第8話 好きな人との初めての約束が決まったのに、幼馴染へ一番に伝えたくなりました
翌朝、午前五時三十八分。
目覚ましが鳴る前に目を覚ました私は、薄暗い部屋の中でしばらく天井を見つめていた。
眠気はほとんど残っていない。けれど、すぐに起き上がる気にもなれず、布団の中へ身体を沈めたまま、昨日起きたことを一つずつ思い返していた。
竹下くんと、初めて二人きりで昼食を食べた。
お互いの趣味を話し、また一緒に食べようと約束した。部活が休みの日には、駅まで一緒に帰ろうとも言ってもらえた。
好きな人との距離が、確実に近づいている。
それは間違いなく嬉しいことだった。
昨日の昼休みを思い出せば、今でも頬が熱くなる。竹下くんが「もっと久保さんのことを知りたい」と言ってくれた瞬間や、恋愛漫画も読むと少し照れながら教えてくれた表情が、頭の中へ何度も浮かんでくる。
それなのに。
同じくらい強く残っているのは、帰り道で見た春斗の顔だった。
『話すなって言ったら、お前が悲しむ。話していいって言えば、俺が苦しい』
『俺のこと気にしないでいられる?』
『期待するから』
春斗は、私のことを好きだとは言わなかった。
一度は、違うと否定した。
けれど、あれを本気の否定だと思うほど、私は春斗のことを知らないわけではなかった。
嘘をつくときの春斗は、私を見ない。
短く答えて、すぐに別の話へ変えようとする。
昨日もそうだった。
では、本当は。
そこまで考え、私は布団を鼻の辺りまで引き上げた。
「……分かんないよ」
小さく呟く。
春斗が私を好きかもしれない。
その可能性を考えたとき、私は完全に嫌だとは思わなかった。
むしろ。
少しだけ。
本当に少しだけ、嬉しいと思ってしまった。
どうして嬉しいのか。
自分が誰かに好かれているからなのか。
相手が春斗だからなのか。
まだ分からない。
私は竹下くんが好きだ。
それは変わらない。
昨日も、もっと話したいと思った。二人で帰れる日が来ることを楽しみにした。
なのに、春斗が私を好きかもしれないと考えると、竹下くんへの気持ちとは別の場所が大きく揺れる。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
画面をつけると、昨夜の春斗とのやり取りが残っていた。
『明日、五分早い』
『分かった』
『朝、一緒だよね』
『当たり前だろ』
『良かった』
たったそれだけ。
でも、その短い会話を見ていると、少しだけ落ち着く。
今日も朝は一緒。
昨日、あんな話をしても、春斗は私を置いていかない。
それが嬉しい。
竹下くんからメッセージが来ていないかも確認する。
新しい通知はない。
少しだけ残念に思ったが、竹下くんは昨日の夜に「今日はありがとう」と送ってくれた。毎朝必ず連絡を取り合う関係になったわけではないのだから、当然だ。
私はスマートフォンを置き、ようやくベッドから起き上がった。
まずは学校へ行く。
春斗と会う。
竹下くんとも会う。
そして、昨日までとは少しだけ違う一日を過ごす。
何も答えは出ていないけれど、それでも朝は始まってしまう。
◇
午前五時四十分を少し過ぎた頃、私は玄関を出た。
空には薄い雲が広がり、夜明けの光がその縁を淡く染めている。住宅街はまだ静かで、遠くから新聞配達のバイクの音が聞こえていた。
今日は春斗の家の送迎当番だ。
いつもなら家の前まで車が来るのを玄関の中で待っているけれど、今日は少し早く外へ出た。
道路脇の植え込みには露が残り、朝の風が吹くたび葉先の水滴が小さく揺れている。
私はスマートフォンを手にしたまま、道の向こうを見つめた。
数分後、見慣れた車が角を曲がってくる。
私の前へ停まり、後部座席のドアを開けると、春斗はいつもの窓側へ座っていた。
「おはよう」
「はよ」
声は普通だった。
少しだけ硬い気もする。
でも、無視はされなかった。
「おはよう、真理ちゃん」
「おはようございます」
運転席の春斗のお母さんへ挨拶し、私は春斗の隣へ座った。
車が動き出す。
春斗は本を持っていなかった。
膝の上には鞄だけが置かれている。
「本、読まないの?」
「今はいい」
「珍しい」
「朝から読む気分じゃない」
「眠い?」
「少し」
会話が続かない。
昨日の帰り道であれだけ踏み込んだ話をしたのだから、当然かもしれない。
車内ではラジオから天気予報が流れている。午後から雲が増え、地域によっては弱い雨が降る可能性があるらしい。
春斗のお母さんが、バックミラー越しに私たちを何度か見ていた。
「二人とも、今日はずいぶん静かね」
「眠いだけ」
春斗が答える。
「真理ちゃんも?」
「えっと……私も、少し」
「真理ちゃんは眠いというより、考え事してる顔だけど」
「顔で分かるんですか?」
「分かるわよ。小さい頃から見てるもの」
最近、誰に会っても顔で気持ちを読まれている気がする。
「春斗も、私の顔で何でも分かるって言うんですよ」
「春ちゃんは昔から真理ちゃんの顔ばかり見てるからね」
「母さん」
春斗の声が少し強くなる。
春斗のお母さんは「あら」と小さく笑った。
「違うの?」
「前見て」
「見てるわよ」
春斗は窓の外へ顔を向けた。
耳が少し赤い。
私はその横顔を見たまま、何も言えなくなった。
春斗が、昔から私の顔ばかり見ている。
ただ幼馴染だから。
私が何か失敗しそうで心配だから。
今まではそう思っていた。
でも、昨日のことを知ったあとでは、同じ言葉に聞こえない。
「真理」
春斗が窓の外を向いたまま呼ぶ。
「何?」
「昨日」
私の胸が少し強く鳴る。
「うん」
「悪かった」
「何が?」
「いろいろ言いすぎた」
春斗はこちらを見なかった。
「私も聞きすぎたよ」
「でも、急に竹下を諦められるかとか聞くことじゃなかった」
「……本気で諦めてほしかった?」
聞かない方がよかったかもしれない。
でも、口から出てしまった。
春斗の指が鞄の持ち手を少し強く握る。
「少しは」
予想していたはずなのに、胸が大きく揺れた。
「そっか」
「でも、本当に諦めてほしいわけじゃない」
「どっち?」
「分からない」
「春斗でも分からないことあるんだ」
「あるだろ」
「いつも、何でも分かってるみたいな顔するから」
「お前が分からなすぎるだけ」
「ひどい」
少しだけ、いつもの会話へ戻る。
春斗の口元もわずかに緩んだ。
それを見て、私は小さく息を吐いた。
「私も、ごめん」
「だから何が」
「好きなのかって、無理に聞いたこと」
「……」
「春斗が言いたくないなら、今は聞かない」
「今は?」
「いつかは聞く」
「やめろ」
「嫌」
「何で」
「気になるから」
素直に答える。
春斗が私を見る。
「竹下が好きなのに?」
「それとこれとは別」
「俺には別にできない」
静かな声だった。
胸の奥が少し痛む。
「ごめん」
「謝るなって」
「でも」
「お前が謝ると、俺が悪いみたいになる」
「春斗、悪くないの?」
「悪い」
「どっち?」
「俺が勝手に好きになって、勝手に苦しくなってるなら、俺が悪いだろ」
車内の空気が止まった。
春斗自身も、言ったあとに気づいたらしい。
窓の外へ向けていた顔が僅かに固まる。
私も、息を止めた。
「春斗」
「忘れろ」
「今、好きって」
「言ってない」
「言ったよ」
「一般論」
「嘘」
「真理」
春斗がようやくこちらを見る。
困っている。
でも、昨日のように完全に逃げようとはしていない。
「今は、答えを出さなくていい」
「私が?」
「俺も」
「春斗は出てるんじゃないの?」
「出てるけど、言葉にしたら戻れなくなる」
「もう戻れないって言ってたじゃん」
「それでも、完全に変えるのは怖い」
春斗も怖い。
私だけではない。
そのことが少し意外で、同時に嬉しかった。
「じゃあ今日は」
私は少し考えてから言った。
「いつも通りにしよう」
「昨日も言ったけど、いつも通りって何」
「普通に話して、一緒に学校行って、一緒に帰る」
「今日はな」
「今日は?」
「月曜は竹下と帰るかもしれないんだろ」
胸の中へ現実が戻ってくる。
「まだ部活の予定次第」
「そう」
「春斗、嫌?」
聞く。
春斗は少し迷ったあと、頷いた。
「嫌」
今度ははっきり言った。
胸が締めつけられる。
なのに。
少しだけ嬉しい。
「何で嬉しそうなんだよ」
「え」
「顔」
「嬉しそう?」
「少し」
「……ごめん」
「だから謝るな」
春斗は困ったように息を吐いた。
「嫌だけど、行くなとは言わない」
「うん」
「お前が行きたいなら、行けばいい」
「平気じゃなくても?」
「平気じゃなくても」
春斗の言葉に、私は返事ができなかった。
好きな人との約束を応援されている。
でも、その応援が春斗を苦しめている。
それを知りながら喜ぶことが、少し怖かった。
◇
岩瀬駅のホームへ着くと、朝の風は冷たく、湿り気を含んでいた。
いつものベンチへ座る。
春斗も隣へ座ったが、今日も本を開かなかった。
少し離れた場所では、作業着姿の男性が缶コーヒーを飲んでいる。高校生らしい男女が電車の時間を確認し、線路の向こうでは草の間から小さな鳥が飛び立った。
私たちはしばらく黙っていた。
以前なら、沈黙は気まずくなかった。
今は、話したいことが多すぎて、何から話せばいいのか分からない。
「春斗」
「何」
「昨日のこと、忘れなくてもいい?」
「何を」
「春斗が苦しいって言ったこと」
「……」
「忘れたら、また同じことするかもしれないから」
春斗は正面を見たまま、小さく息を吐いた。
「忘れなくていい」
「うん」
「でも、気を遣いすぎるな」
「無理だよ」
「何で」
「春斗が苦しそうなの、知っちゃったから」
「なら竹下の話をやめる?」
「それも嫌」
「欲張り」
「分かってる」
私は膝の上へ置いた手を握った。
「竹下くんとは仲良くなりたい」
「うん」
「でも、春斗とは離れたくない」
「うん」
「両方は無理?」
春斗はすぐに答えなかった。
ホームへ流れるアナウンスの音が、遠く聞こえる。
「今までと全く同じは無理だと思う」
「……」
「でも、幼馴染じゃなくなるわけじゃない」
「本当?」
「お前が嫌わなければ」
「嫌わないよ」
「俺が面倒になっても?」
「春斗は昔から面倒だよ」
「お前に言われたくない」
「私も面倒?」
「かなり」
「ひどい」
少し笑う。
春斗も、ほんの少しだけ笑った。
「でも」
春斗が続ける。
「竹下と付き合ったら、毎日俺に相談するのはやめた方がいい」
「何で?」
「彼氏のことを別の男に相談するの、竹下も嫌だろ」
「春斗は別の男じゃない」
「男だって昨日も言った」
「幼馴染でしょ」
「それで全部片づけるなって言っただろ」
「……うん」
私は少し俯いた。
愛ちゃんにも同じことを言われた。
私には当たり前の距離でも、竹下くんにとって当たり前とは限らない。
「じゃあ、春斗に話せなくなるの?」
「全部じゃない」
「どこまで?」
「知らない」
「春斗が決めて」
「何で俺が」
「私、分からないから」
「そこを自分で考えろってずっと言ってる」
「難しい」
「恋するんだろ」
「恋ってこんなに難しいの?」
「俺に聞くな」
「春斗も恋してるんでしょ」
言った瞬間、春斗が黙る。
私は少しだけ笑った。
「今のは否定しないんだ」
「うるさい」
「耳赤い」
「見るな」
「春斗、分かりやすくなったね」
「お前のせいだろ」
その返事が、胸の奥へ残った。
以前なら、春斗がそんな言い方をしても深く考えなかった。
今は違う。
春斗の一言一言に、自分へ向けられた感情を探してしまう。
それは竹下くんへの恋とは違う。
竹下くんの言葉には胸が高鳴る。
春斗の言葉には、もっと深い場所が揺れる。
どちらが恋なのか。
それとも、どちらも違う形の恋なのか。
まだ分からなかった。
◇
午前七時二十一分。
水橋高校第三校舎の教室へ入ると、竹下くんはまだ来ていなかった。
私は自分の席へ鞄を置き、無意識に入口を見る。
「おはよう、真理」
後ろから愛ちゃんが声をかける。
「おはよう」
「春くんとは?」
「一緒に来たよ」
「そうじゃなくて、昨日の続き」
「少し話した」
「好きって言われた?」
「はっきりは言われてない」
「はっきりは?」
「言いかけた」
愛ちゃんの目が大きくなる。
私は周囲を気にしながら、声を落とした。
「でも、今は言葉にしたら戻れなくなるって」
「春くんが?」
「うん」
「そっか」
愛ちゃんは少しだけ寂しそうな顔をした。
「何、その顔」
「春くん、ずっと我慢してたんだろうなって」
「……」
「真理はどう思った?」
「分からない」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
「嬉しかった?」
私はすぐに答えられなかった。
愛ちゃんは急かさず待っている。
「少し」
「少し?」
「春斗が、私と竹下くんが一緒に帰るの嫌って言ったとき、少し嬉しかった」
「それ、春くんには?」
「顔でばれた」
「二人とも本当に分かりやすいね」
「愛ちゃんまで」
私は机へ額をつけた。
「でも竹下くんが好きなのも本当だよ」
「うん」
「昨日、もっと仲良くなりたいって思った」
「うん」
「二人好きなのかな」
小さな声で聞く。
愛ちゃんはすぐに答えなかった。
「まだ、好きの種類が分からないだけかもしれない」
「種類?」
「竹下くんへの好きは、憧れとか、もっと知りたい気持ちとか、恋らしい恋だと思う」
「春斗は?」
「真理の生活そのものに近すぎるんじゃない?」
「生活?」
「朝も帰りも一緒。何でも相談して、嫌なことがあっても会えば安心する。そういう人への気持ちって、恋かどうか気づきにくいよ」
愛ちゃんの言葉が胸へ落ちる。
確かに。
竹下くんを好きになったときは、すぐに分かった。
目で追ってしまう。
話せたら嬉しい。
近づくと緊張する。
それは分かりやすい恋だった。
春斗は違う。
隣にいることが当たり前すぎて、好きかどうか考えたことすらなかった。
「じゃあ、どうすれば分かる?」
「少し春くんから離れてみる?」
「嫌」
即答だった。
愛ちゃんが目を丸くする。
私も、自分の返事の速さに驚いた。
「……それは嫌」
「どうして?」
「離れたくないから」
「その理由を考えたら?」
愛ちゃんは静かに言った。
「幼馴染だから、だけじゃなくて」
私は何も答えられなかった。
そのとき、教室の入口から男子たちの声が聞こえた。
「月曜、午後ミーティングだって」
「休みじゃないのかよ」
「顧問、昨日と言ってること違う」
竹下くんがサッカー部の友人たちと入ってくる。
私へ気づくと、少し申し訳なさそうな顔でこちらへ来た。
「久保さん、おはよう」
「おはよう」
「月曜のことなんだけど」
「うん」
「部活、休みじゃなくなった」
少し残念。
その気持ちは顔に出たらしい。
「ごめん」
「竹下くんが謝ることじゃないよ」
「でも、一緒に帰ろうって言ったのに」
「また別の日でいいよ」
「うん」
竹下くんは少し考えるように黙った。
それから、迷いながら口を開く。
「じゃあ、明日」
「え?」
「日曜、予定ある?」
心臓が大きく鳴った。
「ないけど」
「水戸駅の方で、映画でも見ない?」
教室の音が少し遠くなる。
竹下くんと。
学校の外で。
二人で。
「映画?」
「嫌ならいいんだけど」
「嫌じゃない!」
思ったより大きな声が出た。
周囲にいた生徒たちが一斉にこちらを見る。
小野寺くんが、すぐににやりと笑った。
「竹下、初デート?」
「まだそういうのじゃない」
「映画に二人で行って、そういうのじゃないは無理あるだろ」
「久保さん、顔真っ赤」
「見ないで!」
教室に笑いが広がる。
竹下くんも耳を赤くしていた。
「本当に大丈夫?」
「うん。行きたい」
「じゃあ、昼くらいに水戸駅で」
「うん」
「見たい映画ある?」
「一つあるけど」
「何?」
「恋愛映画」
恥ずかしくなり、声が小さくなる。
竹下くんは少し笑った。
「いいじゃん。それにしよう」
「竹下くん、恋愛映画見るの?」
「姉ちゃんたちの影響で、たまに見る」
「そうだったね」
「昨日話したの覚えてた?」
「覚えてるよ」
竹下くんの笑顔が柔らかくなる。
「じゃあ、あとで時間調べて送る」
「うん」
約束が決まった。
明日。
竹下くんと映画。
完全に、学校の外で二人きり。
嬉しさが一気に胸へ広がる。
私は笑った。
竹下くんも笑っている。
周囲では男子たちがまだ騒いでいる。
それなのに。
次の瞬間、私の頭へ浮かんだのは春斗だった。
このことを話したら、どんな顔をするだろう。
嬉しい出来事が起きたのに、私は一番に幼馴染の反応を考えていた。
◇
一時間目が始まる前、愛ちゃんに腕を引かれ、私は廊下へ連れ出された。
「真理」
「何?」
「明日、竹下くんと映画?」
「うん」
「すごいじゃん」
「うん」
「嬉しい?」
「すごく嬉しい」
「じゃあ何で困った顔してるの」
やっぱり分かるらしい。
「春斗に言わないと」
「言わないといけないの?」
「だって」
「春くん、真理の保護者じゃないよ」
「分かってる」
「彼氏でもない」
「分かってるよ」
「なら、報告する義務はないよ」
「義務じゃない」
「じゃあ何?」
私は答えを探した。
春斗へ許可をもらいたいわけではない。
止めてほしいわけでもない。
でも、隠したくない。
「一番に知ってほしい」
口から出た。
愛ちゃんは少し目を細める。
「竹下くんとのデートを?」
「デートってまだ」
「映画と昼食ならデートでしょ」
改めて言われ、頬が熱くなる。
「……うん」
「それを、春くんに一番に知ってほしいの?」
「愛ちゃんにはもう言ってるけど」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる」
私は廊下の窓から外を見る。
校庭では体育の準備をしている生徒たちが、コーンを運んでいた。雲の間から日差しが落ち、グラウンドの一部だけが明るく照らされている。
「春斗に知られたくないことが増えるのが嫌」
「どうして?」
「距離ができそうだから」
「もうでき始めてるよ」
愛ちゃんの声は優しかった。
それでも、胸へ刺さる。
「竹下くんと近づけば、春くんとの距離は今までと同じではいられない」
「でも、いなくなるわけじゃない」
「いなくならない。でも、変わる」
「……」
「真理は、その変化が怖いんだね」
「うん」
「竹下くんとのデートより?」
「それは違う」
「本当に?」
「映画は楽しみだよ」
「じゃあ、明日は竹下くんをちゃんと見てきた方がいい」
「竹下くんを?」
「春くんのことばかり考えながら行ったら、竹下くんに失礼でしょ」
昨日も似たようなことを言われた。
何も考えず竹下くんと付き合う方が失礼。
春斗の存在を見ないふりするのもよくない。
「どうしたらいいんだろ」
「明日一日で答えを出さなくていいよ」
「でも」
「竹下くんといるとき、どんな気持ちになるか考えてみる。春くんのことを忘れられるのか、ずっと気になるのか。それだけでもいい」
「うん」
「あと、春くんに伝えるなら、許可を求める言い方はやめた方がいい」
「何て言えばいい?」
「明日、竹下くんと映画に行くことになった。それだけ」
「それだけ?」
「春くんがどう思うかは、春くんの問題。行くかどうかは真理の問題」
厳しい。
でも、正しい。
「分かった」
「それと服」
「え?」
「明日何着ていくの?」
「まだ決めてない!」
「そっちも重要だから、帰ったら候補送って」
「お願い」
「任せて」
愛ちゃんが笑う。
私も少しだけ笑った。
◇
放課後、竹下くんから明日の詳細が送られてきた。
『十二時に水戸駅北口で待ち合わせ』
『先に昼食を食べて、十三時二十分の映画』
『チケットは取っておく』
教室の自分の席で、その文章を何度も確認する。
待ち合わせ。
昼食。
映画。
好きな人と初めて学校の外で過ごす時間。
胸が高鳴る。
「真理、顔」
愛ちゃんが後ろから笑う。
「今は嬉しい顔でいいでしょ」
「いいよ」
「どうしよう。本当に明日なんだ」
「逃げないでね」
「逃げない!」
「遅刻もしない」
「しないよ」
「春くんに服を選ばせない」
「それは……」
「駄目」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
私はスマートフォンを閉じる。
春斗とのトーク画面を開きかけて、やめた。
「会って言う」
「うん」
「怒るかな」
「怒らないと思う」
「苦しむ?」
愛ちゃんは少しだけ黙った。
「たぶん」
胸が痛む。
「それでも言う?」
「言う」
「どうして?」
「隠したくないから」
それが春斗のためなのか、自分のためなのかは分からない。
ただ、春斗が知らないところで竹下くんとの時間が増えていくことが、私は嫌だった。
◇
午後四時八分。
いつもの合流場所へ着くと、春斗は壁際へ立っていた。
今日は本を読んでいない。
私を見ると、スマートフォンを制服のポケットへ入れる。
「遅い」
「一分」
「一分は一分」
「今日は普通に言うんだ」
「何が」
「いつものやつ」
「普通にするんだろ」
春斗の口元が少し緩む。
私はその笑顔を見て、少し安心した。
二人で駅へ向かって歩き始める。
すぐに言わなければ。
後回しにすると、余計に言いづらくなる。
「春斗」
「何」
「明日」
「うん」
「竹下くんと映画に行くことになった」
春斗の足が一瞬止まりかける。
でも、すぐに歩き続けた。
「そう」
「水戸駅で待ち合わせして、先にお昼食べて、それから映画」
「……そう」
「二人で」
「分かってる」
声が少し低い。
「春斗」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「平気?」
春斗は少し黙ったあと、正直に答えた。
「平気じゃない」
胸が強く締めつけられる。
それでも、その答えを聞いて少しだけ安心してしまう自分がいた。
「ごめん」
「謝るな」
「でも」
「行きたいんだろ」
「うん」
「なら行け」
「春斗は嫌なのに?」
「嫌だから行くなって言ったら、お前はどうする」
私はすぐに答えられない。
「竹下くんとは行きたい」
「だろ」
「でも、春斗が苦しいのも嫌」
「両方は無理だ」
「……」
「少なくとも、明日は」
春斗は前を向いたまま続けた。
「俺のことは考えるな」
「無理」
「何で」
「春斗が平気じゃないって知ってるから」
「じゃあ映画断る?」
「それも嫌」
「欲張りだな」
「分かってる」
声が少し震えた。
「竹下くんと行きたい。でも、春斗のことを気にしないのも無理」
「真理」
「何」
「俺のことを気にして、竹下との時間を楽しめない方が嫌だ」
「どうして?」
「俺のせいにされたくないから」
冗談のような言い方。
でも、春斗は笑っていない。
「本当は?」
私は聞いた。
「本当は、お前が俺のせいで悲しむのが嫌だから」
胸が痛い。
「それ、優しいって言うんだよ」
「違う」
「違わない」
「俺が自分で嫌なだけ」
「何が?」
「お前が嬉しそうにしてるのを止めたら、俺がもっと嫌な奴になる」
春斗の言葉が静かに落ちる。
「俺は竹下との映画なんか行ってほしくない。でも、行かないでほしいって言って、お前に嫌な顔されるのも怖い」
春斗がここまで正直に話したのは初めてだった。
「嫌な顔しないよ」
「するだろ」
「しない」
「竹下と行きたいんだろ」
「うん」
「なら止められたら困る」
「困るけど」
「同じだよ」
私は黙る。
否定できない。
春斗は私を困らせないために、嫌でも送り出そうとしている。
「明日」
私は少し迷ってから言った。
「終わったら連絡していい?」
「何を」
「楽しかったか」
「自分から報告するのか」
「春斗に知ってほしい」
「俺は聞きたくないかもしれない」
「でも、知らないのも嫌でしょ」
春斗が少し驚いた顔をする。
昨日言っていた。
聞けば苦しい。
聞かなければ気になる。
「……分かってきたな」
「春斗のこと?」
「少し」
「じゃあ連絡する」
「細かいことは言うな」
「映画の内容?」
「竹下と何したか」
「何もないよ、まだ」
「まだって言うな」
「何で」
「想像するだろ」
春斗が眉を寄せる。
その反応が少し可愛く見えて、私は笑った。
「笑うな」
「ごめん」
「明日は竹下だけ見ろ」
「努力する」
「努力じゃなくて」
「無理かも」
「何で」
「春斗が気になるから」
春斗が黙る。
私は自分でも、かなりひどいことを言っていると思った。
竹下くんとの映画を楽しみにしながら、春斗が気になると言っている。
「真理」
「何」
「そういうこと、簡単に言うな」
「本当だよ」
「だから困る」
「ごめん」
「……もういい」
春斗は前を向いた。
耳が少し赤い。
私も顔が熱くなった。
◇
帰りの電車では座席が空いておらず、私と春斗は並んで吊り革につかまっていた。
電車が揺れるたび、肩が軽く触れる。
「明日、何着ればいいと思う?」
私は小さな声で聞いた。
「大杉に聞け」
「男の子の意見も聞きたい」
「俺に竹下とのデート服を選ばせるな」
「デートかな」
「映画行って飯食うならデートだろ」
「春斗の口から言われると恥ずかしい」
「俺はもっと嫌だ」
「じゃあ、服見ない?」
「見ない」
「本当に?」
「……」
「春斗?」
「大杉に選んでもらえ」
「うん」
「それなら変にはならないだろ」
「可愛いかは?」
「竹下に聞け」
「春斗にも聞きたい」
「何で」
「春斗の意見も大事だから」
春斗が深く息を吐く。
「それ、竹下が聞いたら嫌がるぞ」
「何が?」
「自分とのデートに着ていく服を、別の男に可愛いって言ってほしいんだろ」
言われてみれば、その通りだった。
「……失礼かな」
「たぶん」
「じゃあ聞かない」
少し寂しくなり、窓の外へ顔を向ける。
春斗はしばらく黙っていた。
電車が次の駅へ近づき、車内アナウンスが流れる。
「家出る前に」
春斗が小さく言った。
「え?」
「写真送れ」
「いいの?」
「変じゃないかだけ見る」
「可愛いかも言って」
「約束しない」
「逃げる?」
「見てから決める」
胸が大きく鳴った。
「絶対送る」
「忘れろ」
「もう遅い」
私は笑った。
春斗も困ったように少し笑った。
◇
夜、午後九時十一分。
自室の床には、明日着ていく服の候補が並んでいた。
淡い水色のブラウス。
白いカーディガン。
薄いベージュのロングスカート。
少し落ち着いた紺色のワンピース。
愛ちゃんとはビデオ通話を繋いでいる。
『紺のワンピースは気合い入りすぎるかも』
「やっぱり?」
『初めてなら、水色のブラウスとベージュのスカートがいい』
「地味じゃない?」
『真理は、変に飾りすぎない方が似合うよ』
「褒めてる?」
『ちゃんと褒めてる』
私は鏡の前でブラウスを身体へ当てる。
「春斗にも見せる」
『え』
「変じゃないかだけ」
『春くんが見るって言ったの?』
「うん」
愛ちゃんが画面の向こうで顔を覆った。
「何?」
『春くん、本当に大変だね』
「何で」
『好きな子が、別の男とのデートに着ていく服を見せてくるんだよ』
「……」
改めて言われると、ひどい。
「やめた方がいい?」
『真理は見せたいんでしょ』
「うん」
『何で?』
「春斗にも可愛いって言ってほしい」
『それ、かなり問題あるよ』
「やっぱり?」
『竹下くんが好きなのに、春くんにも女の子として見てほしいってことでしょ』
胸の奥が大きく揺れる。
「女の子として?」
『可愛いって言われたいなら、そうじゃない?』
私は鏡の中の自分を見る。
春斗に可愛いと言われたい。
竹下くんに言われたいのと、同じなのだろうか。
少し違う気がする。
竹下くんからなら、恋が進んだようで嬉しい。
春斗からなら。
昔から一緒にいた春斗が、私をただの幼馴染ではなく女の子として見ていると確認できる気がする。
「……私、最低かな」
『今すぐ二人と付き合ってるわけじゃないから、最低ではないよ』
「でも」
『だから、自分の気持ちを考える時間が必要なんでしょ』
愛ちゃんは優しく言った。
『明日は竹下くんとの時間を楽しんでおいで』
「うん」
『春くんのことを考えちゃってもいい。でも、竹下くんといるときに感じたことも、ちゃんと覚えておく』
「分かった」
『それから考えればいいよ』
通話を終えたあと、私は竹下くんとのトーク画面を開く。
『明日、十二時に水戸駅北口で!』
『映画のチケット取れたよ』
『昼はパスタで大丈夫?』
準備を全部してくれている。
『ありがとう。パスタ大丈夫! 楽しみにしてるね』
送る。
すぐに既読がつく。
『俺も楽しみ』
胸が温かくなる。
明日が楽しみ。
それは本当だった。
次に春斗とのトーク画面を開く。
『服決まった』
送る。
既読はすぐについた。
『大杉に選んでもらった?』
『うん』
『なら大丈夫だろ』
『明日写真送るね』
少し間が空く。
『忘れていい』
『絶対送る』
『竹下との時間に俺を入れるな』
その文章を見て、胸が痛む。
『ごめん』
送ると、すぐに返事が来た。
『謝るな』
『でも春斗に見てほしい』
長い沈黙。
既読はついている。
やがて。
『明日だけ』
短い返事が届く。
『ありがとう』
『可愛いとは言わない』
『見てからでしょ』
『寝ろ』
『まだ早い』
『遅刻するぞ』
『しないよ』
いつものようなやり取りが少し続いた。
私はスマートフォンを胸へ置き、天井を見る。
明日、竹下くんと映画へ行く。
楽しみ。
もっと近づきたい。
それなのに、出かける前には春斗へ服を見せたい。
可愛いと言ってほしい。
どちらの気持ちも、本物だった。
その夜、私はなかなか眠れなかった。
好きな人との初めての約束を思い浮かべれば胸が高鳴り、幼馴染がその約束をどんな気持ちで見送るのか考えれば、同じ場所が痛くなる。
恋は一人を選んだ瞬間から始まるものだと思っていた。
けれど今の私は、竹下くんへ近づくたびに春斗の存在を強く意識し、春斗の本音へ触れるたびに竹下くんへの気持ちまで確かめたくなっていた。
明日。
竹下くんとの初めての休日の約束が始まる。
そして私は、その時間の中で初めて、自分が本当に誰の隣を望んでいるのかを考えることになる。




