第7話 好きな人との二人きりの昼休みなのに、帰り道の幼馴染が気になります
翌朝、午前五時四十二分。
目覚ましが鳴る三分前に目を覚ました私は、しばらく布団の中で動けなかった。
眠いわけではない。
むしろ、頭は起きた瞬間からはっきりしていた。
今日、竹下くんと二人で昼食を食べる。
昨日の帰りの電車で決まった、初めての二人きりの約束。学校の食堂でお昼を食べるだけなのだから、デートと呼ぶほど大げさなものではない。それでも、今まで愛ちゃんや小野寺くんを交えて一緒に食べたことはあっても、竹下くんと二人だけというのは初めてだった。
何を話せばいいのだろう。
会話が途切れたらどうする。
食べている顔を見られるのは恥ずかしくないだろうか。
カレーは口元につきそうだからやめた方がいいかもしれない。麺類は啜る音が気になるし、唐揚げ定食なら普段通りに食べられるけれど、いつも同じものばかり注文すると思われるかもしれない。
私は天井を見つめたまま、まだ食堂に着いてもいないのに昼食の献立で悩み始めていた。
「……落ち着こう」
小さく呟き、枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
竹下くんからの通知はなかった。
昨日は朝にメッセージが届いた。その前の日も届いた。でも毎朝必ず来ると決まったわけではない。
分かっている。
少しだけ残念に思った自分を誤魔化すように、私は春斗とのトーク画面を開いた。
昨夜の最後のやり取り。
『明日の朝も一緒だよね』
『当たり前だろ』
『良かった』
『何が』
『何でもない』
短い。
いつも通りの会話。
でも、春斗の「当たり前だろ」という言葉を見ただけで、胸の奥が少し落ち着く。
今日、竹下くんと二人で昼食を食べる。
その前も、そのあとも、春斗とはいつも通り。
朝は一緒に学校へ行き、帰りも駅まで歩く。
昨日までの私なら、それを何も考えず当たり前だと思っていた。今は、その当たり前を確認できるだけで安心してしまう。
なぜなのか。
考えそうになり、やめた。
今は竹下くんとの昼食を考えるだけで精一杯だった。
◇
午前五時四十六分。
家の前には春斗の家の車が停まっていた。
朝の空には薄い雲が広がり、その向こうから淡い光が滲んでいる。道路脇の植え込みには昨夜の露が残り、湿った土と草の匂いが風に乗っていた。
後部座席のドアを開ける。
「おはよう」
「はよ」
春斗は窓側へ座り、膝の上に鞄を置いていた。
今日はまだ本を開いていない。
私はその隣へ座った。
「真理ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
運転席の春斗のお母さんが、バックミラー越しにこちらを見る。
「今日はずいぶん緊張してる顔ね」
「え」
「何かあるの?」
「何もないです」
「竹下くん?」
「何で毎回そこなんですか!」
「当たってるから」
春斗のお母さんが楽しそうに笑う。
隣から、春斗の小さなため息が聞こえた。
「今日は何」
「何って?」
「竹下と何かあるんだろ」
春斗の方から聞かれ、私は少しだけ驚いた。
「昨日言ったじゃん」
「何を」
「今日、二人でお昼食べるって」
「ああ」
「忘れてたの?」
「忘れてない」
「今、完全に忘れてた顔だった」
「覚えてた」
「怪しい」
「朝から面倒」
春斗は窓の外へ顔を向けた。
私は少し頬を膨らませる。
「緊張してるの」
「見れば分かる」
「何話せばいいと思う?」
「昨日言っただろ。趣味とか授業とか」
「趣味を聞くの、尋問みたいにならない?」
「普通に聞けばいい」
「普通が一番難しい」
「いつも通り喋れば」
「竹下くんの前でいつも通り話せたら苦労しないよ」
「昨日は普通に話してたじゃん」
「あれは愛ちゃんと小野寺くんもいたから」
「じゃあ今日も周りに人はいるだろ」
「食堂にはいるけど、二人で話すんだよ」
「同じだろ」
「違うよ」
私は春斗の袖を少し引いた。
「ねえ、本当にどうしよう」
春斗が袖を見てから、私の顔を見る。
「そんなに嫌なら断ればよかっただろ」
「嫌じゃない!」
「なら楽しめばいい」
「それができたら相談してない」
「竹下も緊張してるかもしれないだろ」
思ってもいなかった言葉に、私は瞬きをした。
「竹下くんが?」
「二人で食いたいって誘ったのは向こうでも、相手が緊張しないとは限らない」
「……そうかな」
「知らない。でも、お前だけが試されてるわけじゃない」
春斗の言葉が、少しずつ胸へ落ちていく。
私はずっと、自分が上手く話さなければ、失敗しないようにしなければと考えていた。でも、二人で昼食を食べるなら、竹下くんも同じ時間を一緒に作る側だ。
私一人で会話を成功させる必要はない。
「春斗」
「何」
「やっぱり相談役向いてるね」
「向いてない」
「今の、すごく良かった」
「そう」
「褒めてるよ」
「知ってる」
「もっと喜んで」
「朝だから無理」
春斗はそう言いながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その表情を見た瞬間、私は肩の力が少し抜けた。
「……良かった」
「何が」
「笑ったから」
春斗の口元から笑みが消える。
「別に笑ってない」
「今、笑った」
「気のせい」
「絶対笑った」
「前向け。酔うぞ」
春斗はまた窓の外へ顔を向けた。
私は前へ向き直りながら、小さく笑った。
竹下くんとの昼食について相談しているのに、春斗が少し笑っただけで安心している。
そのことを、今はまだ深く考えなかった。
◇
岩瀬駅のホームには、朝の冷たい風が吹いていた。
空は車へ乗ったときより明るくなり、線路の向こうに広がる田んぼや低い山の輪郭がはっきりしている。通勤客の数も少しずつ増え、ベンチの近くにはいつもの作業着姿の男性と、紙袋を抱えた年配の女性がいた。
私はいつもの場所へ座る。
春斗は隣へ立ち、文庫本を開いた。
「春斗」
「何」
「今日、髪変じゃない?」
「普通」
「ちゃんと見た?」
「見た」
「一秒も見てない」
春斗が仕方なさそうに本から顔を上げる。
私の前髪、左右、肩の辺りへ視線を動かした。
「普通」
「本当?」
「うん」
「寝癖ない?」
「ない」
「制服の襟は?」
「平気」
「スカート変じゃない?」
「知らない」
「そこも見てよ」
「朝から何の確認させられてるんだよ」
「大事なの!」
「食堂で飯食うだけだろ」
「好きな人と二人だよ」
言った瞬間、春斗の表情が少し固くなる。
私は気づいたけれど、どう触れればいいか分からなかった。
「……そうだな」
春斗は本へ視線を戻す。
「変じゃないから大丈夫」
「本当に?」
「しつこい」
「だって、春斗は適当に言うから」
「適当じゃない」
「じゃあ、今日の私どう?」
何気なく聞いた。
春斗の指がページの端で止まる。
「どうって」
「いつもより少しは可愛い?」
言ってから、自分でも恥ずかしくなった。
竹下くんに可愛いと思われたい。
だから聞いただけ。
春斗は男の子だから、男の子の意見を聞きたかった。
それだけなのに、春斗はなかなか答えなかった。
「春斗?」
「……いつもと同じ」
「それ、褒めてない」
「変じゃないって意味」
「可愛いか聞いてるの」
「朝から言わせるな」
「何で」
「恥ずかしいだろ」
春斗が本で顔の下半分を隠す。
耳が少し赤い。
私は驚いて、その横顔を見た。
「春斗でも恥ずかしがるんだ」
「うるさい」
「じゃあ、可愛い?」
「知らない」
「今の流れなら言ってよ」
「竹下に聞け」
「聞けるわけないでしょ!」
私が声を上げると、近くにいた男性が少しだけこちらを見た。
春斗は本の向こうでため息をつく。
「普通にしてればいい」
「普通で可愛い?」
「もう黙れ」
「答えてくれたら黙る」
「……変じゃない」
「それさっき聞いた」
「十分だろ」
結局、可愛いとは言ってくれなかった。
でも、春斗が耳を赤くしたことが妙に嬉しく、私はそれ以上追及しなかった。
ホームへ電車が近づく音が響く。
春斗は本を閉じ、私は立ち上がった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
竹下くん。
『おはよう。今日、昼休みになったら食堂の入口で待ってる』
私は画面を見た瞬間、笑った。
「竹下?」
春斗が聞く。
「うん。食堂の入口で待ってるって」
「そう」
「……良かったなって言わないの?」
「言ってほしいのか」
「少し」
「良かったな」
「棒読み」
「知ってる」
春斗は先に電車へ乗った。
私はその後ろを追いながら、スマートフォンを胸元へ持つ。
好きな人からの約束。
嬉しい。
それなのに、春斗の棒読みの「良かったな」にも少し笑ってしまった。
◇
午前七時二十二分。
水橋高校第三校舎、一年特進SSクラス。
教室へ入ると、竹下くんはすでに席へ座っていた。
サッカー部の友人たちと話していたが、私に気づくと手を上げる。
「おはよう、久保さん」
「おはよう!」
「メッセージ見た?」
「見たよ。食堂の入口ね」
「うん。昼休み、混む前に行った方がいいかなと思って」
「じゃあ、チャイム鳴ったらすぐ行く」
「俺も」
約束を確認する。
それだけなのに、教室へ来るまで抱えていた緊張が一気に現実味を帯びた。
本当に二人で食べるのだ。
「竹下、今日久保さんと昼?」
近くにいた小野寺くんが、すぐに会話へ入ってくる。
「うん」
「二人で?」
「そうだけど」
「へえ」
小野寺くんが、にやにやと笑う。
「何だよ」
「いや、別に」
「その顔で別には無理あるだろ」
「俺たちを置いて二人で昼飯か」
「昨日一緒に食べただろ」
「今日も誘ってくれていいのに」
「今日は二人でって俺が言ったから」
竹下くんがさらりと言う。
私は固まった。
周囲にいた男子たちも反応する。
「竹下、意外と積極的じゃん」
「そういうのじゃないって」
「何で二人がいいの?」
「昨日、あんまり話せなかったから」
竹下くんが私を見る。
「久保さんのこと、もう少し知りたいし」
心臓が止まりそうになった。
教室の空気が一瞬だけ止まり、そのあと一気に騒がしくなる。
「おおー!」
「竹下、それは強い」
「朝から何聞かされてるんだ俺たち」
「久保さん、顔真っ赤!」
「うるさい!」
私は両手で頬を押さえた。
熱い。
絶対に真っ赤だ。
「竹下くん、それみんなの前で言う?」
「え、変だった?」
「変じゃないけど!」
「じゃあいいじゃん」
本人は何も分かっていないように笑っている。
小野寺くんが竹下くんの肩を叩いた。
「お前、無自覚でそういうこと言うのやめた方がいいぞ」
「何で」
「久保さんが倒れる」
「倒れない!」
否定したけれど、本当に少し眩暈がしそうだった。
後ろを見ると、愛ちゃんは机へ突っ伏し、肩を震わせて笑っている。
「愛ちゃん!」
「ごめん、無理」
「助けてよ!」
「竹下くん、すごいね」
「何が?」
「そのままでいて」
「小野寺と同じこと言うなよ」
教室中に笑いが広がる。
私は恥ずかしさで消えたくなった。
でも同時に、胸の奥が温かかった。
竹下くんは、私のことをもう少し知りたいと言った。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返された。
◇
一時間目と二時間目は、ほとんど集中できなかった。
先生の説明は耳に入っているのに、頭の中では昼休みの会話ばかり考えてしまう。
竹下くんの趣味を聞く。
好きな食べ物。
休日に何をしているか。
中学時代のこと。
家族のことは急に聞いたら重いかもしれない。
好きなタイプは、さすがに早い。
恋人がいたことがあるかも、聞けない。
「久保」
先生の声が飛んでくる。
「はい!」
「今の問題、答えは?」
「えっと……」
黒板を見る。
全く分からない。
教室から小さな笑いが起こる。
「今日は珍しく上の空だな」
「すみません」
「昼休みのことでも考えてたか?」
先生が冗談めかして言う。
教室の何人かが笑い、私の顔はまた熱くなった。
「先生まで!」
「何だ、本当に何かあるのか」
「何もないです!」
「久保、竹下と昼飯らしいですよ」
男子の一人が余計なことを言う。
「なるほど」
「納得しないでください!」
教室がさらに笑いに包まれる。
竹下くんは少し困ったように笑いながら、私へ小さく手を合わせていた。自分から誘ったせいでからかわれていると思っているのだろう。
私は首を振る。
嫌ではない。
恥ずかしいだけ。
先生は笑いながら黒板へ向き直った。
「昼休みまでまだ二時間ある。今は授業へ戻ってこい」
「はい……」
私は教科書へ視線を落とす。
愛ちゃんが後ろから、鉛筆の先で私の背中を軽く突いた。
振り返ると、ノートの端に小さく書かれている。
『落ち着け、恋する乙女』
私はその下へ返す。
『無理』
愛ちゃんは笑いを堪えながら前を向いた。
◇
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちで椅子を引く音が響いた。
弁当を広げる生徒。
食堂へ急ぐ生徒。
購買へ走る男子。
私は慌てて教科書を片づけ、鞄から財布を取り出す。
手が少し震えていた。
「真理」
愛ちゃんが後ろから呼ぶ。
「何?」
「深呼吸」
「してる」
「浅い」
「どうしよう」
「食べて話すだけ」
「話途切れたら?」
「竹下くんが何か話すよ」
「食べ方変じゃない?」
「いつも通りでいい」
「口元についたら?」
「拭けばいい」
「愛ちゃんも来る?」
「行かない」
「即答!」
「二人でって誘われたんでしょ」
「そうだけど」
「頑張って」
愛ちゃんが私の肩へ両手を置く。
いつものからかうような笑いではなく、少しだけ優しい顔だった。
「真理は、変に作らない方がいいよ」
「何を?」
「自分を。竹下くん、今の真理をもう少し知りたいって言ったんだから」
その言葉に、私は少しだけ落ち着いた。
「……うん」
「あと」
「何?」
「春くんのこと考えすぎない」
「え」
愛ちゃんの視線が、私の机の上に置かれたスマートフォンへ向く。
「朝から何回か見てたでしょ」
「竹下くんから連絡来るかもって」
「春くんとのトーク画面だったよ」
「見たの!?」
「偶然」
私は慌ててスマートフォンを鞄へ入れた。
「別に、連絡してないよ」
「分かってる。でも、今日くらいは竹下くんだけ見れば?」
「見てるよ」
「ならいいけど」
愛ちゃんは少しだけ困ったように笑った。
「真理が誰を好きなのか、自分で分からなくならないようにね」
「竹下くんだよ」
私はすぐに答えた。
迷いはない。
竹下くんが好き。
今日、二人で昼食を食べられることが嬉しくて、朝から何度も緊張している。
だから、間違いない。
「うん」
愛ちゃんはそれ以上何も言わず、私の背中を軽く押した。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
私は教室を出た。
◇
食堂の入口には、すでに多くの生徒が集まっていた。
券売機の前には列ができ、入口付近では席を探す生徒たちが足を止めている。食器の触れ合う音や笑い声、厨房から聞こえる調理器具の音が重なり、昼休みらしい賑やかさに包まれていた。
その中で、竹下くんはすぐに見つかった。
壁際へ寄り、こちらを探している。
私に気づくと、少し大きく手を上げた。
「久保さん」
「待った?」
「今来たところ」
ありきたりな言葉。
でも、好きな人から言われると特別に聞こえる。
「何食べる?」
「まだ決めてない」
「俺、今日は生姜焼き」
「じゃあ私も」
「同じでいいの?」
「え」
また合わせたと思われる。
「いや、私は唐揚げにしようかな」
「好きなの頼めばいいじゃん」
「……じゃあ唐揚げ」
「久保さん、昨日カレーだったよね」
「覚えてるの?」
「同じテーブルだったから」
「そっか」
少しだけ期待しすぎた。
でも、覚えていたことはやっぱり嬉しい。
二人で食券を買い、空いている席を探す。
窓際の二人席がちょうど空いた。
「ここでいい?」
「うん」
竹下くんが先に席を取り、私は料理を受け取りに行く。
トレーを持って戻ると、竹下くんが窓側の席へ座っていた。
向かいではなく、斜め向かい。
距離が近い。
私は少し緊張しながら椅子を引いた。
「いただきます」
「いただきます」
二人で同時に言う。
最初の一口。
味がよく分からない。
唐揚げはいつもと同じはずなのに、口の中へ入れても緊張で噛む回数ばかり意識してしまう。
「久保さん」
「何?」
「緊張してる?」
いきなり見抜かれた。
「してないよ」
「箸、さっきから唐揚げの横掴んでる」
見ると、私の箸は唐揚げではなく千切りキャベツの端を押さえていた。
「……少ししてる」
「俺も」
「え?」
竹下くんが少し笑う。
「二人で食べたいって言ったけど、何話そうかなって朝から考えてた」
「竹下くんも?」
「うん」
「全然そう見えない」
「久保さんほど顔に出ないだけ」
「またそれ」
「でも、本当に緊張してるよ」
そう言いながら、生姜焼きを食べる。
いつもと変わらないように見える。
でも、少しだけ耳が赤い気がした。
自分だけではない。
春斗が今朝言った通りだった。
私だけが試されているわけではない。
「私も朝から何話そうって考えてた」
「何か決まった?」
「趣味を聞こうと思ってた」
「春斗くんの案?」
箸が止まる。
「何で分かるの?」
「昨日、恋愛相談してないって言ってたときの反応が怪しかったから」
「……ごめん」
「本当にしてるんだ」
「少しだけ」
嘘をつき続けるより、正直に言った方がいい気がした。
でも、恋愛相談の相手が自分だとは竹下くんも思っていないだろう。
「幼馴染に、男の子の意見を聞くことはあるよ」
「俺のことも?」
「……少し」
「何て聞いたの?」
「それは言えない!」
竹下くんが声を立てて笑う。
「そっか」
「嫌だった?」
「何が?」
「春斗に相談してたこと」
聞いた瞬間、自分でも緊張した。
愛ちゃんに言われた。
竹下くんが、私と春斗の距離をどう思うかは分からない。
竹下くんは少しだけ考え、箸を置いた。
「嫌っていうか、ちょっと気にはなる」
「やっぱり?」
「毎日一緒に来てるんでしょ?」
「家が近いから」
「帰りも?」
「大体一緒」
「仲いいんだね」
声は穏やかだった。
責めるような言い方ではない。
でも、何となく探られているように感じる。
「小さい頃からずっと一緒だから」
「彼氏じゃない?」
「違うよ!」
思ったより大きな声が出た。
隣の席の女子たちがこちらを見る。
私は慌てて声を落とした。
「本当に違うから」
「分かってる」
「本当?」
「うん。久保さん、俺のこと好きそうだし」
「え」
竹下くんが言ってから、自分で固まった。
「……いや」
「今、何て?」
「違う。何でもない」
「聞こえたよ!」
私の顔が一気に熱くなる。
竹下くんも耳まで赤くなった。
「ごめん」
「何で謝るの」
「決めつけたみたいになった」
「……間違ってないけど」
小さく答えた。
自分でも聞こえるか分からないほどの声だった。
竹下くんの目が少し大きくなる。
「え」
「何でもない!」
「今、間違ってないって」
「言ってない!」
「言った」
「聞き間違い!」
私は唐揚げを口へ入れた。
味はもう全く分からない。
竹下くんは少し黙り、それからゆっくり笑った。
「久保さん、本当に分かりやすいね」
「もうそれ言わないで」
「でも、嫌じゃない」
「え?」
「分かりやすいの」
竹下くんは少し照れたように視線を逸らした。
「何考えてるか分からないより、話しやすいから」
それは褒められているのだろうか。
少なくとも、嫌われてはいない。
「竹下くんは分かりにくいよ」
「そう?」
「今も全然緊張してるように見えない」
「してるって」
「どのくらい?」
「朝、小野寺に何話せばいいって聞いた」
「相談してるじゃん!」
「お互い様」
二人で笑う。
さっきまでの緊張が、少しずつほどけていく。
「じゃあ、趣味聞いていい?」
「どうぞ」
「サッカー以外で何が好き?」
「ゲームかな。あとは漫画」
「意外」
「何で?」
「ずっと運動してそう」
「そんなに体力ないよ」
「春斗と同じこと言ってる」
「幼馴染、ゲームするの?」
「本読む方が多いけど、ゲームもするよ」
「二人でやる?」
「小さい頃は。今はあんまり」
「へえ」
竹下くんが少しだけ考える。
「久保さん、春斗くんの話するとき自然だね」
「え?」
「俺と話してるときより」
胸が少し詰まる。
「それは、昔から知ってるから」
「そっか」
竹下くんの声は普通だった。
でも、ほんの少しだけ寂しそうに聞こえた。
「竹下くんとも、そのうち自然に話せるようになりたい」
私はすぐに言った。
「本当?」
「うん。もっと仲良くなりたい」
今度ははっきり言えた。
竹下くんは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「俺も」
短い言葉。
それだけで、胸の奥が大きく跳ねた。
「久保さんのこと、もっと知りたい」
朝、教室でも言われた。
でも、二人きりで聞くと意味が違うように感じる。
「私も、竹下くんのこと知りたい」
「じゃあ、また二人で食べよう」
「うん」
「昼だけじゃなくて、帰りとかも」
「え?」
竹下くんが少しだけ言い淀む。
「部活ない日があったら、駅まで一緒に行く?」
一瞬、春斗の顔が浮かんだ。
毎日一緒に帰っている春斗。
昨日の夜、「明日の朝も一緒だよね」と確認した自分。
竹下くんと一緒に帰りたい。
好きな人に誘われた。
断る理由はない。
それなのに、すぐに「うん」と言えなかった。
「……部活ない日、あるの?」
「月曜は休みになること多いよ」
「そっか」
「難しい?」
「違う!」
慌てて否定する。
「一緒に帰りたい」
「本当?」
「うん。でも、春斗と毎日帰ってるから」
言ってから後悔した。
今、竹下くんに春斗の話をする必要はなかった。
竹下くんは少しだけ黙る。
「じゃあ、春斗くんも一緒?」
「え」
「三人で」
「それは……」
想像する。
竹下くんと春斗と私。
好きな人と幼馴染。
気まずい。
ものすごく気まずい。
「無理かも」
「久保さんが?」
「たぶん春斗が」
「何で?」
「竹下くんの話をすると、最近少し変だから」
口から出てしまった。
「変?」
「機嫌悪くなるというか、聞きたくないこともあるって」
竹下くんの表情が少し真面目になる。
「それって」
「何?」
「春斗くん、久保さんのこと好きなんじゃない?」
時間が止まった。
食堂の音が遠くなる。
周囲では生徒たちが笑い、食器の音が続いている。誰かが椅子を引き、厨房から大きな声が聞こえる。
それでも、その瞬間だけは竹下くんの言葉しか聞こえなかった。
「……ないよ」
ようやく声が出た。
「絶対ない」
「何で分かるの?」
「春斗は恋愛に興味ないって言ってるし」
「本当に?」
「うん」
「久保さんに言ってないだけかも」
「ないって」
私は少し強く言った。
否定したい。
春斗が私を好き。
そんなことは考えたこともなかった。
小さい頃からずっと一緒で、喧嘩もして、何度も助けてもらって、何でも話してきた。
でも、恋愛ではない。
「ごめん」
竹下くんが静かに言う。
「変なこと言った」
「ううん」
「ただ、俺だったら」
「え?」
「好きな子から、別の男の話ばかり聞くのは嫌かもって思っただけ」
竹下くんの声は少し低かった。
私は竹下くんを見る。
「好きな子?」
「例えだよ」
「あ……うん」
期待した自分が恥ずかしい。
でも、竹下くんの言葉が胸に残る。
好きな子から、別の男の話ばかり聞くのは嫌。
春斗が、私の竹下くんの話を聞きたくない理由。
愛ちゃんの意味ありげな言葉。
春斗のお母さんが言いかけてやめたこと。
昨日、春斗が苦しそうに言った「幼馴染だから言えないこともある」。
全てが一瞬だけつながりそうになった。
でも。
「やっぱり違うよ」
私は小さく言った。
「春斗は、そんな感じじゃない」
「そっか」
「うん」
竹下くんはそれ以上言わなかった。
会話はそのあと、好きな漫画や休日の過ごし方へ戻った。
竹下くんはサッカー漫画以外にも、意外と恋愛漫画を読むらしい。姉が二人いて、家に置いてあるものを読んでいるうちに詳しくなったと言っていた。
私は笑った。
竹下くんも笑った。
楽しい。
ちゃんと楽しかった。
竹下くんのことを前よりも知ることができた。
でも、食堂を出るまで。
春斗が私を好きかもしれない。
その言葉が、頭の奥から消えなかった。
◇
午後の授業中、私は何度も窓の外を見てしまった。
竹下くんとの昼食は成功だったと思う。
会話は途切れなかった。
お互いの趣味を知った。
また二人で食べようと約束した。
部活が休みの日には、一緒に帰ろうとも誘われた。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
なのに。
『春斗くん、久保さんのこと好きなんじゃない?』
竹下くんの声が頭の中で繰り返される。
ありえない。
春斗は恋愛に興味がない。
昨日も、自分に好きな人はいないと言っていた。
でも。
あのとき、少し間があった。
高橋さんが好きかと聞いたときは、違うとすぐに答えた。
私が竹下くんの話をすると、機嫌が悪くなる。
聞きたくないこともあると言った。
私が竹下くんと付き合えば、今まで通りではいられないと言った。
「……」
「真理」
後ろから愛ちゃんが小さく呼ぶ。
振り返ると、先生に見つからないようノートの端へ文字を書いていた。
『どうだった?』
私は少し迷い、返す。
『楽しかった』
愛ちゃんがにやりと笑う。
『何か進んだ?』
『また二人で食べる』
『すごい』
『部活休みの日、一緒に帰るかも』
愛ちゃんの目が大きくなる。
嬉しそうに親指を立てる。
でも私は、続きを書いた。
『竹下くんに、春斗が私を好きなんじゃないかって言われた』
愛ちゃんの表情が止まった。
ゆっくり私を見る。
驚いている。
でも、内容そのものに驚いたというより、ついに言われたことに驚いているように見えた。
『違うよね?』
書く。
愛ちゃんはしばらく返事をしなかった。
やがてノートへゆっくり書く。
『私からは言わない』
またそれ。
胸がざわつく。
『否定してよ』
書く。
愛ちゃんは困った顔をした。
『春くん本人に聞いた方がいい』
その文字を見た瞬間、心臓が強く鳴った。
本人に聞く。
春斗へ。
『私のこと好きなの?』
無理だ。
聞けるはずがない。
もし春斗が笑って否定したら、恥ずかしい。
もし、否定しなかったら。
その先が分からない。
私は竹下くんが好きだ。
それなのに、春斗の気持ちを知ってしまったら、今まで通りではいられなくなる。
愛ちゃんが、もう一度ノートへ書く。
『怖い?』
私は返せなかった。
怖い。
何が怖いのかは分からない。
春斗が私を好きなこと?
春斗が私を好きではないこと?
どちらを想像しても、胸が落ち着かなかった。
◇
放課後。
竹下くんは部活へ向かう前に、私の席へ来た。
「久保さん」
「何?」
「今日はありがとう」
「こっちこそ」
「楽しかった」
「私も」
「また誘っていい?」
「うん」
今度は迷わず答えた。
竹下くんが笑う。
「月曜、部活休みになったら連絡する」
「一緒に帰る話?」
「うん」
「分かった」
「春斗くんには、俺から言った方がいい?」
「え」
「毎日一緒に帰ってるなら、急に久保さんだけいなくなったら困るかなって」
「大丈夫。私から言う」
「そっか」
竹下くんは少しだけ迷ったあと、声を落とした。
「昼の話、気にしすぎないで」
「春斗のこと?」
「うん。俺が勝手に思っただけだから」
「……分かった」
「じゃあ、部活行ってくる」
「頑張って」
竹下くんが教室を出ていく。
私はその背中を見送った。
好きな人と二人で昼食を食べた。
また誘ってもらえた。
一緒に帰る約束までできそう。
本来なら、すぐに春斗へ話したい。
今までの私なら、合流した瞬間から全部報告していた。
でも今日は、何から話せばいいのか分からなかった。
◇
午後四時十分。
いつもの合流場所へ向かうと、春斗はすでに来ていた。
壁際へ寄り、本を読んでいる。
私に気づくと、本を閉じた。
「遅い」
「一分」
「一分は一分」
「今日はそれ言う気分じゃない」
私の声を聞き、春斗の眉が少し動く。
「何かあった?」
「……あった」
「竹下?」
すぐに名前が出る。
「うん」
「昼、どうだった」
春斗の方から聞いた。
昨日は細かいことまで聞きたくないと言っていたのに。
「楽しかった」
「そう」
「また二人で食べようって」
「良かったな」
いつもの言葉。
でも今日は、春斗の顔を真っ直ぐ見られなかった。
「それだけ?」
「何が」
「聞かないの?」
「何を」
「何話したとか」
「聞いてほしいのか」
「分からない」
「何だそれ」
春斗が少し困った顔をする。
二人で駅へ向かって歩き始める。
夕方の校門付近には、下校する生徒たちが溢れていた。部活動へ向かう者、自転車置き場へ急ぐ者、友人と笑いながらバス停へ歩く者。それぞれの声が重なり、いつもの賑やかさが広がっている。
「真理」
「何?」
「昼、嫌なこと言われた?」
「嫌なことじゃない」
「じゃあ何」
私は少し黙った。
春斗の横顔を見る。
昔から見慣れた顔。
眠そうな目。
整っているけれど、いつも感情が分かりにくい表情。
「春斗」
「何」
「私のこと、好き?」
聞いてしまった。
春斗の足が止まる。
私も止まった。
周囲の生徒たちは私たちを避けながら歩いていく。
春斗は何も言わない。
目が少し見開かれている。
「……何で」
ようやく出た声は、いつもより低かった。
「竹下くんに言われた」
「竹下に?」
「春斗が私を好きなんじゃないかって」
春斗の表情が消える。
「何でそんな話になった」
「春斗に恋愛相談してるって言ったから。竹下くんだったら、好きな子から別の男の話ばっかり聞くのは嫌だって」
「……」
「違うよね?」
自分でも驚くほど、すぐに答えを求める声が出た。
違うと言ってほしいのか。
違わないと言ってほしいのか。
分からない。
春斗は私から目を逸らした。
「春斗」
「……違う」
答えが落ちる。
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
安心すると思っていた。
でも、何かが冷たくなる。
「そっか」
「うん」
「そうだよね」
「何で聞いた」
「竹下くんが言うから」
「それだけ?」
「それだけだよ」
私は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「春斗が私を好きなわけないもんね」
「……」
「幼馴染だし」
春斗の拳が、鞄の持ち手を強く握る。
「そうだな」
声が少し掠れていた。
「じゃあ、何で竹下くんの話を嫌がるの?」
「嫌がってない」
「聞きたくないこともあるって」
「それは」
「何?」
春斗は答えない。
違うと言った。
私を好きではない。
なら、なぜあんなに苦しそうなのか。
「春斗、嘘ついてる?」
「ついてない」
「顔、変だよ」
「お前に言われたくない」
「私のこと、よく顔で分かるって言うじゃん」
「……」
「私も分かるよ。春斗、今すごく困ってる」
「真理」
「何」
「もうやめよう」
「何を?」
「この話」
「でも」
「竹下が好きなんだろ」
また、その言葉。
私は竹下くんが好き。
それは間違いない。
「うん」
「じゃあ、俺がどう思ってるかなんて関係ない」
「関係あるよ」
「何で」
「春斗だから」
「それが一番分からない」
春斗の声が少し強くなる。
「竹下が好きなら、竹下だけ見てればいい。俺が誰を好きでも、何を思ってても関係ないだろ」
「関係ある!」
私も声を強くした。
近くを歩いていた生徒が一瞬こちらを見る。
「春斗が誰かを好きなら気になるし、私のことを嫌いなら嫌だし、遠くなるのも嫌」
「でも俺が好きな奴と付き合うために協力はできるんだろ」
「できるよ」
「本当に?」
「……できる」
少しだけ遅れた。
春斗はそれに気づいた。
「今、迷った」
「迷ってない」
「迷っただろ」
「想像したことないから」
「俺は毎日想像させられてる」
その言葉に、私は止まった。
春斗も自分で言ってしまったことに気づいたように、口を閉じる。
「何を?」
「……」
「竹下くんと私が付き合うこと?」
春斗は答えない。
「それが嫌なの?」
「違う」
「じゃあ何」
「分からない」
「春斗、さっきから違うしか言わない」
「じゃあどう言えばいいんだよ」
初めて。
春斗が声を荒らげた。
周囲の音が遠くなる。
「お前が竹下を好きだって言うから、協力した。連絡先を聞く方法も考えた。送る文章も、話す内容も考えた。でも、上手くいくたびに嬉しそうに報告されて、平気な顔で聞けると思うか?」
「……」
「聞きたくない。でも聞かないと気になる。話すなって言ったら、お前が悲しむ。話していいって言えば、俺が苦しい」
春斗はそこで言葉を止めた。
息が少し乱れている。
「それって」
声が震える。
「私のこと、好きだからじゃないの?」
春斗は私を見る。
長い沈黙。
でも、答えは出なかった。
「……言えない」
「何で」
「言ったら、お前が困るから」
「それ、前にも言った」
「実際困ってるだろ」
私は何も言えない。
困っている。
もし春斗が私を好きなら、どうすればいい。
私は竹下くんが好き。
でも春斗が遠くなるのは嫌。
春斗の気持ちを無視することもできない。
「俺が何を言っても、お前は竹下を選ぶ」
「……」
「それでいい」
「良くない」
「何が」
「春斗が苦しいままなのは嫌」
「じゃあ竹下を諦める?」
問われる。
すぐに答えられない。
竹下くんを諦める。
今日の昼食。
もっと知りたいと言ってくれたこと。
また二人で食べようと約束したこと。
一緒に帰ろうと誘われたこと。
全部を手放せるか。
「……無理」
小さく答えた。
春斗が寂しそうに笑う。
「だろ」
「でも」
「なら、もう聞くな」
「春斗」
「俺が何を思ってても関係ない」
「あるよ」
「ない」
「ある!」
「真理」
春斗の声が、今度は静かになる。
「お前の恋を邪魔したくない」
その言葉が胸へ刺さった。
「だから、これ以上聞くな」
春斗は歩き出す。
私はすぐに追えなかった。
数歩先へ進んだ春斗が振り返る。
「電車、遅れるぞ」
いつもの言葉。
でも、いつもの空気ではない。
私は黙って春斗の隣へ並んだ。
二人の間には、初めて言葉では埋められない距離ができていた。
◇
帰りの電車では、二人並んで座ることができた。
でも、春斗は本を開かなかった。
私はスマートフォンも見なかった。
窓の外を流れる夕暮れの景色を、二人とも別々に見ている。
肩は触れそうなほど近い。
それなのに、今までで一番遠く感じた。
「春斗」
「何」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「嘘」
「疲れた」
「ごめん」
「謝るな」
「でも」
「お前は悪くない」
「そればっかり」
「本当にそうだから」
私は膝の上で両手を握る。
「竹下くんに、一緒に帰ろうって言われた」
春斗の横顔がわずかに動く。
「部活が休みの日」
「そう」
「月曜かも」
「分かった」
「怒らない?」
「何で俺が怒るんだよ」
「一緒に帰れなくなるから」
「一日くらい平気だろ」
「……そっか」
少し寂しい。
平気だと言われたことが。
でも、春斗が平気ではないことを、今はもう少しだけ分かっている。
「春斗」
「何」
「私、竹下くんのこと好きだよ」
「知ってる」
「でも、春斗も大事」
「そういうこと言うな」
「何で」
「期待するから」
春斗が小さく言った。
私は息を止める。
「何を?」
「何でもない」
「また逃げる」
「今は無理」
「いつなら言える?」
「知らない」
春斗は目を閉じた。
「少しだけ、考えさせて」
初めて、春斗がそう言った。
私はそれ以上聞けなかった。
「……分かった」
返事をすると、車内には電車の走る音だけが残った。
窓ガラスには、並んで座る私たちの姿が映っている。
いつもと同じ。
でも、もう同じではない。
◇
夜、午後九時二十四分。
自室のベッドへ座り、私はスマートフォンを見ていた。
竹下くんから届いたメッセージ。
『今日はありがとう。楽しかった』
『月曜、休み決まったら連絡する』
嬉しいはずの言葉。
何度も待ち望んでいた進展。
でも、今は返信を考える指が止まる。
春斗の言葉が頭から離れない。
『話すなって言ったら、お前が悲しむ。話していいって言えば、俺が苦しい』
『期待するから』
春斗は私を好きなのだろうか。
はっきりとは言わなかった。
違うとも言った。
でも、あの否定は嘘だったように思う。
私が困らないように。
竹下くんとの恋を邪魔しないように。
春斗は、何も言わないことを選んでいる。
「……どうしたらいいの」
声にしても答えはない。
私は竹下くんが好き。
今日、二人で過ごせて嬉しかった。
もっと竹下くんのことを知りたい。
もっと近づきたい。
でも。
春斗が私の知らないところで苦しんでいるのは嫌だ。
春斗が遠くなるのも嫌だ。
竹下くんと一緒に帰る日、春斗が一人で駅へ向かう姿を想像すると、胸が痛い。
それは恋なのだろうか。
分からない。
幼馴染だから寂しいだけかもしれない。
今まで毎日一緒だったから、変化が怖いだけかもしれない。
私は竹下くんとのトーク画面へ戻る。
『私も楽しかった! 月曜、楽しみにしてるね』
送信する。
すぐに既読がついた。
『うん!』
短い返事。
胸が少し温かくなる。
でも、そのあとすぐ春斗とのトーク画面を開いた。
何か送りたい。
『今日はごめん』
打つ。
消す。
『怒ってる?』
打つ。
消す。
『明日の朝も一緒だよね』
昨日と同じ言葉。
でも、今は送れなかった。
春斗は少し考えさせてと言った。
なら、今は何も送らない方がいい。
私はスマートフォンを伏せた。
一分。
二分。
五分。
通知は来ない。
竹下くんからのメッセージは届いた。
愛ちゃんからも『どうだった?』と来ている。
それなのに、私が待っているのは春斗からの短い連絡だった。
そのことに気づき、胸がさらに苦しくなった。
◇
同じ頃。
春斗は自室の机へ座り、何度もスマートフォンを手に取っていた。
真理から連絡はない。
いつもなら、竹下との昼食について長い報告が届いていたかもしれない。
今日は来ない。
自分が言った。
少し考えさせてほしい、と。
だから当然だ。
それでも、画面が静かなことが苦しい。
「……言いすぎた」
春斗は小さく呟いた。
真理に聞かれた。
好きなのか。
違うと答えた。
嘘だった。
本当のことを言えば、真理を困らせる。
実際、少し漏らしただけで真理は困った顔をした。
竹下を諦められるかと聞けば、無理だと答えた。
当然だ。
真理は竹下が好きなのだから。
分かっていた。
それでも、直接言われると苦しかった。
スマートフォンの画面を開く。
真理とのトーク画面。
最後のやり取りは昨夜の『良かった』。
今日のことは何も残っていない。
何か送る。
何を。
『明日の朝、いつも通り』
それだけ打つ。
送れない。
いつも通り。
もう、いつも通りではない。
春斗は文章を消した。
そのあと、少し考え。
『明日、五分早い』
送る。
理由はない。
母親の早番でもない。
ただ、いつもより少し早く真理と話したかった。
送ってから、自分でも馬鹿だと思う。
すぐに既読がついた。
『分かった』
それだけ。
少し間が空き、もう一件届く。
『朝、一緒だよね』
春斗は画面を見つめた。
胸の奥が痛む。
『当たり前だろ』
昨日と同じ返事を送る。
すぐに既読がつく。
『良かった』
同じやり取り。
でも、意味は昨日とは違う。
春斗はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。
真理は竹下が好き。
自分も、もう隠しきれないほど真理が好き。
それでも、どちらも今すぐには変えられない。
翌朝になれば、二人はまた同じ車へ乗り、同じ駅から電車へ乗る。
何も解決していない。
それでも、朝は一緒にいる。
その約束だけが、二人をまだ幼馴染の場所へ繋ぎ止めていた。




