
私はハンカチで目元を押さえた。
「映画?」
聞かれる。
すぐに答えられない。
「……うん」
嘘ではない。
映画で泣いている。
でも、映画だけではない。
物語の中の幼馴染が、春斗に重なった。
主人公の迷いが、自分へ重なった。
それが苦しかった。
映画の終盤。
女の子は、憧れていた先輩へ別れを告げる。
先輩は怒らない。
ただ、静かに言う。
『俺を好きだった気持ちまで、嘘にしないで』
私は息を止めた。
竹下くんへの気持ちは嘘ではない。
今も、隣にいることが嬉しい。
もっと知りたい。
もっと近づきたい。
でも春斗のことも気になる。
どちらかを選ぶために、片方への気持ちを嘘にしなくてもいい。
映画の最後。
女の子は幼馴染の元へ走る。
けれど、すぐに恋人になるわけではない。
今までの関係へ戻ることもできず、まず互いの気持ちを話すところで物語は終わった。
エンドロールが流れる。
館内には、すすり泣く声や小さな感想が聞こえ始める。
私はしばらく席を立てなかった。
「久保さん」
「……うん」
「すごく泣いたね」
「思ったより」
「ハンカチ足りた?」
「何とか」
竹下くんは笑わなかった。
心配そうに私を見ている。
「出ようか」
「うん」
館内の照明がつく。
私は立ち上がり、竹下くんのあとを歩いた。
◇
映画館を出ると、外は薄暗くなっていた。
まだ夕方には早い時間だが、雲が厚くなり、駅前の光が昼間より目立っている。
窓ガラスには小さな雨粒がつき始めていた。
「降ってきたね」
竹下くんが言う。
「傘持ってきた」
「俺も」
二人で駅ビルの出口へ向かう。
外へ出る前に、竹下くんが足を止めた。
「少し座る?」
「え?」
「映画のあとから、考え込んでるから」
見抜かれている。
「分かる?」
「今日は分かる」
「顔?」
「うん」
「みんな怖い」
私は少し笑った。
近くのカフェは混んでいたため、駅構内の休憩スペースへ移動した。
窓際のベンチ。
外では雨が少しずつ強くなり、傘を差す人が増えている。
竹下くんは自動販売機で温かい飲み物を二本買い、そのうち一つを私へ渡した。
「ありがとう」
「熱いから気をつけて」
缶を両手で包む。
温かい。
少しだけ落ち着く。
「映画」
竹下くんが隣で言う。
「春斗くんのこと考えた?」
驚いて顔を上げる。
「何で」
「内容が似てたから」
「……うん」
誤魔化しても仕方がない。
「ごめん」
「今日、謝りすぎ」
「でも、竹下くんといるのに」
「気になったものは仕方ないよ」
「怒らないの?」
「少しは複雑」
竹下くんは正直に言った。
「でも、映画の内容まで選べないから」
「うん」
「それに、俺も考えた」
「何を?」
「自分が映画の先輩側だったら嫌だなって」
胸が痛む。
「竹下くんは違うよ」
「今はね」
「……」
「でも、久保さんが春斗くんのことを好きだと気づいたら、俺は同じになるかもしれない」
雨の音が、窓越しに静かに聞こえる。
「私、まだ分からない」
「うん」
「竹下くんが好きなのは本当」
「分かってる」
「今日も楽しかった」
「俺も」
「映画も、竹下くんと見られてよかった」
「うん」
「でも、春斗のこと考えた」
「それも本当なんだね」
「うん」
竹下くんは少し俯き、缶の蓋を指でなぞった。
「俺、久保さんに今すぐ答え出してほしいわけじゃない」
「本当?」
「今日誘ったのは、付き合ってほしいって言うためじゃないから」
「……少し期待してた」
言ってから恥ずかしくなる。
竹下くんが目を見開き、それから笑った。
「正直だね」
「ごめん」
「だから謝らないで」
「うん」
「俺も、今日上手くいったら、もっと近づけると思ってた」
「うん」
「でも、久保さんの中に春斗くんが思ったより大きくいる」
否定できない。
「そうかもしれない」
「それを無理に消してほしいとは思わない」
「竹下くん」
「ただ」
竹下くんが私を見る。
「俺のことも、ちゃんと見てほしい」
昼食のときと同じ言葉。
今日は俺を一番見てほしい。
私は約束した。
でも、映画の途中から春斗を考えていた。
「ごめん」
「また」
「だって」
「じゃあ、今から見て」
「え?」
「まだ今日、終わってないから」
竹下くんが少し笑う。
「雨止むまで、もう少し話そう」
「うん」
「春斗くんの話じゃなくて、俺の話」
「分かった」
「何聞きたい?」
私は少し考える。
「竹下くんは、今まで好きな人いた?」
自分でも思い切った質問だった。
竹下くんは少し驚いたあと、頷く。
「中学のとき、一人」
「付き合った?」
「付き合ってない」
「告白した?」
「した」
「どうだった?」
「振られた」
「え」
竹下くんが笑う。
「そんな驚く?」
「竹下くんを振る人いるんだ」
「いるよ」
「何て言われたの?」
「友達にしか見えないって」
胸が少し痛む。
今の春斗と逆。
春斗は幼馴染にしか見えないと、私が言ってきたようなものだ。
「そのあと、友達でいられた?」
「最初は気まずかったけど、今は普通」
「そっか」
「でも、中学卒業してからはほとんど会ってない」
「寂しい?」
「少しは」
竹下くんは正面を見た。
「好きって言ったら、今まで通りではいられないって分かった」
春斗も言った。
言葉にしたら戻れなくなる。
「だから、久保さんが迷ってるなら、急かしたくない」
「自分が苦しくても?」
「苦しいよ」
竹下くんも、はっきり言った。
「春斗くんのこと考えてるって聞くの、平気じゃない」
「……」
「でも、今すぐ選んでって言って、適当に俺を選ばれても嫌だから」
その言葉が胸へ刺さる。
春斗も竹下くんも、同じだった。
自分を選んでほしい。
でも、無理に選ばれたいわけではない。
私は二人の優しさへ甘えている。
「私、ちゃんと考える」
「うん」
「逃げない」
「うん」
「竹下くんのことも、春斗のことも」
「うん」
「でも、今日はまだ竹下くんと一緒にいていい?」
聞く。
竹下くんが少し驚き、それから柔らかく笑った。
「もちろん」
胸が温かくなる。
「雨、もう少し弱くなったら歩こう」
「どこ行く?」
「駅ビル見てもいいし、カフェでもいい」
「竹下くんは何したい?」
「久保さんともう少し話したい」
その言葉が嬉しい。
「私も」
今度は、春斗のことを考えずに答えられた。
◇
雨が弱くなったあと、二人で駅ビルの中を歩いた。
本屋。
雑貨店。
服屋。
竹下くんは本屋へ入ると、サッカー雑誌の棚より先に漫画コーナーへ向かった。
「本当に恋愛漫画読むんだ」
「疑ってた?」
「少し」
「姉ちゃんたちに新刊頼まれることもある」
「優しい弟」
「買いに行かされてるだけ」
竹下くんが一冊手に取る。
「これ、映画と少し似てる」
「幼馴染もの?」
「うん」
「今は読めないかも」
「分かる」
二人で笑う。
私は別の棚から気になっていた小説を手に取った。
「それ読むの?」
「うん」
「春斗くんも読みそう」
名前が出る。
胸が少し揺れた。
でも、さっきまでのように罪悪感だけではなかった。
「春斗、こういうの好きかも」
「そっか」
「……ごめん」
「謝らない約束」
「約束してない」
「今した」
「勝手」
竹下くんが笑う。
「春斗くんの話を一度もするなとは言わないよ」
「いいの?」
「大事な人なんでしょ」
「うん」
「ただ、全部春斗くん基準で考えられると、少し寂しい」
「分かった」
「俺の好きなものも覚えて」
「サッカー、ゲーム、漫画」
「食べ物」
「カルボナーラ」
「今日だけ」
「じゃあ何?」
「焼肉」
「普通」
「悪い?」
「悪くない」
会話が続く。
学校で話すより自然だった。
竹下くんは、運動だけの人ではない。
漫画も読む。
ゲームでは負けず嫌い。
姉に頭が上がらない。
辛いものが苦手。
犬より猫が好き。
人混みは少し苦手だけれど、今日は私が行きたい場所なら平気だと思った。
知るたび、好きという気持ちが現実の相手へ近づいていく。
憧れだけではない。
竹下くん本人へ惹かれている。
そのことが、少しずつ分かった。
◇
午後四時二十五分。
雨はほとんど止んでいた。
駅の北口には濡れた傘を畳む人や、家族を迎えに来た車を探す人が集まっている。空はまだ灰色だったが、西の雲の隙間から薄い光が差し始めていた。
「今日はありがとう」
竹下くんが言う。
「こっちこそ」
「楽しかった?」
「うん」
今度は迷わなかった。
「すごく楽しかった」
「良かった」
「映画も、昼も、本屋も」
「俺も」
二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。
待ち合わせ場所だった時計の近く。
朝より人は増えている。
帰りの電車は別ではない。
途中まで同じ方向。
一緒に改札へ向かうこともできる。
「久保さん」
「何?」
「次も誘っていい?」
胸が大きく鳴る。
「うん」
「春斗くんのこと考えてても?」
「……うん」
「そこは俺だけ見てって言いたいけど」
「ごめん」
「でも、考えるのやめろって言っても無理なんでしょ」
「うん」
「なら、俺は俺で頑張る」
「頑張る?」
「久保さんに俺をもっと見てもらう」
竹下くんが少し照れながら言う。
「それ、宣言するの?」
「言った方が分かりやすいでしょ」
「私みたい」
「影響されたかも」
二人で笑う。
竹下くんが右手を少し動かす。
私の手の近く。
一瞬、触れそうになる。
でも、触れない。
竹下くんも迷っているように見える。
私は手を握られるのかと思い、緊張で動けなかった。
結局、竹下くんは手を引いた。
「まだ早いかな」
小さく言う。
「え?」
「何でもない」
私には分かった。
手を繋ごうとした。
でも、やめた。
春斗のことがあるから。
私が迷っているから。
胸が痛む。
「竹下くん」
「何?」
私は少しだけ手を動かした。
竹下くんの指先へ、自分の指が触れる。
本当に少しだけ。
すぐに離す。
「今日は、ありがとう」
それしか言えなかった。
竹下くんは驚いたあと、柔らかく笑った。
「うん」
手は繋がなかった。
でも、触れた。
その事実だけで胸が高鳴る。
好きな人と初めて学校の外で過ごした一日。
大きな告白はない。
恋人にもならない。
それでも、確実に昨日より近づいた。
◇
帰りの電車では、竹下くんと隣の席へ座った。
車内は休日の夕方らしく混んでいたが、二人分の座席がちょうど空いていた。
「疲れた?」
竹下くんが聞く。
「少し」
「緊張で?」
「最初は」
「今は?」
「楽しかった疲れ」
「それなら良かった」
窓の外には、雨に濡れた街が流れている。道路の水溜まりが夕方の光を反射し、遠くの空は少しずつ明るさを取り戻していた。
竹下くんは今日の映画について話した。
どの場面が良かったか。
主人公の選択をどう思ったか。
「竹下くんは、先輩の方が可哀想だと思った?」
「可哀想というか、つらいだろうなって」
「うん」
「でも、女の子が嘘ついて付き合い続けるよりはいいと思う」
「そうだね」
「好きだった気持ちまで嘘にするなって台詞、良かった」
「私も」
私の胸へ深く残っている。
竹下くんへの気持ちは嘘ではない。
春斗への揺れに気づいたからといって、今日の楽しさまで消えるわけではない。
「久保さん」
「何?」
「今日のこと、春斗くんに話す?」
聞かれる。
私は少し迷った。
「楽しかったってだけ」
「全部は話さない?」
「うん」
「手、触れたことも?」
竹下くんも意識していた。
顔が熱くなる。
「言わない」
「良かった」
「何で?」
「そこまで共有されたら、さすがに嫌だから」
「分かった」
これは、竹下くんとの時間。
全部を春斗へ渡さなくていい。
初めて、そう思えた。
「竹下くん」
「何?」
「今日は、竹下くんと私だけのことにする」
竹下くんが少し驚く。
「全部?」
「全部じゃないけど」
「どこまで?」
「手が触れたことは、言わない」
「……そっか」
竹下くんの口元が緩む。
「嬉しい?」
「うん」
正直な返事。
私も少し嬉しい。
二人だけの出来事。
それは春斗を遠ざけるためではない。
竹下くんとの関係を、ちゃんと二人で育てるために必要なことなのだと思った。
◇
岩瀬駅へ着くと、竹下くんとはホームで別れた。
竹下くんは迎えの車が来るまで駅前で待つらしい。
「今日は本当にありがとう」
私が言う。
「こちらこそ」
「帰ったら連絡するね」
「うん」
「竹下くんも」
「分かった」
「じゃあ、また明日」
「学校で」
竹下くんが手を上げる。
私も手を振り返した。
駅を出る。
雨上がりの空気は冷たく、道路にはまだ水が残っていた。
家へ向かって歩きながら、私はスマートフォンを取り出す。
竹下くんではない。
春斗とのトーク画面を開く。
午前中の最後。
『楽しんでこい』
『行ってきます』
終わったら連絡すると約束した。
でも、何と送ればいいのだろう。
『終わった』
違う。
『楽しかった』
それだけでいい。
春斗は、それだけなら聞くと言った。
私は入力する。
『今終わった。楽しかったよ』
送信。
すぐには既読がつかない。
家で本を読んでいるのかもしれない。
少し歩く。
通知が鳴る。
『そう』
短い。
私は止まりそうになる。
それだけ。
分かっていた。
春斗は細かく聞きたくない。
私は『うん』と返した。
会話が終わると思った。
でも、少しして追加で届く。
『映画どうだった』
驚く。
『泣いた』
『やっぱり』
『何で分かるの』
『お前恋愛映画で絶対泣くから』
『竹下くんにも言われた』
送ってから、しまったと思う。
春斗は竹下くんの話を聞きたくないかもしれない。
既読。
返事は来ない。
『ごめん』
送る。
『謝るな』
『楽しかったことだけでいいって言ったのに』
『俺が聞いた』
胸が少し温かくなる。
『楽しかった』
『そう』
『本当に』
『分かった』
『春斗』
『何』
私は少し迷う。
竹下くんに可愛いと言われたこと。
嫉妬したと言われたこと。
手が触れたこと。
全部話したいわけではない。
今日は、竹下くんと私だけのものにすると決めた。
『明日の朝、一緒だよね』
送る。
既読はすぐにつく。
『当たり前だろ』
いつもの返事。
胸が落ち着く。
私は少し笑った。
『良かった』
送る。
春斗からは少し間を置いて返事が来た。
『今日楽しかったのに?』
胸が詰まる。
『楽しかったよ』
『なら竹下のこと考えてれば』
『でも明日は春斗と学校行く』
『そうだな』
『それも楽しみ』
既読がつく。
返事はなかなか来ない。
やがて。
『簡単にそういうこと言うな』
昨日も言われた。
『本当だよ』
『だから困る』
『ごめん』
『謝るな』
同じ会話。
でも、昨日とは少し違う。
今日、私は竹下くんとの時間を心から楽しんだ。
そのうえで、明日春斗と会えることも嬉しい。
どちらかが嘘ではない。
『春斗』
『何』
『今日は細かいこと話さない』
少し間。
『そうしてくれ』
『でも、楽しかったことは知ってて』
『分かった』
『嫌?』
『嫌』
すぐに返ってきた。
胸が締めつけられる。
『でも、良かったな』
続けて届く。
いつもの言葉。
今日は棒読みではない。
少し苦しくて、でも優しい言葉だった。
『ありがとう』
私はスマートフォンを胸元へ持った。
雨上がりの道。
家々の窓へ明かりがつき始めている。
竹下くんとの初めてのデートは、楽しかった。
もっと知りたいと思った。
次も誘ってほしいと思った。
手が触れたとき、胸が高鳴った。
それは紛れもない恋だった。
でも。
春斗へ「当たり前だろ」と言われたとき、私は同じくらい安心した。
春斗に「嫌」と言われ、少し嬉しかった。
春斗に可愛いと思われたことが、出発前からずっと胸へ残っていた。
それも、もう幼馴染だからだけでは説明できない。
◇
夜、午後九時三十六分。
私はベッドへ座り、今日撮った写真を見返していた。
駅前の景色。
映画のポスター。
昼食のパスタ。
本屋で竹下くんが手に取った漫画。
二人で写った写真はない。
撮ろうと思えば撮れた。
でも、恥ずかしくて言い出せなかった。
次は撮りたい。
そう思う。
竹下くんからメッセージが届く。
『帰った?』
『帰ったよ』
『今日はありがとう』
『こちらこそありがとう。すごく楽しかった』
『俺も』
少し間が空く。
『次も誘っていい?』
昼間にも聞かれた。
それでも、メッセージでも確認してくれる。
『うん。また行きたい』
『良かった』
『今度は何する?』
『まだ今日終わったばっかりだよ』
『早い?』
『少し。でも嬉しい』
『じゃあ考えとく』
胸が温かくなる。
竹下くんとの次がある。
今日だけではない。
恋が続いていく。
そのあと、愛ちゃんから通話がかかってきた。
「もしもし」
『どうだった!?』
声が大きい。
「落ち着いて」
『無理。朝から連絡待ってた』
「楽しかったよ」
『それだけ?』
「竹下くん、格好よかった」
『服は?』
「可愛いって言ってくれた」
『春くんより先に?』
「春斗は言ってない」
『言ってないの?』
「でも、思ったみたい」
『どうして分かるの』
私は出発前のやり取りを簡単に話した。
愛ちゃんが画面の向こうで深く息を吐く。
『真理、本当に春くんのことも気になってるね』
「うん」
今日は否定しなかった。
『映画中も?』
「考えた」
『どんな映画だったの』
「幼馴染の話」
『最悪の選択』
「私が選んだんだよ」
『運命みたいで怖い』
「泣いた」
『春くん思い出して?』
「映画でも泣いたよ」
『半分は?』
「……春斗」
愛ちゃんは少し黙った。
『竹下くんとはどうだった?』
「もっと知りたいと思った」
『うん』
「また行きたい」
『うん』
「少し手が触れた」
『ええ!?』
「声!」
『ごめん! 手繋いだの?』
「繋いでない。触れただけ」
『どっちから?』
「私から、少し」
『真理から!?』
「竹下くんが繋ごうとして、やめた気がしたから」
『それで触ったの?』
「うん」
『春くんには?』
「言ってない」
愛ちゃんが少し安心したように息を吐く。
『それでいいと思う』
「うん」
『全部春くんへ報告しないでいられたんだね』
「竹下くんにも、今日は二人だけのことにするって言った」
『それ、すごく大事だよ』
「そうかな」
『うん。竹下くんとの関係を、ちゃんと竹下くんと作ろうとしたってことだから』
嬉しい。
少し進めた気がする。
「でも、帰ってすぐ春斗に連絡した」
『そこは変わらないんだ』
「楽しかったってだけ」
『春くんは?』
「嫌だけど、良かったなって」
『そっか』
愛ちゃんの声が少し静かになる。
『真理』
「何?」
『今日、どっちを選びたいと思った?』
答えを探す。
竹下くんといる時間。
胸が高鳴った。
格好いいと思った。
可愛いと言われて嬉しかった。
手が触れたとき、もっと近づきたいと思った。
春斗。
出発前に返事を待った。
可愛いと思われて嬉しかった。
映画中に思い出した。
帰ってすぐ連絡した。
明日一緒に学校へ行けることへ安心した。
「……まだ分からない」
正直に答える。
『竹下くんといても?』
「好きだと思ったよ」
『春くんは?』
「会いたいと思った」
愛ちゃんは黙った。
「おかしい?」
『おかしくはない』
「最低?」
『それも違う』
「じゃあ何?」
『本当に二人とも大事なんだと思う』
「うん」
『でも、ずっと二人とも同じ場所には置けない』
「分かってる」
『今日は答え出さなくていい。でも、竹下くんが優しいからって、決めるのを先延ばしにし続けるのは駄目だよ』
「うん」
『春くんが待ってくれるからって、それに甘え続けるのも』
「うん」
胸が痛む。
でも、逃げたくない。
「ちゃんと考える」
『明日、春くんに会ってどう思うかもね』
「うん」
通話を終える。
部屋が静かになる。
私はスマートフォンを見た。
竹下くんとのトーク画面。
春斗とのトーク画面。
どちらにも、自分が大切にしたい言葉が並んでいる。
私はまだ選べない。
でも、今日一日で分かったことがある。
竹下くんへの恋は、憧れだけではない。
本人を知るほど、もっと好きになりたいと思う。
春斗への感情も、ただ幼馴染を失いたくないだけではない。
女の子として見てほしい。
可愛いと思ってほしい。
自分を選んでほしいと思う気持ちが、確かにある。
その二つを認めた瞬間、胸はさらに苦しくなった。
でも。
分からないふりをするよりは、少しだけ前へ進めた気がした。
◇
同じ頃。
春斗は自室の机へ座り、開いた本を一ページも進められずにいた。
真理から届いたメッセージ。
『今終わった。楽しかったよ』
楽しかった。
予想していた言葉。
それを聞く覚悟もしていた。
それでも、画面で見ると胸が痛んだ。
映画はどうだった。
自分から聞いた。
聞かなければよかった。
でも、何も知らないままでは落ち着かなかった。
細かいことは話さない。
真理はそう言った。
以前なら、全部話していた。
竹下と何を食べた。
何を言われた。
どこへ行った。
どんな顔をしていた。
今日は話さなかった。
それが正しい。
竹下との時間は、竹下と真理のものだ。
分かっている。
それでも、自分の知らない真理が増えたようで、苦しかった。
春斗はスマートフォンを開く。
真理から送られてきた朝の写真。
淡い水色のブラウス。
柔らかい色のスカート。
少し緊張した顔。
可愛かった。
見た瞬間、思った。
でも言えなかった。
自分の言葉で笑った真理が、そのまま竹下へ会いに行くのが嫌だった。
「……最低だな」
春斗は小さく呟く。
竹下に可愛いと言われただろうか。
手を繋いだだろうか。
映画館で肩が触れただろうか。
考えないようにしても、想像してしまう。
真理は細かいことを話さなかった。
それは、自分へ気を遣ったからなのか。
竹下との秘密を作ったからなのか。
どちらでも苦しい。
それでも。
『明日の朝、一緒だよね』
真理は聞いた。
今日、竹下と楽しく過ごしたあとでも。
明日の朝、自分と一緒かを確認した。
期待してはいけない。
でも、期待してしまう。
春斗はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。
翌朝。
真理と顔を合わせる。
今日のことを細かく聞いてはいけない。
でも、顔を見れば分かるかもしれない。
竹下との時間がどれほど楽しかったのか。
昨日までより、どれほど好きになったのか。
知りたくない。
でも、知りたい。
そして真理もまた。
好きな人との初めてのデートを終えながら、幼馴染へ会える朝を待っている。
まだ誰も選ばれていない。
だからこそ。
三人の関係は、昨日よりも確かに近づき、同じ分だけ、以前の形から遠ざかっていた。




