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『好きな人がいるので、幼馴染に恋愛相談していたら、なんだか様子がおかしくなりました』   作者: 伊佐波瑞樹


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第5話 連絡先を交換した翌日、幼馴染がやけに普通すぎます



 翌朝、午前五時四十分。


 私はいつもより五分ほど早く家を出た。玄関の扉を閉めると、夜の冷たさをまだ少し残した風が頬を撫で、遠くの田んぼから湿った草と土の匂いが流れてくる。東の空はわずかに白み始めていたが、住宅街にはまだ眠りの気配が濃く、道路を走る車もほとんどなかった。


 昨夜、春斗から届いたメッセージは短かった。


『明日の朝、五分早い』


 春斗のお母さんが早番だから。それだけの連絡だった。


 理由は分かっている。それなのに、私は玄関を出たところでスマートフォンの画面を一度確認してしまった。


 通知は何もない。竹下くんからも、春斗からも届いていなかった。


「……そりゃそうだよね」


 朝の五時四十分である。こんな時間から高校生同士でメッセージが飛び交っていたら、その方が少し怖い。


 私は自分に言い聞かせるように呟き、スマートフォンを制服のポケットへ戻した。


 家の前には、すでに春斗の家の車が停まっていた。今日は春斗のお母さんが送ってくれる日で、運転席の窓が開くと、朝の早さを感じさせない明るい声が飛んできた。


「おはよう、真理ちゃん」


「おはようございます」


 私は後部座席のドアを開けた。


「おはよ」


「……はよ」


 春斗はもう乗っていた。


 窓側へ頭を預け、目を閉じている。眠そうな横顔も、膝の上に置かれた鞄も、少し乱れた前髪もいつも通りだった。


 あまりにも、いつも通りだった。


「……」


 私はドアを閉める前に、ほんの少しだけその顔を見た。


「何」


 目を閉じたまま、春斗が言う。


「起きてるじゃん」


「今起きた」


「目、閉じてたよ」


「眠い」


「それは見れば分かる」


 私は春斗の隣へ座り、ドアを閉めた。


 車がゆっくり走り出す。車内には朝のニュース番組が小さな音で流れていて、アナウンサーが今日の天気を淡々と読み上げていた。


 しばらくして、運転席の春斗のお母さんがバックミラー越しにこちらを見る。


「二人とも、昨日はちゃんと仲直りした?」


「え?」


 私が思わず聞き返すと、春斗も目を開けた。


「何の話」


「昨日、帰りの空気が少し悪かったでしょう」


「何で知ってるんですか?」


「母の勘」


「怖いです」


「あと、春斗の顔」


「顔?」


「帰りの車で、どう見ても機嫌悪かったじゃない」


「普通」


「それ、機嫌悪いときの春斗の口癖よ」


 春斗のお母さんが楽しそうに笑う。


 私は思わず隣を見た。春斗は露骨に嫌そうな顔をしている。


「母さん、朝から余計なこと言わなくていい」


「じゃあ仲直りしたの?」


「喧嘩してない」


「真理ちゃんは?」


「えっと……」


 私は少し迷った。


 昨日、春斗は竹下くんの話ばかりで疲れたと言った。そのあと、言い方が悪かったと謝り、相談するなという意味ではないとも言った。


 結局、何が言いたかったのかは分からないままだった。


 ただ、最後にはいつも通り話した。


「喧嘩では、ないです」


「ほら」


 春斗がすぐに言う。


「でも、何かはあったのね」


「母さん」


「はいはい。若い二人のことに首を突っ込みません」


「思いきり突っ込んでる」


 春斗の指摘に、春斗のお母さんは声を立てて笑った。


 私は窓の外へ顔を向ける。田んぼの間を通る道路の先に、薄暗い空が広がっていた。遠くの山際から朝の光が滲み、少しずつ景色の輪郭がはっきりしていく。


 隣にいる春斗は何も話さない。


 昨日の夜、私は少しだけ考えた。


 春斗は、なぜあんなに機嫌が悪かったのだろう。


 でも、今朝の春斗は普通だった。


 だから大丈夫。


 私はそう思うことにした。


     ◇


 午前五時五十三分。


 岩瀬駅のホームは、昨日より少し明るかった。


 遠くの山には薄い霧がかかっていたが、輪郭ははっきりと見えている。線路脇の草には朝露が残り、ホームを抜ける風はまだ涼しかった。


 いつもの作業着姿の男性が、少し離れた場所でイヤホンをしている。反対側のベンチには年配の女性が一人座り、その横には高校生らしい男子が立っていた。


 私はいつものベンチへ座り、春斗はその隣に立った。


 すぐに文庫本を取り出して開く。


「春斗」


「何」


「今日は作戦会議しないの?」


「何の」


「竹下くん」


 春斗の指が、ページの端でわずかに止まった。


「昨日、連絡先交換しただろ」


「うん」


「じゃあ、もう俺に聞くことないじゃん」


「あるよ」


「何」


「今日、何を話せばいい?」


 春斗がゆっくり本から顔を上げた。


「知らない」


「え」


「普通に話せばいいだろ」


「昨日まではちゃんと考えてくれたじゃん」


「もう慣れてきただろ」


「慣れてない!」


「朝も普通に話してた」


「少しだけだよ」


「なら大丈夫」


「急に育児放棄しないで」


「誰が親だ」


「恋愛相談役」


「役職の権限が広がってる」


「昨日から同じだよ!」


 私は頬を膨らませた。


 春斗は昨日までより、少しだけ私の恋から距離を取ろうとしているように見えた。


 でも、それはきっと気のせいだ。


「ねえ」


「何」


「昨日はごめんね」


 春斗の眉が少し動く。


「何が」


「竹下くんの話ばっかりして。疲れるって言ってたから」


「……もういい」


「でも」


「気にしてない」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ、今日も話すね」


 春斗が黙る。


 私はじっとその顔を見た。


「何」


「今、絶対に後悔した顔した」


「してない」


「した」


「朝からうるさい」


「ほら!」


 春斗は小さくため息をついたが、昨日のような刺々しさはなかった。


「別に、話すなとは言ってない」


「うん」


「ただ、自分で考えることも少しは覚えろ」


「え」


「何でも俺に聞くな」


 正しい。


 春斗の言うことは、その通りだった。


 私は昨日、連絡先を聞けた。実際に話しかけたのも、勇気を出して聞いたのも私だ。いつまでも全てを春斗に考えてもらうのは、おかしい。


 それでも。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ寂しくなった。


「……分かった」


 自分でも分かるくらい、声が小さくなった。


 春斗がこちらを見る。


「怒った?」


「怒ってない」


「怒った声してる」


「春斗みたいなこと言わないで」


「俺は顔じゃなくて声で分かった」


「じゃあ、やっぱり分かってるんじゃん」


 私は少し笑った。


 春斗も一瞬だけ困ったような顔をしてから、視線を本へ戻した。


「何かあったら聞けばいい」


「え?」


「全部は無理。でも、本当に困ったら言え」


 私は顔を上げた。


「それって、恋愛相談役続投?」


「違う」


「続投だね」


「違う」


「辞表は破棄しました」


「ブラック企業だな」


 私は笑い、春斗もほんの少しだけ口元を緩めた。


 昨日、重たくなった空気が少し戻った気がした。


 それだけで、妙に安心した。


     ◇


 午前七時二十三分。


 水橋高校第三校舎、一年特進SSクラス。


 教室へ入ると、すでに多くの生徒が登校していた。朝課題へ真面目に取り組む者もいれば、机へ突っ伏して眠っている者もいる。窓際では男子たちが昨日のサッカーの試合について話し、黒板近くでは女子が小テストの範囲を確認していた。


 いつもと同じ教室。


 けれど、今日は少しだけ違って見えた。


 私のスマートフォンには、竹下くんの連絡先が入っている。


 その事実を思い出すたび、胸がくすぐったくなる。


「真理!」


 背後から愛ちゃんが走ってくる。


「どうだった!?」


「何が」


「昨日の続き!」


「声が大きい!」


 私は愛ちゃんの腕を掴み、慌てて自分の席の近くへ引き寄せた。


「竹下くん、まだ来てないから大丈夫でしょ」


「ほかの人がいるよ!」


「みんな興味ないって」


 すると、近くにいた女子が笑いながら言った。


「興味あるよ」


「ほら!」


「ごめんごめん」


 周囲に小さな笑いが起こる。


 私は顔が熱くなるのを感じた。


「それで、返信は来た?」


 愛ちゃんが今度こそ声を落とす。


「来た」


「何て?」


「分からないところがあったら、いつでも聞いてって」


「おお!」


「あと、部活頑張ってって送ったら、ありがとって返ってきた」


「いいじゃん!」


「うん」


 私はスマートフォンを取り出していないのに、画面に表示されていた文字を思い出すだけで頬が緩む。


 愛ちゃんがにやにやと笑った。


「好きだねぇ」


「好きです」


「素直」


「だって、好きだもん」


 愛ちゃんの目が、少しだけ細くなる。


「春くんには、昨日全部話した?」


「うん」


「反応は?」


「ちょっと機嫌悪かった」


「……やっぱり」


「やっぱり?」


「何でもない」


「またそれ!」


 私は愛ちゃんをじっと見る。


「本当に何か知ってるでしょ」


「知ってるというか、見てれば分かるというか」


「何が?」


「……」


 愛ちゃんが何かを言いかけた、そのとき。


「おはよう」


 竹下くんが教室へ入ってきた。


 私は反射的に顔を向ける。


「おはよう!」


 今日は迷わず言えた。


 もう噛まない。


 竹下くんは鞄を机へ置きながら、爽やかに笑った。


「おはよう。昨日ありがとね」


「え?」


「メッセージ」


「あ、こっちこそ!」


 学校で昨日のメッセージについて話される。


 そのことが、想像していた以上に嬉しかった。


「部活、どうだった?」


 気づけば、私は自然に尋ねていた。


「結構きつかった。走り込み多くて」


「朝もやってたのに?」


「うん。夏の大会が近いから」


「大変だね」


「でも、楽しいよ」


 竹下くんが笑う。


 私は、その顔を見ながら思う。


 やっぱり、好きだ。


「久保さんは部活入ってないんだっけ?」


「え」


 竹下くんの方から、私のことを聞かれた。


「入ってないよ」


「中学は?」


「バドミントン」


「へえ、意外」


「何で!?」


「運動苦手そう」


「失礼!」


「昨日からずっと慌ててるから」


「それと運動は関係ないよ!」


 竹下くんが声を立てて笑う。


 愛ちゃんも後ろで楽しそうに肩を揺らしている。


 近くにいた男子が、からかうように口を挟んだ。


「竹下、朝から女子と楽しそうだな」


「うるさい」


「久保さん、頑張れー」


「何を!?」


 教室のあちこちから笑いが起き、私は顔を真っ赤にした。


 竹下くんは少し困ったように笑う。


「気にしなくていいよ。みんな暇なんだよ」


「聞こえてるぞ!」


 また教室が笑いに包まれた。


 私は竹下くんを見る。


 昨日、連絡先を交換した。それだけなのに、今日は会話が前よりもずっと自然になっている。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 距離が近づいているような気がした。


     ◇


 一時間目の英語が終わると、先生は長文要約の課題を出した。


「次回までに、この文章を二百字程度にまとめて提出すること」


 教室中から不満の声が上がる。


「またですかー」


「先生、特進SSでも人間です」


「先生も人間だから宿題を出すんだ」


「関係ないですよ!」


 男子の訴えに笑いが起こり、先生は楽しそうに手を振って教室を出ていった。


 私は配られたプリントを見る。


 かなり長い。


「これ、面倒だね」


 隣から竹下くんが話しかけてきた。


「うん。最初に主題を見つけないと、まとめにくそう」


「久保さん、英語得意?」


「まあまあかな。竹下くんは?」


「普通。実力テストは悪くなかったけど」


「上位だったよね」


「何で知ってるの?」


 一瞬、春斗の顔が頭へ浮かんだ。


 でも、これは教室に順位が掲示されていたから知っている。


「順位が貼られてたから!」


「ああ、そういうことか」


「竹下くんは、私の順位知ってる?」


 冗談半分で尋ねる。


 竹下くんは少し考えた。


「確か、十二位くらい?」


「十三位」


「惜しい」


「何で覚えてるの!?」


「近かったから」


 竹下くんは何でもないことのように言い、プリントを鞄へ入れる。


 私は、その横顔を見たまま動けなかった。


 私の順位を覚えていた。


 たまたま近かったから。


 ただ、それだけかもしれない。


 それでも嬉しい。


「久保さん」


「え?」


「この課題、分からなかったらメッセージしていい?」


 今度は竹下くんから。


 私に。


「う、うん!」


「久保さん、国語得意でしょ。要約が苦手だから」


「いいよ!」


「助かる」


 竹下くんが笑う。


 後ろから、愛ちゃんが机の下で私の椅子を軽く蹴った。


 振り返ると、ものすごくにやけている。


 私は顔が熱くなるのを感じながら前へ向き直った。


 少しは慣れたと思ったのに。


 全然駄目だった。


     ◇


 昼休み。


 食堂は今日も混み合っていた。


 トレーを持った生徒たちが席を探して歩き、あちこちから食器の触れ合う音と賑やかな笑い声が聞こえてくる。窓の外では運動部の生徒がグラウンドを走っていて、掛け声が遠くまで響いていた。


 私は愛ちゃんと窓際の二人席へ座った。


「真理」


「何」


「やばいね」


「何が」


「向こうからメッセージしていいって聞かれたこと」


「うん」


「かなりいい感じじゃない?」


「本当?」


「少なくとも、嫌われてはいない。むしろ印象はいいと思う」


「……」


 私は唐揚げを箸で持ったまま止まる。


「どうしよう」


「何が」


「嬉しい」


「知ってる」


「竹下くん、私の順位も覚えてた」


「おお」


「何でだと思う?」


「席が近いからじゃない?」


「そうかな」


「真理、期待しすぎには注意ね」


「分かってる!」


 愛ちゃんが笑う。


「でも、嬉しいものは嬉しいよね」


「うん。今日、春斗にも話そう」


 愛ちゃんの箸が止まった。


「……また?」


「うん」


「今日も?」


「何でそんな言い方するの」


「朝、何かあった?」


「少しだけ」


 私は今朝のことを話した。


 何でも全部聞くな。少しは自分で考えろ。


 でも、本当に困ったら言え。


 愛ちゃんは少し難しい顔をした。


「春くん、真理の恋から離れようとしてない?」


「え?」


「今まで作戦まで考えてたのに」


「でも、困ったら言えって」


「そっか」


「だから大丈夫」


 愛ちゃんはしばらく黙ってから、箸を動かした。


「真理は、春くんが相談を聞いてくれなくなったら嫌?」


「え」


 急な質問に、私は少し考える。


「嫌……かな」


「何で?」


「何でって。昔から何でも話してるから」


「竹下くんと付き合っても?」


「え?」


「もし付き合ったら、もう恋愛相談はいらないじゃん」


 私は止まった。


 そんなこと、考えたことがなかった。


「付き合っても、春斗には話すよ」


「竹下くんとのデートの話も?」


「うん」


「キスしたとかも?」


「それは話さない!」


「何で?」


「恥ずかしいから!」


 愛ちゃんが声を立てて笑う。私もつられて笑った。


 けれど、その笑いのあとで。


 私は一瞬だけ想像した。


 竹下くんと付き合ったら、春斗と一緒に帰る日は減るのだろうか。


 朝も別になる?


 休日も、竹下くんと会うことが増える?


「真理」


「何」


「当たり前って、変わるよ」


「え?」


 愛ちゃんの声が、少しだけ真面目になる。


「高校を卒業したら、毎日一緒に電車へ乗らないかもしれない。真理が竹下くんと付き合ったら、一緒に帰る日も減るかもしれない。春くんに彼女ができても同じ」


「……」


「別に、悪い意味じゃないよ。みんな少しずつ変わるから」


「うん」


「でも真理って、春くんがずっと隣にいる前提で考えてるなって」


「……そう?」


「うん」


 私は唐揚げを見つめた。


 春斗は毎朝いる。


 帰りもいる。


 家は近く、親同士も仲がいい。小学校から中学、高校までずっと一緒だった。


 だから。


 これからも隣にいると、勝手に思っていた。


「春斗に彼女……」


 口にすると、少しだけ変な感覚がした。


 昨日、第一校舎の近くで春斗と話していた女子を思い出す。


 もし、あの子が春斗の彼女になったら。


 春斗はその子と帰る?


 朝も一緒に行かない?


 休日も、その子と会う?


「……」


「真理?」


「何でもない」


 私は唐揚げを口へ入れた。


 いつもと同じ味のはずなのに、少しだけ味が分からなかった。


 なぜ、こんなことが気になるのだろう。


 春斗に彼女ができたら、私は応援する。


 昨日、そう言った。


 それなのに、胸の奥がわずかにざわついていた。


     ◇


 午後のホームルームが終わると、竹下くんはすぐに鞄を持って立ち上がった。


「久保さん」


「え?」


「また明日」


「うん。部活頑張って!」


「ありがと」


 竹下くんは友人たちと一緒に教室を出ていく。


 女子の何人かが、その背中を見ながら話していた。


「竹下くん、爽やかだよね」


「サッカー部のエース候補なんでしょ」


「彼女いないのかな」


「今はいないらしいよ」


 その会話を聞き、胸の奥に少しだけ焦りが生まれる。


 やっぱり、竹下くんを好きになる女子は多い。


 もっと頑張らなきゃ。


「真理」


 愛ちゃんが肩を叩く。


「顔、戦闘モードになってる」


「恋は戦いだから」


「また言ってる」


 二人で笑った。


     ◇


 放課後、いつもの合流場所へ向かうと、今日は春斗の方が先に来ていた。


 ベンチへ座り、本を読んでいる。


「春斗!」


 春斗が顔を上げる。


「遅い」


「三分だよ」


「三分は三分」


「それ、昨日私が言ったやつ!」


「知らない」


 私は春斗の隣へ座る。


「聞いて」


「早い」


「まだ何も言ってないよ」


「竹下だろ」


「正解」


 春斗は本を閉じなかった。


 私は少しだけそれを気にしたが、すぐに話し始めた。


「今日ね、竹下くんからメッセージしていいって言われた」


 春斗のページを押さえる指が止まる。


「……そう」


「英語の要約、私が得意だから聞きたいって」


「そう」


「それだけ?」


「良かったな」


「今日も棒読み」


「普通」


 私は春斗の横顔を見た。


「やっぱり嫌?」


「何が」


「竹下くんの話」


 春斗は小さくため息をつき、本を閉じた。


「嫌じゃない」


「本当?」


「ただ、お前が嬉しそうすぎると……」


 言葉が止まる。


「何?」


「何でもない」


「またそれ」


「忘れろ」


「気になる」


「帰るぞ」


 春斗は立ち上がる。


 私は慌てて追いかけた。


「春斗!」


「何」


「嬉しそうすぎると何?」


「うるさい」


「それ、答えじゃない!」


 春斗は少し速足で歩く。


 私はその隣へ追いつこうとする。


「待ってよ!」


「普通に歩いてる」


「速い!」


「足が短いんじゃない」


「殴るよ!」


「怖い」


 いつもの会話。


 いつもの帰り道。


 それなのに、私は春斗が何を言おうとしたのか気になって仕方なかった。


     ◇


 駅へ向かう途中、赤信号で足を止めた。


 夕方の街は人通りが多く、同じ制服の生徒や会社員、自転車が交差点の前へ集まっている。昼間の熱気がまだアスファルトに残っていたが、時折吹く風には少し涼しさが混ざり始めていた。


「ねえ」


「何」


「春斗って、彼女欲しい?」


「急に何」


「今日、愛ちゃんと話してたの」


「何を」


「春斗に彼女ができたら、一緒に帰る日が減るのかなって」


 春斗がこちらを見る。


「何でそんな話になった」


「私が竹下くんと付き合ったら、春斗と帰らなくなるかもしれないって言われて。それで、春斗に彼女ができても同じだねって」


 信号が青へ変わり、人の流れが動き出した。


 春斗は一瞬だけその場に残り、それから私の横へ並んだ。


「春斗に彼女ができたら、朝も別になる?」


「知らない」


「帰りは彼女と?」


「知らない」


「休日も?」


「何でそんなに聞くんだよ」


「何となく」


 春斗は少し困ったような顔をした。


「お前、俺に彼女ができたら嫌なの?」


「え」


 急に聞かれ、私は足を緩めた。


 嫌。


 そう答えそうになった。


 でも、それは違う。


「嫌じゃないよ」


「……」


「応援するって、昨日も言ったでしょ」


「そう」


「でも、少し寂しいかも」


 口にしてから、自分でも驚いた。


「今まで毎日一緒だったから。急に別になったら、変な感じはすると思う」


「それだけ?」


「それだけって?」


「……別に」


 春斗は前へ顔を向ける。


「春斗は?」


「何が」


「私が竹下くんと付き合って、一緒に帰らなくなったら」


 春斗は黙った。


 歩道を歩く足音と、車道を走る車の音が続く。


「……別に」


「嘘」


「何で」


「今、間があった」


「考えただけ」


「何を?」


 私は少し笑い、からかうように聞いた。


「寂しい?」


 春斗が足を止めた。


 少し俯いた顔からは、表情がよく見えない。


「……さあ」


「え」


「知らない」


 低い声だった。


 私はそれ以上聞けなくなった。


「ごめん」


「何で謝るんだよ」


「いや、何となく」


 春斗は小さく息を吐いた。


「真理」


「何」


「竹下と付き合いたいんだろ」


「うん」


「なら、そっちを見てればいい」


 胸の奥が少しだけ痛んだ。


 なぜなのか分からない。


 春斗の言っていることは正しい。


 私は竹下くんが好きで、付き合いたいと思っている。なら、竹下くんを見るべきだ。


 当たり前のことなのに。


「……春斗は?」


「何」


「春斗のことも見るよ」


「意味分からない」


「幼馴染だもん。竹下くんが好きでも、春斗は春斗でしょ」


 私は本当にそう思っていた。


 春斗は少し苦しそうな顔をしたように見えたが、すぐにいつもの無表情へ戻った。


「そうだな」


「うん」


「早く行くぞ。電車に遅れる」


「うん」


 駅へ向かって歩き出す。


 私は胸の奥に残った小さなざわつきの理由を、まだ分からずにいた。


     ◇


 帰りの電車では、珍しく二人並んで座ることができた。


 私は窓側、春斗はその隣。


 春斗はいつものように本を開き、私はスマートフォンを手にしている。


 沈黙は珍しくない。


 でも今日は、何となく春斗の様子が気になり、私は何度も横目で見てしまった。


「何」


「何でもない」


「見るな」


「見てない」


「三回見た」


「数えてる方が怖いよ」


 春斗の口元が少し動いた。


「今、笑った?」


「笑ってない」


「絶対笑った」


 空気が少し戻った気がして、私はほっとする。


「今日、何読んでるの?」


 春斗が本から顔を上げる。


「珍しいな」


「何が」


「お前が本のこと聞くの」


「いつも読んでるから」


「恋愛相談以外の話題を探してる?」


「……ばれた」


 春斗が少し笑い、本の表紙を見せた。


「ミステリー」


「面白い?」


「まあ」


「どんな話?」


「説明するとネタバレになる」


「じゃあ説明できないじゃん」


「お前が聞いたんだろ」


 私は笑った。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 通知。


 竹下くん。


『久保さん、今日の英語の要約って最初に何を書けばいいと思う?』


 来た。


 本当に、向こうから来た。


「竹下?」


 春斗が聞く。


「うん」


「そう」


 私は返信を考える。


 でも、ふと隣の春斗を見る。


「相談していい?」


「……何」


「返信」


「自分で考えろ」


「朝、困ったら聞けって言った!」


「言ったけど」


「困ってる」


 春斗はため息をついた。


「内容見せろ」


 私は画面を見せる。


 春斗は少しだけ読んだ。


「普通に、最初に文章全体の主題を書いて、そのあと要点を三つくらいに分けるといいって返せばいい」


「それだけ?」


「相手は課題を聞いてるだけだろ」


「冷たくない?」


「長文の方が重い」


「確かに」


 私は入力した。


『最初に文章全体の主題を書いて、そのあと要点を三つくらいに分けるとまとめやすいよ! 私はそうしてる!』


「どう?」


「いいんじゃない」


「送る」


 送信すると、すぐ既読がついた。


『ありがとう! 助かった!』


 私は思わず笑う。


「春斗、ありがとう」


「別に」


「やっぱり恋愛相談役」


「課題相談だろ」


「恋愛込み」


「知らない」


 私は笑った。


 春斗は結局助けてくれる。


 少し離れようとしているように見えても、困ったときには手を差し出してくれる。


 昔から、ずっとそうだった。


 だから私は、当たり前のように頼ってしまう。


 それが変わる日なんて、来るのだろうか。


 愛ちゃんの言葉が頭へ浮かんだ。


『当たり前って、変わるよ』


 窓の外へ目を向ける。


 夕暮れの田んぼが流れていく。


 窓ガラスには、並んで座る私と春斗の姿が映っていた。


 明日も、来週も、来年も。


 ずっと同じように並んでいる。


 私は勝手にそう思っている。


「春斗」


「何」


「高校を卒業しても友達でいようね」


「は?」


 春斗が本を下げた。


「急に何」


「何となく」


「まだ一年だぞ」


「だから今から約束」


「嫌だ」


「何で!」


「そんなの約束しなくても、どうせ切れないだろ。家は近いし、親同士も仲いいし」


「……」


 私は笑った。


「確かに」


「腐れ縁」


「言い方!」


「事実だろ」


「でも、じゃあ安心」


「何が」


「春斗はいなくならない」


 春斗の表情が一瞬だけ固まった。


 私は気づかないまま、冗談っぽく続ける。


「竹下くんと付き合っても?」


 春斗はすぐに答えなかった。


「……それは、そのとき考える」


「逃げた」


 私は笑った。


 春斗は笑わなかった。


 けれど私は、竹下くんから届いたメッセージの嬉しさへ、すぐに意識を戻してしまった。


     ◇


 午後八時四十七分。


 自室の机で、私は英語の課題に取り組んでいた。


 スマートフォンは机の横に置いてある。


 竹下くんからは何度か課題について質問が届き、私はそのたびに返信した。


 やり取りは普通だった。


 でも、それが楽しかった。


『久保さん、説明分かりやすいね』


 そのメッセージを見て、私は五分ほど悩んだ。


『ありがとう! 竹下くんもサッカー教えるの上手そう』


 送ってから、自分でも意味が分からないと思った。


 それでも竹下くんからは、すぐに返信が来た。


『今度、体育で教えるよ笑』


「うわぁぁぁ!」


 私はベッドへ倒れ込み、枕へ顔を埋めた。


 今度、教える。


 ただの軽い会話かもしれない。


 それでも嬉しい。


 私は愛ちゃんへスクリーンショットを送りそうになり、手を止めた。


 竹下くんとのメッセージを勝手に見せるのは嫌だ。


 代わりに文字で送る。


『竹下くんに、今度体育で教えるって言われた!!』


 愛ちゃんから、すぐに返信が来る。


『おめでとう!!!』


 そのあと。


『春くんには?』


 私は止まった。


 春斗へ話す?


 今日、竹下くんの話ばかりだと疲れると言われたことを思い出す。


 でも、困ったら聞けとも言われた。


 これは相談ではない。


 ただの報告。


 嬉しかったから、話したい。


 いつもなら迷わず送る。


 私は春斗とのトーク画面を開いた。


 最後のやり取りは、今朝の『了解』だった。


『竹下くんとメッセージしてる!』


 打つ。


 少し見つめる。


 消す。


『今日、竹下くんから課題の質問が来た』


 もう一度打つ。


 また消す。


 どうして送れないのだろう。


 春斗が疲れると言ったから。


 それだけのはずなのに。


「……明日でいいか」


 スマートフォンを伏せる。


 少しだけ寂しい。


 理由は分からない。


 竹下くんとメッセージできたことは嬉しい。


 なのに、それを春斗へ話せないことが、妙に心へ引っかかった。


 私は今まで、何でも春斗へ話してきた。


 これから竹下くんと仲良くなれば、竹下くんの話はもっと増える。


 そのたびに、春斗は疲れるのだろうか。


 なら、話さない方がいい。


 でも、それでは春斗との距離も変わってしまう気がした。


『当たり前って、変わるよ』


 愛ちゃんの言葉が、また頭へ浮かぶ。


「……嫌だな」


 何が嫌なのか、自分でも分からなかった。


 竹下くんとは仲良くなりたい。


 でも、春斗が遠くなるのは嫌だ。


 両方を望むことは、欲張りなのだろうか。


     ◇


 同じ頃。


 春斗は自室で本を開いていた。


 昨日よりは文字を追える。


 けれど、数ページ読んだところで、机の上のスマートフォンへ視線が向いた。


 通知はない。


 真理から、何も届いていない。


 いつもなら竹下くんとの間に何かあれば、すぐに送ってくる。


 今日は来ない。


「……」


 自分で言った。


 何でも聞くな。


 自分で考えろ。


 だから当然だった。


 それなのに。


 静かなスマートフォンが、妙に気になった。


 春斗は画面を伏せ、本へ目を戻す。


 数分後。


 また見る。


 通知はない。


「何やってんだ、俺」


 小さく呟く。


 真理は今、竹下とメッセージをしているのだろうか。


 今日、向こうから課題の質問を送ると言っていた。


 今ごろ話している?


 楽しそうに笑っている?


 自分には関係ない。


 そう思う。


 けれど胸の奥は落ち着かない。


『春斗はいなくならない』


 今日、電車の中で真理が言った。


 何も分かっていない。


 自分は、ずっと隣にいられるのだろうか。


 真理が竹下と付き合ったあとも、今まで通りにいられる?


 たぶん、無理だ。


 でも、離れたくもない。


 矛盾している。


 春斗は目を閉じた。


「……面倒」


 恋愛には興味がない。


 ずっと、そう思っていた。


 真理は幼馴染で、特別ではあったけれど、それに恋なんて言葉をつける必要はなかった。


 毎日隣にいる。


 それだけでよかった。


 竹下が現れるまでは。


 真理が誰かに取られるのが嫌だ。


 その感情が何なのか。


 もう本当は分かっていた。


 ただ、認めたところでどうすればいいのか分からない。


 真理は竹下を本気で好きだ。


 邪魔をするのか。


 今さら告白するのか。


 どちらもできない。


 春斗はベッドへ背中を預け、もう一度スマートフォンを見る。


 通知はない。


 昨日までは、竹下の話ばかりで疲れると思っていた。


 今は、何も来ないことが寂しかった。


「……本当に馬鹿だな」


 自分に向けて呟く。


 部屋には、返事をする者はいなかった。


 真理は竹下との距離が少しずつ縮むことを純粋に喜び、春斗は自分でその恋を手伝いながら、少しずつ苦しくなっていた。


 そして真理もまた、恋とは違う場所で、一つの感情に触れ始めている。


 竹下くんとは仲良くなりたい。


 けれど、春斗が遠くなるのは嫌だ。


 その気持ちが何を意味するのかを考えるには、まだ少し早かった。


 翌朝も二人は、きっといつも通りに言葉を交わす。


「おはよう」


「はよ」


 そんな何でもない挨拶から、いつもと同じように一日が始まる。その当たり前の中で少しずつ何かが変わり始めていることに、二人ともまだ気づかないふりをしていた。

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