第6話 好きな人との約束が嬉しいのに、幼馴染が笑わないと落ち着きません
翌朝、午前五時三十九分。
私は目覚ましが鳴る直前に目を覚まし、薄暗い天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。
昨日と同じように、枕元のスマートフォンが気になる。
竹下くんから何か来ているかもしれない。
昨日は朝練へ行く前に「おはよう」と送ってくれた。今日も同じように届いていたら嬉しい。でも、二日続けて来なかったからといって、落ち込むのは違う気がする。
まだ連絡先を交換して二日しか経っていない。
毎朝必ず連絡を取り合うような関係ではない。
分かっている。
分かっているのに、私は布団の中から手だけを伸ばし、スマートフォンを掴んだ。
画面をつける。
通知は二件。
一件は、愛ちゃんから昨夜遅くに届いたスタンプだった。もう一件は学校のクラスグループで、今日の朝課題を忘れないようにという学級委員からの連絡だった。
竹下くんの名前はない。
「……そりゃ、毎日来るわけないよね」
私は少しだけ笑い、自分へ言い聞かせるように呟いた。
落ち込むほどのことではない。
昨日の夜には数学について何度もやり取りをしたし、「また頼るかも」とも言ってくれた。むしろ十分すぎるくらい進んでいる。
スマートフォンを置き、ベッドから起き上がる。
そのとき、画面が震えた。
反射的に手へ取る。
竹下雅人。
『おはよう。昨日教えてもらった問題、朝もう一回やったら解けた!』
胸の奥が一気に明るくなる。
来た。
今日も来た。
「落ち込んでないし」
誰もいない部屋で、私は言い訳をした。
すぐに返信を打とうとして、少しだけ考える。
『おはよう! 本当? よかった!』
普通。
悪くない。
でも、これだけでは会話が終わってしまうかもしれない。
何か質問を返した方がいい?
朝練は?
今日もある?
昨日、春斗は「何でも俺に聞かず、自分で考えろ」と言っていた。
私は少し迷ったあと、自分で文章を続けた。
『おはよう! 本当? よかった! 今日も朝練?』
送信する。
すぐには既読がつかない。
私はスマートフォンを机へ置き、制服へ着替え始めた。
シャツのボタンを留めている途中で、また通知が鳴る。
『今日は朝練なし。少し早めに学校行って自主練するけど』
少し早めに学校へ行く。
ということは。
今日は教室で話せる時間が長いかもしれない。
『すごいね。朝からちゃんと練習するんだ』
『大会前だからね。久保さんも今日早い?』
手が止まる。
私の予定を聞かれた。
同じ学校なのだから、登校時間を知りたいだけかもしれない。
それでも嬉しい。
『いつも通りだよ。七時二十分くらいには教室にいると思う!』
『じゃあ俺もそのくらいになるかも』
私はベッドへ座り込んだ。
同じくらい。
だから何という話ではない。
同じ教室なのだから、同じ時間にいることは珍しくもない。
それなのに、まるで待ち合わせの約束をしたような気持ちになってしまう。
「落ち着いて、私」
深呼吸する。
竹下くんは、ただ登校時間を伝えただけ。
恋愛的な意味はない。
でも、嬉しいものは嬉しい。
私は最後に『じゃあ学校で!』と送り、スマートフォンを鞄へ入れた。
玄関へ向かいながら、ふと思う。
春斗へ話したい。
今日も竹下くんから朝メッセージが来たこと。
登校時間が同じくらいだと分かったこと。
昨日なら、送るかどうか迷った。
今朝も少し迷った。
結局、私は春斗とのトーク画面を開いた。
『今日、竹下くんと同じくらいの時間に学校着くかも』
打つ。
そこまで打ってから、指を止めた。
わざわざ送るほどのことだろうか。
春斗はまだ起きていても、朝から竹下くんの話を送りつけられても困るかもしれない。
私は文章を消した。
「会ってからでいいか」
そう呟き、玄関を出た。
◇
午前五時四十六分。
今日の送迎は私の母だった。
助手席へ乗ると、母はすぐに私の顔を見た。
「朝から機嫌いいね」
「普通だよ」
「最近その返事、春ちゃんに似てきた」
「やめてよ」
「何かあった?」
「何もない」
「竹下くん?」
「何で毎回そこに行くの!」
「当たってるからでしょう」
私はシートベルトを締めながら頬を膨らませた。
後部座席には春斗が座っている。
今日はすでに文庫本を開いていた。
「おはよう」
「はよ」
顔を上げずに返事をする。
昨日よりも普通。
本当にいつも通り。
私は助手席から身体を少し捻り、春斗を見る。
「ねえ」
「何」
「今日、竹下くん朝練ないんだって」
「そう」
「でも早めに行って自主練するらしいよ」
「そう」
「すごくない?」
「部活やってるなら普通じゃない」
「朝からだよ?」
「大会前ならあるだろ」
「春斗は朝から走れる?」
「無理」
「即答」
「眠い」
母が運転しながら笑う。
「春ちゃんは昔から朝弱いものね」
「母さん、運転して」
「してるわよ」
「前見て」
「見てます」
春斗は本へ視線を戻した。
私は、もう少し話したい。
「それでね、竹下くんも七時二十分くらいに学校着くって」
「……そう」
ほんの少し。
返事の前に間があった。
「同じくらいの時間なんだ」
「良かったな」
「またそれ」
「良かったんだろ」
「うん」
「じゃあいいじゃん」
春斗は本のページをめくる。
私は前へ向き直った。
春斗の反応は薄い。
昨日も同じだった。
でも今日は機嫌が悪いわけではない。
たぶん。
「真理」
母が小さな声で呼ぶ。
「何?」
「後ろ向きすぎ」
「シートベルトしてるから大丈夫」
「そういう問題じゃない」
「ちゃんと前向くよ」
「春ちゃんの顔、そんなに気になる?」
「え?」
思わず母を見る。
母は道路を見たまま、少しだけ笑っていた。
「竹下くんの話をしてるのに、春ちゃんの反応ばっかり見てるから」
「見てないよ」
「見てたわよ」
「昔から春斗は反応薄いから、ちゃんと聞いてるか確認してるだけ」
「そう?」
「そうだよ」
後ろからページをめくる音がする。
春斗は何も言わない。
母もそれ以上追及しなかった。
車内に朝のニュースが流れる。
私は窓の外へ視線を向けた。
低い雲の隙間から淡い光が差し、田んぼの水面へ細長く反射している。まだ眠っているような住宅街を抜けるたび、時折犬の散歩をする人や、自転車で駅へ向かう学生の姿が見えた。
竹下くんと同じくらいの時間に学校へ着く。
それだけで胸が浮ついている。
なのに。
春斗の「良かったな」が、いつもより少し遅かったことまで気になっている。
母が言った通り、私は竹下くんの話をしながら春斗の顔ばかり見ていた。
その理由を考えようとすると、何となく落ち着かなくなった。
◇
岩瀬駅のホームへ着くと、春斗はすぐにベンチへ座った。
私はその隣へ腰を下ろす。
朝のホームには湿った風が吹き、線路沿いの草が静かに揺れていた。遠くでは踏切の警報音が鳴り、まだ姿の見えない電車が近づいていることを知らせている。
春斗は文庫本を開いた。
私はスマートフォンを見る。
竹下くんから新しいメッセージはない。
当然だ。
自主練へ向かっている時間だろう。
「真理」
春斗が本を見たまま名前を呼ぶ。
「何?」
「今日、機嫌いいな」
「春斗まで言うの?」
「分かりやすい」
「みんな同じこと言う」
「実際そうだからだろ」
「竹下くんと少し話しただけだよ」
「朝から?」
「うん」
「……毎日来るんだな」
春斗の声が少しだけ低くなった。
「まだ二日だけど」
「そう」
「何?」
「別に」
「またそれ」
私はスマートフォンを膝の上へ置き、春斗の顔を覗き込む。
「嫌?」
「何が」
「竹下くんからメッセージ来るの」
「俺に関係ない」
「その言い方、冷たい」
「事実だろ」
「でも相談役」
「もう自分で返せてるじゃん」
「それはそうだけど」
「なら俺はいらない」
春斗は淡々と言った。
胸の奥が小さく痛む。
「……いらないって言わないでよ」
思ったよりも素直な声が出た。
春斗が本から顔を上げる。
「恋愛相談は、もう一人でできるだろ」
「全部は無理」
「大丈夫だろ」
「春斗が決めないで」
私は少しむっとして言った。
ホームの端から、通勤客が何人か歩いてくる。朝の静かな空気の中へ、靴音と小さな咳払いが混ざる。
「私、まだ相談したいことあるし」
「大杉もいるだろ」
「愛ちゃんと春斗は違う」
「何が」
「愛ちゃんは女の子の意見。春斗は男の子の意見」
「竹下の気持ちは分からない」
「でも春斗は男でしょ」
「そうだけど」
「それに」
私は一度言葉を止めた。
何と言えばいいか分からない。
愛ちゃんに相談するのも楽しい。
でも春斗へ話したい。
竹下くんとのことが嬉しいとき、一番に報告したくなる。
作戦を考えてほしいからだけではない。
「……昔から、何でも春斗に話してるから」
春斗の目が少し揺れた。
「それ、いつまで続けるつもり?」
「え?」
「竹下と付き合っても、全部俺に話すのか」
「全部じゃないけど」
「デートしたとか」
「話すと思う」
「手を繋いだとか」
「それは……たぶん」
「キスしたとか」
「それは話さないよ!」
声が少し大きくなった。
少し離れた場所にいた作業着姿の男性が、ちらりとこちらを見る。
私は恥ずかしくなり、声を落とした。
「何で朝からそんなこと聞くの」
「お前が何でも話すって言うから」
「何でもには限度があるよ」
「じゃあ、どこまで」
「知らない」
「適当だな」
「春斗が変なこと聞くからでしょ」
私は顔を背けた。
春斗はしばらく黙っていた。
ホームのアナウンスが流れ、電車が入ってくる。
風が強く吹き、私の髪が顔へかかった。
春斗は本を閉じながら、小さく言った。
「俺は、聞きたくないこともある」
「え?」
電車の音に掻き消されそうな声だった。
「何て?」
「何でもない」
「今、何か言ったよね」
「電車来たぞ」
「春斗」
「乗るぞ」
春斗は立ち上がり、私より先に乗車位置へ向かった。
私はその背中を見つめた。
聞きたくないこともある。
そう聞こえた気がした。
何を。
竹下くんとの話を?
昨日は、話すこと自体は嫌ではないと言っていた。
でも、本当は嫌なのだろうか。
私は春斗を追い、同じ車両へ乗った。
◇
午前七時十八分。
水橋高校第三校舎の教室へ入ると、竹下くんはすでに来ていた。
窓際の席で、サッカー部の友人と話している。机の横には少し大きめのスポーツバッグが置かれ、前髪は朝の運動でわずかに乱れていた。
私に気づくと、竹下くんが笑う。
「おはよう、久保さん」
「おはよう!」
「本当に七時二十分くらいだった」
「今日は二分早いよ」
「細かい」
「朝から走ってきた人に言われたくない」
「駅から?」
「少しだけ」
「何で?」
「竹下くんがもういるかと思って」
口から出た。
言ってから、自分で固まる。
教室にいた何人かがこちらを見る。
竹下くんも少し目を開いた。
「えっと、違う!」
「違うの?」
「違わないけど、違うというか!」
何を言っているのだろう。
竹下くんの隣にいた男子が、すぐに笑い始める。
「竹下、待たれてたじゃん」
「いや、そういう意味じゃ」
「久保さん、朝から攻めるね」
「攻めてない!」
教室の奥からも笑い声が聞こえる。
私は顔が熱くなり、鞄を自分の机へ置いた。
「ごめん、変な意味じゃなくて」
「分かってるよ」
竹下くんは困らせるような笑い方ではなく、いつもの優しい表情で言った。
「でも、早く来てくれたなら嬉しいかも」
「え」
「少し話せるから」
一瞬、教室の音が遠くなった。
嬉しい。
今、嬉しいと言った。
「わ、私も」
声が震える。
「少し話せたら嬉しい」
言えた。
竹下くんが笑う。
周囲の生徒たちが、また小さく騒ぎ始める。
「朝から甘い」
「まだ付き合ってないよね?」
「静かに見守ろう」
「全部聞こえてるから!」
私が振り返って抗議すると、教室に笑いが広がった。
竹下くんも笑っている。
恥ずかしい。
でも、それ以上に嬉しかった。
「昨日の数学、本当に助かった」
竹下くんが話を戻す。
「朝、もう一回やったら解けたんでしょ?」
「うん。だから、今日の小テストは少し自信ある」
「今日、小テストあるの?」
「え?」
「え?」
二人で顔を見合わせる。
竹下くんが机の上の時間割表を確認する。
「三時間目」
「聞いてない!」
「昨日、先生言ってたよ」
「嘘!」
「本当」
後ろから愛ちゃんの声が飛んでくる。
「真理、昨日のホームルームで言ってたよ」
「覚えてない!」
「竹下くんとのメッセージで頭いっぱいだったんじゃない?」
「愛ちゃん!」
また周囲から笑いが起こる。
私は慌てて鞄から数学のノートを出した。
「範囲どこ?」
「昨日の問題まで」
「終わった」
「まだ二時間あるよ」
「一緒に見る?」
竹下くんが自分のノートを開く。
「いいの?」
「昨日教えてもらったお礼」
「見る!」
私は椅子ごと少し近づいた。
竹下くんのノートは思っていたより丁寧で、重要な公式には色がつけられている。ただ、ところどころ計算の途中が省略されていて、本人にしか分からない書き方もあった。
「ここ、何?」
「俺の中では分かる」
「私には分からない」
「じゃあ失敗だな」
「見せるノートじゃないね」
「久保さんに見せると思ってなかったから」
その言葉だけで、また胸が跳ねる。
竹下くんの隣。
近い。
同じノートを見る。
教室の朝のざわめきの中で、二人だけ少し違う時間が流れているように感じた。
私は公式を確認しながら、ふと窓ガラスへ視線を向けた。
そこに映っているのは、竹下くんと並んで座る私。
嬉しい。
ちゃんと嬉しい。
なのに。
春斗へこの話をしたら、どんな顔をするのだろう。
そんなことが一瞬頭に浮かんだ。
私は自分でも分からないまま、少しだけ胸の奥が重くなるのを感じた。
◇
三時間目の数学小テストが終わると、教室中から安堵と落胆の声が上がった。
「最後だけ分からなかった」
「竹下、全部できた?」
「たぶん」
「久保さんに教えてもらったから?」
「朝一緒に見ただけ」
「それを教えてもらったって言うんだよ」
男子たちが竹下くんを囲む。
私は解答用紙を裏返しながら、その会話を聞いていた。
「真理」
愛ちゃんが後ろから私の肩を突く。
「何?」
「顔、にやけてる」
「にやけてない」
「朝一緒に勉強できたから?」
「それは、少し嬉しい」
「素直だね」
「だって嬉しかったもん」
愛ちゃんは笑う。
でも、そのあと少しだけ真面目な表情になった。
「春くんに話す?」
「うん」
「昨日みたいにならない?」
「……」
私は答えに詰まる。
春斗は、聞きたくないこともあると言った。
たぶん。
はっきり聞き取れなかったけれど、そう聞こえた。
「話さない方がいいのかな」
「真理が決めることだけど」
「でも、何でも話してきたし」
「何でも話すことと、相手が聞きたいかは別だよ」
「……」
愛ちゃんの言葉が胸へ残る。
「春くんが嫌がってても話したい?」
「嫌がるなら、話したくない」
「じゃあ聞けばいいじゃん」
「何を?」
「竹下くんの話、本当は嫌なのって」
「前に聞いたよ。嫌じゃないって」
「春くん、何でも正直に言う?」
「言わない」
「でしょ」
「じゃあ分からないじゃん」
「だから真理が見ればいいんだよ」
「顔を?」
「顔も、声も、返事の速さも」
私は少し笑った。
「それ、春斗が私にやってることみたい」
「二人とも、お互いのことはよく見てるからね」
「幼馴染だから」
「またそれ」
愛ちゃんが呆れたように笑う。
でも、私はその言葉以外を知らなかった。
春斗のことが気になる。
春斗の機嫌を見てしまう。
春斗が誰かと話していると、理由を知りたくなる。
それは全部、幼馴染だから。
そう思っていた。
◇
昼休み、私は竹下くんと愛ちゃんを含めた四人で食堂へ向かうことになった。
もう一人は竹下くんの友人で、同じサッカー部の小野寺くんだった。竹下くんが「朝、数学を見てもらったお礼に席取るよ」と言い、小野寺くんが面白そうに「じゃあ俺も混ざる」とついてきたのだ。
食堂はいつも以上に混雑していた。
入口付近では食券を買う生徒が列を作り、奥の席からは笑い声と食器の音が重なっている。窓際の席はほとんど埋まり、運動部らしい男子たちが大盛りの丼を囲んでいた。
「四人席、あそこ空きそう」
竹下くんが指差す。
ちょうど食べ終えた上級生たちが立ち上がるところだった。
「俺、取ってくる」
小野寺くんが先に向かう。
「じゃあ、私たちは食券買おう」
愛ちゃんが言う。
私は券売機の前へ並びながら、何を選ぶか迷った。
「また唐揚げ?」
愛ちゃんが覗き込む。
「今日はカレーにする」
「珍しい」
「何で?」
「真理、食堂だとほぼ唐揚げ定食だから」
「たまには変えるよ」
「竹下くんがカレーだから?」
「違う!」
少し前に並んでいた竹下くんが振り返る。
「俺?」
「何でもない!」
「久保さん、カレーにするの?」
「う、うん」
「ここのカレー美味しいよ」
「じゃあカレーにする」
言ってから気づく。
今の流れでは、完全に竹下くんが選んだから同じものにした人だ。
愛ちゃんが後ろで笑いを堪えている。
「やっぱり」
「違うから」
「何が?」
「愛ちゃんに言ってるの!」
竹下くんはよく分からないまま笑っていた。
四人で席へ着く。
向かいには竹下くん。
隣に愛ちゃん。
竹下くんの隣に小野寺くん。
いつも愛ちゃんと二人で食べている昼食とは違い、私は少し緊張していた。
「久保さん、そんなに固くならなくても」
小野寺くんが笑う。
「固くなってないよ」
「カレー食べる前からスプーン握りしめてる」
「本当だ」
竹下くんまで笑う。
私は慌てて手の力を抜いた。
「小野寺、あんまりからかうなよ」
「竹下が言う?」
「俺はからかってない」
「無自覚か」
「何が?」
「いいよ、竹下はそのままで」
小野寺くんが意味ありげに頷く。
愛ちゃんも隣で笑っている。
私だけが分からない。
「何?」
「何でもない」
「今日、そればっかり!」
四人の間に笑いが広がる。
最初の緊張は少しずつ薄れていった。
竹下くんは部活の話をしてくれた。
夏の大会が近いこと。
今の一年生は試合に出られる人数が限られていること。
自分は推薦で入ったからこそ、周囲から期待されていると感じること。
「楽しそうに見えるけど、大変なんだね」
私が言うと、竹下くんは少しだけ考えるような顔をした。
「大変だけど、嫌じゃないかな」
「何で?」
「自分で選んだことだから」
竹下くんの声は明るかった。
でも、その言葉には少しだけ重みがあった。
「推薦で入るって、結果出さなきゃいけない感じあるし。周りも、サッカー上手いから入れたんだろって見るから」
「実際上手いじゃん」
小野寺くんがすぐに言う。
「でも、ずっと上手くいくわけじゃないだろ」
「それは全員同じ」
「そうだけど」
竹下くんはスプーンを置き、少し笑った。
「だから自主練してる。試合に出たいし」
「すごいね」
私が言うと、竹下くんは少し照れたように視線を逸らした。
「久保さんに言われると、何か恥ずかしいな」
「何で?」
「真っ直ぐ言うから」
「本当のことだもん」
竹下くんが笑う。
私はその表情を見て、胸が温かくなる。
これまで私は、竹下くんの格好いいところばかり見ていた。
サッカーが上手い。
優しい。
爽やか。
でも今は、期待に応えようとして努力していることや、少し不安を抱えていることまで知った。
好きな人のことを知る。
それは、ただ距離が近づく以上に嬉しいことなのだと思った。
「久保さんは?」
竹下くんが聞く。
「え?」
「高校で頑張りたいこと」
「私?」
「うん」
急に聞かれ、私は困った。
勉強。
友達。
進路。
恋。
竹下くんと仲良くなること。
最後のものは言えない。
「まだ分からないかも」
「そっか」
「でも、何か見つけたい」
「いいじゃん」
「竹下くんみたいに、これって言えるものがあるの羨ましい」
「俺はサッカーしかないから」
「それがあるだけすごいよ」
竹下くんは少し黙り、それから柔らかく笑った。
「ありがとう」
また、教室で話すときとは少し違う表情。
私はもっと竹下くんのことを知りたいと思った。
同時に。
この話を春斗にもしたいと思った。
竹下くんが、ただ明るいだけではないこと。
期待に応えようとして努力していること。
でも、春斗は聞きたいだろうか。
楽しい昼食の途中で、またそんなことを考えてしまう自分がいた。
◇
放課後。
竹下くんは部活へ向かう前に、私の席の前で足を止めた。
「久保さん」
「何?」
「今日、昼一緒に食べてくれてありがとう」
「こっちこそ」
「楽しかった」
心臓が大きく跳ねる。
「私も楽しかった!」
竹下くんが笑う。
「また一緒に食べよう」
「うん!」
約束。
今度。
また。
好きな人から、次へつながる言葉をもらった。
竹下くんが教室を出ていったあと、私はしばらく動けなかった。
「真理」
愛ちゃんが後ろから覗き込む。
「息してる?」
「してる」
「顔すごいよ」
「また一緒に食べようって」
「聞いてた」
「嬉しい」
「知ってる」
「どうしよう」
「何が?」
「嬉しすぎる」
愛ちゃんが笑う。
「順調じゃん」
「うん」
「春くんに報告する?」
その言葉で、私は少しだけ止まった。
「……どうしよう」
「嬉しいなら話したいんでしょ」
「うん」
「でも春くんの反応が怖い?」
「怖いというか」
私は鞄を閉じながら、今朝のホームでの言葉を思い出した。
『俺は、聞きたくないこともある』
本当にそう言ったのかは分からない。
電車の音で、はっきり聞こえなかった。
でも。
「嫌なら、嫌って言ってほしい」
「春くんは言わないかもね」
「何で?」
「真理が嬉しそうだから」
「……」
「春くん、真理を傷つけるの嫌なんじゃない?」
「それは幼馴染だから?」
私が聞くと、愛ちゃんは苦笑した。
「真理は本当にそれしかないんだね」
「だって、それ以外ないでしょ」
「今はね」
「今は?」
「何でもない」
「また!」
愛ちゃんは笑いながら鞄を持った。
「ほら、春くん待ってるよ」
「うん」
私は教室を出た。
◇
午後四時九分。
いつもの合流場所には、春斗が先に来ていた。
壁際へ寄り、文庫本を読んでいる。今日は高橋さんも、ほかの女子もいない。
そのことに少し安心した自分へ、私は気づかないふりをした。
「春斗」
声をかける。
春斗が顔を上げる。
「遅い」
「二分」
「二分は二分」
「細かい」
「お前がいつも言うだろ」
「今日は言ってない」
「顔に出てる」
「何でも顔で判断しないでよ」
私は春斗の隣へ並んだ。
二人で駅へ向かって歩き始める。
何から話そう。
朝、竹下くんと一緒に勉強したこと。
昼、一緒にカレーを食べたこと。
部活への気持ちを聞いたこと。
また一緒に食べようと言われたこと。
話したいことが多い。
でも、春斗は聞きたくないかもしれない。
「真理」
「何?」
「今日、何かあった?」
春斗の方から聞いた。
「何で?」
「顔がうるさい」
「顔は喋らないよ」
「すごく嬉しそう」
「……分かる?」
「分かる」
私は少し迷ったあと、笑った。
「竹下くんとお昼一緒に食べた」
春斗の歩幅が、ほんの少しだけ乱れた。
「……二人で?」
「愛ちゃんと小野寺くんも一緒」
「そう」
「竹下くん、サッカーの話してくれた」
「うん」
「推薦で入ったから、期待に応えなきゃって思ってるんだって。だから朝も自主練してるって」
「そう」
春斗の返事は短い。
でも、歩く速度は変わらない。
私は横顔を見る。
「聞きたくない?」
春斗がこちらを見る。
「何が」
「竹下くんの話」
「またそれ?」
「今朝、聞きたくないこともあるって言ったでしょ」
春斗の表情が固まった。
「聞こえてたのか」
「やっぱり言ったんだ」
「……」
「何を聞きたくないの?」
春斗は答えない。
前を向き、しばらく歩く。
周囲には下校する生徒たちの声があり、自転車のベルや車の走る音も聞こえる。それでも、私には春斗の沈黙だけが大きく感じられた。
「春斗」
「全部」
「え?」
「全部じゃないけど」
「どっち?」
「……竹下と何したとか、どこまで進んだとか、細かいことまで聞きたくないときもある」
胸の奥が沈む。
「やっぱり嫌なんだ」
「嫌っていうか」
「疲れる?」
「それも違う」
「じゃあ何」
春斗は言葉を探しているようだった。
でも、答えは出ない。
「言わないと分からないよ」
「言えない」
「何で?」
「言ったら困るだろ」
「誰が?」
「お前が」
私は足を止めた。
春斗も数歩先で止まり、振り返る。
「私が困るって何?」
「……」
「春斗、最近本当に変だよ」
「分かってる」
「分かってるの?」
「自分でも分かってる」
春斗は少しだけ苦しそうに笑った。
その顔を見た瞬間、私は何も言えなくなった。
怒っているわけではない。
面倒がっているわけでもない。
春斗は本当に、何かに困っている。
「ごめん」
私が言うと、春斗の眉が動いた。
「何で謝る」
「分からない。でも、私が竹下くんの話ばっかりするから」
「お前は悪くない」
「でも春斗、苦しそう」
「……」
「何かあるなら言ってよ」
春斗は目を逸らした。
「言えない」
「幼馴染なのに?」
その言葉を口にした瞬間、春斗が少しだけ笑った。
寂しそうな笑い方だった。
「幼馴染だから言えないこともある」
「何それ」
「そのまま」
「分からないよ」
「分からなくていい」
「よくない」
私は少し強く言った。
「春斗が変なの、気になる」
「竹下のことだけ考えてろよ」
「またそれ」
「好きなんだろ」
「好きだよ」
「なら」
「でも、春斗が変なのも嫌」
言った。
自分の声が、思ったよりも必死だった。
「私が竹下くんと仲良くなるたびに、春斗が遠くなるみたいで嫌」
春斗の目が見開かれる。
私は言葉を止められなかった。
「竹下くんとはもっと話したいし、仲良くなりたい。今日お昼一緒に食べられて嬉しかったし、また一緒に食べようって言われたのも嬉しかった。でも、その話を春斗にできなくなるのは嫌」
「真理」
「春斗には今まで通りでいてほしい」
身勝手。
言いながら分かる。
竹下くんとの距離は変えたい。
春斗との距離は変えたくない。
私は両方を望んでいる。
「欲張りなのは分かってる」
「……」
「でも、嫌なんだよ」
春斗はしばらく何も言わなかった。
風が街路樹の葉を揺らし、歩道の端に落ちていた小さな紙片が転がっていく。
「それ、竹下が聞いたらどう思うかな」
春斗が静かに言う。
「え?」
「好きな相手が、別の男と今まで通りの距離でいたいって言ってる」
「春斗は別の男じゃない」
「男だよ」
「でも幼馴染」
「竹下から見れば関係ない」
愛ちゃんにも言われた。
私には当たり前でも、竹下くんがどう思うかは分からない。
「……じゃあ、変えなきゃ駄目?」
「俺に聞くな」
「春斗は変えたい?」
春斗が黙る。
長い沈黙。
私は答えを待った。
「……変えたくない」
ようやく返ってきた声は、とても小さかった。
「え?」
「俺も、今まで通りがいい」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
「じゃあ」
「でも無理だろ」
「何で?」
「お前が竹下と付き合ったら」
「まだ付き合ってないよ」
「そのために相談してるんだろ」
「そうだけど」
「叶ったら変わる」
「……」
「変わらない方がおかしい」
正しい。
竹下くんと付き合えば、一緒に帰る日が増えるかもしれない。休日にも会うかもしれない。春斗と今まで通り毎日一緒というわけにはいかなくなる。
でも。
その未来を想像すると、竹下くんと付き合える嬉しさの中に、寂しさが混ざる。
「真理」
「何」
「今はまだ何も決まってない」
「うん」
「だから、今日は普通に帰ろう」
春斗が歩き出す。
私は少し遅れて、その隣へ並んだ。
「普通って?」
「いつも通り」
「竹下くんの話していい?」
春斗は困ったように息を吐いた。
「少しなら」
「どこまで?」
「昼飯食べたところまで」
「また一緒に食べようって言われたところは?」
「……それも」
「良かったなって言う?」
「言わない」
「何で」
「自分で喜べ」
私は少し笑った。
「じゃあ春斗は、何か話して」
「何を」
「今日あったこと」
「何もない」
「高橋さんと話した?」
「話してない」
「そっか」
「何で安心する」
「してない」
「してる」
「顔で分かる?」
「分かる」
今度は二人とも少し笑った。
完全に元通りではない。
でも、さっきまでより空気は柔らかかった。
◇
帰りの電車では、二人並んで座ることができた。
春斗は本を開かず、窓の外を見ていた。
私はスマートフォンを手にしている。
竹下くんからは、部活へ向かう前に一件だけメッセージが来ていた。
『今日はありがとう。また昼一緒に食べよう』
私はまだ返信していない。
何と返すか、もう決めている。
『こちらこそありがとう! また一緒に食べたい!』
それだけ。
自分で考えた。
春斗に聞かずに。
「返信しないの?」
春斗が聞く。
「今する」
「俺に聞かないのか」
「自分で考えた」
「そう」
「成長したでしょ」
「少し」
「もっと褒めて」
「偉い」
「棒読み」
「注文多い」
私は笑い、メッセージを送った。
すぐに既読がつく。
返事は少しあとで来た。
『じゃあ次は二人でもいい?』
私は固まった。
画面の文字を何度も読む。
二人でもいい?
二人で昼。
竹下くんと。
「真理?」
春斗が呼ぶ。
「……」
「何」
「竹下くんから」
言いかけて止まる。
春斗は細かいことまで聞きたくないと言った。
でも。
これは相談したい。
「何」
「次は二人でもいいって」
春斗の表情が消えた。
ほんの一瞬。
それから、いつもの無表情へ戻る。
「そう」
「どうしよう」
「何が」
「いいって返していい?」
「嫌なの?」
「嫌じゃない!」
「なら返せば」
「でも、二人だよ」
「そうだな」
「お昼だよ」
「分かってる」
「これ、デート?」
「学校の食堂で飯食うだけだろ」
「そうだけど」
「嫌なら断れ」
「嫌じゃない」
「じゃあいいじゃん」
春斗の声は落ち着いている。
でも、窓の外へ向けた横顔は少し硬かった。
「春斗」
「何」
「本当にいいと思う?」
「俺に許可取るな」
「許可じゃなくて相談」
「同じだろ」
「違うよ」
「お前が竹下と二人で食いたいなら、そうすればいい」
「……」
「良かったな」
いつもの言葉。
でも今日は、聞きたかったはずのその言葉が、少しだけ悲しく聞こえた。
「うん」
私は小さく返し、竹下くんへ送る。
『もちろん! 二人でも大丈夫だよ!』
送信。
すぐに既読。
『じゃあ明日、席取っとく』
明日。
竹下くんと二人で昼食。
嬉しい。
とても嬉しい。
胸が高鳴る。
でも。
隣の春斗は笑わない。
「春斗」
「何」
「明日、二人で食べることになった」
「聞こえてた」
「……そっか」
それ以上、何を言えばいいか分からなかった。
春斗は窓の外を見ている。
私はスマートフォンの画面を見る。
好きな人との初めての二人きりの昼食。
ずっと望んでいたはずの進展。
なのに、喜びきれない自分がいる。
春斗が笑わないと、落ち着かない。
そのことが、少し怖かった。
◇
夜、午後九時三十二分。
私はベッドへ寝転がり、明日の昼食について考えていた。
食堂で二人。
何を話す?
どの席?
何を食べる?
周りに見られたら?
話が途切れたら?
考え始めると、緊張が次々と増えていく。
愛ちゃんへ連絡する。
『明日、竹下くんと二人でお昼食べることになった』
すぐに既読がついた。
『えええええ!?』
『声出さないでね』
『今部屋だから大丈夫! すごいじゃん!』
『どうしよう』
『普通に食べればいいよ』
『会話途切れたら?』
『春くんに聞いた?』
私は止まる。
『少し』
『反応は?』
『良かったなって』
愛ちゃんからしばらく返事が来なかった。
やがて、短い文章が届く。
『春くん、大丈夫かな』
私は画面を見つめる。
『何が?』
『何でもない』
またそれ。
私は少し考え、春斗とのトーク画面を開いた。
『明日、何話せばいいと思う?』
送る。
既読はすぐについた。
『自分で考えろ』
予想通り。
『困ってる』
『昼飯だろ』
『二人きり』
『知ってる』
『緊張する』
少し間が空く。
『竹下の部活の話聞けば』
『今日聞いた』
『授業とか』
『普通』
『趣味』
私は少し考える。
竹下くんの趣味。
サッカー以外、あまり知らない。
『趣味聞いてみる』
『そうしろ』
『春斗は何話せばいい?』
送ってから、自分でも意味が分からないと思った。
『何が』
『私といるとき』
『何でもいいだろ』
『もし話題なくなったら?』
『黙ってても平気』
私は画面を見つめた。
確かに。
春斗とは、話さない時間も多い。
本を読む春斗の隣で、私がスマートフォンを見る。
何も話さなくても気まずくない。
『竹下くんとも、そうなれるかな』
送る。
返事はすぐに来なかった。
数分後。
『なれるといいな』
その文章を見た瞬間、胸が少し痛んだ。
優しい。
応援してくれている。
なのに。
遠くから言われているように感じる。
『春斗』
『何』
『明日の朝も一緒だよね』
『当たり前だろ』
その返事を見て、私は安心した。
『良かった』
『何が』
『何でもない』
春斗からは、それ以上来なかった。
私はスマートフォンを胸の上へ置き、天井を見る。
明日、竹下くんと二人で昼食を食べる。
嬉しい。
楽しみ。
でも。
朝は春斗と一緒。
帰りも春斗と一緒。
その確認ができたことに、同じくらい安心している。
自分の気持ちが少しずつ複雑になっていることを、私はまだ上手く言葉にできなかった。
◇
同じ頃。
春斗は自室の机で本を開いたまま、真理とのメッセージを見ていた。
『明日の朝も一緒だよね』
当たり前だろ。
そう返した。
本当は、当たり前ではなくなる日が来る。
真理が竹下と付き合えば、朝も帰りも一緒ではなくなるかもしれない。
今日、真理は言った。
『今まで通りでいてほしい』
春斗も、同じだった。
今まで通りでいたい。
でも、竹下との恋を手伝いながら、それを望むのは身勝手だ。
明日、真理は竹下と二人で昼食を食べる。
たぶん、もっと仲良くなる。
真理は嬉しそうに帰ってくる。
そして自分へ話す。
聞きたくない。
でも、聞きたい。
何があったのか知りたい。
真理がどんな顔で笑ったのか、竹下が何を言ったのか、全部気になる。
聞けば苦しいのに。
「……面倒だな」
春斗は小さく呟き、本を閉じた。
スマートフォンには、真理から最後に届いた『良かった』という言葉が残っている。
朝も一緒。
それだけで安心する真理。
その気持ちへ期待してはいけない。
真理が好きなのは竹下だ。
明日の昼、二人の距離はまた近づく。
春斗はそれを知りながら、翌朝もいつも通りに真理の隣へ座る。
そしてきっと、緊張して騒ぐ真理へ、面倒そうに作戦を考えてしまうのだろう。
好きな人との初めての二人きりの昼食を控えた真理と、その恋を止めることも、心から応援することもできない春斗。
二人の間にある「いつも通り」は、まだ壊れてはいない。
けれどその形は、誰にも見えないところで、確実に変わり始めていた。




