第60話 文化祭の接客練習でエプロンを着ただけなのに、彼氏に見せる前からクラスのみんなが妙に盛り上がっています
金曜日の朝。
目を覚ました私は、いつものように枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。届いている通知は二件で、一つはクラスグループ、もう一つは春斗からだった。
最近は、どちらを開いても文化祭の話が出てくる可能性が高い。先にクラスグループを確認すると、昨夜のうちに佐々木さんから連絡が来ていた。
『今日、放課後に接客中心メンバーだけエプロン試着と簡単な接客確認します』
『追加購入分は来週届く予定なので、今日は学校備品でサイズ確認』
『時間ある人は残ってください』
私は布団の中で画面を見つめながら、少しだけ目を細めた。
とうとうエプロンを実際に着る日が来たらしい。
文化祭で喫茶をやると決まってから、エプロンについては何度も話題に出ていた。学校備品として二十二枚ほどあるベージュのものを使い、足りない分は似た色を買い足す予定で、接客担当は基本的に着用し、それ以外の係も必要に応じて使うことになっている。
そこまでは分かっていたけれど、自分で実際に着るのは今日が初めてだった。
「……普通のエプロンだよね」
誰に聞かせるわけでもなく呟く。
家庭科で使うようなものと、それほど変わらないはずだ。それなのに、エプロンを着ると考えただけで、なぜか昨日から何度もその話をしていた春斗の顔が浮かんでしまう。
春斗はまだ見てもいないのに、「可愛い」とまで言おうとしていた。
もし今日、私が実際にエプロンを着て、愛ちゃんが写真でも撮ったらどうするのだろう。春斗へすぐ見せるのか、それとも文化祭当日まで見せないでおくのか。
そこまで考えたところで、自分でもおかしくなって眉を寄せた。
「何で見せる前提で考えてるんだろ」
少し前の私なら、春斗にそんな姿を見られるなんて恥ずかしいから嫌だと思っていたかもしれない。
今だって恥ずかしくないわけではない。ただ、見てほしくないわけでもなくて、むしろ文化祭当日に教室へ来た春斗が私を見つけたとき、どんな顔をするのか少し気になっている。
そんな自分の気持ちに気づいてしまうと、朝から顔が熱くなりそうだった。
私は一度考えるのをやめ、春斗との画面を開いた。
『おはよう』
『おはよう』
返すと、すぐに既読がついた。
『今日』
『何』
『金曜』
『知ってる』
『明日』
『休み』
『うん』
『会う?』
朝から今度はそっちの話らしい。
私は少し考えた。今週の日曜日は、あえて会わない日として過ごし、そのあと月曜日から昨日の木曜日まで学校では毎日顔を合わせている。
明日は土曜日だけれど、まだ何も予定を決めていない。
『まだ決めてない』
『うん』
『春斗は?』
『会いたい』
返事が早すぎて、私は思わず笑った。
『少し?』
『かなり』
『知ってた』
『真理は?』
今度はこちらへ聞き返される。
会いたい気持ちはあるけれど、毎週必ず土日のどちらかで会うと決める必要まではないと思っている。それでも今週は、少しくらい会えたら嬉しい。
『会ってもいい』
そう送ると、すぐに既読がついた。
『会いたい?』
細かい。
『少し』
『かなりじゃない』
『少しは少し』
『分かった』
それで終わるのかと思ったら、少ししてもう一通届いた。
『でも嬉しい』
予想通りの返事に、私はまた笑った。
『知ってる』
そこで今日の予定を思い出し、少し迷ってからもう一度メッセージを送った。
『春斗』
『何』
『今日エプロン着る』
既読はすぐについたのに、今度は返事が来ない。
「やっぱり」
思わず声が出てしまった。
『春斗?』
数秒後、ようやく返事が届く。
『何時』
『放課後』
『見る?』
『何を』
『真理』
『見れないでしょ』
『行く?』
『来ないで』
反射的にそう返してから、少しだけ考え直した。
絶対に見られたくないという意味ではない。ただ、今日はクラスの接客練習なのだから、別のクラスの春斗がわざわざ見に来るようなものではない。
『接客練習だから』
そう付け足すと、春斗から『邪魔しない』と返ってきた。
『でもクラス違うし』
『うん』
そこでしばらく間が空いたあと、春斗から短いメッセージが届く。
『当日』
『何』
『見る』
その文字を読んだ瞬間、胸が少しだけ鳴った。
『うん』
私は一度指を止めてから、もう一言だけ付け足した。
『そのとき見て』
既読がついたものの、また春斗の返事が止まる。
『真理』
『何』
『朝からかなり』
『言わない』
『嬉しい』
『知ってる』
『可愛い?』
『まだ着てない!』
『多分』
『先に言わないで』
『当日言う』
私は布団の中で少し顔を伏せた。
まだ今日のエプロンを着てもいないのに、春斗に見られる文化祭当日のことまで考えている。それなのに、そんな未来を想像することがもう前ほど嫌ではなくて、むしろ少し楽しみになっている自分がいた。
◇
一階へ降りると、母は食卓でコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」
「おはよう」
私も椅子へ座り、パンと卵とサラダが並んだいつもの朝食へ手を伸ばす。母はコーヒーカップを持ったまま、私の顔を少し眺めていた。
「今日は少し機嫌いい?」
「普通」
「また普通」
「普通だから」
「文化祭?」
「今日はエプロン着る」
母の手が止まった。
「へえ」
「何その反応」
「いや、春斗くん喜びそう」
「やっぱりそこ?」
母は少し笑いながら、昨日も車の中で春斗がエプロンの話をしていたことを指摘してきた。
「春斗が勝手に言ってただけだから」
「真理も嫌そうじゃなかったけど」
「……まあ」
私は誤魔化すようにパンを一口食べた。
「見せるの?」
「今日は見せない」
「写真は撮らない?」
「愛ちゃんは撮りそう」
「じゃあ送る?」
「分からない」
「迷ってるんだ」
「うん」
母はコーヒーカップを置くと、少し考えるように私を見た。
「当日まで取っておくのもいいんじゃない?」
「何で?」
「初めて見たときの反応を直接見たいなら」
その言葉に、私は食べる手を止めた。
考えていなかったわけではない。写真で先に見てもらうのも普通だと思うけれど、文化祭当日に春斗が教室へ来て、私を探して見つけた瞬間にどんな顔をするのか、それを直接見てみたい気持ちもある。
「……それもいいかも」
素直に答えると、母がすぐに笑った。
「今、彼女の顔だった」
「何それ」
「楽しみにしてる顔」
「普通」
「はいはい」
そのとき玄関のチャイムが鳴り、私は朝食を終えて鞄を持った。
「来た」
「今日も時間通りだね」
「うん」
玄関へ向かって扉を開けると、そこにはいつもの制服姿の春斗が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
顔を見るだけで自然に少し笑ってしまう。そんな私へ、春斗は挨拶の直後から予想通りの話題を出してきた。
「真理」
「何?」
「エプロン」
「朝からそれ?」
「うん」
「当日まで見せないかも」
そう伝えると、春斗の表情が少し止まった。
「本当?」
「まだ決めてないけど」
「何で?」
「直接見た方が、春斗の反応分かるから」
口にすると少し恥ずかしかったけれど、今日は誤魔化さずに最後まで言った。
すると今度は、春斗が完全に黙ってしまった。
「何」
「真理」
「何」
「今日すごい」
「何が」
「彼女」
「それ便利すぎ」
「でも嬉しい」
後ろから見ていた母まで笑い出す。
「二人とも、今日も朝から元気だね」
「普通!」
「普通です」
私と春斗の声が重なり、それを聞いた母がさらに楽しそうに笑った。
◇
車へ乗ったあと、今日はすぐに小指を絡めることはなかった。
しばらくは何も触れずに並んで座っていたけれど、信号を二つ過ぎた頃、春斗の左手と私の右手が近づいて指先が触れた。そのまま手の側面まで少し重なったところで、私はほんの少し迷った。
春斗は動かない。
多分、私がどうするか待っている。
そう思ったから、今日は私の方から指を滑らせ、そのまま春斗の手を握った。
指を絡めると、春斗の手にも少しだけ力が入った。
「真理」
母に聞こえないような小さな声で呼ばれる。
「何」
「今日、手」
「うん」
「普通」
「そう。今日はこれ」
「うん」
私は窓の外を見たまま答えた。
母が前から気づいているかどうかは分からない。でも今は、気づかれているかどうかより、自分から春斗の手を取りたいと思ってそうしたことの方が大事だった。
「文化祭、今日エプロン着るの?」
母が運転しながら聞いてくる。
「うん」
「春斗くんは見ないんだって?」
「当日まで待ちます」
春斗が答えると、母が少し笑った。
「偉いね」
「何がですか?」
「見たいって言いそうなのに」
「言いました」
「言ったんだ」
私は思わず口を挟んだ。
「来る?って聞かれたから」
「でも行かない。真理が当日にって言ったから」
「うん」
春斗の返事を聞きながら、私は繋いでいる手へ少しだけ力を込めた。
すぐに同じくらいの力が返ってくる。
写真を見たい気持ちはあるのに、私が当日に直接見てほしいと言ったから待ってくれる。そんな春斗と手を繋いでいる時間が、今日はいつも以上に心地よかった。
◇
学校へ着くと、私たちは昇降口のいつもの場所まで一緒に歩いた。
「昼」
「うん」
「今日エプロン」
「まだ言うの?」
「うん」
「写真撮るかは分からないからね」
「撮ったら見せる?」
「まだ決めてない。多分、当日」
春斗は残念そうにするのではなく、少し笑って頷いた。
「じゃあ楽しみにする」
「うん」
「真理」
「何」
「可愛い」
「まだ着てないってば!」
また二人で笑い、そのままそれぞれの教室へ向かった。
別れてからすぐにメッセージが来ることもなく、私も送らなかった。それでも何も不安にはならず、昼になればまた会えると自然に思えた。
◇
教室へ入ると、愛ちゃんは私の顔を見るなりエプロンの話を始めた。
「真理! 今日だよ!」
「知ってる」
「写真撮る」
「やっぱり」
「春くんに送る?」
「まだ送らない」
即答すると、愛ちゃんが一瞬止まった。
「え、送らないの?」
「当日まで見せないかも」
愛ちゃんは少し考えたあと、急に楽しそうな顔になった。
「……それ、いい」
「何で」
「初見反応」
「お母さんにも同じこと言われた」
「やっぱりね。絶対その方がいいよ」
「愛ちゃんが決めないで」
そう返したものの、愛ちゃんはまったく引かない。少しだけ声を落とし、私の顔を覗き込むようにして笑った。
「でも真理も見たいでしょ。春くんが初めてエプロン姿を見たときの顔」
図星を突かれ、頬が少し熱くなった。
「……少し」
「じゃあほぼ決まり」
「決まってない。でも写真を撮っても勝手に送らないでね」
「そこはちゃんとするよ。さすがに本人の写真を勝手に送ったりしないって」
「ならいい」
それなら安心できる。
すると愛ちゃんは少し間を置いてから、真面目そうな顔で付け足した。
「でも私には送って」
「愛ちゃんが撮る側でしょ」
「あ」
自分で気づいた愛ちゃんと顔を見合わせ、二人で笑った。
◇
朝のホームルームでは、担任から文化祭についていくつか連絡があった。
「今日の放課後、接客中心のメンバーは残れるやつだけ残ってエプロン確認な。三十分くらいで終わらせる」
教室がすぐに少しざわつき、男子も着るのか、サイズは足りるのか、写真を撮っていいのかとあちこちから声が上がる。
「接客補助で使うやつは男子も確認しろ。あと写真撮るのは勝手だけど、遊びだけで終わるなよ」
先生がそう言うと、また教室に笑いが起きた。
前にいた佐々木さんも振り返る。
「接客練習も少しやるからね」
「何するの?」
「いらっしゃいませとか、注文の確認とか。あとトレー持つ練習」
「トレーまで必要?」
「当日コップ落としたら終わるでしょ」
確かにその通りで、私も周囲と一緒に笑った。
普通の接客なら、多分できると思う。けれどクラスメイトを相手に「いらっしゃいませ」と言うだけでも少し恥ずかしそうで、さらに文化祭当日はその相手が春斗になる可能性まである。
そこまで想像すると、ただの接客練習なのに急に難易度が上がった気がした。
「久保」
後ろから山口くんに呼ばれる。
「何?」
「彼氏来たときだけ特別接客?」
「しない」
「おすすめ出すんだろ?」
「時間が合えばね」
「じゃあ特別じゃん」
「普通の接客だから!」
「でも久保が持ってくんだろ?」
「接客係だからでしょ!」
周囲から笑いが起きる。
少し前なら、こうしてクラスの中で春斗を彼氏として話題にされるだけでも、どう反応すればいいのか困っていたと思う。
今は恥ずかしくても、否定したいとは思わない。
「山口くんも当日来たら普通に接客するから」
「俺にも?」
「同じクラスなんだから客じゃないでしょ」
「あ、確かに」
自分で納得した山口くんに、また笑いが起きた。
◇
二時間目の休み時間には、春斗からメッセージが来た。
『真理』
『何』
『今日』
『エプロン?』
『うん』
『楽しみ』
『春斗見ないでしょ』
『当日』
『うん』
『想像』
『やめて』
『ベージュ』
『色だけ』
『真理』
『何』
『多分可愛い』
『先に決めないで』
『可愛くなかったら?』
そこで私は少し考えた。
何でも可愛いと言われるのは嬉しいけれど、本当にそう思っているのか分からなくなるのは少し違う。だから、見て似合わないと思ったなら、それはそれで言ってほしい。
『それはそれで普通に言って』
そう送ると、既読がついてから少し長めに間が空いた。
『無理』
『何で』
『多分可愛い』
『見てない』
『真理だから』
その返事を読んだ瞬間、顔が熱くなる。
『春斗』
『何』
『そういうのずるい』
『本当』
『知ってる』
『かなり』
『共有しない』
『取った』
完全に負けた気がして、私はスマートフォンを机へ伏せた。
隣にいた愛ちゃんは、そんな私を見ただけですぐ察したらしい。
「春くん?」
「うん」
「顔に出てるよ」
「分かってる」
◇
昼休み。
今日も四人で食堂へ集まると、話題の中心は自然と文化祭になった。
「真理、今日エプロン着るんだろ?」
石井さんに聞かれ、私は頷く。
「うん」
「春斗は見るの?」
「見ない」
私より先に春斗が答えた。
「珍しいな」
「当日見る」
「何で?」
そこへ愛ちゃんが楽しそうに割って入る。
「初見反応のため」
「愛ちゃんが言わないで」
「でも真理もそう思ってるでしょ」
「少しはね」
石井さんは少し面白そうに春斗を見る。
「耐えられる?」
「何が」
「写真あるのに見ないの」
春斗は少し考えてから、素直に答えた。
「見たい。でも当日まで待つ」
「へえ。ちゃんとしてんじゃん」
「真理がそうしたいって言ったから」
「うん」
私は小さく頷いた。
見たいと言いながらも、私が当日にしてほしいと言えばちゃんと守ってくれる。そのことが嬉しくて、テーブルの下で少しだけ指先を動かした。
愛ちゃんはそんな私たちを見ながら、また楽しそうに笑う。
「でも当日、春くん絶対固まりそう」
「何で?」
「真理のエプロン姿見て」
「まだ見てないけど」
「だからだよ」
「俺、固まる?」
「多分」
私が答えると、春斗がこちらを見る。
「真理もそう思う?」
「今日の朝から何回止まった?」
「……何回か」
「じゃあ当日も止まると思う」
石井さんが吹き出した。
「確定だな。お前ら文化祭当日、ちゃんと動けよ」
四人で笑った。
◇
昼食の後半になると、今度は春斗のクラスの話になった。
「今日、法被案が出た」
「本当?」
私がすぐに聞き返す。
「うん」
「着るの?」
「まだ分からない」
「色は?」
「紺か赤」
「春斗はどっちがいいの?」
「紺」
「見たい」
考えるより先に、言葉が口から出ていた。
テーブルが一瞬だけ静かになり、私も自分が何を言ったのか遅れて気づく。
「……何」
愛ちゃんがすぐ笑った。
「真理、今日強い」
「またそれ?」
春斗の耳も少し赤くなっている。
「真理」
「何?」
「見たい?」
「うん」
もう言ってしまったのだから、ここで逃げる必要もない。
「法被なら似合いそうだし、春斗が着てるところ見たい」
そこまで言うと、今度は春斗が完全に止まった。
石井さんが耐えきれずに吹き出す。
「お前ら、文化祭前に何回固まるんだよ」
私もおかしくなって笑ってしまった。
「春斗」
「何?」
「当日、ちゃんと見に行くよ。射的もやるし、法被だったらそれも見る」
「……うん」
春斗は短く答えたけれど、嬉しそうなのは見れば分かる。
そんな顔をされると、素直に言ってよかったと思えて、私まで少し嬉しくなった。
◇
午後の授業が終わり、六時間目には文化祭の喫茶で使う装飾案を確認した。今日は大きな決定こそなかったけれど、教室のどこにメニューを置くか、入口をどう飾るかといった細かい話まで少しずつ進み、文化祭当日の教室が以前より想像しやすくなってきた。
終礼が終わると、帰る生徒と残る生徒に分かれて、教室の人数が少しずつ減っていく。
やがて佐々木さんが、備品室から大きな段ボールを抱えて戻ってきた。
「借りてきたよ」
箱の中には、ベージュのエプロンが何枚も綺麗に重ねられていた。
「思ったより普通だな」
山口くんが覗き込む。
「何想像してたの?」
愛ちゃんが聞く。
「もっとカフェっぽいやつ」
「学校備品だよ」
そのやり取りに教室から笑いが起きた。
私も一枚手に取ってみる。少し使い込まれて柔らかくなった布だけれど、目立った汚れはなく、きちんと洗われていて清潔だった。
「真理、着てみて」
愛ちゃんが言う。
「みんな着るでしょ」
「もちろん。だから真理も」
教室のあちこちで、女子たちが制服の上からエプロンをつけ始めている。
私も肩紐へ腕を通し、後ろへ手を回して腰の紐を結んだ。鏡はないので窓ガラスに薄く映る自分を見ると、制服の上にベージュのエプロンを重ねただけの、本当に普通の姿が映っている。
それなのに、文化祭で使うものだと思うだけで、いつもの制服とは少し違って見えた。
「どう?」
振り返って聞くと、愛ちゃんと佐々木さんが揃ってこちらを見る。
ほんの少し間が空いたせいで、不安になった。
「何? 変?」
すると愛ちゃんが、にやりと笑った。
「春くん固まる」
「それ感想じゃない!」
教室に笑いが起きる。
佐々木さんはそんな愛ちゃんの横で、普通に頷いてくれた。
「でも本当に似合ってるよ。ベージュ、久保に合うと思う」
「本当?」
「うん」
「ならよかった」
少し安心したところで、愛ちゃんがすぐにスマートフォンを取り出した。
「写真撮ろう」
「撮るの?」
「資料」
「何の資料?」
「文化祭」
「絶対違うでしょ」
そう言いながらも、私は断らなかった。
少し前までなら、エプロン姿の写真をわざわざ残そうとは思わなかったかもしれない。でも今は、文化祭の準備をしている自分を一枚くらい残しておくのも悪くないと思う。
「……一枚だけならいいよ」
私が言うと、今度は愛ちゃんの方が驚いた。
「本当に?」
「うん」
「春くんには?」
「送らない」
「了解」
壁の前へ移動し、変なポーズは取らずに普通に立つ。
「もう少し笑って」
「これくらい?」
「うん、そのまま」
愛ちゃんが一枚だけ写真を撮った。
すぐに画面をこちらへ向けてくれたので確認すると、制服にベージュのエプロンを着けて少し笑っている自分が写っていた。
「どう?」
「……思ったより普通。変じゃないね」
「可愛いよ」
「愛ちゃんはいいの」
「何で?」
「友達だから」
「じゃあ春くんに言われたら?」
頬が少し熱くなる。
でも、もう「嫌」とは思わなかった。
「それは当日聞く」
そう答えると、愛ちゃんが満足そうに笑った。
「はいはい」
◇
試着が一通り終わると、そのまま簡単な接客練習が始まった。
机をいくつか動かして仮の客席を作り、紙コップとトレーを用意する。実際の飲み物やパウンドケーキはないので、小さな空き箱を代わりに使うことになった。
「まず、いらっしゃいませからね」
佐々木さんが仕切る。
「本当にやるの?」
「本番で急にやる方が恥ずかしいでしょ」
「それはそうだけど」
私は接客役として立ち、山口くんが客役で席についた。
「いらっしゃいませ」
最初に言うと、すぐ横から愛ちゃんの声が飛んでくる。
「もっと笑顔」
「うるさい」
「接客でしょ」
みんなが笑い、私まで笑ってしまったので、一度気持ちを切り替えてやり直す。
「いらっしゃいませ。ご注文お決まりですか?」
山口くんは妙に真面目な顔を作った。
「コーヒーと真理おすすめセット」
「ありません」
反射的に返すと、教室中が笑った。
「普通の注文して!」
「じゃあ、コーヒーとパウンドケーキ」
その組み合わせを聞いた瞬間、昨日から何度も同じ注文をすると言っている春斗が頭に浮かんだ。
ほんの少しだけ反応が遅れる。
愛ちゃんは見逃さなかった。
「真理、今春くん想像した?」
「してない!」
嘘だった。
少しだけした。
顔が熱くなるのを誤魔化すように、私は接客練習を続けた。
「コーヒーとパウンドケーキですね。少々お待ちください」
トレーへ紙コップと小さな箱を乗せ、机の間を通って山口くんの席まで運ぶ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
山口くんが妙に丁寧な声で返したせいで、また周りから笑いが起きた。
「普通にできるじゃん」
佐々木さんが感心したように言う。
「まあ、これくらいなら」
「当日も大丈夫そうだね」
「うん」
そこで愛ちゃんが、待ってましたと言わんばかりに付け足した。
「春くん来ても?」
私は文化祭当日の教室を一瞬だけ想像した。
ベージュのエプロンを着た私の前に春斗が座り、コーヒーとパウンドケーキを注文する。そのときに今日と同じように普通の顔で接客できるかと聞かれれば、少しだけ自信がない。
「……多分」
正直に答えると、また教室に笑いが起きた。
「でも頑張るよ。本番だし」
そう言うと、佐々木さんも笑いながら頷いてくれた。
◇
三十分ほどで練習は終わった。
エプロンを外して丁寧に畳み、元の段ボールへ戻していく。愛ちゃんは片づけの途中で、さっき撮った写真をもう一度確認していた。
「これ、本当に春くんに送らないんだよね?」
「うん。当日まで見せない」
「絶対見たいって言うよ」
「言うと思う。でも待ってもらう」
「強いなあ」
「今日はそればっかり」
私が笑うと、愛ちゃんも楽しそうに笑った。
「だって真理も楽しみなんでしょ? 春くんの反応」
「うん。直接見たい」
今度は迷わず答えた。
すると愛ちゃんが一瞬だけ目を丸くしたあと、すぐに嬉しそうな顔になる。
「それ、かなり彼女」
「言わない」
「春くん風」
「取らないで」
二人で笑いながら片づけを終えた。
◇
教室を出たところでスマートフォンを見ると、春斗からメッセージが来ていた。
『終わった?』
『今』
『エプロン』
『着た』
『写真』
やっぱり来た。
『ある』
送ると、すぐに既読がついた。
『見たい』
『当日』
『少し』
『だめ』
『一秒』
『写真に一秒ない』
『見たい』
『当日』
そこまで送ると、今度は少し間が空いた。
『分かった』
たったそれだけの返事なのに、私は少し嬉しくなった。
見たい気持ちを隠さずに言って、それでも私が当日にしてほしいと言えば受け入れてくれる。
『春斗』
『何』
『楽しみにしてて』
送る。
既読がついたあと、また少し返事が止まった。
『真理』
『何』
『今日かなり』
『共有しない』
『でも』
『何』
『楽しみ』
私は廊下を歩きながら少し笑った。
『私も』
そう返して、昇降口へ向かった。
◇
昇降口へ着くと、春斗はもう待っていた。
私が近づくとすぐにこちらを見て、真っ先にエプロンの話を始める。
「お疲れ」
「お疲れ」
「エプロン着た?」
「着たよ」
「写真ある?」
「ある」
「見せない?」
「見せない」
「うん」
春斗は素直に頷いたものの、見たいのを我慢していることくらい表情を見れば分かる。
「そんな顔しないで」
「見たい」
「当日まで待って」
「うん」
少し可哀想な気もしたけれど、私も当日の反応を直接見たい。
だから代わりに、今日言われたことだけ教えることにした。
「でも、似合ってるって言われたよ」
春斗がすぐに反応する。
「誰に?」
「愛ちゃんと佐々木さん」
「うん」
「だから、多分変じゃない」
自分で言うのは少し恥ずかしい。
それでも春斗の表情はすぐに柔らかくなった。
「真理」
「何?」
「絶対可愛い」
「見てから言って」
「うん。当日言う」
「ちゃんと思ったこと言ってね」
「分かった」
今度は私が春斗を見る。
「春斗も法被になるかもなんでしょ?」
「うん」
「写真撮る?」
「着ることになったら多分」
「じゃあ私も当日見る」
「写真じゃなくて?」
「うん。直接」
お互いに、文化祭当日まで取っておく。
そんな小さな約束ができたことが、少し嬉しかった。
◇
学校を出て住宅街へ入ると、春斗が自然に手を差し出した。
私は迷わずその手を取り、最初から普通に指を絡める。朝の車の中では私から繋いだからか、今日はいつもより自分から触れることへの恥ずかしさが少なかった。
「春斗」
「何?」
「当日、私見たら何て言う?」
「可愛い」
「だから今決めないでって」
「多分可愛い」
「それも同じ」
春斗は少し考え、それから言い直した。
「じゃあ、本当に思ったこと言う」
「うん。それがいい」
「真理も?」
「何が?」
「俺見たら、思ったこと言う?」
少し迷ったけれど、今度も誤魔化さなかった。
「言うよ」
春斗が嬉しそうに笑う。
「格好いい?」
「まだ見てない」
「似合わない?」
「それもまだ分からない」
「じゃあ当日」
「うん」
少し冷たい風が住宅街を抜けていく。
それでも繋いだ手は温かく、離したいとは思わなかった。
「真理」
「何?」
「エプロンの写真」
「見ないよ」
「分かってる」
「じゃあ何?」
「写真あるの、嬉しい」
「何で?」
「真理、自分から撮ったんでしょ」
その言葉で、私は少し前の自分を思い出した。
恋人らしく見えることを恥ずかしがり、春斗と一緒に何かを残すことにも必要以上に構えていた頃があった。今は文化祭だからという理由だけではなく、自分から写真を残してもいいと思えるようになっている。
「文化祭だからっていうのもあるよ」
「うん」
「あと、春斗に見せるかもしれないから」
そこまで言うと、春斗が突然立ち止まった。
手を繋いでいる私まで引かれて止まり、振り返る。
「何?」
「真理」
「何」
「今の、もう一回」
「言わない」
「かなり」
「それ禁止」
「嬉しい」
「知ってる」
春斗が笑い、私もつられて笑った。
写真を撮った理由の中に春斗がいる。
それを本人へ言えたことも、以前の私からすればかなり大きな変化なのだと思う。
◇
母との待ち合わせまでは、まだ少し時間があった。
いつもの公園沿いを歩きながら、私は今日キスをしたいかどうかを少しだけ考える。
昨日は一回した。
だから今日もしなければならないわけではないし、昨日したから今日はしないと決める必要もない。今は春斗と手を繋ぎ、文化祭の話をしながら歩いているだけで十分満たされている気がした。
そんなことを考えていると、春斗の方から聞いてきた。
「真理」
「何?」
「今日、キスしたい?」
私は少しだけ自分の気持ちを確かめたあと、首を横へ振った。
「今日はいいかな」
「うん」
春斗はすぐに頷く。
「春斗は?」
「したい」
「やっぱり」
「でもしない」
「昨日したから?」
「それもあるけど、真理が今日はいいって言ったから」
「うん」
私は繋いでいる手を見る。
「今日は手だけでいい?」
「いいよ」
「本当に?」
「うん。今日、朝も真理から繋いでくれたし」
言われて、車の中でのことを思い出した。
春斗が待っていて、私から指を絡めた。
「……そうだったね」
「嬉しかった」
「うん」
「だから今日はこれでいい」
春斗が繋いでいる手を軽く握る。
私も同じように握り返した。
「私もこれでいい」
キスをしない日が続いたとしても、何かが足りないわけではない。
今日は自分から手を繋いだ。
それだけで、ちゃんと恋人として春斗の隣にいると思えた。
◇
待ち合わせ場所へ着いても、母の車はまだ来ていなかった。
私たちは手を繋いだまま少し立ち止まり、朝に途中まで話していた明日のことへ戻った。
「真理」
「何?」
「明日、会う?」
今週は学校で毎日会っている。
それでも土曜日の午後くらいなら、少し一緒に過ごしたいと思った。
「昼からならいいよ」
答えると、春斗がすぐにこちらを見る。
「本当?」
「うん」
「どこ行く?」
「近場がいい」
「公園?」
「それでもいい」
「本屋も?」
「いいね」
「両方」
「それだと長くならない?」
「午後だけ」
「ならいいよ」
そうして、明日は昼から近場で会うことになった。
「じゃあ明日」
「うん」
「デート?」
春斗が確認するように聞いてくる。
私は少し笑った。
「恋人で会うなら、デートでいいんじゃない?」
言った瞬間、春斗がまた固まった。
「また止まってる」
「真理」
「何?」
「今日すごい」
「エプロンのせい?」
「絶対違う」
二人で笑う。
「嬉しい」
「知ってる」
「かなり」
「共有」
遠くから母の車が見えてきた。
私たちは繋いでいた手を離したけれど、その直前にどちらからともなく一度だけ強く握り合った。
◇
母の車へ乗り込む。
「お疲れ」
「お疲れ」
「ありがとうございます」
車が動き出してすぐ、母は今日の文化祭準備について聞いてきた。
「エプロンどうだった?」
「普通だったよ」
「似合った?」
「多分」
「写真ある?」
「ある」
「春斗くん見た?」
「見てません」
春斗が答えると、母が少し笑った。
「偉い」
「何でみんなそれ言うの」
「だって春斗くん、見たいでしょう?」
「見たいです」
「でも当日まで我慢?」
「はい」
母はバックミラー越しに私たちを見て、楽しそうに笑った。
「じゃあ文化祭、楽しみだね」
私は少しだけ隣の春斗を見る。
「うん。かなり」
そう答えた瞬間、春斗がすぐに笑った。
「取った」
「共有」
「もう完全に二人の言葉だね」
母に言われ、私は少し考えてから笑った。
元は普通の言葉なのに、春斗と何度も使っているうちに、確かに少しだけ私たちのものになってきた気がする。
◇
夕方の町並みが、車の窓の外をゆっくり流れていく。
今日は文化祭の接客練習をした。
ベージュのエプロンを着て、愛ちゃんに写真を一枚撮ってもらった。トレーへ紙コップと小さな箱を乗せ、「いらっしゃいませ」「ご注文お決まりですか」「お待たせしました」と、文化祭当日に使う言葉も練習した。
本当に普通の接客練習だったはずなのに、その途中で私は何度も春斗が教室へ来たときのことを想像していた。
文化祭当日、喫茶になった教室へ春斗がやって来る。
私は制服の上からベージュのエプロンを着て接客をしていて、入口から春斗が私を探す。やがて見つけた春斗と目が合ったとき、彼はどんな顔をするのだろう。
私はその瞬間を直接見たいと思っている。
だから、今日撮った写真はまだ見せない。
意地悪をしたいわけでも、春斗を焦らしたいわけでもない。写真越しに先に知ってもらうのではなく、当日、目の前にいる私を初めて見てほしいだけだった。
そして、もし春斗が本当に法被を着ることになったなら、私もその姿を最初は写真ではなく直接見たい。
お互いが文化祭のためにいつもと少し違う格好をして、その姿を初めて見たときの反応をその場で知る。
そんな小さなことまで、今は楽しみに思える。
私は隣に座る春斗へ目を向けた。
ちょうど春斗もこちらを見ていて、目が合う。
「何?」
春斗が小声で聞く。
「エプロンのこと考えてた」
「うん」
「本当に当日まで待てる?」
「待つよ」
「見たい?」
「かなり見たい。でも待つ」
即答され、私は思わず笑った。
「そこはちゃんと待つんだ」
「真理が直接見てほしいって言ったから」
「うん」
その答えを聞くと、胸の奥が少し温かくなる。
「じゃあ、楽しみにしてて」
「うん」
「私も春斗の格好、楽しみにしてるから」
春斗がまた少しだけ黙った。
けれど今日は何度も同じ反応を見ているから、もう理由を聞く必要もなかった。
「嬉しい?」
「かなり」
「知ってる」
二人で小さく笑う。
文化祭当日は、まだ少し先だ。
これから準備を進めれば、予定が変わることも、新しく決めなければならないこともきっと増えていく。それでも今日、接客練習をしてエプロンを初めて着たことで、ぼんやりしていた文化祭当日の景色が少しだけはっきりした。
私は春斗に、エプロン姿の自分を見てもらいたい。
春斗が私を見て何を思い、どんな顔をして、何と言ってくれるのかを、その場で直接知りたい。
そう考えるだけで少し恥ずかしいのに、それ以上に楽しみだと思える。
文化祭で春斗と一緒にしたいことが、また一つ増えた。
そして今の私は、その日が来ることをかなり楽しみにしていた。




