第59話 文化祭のメニューを決めるだけだったのに、彼氏に何をおすすめするかまでクラスのみんなに決められそうになりました
木曜日の朝。
目を覚ました私は、カーテン越しに差し込む柔らかな朝の光をぼんやり眺めながら、昨日の帰り道で自分が言ったことを思い出していた。
『春斗と撮りたいから』
文化祭で撮る二人の写真について、私は自分からそう言った。
撮る場所はまだ決めていないし、そのとき手を繋ぐかどうかも当日の気持ちで決めることになっている。それでも、「二人で写真を撮る」という予定そのものは、もう愛ちゃんに押し切られて仕方なく受け入れているものではなかった。
私が撮りたいと思っている。
恋人になってから初めて迎える文化祭で、春斗と並んだ一枚を残したい。昨日、それを自分の口からちゃんと言えたことは、恥ずかしかったけれど少し嬉しかった。
「……でも、言いすぎた気もする」
思い出した途端に頬が熱くなり、私は枕へ顔の半分を押しつけた。
最近の私は、春斗に対して以前よりずっと素直になっている。会いたい、一緒に回りたい、写真を撮りたい。文化祭で春斗が普段と違う格好をしていたら見たいし、格好いいと思ったらちゃんと言いたい。逆に、私のエプロン姿を春斗が可愛いと思ったなら、その言葉は少し恥ずかしくても聞きたい。
こうして一つずつ並べてみると、自分でもかなり彼女らしいことを言っている気がした。
少し前まで、私は春斗に竹下くんのことを相談していた。
どうすればもっと話せるのか。どうすれば近づけるのか。もし文化祭がもっと早い時期にあったなら、「竹下くんと一緒に回れたらいいな」と春斗へ相談していた可能性だってある。
それが今では、文化祭当日に恋人として一緒に回りたい相手を考える必要すらなかった。
春斗だ。
もちろん愛ちゃんたちとも回りたいし、クラスの喫茶もきちんとやりたい。文化祭そのものを春斗とのデートだけにしたいわけではない。それでも、その一日のどこかで恋人として隣にいたい人は春斗で、そこにはもう迷いがなかった。
そこまで考えてから、私は枕元のスマートフォンを手に取った。
時刻は午前六時十二分。通知は三件来ている。
一件は文化祭のクラスグループ、一件は愛ちゃん。そして、もう一件は春斗だった。
何となく内容を予想しながら、先に春斗との画面を開く。
『おはよう』
『おはよう』
返すと、ほとんど同時に既読がついた。
『今日』
『何』
『写真』
「まだ言うの?」
昨日、あれだけ話したのに。
『朝からそれ?』
『昨日真理が撮りたいって言った』
『覚えてる』
『俺も』
『知ってる』
『かなり』
『共有』
もう、この流れにもかなり慣れてきた。
私は小さく笑いながら春斗との画面を閉じ、今度はクラスグループを開いた。昨夜のうちに、文化祭の喫茶メニューについて候補がかなり整理されていたらしい。
『飲み物はコーヒー、紅茶、オレンジジュースでどう?』
『ミルクティーほしい』
『牛乳管理できる?』
『先生に確認』
『お菓子はクッキーと個包装パウンドケーキ候補』
『価格計算しないと』
『セット作る?』
ただ「喫茶をやる」と決めた頃より、文化祭がずっと具体的になってきた。
飲み物、お菓子、値段、仕入れ、接客、エプロン、当番。決めなければならないことは思った以上に多いけれど、一つずつ形になっていくほど、本当に自分たちで一つの店を作っているような気がしてくる。
私は画面を眺めながら、昨日自分のノートへ書いていた候補を思い出した。
春斗が飲みたいのはコーヒー。
甘いものなら、今のところクッキー。
そして最後には、決まって同じことを言う。
『真理おすすめ』
また、あれだ。
何を選んでも、春斗は「真理が選んだなら」と言いそうな気がする。それは嬉しいけれど、おすすめと言われるなら、私は本当に自分が好きなものを選びたかった。
私は少し考えてから、もう一度春斗との画面を開いた。
『メニュー』
『何』
『今日決めるかも』
『クッキー』
『まだ』
『コーヒー』
『それは多分ある』
『真理おすすめ』
『またそれ』
『決まったら教えて』
やっぱり。
『本当に私が好きなのでいいの?』
『うん』
『春斗の好みじゃなくて?』
『真理が選んだの食べたい』
その返事を見た瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。
『じゃあ、決まったら一個選ぶ』
少し考えてから送ると、すぐに既読がつく。
『約束』
『うん』
文化祭当日。
春斗が私のクラスへ来て、私は接客担当としてそこにいる。春斗がコーヒーを頼んで、それから私のおすすめまで頼む。
ただそれだけの場面を想像しただけなのに、少し恥ずかしい。
でも。
その恥ずかしさごと、私は楽しみにしていた。
◇
朝食を終えて一階へ降りると、母は台所で弁当箱を包んでいるところだった。
「おはよう」
「おはよう。今日も文化祭?」
「学校は毎日あるでしょ」
「学校じゃなくて、話題が」
「ああ」
そう言われて気づく。最近、朝食の席でも帰りの車でも、文化祭の話をしていることが本当に増えた。
「今日はメニュー決めるかも」
「喫茶の?」
「うん。コーヒーとか紅茶とか、お菓子も」
「接客するだけじゃなくて、結構ちゃんと準備するんだね」
「文化祭だからね」
母は包み終えた弁当を私へ渡しながら、何気ない調子で聞いてきた。
「春斗くんには何出すの?」
「何で春斗限定なの」
「来るんでしょう?」
「来るけど」
「真理が接客する予定なんでしょ?」
「時間が合えばね」
「何飲むか知ってる?」
「コーヒー」
即答した直後、母が少しだけ笑った。
「よく知ってるね」
「最近聞いたから」
「おすすめは?」
「それも聞かれた」
「春斗くんに?」
「うん」
「何すすめるの?」
「まだメニュー自体が決まってないから、決まってから選ぶ」
母が少し目を細める。
「彼女っぽいね」
「何が?」
「彼氏に自分のおすすめ食べてもらうの」
「普通でしょ」
「普通になったんだ?」
その言葉に、私は少しだけ動きを止めた。
以前なら、「普通」という言葉は誤魔化すために使っていたかもしれない。恥ずかしいことを認めたくなくて、別に普通だから、と逃げていた。
今は違う。
春斗に自分の好きなものをすすめて、食べてもらう。それくらいのことを、本当に自然だと思えるようになってきている。
「……うん。少しずつ普通になってきた」
私が小さく笑うと、母も柔らかく笑った。
「いいんじゃない?」
「うん」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
母が時計を見る。
「今日も同じくらいだね」
「うん」
私は鞄を持ち、玄関へ向かう。
扉を開けると、いつもの制服姿の春斗が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
顔を見る。
もう、一日会わなかったあとの月曜日みたいに胸が大きく跳ねることはない。それでも、目の前に春斗がいることは普通に嬉しかった。
「真理」
「何?」
「今日も普通」
「昨日も言った」
「確認」
「観察禁止」
「彼氏だから」
「便利に使わないで」
春斗が少し笑う。
私は靴を履き終えながら、その制服姿を何となく見た。
文化祭当日。
この制服の上から何かを着るのか、それとも係用の格好が別にあるのか。春斗のクラスは射的と輪投げだから、法被みたいなものを着る可能性もある。
「真理」
「何?」
「見てる」
「うん」
「何で?」
「文化祭」
「俺の格好?」
分かるのが早い。
「……少し気になっただけ」
そう答えると、春斗の耳がすぐに赤くなった。
「真理」
「何」
「朝からそれ」
「何も言わないで」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
後ろから母が笑う。
「二人とも、玄関でずっと話してないで早く行くよ」
「うん」
「はい」
私たちは顔を見合わせ、小さく笑いながら車へ向かった。
◇
登校中の車では、今日も母から見えにくい位置で小指を絡めた。
もう、それをするかどうかで迷う時間はほとんどない。
毎日絶対にしなければならない決まりではないけれど、今日は今日で触れたいと思った。だから自然に指先を寄せて、そのまま絡める。それくらいの距離が、今の私たちにはちょうどよかった。
「文化祭のメニューって、値段も自分たちで決めるの?」
母が運転しながら聞いてくる。
「多分。仕入れ値とか見て決めるんじゃないかな」
「赤字になったら大変だね」
「先生も見ると思う」
「春斗くんのクラスは?」
「景品の予算を今日詰めるみたいです」
「射的の?」
「はい」
「真理が景品を取れなかったら、何かくれるんだっけ」
私は思わず前を見る。
「お母さん、そこまで覚えてるの?」
「真理が話すからでしょう」
「私そんなに話してる?」
「結構してるよ」
隣で春斗が小さく笑った。
「春斗」
「何?」
「笑わないで」
「嬉しい」
「何が」
「俺の話してる」
胸が少し鳴る。
だったら。
「春斗だって、家で私の話してる?」
聞いた直後、自分から聞いておいて少し恥ずかしくなった。
でも春斗は、ほんの少し考えたあとで普通に答える。
「してる」
「本当?」
「うん」
「何を?」
「文化祭とか」
「それだけ?」
「真理」
「それ内容じゃない」
「エプロン」
「春斗!」
前で母が楽しそうに笑う。
「春斗くんも同じくらいなんじゃない?」
「多分そうです」
春斗が答える。
私は窓の外へ視線を向けながら、口元が緩むのを止められなかった。
付き合う前から、家でお互いの名前が出ること自体は珍しくなかったはずだ。何しろ幼馴染で、家族同士も昔から知っている。
それでも今は、少し意味が違う。
家で春斗の話をする私は、幼馴染のことを話しているだけではない。
彼氏のことを話している。
春斗も同じように、彼女として私の話をしている。
その違いが、まだ少しくすぐったかった。
◇
学校へ着き、昇降口へ向かう途中で、文化祭関係の掲示がさらに増えていることに気づいた。
昨日まで空欄だったクラスにも企画名が書き込まれ、廊下の壁には準備期間についての注意事項まで貼られている。
『廊下への装飾物設置は指定日以降』
『火気使用禁止』
『食品関係は事前申請必須』
『当日の写真撮影は通行の妨げにならないよう注意』
最後の一文を見て、私は足を止めた。
「春斗」
「何?」
「写真」
私が掲示を指すと、春斗も同じところを見る。
「通行の邪魔になる場所は駄目だね」
「うん。渡り廊下、混んでたら無理かも」
「中庭の方がいい?」
「そっちも人が多かったら厳しいかも」
「じゃあ当日見て――」
「決める」
最後だけ二人の声が重なった。
一瞬だけ顔を見合わせ、どちらからともなく笑う。
「真理」
「何?」
「写真、楽しみ?」
「昨日から何回聞くの」
「今日まだ」
「朝メッセージで聞いた」
「そうだった」
春斗が本気で忘れていたような顔をする。
私は少し呆れながらも、今度は聞かれる前に言ってしまうことにした。
「春斗」
「何?」
「楽しみだよ」
春斗の表情がぴたりと止まる。
「何」
「先に言っただけ。毎回聞かれるなら、こっちから言おうかなと思って」
「それ、かなり嬉しい」
「はいはい」
「共有?」
「共有」
二人で笑いながら昇降口へ入った。
いつもの分岐が近づく。
「昼」
「うん」
「メニュー決まる?」
「本格的に話すのは六時間目かも」
「じゃあ放課後」
「うん」
「おすすめ、決まったら教えて」
「分かった」
「待ってる」
その言葉が、少しだけ嬉しい。
「じゃあ昼ね」
「うん」
今日は「好き」とは言わなかった。
私も言わない。
でも、何も不安にはならなかった。
午前中はそれぞれの教室で普通に授業を受けて、昼になったらまた会う。
今は、それで十分だった。
◇
教室へ入ると、愛ちゃんと佐々木さんが机を寄せて何かを見ていた。
「おはよう」
「おはよう」
私が近づくと、佐々木さんが手元のプリントを少し持ち上げた。
「何見てるの?」
「メニュー表。昨日、会計の子が仕入れ価格とか調べてくれたんだって」
「早い」
見せてもらうと、昨日までに出ていた候補と、ざっくりした仕入れ値が一覧になっていた。
飲み物はコーヒー、紅茶、オレンジジュース。
お菓子は個包装のクッキーと、小さなパウンドケーキ。
さらに、単品で出す場合の価格と、飲み物とお菓子を組み合わせたセット案まで書かれている。
「結構ちゃんとしてるね」
「でしょ?」
愛ちゃんが楽しそうに笑う。
「真理」
「何?」
「春くんに何すすめる?」
やっぱりそこへ来た。
「まだ正式にメニュー決まってないでしょ」
「候補の中なら?」
「コーヒーは本人が頼むって言ってる」
「じゃあお菓子」
私はプリントへ視線を落とした。
クッキーも普通に美味しそうだけれど、どちらかと言えばパウンドケーキの方が好きだ。
「真理はどっち好き?」
佐々木さんにも聞かれ、私は素直に答えた。
「パウンドケーキかな」
「じゃあ春くんそれだね」
「何で?」
愛ちゃんが当然のように言う。
「真理おすすめだから」
「これ、クラスメニューの話だよね?」
「そうだよ」
「何で春斗の注文まで決めようとしてるの」
「本人が真理おすすめって言ってるんでしょ」
「何で知ってるの?」
「昨日、真理が言ってた」
「私?」
「昼」
言ったような気がする。
最近、春斗のことを誰にどこまで話したのか、自分でも少し分からなくなってきた。
愛ちゃんがそんな私を見て笑う。
「真理、彼氏の話かなりしてるよ」
「お母さんにも言われた」
「自覚なかった?」
「少しはあるけど」
「じゃあいいじゃん」
「何が?」
「楽しそう」
私は少しだけ黙った。
でも、この質問の答えはもう迷わない。
「楽しいよ」
そう言うと、愛ちゃんは満足そうに笑った。
「うん。それならいい」
からかわれているのに。
不思議と嫌ではなかった。
◇
一時間目と二時間目が終わった休み時間。
廊下には、文化祭準備の話をする生徒が日に日に増えていた。他クラスの子たちが段ボールの必要数を相談していたり、装飾用の模造紙をどこで買うか話していたりする。
学校全体が少しずつ文化祭へ向かっている。
私は窓際でスマートフォンを確認した。
春斗からメッセージが来ている。
『真理』
『何』
『景品』
『決まった?』
『候補』
『何』
『チョコ入る』
『本当?』
『うん』
『私が言ったから?』
少しだけ気になって聞く。
すぐに返事が来た。
『参考』
続けて。
『でも他にも人気』
それならいい。
『真理』
『何』
『取って』
『射的?』
『うん』
『頑張る』
『俺教える』
『不正』
『ルール』
『それはお願い』
思わず笑ってしまう。
『でも景品取れなかったら』
『何かくれる』
『覚えてる』
『秘密』
『うん』
文化祭当日、射的で景品が取れても取れなくても、春斗は何か別のものを用意するつもりらしい。
高いものはいらない。
大げさなものもいらない。
春斗が私のために選んでくれること自体が、今はもう楽しみだった。
『春斗』
『何』
『秘密、楽しみにしてる』
送ると、既読はついたのに返事が止まった。
少しして。
『今無理』
『何が』
『真理』
『また?』
『嬉しい』
私は画面を見ながら小さく笑った。
こうして春斗が言葉を失う瞬間を見るのも。
最近は、少し好きだった。
◇
昼休み。
食堂へ向かう途中で、春斗と石井さんに合流した。
「真理」
「何?」
「チョコ」
「聞いた」
「欲しい?」
「射的で取れたらね」
「取れなくても」
「秘密なんでしょ」
「うん」
隣で石井さんが少し呆れた顔をする。
「何の暗号だよ」
「文化祭」
春斗が言い。
「景品」
私が続ける。
「秘密」
さらに後ろから愛ちゃんが加わった。
「何で愛ちゃんまで続けるの」
「聞こえたから」
「全部?」
「大体」
四人で笑いながら食堂へ入り、いつもの席へ向かう。
今日の食堂も文化祭の話ばかりだった。隣のテーブルではお化け屋敷の内装について話していて、少し離れた席ではクラスTシャツを作るかどうかで意見が割れている。
そんなざわめきの中で。
愛ちゃんが私たちのテーブルへメニュー候補のプリントを置いた。
「何これ?」
春斗が見る。
「真理のクラスの候補」
「見せていいの?」
「まだ候補だけだし」
私も隣から覗き込む。
「コーヒー」
春斗がすぐに言った。
「それは知ってる」
「クッキー」
「昨日まではそれ言ってたね」
「パウンドケーキ」
「今日出てる候補」
春斗が私を見る。
「真理、どれ好き?」
愛ちゃんがにやりと笑い、石井さんまで何となく察したような顔をしている。
全員、春斗が「真理おすすめ」を頼むつもりだと知っている。
「……パウンドケーキ」
私が答えると、春斗はほとんど間を置かなかった。
「じゃあそれ」
「即決?」
「真理おすすめ」
「まだおすすめって言ってない」
「今、好きって言った」
「好きとおすすめは違うでしょ」
「じゃあ」
春斗が少しだけ首を傾げる。
「おすすめ?」
その聞き方はずるい。
私は少しだけ考えてから。
「……おすすめ」
と言った。
春斗の表情がすぐ柔らかくなる。
「じゃあ食べる」
「まだ正式採用されるか分からないよ」
「採用されたら」
「うん」
愛ちゃんが楽しそうに笑う。
「はい、春くんの注文決定」
「勝手に確定させないで」
「本人が決めたじゃん」
「そうだけど」
石井さんがプリントを見ながら口を挟む。
「コーヒーとパウンドケーキなら、普通に合うんじゃね?」
「でしょ?」
愛ちゃんがすぐ乗る。
「じゃあ『真理おすすめセット』で」
「名前つけないで!」
「売れそう」
「絶対嫌!」
「限定一名」
「もっと嫌!」
春斗が隣で笑う。
「俺専用?」
「喜ばないで!」
少し声が大きくなってしまい、近くの席から何人かがこちらを見る。
顔が熱い。
でも。
結局、私も笑っていた。
「真理」
春斗が周囲へ聞こえないくらいの声で呼ぶ。
「何?」
「おすすめ、嬉しい」
「まだ食べてもないのに?」
「真理が選んだ」
「それだけ?」
「それがいい」
胸の奥が少し温かくなる。
だから。
私は少しだけ声を落として続けた。
「じゃあ、採用されたらね」
「うん」
「私が接客の時間だったら」
「うん」
「春斗のところに持っていく」
今度は春斗が完全に動きを止めた。
なぜか愛ちゃんと石井さんまで一緒に黙る。
「何?」
私が三人を見ると、最初に愛ちゃんが笑い出した。
「真理」
「何」
「彼女だね」
「またそれ?」
「だって、自分から春くんのところへ持っていくって」
「接客係だから!」
「でも春くんの席でしょ」
「時間が合えばだから!」
顔は熱い。
それでも、言ったことを取り消したいとは思わなかった。
春斗も少し笑う。
「待ってる」
「……うん」
文化祭当日。
本当にそんな時間が来るのかもしれない。
◇
午後の授業が終わり、六時間目。
今度はクラス全体で、文化祭のメニューについて本格的な話し合いが始まった。
担任が黒板へ候補を書き出していく。
飲み物は、コーヒー、紅茶、オレンジジュース。ミルクティーについては牛乳の温度管理が難しいため、今回は外す方向になった。
「残念」
私が小さく呟くと、隣の愛ちゃんが笑った。
「真理、ミルクティー好きだもんね」
「うん」
「春くん――」
「関係ない」
「まだ何も言ってない」
「絶対何か言おうとした」
自分でもおかしくなって笑った。
次はお菓子。
候補はクッキーと個包装のパウンドケーキ。どちらも仕入れ自体は可能らしい。
「両方置くと在庫管理面倒じゃない?」
「セット分かりにくいかも」
「どっちか一つでよくない?」
教室のあちこちから意見が飛ぶ。
担任はすぐに答えを出さず、生徒同士で考えるように促した。
「投票で決めれば?」
「値段が違うよ」
「パウンドケーキの方が少し高い」
「でも単価は取れる」
「クッキーの方が数は出しやすいんじゃない?」
私はそのやり取りを聞きながら、今度はきちんとクラスの立場で考える。
自分が好きなのはパウンドケーキ。
春斗にもおすすめすると言った。
でも、文化祭の喫茶は私と春斗だけのものではない。
運営のしやすさ。
値段。
仕入れ。
お客さんが選びやすいかどうか。
そこまで考えて決める必要がある。
「久保」
後ろから山口くんが呼ぶ。
「何?」
「彼氏、どっち?」
「何で判断材料にするの」
「客の意見」
「一人だけでしょ!」
「でも特進側の代表客」
「何それ」
近くの何人かが笑う。
私は少し考えてから答えた。
「春斗は、私が選んだ方って言ってる」
「参考にならん」
「でしょ?」
今度は教室のあちこちから笑いが起きた。
愛ちゃんが手を上げる。
「運営だけならクッキーの方が楽そうです。でも、喫茶店っぽさならパウンドケーキの方があると思います」
佐々木さんも続く。
「個包装なら扱いやすいし、値段を少し上げてもいいならパウンドケーキかな」
「賞味期限も問題なさそう」
「じゃあ仕入れ数を少し抑える?」
意見が少しずつまとまっていく。
最後は簡単な多数決になった。
クッキーが十三票。
パウンドケーキが二十一票。
「じゃあ、お菓子はパウンドケーキでいくか」
先生が黒板の候補へ丸をつける。
その瞬間。
私は少し嬉しくなった。
春斗が食べるからだけではない。
私自身が喫茶に合うと思っていたし、クラスのみんなが話し合った末に選ばれた。そのうえで、自分が好きなものを春斗にもすすめられる。
それが素直に嬉しかった。
「久保」
山口くんがまた呼ぶ。
「彼氏に速報」
「あとで言う」
「言うんだ」
「言うよ」
もう、そこを否定する理由はない。
「おすすめ決まったから」
私が普通に答えると、近くにいた何人かが声を上げた。
「おおー」
「彼女だ」
「やるね久保」
「もう!」
顔は熱くなる。
でも。
私も笑っていた。
◇
放課後。
教室を出たところで、私は春斗へメッセージを送った。
『決まった』
すぐに既読がつく。
『何』
『パウンドケーキ』
『やった』
『何で春斗が』
『おすすめ』
『うん』
『食べる』
『うん』
少し迷ったあと。
私はもう一つ送った。
『私が接客だったら持ってく』
既読。
返事は来ない。
予想通りだった。
『春斗?』
少しして。
『昇降口』
それだけ返ってきた。
私は思わず笑いながら階段を下りた。
◇
昇降口へ着くと、春斗はすでに待っていた。
私を見つけた瞬間、少しだけ耳が赤くなる。
「お疲れ」
「お疲れ」
「パウンドケーキ」
「決まったよ」
「真理」
「何?」
「持ってくる?」
「私が接客の時間だったら」
「うん」
「春斗がちゃんと注文したら」
「する」
「コーヒーも?」
「うん」
私も少し恥ずかしくなる。
それでも。
「じゃあ、ちゃんと接客する」
言うと、春斗が嬉しそうに笑った。
「真理」
「何?」
「楽しみ」
「知ってる」
「かなり」
「共有」
二人で笑いながら学校を出た。
今日は本当に文化祭の話ばかりしている。
でも。
そんな一日も、今は嫌ではなかった。
◇
住宅街へ入り、制服姿の生徒が減ってきたところで、春斗が自然に手を差し出した。
私は迷わずその手を取る。
指が絡む。
夕方の空気は昨日より少し涼しく、道沿いの木々の葉が風に揺れて、小さな音を立てていた。
「春斗」
「何?」
「パウンドケーキ」
「うん」
「本当にそれでいいの?」
「何が?」
「私が好きだからって選んでるだけじゃない?」
「違うよ」
「春斗、最初はクッキーって言ってたでしょ」
「どっちも好き」
「本当?」
「うん」
私は少しだけ考えてから、もう一度聞いた。
「じゃあ、私のおすすめじゃなくてもパウンドケーキ食べたい?」
「食べたい」
即答。
少し安心した。
「ならいい」
「真理」
「何?」
「気にしてた?」
「少しね」
「俺が真理に合わせすぎるの?」
「うん」
私は繋いでいる手へ視線を落とした。
「春斗が私の好きなものを一緒に好きって言ってくれるのは嬉しいよ。でも、本当は嫌いなのに私が好きだからって無理して合わせるのは嫌」
春斗は少しだけ黙った。
歩みは止めず、繋いだ手も離さない。
数歩進んでから。
「分かった」
と静かに答えた。
「うん」
「嫌ならちゃんと言う」
「うん」
「好きだったら」
「うん」
「真理と同じもの好きでもいい?」
私はその聞き方に少し笑った。
「それはいいに決まってるでしょ」
「うん」
「むしろ、本当に同じなら嬉しい」
今度は春斗の足が少しだけ止まった。
「真理」
「何?」
「今の」
「覚えてていいよ」
先回りして言う。
春斗が嬉しそうに笑った。
「うん」
繋いだ手に、少しだけ力が加わる。
私も同じくらい握り返した。
◇
母との待ち合わせまでは、まだ少し時間がある。
今日は少し遠回りして、公園沿いの道へ入った。
「真理」
「何?」
「文化祭当日」
「うん」
「俺、喫茶行く」
「知ってる」
「最初に真理探す」
「うん」
「エプロン」
「うん」
「可愛い」
「まだ言わないで!」
春斗が笑う。
「コーヒー」
「うん」
「パウンドケーキ」
「うん」
「真理が持ってくる」
「私が当番だったらね」
「うん」
「そのあと」
「何?」
「写真」
私は思わず笑った。
「全部一回でやるつもり?」
「十五時?」
「私の接客、午前になるかもしれないよ」
「あ」
「文化祭、一日あるんだから。春斗のクラスにも行くし、愛ちゃんたちとも回るし、写真も撮る。全部やるけど、順番まではまだ決めなくていいでしょ」
「分かった」
春斗が素直に頷く。
「でも」
「何?」
「全部楽しみ」
その言葉に。
私はすぐ答えた。
「私も」
もう、それを言うのに前ほど時間はかからない。
「かなり」
付け足すと、春斗が笑う。
「取った」
「共有」
文化祭までまだ時間がある。
それなのに。
二人で楽しみにしていることは、どんどん増えていた。
◇
公園を抜けた先で、春斗が少しだけ歩く速度を落とした。
「真理」
「何?」
「最近」
「うん」
「キス」
来た。
私は少しだけ笑う。
「したい?」
今日も春斗は、勝手に距離を縮めようとはしない。
私がどうしたいのかを、ちゃんと聞く。
私は少し考えた。
月曜日には抱き締めてもらった。
火曜日はキスをしなかった。
水曜日もしなかった。
それでも、何も足りないとは思わなかった。
今日。
自分はどうしたいのか。
少しだけ胸の内側へ意識を向ける。
「……今日は、少ししたい」
そう答えると、春斗の表情が柔らかくなった。
「場所は?」
「ここはちょっと嫌」
私は周囲を見る。
公園から少し離れてはいるものの、住宅も近く、人が通る可能性もある。
「もう少し先なら」
「うん」
春斗はすぐに受け入れた。
そのまま少し歩き、以前にも何度か通った遊歩道へ入る。木が並んでいるけれど見通し自体は悪くなく、人が近づけばすぐに分かる。
今は誰もいない。
「ここ?」
春斗が聞く。
私はもう一度周囲を確認した。
「少しなら」
「うん」
繋いでいた手を離す。
春斗が正面から私を見る。
「真理」
「何?」
「キスしていい?」
胸が鳴る。
でも。
もう、その質問が怖いとは思わない。
「うん。していいよ」
答えると、春斗がゆっくり近づいてくる。
私は目を閉じた。
唇が短く触れる。
ほんの少し。
それだけなのに。
久しぶりだと思った。
実際には数日していなかっただけだ。
その間も手は繋いだし、たくさん話した。月曜日には抱き締めてもらったし、文化祭の予定も増えた。二人で撮る写真のことも、喫茶のメニューのことも話した。
キスがなかった数日間。
決して距離が遠かったわけではない。
そのことが分かるから。
今日のキスも、何かを取り戻すためではなく。
ただ。
今したかったからした。
そう思えた。
春斗が少し離れ、私は目を開ける。
まだ顔が近い。
「大丈夫?」
「うん」
「春斗は?」
「かなり」
予想通りの答えに、私は笑った。
「それ、大丈夫の答えじゃない」
「かなり大丈夫」
「前も言ったよ、それ」
「覚えてる」
二人で笑う。
少し恥ずかしい。
でも。
嬉しい。
「もう一回?」
春斗が聞く。
私はほんの少し考えた。
もう一度しても嫌ではない。
でも。
今日は一回でいい。
「今日は一回」
「うん」
春斗はすぐに頷いた。
その速さが。
やっぱり安心する。
「嫌じゃない?」
私が聞くと、春斗は少し笑った。
「嫌じゃない」
「もっとしたい?」
「したい」
即答だった。
私は思わず吹き出す。
「知ってる」
「でも今日は一回」
「うん」
「真理がそう決めたから」
「うん」
また手を繋ぎ直し。
二人で歩き始める。
キスをしたからといって。
何かが急に変わるわけではない。
ただ。
繋ぎ直した手が、少しだけいつもより温かく感じた。
◇
待ち合わせ場所が近づいてきた。
母の車はまだ見えない。
「春斗」
「何?」
「今日さ」
「うん」
「パウンドケーキ決まったでしょ」
「うん」
「キスもしたでしょ」
「うん」
「何並べてるんだろ、私」
自分でおかしくなって笑う。
春斗もつられて笑った。
「文化祭と恋人」
「全然別でしょ」
「でも同じ日」
「そうだけど」
私は少しだけ考える。
学校ではクラスのみんなと文化祭のメニューを決めた。
放課後には春斗と手を繋いで帰り、数日ぶりにキスをした。
まったく違う出来事。
でも。
どちらも今日の私の一日。
どちらかだけが大切というわけではない。
「春斗」
「何?」
「文化祭のお菓子」
「うん」
「おすすめ、楽しみにしててね」
春斗が少しだけ目を見開く。
「真理」
「何」
「今の、かなり――」
「言わない」
「嬉しい」
「知ってる」
春斗が笑う。
「楽しみにする」
「うん」
遠くから母の車が見えてきた。
私たちは繋いでいた手を離す。
でも、離す前にほんの少しだけ力を込めた。
春斗も同じように握り返してくれる。
この短いやり取りも。
もう、かなり自然になっていた。
◇
母の車へ乗り込む。
「お疲れ」
「お疲れ」
「ありがとうございます」
車が走り出して少しすると、母がバックミラー越しにこちらを見た。
「メニュー決まった?」
「うん。飲み物はコーヒー、紅茶、オレンジジュース。お菓子はパウンドケーキ」
「へえ。ちゃんと喫茶っぽいね」
「うん」
「春斗くんは何頼むの?」
「コーヒー」
春斗。
「パウンドケーキ」
私。
二人の声がほぼ同時に重なり、母が笑った。
「もう決まってるんだ」
「真理おすすめです」
春斗が普通に言う。
「春斗!」
「本当だから」
母が楽しそうに笑う。
「いいじゃない。彼女おすすめ」
「お母さんまで」
「真理が選んだの?」
「私がパウンドケーキ好きなのは本当。でも、決まったのはクラスで多数決したからだよ」
「じゃあちょうどよかったね」
「うん」
私は少しだけ笑った。
「春斗も本当に食べたいって言ってるし」
「真理が接客の時間なら、出してあげるの?」
「時間が合えば」
「注文取りに行く?」
「うん」
「持っていく?」
少し恥ずかしい。
でも。
「……うん」
答えた。
母が一瞬だけ黙る。
隣の春斗まで少し動きを止めた。
「何?」
私が二人を見ると、母が笑う。
「いや、楽しそうだなと思って」
私は少しだけ考え。
それから。
「うん。楽しみ」
と答えた。
さらに隣の春斗を見る。
「かなり」
春斗も笑う。
「取った」
「共有」
母が呆れたように笑った。
「もう完全に二人の言葉だね」
「普通の言葉だけど」
「二人で使うと、普通じゃないんでしょうね」
私は少しだけ考えた。
確かに。
そうかもしれない。
◇
車の窓の外では、夕方の町並みがゆっくりと後ろへ流れていく。
今日は、文化祭のメニューを決めただけの日だった。
コーヒー。
紅茶。
オレンジジュース。
パウンドケーキ。
決まったことだけを並べれば、それだけだ。
けれど、春斗が私のクラスへ来たときに何を頼むのか。私はその中から何をおすすめするのか。もし接客の時間が合えば、私自身が春斗の席まで運ぶのか。
そんなところまで、気づけばクラスのみんなに知られ、からかわれるようになっていた。
少し恥ずかしい。
でも。
もう嫌ではない。
文化祭は、春斗のためだけにやるものではない。
喫茶はクラスみんなで作る。
メニューもみんなで話し合って、多数決で決めた。
私がパウンドケーキを好きだから採用されたわけではないし、春斗が食べたいと言ったから決まったわけでもない。
みんなで考えた結果として、それが選ばれた。
そのうえで。
私は、自分が好きなものを春斗へおすすめする。
春斗も、「真理が好きだから」という理由だけではなく、本当に食べたいと思って選ぶ。
それでいいのだと思う。
恋人だからといって。
全部を同じにしなくていい。
でも、本当に同じものを好きだったなら、少し嬉しい。
違っていたなら。
それも知ればいい。
好きな食べ物一つでも。
文化祭のメニュー一つでも。
そうやって少しずつ、お互いのことを知っていけばいい。
私は隣にいる春斗を見る。
ちょうど春斗もこちらを見た。
「何?」
小声で聞かれる。
「パウンドケーキ」
「うん」
「本当に好きなんだよね?」
「好き」
「コーヒーも?」
「好き」
「じゃあ」
私は少し笑った。
「ちゃんと私のおすすめでいいね」
春斗の表情が柔らかくなる。
「うん」
「当日」
「うん」
「ちゃんと来てね」
「行く」
「絶対?」
「絶対」
胸の奥が温かくなる。
文化祭当日。
私はベージュのエプロンを着ている。
春斗が教室へ来て、最初に私を探してくれる。
コーヒーを頼んで。
私がおすすめしたパウンドケーキも頼む。
時間が合えば。
私がそれを席まで持っていく。
そのあと、十五時頃には少しだけ二人で文化祭を回る。
愛ちゃんたちとも合流して。
どこかで二人の写真も撮る。
まだ全部、少し先の話だ。
当日の混雑やクラスの都合で、予定が変わる可能性だってある。
それでも。
一つずつ予定が形になっていくことが、今はすごく楽しかった。
そして今日。
数日ぶりに春斗とキスをした。
でも。
キスをしたから、今日だけ特別に恋人らしかったわけではない。
しなかった昨日も、その前の日も、私たちはずっと恋人だった。
今日はただ。
私がしたいと思って。
春斗が聞いて。
私が「していい」と答えたからした。
それくらい自然なものに、少しずつ変わってきている。
私は春斗の横顔をもう一度だけ見た。
「真理」
「何?」
「また見てる」
「うん」
「何で?」
少しだけ考えたけれど。
今日は。
そのまま言う。
「彼氏だから」
春斗が一瞬動きを止め、それから嬉しそうに笑った。
「便利」
「春斗が使うから」
「でも嬉しい」
「知ってる」
「かなり」
「共有」
二人で小さく笑う。
文化祭までは、まだ少し時間がある。
きっとこれからも予定は増えるし、変わることもある。決め直さなければならないことも出てくると思う。
でも。
そのたびに。
春斗と。
愛ちゃんたちと。
クラスのみんなと。
一つずつ作っていけばいい。
今日決まったパウンドケーキも、その一つだ。
そして文化祭当日。
もし春斗が私のおすすめを食べて、「美味しい」と言ってくれたなら。
きっと私は。
かなり嬉しいと思う。




