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『好きな人がいるので、幼馴染に恋愛相談していたら、なんだか様子がおかしくなりました』   作者: 伊佐波瑞樹


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9/52

第9話 好きな人との初めてのデートなのに、出発前に幼馴染の言葉を待ってしまいました



 日曜日の朝、午前七時十二分。


 目を覚ました瞬間、私は何か大切な予定があることだけを先に思い出した。


 まだ瞼は重く、頭も完全には起きていない。それなのに胸の奥だけが早く目覚めたように落ち着かず、布団の中で一度寝返りを打ったあと、私は勢いよく身体を起こした。


 今日。


 竹下くんと映画へ行く。


 水戸駅北口で十二時に待ち合わせをして、先に昼食を食べる。それから十三時二十分の回で、私が見たかった恋愛映画を見る。


 学校の食堂ではない。


 教室でもない。


 愛ちゃんや小野寺くんもいない。


 二人だけで、学校の外を歩く。


 そう考えた瞬間、眠気は完全に消えた。


「……今日なんだ」


 分かっていたことを、声に出して確かめる。


 枕元のスマートフォンを手に取り、画面をつけた。通知は二件あり、一件は昨夜遅くに愛ちゃんから届いた「寝坊するな」というスタンプだった。


 もう一件は、午前六時四十八分に竹下くんから届いている。


『おはよう。今日よろしく。雨降るかもしれないから気をつけて来てね』


 胸が温かくなる。


 竹下くんも、今日のことを朝から考えてくれている。


 私はすぐに返信画面を開いた。


『おはよう! こちらこそよろしく。傘もちゃんと持っていくね!』


 送る前に、少しだけ悩む。


『楽しみにしてる』


 付け加えてもいいだろうか。


 昨日も何度か言っている。


 しつこいと思われないだろうか。


 でも、本当に楽しみだ。


 私は短く息を吸い、文章を続けた。


『すごく楽しみにしてる!』


 送信する。


 すぐに既読はつかない。竹下くんも準備中なのだろう。


 私はそのまま春斗とのトーク画面を開いた。


 昨夜の最後のやり取りが残っている。


『でも春斗に見てほしい』


『明日だけ』


 服を着たら、写真を送る。


 約束した。


 正確には、私が一方的に送ると言って、春斗が渋々受け入れただけかもしれない。それでも、見てもらえることが嬉しい。


 竹下くんとのデートへ行く服なのに。


 愛ちゃんに言われた。


 好きな子が、別の男とのデートに着ていく服を見せてくる。


 春斗にとっては、かなり苦しいことなのだろう。


 それを分かっているのに、私は見てほしいと思っている。


「……やっぱり、送らない方がいいかな」


 スマートフォンを膝へ置き、私は天井を見上げた。


 送らなければ、春斗は少し楽かもしれない。


 でも、昨日は送ると約束した。


 送らなかったら、春斗はどう思うだろう。


 竹下くんとの時間へ自分を入れるなと言ったのだから、むしろ安心するかもしれない。


 それでも。


 私が出かける前に、春斗へ何も言わないのは落ち着かなかった。


 私はベッドから降りた。


 まず準備をする。


 送るかどうかは、そのあと考えればいい。


     ◇


 午前七時四十分。


 洗面所で顔を洗い、髪を整えていると、母が後ろから覗き込んできた。


「今日は随分早いね」


「起きちゃっただけ」


「日曜日なのに?」


「予定あるから」


「誰と?」


 私は鏡越しに母を見る。


「友達」


「女の子?」


「……友達」


「その間は男の子ね」


「何で分かるの」


「真理が朝から髪を三回も梳かしてるから」


 言われて、自分の手が止まる。


 確かに、同じところを何度も梳かしていた。


「変?」


「変じゃないけど、やりすぎると髪が逃げるわよ」


「髪は逃げないよ」


「男の子は逃げるかもしれないけど」


「お母さん!」


 声を上げると、母が楽しそうに笑った。


「竹下くん?」


 最近、母も春斗のお母さんも、私が何かあるたび竹下くんの名前を出す。


「……うん」


 誤魔化しても仕方がない。


「二人で?」


「うん」


「どこ行くの?」


「映画」


「デートじゃない」


「まだ分からない」


「二人で映画に行くなら、十分デートでしょう」


 愛ちゃんにも、春斗にも同じことを言われた。


「昼も食べるの?」


「うん」


「帰りは?」


「まだ決めてない」


「何時くらいになる?」


「夕方までには帰ると思う」


「分かった。帰り遅くなりそうなら連絡してね」


「うん」


 母はそれ以上からかわず、私の髪を少しだけ手で整えた。


「楽しんできなさい」


「……うん」


「でも、無理に良く見せようとしすぎないこと」


「何で?」


「普段の真理を好きになってもらわないと、ずっと疲れるから」


 昨日、愛ちゃんにも似たことを言われた。


 変に自分を作らない方がいい。


 竹下くんは、今の私をもっと知りたいと言ってくれたのだから。


「分かった」


「あと、春斗くんには言ったの?」


 突然名前が出て、私は鏡の中で目を見開いた。


「何で春斗?」


「いつも一緒だから。今日会わないのかなと思って」


「学校ないから会わないよ」


「連絡は?」


「……少し」


「竹下くんとのデートなのに?」


 母の口元が少し緩む。


「服、見てもらう約束した」


「春斗くんに?」


「うん」


「それはまた、春斗くんも大変ね」


「お母さんまで同じこと言う」


「だってそうでしょう」


 母は少し困ったように笑った。


「真理は、竹下くんに良く見られたいのよね」


「うん」


「でも春斗くんにも、可愛いって思われたい?」


 言葉が詰まる。


「……分からない」


「可愛いって言ってほしいなら、そうなんじゃない?」


「愛ちゃんにも言われた」


「大杉さん、しっかりしてるわね」


「私よりね」


「それは昔からでしょう」


「ひどい」


 母が笑う。


 でも、そのあと私の顔をじっと見た。


「誰かを好きになるのは、悪いことじゃないよ」


「うん」


「気持ちが揺れるのも、すぐに悪いとは言えない」


「二人を好きかもしれないってこと?」


「それを決めるのは真理だから、お母さんには分からない。ただ、誰かの優しさに甘えたまま、ずっと待たせるのはよくないかもしれないね」


 春斗の顔が浮かぶ。


 好きだとは、まだはっきり言っていない。


 それでも、もうほとんど分かっている。


 春斗は待っているのだろうか。


 私が自分の気持ちへ気づくのを。


 それとも、竹下くんを選ぶのを。


「今日、答え出さなきゃ駄目かな」


「今日一日で決める必要はないでしょう」


「でも」


「今日は竹下くんと出かける日なんでしょう?」


「うん」


「なら、竹下くんをちゃんと見てくればいいじゃない」


 母の言葉は、愛ちゃんと同じだった。


 私は鏡の中の自分を見る。


 竹下くんをちゃんと見る。


 春斗のことを考えない、ではない。


 竹下くんといる自分を、ちゃんと確かめる。


「分かった」


 私はもう一度髪を整え、洗面所を出た。


     ◇


 午前九時二十分。


 私は自室の床へ服を広げていた。


 昨日、愛ちゃんと決めた組み合わせ。


 淡い水色のブラウス。


 薄いベージュのロングスカート。


 白いカーディガン。


 靴は、普段よく履いている白いスニーカーにするか、少しきれいめな茶色のパンプスにするかで迷った。


 映画館まで歩く。


 駅周辺も歩くかもしれない。


 パンプスで足が痛くなり、変な歩き方になるより、スニーカーの方がいい。


 でも、スニーカーでは普段と変わらなすぎる気もする。


 私は二足を並べ、何度も見比べた。


 その途中で、愛ちゃんからメッセージが届く。


『起きてる?』


『起きてるよ』


『服着たら写真』


『春斗みたい』


『春くんにも送るんでしょ』


『まだ迷ってる』


『送らないの?』


『春斗、嫌かもしれないから』


 少し間が空く。


『それを考えられるようになったのは進歩』


『褒められた?』


『少し』


『でも約束したなら、送っていいと思う』


『いいの?』


『春くんが本当に嫌なら、昨日断ってるよ』


『断れないだけかも』


『それもある』


「あるんだ」


 思わず声に出す。


 さらにメッセージが来る。


『だから、送るなら感想を強要しない』


『可愛いって言ってほしい』


『強要してる』


『やっぱり駄目?』


『今日は竹下くんに言ってもらいな』


 それが一番自然だ。


 竹下くんとのデートなのだから。


 私は『分かった』と返し、服へ着替えた。


 ブラウスの袖を通し、スカートのファスナーを上げる。白いカーディガンは、少し肌寒くなったときのために鞄へ入れることにした。


 鏡の前へ立つ。


 派手ではない。


 でも、学校の制服姿とは違う。


 いつもより少しだけ大人っぽく見える気がする。


 髪は下ろしたまま、片側だけ小さなピンで留めた。


 愛ちゃんに写真を送る。


 すぐに返事が来た。


『いい!』


『本当?』


『可愛い。スニーカーの方が真理らしい』


『パンプスじゃなくていい?』


『歩きやすい方』


『分かった』


 私は白いスニーカーを履くことに決めた。


 次に、春斗とのトーク画面を開く。


 写真を送るボタンへ触れる。


 止まる。


 送れば、春斗は見る。


 そのあと、何と返してくれるだろう。


 変じゃない。


 普通。


 大杉が選んだなら大丈夫。


 たぶん、そのくらい。


 可愛いとは言わないと言っていた。


 それでも、少し期待している。


 私は鏡の前でもう一枚、全身が分かる写真を撮った。


 顔は少し緊張している。


 撮り直す。


 今度は不自然に笑ってしまった。


 もう一度。


 何枚も撮っている自分が恥ずかしくなる。


「竹下くんに送るんじゃないのに……」


 小さく呟く。


 結局、一番自然に見える写真を選んだ。


『約束の写真』


 文章と一緒に送信する。


 送った瞬間、胸が大きく鳴る。


 既読はつかない。


 春斗はまだ寝ているかもしれない。


 日曜日の朝。


 普段なら遅くまで寝ていることもある。


 私はスマートフォンを机へ置き、鞄の中身を確認する。


 財布。


 ハンカチ。


 ティッシュ。


 折り畳み傘。


 充電器。


 映画の時間が分かるメッセージ。


 何度確認しても、スマートフォンが気になる。


 五分経つ。


 既読はつかない。


 十分。


 まだ。


「……送らない方がよかったかな」


 胸の中へ不安が広がる。


 春斗は、竹下との時間に自分を入れるなと言った。


 昨日は最後に「明日だけ」と許してくれたけれど、朝になってやっぱり嫌になったのかもしれない。


 メッセージを取り消したくなる。


 でも、既読がついていない状態で消したら、春斗は何を送ったのか気にするだろう。


 私は我慢して待った。


 午前九時四十七分。


 既読。


 身体が固まる。


 返事は来ない。


 一分。


 二分。


 三分。


 心臓が落ち着かない。


「何でこんなに緊張してるの」


 今日は竹下くんとの約束の日なのに。


 待っているのは春斗の返事。


 ようやく通知が鳴った。


『変じゃない』


 予想通り。


 私は少しだけ肩を落とした。


『それだけ?』


 送る。


 すぐに既読。


『約束は変じゃないかだけ見るって話だっただろ』


『可愛いかも見て』


『竹下に聞け』


『春斗にも聞きたい』


 昨日と同じ。


 自分でもしつこいと思う。


 長い沈黙。


『今日は言わない』


 返ってくる。


 胸が沈む。


『どうして?』


『俺が言って、お前が喜んだまま竹下に会いに行くの嫌だから』


 息を止めた。


 春斗の本音。


 可愛いと思っていないから言わないのではない。


 言えば、私が喜ぶと分かっている。


 その喜びを持ったまま、竹下くんのところへ行くのが嫌。


『春斗』


『何』


『可愛いと思った?』


『聞くな』


『思ったんだ』


『調子乗るな』


 否定しない。


 胸の奥が熱くなる。


 嬉しい。


 竹下くんとのデート前なのに、春斗に可愛いと思われたことが、こんなに嬉しい。


『ありがとう』


『言ってない』


『分かったから』


『分かるな』


『無理』


 少し間が空く。


『楽しんでこい』


 短い文章。


 昨日も言われた。


 でも今日は、その言葉の裏にある苦しさが分かる。


『うん』


 返す。


 それから、少し迷って。


『行ってきます』


 送った。


 すぐに返事が来る。


『まだ早いだろ』


 思わず笑った。


『十一時前に出る』


『遅刻するな』


『しないよ』


『傘』


『持った』


『スマホの充電』


『百パーセント』


『財布』


『ある』


『定期』


『電車だからある』


『本当に?』


『お母さんみたい』


『心配して損した』


『ありがとう』


 春斗から返事が来なくなる。


 でも、もう不安ではなかった。


 私はスマートフォンを胸元へ抱え、鏡の中の自分を見る。


 春斗は可愛いと言わなかった。


 でも、思ってくれた。


 そのことが顔に出ている。


 少し笑っている。


 愛ちゃんが見たら、怒るだろうか。


 今日は竹下くんをちゃんと見る日なのに。


 出発前から、私は春斗の言葉で浮かれていた。


     ◇


 午前十時四十八分。


 玄関で靴を履いていると、母がリビングから出てきた。


「もう行くの?」


「少し早めに」


「待ち合わせ十二時でしょう?」


「電車遅れたら困るから」


「一時間以上早いけど」


「水戸駅で少し見たいものあるし」


 本当は、家にいると落ち着かないだけだった。


「忘れ物は?」


「ない」


「傘は?」


「ある」


「財布は?」


「ある」


「春斗くんにも同じこと聞かれた?」


 私は振り返る。


「何で分かるの」


「顔」


「もう嫌」


 母が笑う。


「楽しんでおいで」


「うん」


「竹下くんにも、春斗くんにも、変な期待だけ持たせないようにね」


 靴紐を結ぶ手が止まる。


「今日、竹下くんと出かけるだけだよ」


「だからこそでしょう」


「……」


「優しくするのと、曖昧にするのは違うから」


「分かってる」


 本当は、まだ分かっていない。


 私は春斗へ可愛いと思われたい。


 でも竹下くんとももっと近づきたい。


 どちらにも、自分を見てほしいと思っている。


 それがどこまで許されるのか。


 いつまでなら迷っていていいのか。


 分からない。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 玄関を出る。


 日差しは薄く、空には白い雲が広がっていた。雨が降りそうな重さはまだないが、風には少し湿り気がある。


 駅までの道を歩きながら、私は何度もスマートフォンを確認した。


 竹下くんから、新しいメッセージ。


『今から出る。少し早く着くかも』


 私はすぐに返す。


『私も今出た!』


『じゃあ駅で』


『うん!』


 胸が高鳴る。


 いよいよ始まる。


     ◇


 午前十一時二十二分。


 水戸駅へ着いた。


 日曜日の駅構内は、平日の朝とは違う賑わいに満ちていた。


 家族連れ。


 買い物へ向かう若い女性たち。


 部活動の荷物を抱えた中高生。


 旅行用の大きな鞄を引く人。


 改札前では待ち合わせをする人々が行き交い、駅ビルの入口からは店内放送と明るい音楽が流れている。


 私は北口へ向かいながら、何度も髪を触った。


 乱れていない。


 ブラウスも変ではない。


 スカートも大丈夫。


 鏡代わりになる窓へ映った自分を確認する。


 春斗は、可愛いと思った。


 思い出し、頬が熱くなる。


「駄目」


 小さく呟く。


 今日は竹下くんをちゃんと見る。


 愛ちゃんにも、母にも言われた。


 春斗の言葉を持ったまま竹下くんに会うのは、少し違う。


 私は北口の時計が見える場所へ向かった。


 まだ待ち合わせより三十分以上早い。


 当然、竹下くんは来ていない。


 私は近くのベンチへ座り、スマートフォンを確認した。


『駅着いた』


 送るか迷う。


 早く着きすぎたと思われるだろうか。


 待ちきれなかったのがばれる。


 でも、竹下くんも少し早く着くと言っていた。


『先に駅着いたよ。急がなくて大丈夫だからね』


 送信。


 すぐに既読がつく。


『早い! 俺もあと十分くらい』


 あと十分。


 急に緊張が強くなる。


 私はベンチから立ち上がり、また座った。


 スマートフォンの画面を見る。


 竹下くんとのトーク画面。


 今日の予定。


 映画のチケット。


 昼食。


 その上へ、春斗から新しい通知が表示された。


『もう着いた?』


 驚く。


 春斗の方から聞いてきた。


『今水戸駅』


『早すぎ』


『春斗もお母さんと同じこと言う』


『待ち合わせ十二時だろ』


『竹下くんもあと十分で来る』


 送ったあと、少し後悔する。


 わざわざ言わなくてもよかった。


 春斗は細かいことを聞きたくないと言っていた。


『そう』


 返事は短い。


『春斗は何してるの?』


『家』


『本読んでる?』


『今から』


『そっか』


 会話が止まる。


 私は画面を見つめた。


 今から竹下くんが来る。


 それなのに、春斗との会話を終わらせたくないと思っている。


『真理』


 春斗から来る。


『何?』


『もう連絡するな』


 胸が痛む。


『迷惑?』


『違う』


『じゃあ何で』


『俺が返すから』


 意味を理解するまで少し時間がかかった。


 私が送れば、春斗は返してしまう。


 竹下くんとの時間へ、自分から入り込んでしまう。


『分かった』


 送る。


『終わったらでいい』


『うん』


『楽しんでこい』


 また同じ言葉。


『行ってきます』


 返す。


 今度は『まだ早い』とは来なかった。


 私はスマートフォンを鞄へ入れた。


 春斗のことは、今だけ少し奥へ置く。


 竹下くんが来る。


     ◇


「久保さん」


 名前を呼ばれ、私は顔を上げた。


 北口の人の流れの向こうから、竹下くんが歩いてくる。


 学校で見る制服姿ではない。


 白いシャツの上に薄い紺色のジャケットを羽織り、黒いパンツを合わせている。足元は白いスニーカーで、肩には小さめのショルダーバッグを掛けていた。


 髪も学校より少し整えている。


 見慣れない姿に、胸が大きく鳴った。


「ごめん、待った?」


「ううん。私が早く来すぎただけ」


「本当に早いね」


「竹下くんも早いよ」


「待たせたくなかったから」


 さらりと言う。


 心臓がさらに忙しくなる。


「今日、その服」


 竹下くんの視線が私のブラウスからスカートへ動く。


 私は緊張で背筋を伸ばした。


「変?」


「全然」


 少し間がある。


「似合ってる」


「本当?」


「うん。学校と雰囲気違う」


「どっちがいい?」


 聞いてから、また同じことをしていると気づく。


 春斗にも聞いた。


 でも竹下くんは、少しも迷わず答えた。


「今日の方が可愛い」


 息が止まる。


 周囲の音が遠くなる。


「……え」


 竹下くんも、言ったあとに少し恥ずかしくなったらしい。視線を逸らし、耳が赤くなる。


「いや、制服も似合ってるけど」


「うん」


「何か、今日はちゃんと出かける感じするから」


「うん」


「変な言い方だった?」


「ううん」


 私は胸の前で鞄の持ち手を握る。


「嬉しい」


 素直に言った。


 竹下くんがこちらを見る。


 少し照れたように笑う。


「良かった」


 春斗は言ってくれなかった。


 竹下くんは、ちゃんと言ってくれた。


 今日の方が可愛い。


 その言葉に、胸がはっきりと高鳴る。


 これが恋なのだと思う。


 好きな人に女の子として見てもらえた喜び。


 分かりやすく、眩しい気持ち。


「竹下くんも」


「俺?」


「学校と違う」


「変?」


「格好いい」


 言えた。


 言った瞬間、顔が熱くなる。


 竹下くんも目を見開いた。


「ありがとう」


 声が少しだけ小さい。


 二人とも、すぐに目を合わせられなくなる。


 駅前を行き交う人々は、私たちのことなど気にしていない。それなのに、周囲全てへ会話を聞かれているような気がして、私は落ち着かなかった。


「じゃあ」


 竹下くんが少し咳払いをする。


「昼食、先に行こうか」


「うん」


 二人で駅ビルへ向かう。


 隣を歩く。


 学校の廊下では何度か並んだ。


 食堂へ向かったこともある。


 でも今日は、全く違う。


 制服ではない。


 学校の友人もいない。


 竹下くんの歩幅が、私に合わせて少しゆっくりになっている。


「歩くの遅くない?」


「大丈夫」


「俺、普段速いって言われるから」


「今はちょうどいい」


「じゃあ良かった」


 自然な気遣い。


 胸が温かくなる。


 私は今日、竹下くんをちゃんと見る。


 そう決めていた。


 だから、春斗のことは考えない。


 そう思った直後。


 竹下くんの歩幅が私へ合っていることに気づき、春斗は最初から何も言わず同じ速度で歩いていたな、と考えてしまった。


 私は小さく首を振る。


「どうしたの?」


「何でもない」


「緊張してる?」


「少し」


「俺も」


「見えない」


「久保さんより顔に出ないから」


「またそれ」


 二人で笑う。


 少しずつ、緊張がほどけていった。


     ◇


 昼食の店は、駅ビルの中にある明るい雰囲気のパスタ店だった。


 入口には数組の客が並んでいたが、思ったほど待たずに店内へ案内された。


 窓際の二人席。


 向かい合って座る。


 店内には休日らしい賑わいがあり、近くの席では若い女性たちが買い物袋を足元へ置いて話していた。少し離れた席には小さな子どもを連れた家族がおり、厨房からは食器の音と香ばしい匂いが流れてくる。


 私はメニューを開いた。


「何にする?」


 竹下くんが聞く。


「迷う」


「昨日パスタって言ってたのに?」


「パスタの中でも迷うの」


「なるほど」


「竹下くんは?」


「カルボナーラ」


「早い」


「大体決めてた」


「じゃあ私も」


「合わせなくていいよ」


「違う。私も気になってた」


「本当?」


「本当」


 少し笑われる。


 私は結局、明太子のクリームパスタにした。


 注文を終えると、二人の間へ少しだけ沈黙が落ちる。


 食堂では周囲に知り合いがいた。


 今日は完全に二人。


 何を話そう。


 昨日まで考えていた話題が、一瞬で全部消える。


「久保さん」


「何?」


「今日、本当に来てくれてありがとう」


「こっちこそ誘ってくれてありがとう」


「急だったから、断られるかと思った」


「どうして?」


「月曜一緒に帰ろうって話してたのに、急に日曜誘ったから」


「嬉しかったよ」


「本当?」


「うん。すごく」


 竹下くんが少し安心したように笑う。


「良かった」


「竹下くんは、何で映画に誘ってくれたの?」


 聞いてから緊張する。


 重い質問だったかもしれない。


 竹下くんは少し考えた。


「昨日、もっと久保さんのこと知りたいって言ったでしょ」


「うん」


「学校だと、周りに人が多いから」


「確かに」


「それに、二人でいても楽しいか知りたかった」


 胸が強く鳴る。


「……今は?」


「楽しいよ」


 即答だった。


「まだ始まったばっかりだけど」


「私も楽しい」


「良かった」


 竹下くんは少し照れたように水を飲んだ。


 会話が少し途切れる。


 でも、嫌な沈黙ではなかった。


 春斗とは、黙っていても気まずくない。


 竹下くんとは、黙るたびに少し緊張する。


 でも、その緊張も嫌ではない。


 相手が何を考えているのか知りたい。


 次に何を話してくれるのか待ちたい。


 それは、まだ近くないからこその楽しさなのかもしれない。


「久保さんは」


 竹下くんが口を開く。


「俺のどこを好きになったの?」


 手にしていた水のグラスを落としそうになった。


「え!?」


「ごめん、急だった?」


「急すぎるよ!」


「昨日、俺のこと好きそうって言ったら、間違ってないって」


「聞き間違いって言った!」


「でも否定できてなかった」


「……」


 竹下くんは思ったよりよく見ている。


 私の顔が分かりやすすぎるだけかもしれない。


「嫌なら言わなくていい」


「嫌じゃないけど」


 私は視線をテーブルへ落とす。


 どこを好きになったのか。


 最初は、サッカーをしている姿だった。


 入学して間もない頃、体育の授業でグラウンドへ出たとき、サッカー部の練習が見えた。竹下くんはまだ正式な練習時間ではないのに、ボールを拾い、先輩へ返していた。


 そのあと、転んだクラスメートへすぐに声をかけた。


 誰にでも優しい。


 話すと笑ってくれる。


 自分の努力を大げさに語らない。


「最初は、サッカーしてるところ」


「やっぱり?」


「格好いいと思った」


「ありがとう」


「でも、それだけじゃないよ」


「うん」


「困ってる人がいたらすぐ助けるところとか、誰にでも同じように話すところとか」


「そんなにできた人じゃないよ」


「私にはそう見えた」


「久保さん、俺を良く見すぎてない?」


 昨日から何度か言われている。


 私は竹下くんを、恋をした側の目で見ている。


「少しはあるかも」


「正直」


「でも、今日もっと知ればいいんでしょ」


「うん」


「竹下くんも、私を良く見すぎてるかもしれないよ」


「それはない」


「何で即答?」


「分かりやすいから」


「また!」


 竹下くんが笑う。


 私も笑った。


 ちょうど料理が運ばれてくる。


 湯気の立つパスタ。


 クリームの香り。


 二人で手を合わせる。


「いただきます」


「いただきます」


 食べ始めると、さっきまでより会話が自然になった。


 竹下くんの姉の話。


 二人とも大学生で、弟の服へ口を出してくること。


 今日の服も、姉の一人に「それで行け」と決められたらしい。


「自分で選んでないの?」


「最初はパーカーで行こうとした」


「そっちも見てみたかった」


「絶対今より普通だよ」


「竹下くんなら似合いそう」


「それ、何でも褒めてない?」


「本当に思ってる」


「久保さんに言われると、何か信じたくなる」


 竹下くんが少し笑う。


 私の胸も温かくなる。


「久保さんの服は、大杉さんが選んだ?」


「何で分かるの?」


「昨日、相談してる感じだったから」


「半分は愛ちゃん」


「半分?」


「……春斗にも、変じゃないかだけ見てもらった」


 言ってしまった。


 竹下くんの手が少し止まる。


 表情は変わらない。


 でも、空気がわずかに変わった。


「春斗くんに?」


「うん」


「今日の服を?」


「うん」


「何て言ってた?」


 聞かれ、胸が詰まる。


 変じゃない。


 可愛いとは言わない。


 でも、否定もしなかった。


「変じゃないって」


「それだけ?」


「……うん」


 嘘ではない。


 でも、全部でもない。


 竹下くんは少しだけ視線を落とした。


「久保さん、本当に春斗くんに何でも話すんだね」


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


「でも」


「付き合ってるわけじゃないし」


 その言葉が、少しだけ痛く聞こえた。


 竹下くんはすぐに笑った。


「ただ、俺だったら少し気になるかな」


「やっぱり?」


「うん」


「嫌だった?」


「嫌っていうより」


 竹下くんは言葉を選ぶ。


「今日、俺と出かけるための服なら、最初に俺が見たかったかも」


 胸が締めつけられる。


 正しい。


 春斗にも言われた。


 竹下とのデートへ着ていく服を、別の男に可愛いと言ってほしいのか。


「ごめん」


「だから謝らなくていい」


「でも、私」


「春斗くんのこと、大事なんだよね」


 竹下くんの声は責めるものではなかった。


 だから余計に、誤魔化せない。


「うん」


「幼馴染だから?」


 昨日までなら、すぐにそう答えた。


 今日は、言葉が止まる。


「……それだけじゃないかもしれない」


 正直に言った。


 竹下くんの表情が少しだけ硬くなる。


「そっか」


「でも、竹下くんが好きなのも本当」


「うん」


「今日も楽しみにしてた」


「うん」


「それは嘘じゃない」


「分かってる」


 竹下くんは水を飲み、少し考えてから続ける。


「俺、急ぎすぎたかな」


「え?」


「久保さんが俺を好きそうだって分かって、嬉しくなった」


「……」


「だから、二人で昼食食べたり、映画誘ったりした」


「嬉しかったよ」


「でも、春斗くんのことも気になってるなら」


「ごめん」


「謝らないで」


 竹下くんが少し困ったように笑う。


「俺も、久保さんのことを知りたいって言ったばかりだから」


「うん」


「迷ってるところも含めて、知ればいいのかもしれない」


 優しい。


 竹下くんは怒らない。


 すぐに答えを迫らない。


 それが嬉しくて、同時に申し訳なくなる。


「竹下くん」


「何?」


「今日、来てよかった?」


「もちろん」


「本当に?」


「うん。服のことは少し嫉妬したけど」


「嫉妬?」


 竹下くんが少し照れた。


「言わない方がよかった?」


「ううん」


「なら、嫉妬した」


 胸が大きく鳴る。


 春斗に「嫌」と言われたときも、私は少し嬉しかった。


 竹下くんに嫉妬したと言われても、嬉しい。


 私は、誰かに求められることが嬉しいだけなのだろうか。


 それとも、二人だから嬉しいのか。


「何で笑ってるの?」


「嬉しかったから」


「嫉妬されて?」


「うん」


「意外と悪い人だね、久保さん」


「ごめん」


「冗談」


 竹下くんが笑う。


 重くなりかけた空気が、少しだけ戻る。


「映画、楽しもう」


「うん」


「そのあと、また話せばいい」


「ありがとう」


「でも」


「何?」


「今日は俺を一番見てほしい」


 真っ直ぐ言われる。


 胸が熱くなる。


「……うん」


「努力じゃなくて?」


 春斗と同じことを言われた。


 私は少し驚き、それから笑った。


「ちゃんと見る」


「約束」


「うん」


 その約束をしたあと、残りの昼食はさっきより自然に楽しめた。


     ◇


 映画館は休日の人で混雑していた。


 入口付近には上映時間を確認する客が集まり、売店からはポップコーンの甘い匂いが漂っている。壁には大きな作品ポスターが並び、その一つに今日見る恋愛映画の主演俳優たちが映っていた。


「これだよね」


 竹下くんがポスターを指す。


「うん」


「泣く?」


「たぶん」


「ハンカチ持ってる?」


「持ってる」


「なら大丈夫」


「竹下くんは泣かないの?」


「分からない」


「泣いたら見るね」


「見ないで」


「何で」


「恥ずかしいから」


 二人で笑う。


 チケットは竹下くんが事前に取ってくれていた。


 中央より少し後ろ。


 隣同士。


 座席番号を見るだけで緊張する。


「飲み物いる?」


「うん」


「何がいい?」


「自分で買うよ」


「今日は誘ったから俺が」


「でもチケットも」


「チケット代はあとでもらう」


「飲み物は?」


「そこはいい」


「じゃあポップコーンは私が買う」


「半分ずつ?」


「うん」


 二人で売店へ並ぶ。


 塩味とキャラメル味で迷い、結局二種類が入ったものを選んだ。


「どっち好き?」


「塩」


「私キャラメル」


「ちょうどいい」


「でも途中で交換しよう」


「いいよ」


 そんな小さな会話が楽しい。


 映画館の暗い通路へ入る。


 座席へ座ると、隣との距離が思ったより近かった。


 肘掛け。


 ポップコーン。


 飲み物。


 身体を少し動かせば、腕が触れそうになる。


 上映前の広告が流れ始める。


 周囲の照明が少しずつ落ちていく。


「久保さん」


 竹下くんが小さな声で呼ぶ。


「何?」


「緊張してる?」


「少し」


「俺も」


「見えない」


「顔に出ないから」


「知ってる」


 笑いそうになる。


 暗くなった館内で、竹下くんの横顔がスクリーンの光に照らされる。


 格好いい。


 好きだと思う。


 この人の隣に来られて嬉しい。


 そう感じた。


 映画が始まる。


 物語は、長い間友人だった二人が、別々の相手へ恋をしながら、少しずつ互いの大切さへ気づいていく話だった。


 最初は、偶然だと思った。


 でも、物語が進むほど、胸がざわついた。


 主人公の女の子は、憧れていた先輩と付き合う。


 幼馴染の男の子は、何も言わず応援する。


 それでも、女の子が先輩との約束へ向かうたび、男の子は笑って送り出す。


 画面の中で、女の子は言う。


『あなたが喜んでくれないと、私も嬉しくない』


 胸が痛む。


 春斗の顔が浮かぶ。


 昨日。


 今日。


 平気じゃない。


 嫌だ。


 でも行け。


 楽しんでこい。


 私は映画を見ながら、春斗を考えている。


 竹下くんをちゃんと見ると約束したのに。


 私は膝の上で両手を握った。


 隣から、ポップコーンが差し出される。


 竹下くんが小さな声で聞く。


「大丈夫?」


「うん」


「泣いてる?」


「少し」


 私はハンカチで目元を押さえた。


「映画?」


 聞かれる。


 すぐに答えられない。


「……うん」


 嘘ではない。


 映画で泣いている。


 でも、映画だけではない。


 物語の中の幼馴染が、春斗に重なった。


 主人公の迷いが、自分へ重なった。


 それが苦しかった。


 映画の終盤。


 女の子は、憧れていた先輩へ別れを告げる。


 先輩は怒らない。


 ただ、静かに言う。


『俺を好きだった気持ちまで、嘘にしないで』


 私は息を止めた。


 竹下くんへの気持ちは嘘ではない。


 今も、隣にいることが嬉しい。


 もっと知りたい。


 もっと近づきたい。


 でも春斗のことも気になる。


 どちらかを選ぶために、片方への気持ちを嘘にしなくてもいい。


 映画の最後。


 女の子は幼馴染の元へ走る。


 けれど、すぐに恋人になるわけではない。


 今までの関係へ戻ることもできず、まず互いの気持ちを話すところで物語は終わった。


 エンドロールが流れる。


 館内には、すすり泣く声や小さな感想が聞こえ始める。


 私はしばらく席を立てなかった。


「久保さん」


「……うん」


「すごく泣いたね」


「思ったより」


「ハンカチ足りた?」


「何とか」


 竹下くんは笑わなかった。


 心配そうに私を見ている。


「出ようか」


「うん」


 館内の照明がつく。


 私は立ち上がり、竹下くんのあとを歩いた。


     ◇


 映画館を出ると、外は薄暗くなっていた。


 まだ夕方には早い時間だが、雲が厚くなり、駅前の光が昼間より目立っている。


 窓ガラスには小さな雨粒がつき始めていた。


「降ってきたね」


 竹下くんが言う。


「傘持ってきた」


「俺も」


 二人で駅ビルの出口へ向かう。


 外へ出る前に、竹下くんが足を止めた。


「少し座る?」


「え?」


「映画のあとから、考え込んでるから」


 見抜かれている。


「分かる?」


「今日は分かる」


「顔?」


「うん」


「みんな怖い」


 私は少し笑った。


 近くのカフェは混んでいたため、駅構内の休憩スペースへ移動した。


 窓際のベンチ。


 外では雨が少しずつ強くなり、傘を差す人が増えている。


 竹下くんは自動販売機で温かい飲み物を二本買い、そのうち一つを私へ渡した。


「ありがとう」


「熱いから気をつけて」


 缶を両手で包む。


 温かい。


 少しだけ落ち着く。


「映画」


 竹下くんが隣で言う。


「春斗くんのこと考えた?」


 驚いて顔を上げる。


「何で」


「内容が似てたから」


「……うん」


 誤魔化しても仕方がない。


「ごめん」


「今日、謝りすぎ」


「でも、竹下くんといるのに」


「気になったものは仕方ないよ」


「怒らないの?」


「少しは複雑」


 竹下くんは正直に言った。


「でも、映画の内容まで選べないから」


「うん」


「それに、俺も考えた」


「何を?」


「自分が映画の先輩側だったら嫌だなって」


 胸が痛む。


「竹下くんは違うよ」


「今はね」


「……」


「でも、久保さんが春斗くんのことを好きだと気づいたら、俺は同じになるかもしれない」


 雨の音が、窓越しに静かに聞こえる。


「私、まだ分からない」


「うん」


「竹下くんが好きなのは本当」


「分かってる」


「今日も楽しかった」


「俺も」


「映画も、竹下くんと見られてよかった」


「うん」


「でも、春斗のこと考えた」


「それも本当なんだね」


「うん」


 竹下くんは少し俯き、缶の蓋を指でなぞった。


「俺、久保さんに今すぐ答え出してほしいわけじゃない」


「本当?」


「今日誘ったのは、付き合ってほしいって言うためじゃないから」


「……少し期待してた」


 言ってから恥ずかしくなる。


 竹下くんが目を見開き、それから笑った。


「正直だね」


「ごめん」


「だから謝らないで」


「うん」


「俺も、今日上手くいったら、もっと近づけると思ってた」


「うん」


「でも、久保さんの中に春斗くんが思ったより大きくいる」


 否定できない。


「そうかもしれない」


「それを無理に消してほしいとは思わない」


「竹下くん」


「ただ」


 竹下くんが私を見る。


「俺のことも、ちゃんと見てほしい」


 昼食のときと同じ言葉。


 今日は俺を一番見てほしい。


 私は約束した。


 でも、映画の途中から春斗を考えていた。


「ごめん」


「また」


「だって」


「じゃあ、今から見て」


「え?」


「まだ今日、終わってないから」


 竹下くんが少し笑う。


「雨止むまで、もう少し話そう」


「うん」


「春斗くんの話じゃなくて、俺の話」


「分かった」


「何聞きたい?」


 私は少し考える。


「竹下くんは、今まで好きな人いた?」


 自分でも思い切った質問だった。


 竹下くんは少し驚いたあと、頷く。


「中学のとき、一人」


「付き合った?」


「付き合ってない」


「告白した?」


「した」


「どうだった?」


「振られた」


「え」


 竹下くんが笑う。


「そんな驚く?」


「竹下くんを振る人いるんだ」


「いるよ」


「何て言われたの?」


「友達にしか見えないって」


 胸が少し痛む。


 今の春斗と逆。


 春斗は幼馴染にしか見えないと、私が言ってきたようなものだ。


「そのあと、友達でいられた?」


「最初は気まずかったけど、今は普通」


「そっか」


「でも、中学卒業してからはほとんど会ってない」


「寂しい?」


「少しは」


 竹下くんは正面を見た。


「好きって言ったら、今まで通りではいられないって分かった」


 春斗も言った。


 言葉にしたら戻れなくなる。


「だから、久保さんが迷ってるなら、急かしたくない」


「自分が苦しくても?」


「苦しいよ」


 竹下くんも、はっきり言った。


「春斗くんのこと考えてるって聞くの、平気じゃない」


「……」


「でも、今すぐ選んでって言って、適当に俺を選ばれても嫌だから」


 その言葉が胸へ刺さる。


 春斗も竹下くんも、同じだった。


 自分を選んでほしい。


 でも、無理に選ばれたいわけではない。


 私は二人の優しさへ甘えている。


「私、ちゃんと考える」


「うん」


「逃げない」


「うん」


「竹下くんのことも、春斗のことも」


「うん」


「でも、今日はまだ竹下くんと一緒にいていい?」


 聞く。


 竹下くんが少し驚き、それから柔らかく笑った。


「もちろん」


 胸が温かくなる。


「雨、もう少し弱くなったら歩こう」


「どこ行く?」


「駅ビル見てもいいし、カフェでもいい」


「竹下くんは何したい?」


「久保さんともう少し話したい」


 その言葉が嬉しい。


「私も」


 今度は、春斗のことを考えずに答えられた。


     ◇


 雨が弱くなったあと、二人で駅ビルの中を歩いた。


 本屋。


 雑貨店。


 服屋。


 竹下くんは本屋へ入ると、サッカー雑誌の棚より先に漫画コーナーへ向かった。


「本当に恋愛漫画読むんだ」


「疑ってた?」


「少し」


「姉ちゃんたちに新刊頼まれることもある」


「優しい弟」


「買いに行かされてるだけ」


 竹下くんが一冊手に取る。


「これ、映画と少し似てる」


「幼馴染もの?」


「うん」


「今は読めないかも」


「分かる」


 二人で笑う。


 私は別の棚から気になっていた小説を手に取った。


「それ読むの?」


「うん」


「春斗くんも読みそう」


 名前が出る。


 胸が少し揺れた。


 でも、さっきまでのように罪悪感だけではなかった。


「春斗、こういうの好きかも」


「そっか」


「……ごめん」


「謝らない約束」


「約束してない」


「今した」


「勝手」


 竹下くんが笑う。


「春斗くんの話を一度もするなとは言わないよ」


「いいの?」


「大事な人なんでしょ」


「うん」


「ただ、全部春斗くん基準で考えられると、少し寂しい」


「分かった」


「俺の好きなものも覚えて」


「サッカー、ゲーム、漫画」


「食べ物」


「カルボナーラ」


「今日だけ」


「じゃあ何?」


「焼肉」


「普通」


「悪い?」


「悪くない」


 会話が続く。


 学校で話すより自然だった。


 竹下くんは、運動だけの人ではない。


 漫画も読む。


 ゲームでは負けず嫌い。


 姉に頭が上がらない。


 辛いものが苦手。


 犬より猫が好き。


 人混みは少し苦手だけれど、今日は私が行きたい場所なら平気だと思った。


 知るたび、好きという気持ちが現実の相手へ近づいていく。


 憧れだけではない。


 竹下くん本人へ惹かれている。


 そのことが、少しずつ分かった。


     ◇


 午後四時二十五分。


 雨はほとんど止んでいた。


 駅の北口には濡れた傘を畳む人や、家族を迎えに来た車を探す人が集まっている。空はまだ灰色だったが、西の雲の隙間から薄い光が差し始めていた。


「今日はありがとう」


 竹下くんが言う。


「こっちこそ」


「楽しかった?」


「うん」


 今度は迷わなかった。


「すごく楽しかった」


「良かった」


「映画も、昼も、本屋も」


「俺も」


 二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。


 待ち合わせ場所だった時計の近く。


 朝より人は増えている。


 帰りの電車は別ではない。


 途中まで同じ方向。


 一緒に改札へ向かうこともできる。


「久保さん」


「何?」


「次も誘っていい?」


 胸が大きく鳴る。


「うん」


「春斗くんのこと考えてても?」


「……うん」


「そこは俺だけ見てって言いたいけど」


「ごめん」


「でも、考えるのやめろって言っても無理なんでしょ」


「うん」


「なら、俺は俺で頑張る」


「頑張る?」


「久保さんに俺をもっと見てもらう」


 竹下くんが少し照れながら言う。


「それ、宣言するの?」


「言った方が分かりやすいでしょ」


「私みたい」


「影響されたかも」


 二人で笑う。


 竹下くんが右手を少し動かす。


 私の手の近く。


 一瞬、触れそうになる。


 でも、触れない。


 竹下くんも迷っているように見える。


 私は手を握られるのかと思い、緊張で動けなかった。


 結局、竹下くんは手を引いた。


「まだ早いかな」


 小さく言う。


「え?」


「何でもない」


 私には分かった。


 手を繋ごうとした。


 でも、やめた。


 春斗のことがあるから。


 私が迷っているから。


 胸が痛む。


「竹下くん」


「何?」


 私は少しだけ手を動かした。


 竹下くんの指先へ、自分の指が触れる。


 本当に少しだけ。


 すぐに離す。


「今日は、ありがとう」


 それしか言えなかった。


 竹下くんは驚いたあと、柔らかく笑った。


「うん」


 手は繋がなかった。


 でも、触れた。


 その事実だけで胸が高鳴る。


 好きな人と初めて学校の外で過ごした一日。


 大きな告白はない。


 恋人にもならない。


 それでも、確実に昨日より近づいた。


     ◇


 帰りの電車では、竹下くんと隣の席へ座った。


 車内は休日の夕方らしく混んでいたが、二人分の座席がちょうど空いていた。


「疲れた?」


 竹下くんが聞く。


「少し」


「緊張で?」


「最初は」


「今は?」


「楽しかった疲れ」


「それなら良かった」


 窓の外には、雨に濡れた街が流れている。道路の水溜まりが夕方の光を反射し、遠くの空は少しずつ明るさを取り戻していた。


 竹下くんは今日の映画について話した。


 どの場面が良かったか。


 主人公の選択をどう思ったか。


「竹下くんは、先輩の方が可哀想だと思った?」


「可哀想というか、つらいだろうなって」


「うん」


「でも、女の子が嘘ついて付き合い続けるよりはいいと思う」


「そうだね」


「好きだった気持ちまで嘘にするなって台詞、良かった」


「私も」


 私の胸へ深く残っている。


 竹下くんへの気持ちは嘘ではない。


 春斗への揺れに気づいたからといって、今日の楽しさまで消えるわけではない。


「久保さん」


「何?」


「今日のこと、春斗くんに話す?」


 聞かれる。


 私は少し迷った。


「楽しかったってだけ」


「全部は話さない?」


「うん」


「手、触れたことも?」


 竹下くんも意識していた。


 顔が熱くなる。


「言わない」


「良かった」


「何で?」


「そこまで共有されたら、さすがに嫌だから」


「分かった」


 これは、竹下くんとの時間。


 全部を春斗へ渡さなくていい。


 初めて、そう思えた。


「竹下くん」


「何?」


「今日は、竹下くんと私だけのことにする」


 竹下くんが少し驚く。


「全部?」


「全部じゃないけど」


「どこまで?」


「手が触れたことは、言わない」


「……そっか」


 竹下くんの口元が緩む。


「嬉しい?」


「うん」


 正直な返事。


 私も少し嬉しい。


 二人だけの出来事。


 それは春斗を遠ざけるためではない。


 竹下くんとの関係を、ちゃんと二人で育てるために必要なことなのだと思った。


     ◇


 岩瀬駅へ着くと、竹下くんとはホームで別れた。


 竹下くんは迎えの車が来るまで駅前で待つらしい。


「今日は本当にありがとう」


 私が言う。


「こちらこそ」


「帰ったら連絡するね」


「うん」


「竹下くんも」


「分かった」


「じゃあ、また明日」


「学校で」


 竹下くんが手を上げる。


 私も手を振り返した。


 駅を出る。


 雨上がりの空気は冷たく、道路にはまだ水が残っていた。


 家へ向かって歩きながら、私はスマートフォンを取り出す。


竹下くんではない。


 春斗とのトーク画面を開く。


 午前中の最後。


『楽しんでこい』


『行ってきます』


 終わったら連絡すると約束した。


 でも、何と送ればいいのだろう。


『終わった』


 違う。


『楽しかった』


 それだけでいい。


 春斗は、それだけなら聞くと言った。


 私は入力する。


『今終わった。楽しかったよ』


 送信。


 すぐには既読がつかない。


 家で本を読んでいるのかもしれない。


 少し歩く。


 通知が鳴る。


『そう』


 短い。


 私は止まりそうになる。


 それだけ。


 分かっていた。


 春斗は細かく聞きたくない。


 私は『うん』と返した。


 会話が終わると思った。


 でも、少しして追加で届く。


『映画どうだった』


 驚く。


『泣いた』


『やっぱり』


『何で分かるの』


『お前恋愛映画で絶対泣くから』


『竹下くんにも言われた』


 送ってから、しまったと思う。


 春斗は竹下くんの話を聞きたくないかもしれない。


 既読。


 返事は来ない。


『ごめん』


 送る。


『謝るな』


『楽しかったことだけでいいって言ったのに』


『俺が聞いた』


 胸が少し温かくなる。


『楽しかった』


『そう』


『本当に』


『分かった』


『春斗』


『何』


 私は少し迷う。


 竹下くんに可愛いと言われたこと。


 嫉妬したと言われたこと。


 手が触れたこと。


 全部話したいわけではない。


 今日は、竹下くんと私だけのものにすると決めた。


『明日の朝、一緒だよね』


 送る。


 既読はすぐにつく。


『当たり前だろ』


 いつもの返事。


 胸が落ち着く。


 私は少し笑った。


『良かった』


 送る。


 春斗からは少し間を置いて返事が来た。


『今日楽しかったのに?』


 胸が詰まる。


『楽しかったよ』


『なら竹下のこと考えてれば』


『でも明日は春斗と学校行く』


『そうだな』


『それも楽しみ』


 既読がつく。


 返事はなかなか来ない。


 やがて。


『簡単にそういうこと言うな』


 昨日も言われた。


『本当だよ』


『だから困る』


『ごめん』


『謝るな』


 同じ会話。


 でも、昨日とは少し違う。


 今日、私は竹下くんとの時間を心から楽しんだ。


 そのうえで、明日春斗と会えることも嬉しい。


 どちらかが嘘ではない。


『春斗』


『何』


『今日は細かいこと話さない』


 少し間。


『そうしてくれ』


『でも、楽しかったことは知ってて』


『分かった』


『嫌?』


『嫌』


 すぐに返ってきた。


 胸が締めつけられる。


『でも、良かったな』


 続けて届く。


 いつもの言葉。


 今日は棒読みではない。


 少し苦しくて、でも優しい言葉だった。


『ありがとう』


 私はスマートフォンを胸元へ持った。


 雨上がりの道。


 家々の窓へ明かりがつき始めている。


 竹下くんとの初めてのデートは、楽しかった。


 もっと知りたいと思った。


 次も誘ってほしいと思った。


 手が触れたとき、胸が高鳴った。


 それは紛れもない恋だった。


 でも。


 春斗へ「当たり前だろ」と言われたとき、私は同じくらい安心した。


 春斗に「嫌」と言われ、少し嬉しかった。


 春斗に可愛いと思われたことが、出発前からずっと胸へ残っていた。


 それも、もう幼馴染だからだけでは説明できない。


     ◇


 夜、午後九時三十六分。


 私はベッドへ座り、今日撮った写真を見返していた。


 駅前の景色。


 映画のポスター。


 昼食のパスタ。


 本屋で竹下くんが手に取った漫画。


 二人で写った写真はない。


 撮ろうと思えば撮れた。


 でも、恥ずかしくて言い出せなかった。


 次は撮りたい。


 そう思う。


 竹下くんからメッセージが届く。


『帰った?』


『帰ったよ』


『今日はありがとう』


『こちらこそありがとう。すごく楽しかった』


『俺も』


 少し間が空く。


『次も誘っていい?』


 昼間にも聞かれた。


 それでも、メッセージでも確認してくれる。


『うん。また行きたい』


『良かった』


『今度は何する?』


『まだ今日終わったばっかりだよ』


『早い?』


『少し。でも嬉しい』


『じゃあ考えとく』


 胸が温かくなる。


 竹下くんとの次がある。


 今日だけではない。


 恋が続いていく。


 そのあと、愛ちゃんから通話がかかってきた。


「もしもし」


『どうだった!?』


 声が大きい。


「落ち着いて」


『無理。朝から連絡待ってた』


「楽しかったよ」


『それだけ?』


「竹下くん、格好よかった」


『服は?』


「可愛いって言ってくれた」


『春くんより先に?』


「春斗は言ってない」


『言ってないの?』


「でも、思ったみたい」


『どうして分かるの』


 私は出発前のやり取りを簡単に話した。


 愛ちゃんが画面の向こうで深く息を吐く。


『真理、本当に春くんのことも気になってるね』


「うん」


 今日は否定しなかった。


『映画中も?』


「考えた」


『どんな映画だったの』


「幼馴染の話」


『最悪の選択』


「私が選んだんだよ」


『運命みたいで怖い』


「泣いた」


『春くん思い出して?』


「映画でも泣いたよ」


『半分は?』


「……春斗」


 愛ちゃんは少し黙った。


『竹下くんとはどうだった?』


「もっと知りたいと思った」


『うん』


「また行きたい」


『うん』


「少し手が触れた」


『ええ!?』


「声!」


『ごめん! 手繋いだの?』


「繋いでない。触れただけ」


『どっちから?』


「私から、少し」


『真理から!?』


「竹下くんが繋ごうとして、やめた気がしたから」


『それで触ったの?』


「うん」


『春くんには?』


「言ってない」


 愛ちゃんが少し安心したように息を吐く。


『それでいいと思う』


「うん」


『全部春くんへ報告しないでいられたんだね』


「竹下くんにも、今日は二人だけのことにするって言った」


『それ、すごく大事だよ』


「そうかな」


『うん。竹下くんとの関係を、ちゃんと竹下くんと作ろうとしたってことだから』


 嬉しい。


 少し進めた気がする。


「でも、帰ってすぐ春斗に連絡した」


『そこは変わらないんだ』


「楽しかったってだけ」


『春くんは?』


「嫌だけど、良かったなって」


『そっか』


 愛ちゃんの声が少し静かになる。


『真理』


「何?」


『今日、どっちを選びたいと思った?』


 答えを探す。


 竹下くんといる時間。


 胸が高鳴った。


 格好いいと思った。


 可愛いと言われて嬉しかった。


 手が触れたとき、もっと近づきたいと思った。


 春斗。


 出発前に返事を待った。


 可愛いと思われて嬉しかった。


 映画中に思い出した。


 帰ってすぐ連絡した。


 明日一緒に学校へ行けることへ安心した。


「……まだ分からない」


 正直に答える。


『竹下くんといても?』


「好きだと思ったよ」


『春くんは?』


「会いたいと思った」


 愛ちゃんは黙った。


「おかしい?」


『おかしくはない』


「最低?」


『それも違う』


「じゃあ何?」


『本当に二人とも大事なんだと思う』


「うん」


『でも、ずっと二人とも同じ場所には置けない』


「分かってる」


『今日は答え出さなくていい。でも、竹下くんが優しいからって、決めるのを先延ばしにし続けるのは駄目だよ』


「うん」


『春くんが待ってくれるからって、それに甘え続けるのも』


「うん」


 胸が痛む。


 でも、逃げたくない。


「ちゃんと考える」


『明日、春くんに会ってどう思うかもね』


「うん」


 通話を終える。


 部屋が静かになる。


 私はスマートフォンを見た。


 竹下くんとのトーク画面。


 春斗とのトーク画面。


 どちらにも、自分が大切にしたい言葉が並んでいる。


 私はまだ選べない。


 でも、今日一日で分かったことがある。


 竹下くんへの恋は、憧れだけではない。


 本人を知るほど、もっと好きになりたいと思う。


 春斗への感情も、ただ幼馴染を失いたくないだけではない。


 女の子として見てほしい。


 可愛いと思ってほしい。


 自分を選んでほしいと思う気持ちが、確かにある。


 その二つを認めた瞬間、胸はさらに苦しくなった。


 でも。


 分からないふりをするよりは、少しだけ前へ進めた気がした。


     ◇


 同じ頃。


 春斗は自室の机へ座り、開いた本を一ページも進められずにいた。


 真理から届いたメッセージ。


『今終わった。楽しかったよ』


 楽しかった。


 予想していた言葉。


 それを聞く覚悟もしていた。


 それでも、画面で見ると胸が痛んだ。


 映画はどうだった。


 自分から聞いた。


 聞かなければよかった。


 でも、何も知らないままでは落ち着かなかった。


 細かいことは話さない。


 真理はそう言った。


 以前なら、全部話していた。


 竹下と何を食べた。


 何を言われた。


 どこへ行った。


 どんな顔をしていた。


 今日は話さなかった。


 それが正しい。


 竹下との時間は、竹下と真理のものだ。


 分かっている。


 それでも、自分の知らない真理が増えたようで、苦しかった。


 春斗はスマートフォンを開く。


 真理から送られてきた朝の写真。


 淡い水色のブラウス。


 柔らかい色のスカート。


 少し緊張した顔。


 可愛かった。


 見た瞬間、思った。


 でも言えなかった。


 自分の言葉で笑った真理が、そのまま竹下へ会いに行くのが嫌だった。


「……最低だな」


 春斗は小さく呟く。


 竹下に可愛いと言われただろうか。


 手を繋いだだろうか。


 映画館で肩が触れただろうか。


 考えないようにしても、想像してしまう。


 真理は細かいことを話さなかった。


 それは、自分へ気を遣ったからなのか。


 竹下との秘密を作ったからなのか。


 どちらでも苦しい。


 それでも。


『明日の朝、一緒だよね』


 真理は聞いた。


 今日、竹下と楽しく過ごしたあとでも。


 明日の朝、自分と一緒かを確認した。


 期待してはいけない。


 でも、期待してしまう。


 春斗はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。


 翌朝。


 真理と顔を合わせる。


 今日のことを細かく聞いてはいけない。


 でも、顔を見れば分かるかもしれない。


 竹下との時間がどれほど楽しかったのか。


 昨日までより、どれほど好きになったのか。


 知りたくない。


 でも、知りたい。


 そして真理もまた。


 好きな人との初めてのデートを終えながら、幼馴染へ会える朝を待っている。


 まだ誰も選ばれていない。


 だからこそ。


 三人の関係は、昨日よりも確かに近づき、同じ分だけ、以前の形から遠ざかっていた。

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