第5話 連絡先を交換した翌日、幼馴染がやけに普通すぎます
翌朝、午前五時四十分。
私はいつもより五分ほど早く家を出た。玄関の扉を閉めると、夜の冷たさをまだ少し残した風が頬を撫で、遠くの田んぼから湿った草と土の匂いが流れてくる。東の空はわずかに白み始めていたが、住宅街にはまだ眠りの気配が濃く、道路を走る車もほとんどなかった。
昨夜、春斗から届いたメッセージは短かった。
『明日の朝、五分早い』
春斗のお母さんが早番だから。それだけの連絡だった。
理由は分かっている。それなのに、私は玄関を出たところでスマートフォンの画面を一度確認してしまった。
通知は何もない。竹下くんからも、春斗からも届いていなかった。
「……そりゃそうだよね」
朝の五時四十分である。こんな時間から高校生同士でメッセージが飛び交っていたら、その方が少し怖い。
私は自分に言い聞かせるように呟き、スマートフォンを制服のポケットへ戻した。
家の前には、すでに春斗の家の車が停まっていた。今日は春斗のお母さんが送ってくれる日で、運転席の窓が開くと、朝の早さを感じさせない明るい声が飛んできた。
「おはよう、真理ちゃん」
「おはようございます」
私は後部座席のドアを開けた。
「おはよ」
「……はよ」
春斗はもう乗っていた。
窓側へ頭を預け、目を閉じている。眠そうな横顔も、膝の上に置かれた鞄も、少し乱れた前髪もいつも通りだった。
あまりにも、いつも通りだった。
「……」
私はドアを閉める前に、ほんの少しだけその顔を見た。
「何」
目を閉じたまま、春斗が言う。
「起きてるじゃん」
「今起きた」
「目、閉じてたよ」
「眠い」
「それは見れば分かる」
私は春斗の隣へ座り、ドアを閉めた。
車がゆっくり走り出す。車内には朝のニュース番組が小さな音で流れていて、アナウンサーが今日の天気を淡々と読み上げていた。
しばらくして、運転席の春斗のお母さんがバックミラー越しにこちらを見る。
「二人とも、昨日はちゃんと仲直りした?」
「え?」
私が思わず聞き返すと、春斗も目を開けた。
「何の話」
「昨日、帰りの空気が少し悪かったでしょう」
「何で知ってるんですか?」
「母の勘」
「怖いです」
「あと、春斗の顔」
「顔?」
「帰りの車で、どう見ても機嫌悪かったじゃない」
「普通」
「それ、機嫌悪いときの春斗の口癖よ」
春斗のお母さんが楽しそうに笑う。
私は思わず隣を見た。春斗は露骨に嫌そうな顔をしている。
「母さん、朝から余計なこと言わなくていい」
「じゃあ仲直りしたの?」
「喧嘩してない」
「真理ちゃんは?」
「えっと……」
私は少し迷った。
昨日、春斗は竹下くんの話ばかりで疲れたと言った。そのあと、言い方が悪かったと謝り、相談するなという意味ではないとも言った。
結局、何が言いたかったのかは分からないままだった。
ただ、最後にはいつも通り話した。
「喧嘩では、ないです」
「ほら」
春斗がすぐに言う。
「でも、何かはあったのね」
「母さん」
「はいはい。若い二人のことに首を突っ込みません」
「思いきり突っ込んでる」
春斗の指摘に、春斗のお母さんは声を立てて笑った。
私は窓の外へ顔を向ける。田んぼの間を通る道路の先に、薄暗い空が広がっていた。遠くの山際から朝の光が滲み、少しずつ景色の輪郭がはっきりしていく。
隣にいる春斗は何も話さない。
昨日の夜、私は少しだけ考えた。
春斗は、なぜあんなに機嫌が悪かったのだろう。
でも、今朝の春斗は普通だった。
だから大丈夫。
私はそう思うことにした。
◇
午前五時五十三分。
岩瀬駅のホームは、昨日より少し明るかった。
遠くの山には薄い霧がかかっていたが、輪郭ははっきりと見えている。線路脇の草には朝露が残り、ホームを抜ける風はまだ涼しかった。
いつもの作業着姿の男性が、少し離れた場所でイヤホンをしている。反対側のベンチには年配の女性が一人座り、その横には高校生らしい男子が立っていた。
私はいつものベンチへ座り、春斗はその隣に立った。
すぐに文庫本を取り出して開く。
「春斗」
「何」
「今日は作戦会議しないの?」
「何の」
「竹下くん」
春斗の指が、ページの端でわずかに止まった。
「昨日、連絡先交換しただろ」
「うん」
「じゃあ、もう俺に聞くことないじゃん」
「あるよ」
「何」
「今日、何を話せばいい?」
春斗がゆっくり本から顔を上げた。
「知らない」
「え」
「普通に話せばいいだろ」
「昨日まではちゃんと考えてくれたじゃん」
「もう慣れてきただろ」
「慣れてない!」
「朝も普通に話してた」
「少しだけだよ」
「なら大丈夫」
「急に育児放棄しないで」
「誰が親だ」
「恋愛相談役」
「役職の権限が広がってる」
「昨日から同じだよ!」
私は頬を膨らませた。
春斗は昨日までより、少しだけ私の恋から距離を取ろうとしているように見えた。
でも、それはきっと気のせいだ。
「ねえ」
「何」
「昨日はごめんね」
春斗の眉が少し動く。
「何が」
「竹下くんの話ばっかりして。疲れるって言ってたから」
「……もういい」
「でも」
「気にしてない」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、今日も話すね」
春斗が黙る。
私はじっとその顔を見た。
「何」
「今、絶対に後悔した顔した」
「してない」
「した」
「朝からうるさい」
「ほら!」
春斗は小さくため息をついたが、昨日のような刺々しさはなかった。
「別に、話すなとは言ってない」
「うん」
「ただ、自分で考えることも少しは覚えろ」
「え」
「何でも俺に聞くな」
正しい。
春斗の言うことは、その通りだった。
私は昨日、連絡先を聞けた。実際に話しかけたのも、勇気を出して聞いたのも私だ。いつまでも全てを春斗に考えてもらうのは、おかしい。
それでも。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ寂しくなった。
「……分かった」
自分でも分かるくらい、声が小さくなった。
春斗がこちらを見る。
「怒った?」
「怒ってない」
「怒った声してる」
「春斗みたいなこと言わないで」
「俺は顔じゃなくて声で分かった」
「じゃあ、やっぱり分かってるんじゃん」
私は少し笑った。
春斗も一瞬だけ困ったような顔をしてから、視線を本へ戻した。
「何かあったら聞けばいい」
「え?」
「全部は無理。でも、本当に困ったら言え」
私は顔を上げた。
「それって、恋愛相談役続投?」
「違う」
「続投だね」
「違う」
「辞表は破棄しました」
「ブラック企業だな」
私は笑い、春斗もほんの少しだけ口元を緩めた。
昨日、重たくなった空気が少し戻った気がした。
それだけで、妙に安心した。
◇
午前七時二十三分。
水橋高校第三校舎、一年特進SSクラス。
教室へ入ると、すでに多くの生徒が登校していた。朝課題へ真面目に取り組む者もいれば、机へ突っ伏して眠っている者もいる。窓際では男子たちが昨日のサッカーの試合について話し、黒板近くでは女子が小テストの範囲を確認していた。
いつもと同じ教室。
けれど、今日は少しだけ違って見えた。
私のスマートフォンには、竹下くんの連絡先が入っている。
その事実を思い出すたび、胸がくすぐったくなる。
「真理!」
背後から愛ちゃんが走ってくる。
「どうだった!?」
「何が」
「昨日の続き!」
「声が大きい!」
私は愛ちゃんの腕を掴み、慌てて自分の席の近くへ引き寄せた。
「竹下くん、まだ来てないから大丈夫でしょ」
「ほかの人がいるよ!」
「みんな興味ないって」
すると、近くにいた女子が笑いながら言った。
「興味あるよ」
「ほら!」
「ごめんごめん」
周囲に小さな笑いが起こる。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「それで、返信は来た?」
愛ちゃんが今度こそ声を落とす。
「来た」
「何て?」
「分からないところがあったら、いつでも聞いてって」
「おお!」
「あと、部活頑張ってって送ったら、ありがとって返ってきた」
「いいじゃん!」
「うん」
私はスマートフォンを取り出していないのに、画面に表示されていた文字を思い出すだけで頬が緩む。
愛ちゃんがにやにやと笑った。
「好きだねぇ」
「好きです」
「素直」
「だって、好きだもん」
愛ちゃんの目が、少しだけ細くなる。
「春くんには、昨日全部話した?」
「うん」
「反応は?」
「ちょっと機嫌悪かった」
「……やっぱり」
「やっぱり?」
「何でもない」
「またそれ!」
私は愛ちゃんをじっと見る。
「本当に何か知ってるでしょ」
「知ってるというか、見てれば分かるというか」
「何が?」
「……」
愛ちゃんが何かを言いかけた、そのとき。
「おはよう」
竹下くんが教室へ入ってきた。
私は反射的に顔を向ける。
「おはよう!」
今日は迷わず言えた。
もう噛まない。
竹下くんは鞄を机へ置きながら、爽やかに笑った。
「おはよう。昨日ありがとね」
「え?」
「メッセージ」
「あ、こっちこそ!」
学校で昨日のメッセージについて話される。
そのことが、想像していた以上に嬉しかった。
「部活、どうだった?」
気づけば、私は自然に尋ねていた。
「結構きつかった。走り込み多くて」
「朝もやってたのに?」
「うん。夏の大会が近いから」
「大変だね」
「でも、楽しいよ」
竹下くんが笑う。
私は、その顔を見ながら思う。
やっぱり、好きだ。
「久保さんは部活入ってないんだっけ?」
「え」
竹下くんの方から、私のことを聞かれた。
「入ってないよ」
「中学は?」
「バドミントン」
「へえ、意外」
「何で!?」
「運動苦手そう」
「失礼!」
「昨日からずっと慌ててるから」
「それと運動は関係ないよ!」
竹下くんが声を立てて笑う。
愛ちゃんも後ろで楽しそうに肩を揺らしている。
近くにいた男子が、からかうように口を挟んだ。
「竹下、朝から女子と楽しそうだな」
「うるさい」
「久保さん、頑張れー」
「何を!?」
教室のあちこちから笑いが起き、私は顔を真っ赤にした。
竹下くんは少し困ったように笑う。
「気にしなくていいよ。みんな暇なんだよ」
「聞こえてるぞ!」
また教室が笑いに包まれた。
私は竹下くんを見る。
昨日、連絡先を交換した。それだけなのに、今日は会話が前よりもずっと自然になっている。
少しずつ。
本当に少しずつ。
距離が近づいているような気がした。
◇
一時間目の英語が終わると、先生は長文要約の課題を出した。
「次回までに、この文章を二百字程度にまとめて提出すること」
教室中から不満の声が上がる。
「またですかー」
「先生、特進SSでも人間です」
「先生も人間だから宿題を出すんだ」
「関係ないですよ!」
男子の訴えに笑いが起こり、先生は楽しそうに手を振って教室を出ていった。
私は配られたプリントを見る。
かなり長い。
「これ、面倒だね」
隣から竹下くんが話しかけてきた。
「うん。最初に主題を見つけないと、まとめにくそう」
「久保さん、英語得意?」
「まあまあかな。竹下くんは?」
「普通。実力テストは悪くなかったけど」
「上位だったよね」
「何で知ってるの?」
一瞬、春斗の顔が頭へ浮かんだ。
でも、これは教室に順位が掲示されていたから知っている。
「順位が貼られてたから!」
「ああ、そういうことか」
「竹下くんは、私の順位知ってる?」
冗談半分で尋ねる。
竹下くんは少し考えた。
「確か、十二位くらい?」
「十三位」
「惜しい」
「何で覚えてるの!?」
「近かったから」
竹下くんは何でもないことのように言い、プリントを鞄へ入れる。
私は、その横顔を見たまま動けなかった。
私の順位を覚えていた。
たまたま近かったから。
ただ、それだけかもしれない。
それでも嬉しい。
「久保さん」
「え?」
「この課題、分からなかったらメッセージしていい?」
今度は竹下くんから。
私に。
「う、うん!」
「久保さん、国語得意でしょ。要約が苦手だから」
「いいよ!」
「助かる」
竹下くんが笑う。
後ろから、愛ちゃんが机の下で私の椅子を軽く蹴った。
振り返ると、ものすごくにやけている。
私は顔が熱くなるのを感じながら前へ向き直った。
少しは慣れたと思ったのに。
全然駄目だった。
◇
昼休み。
食堂は今日も混み合っていた。
トレーを持った生徒たちが席を探して歩き、あちこちから食器の触れ合う音と賑やかな笑い声が聞こえてくる。窓の外では運動部の生徒がグラウンドを走っていて、掛け声が遠くまで響いていた。
私は愛ちゃんと窓際の二人席へ座った。
「真理」
「何」
「やばいね」
「何が」
「向こうからメッセージしていいって聞かれたこと」
「うん」
「かなりいい感じじゃない?」
「本当?」
「少なくとも、嫌われてはいない。むしろ印象はいいと思う」
「……」
私は唐揚げを箸で持ったまま止まる。
「どうしよう」
「何が」
「嬉しい」
「知ってる」
「竹下くん、私の順位も覚えてた」
「おお」
「何でだと思う?」
「席が近いからじゃない?」
「そうかな」
「真理、期待しすぎには注意ね」
「分かってる!」
愛ちゃんが笑う。
「でも、嬉しいものは嬉しいよね」
「うん。今日、春斗にも話そう」
愛ちゃんの箸が止まった。
「……また?」
「うん」
「今日も?」
「何でそんな言い方するの」
「朝、何かあった?」
「少しだけ」
私は今朝のことを話した。
何でも全部聞くな。少しは自分で考えろ。
でも、本当に困ったら言え。
愛ちゃんは少し難しい顔をした。
「春くん、真理の恋から離れようとしてない?」
「え?」
「今まで作戦まで考えてたのに」
「でも、困ったら言えって」
「そっか」
「だから大丈夫」
愛ちゃんはしばらく黙ってから、箸を動かした。
「真理は、春くんが相談を聞いてくれなくなったら嫌?」
「え」
急な質問に、私は少し考える。
「嫌……かな」
「何で?」
「何でって。昔から何でも話してるから」
「竹下くんと付き合っても?」
「え?」
「もし付き合ったら、もう恋愛相談はいらないじゃん」
私は止まった。
そんなこと、考えたことがなかった。
「付き合っても、春斗には話すよ」
「竹下くんとのデートの話も?」
「うん」
「キスしたとかも?」
「それは話さない!」
「何で?」
「恥ずかしいから!」
愛ちゃんが声を立てて笑う。私もつられて笑った。
けれど、その笑いのあとで。
私は一瞬だけ想像した。
竹下くんと付き合ったら、春斗と一緒に帰る日は減るのだろうか。
朝も別になる?
休日も、竹下くんと会うことが増える?
「真理」
「何」
「当たり前って、変わるよ」
「え?」
愛ちゃんの声が、少しだけ真面目になる。
「高校を卒業したら、毎日一緒に電車へ乗らないかもしれない。真理が竹下くんと付き合ったら、一緒に帰る日も減るかもしれない。春くんに彼女ができても同じ」
「……」
「別に、悪い意味じゃないよ。みんな少しずつ変わるから」
「うん」
「でも真理って、春くんがずっと隣にいる前提で考えてるなって」
「……そう?」
「うん」
私は唐揚げを見つめた。
春斗は毎朝いる。
帰りもいる。
家は近く、親同士も仲がいい。小学校から中学、高校までずっと一緒だった。
だから。
これからも隣にいると、勝手に思っていた。
「春斗に彼女……」
口にすると、少しだけ変な感覚がした。
昨日、第一校舎の近くで春斗と話していた女子を思い出す。
もし、あの子が春斗の彼女になったら。
春斗はその子と帰る?
朝も一緒に行かない?
休日も、その子と会う?
「……」
「真理?」
「何でもない」
私は唐揚げを口へ入れた。
いつもと同じ味のはずなのに、少しだけ味が分からなかった。
なぜ、こんなことが気になるのだろう。
春斗に彼女ができたら、私は応援する。
昨日、そう言った。
それなのに、胸の奥がわずかにざわついていた。
◇
午後のホームルームが終わると、竹下くんはすぐに鞄を持って立ち上がった。
「久保さん」
「え?」
「また明日」
「うん。部活頑張って!」
「ありがと」
竹下くんは友人たちと一緒に教室を出ていく。
女子の何人かが、その背中を見ながら話していた。
「竹下くん、爽やかだよね」
「サッカー部のエース候補なんでしょ」
「彼女いないのかな」
「今はいないらしいよ」
その会話を聞き、胸の奥に少しだけ焦りが生まれる。
やっぱり、竹下くんを好きになる女子は多い。
もっと頑張らなきゃ。
「真理」
愛ちゃんが肩を叩く。
「顔、戦闘モードになってる」
「恋は戦いだから」
「また言ってる」
二人で笑った。
◇
放課後、いつもの合流場所へ向かうと、今日は春斗の方が先に来ていた。
ベンチへ座り、本を読んでいる。
「春斗!」
春斗が顔を上げる。
「遅い」
「三分だよ」
「三分は三分」
「それ、昨日私が言ったやつ!」
「知らない」
私は春斗の隣へ座る。
「聞いて」
「早い」
「まだ何も言ってないよ」
「竹下だろ」
「正解」
春斗は本を閉じなかった。
私は少しだけそれを気にしたが、すぐに話し始めた。
「今日ね、竹下くんからメッセージしていいって言われた」
春斗のページを押さえる指が止まる。
「……そう」
「英語の要約、私が得意だから聞きたいって」
「そう」
「それだけ?」
「良かったな」
「今日も棒読み」
「普通」
私は春斗の横顔を見た。
「やっぱり嫌?」
「何が」
「竹下くんの話」
春斗は小さくため息をつき、本を閉じた。
「嫌じゃない」
「本当?」
「ただ、お前が嬉しそうすぎると……」
言葉が止まる。
「何?」
「何でもない」
「またそれ」
「忘れろ」
「気になる」
「帰るぞ」
春斗は立ち上がる。
私は慌てて追いかけた。
「春斗!」
「何」
「嬉しそうすぎると何?」
「うるさい」
「それ、答えじゃない!」
春斗は少し速足で歩く。
私はその隣へ追いつこうとする。
「待ってよ!」
「普通に歩いてる」
「速い!」
「足が短いんじゃない」
「殴るよ!」
「怖い」
いつもの会話。
いつもの帰り道。
それなのに、私は春斗が何を言おうとしたのか気になって仕方なかった。
◇
駅へ向かう途中、赤信号で足を止めた。
夕方の街は人通りが多く、同じ制服の生徒や会社員、自転車が交差点の前へ集まっている。昼間の熱気がまだアスファルトに残っていたが、時折吹く風には少し涼しさが混ざり始めていた。
「ねえ」
「何」
「春斗って、彼女欲しい?」
「急に何」
「今日、愛ちゃんと話してたの」
「何を」
「春斗に彼女ができたら、一緒に帰る日が減るのかなって」
春斗がこちらを見る。
「何でそんな話になった」
「私が竹下くんと付き合ったら、春斗と帰らなくなるかもしれないって言われて。それで、春斗に彼女ができても同じだねって」
信号が青へ変わり、人の流れが動き出した。
春斗は一瞬だけその場に残り、それから私の横へ並んだ。
「春斗に彼女ができたら、朝も別になる?」
「知らない」
「帰りは彼女と?」
「知らない」
「休日も?」
「何でそんなに聞くんだよ」
「何となく」
春斗は少し困ったような顔をした。
「お前、俺に彼女ができたら嫌なの?」
「え」
急に聞かれ、私は足を緩めた。
嫌。
そう答えそうになった。
でも、それは違う。
「嫌じゃないよ」
「……」
「応援するって、昨日も言ったでしょ」
「そう」
「でも、少し寂しいかも」
口にしてから、自分でも驚いた。
「今まで毎日一緒だったから。急に別になったら、変な感じはすると思う」
「それだけ?」
「それだけって?」
「……別に」
春斗は前へ顔を向ける。
「春斗は?」
「何が」
「私が竹下くんと付き合って、一緒に帰らなくなったら」
春斗は黙った。
歩道を歩く足音と、車道を走る車の音が続く。
「……別に」
「嘘」
「何で」
「今、間があった」
「考えただけ」
「何を?」
私は少し笑い、からかうように聞いた。
「寂しい?」
春斗が足を止めた。
少し俯いた顔からは、表情がよく見えない。
「……さあ」
「え」
「知らない」
低い声だった。
私はそれ以上聞けなくなった。
「ごめん」
「何で謝るんだよ」
「いや、何となく」
春斗は小さく息を吐いた。
「真理」
「何」
「竹下と付き合いたいんだろ」
「うん」
「なら、そっちを見てればいい」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
なぜなのか分からない。
春斗の言っていることは正しい。
私は竹下くんが好きで、付き合いたいと思っている。なら、竹下くんを見るべきだ。
当たり前のことなのに。
「……春斗は?」
「何」
「春斗のことも見るよ」
「意味分からない」
「幼馴染だもん。竹下くんが好きでも、春斗は春斗でしょ」
私は本当にそう思っていた。
春斗は少し苦しそうな顔をしたように見えたが、すぐにいつもの無表情へ戻った。
「そうだな」
「うん」
「早く行くぞ。電車に遅れる」
「うん」
駅へ向かって歩き出す。
私は胸の奥に残った小さなざわつきの理由を、まだ分からずにいた。
◇
帰りの電車では、珍しく二人並んで座ることができた。
私は窓側、春斗はその隣。
春斗はいつものように本を開き、私はスマートフォンを手にしている。
沈黙は珍しくない。
でも今日は、何となく春斗の様子が気になり、私は何度も横目で見てしまった。
「何」
「何でもない」
「見るな」
「見てない」
「三回見た」
「数えてる方が怖いよ」
春斗の口元が少し動いた。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
空気が少し戻った気がして、私はほっとする。
「今日、何読んでるの?」
春斗が本から顔を上げる。
「珍しいな」
「何が」
「お前が本のこと聞くの」
「いつも読んでるから」
「恋愛相談以外の話題を探してる?」
「……ばれた」
春斗が少し笑い、本の表紙を見せた。
「ミステリー」
「面白い?」
「まあ」
「どんな話?」
「説明するとネタバレになる」
「じゃあ説明できないじゃん」
「お前が聞いたんだろ」
私は笑った。
そのとき、スマートフォンが震えた。
通知。
竹下くん。
『久保さん、今日の英語の要約って最初に何を書けばいいと思う?』
来た。
本当に、向こうから来た。
「竹下?」
春斗が聞く。
「うん」
「そう」
私は返信を考える。
でも、ふと隣の春斗を見る。
「相談していい?」
「……何」
「返信」
「自分で考えろ」
「朝、困ったら聞けって言った!」
「言ったけど」
「困ってる」
春斗はため息をついた。
「内容見せろ」
私は画面を見せる。
春斗は少しだけ読んだ。
「普通に、最初に文章全体の主題を書いて、そのあと要点を三つくらいに分けるといいって返せばいい」
「それだけ?」
「相手は課題を聞いてるだけだろ」
「冷たくない?」
「長文の方が重い」
「確かに」
私は入力した。
『最初に文章全体の主題を書いて、そのあと要点を三つくらいに分けるとまとめやすいよ! 私はそうしてる!』
「どう?」
「いいんじゃない」
「送る」
送信すると、すぐ既読がついた。
『ありがとう! 助かった!』
私は思わず笑う。
「春斗、ありがとう」
「別に」
「やっぱり恋愛相談役」
「課題相談だろ」
「恋愛込み」
「知らない」
私は笑った。
春斗は結局助けてくれる。
少し離れようとしているように見えても、困ったときには手を差し出してくれる。
昔から、ずっとそうだった。
だから私は、当たり前のように頼ってしまう。
それが変わる日なんて、来るのだろうか。
愛ちゃんの言葉が頭へ浮かんだ。
『当たり前って、変わるよ』
窓の外へ目を向ける。
夕暮れの田んぼが流れていく。
窓ガラスには、並んで座る私と春斗の姿が映っていた。
明日も、来週も、来年も。
ずっと同じように並んでいる。
私は勝手にそう思っている。
「春斗」
「何」
「高校を卒業しても友達でいようね」
「は?」
春斗が本を下げた。
「急に何」
「何となく」
「まだ一年だぞ」
「だから今から約束」
「嫌だ」
「何で!」
「そんなの約束しなくても、どうせ切れないだろ。家は近いし、親同士も仲いいし」
「……」
私は笑った。
「確かに」
「腐れ縁」
「言い方!」
「事実だろ」
「でも、じゃあ安心」
「何が」
「春斗はいなくならない」
春斗の表情が一瞬だけ固まった。
私は気づかないまま、冗談っぽく続ける。
「竹下くんと付き合っても?」
春斗はすぐに答えなかった。
「……それは、そのとき考える」
「逃げた」
私は笑った。
春斗は笑わなかった。
けれど私は、竹下くんから届いたメッセージの嬉しさへ、すぐに意識を戻してしまった。
◇
午後八時四十七分。
自室の机で、私は英語の課題に取り組んでいた。
スマートフォンは机の横に置いてある。
竹下くんからは何度か課題について質問が届き、私はそのたびに返信した。
やり取りは普通だった。
でも、それが楽しかった。
『久保さん、説明分かりやすいね』
そのメッセージを見て、私は五分ほど悩んだ。
『ありがとう! 竹下くんもサッカー教えるの上手そう』
送ってから、自分でも意味が分からないと思った。
それでも竹下くんからは、すぐに返信が来た。
『今度、体育で教えるよ笑』
「うわぁぁぁ!」
私はベッドへ倒れ込み、枕へ顔を埋めた。
今度、教える。
ただの軽い会話かもしれない。
それでも嬉しい。
私は愛ちゃんへスクリーンショットを送りそうになり、手を止めた。
竹下くんとのメッセージを勝手に見せるのは嫌だ。
代わりに文字で送る。
『竹下くんに、今度体育で教えるって言われた!!』
愛ちゃんから、すぐに返信が来る。
『おめでとう!!!』
そのあと。
『春くんには?』
私は止まった。
春斗へ話す?
今日、竹下くんの話ばかりだと疲れると言われたことを思い出す。
でも、困ったら聞けとも言われた。
これは相談ではない。
ただの報告。
嬉しかったから、話したい。
いつもなら迷わず送る。
私は春斗とのトーク画面を開いた。
最後のやり取りは、今朝の『了解』だった。
『竹下くんとメッセージしてる!』
打つ。
少し見つめる。
消す。
『今日、竹下くんから課題の質問が来た』
もう一度打つ。
また消す。
どうして送れないのだろう。
春斗が疲れると言ったから。
それだけのはずなのに。
「……明日でいいか」
スマートフォンを伏せる。
少しだけ寂しい。
理由は分からない。
竹下くんとメッセージできたことは嬉しい。
なのに、それを春斗へ話せないことが、妙に心へ引っかかった。
私は今まで、何でも春斗へ話してきた。
これから竹下くんと仲良くなれば、竹下くんの話はもっと増える。
そのたびに、春斗は疲れるのだろうか。
なら、話さない方がいい。
でも、それでは春斗との距離も変わってしまう気がした。
『当たり前って、変わるよ』
愛ちゃんの言葉が、また頭へ浮かぶ。
「……嫌だな」
何が嫌なのか、自分でも分からなかった。
竹下くんとは仲良くなりたい。
でも、春斗が遠くなるのは嫌だ。
両方を望むことは、欲張りなのだろうか。
◇
同じ頃。
春斗は自室で本を開いていた。
昨日よりは文字を追える。
けれど、数ページ読んだところで、机の上のスマートフォンへ視線が向いた。
通知はない。
真理から、何も届いていない。
いつもなら竹下くんとの間に何かあれば、すぐに送ってくる。
今日は来ない。
「……」
自分で言った。
何でも聞くな。
自分で考えろ。
だから当然だった。
それなのに。
静かなスマートフォンが、妙に気になった。
春斗は画面を伏せ、本へ目を戻す。
数分後。
また見る。
通知はない。
「何やってんだ、俺」
小さく呟く。
真理は今、竹下とメッセージをしているのだろうか。
今日、向こうから課題の質問を送ると言っていた。
今ごろ話している?
楽しそうに笑っている?
自分には関係ない。
そう思う。
けれど胸の奥は落ち着かない。
『春斗はいなくならない』
今日、電車の中で真理が言った。
何も分かっていない。
自分は、ずっと隣にいられるのだろうか。
真理が竹下と付き合ったあとも、今まで通りにいられる?
たぶん、無理だ。
でも、離れたくもない。
矛盾している。
春斗は目を閉じた。
「……面倒」
恋愛には興味がない。
ずっと、そう思っていた。
真理は幼馴染で、特別ではあったけれど、それに恋なんて言葉をつける必要はなかった。
毎日隣にいる。
それだけでよかった。
竹下が現れるまでは。
真理が誰かに取られるのが嫌だ。
その感情が何なのか。
もう本当は分かっていた。
ただ、認めたところでどうすればいいのか分からない。
真理は竹下を本気で好きだ。
邪魔をするのか。
今さら告白するのか。
どちらもできない。
春斗はベッドへ背中を預け、もう一度スマートフォンを見る。
通知はない。
昨日までは、竹下の話ばかりで疲れると思っていた。
今は、何も来ないことが寂しかった。
「……本当に馬鹿だな」
自分に向けて呟く。
部屋には、返事をする者はいなかった。
真理は竹下との距離が少しずつ縮むことを純粋に喜び、春斗は自分でその恋を手伝いながら、少しずつ苦しくなっていた。
そして真理もまた、恋とは違う場所で、一つの感情に触れ始めている。
竹下くんとは仲良くなりたい。
けれど、春斗が遠くなるのは嫌だ。
その気持ちが何を意味するのかを考えるには、まだ少し早かった。
翌朝も二人は、きっといつも通りに言葉を交わす。
「おはよう」
「はよ」
そんな何でもない挨拶から、いつもと同じように一日が始まる。その当たり前の中で少しずつ何かが変わり始めていることに、二人ともまだ気づかないふりをしていた。




