第4話 連絡先を聞きたいだけなのに、幼馴染の機嫌がどんどん悪くなります
翌朝、午前五時四十六分。
岩瀬駅へ向かう車の中で、私はスマートフォンの画面を何度もつけたり消したりしていた。
ロック画面に表示されているのは、時刻と今日の天気予報だけだ。竹下くんからメッセージが届いているわけでもないし、そもそも私はまだ竹下くんの連絡先すら知らないのだから、通知を確認する必要などどこにもなかった。
それでも、どうしても落ち着かなかった。
今日、もしかしたら竹下くんと連絡先を交換するかもしれない。
昨日の帰り道に春斗が出した、次の作戦。
それを思い出すだけで、胃の辺りがきゅっと縮まり、指先が意味もなくスマートフォンへ伸びてしまう。
「真理、さっきからスマホ壊れそうなくらい触ってるけど」
運転席から母が声をかけてきた。
「壊してないよ」
「画面をつけて消して、またつけて消してるじゃない」
「確認してるの」
「何を?」
「……時間」
「車にも時計あるわよ」
「スマホで見たいの」
「五秒前と大して変わってないでしょう」
「五秒は進んでるよ」
「朝から屁理屈だけは元気ねぇ」
母が呆れたように笑う。
後部座席からは何の反応もなかった。
私は助手席から身体を捻り、後ろを見る。春斗は窓側へ頭を預け、目を閉じていた。膝の上には鞄が置かれ、その上にいつもの文庫本が載っている。
「春斗」
「……」
「寝てる?」
「寝てる」
「返事してるじゃん」
「じゃあ起きてる」
「どっちなの」
「どっちでもいい」
いかにも春斗らしい返事だった。
私は前へ向き直り、またスマートフォンを見る。
今日、どうやって聞けばいいのだろう。
昨日、春斗は「自然に聞く方法を考えておく」と言っていた。私はそれを、かなり本気で期待している。
というより、期待するしかない。
自分一人で考えると、どうしても変な案しか出てこないのだ。
『竹下くん、連絡先を教えてください!』
直球すぎる。
『クラスの連絡網で必要になるかもしれないから』
同じグループに入っているのだから、嘘だとすぐに分かる。
『もし地球が滅亡したときのために』
意味が分からない。
恋愛というものは、どうして普段なら普通にできることまで難しくしてしまうのだろう。
「はぁ……」
私がため息をつくと、母が横目でこちらを見る。
「恋?」
「何で分かるの!?」
「その歳の女の子が、朝からスマホ見てため息ついてたら大体そうでしょう」
「名探偵みたいに言わないでよ」
「竹下くんだっけ?」
「ちょっと!」
「昨日も家でずっと話してたじゃない」
「家庭内の情報漏洩が激しすぎる!」
後ろから、小さなため息が聞こえた。
私はすぐ振り返る。
「今、ため息ついたよね」
「眠い」
「私の話に対してじゃない?」
「眠い」
「怪しい」
「朝から面倒」
「春斗!」
「ほら、完全に起こした」
母が楽しそうに笑う。
私は頬を膨らませたまま前を向いた。
車は、朝靄の残る桜川市内を走っていく。住宅地が途切れると、窓の外には田畑が広がり、その向こうに低い山並みが続いていた。
夏が近いとはいえ、この時間の空気はまだ冷たい。道路沿いの家々は静かで、時折、犬を散歩させている人の姿が見える程度だった。
やがて車は岩瀬駅前へ着いた。
「はい、いってらっしゃい」
「行ってきます」
「ありがとうございます」
二人で車を降りる。
母は運転席の窓を開けたまま、春斗へ笑いかけた。
「春ちゃん、真理の恋愛相談よろしくね」
「お母さん!」
「もうやってます」
「春斗も普通に答えないでよ!」
「じゃあ、知らないです」
「そういう意味じゃない!」
母は朝から楽しそうに笑いながら、車を発進させた。
「……朝から疲れる」
私が大きく息を吐くと、春斗はすでに駅へ向かって歩き始めていた。
「待ってよ!」
「置いていくぞ」
「恋愛相談役が相談者を置いていかないで!」
「その役職、まだ続いてたのかよ」
「当然です」
「辞職する」
「認めません」
「ブラック企業か」
そんなやり取りをしながら、二人で改札を通った。
◇
ホームへ出ると、まだ人は少なかった。
昨日も見かけた作業着姿の男性が、少し離れた場所でイヤホンをしている。反対側のベンチには年配の女性が一人座り、線路の向こうでは朝露に濡れた草が淡い光を反射していた。
空気は涼しく、少し湿っている。
田んぼや草の匂いが、風に乗ってホームへ流れ込んでいた。
私はいつものベンチへ座り、春斗はその横へ立つ。
すぐに本を開こうとしたので、私は慌てて止めた。
「待って」
「何」
「昨日の宿題」
「宿題?」
「竹下くんの連絡先を自然に聞く方法」
「ああ」
「ああ、じゃないよ。考えた?」
「一応」
私は思わず身を乗り出した。
「本当に!?」
「近い」
「あ、ごめん」
少しだけ身体を引く。
春斗は文庫本を開かず、そのまま鞄へ戻した。
珍しい。
わざわざ本をしまったということは、それなりに真面目に考えてくれたのだろうか。
「まず、クラスのグループってあるのか」
「グループ?」
「メッセージアプリの」
「ああ。クラス全体のはあるよ」
「竹下も入ってる?」
「入ってる」
「じゃあ、連絡先自体はそこから追加できるだろ」
私は固まった。
「……え」
「何」
「今まで悩んでたことが全部終わった」
「追加できるじゃん」
「できるよ」
「じゃあ、すればいいだろ」
「できない!」
「何でだよ」
「勝手に追加したら、怖い女みたいじゃん!」
「同じクラスだろ」
「同じクラスでも、勝手に追加するのは違うよ!」
「そういうものなのか」
「そういうものです!」
私は胸を張って言った。
正確なマナーは分からない。
でも、好きな人だからこそ、グループから勝手に追加する形にはしたくなかった。
できれば本人から「交換しよう」と言ってほしい。
そこまで望むのは贅沢かもしれないが、せめて私から聞いて、竹下くん自身の口から「いいよ」と言ってほしい。
「面倒だな」
「恋は面倒なの!」
「知らない」
「知って!」
「嫌だ」
春斗が小さくため息をつく。
それから少し考えるように、線路の向こうへ視線を向けた。
「じゃあ、昨日のノートの話を使えばいい」
「ノート?」
「昨日借りただろ」
「うん」
「分からないところがあったから、また聞いてもいいかって言えば」
私は頭の中で会話を組み立てる。
『また分からないところがあったら聞いてもいい?』
『いいよ』
『じゃあ、連絡先を交換してもいい?』
自然だ。
かなり自然だ。
「春斗」
「何」
「やっぱり天才?」
「昨日も言われた」
「本当にすごい」
「普通に考えれば分かるだろ」
「私には分からないの!」
「恋すると馬鹿になるのか」
「言い方」
「否定できる?」
「……できない」
少し悔しい。
でも、この作戦は使える。
かなり使える。
「今日のどこかで聞いてみる」
「そう」
「いつがいいと思う?」
「知らない」
「朝?」
「人が多い」
「昼休み?」
「友達がいる」
「放課後?」
「部活へ行くだろ」
「全部駄目じゃん!」
「自分で隙を見つけろよ」
「そこまで考えて!」
「俺は竹下の一日の行動予定まで知らない」
「知ってそうなのが怖いんだけど」
「知らない」
即答だった。
でも、この前の情報量を考えると少し怪しい。
「本当に?」
「知らない」
「じゃあ、今日の練習は何時から?」
「放課後すぐ」
「知ってるじゃん!」
「普通だろ!」
「普通じゃない!」
「運動部なんだから放課後すぐに決まってるだろ」
「今、一瞬焦ったよね?」
「焦ってない」
「目を逸らした」
「眠い」
「逃げた!」
春斗は再び文庫本を取り出し、開いた。
会話終了の合図だ。
私は口を尖らせた。
でも。
少しだけ嬉しい。
今日、もしかしたら竹下くんと連絡先を交換できる。
「ねえ、春斗」
「何」
「もし交換できたら、最初に何を送ればいい?」
ページをめくろうとしていた春斗の手が止まった。
「……もうそこまで考えてるのか」
「大事だよ」
「交換してから考えろ」
「既読がついてから五分も考えてたら遅いじゃん」
「何で相手から先に来る前提なんだよ」
「え」
「お前から聞くんだろ」
「……そうだった」
「馬鹿」
「うるさい」
春斗はまた本へ視線を落とす。
数秒の沈黙のあと、何でもないことのように言った。
「普通に、今日はありがとうでいいんじゃない」
「え」
「昨日ノートを借りたんだから」
「……なるほど」
私は思わず笑った。
「春斗、本当にすごいね」
「何が」
「ちゃんと恋愛相談役になってる」
「なりたくない」
「適性あるよ」
「嬉しくない」
「将来、恋愛カウンセラーになれるかも」
「絶対やらない」
私は笑い、春斗は呆れたように本へ戻った。
いつもの朝。
いつもの会話。
なのに、昨日までとは少し違う。
私の恋を、春斗が本気で一緒に考えてくれている。
そのことが、何となく心強かった。
◇
午前七時二十二分。
水橋高校第三校舎、一年特進SSクラス。
教室へ入ると、すでに多くの生徒が登校していた。
朝課題に取り組んでいる生徒もいれば、眠そうに机へ突っ伏している生徒もいる。前日の小テストについて話している女子たちや、窓際でスポーツの試合結果をスマートフォンで確認している男子たちの声が重なり、朝の教室には少しずつ賑やかさが戻り始めていた。
私は自分の席へ鞄を置く。
竹下くんは、まだ来ていない。
「真理、おはよー!」
後ろから愛ちゃんが来た。
今日は抱きつかれる前に振り返る。
「おはよう」
「避けた」
「毎日抱きつかれると思ってるから」
「成長したね」
「違う方向の成長はいらないよ」
愛ちゃんは笑いながら自分の席へ座り、すぐに私の顔を覗き込んだ。
「何かあった?」
「何で?」
「顔」
「また?」
「今日は緊張してる顔」
この子は、本当によく見ている。
私は声を落とした。
「今日、竹下くんに連絡先を聞く」
愛ちゃんの目が大きくなる。
「早っ!」
「声!」
「ごめん!」
近くの女子がこちらを見る。
愛ちゃんは慌てて口元を手で隠した。
「昨日ノートを借りたばっかりじゃん」
「春斗が、次は連絡先だって」
「……春くんが?」
「うん」
愛ちゃんの表情が、また少し変わった。
「何」
「いや」
「最近、その『いや』が多いよ」
「だって、春くん本当に協力するんだなって」
「してくれてるよ」
「自分から?」
「私が頼んでるから」
「そっか」
「何?」
「何でもない」
また教えてくれない。
私がむっとしていると、教室の入口から声がした。
「おはよう」
竹下くんだった。
通学鞄を肩へ掛け、朝練を終えたばかりなのか、前髪が少しだけ湿っている。
「おはよう、竹下くん!」
愛ちゃんは自然に挨拶する。
私も続いた。
「お、おはよう!」
今日は噛まなかった。
三日目にして、ようやく安定してきた。
「もう慣れた?」
竹下くんが笑う。
「何が?」
「朝の挨拶」
「昨日のことは忘れて」
「まだ何も言ってないじゃん」
「言おうとした顔だった」
「顔で分かる?」
「分かる」
普通に返せた。
自分でも少し驚く。
昨日、ノートを借りて、少し話した。
体育の話もできた。
それだけなのに、最初より会話の緊張が薄れている。
もちろん、竹下くんが近くにいると心臓はうるさい。
それでも、逃げずに話せるようになってきたことが嬉しかった。
「竹下くん」
「ん?」
今、聞く?
いや、まだ早い。
朝からいきなり連絡先を聞くのは重い気がする。
「……今日も朝練?」
「うん。今終わったところ」
「あ、だから少し汗かいてるんだ」
「臭う?」
「え!?」
竹下くんが自分の制服の襟元を確かめる。
「いや、全然!」
「本当?」
「むしろ……」
むしろ、何だ。
爽やか?
そんなことを言ったら、気持ち悪いと思われるかもしれない。
「むしろ?」
「健康的!」
「健康的?」
「朝から運動してるから!」
何を言っているのだろう。
竹下くんが笑う。
「久保さんって、本当に面白いね」
「……褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいいけど」
後ろで愛ちゃんが笑いを堪えている。
私は竹下くんが席へ座るのを見ながら思った。
今日なら、いけるかもしれない。
少しずつ話せるようになっている。
距離が、近づいている。
◇
二時間目が終わった休み時間。
教室が一気に騒がしくなる。
次の授業の準備をする者、廊下へ出る者、机を囲んで話し始める女子たち。窓際では男子たちが昨日のサッカーについて盛り上がっていた。
私は教科書を閉じながら、横目で竹下くんを見る。
友達と話している。
今は無理だ。
「行かないの?」
後ろから愛ちゃんが声をかけてくる。
「何が」
「連絡先」
「今、友達と話してる」
「朝も話してたじゃん」
「もっと自然なタイミングがいいの」
「自然なタイミングって、待ってたら来ないよ」
「来るよ!」
「何時?」
「知らない」
「じゃあ私が呼んでくる」
「待って!」
愛ちゃんが立ち上がろうとするので、私は慌てて腕を掴んだ。
「何するの」
「竹下くんを呼ぶ」
「やめて!」
「何で?」
「自分でやる!」
「じゃあ、やって」
「今は無理!」
「どっち!」
愛ちゃんが笑う。
「真理、昨日より進んだけど、相変わらずだね」
「うるさい」
「でもさ、連絡先を聞くのって、そんなに大変?」
「大変だよ!」
「同じクラスで、グループにも入ってるんでしょ?」
「そうだけど」
「普通に『追加していい?』でいいじゃん」
「それが言えたら困ってない」
「じゃあ、私が竹下くんに」
「駄目!」
「何で?」
「それは嫌」
即答だった。
愛ちゃんが少し目を細める。
「自分で聞きたいんだ?」
「……うん」
そこだけは、何となく譲りたくなかった。
春斗には作戦を考えてもらっている。
愛ちゃんにも何度も背中を押してもらっている。
でも、最後に話しかけるのは私でありたい。
連絡先を聞くのも、自分の言葉でやりたい。
「そっか」
愛ちゃんが柔らかく笑う。
「じゃあ待つ」
「うん」
「でも、今日中ね」
「え」
「逃げないように」
「厳しい!」
「恋は戦いなんでしょ?」
「私の言葉を使った!」
「はい、頑張って」
愛ちゃんが肩を叩く。
私は机へ額をつけた。
恋は、想像していた以上に体力を使う。
◇
昼休み。
私は食堂の列に並びながら、竹下くんの姿を探していた。
探しているというより、勝手に視線が動く。
入口。
食券機。
窓際。
どこにもいない。
「いないね」
隣の愛ちゃんが言う。
「誰が」
「竹下くん」
「探してないよ」
「今、食堂の中を三周くらい見たよ」
「空いてる席を探してたの」
「まだ食券買ってないじゃん」
「……」
「分かりやすい」
私は少し頬を膨らませた。
「今日は部活の友達と食べてるのかな」
「かもね」
「チャンスだったのに」
「連絡先?」
「うん」
「教室で聞けばいいじゃん」
「また友達がいる」
「真理、いつなら聞けるの」
「……二人きり」
「難易度を自分で上げてるよ」
「確かに」
同じクラスなのだから、いつも誰かがいる。
放課後は竹下くんがすぐ部活へ行く。
二人きりになる機会を待っていたら、いつまで経っても聞けないかもしれない。
私はトレーへ唐揚げ定食を載せながらため息をついた。
「恋愛相談役へ追加相談しようかな」
「春くん?」
「うん」
愛ちゃんが少し黙る。
「何」
「いや、何でもない」
「絶対何かある」
「そのうち分かるよ」
「今日何回目?」
愛ちゃんは笑って誤魔化した。
私たちは窓際の四人席へ座った。
食堂は混んでいて、あちこちから会話と笑い声が聞こえる。食器の音や椅子を引く音に混ざり、窓の外からはグラウンドで練習している生徒たちの掛け声も届いていた。
私は唐揚げを一つ口へ入れる。
美味しい。
少し落ち着く。
「真理」
「何」
「もし今日交換できたら、何を送るの?」
「春斗にも聞いた」
「何て?」
「今日はありがとうでいいんじゃないって」
愛ちゃんの箸が止まった。
「何」
「いや」
「もう言ってよ!」
少し声が大きくなり、周りの生徒が振り返る。
「あ、ごめん」
私は慌てて声を落とした。
愛ちゃんは困ったような、少し面白がっているような顔で私を見る。
「春くん、本当に真理が竹下くんと付き合ってもいいんだね」
「え?」
「だって、そこまで協力してるってことは」
私は少し考えた。
「いいんじゃない?」
「春くんが?」
「何で春斗の許可がいるの?」
「そういう意味じゃなくて」
「?」
愛ちゃんは何か言いかけて、結局やめた。
「やっぱりいい」
「気になる!」
「真理が自分で気づいた方が面白い」
「何が!?」
「秘密」
愛ちゃんは笑って逃げる。
私は仕方なく唐揚げへ戻った。
春斗が、私と竹下くんが付き合うことをどう思うか。
それは当たり前に応援してくれるものだと思っていた。
春斗が大喜びする姿は想像できない。
たぶん、「そう」と言って終わる。
でも、それが春斗だ。
昔から、そういう人。
私は深く考えず、もう一つ唐揚げを口へ入れた。
◇
午後三時四十二分。
六時間目が終わり、教室の空気が一気に緩んだ。
ホームルームまでの短い時間、部活動のある生徒たちは鞄を整理し、帰宅部の生徒たちは友達と帰りの予定を話している。
私は焦っていた。
今日、まだ聞けていない。
朝は無理だった。
休み時間も無理だった。
昼休みには会えなかった。
残るのは放課後だけ。
でも、竹下くんは部活がある。
ホームルームが終わったら、すぐに行ってしまう。
「真理」
愛ちゃんが後ろから小声で呼ぶ。
「今日中」
「分かってる」
「顔が怖いよ」
「集中してるの」
「竹下くん逃げるよ」
「逃げない!」
私は竹下くんを見る。
友人と話しながら、すでに机の中を整理している。
担任が来る。
ホームルームが始まる。
明日の小テスト。
提出物。
委員会。
連絡事項。
今日は、先生の話が妙に長い。
時計を見る。
三時五十二分。
竹下くんはすでに鞄を閉じている。
終わった瞬間に走っていくかもしれない。
「では、明日の朝課題を忘れないように」
終わり?
「あと、来週の進路講話について」
まだある。
教室のあちこちから、部活組の落胆した気配が伝わってくる。時計を見る生徒や、鞄へ手を掛けたまま固まる生徒もいた。
先生は気づかず話し続ける。
さらに五分。
「以上。気をつけて帰るように」
ようやく終わった。
「起立」
挨拶が終わると同時に、椅子を引く音が一斉に響く。
生徒たちが動き始める。
竹下くんが鞄を持って立った。
今しかない。
「竹下くん!」
思ったより大きな声が出た。
教室に残っていた何人かがこちらを見る。
竹下くんが足を止め、振り返った。
「ん?」
私は立ち上がった。
足が少し震えている。
「ちょっと……いい?」
「うん」
竹下くんと一緒にいた友人二人が、にやりと笑う。
「先行ってるぞー」
「おう」
「久保さん、ごゆっくり」
「ちょっ!」
二人は笑いながら教室を出ていった。
周囲の女子たちも、少しこちらを見ている。
愛ちゃんは後ろで、親指を立てていた。
人が多い。
恥ずかしい。
逃げたい。
でも、今を逃したら明日も同じことになる。
「どうした?」
竹下くんが待っている。
「えっと、昨日のノート」
「うん」
「見せてくれてありがとう」
「大丈夫だよ」
「それで、もしまた分からないところがあったら……」
「うん」
「聞いてもいい?」
「もちろん」
竹下くんが自然に笑う。
今だ。
ここまで言えた。
「じゃあ」
一瞬、声が出なくなる。
喉が乾き、心臓の音が耳の奥まで響く。
それでも、私は言った。
「連絡先、交換してもいい?」
教室の音が遠くなった気がした。
竹下くんが少しだけ目を開く。
驚いた?
嫌だった?
重かった?
グループから追加すればいいのにと思った?
「ああ」
竹下くんが笑う。
「いいよ」
それだけだった。
驚くほど簡単で、普通の返事。
「……本当?」
「うん」
「いいの?」
「何で駄目なの?」
「いや、その……嬉しい!」
口にしてから、素直すぎたと思った。
竹下くんは少し笑う。
「じゃあ、クラスのグループから追加する?」
「うん!」
「俺からするよ。久保さんの分かるし」
「え」
竹下くんから。
私を。
追加してくれる。
私は固まったまま、竹下くんがスマートフォンを操作するのを見ていた。
数秒後、自分のスマートフォンが震える。
友達追加の通知。
竹下雅人。
その名前が画面に表示されている。
「できた?」
「で、できた」
「じゃあ、分からないところがあったら送って」
「うん!」
「返信遅いときもあるかも。練習中とか」
「全然大丈夫!」
「じゃあ部活行ってくる」
「頑張って!」
「ありがとう」
竹下くんは走って教室を出ていった。
私はその場に立ったまま動けなかった。
数秒後。
「真理ぃぃぃ!」
「わっ!」
愛ちゃんが後ろから抱きついてくる。
「やったじゃん!」
「やった!」
「交換した!」
「交換した!」
「しかも向こうから追加!」
「向こうから!」
二人とも小声のつもりだったが、全く小さくなかった。
教室に残っていた女子たちが笑っている。
「久保、顔真っ赤」
「おめでとー」
「青春だねぇ」
「まだ何も始まってないから!」
「連絡先交換は始まりでしょ」
誰かの言葉にまた笑いが起こり、私はさらに顔が熱くなった。
「メッセージ!」
愛ちゃんが私の肩を揺らす。
「え?」
「最初の!」
「今!?」
「今でしょ!」
「早くない!?」
「帰ってからだと遅いよ!」
「でも、何を送るの!?」
「春くんの作戦!」
「あ!」
今日はありがとう。
私はスマートフォンを開く。
友達一覧に竹下くんの名前がある。
信じられない。
メッセージ画面を開き、指を動かす。
『今日はありがとう!』
入力した。
でも、送信を押せない。
「押して」
「待って」
「何」
「文章、短くない?」
「最初だからいいよ」
「絵文字いる?」
「真理らしくして」
「私らしくって何!?」
「うるさい感じ」
「ひどい!」
それでも少し笑えた。
結局、私は文章を書き直した。
『今日は連絡先交換してくれてありがとう! 昨日はノートも助かりました!』
「愛ちゃん、どう?」
「いいと思う」
「本当?」
「送れ」
「命令!」
「はい」
私は思い切って送信を押した。
メッセージが飛んでいく。
「送った!」
「おめでとう!」
また愛ちゃんに抱きつかれる。
嬉しい。
でも、怖い。
返事は来る?
すぐ?
遅い?
竹下くんは部活へ行ったのだから、今すぐ来るはずがない。
分かっているのに、私は何度も画面を見てしまう。
「真理」
「何」
「部活中だよ」
「分かってる」
「じゃあ見るな」
「分かってるけど!」
愛ちゃんが楽しそうに笑う。
私はスマートフォンを胸元へ抱えた。
今日、また一歩進めた。
◇
午後四時十一分。
第一校舎と第三校舎の生徒が合流する、いつもの場所。
私はスマートフォンを見ていた。
まだ返事は来ていない。
当然だ。
竹下くんは部活中。
でも、見てしまう。
「真理」
「ひゃっ!」
「最近、それ多いな」
顔を上げると、春斗がいた。
「驚かせないでよ」
「普通に呼んだ」
「集中してたの」
「スマホに?」
「うん」
「……竹下?」
「え」
「顔で分かる」
愛ちゃんにも言われた。
私はそんなに分かりやすいのだろうか。
「聞いて!」
「声が大きい」
「連絡先交換した!」
言った瞬間、春斗の動きが止まった。
本当に、ほんの一瞬だけ。
でも、私は見た。
春斗の目が、少し揺れた。
「……そう」
「成功したよ!」
「良かったな」
「それだけ?」
「何て言えばいい」
「もっと喜んでよ」
「おめでとう?」
「棒読み!」
「じゃあどうしろと」
春斗は歩き始める。
私はその隣へついていった。
「作戦通りだったよ。昨日のノートの話をして、また分からないところを聞いてもいいかって言って」
「うん」
「それから、連絡先交換してもいいって聞いた!」
「そう」
「しかもね、竹下くんから追加してくれた!」
また少しだけ間があった。
「へえ」
「へえ?」
「何」
「反応薄くない?」
「普通」
「せっかく春斗の作戦が成功したのに」
「俺が嬉しがることじゃないだろ」
「一緒に喜んでよ」
「何で」
「恋愛相談役だから!」
「辞めたはず」
「辞表は受理してません」
「やっぱりブラックだな」
私は笑った。
でも、春斗は少し違う。
いつもより返事が短い。
歩く速度も、少し速い。
「春斗」
「何」
「機嫌悪い?」
「普通」
「絶対悪い」
「普通だって」
「学校で何かあった?」
「ない」
「女子?」
「何で女子」
「昨日話してた子」
「関係ない」
「じゃあ何」
「何でもない」
春斗の声が少し強くなった。
私は黙る。
周囲には下校する生徒たちの笑い声や、自転車のブレーキ音、バスの発車音が響いている。
その中で、私たちの間だけが少し静かになった。
「……ごめん」
私が小さく言うと、春斗がこちらを見る。
「何で謝る」
「しつこかったかなって」
「……別に」
「じゃあ、機嫌悪い理由を教えて」
「悪くない」
「でも」
春斗が足を止め、小さく息を吐いた。
「本当に何でもない。ただ、竹下の話ばっかりだから疲れただけ」
胸の奥が、少し痛んだ。
理由は分からない。
でも、その言葉は思ったより悲しかった。
「……嫌だった?」
「そういう意味じゃない」
「でも疲れたって」
「毎日、同じ話を何時間もされたら誰でも疲れるだろ」
「……そうだよね」
私は笑おうとした。
うまくできなかった。
「ごめん。気をつける」
「真理」
「今まで聞いてくれてありがとう。愛ちゃんにも相談できるし」
「真理」
今度は少し強い声で呼ばれ、私は春斗を見る。
春斗は困ったような顔をしていた。
珍しい表情だった。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
春斗は答えない。
視線を逸らす。
「言わないなら分からないよ」
そう口にして、自分でも少し変な気分になった。
言わないなら分からない。
私は昔から何度も、春斗に同じことを言ってきた。
春斗が何を考えているのか、分からない。
今も同じだった。
「……嬉しそうに話すの」
春斗が小さく言う。
「え?」
「竹下のこと」
「うん」
「……ちょっと」
言葉が止まる。
「何」
「……」
「春斗?」
「うるさいと思っただけ」
違う。
今、別のことを言おうとしていた?
私には分からない。
春斗はそのまま歩き出した。
「行くぞ」
「待って」
「電車に乗り遅れる」
「まだ時間あるよ」
「いいから」
私は春斗を追い、その隣へ並んだ。
けれど、さっきまでとは空気が違う。
春斗が何を考えているのか、本当に分からなかった。
◇
水戸駅から電車へ乗る。
帰宅時間と重なり、車内は混んでいた。
私と春斗は吊り革につかまり、隣同士で立っている。
会話はない。
無言になること自体は珍しくない。
でも今日は、いつもの沈黙とは違って気まずかった。
私はスマートフォンを見る。
通知はない。
竹下くんはまだ部活中。
春斗は窓の外を見ている。
「ねえ」
「何」
「まだ怒ってる?」
「怒ってない」
「私も怒ってないよ」
「そう」
会話が続かない。
私は少し困った。
普段なら、私が勝手に話して、春斗が短く返す。
それで成り立っていた。
でも、今日は竹下くんの話をしないようにしている。
何を話せばいいのだろう。
「今日、学校どうだった?」
「普通」
「授業は?」
「普通」
「お昼は?」
「パン」
「何パン?」
「焼きそば」
「それだけ?」
「あと牛乳」
会話が下手すぎる。
私も。
春斗も。
春斗の口元が少し動く。
「何」
「いや」
「笑った?」
「笑ってない」
「絶対笑った」
「お前、無理に話題を作るの下手だな」
「うるさい!」
少しだけ空気が戻る。
私は少し安心した。
「だって、竹下くんの話をしないようにしてるから」
「別にしていい」
「でも疲れるんでしょ」
「……」
「ほら」
「違う。話自体が嫌なわけじゃない」
「じゃあ?」
春斗はまた答えない。
そのとき電車が揺れ、私は少しよろけた。
すぐに春斗が私の腕を掴む。
「危な」
「ありがとう」
手はすぐに離れた。
昔から何度もあることだ。
何でもない。
それなのに、今だけ少し意識してしまった。
私は掴まれた腕を見る。
春斗は何事もなかったように窓へ視線を戻していた。
「真理」
「何」
「交換できて良かったな」
「……え?」
「連絡先」
「うん」
「お前が頑張ったからだろ」
急にそんなことを言われ、少し嬉しくなる。
「うん」
「だから、俺の機嫌とか気にしなくていい」
「でも」
「お前の恋なんだから」
胸の奥が少しざわついた。
「春斗は?」
「何」
「応援してくれるんでしょ?」
春斗はすぐに答えなかった。
一秒。
二秒。
いつもなら適当に返すはずなのに、その沈黙が妙に長く感じた。
「……まあ、相談されたら」
「それ、応援?」
「同じだろ」
「違うよ」
「面倒」
「ちゃんと言って」
「何を」
「応援するって」
春斗は少し眉を寄せる。
「何で言わせたいんだよ」
「何となく」
「意味分からない」
「いいから」
「嫌だ」
「ケチ」
私は笑う。
でも、春斗が「応援する」と言わないことが心へ引っかかった。
ただ照れているだけ?
面倒だから?
春斗だから?
たぶん、そう。
私はそう思うことにした。
そのとき、スマートフォンが震えた。
通知。
反射的に画面を見る。
竹下雅人。
『こっちこそありがとう! 分からないところあったらいつでも聞いて』
返事が来た。
顔が熱くなる。
「来たのか」
春斗は画面を見ずに言う。
「うん」
「良かったな」
「うん!」
嬉しさを抑えられず、私は笑う。
すぐに返信を考える。
「春斗」
「何」
「返信、どうしよう」
「自分で考えろ」
「ええ!」
「俺に聞くな」
「恋愛相談役!」
「今だけ休業」
「何で!」
「知らない」
春斗は本を取り出して開いた。
完全に会話終了。
私は少しむっとしたが、すぐ竹下くんの画面へ意識を戻した。
『ありがとう! そのときはお願いします! 部活頑張ってね!』
自分で考えて送る。
すぐに既読がついた。
『ありがと!』
短い。
でも、嬉しい。
私はまた笑う。
隣で春斗は本を読んでいる。
けれど、開いたページはしばらく変わらなかった。
私はそれに気づかなかった。
◇
友部駅で乗り換える。
夕方のホームには少し涼しい風が吹いていた。
私はベンチへ座り、スマートフォンで竹下くんとの短いやり取りを何度も見返していた。
春斗は隣で本を開いている。
「何回見るんだよ」
「見てない」
「見てる」
「記念だから」
「何の」
「初メッセージ」
「消えないだろ」
「分かってる」
春斗がため息をつく。
私は画面を閉じた。
「ねえ」
「何」
「春斗って、好きな人いないの?」
何となく聞いた。
本当に、何となく。
春斗のページを押さえる指が止まる。
「急に何」
「私ばっかり相談してるから」
「いない」
「即答」
「うん」
「本当に?」
「何で疑う」
「中学のとき、告白されたって噂あったよね」
「知らない」
「愛ちゃんも言ってた」
「大杉が?」
「うん」
「余計なこと」
「やっぱりあったんだ」
春斗は黙る。
「何人?」
「知らない」
「付き合った?」
「ない」
「本当?」
「ない」
「じゃあ、好きになった人もいない?」
ほんの少し間があった。
「いない」
「今、間があった」
「いない」
「怪しい」
「うるさい」
春斗の恋愛。
想像できない。
でも、もし好きな人ができたらどうなるのだろう。
「春斗が好きになるなら、どんな子?」
「知らない」
「明るい子?」
「知らない」
「静かな子?」
「知らない」
「本を読む子?」
「知らない」
「可愛い子?」
「知らない」
「何も知らないじゃん!」
「だから興味ない」
「つまらない」
「お前に面白がられるために恋愛するんじゃない」
「もし好きな人ができたら、相談してね」
「絶対しない」
「何で!」
「お前に相談したら、全部大杉に漏れる」
「漏らさないよ!」
「母親にも漏れる」
否定できない。
「お母さんは、その……」
「漏れるだろ」
「……気をつける」
「信用ない」
私は笑う。
春斗も少し笑った。
さっきまで重かった空気が、少しだけ消える。
「でもさ」
私はふと口にする。
「春斗に好きな人ができたら、私も応援するよ」
春斗が黙った。
「恋愛相談も乗る」
「いらない」
「何で」
「お前には無理」
「できる!」
「今日、連絡先を聞くのに一日かかった奴が?」
「自分の恋と人の恋は違うの!」
「説得力ない」
「ある!」
私は笑う。
でも、春斗は笑わなかった。
少しだけ、こちらを見る。
「……本当に応援する?」
「え?」
「もし俺に好きな奴ができたら」
「もちろん」
私は迷わず答えた。
「幼馴染だもん」
春斗は目を伏せた。
「……そう」
「何」
「別に」
「今の顔、何?」
「何でもない」
春斗は本を開き、また逃げるように視線を落とした。
私は少し不思議に思ったが、そのときスマートフォンが震えた。
竹下くんかと思った。
違った。
愛ちゃんだった。
『どう? 返信きた?』
私は笑いながら返す。
『きた!!』
すぐに返事が届いた。
『おめでとう、恋する乙女』
思わず頬が緩む。
「気持ち悪い」
「春斗!」
「またか」
「うるさい!」
いつもの帰り。
いつもの幼馴染。
私はそう思っていた。
◇
岩瀬駅へ着く頃には、空はすっかり薄暗くなっていた。
駅前のロータリーには迎えの車が何台か停まり、学校帰りの生徒たちがそれぞれ家族の車へ向かっていく。
今日は春斗の家が送迎当番だった。
春斗のお母さんの車が、いつもの場所に停まっている。
「おかえりー」
「ただいま」
「お邪魔します」
「真理ちゃん、今日も春斗に恋愛相談した?」
「母さん」
春斗が珍しくすぐに止める。
「何?」
「毎日それを聞かなくていい」
「あら」
春斗のお母さんが少し驚く。
「何、喧嘩した?」
「してない」
「春ちゃん、機嫌悪い?」
「悪くない」
「顔怖い」
「普通」
私は助手席へ乗る。
春斗は後部座席へ座った。
春斗のお母さんがルームミラー越しにこちらを見る。
「真理ちゃん、今日何かあった?」
「えっと」
少し迷った。
春斗は、竹下くんの話ばかりで疲れると言っていた。
でも。
「竹下くんと連絡先を交換しました」
「あら!」
春斗のお母さんの声が明るくなる。
「良かったじゃない!」
「はい!」
「春斗、協力したの?」
「少し」
「へえ」
春斗のお母さんが、ルームミラー越しに春斗を見る。
「昔から不器用なくせに、そういうのは分かるんだ」
「何が」
「別に」
「母さん」
何か意味があるのだろうか。
私は気になった。
「春斗、昔から不器用って?」
「真理ちゃん知らない?」
「何を?」
「春斗ね、小さい頃から」
「母さん」
春斗の声が強くなる。
車内が少し静かになった。
春斗のお母さんは笑う。
「あ、これ言ったら怒られるやつだった」
「何ですか!?」
「秘密」
「お母さん!」
「ごめんねぇ。春斗に聞いて」
私は後ろを振り返る。
「春斗」
「知らない」
「何を言おうとしたか知ってるでしょ」
「知らない」
「絶対知ってる!」
「疲れた」
「逃げないでよ!」
春斗は窓の外へ顔を向ける。
春斗のお母さんは小さく笑っていた。
その顔には、確実に何かを知っている人の余裕があった。
◇
夜、午後九時十二分。
私は自室のベッドへ寝転がり、スマートフォンを見ていた。
竹下くんとの短いメッセージ。
何度見ても嬉しい。
明日、何か送る?
用事もないのに送ったら重い?
でも、連絡先を交換したのだから、話してもいいはず。
私は画面を閉じて、また開く。
「……朝もこれやってたな」
自分で少し笑う。
そのとき、通知が届いた。
春斗。
『明日の朝、五分早い』
私はすぐに返信する。
『何で?』
既読がつく。
『母さんが早番』
『了解』
それだけ。
普通のやり取り。
でも、私は少し考えた。
今日の春斗は変だった。
連絡先を交換したと言ったあと、機嫌が悪くなった。
竹下くんの話ばかりで疲れたと言った。
そのくせ、相談するなという意味ではないとも言った。
結局、何だったのだろう。
愛ちゃんは言っていた。
『春くん、本当に真理が竹下くんと付き合ってもいいんだね』
春斗のお母さんも、昔から不器用だと何かを言いかけていた。
私は天井を見る。
春斗は、私と竹下くんが付き合うのを嫌がっている?
何で?
ありえない。
春斗は恋愛に興味がない。
私はただの幼馴染だ。
中学のとき、同じ名字で夫婦みたいだとからかわれても、春斗は気にしていなかった。
私だけが恥ずかしがっていた。
今は私が竹下くんを好きで、春斗はその恋を応援している。
相談に乗り、作戦まで考えてくれた。
だから、違う。
何もない。
「……考えすぎ」
私は自分に言い聞かせた。
スマートフォンをもう一度見る。
竹下くんとのメッセージ。
明日、また話せる。
今は、それだけでいい。
私は電気を消し、布団へ潜った。
◇
同じ頃。
久保春斗は、自室の机へ座っていた。
開かれた小説は、さっきから同じページのままだった。
文字を追おうとしても、頭に入らない。
『連絡先交換した!』
夕方、真理が見せた嬉しそうな顔が何度も浮かぶ。
「……馬鹿か、俺」
小さく呟く。
連絡先を自然に聞く方法を教えたのは、自分だ。
ノートの話を使えばいいと考えたのも、自分だ。
真理が竹下へ近づく手伝いをしている。
何をしているのか、自分でも分からない。
でも、真理が本気だと言ったのなら、邪魔をする理由はない。
自分は何も言っていない。
ずっと幼馴染のままだった。
真理が竹下を好きになった。
その恋が叶うかもしれない。
良かった。
そう思うべきなのに。
胸が重い。
真理が竹下の名前を口にし、嬉しそうに笑う。
それを見るのが苦しい。
春斗は両手で顔を覆った。
「何やってんだよ……」
誰も答えない。
部屋は静かで、窓の外から虫の声と遠くを走る車の音だけが聞こえていた。
春斗は机の上のスマートフォンを見る。
真理とのやり取り。
『明日の朝、五分早い』
『何で?』
『母さんが早番』
『了解』
それだけ。
昔から、こんな短いやり取りで十分だった。
真理は毎日いる。
朝も、帰りも、隣にいる。
それが当たり前に続くと思っていた。
でも、真理には好きな人ができた。
そのうち竹下と一緒に帰るのだろうか。
連絡を取り合う時間が増え、休日にも会うようになり、付き合うことになるのだろうか。
そのとき、自分は真理の隣にいられるのか。
春斗は目を閉じた。
答えは出ない。
ただ一つ、分かることがある。
真理が嬉しそうに竹下の話をするたび、笑って聞き続ける自信がない。
それでも、相談されたら断れない。
昔からそうだった。
真理が困って、春斗を頼る。
春斗が答える。
それが二人の当たり前だった。
だから今日も作戦を考えた。
明日も、聞かれればきっと考える。
自分で自分の首を絞めると分かっていても。
春斗は小説を閉じた。
もう今日は読めそうになかった。
その夜、真理は竹下雅人との初めてのメッセージを思い出しながら、嬉しい気持ちで眠りについた。
一方で春斗は、幼馴染の恋を応援するという自分で選んだ立場に、初めてはっきりと苦しさを感じていた。
それでも翌朝になれば、きっといつも通りに「はよ」と言う。
真理も、何も知らないまま「おはよう」と返す。
そんな何でもない挨拶から、今までと変わらない一日が始まる。その当たり前が少しずつ揺らぎ始めていることを、このときの二人はまだ知らなかった。




