第56話 一日会わなかっただけなのに、彼氏の顔を見た瞬間に嬉しくなってしまったので、やっぱり私はかなり好きみたいです
月曜日の朝。
目覚ましが鳴るより少し前に目を覚ました私は、まだ薄暗さの残る天井を見上げたまま、しばらく布団の中で動かなかった。
昨日は、春斗と付き合い始めてから初めて、一日だけ会わずに過ごした。もちろん連絡を取らなかったわけではない。朝から何度もメッセージを送り合ったし、夜には一時間半以上も電話をしたから、春斗の存在が一日から消えていたわけではなかった。
それでも、顔を見なかった。同じ場所に立たなかった。手も繋がなかったし、隣を歩くこともなかった。
恋人になってからは、それが初めてだった。
だからなのか、今朝は目を覚ました瞬間から、いつもより少しだけ気持ちが落ち着かなかった。
「今日、会うんだ」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
当たり前のことだ。
今日は月曜日で、学校がある。春斗は朝、いつものように家まで迎えに来るだろうし、そのあと母の車に二人で乗って登校する。
昨日の電話でも何度も確認した。通話を切ったあとには、私から『会ったら最初にちゃんと顔見たい』とまで送った。それに対して春斗は『俺も』『目逸らすなよ』と返してきた。
そのやり取りを思い出した途端、胸の奥が少しだけ騒がしくなる。
「……自分で言ったんだから」
今日はちゃんと見る。
チャイムが鳴って、私が玄関の扉を開ける。そこに春斗が立っている。その瞬間、恥ずかしくなって目を逸らしたら、昨日わざわざした約束が台無しだ。
私はそんなことを考えながら布団から起き上がり、枕元のスマートフォンを手に取った。
時刻は午前六時二十分。
まだ通知はない。
昨日までなら、ここで春斗からの「おはよう」が来るまで少し画面を見ていたかもしれない。でも今日は、このあと実際に顔を見られることが分かっているからなのか、通知がないこともそれほど気にならなかった。
代わりに、私は文化祭のクラスグループを開いた。
昨日のうちに投票で決まったベージュのエプロンについて、佐々木さんから追加の連絡が来ている。
『今日先生に予算確認します』
『候補の型は胸当てあり、ポケット二つ』
『個人購入じゃなくてクラス費から出せるか確認』
『駄目なら安い候補探します』
そこまでは普通だった。
問題は、その下だった。
『彼氏見に来る人は自腹で高いやつ買っても可』
山口くん。
直後に。
『それ統一感なくなるから却下』
佐々木さん。
さらに。
『久保限定案』
『もっと却下』
愛ちゃん。
「……朝から何これ」
思わず笑ってしまう。
昨日の夜、私が春斗と長電話をしていた間にも、クラスグループではこんなやり取りをしていたらしい。
画面を閉じようとした、そのとき。
スマートフォンが震えた。
春斗。
『おはよう』
やっぱり来た。
『おはよう』
返すと、すぐに既読がつく。
『今日会う』
『知ってる』
『真理』
『何』
『楽しみ』
たったそれだけなのに、私は画面を見ながら少し笑ってしまった。
『私も』
一度そう返す。
けれど、それだけでは少し足りない気がした。
昨日の夜、自分から「明日会うのが楽しみ」と言った。だったら今朝も、もう少しくらい素直でもいい。
『昨日より』
付け足して送る。
既読はすぐについた。
でも、返事が来ない。
十秒。
二十秒。
最近は、この間にも少し慣れてきた。
『春斗?』
『朝から無理』
『何が』
『真理』
『まだ何もしてない』
『言ってる』
『昨日よりってだけ』
『それが嬉しい』
私は思わず笑った。
『春斗も昨日より?』
送る。
今度はすぐ返ってきた。
『かなり』
『取った』
『共有』
朝から、いつも通り。
付き合ってから何度もしている、どうでもいいやり取り。
それなのに、昨日一日会わなかったぶんだけ、同じ言葉まで少し特別に感じた。
◇
制服へ着替え、朝食を食べ終えてから一階の鏡の前で髪を整えていると、母が台所から顔を出した。
「今日は機嫌いいね」
「普通」
「昨日も普通だったけど」
「じゃあ今日も普通」
「春斗くんに会うから?」
早い。
私は鏡越しに母を見る。
「学校だから」
「学校だから会う?」
「そう」
「会えるの楽しみ?」
昨日なら、少しくらい誤魔化したかもしれない。
でも、母にはもう散々見抜かれているし、自分でも昨日一日かけて「会わなくても恋人だけれど、やっぱり会いたい」と認めたばかりだ。
「……うん」
答える。
母の目が少しだけ細くなった。
「素直になったねえ」
「昨日一日会ってないだけだから」
「一日で?」
「一日でも」
自分から言ったせいで、少しだけ頬が熱くなる。
けれど、別に間違ったことは言っていない。
「そういう日、作ってよかった?」
今度は母の声から、からかう感じが少し抜けた。
「うん」
私は鏡から離れ、鞄を手に取る。
「会わなくても大丈夫だったし」
「うん」
「でも、会えるなら嬉しい」
「いいんじゃない?」
「うん」
母はそれ以上何も言わず、車の鍵を手に取った。
そのとき、外から足音が聞こえてきた。
聞き慣れた歩き方。
小さい頃から、何度も聞いてきた音。
春斗が家へ来るときの足音なんて、本来なら意識するほどのものではない。それなのに今日は、昨日一日聞かなかっただけで、妙に耳へ残った。
数秒後。
チャイムが鳴る。
胸が、分かりやすく大きく鳴った。
私は玄関へ向かい、靴を履く。
「真理」
背後から母に呼ばれた。
「何?」
「ちゃんと顔見なよ」
私は勢いよく振り返った。
「何で知ってるの!?」
「何を?」
「……」
しまった。
昨日、春斗と「会ったら最初にちゃんと顔を見る」と約束したことを、母には話していない。
「何か約束した?」
「してない!」
「じゃあ何でそんなに焦るの」
「お母さん!」
母が楽しそうに笑う。
「ほら、早く開けてあげなよ」
「分かってる」
私は一度だけ息を整えた。
それから、玄関の扉を開ける。
「おはよう」
春斗が立っていた。
制服姿。
金曜日にも見た。
毎週のように見ている。
特別な服装でもない、いつもの春斗だった。
なのに。
顔を見た瞬間。
胸の奥が、思っていた以上に強く動いた。
私はそこで、昨日の約束を思い出す。
目を逸らさない。
ちゃんと見る。
春斗も同じことを覚えているらしく、私から視線を外さなかった。
数秒。
お互いに何も言わない。
ただ目を合わせているだけなのに、春斗の表情が少しずつ柔らかくなっていくのが分かった。
「真理」
「何?」
「見てる」
「春斗も」
「うん」
「約束したから」
「うん」
春斗が少し笑った。
そして、何でもないことみたいに言う。
「会いたかった」
真正面から来た。
朝。
玄関。
母もすぐ後ろにいる。
それでも。
「……私も」
今日は逃げない。
私は一度飲み込んだ言葉を、もう一度ちゃんと出した。
「会いたかった」
春斗の耳が一気に赤くなる。
それを見た瞬間、今度は私まで恥ずかしくなった。
「春斗」
「何」
「顔赤い」
「真理も」
「言わない約束」
「学校で」
「まだ家!」
後ろから、母の声が飛んできた。
「朝から元気だねえ」
「お母さん!」
春斗が笑う。
私も結局、堪えきれずに笑ってしまった。
たった一日。
顔を見なかっただけ。
それなのに、こうして春斗が目の前にいることが、思っていた以上に嬉しい。
そのことを。
再会して、まだ数分も経っていないのに。
もう十分すぎるほど分かってしまった。
◇
車の後部座席へ座る。
私が左。
春斗が右。
母が運転席。
先週まで毎日のように繰り返していた並びだった。
昨日一日空いただけなのに、少し久しぶりに感じる。
車が住宅街を抜けていく間、私は膝の上へ右手を置きながら、隣にいる春斗を少しだけ意識していた。
昨日の電話で。
今日会ったら、車の中では小指を絡めよう。
そんな話をした。
でも。
どちらから動くのかまでは決めていない。
ほんの一瞬だけ迷っていると、春斗の左手が少しこちらへ近づいた。
私も同じように右手を寄せる。
指先が触れた。
そのまま、小指同士が絡む。
たった一日しなかっただけなのに。
思っていたより、ほっとした。
私も春斗も前を向いたまま、何も言わない。
でも、絡んだ小指に春斗が少しだけ力を入れる。
私も同じように返した。
「後ろ」
母の声が前から飛んでくる。
「何?」
「今日、いつもより静かじゃない?」
「普通」
「普通です」
私と春斗の声が重なった。
母が笑う。
「一日会わなかったから、話すことなくなった?」
「逆!」
反射的に答えてから。
しまったと思う。
「逆なんだ」
「……」
隣で春斗が肩を震わせている。
「春斗」
「何」
「笑わないで」
「真理が」
「何」
「会いたかったんだなって」
小さな声。
胸が鳴る。
「春斗もでしょ」
「うん」
返事は早かった。
「かなり」
「それ便利」
「真理も使う」
「使うけど」
前から母の声がする。
「楽しそうで何より」
「文化祭の話だから!」
「今は何も聞いてないけど」
「……」
また勝てない。
それでも。
私は笑っていた。
絡めた小指も、学校へ着く少し前まで離れなかった。
◇
学校へ着き、母の車を降りる。
校門へ向かう生徒たちの中へ入り、春斗と並んで歩いた。
学校では手を繋がない。
でも。
春斗が隣にいる。
昨日は一人でスーパーへ歩いた。
春斗が隣にいなくても、自分の時間を普通に過ごせた。それが分かったことも、私には大きかった。
だけど今日は、こうして春斗がいる。
それはそれで。
やっぱり嬉しい。
「真理」
「何?」
「見すぎ」
「何が」
「俺」
言われて初めて、自分が歩きながら何度も春斗の方を見ていたことに気づいた。
「昨日見てないから」
何となく言うと、春斗の歩く速度が少し落ちた。
「真理」
「何」
「今日強い」
「それまだ言う?」
「だって」
「春斗も見てる」
「うん」
「何で」
「昨日見てないから」
同じだった。
私は少し笑う。
「じゃあ、お互い見てていい」
「うん」
何でもない会話。
それなのに、何となく嬉しい。
昇降口の近くまで来たところで、同じクラスの佐々木さんが前から歩いてきた。
「久保さん、おはよう」
「おはよう」
佐々木さんは私を見たあと、隣の春斗へ視線を移す。
「彼氏復活?」
「何が?」
「昨日会ってなかったんでしょ」
「何で知ってるの!?」
「愛ちゃん」
「愛ちゃん!」
春斗が隣で笑う。
佐々木さんも楽しそうだった。
「別に詳しいことは聞いてないよ。一日会わないって決めたってだけ」
「それだけ?」
「うん。だから今日、会えて嬉しい?」
朝から。
母も。
佐々木さんも。
みんな同じようなことを聞いてくる。
でも。
今は春斗が隣にいる。
だから。
「……うん」
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、それでも答えた。
「嬉しい」
佐々木さんが少し目を見開いた。
隣の春斗まで、わずかに動きを止める。
「久保さん、最近本当に素直」
「みんなそれ言う」
「いいことじゃん」
「恥ずかしいけど」
「でも言うんだ」
「うん」
佐々木さんは楽しそうに笑った。
「じゃあまた教室で。今日エプロンの件、先生に聞くから」
「あ、うん」
「春斗くん」
「はい?」
「ベージュ一番推したんだっけ?」
「何でそれまで!」
「愛ちゃん」
「愛ちゃん!」
学校へ着いて数分しか経っていないのに。
もう恥ずかしい。
佐々木さんは笑いながら先へ行ってしまった。
その背中を見送ったあと、春斗が私を見る。
「ベージュ」
「言わないで」
「楽しみ」
「知ってる」
「かなり」
「それも知ってる!」
二人でまた笑った。
◇
昇降口へ入り、いつもの分岐へ来た。
私と春斗は、ここから別々の教室へ向かう。
先週までにも。
ここで好きだと言ったり。
お互い何度も振り返ったり。
付き合い始めたばかりだからこその、少し変な別れ方を何度もしてきた。
今日は。
どうするんだろう。
春斗が少しだけ私を見る。
「真理」
「何?」
「昼」
「食堂」
「うん。それまで」
春斗が少しだけ笑う。
「頑張る」
「何を」
「会わない」
「昨日一日会わなかったでしょ」
「でも今日は、学校に真理いるって分かってる」
「だから?」
「会いたい」
本当に。
最近の春斗は。
思ったことを前よりずっと隠さなくなった。
でも。
それは私も同じなのかもしれない。
「私も」
答える。
「でも授業」
「うん」
「昼」
「うん」
「ちゃんと来て」
「行く」
そこで私は少しだけ周囲を確認した。
朝の昇降口には生徒が多い。
近くでも靴箱を開ける音や、友達同士で話す声が聞こえている。
だから。
小さな声で。
「好き」
言った。
春斗が一瞬固まる。
「真理」
「何」
「朝から」
「何」
「かなり」
「それ禁止」
「でも」
「春斗も言う?」
聞く。
春斗が少し笑った。
「好き」
胸の奥が温かくなる。
「うん」
そこで別れた。
今度は振り返らない。
でも。
前みたいに不安ではなかった。
昼になれば。
また会える。
それをちゃんと分かっている。
◇
教室へ入ると、愛ちゃんはすでに自分の机へ荷物を置いていた。
私を見るなり、少しだけ笑う。
「おはよう」
「おはよう」
「会えた?」
「何が」
「春くん」
「会った」
「嬉しかった?」
「……」
今日何回目だろう。
「愛ちゃん」
「何」
「みんな同じこと聞く」
「みんな?」
「お母さんと佐々木さん」
「あ」
「昨日、会わないって決めたこと佐々木さんに言った?」
「ちょっとだけ」
「何で」
「普通の話」
「普通?」
「恋人なのに会わない日作るんだねって話」
「それ普通でしょ」
「だから普通の話」
「春斗のエプロン推しまで言ったよね」
「それは……」
愛ちゃんが少しだけ視線を逸らした。
「何」
「文化祭の話」
「関係ない!」
愛ちゃんが笑う。
「ごめん、ごめん。でも今日、顔いいね」
「何それ」
「嬉しそう」
また。
同じこと。
でも。
ここまで何度も言われたら。
もう。
否定する意味もない。
「……嬉しいよ」
私は自分の鞄を机へ置きながら答えた。
「昨日、一日会ってないから」
愛ちゃんが少し驚いた顔をする。
「真理」
「何」
「本当に変わったね」
「何が」
「前なら絶対言わなかった」
「うん」
「今は普通に言う」
「まだ恥ずかしいけど」
「でも言える」
「うん」
愛ちゃんの表情が少しだけ柔らかくなる。
「いいじゃん」
「うん」
私も素直に頷いた。
それから椅子へ座り、黒板を見る。
そこには文化祭の文字と、喫茶企画の仮決定事項が残っている。
エプロン。
予算。
メニュー。
当番。
今日もまた、少しずつ文化祭が進む。
春斗と恋人になったことだけが、学校生活の全部ではない。
クラスも。
友達も。
授業も。
ちゃんと始まる。
◇
朝のホームルームで出席確認が終わったあと、佐々木さんが手を上げた。
「先生、文化祭のエプロンなんですけど」
「もう決めたのか?」
「色はベージュで、型もだいたい決まりました」
「早いな」
担任が少し苦笑する。
「予算なんですけど、クラス費から出せますか?」
「一人いくらだ」
「候補が千二百円前後です」
教室が少しざわついた。
三十人分。
単純に考えてもかなりの金額になる。
「全員分新品は厳しいかもしれないな」
先生が黒板横の予定表を確認する。
「まず学校備品で使えるエプロンが何枚あるか確認しろ。足りない分だけ買うか、もう少し安い候補を探す」
「色、揃わなくなりません?」
「備品の色次第だな」
佐々木さんが少し困った顔をした。
私も、ほんの少しだけ残念に思う。
昨日の投票でベージュへ決まった。
春斗と一緒に見た色。
だから、もうそれで確定した気になっていた。
でも、文化祭は自分たちの好きなものを好きなだけ買えるわけではない。
予算も。
学校備品も。
先生の許可も必要になる。
「先生」
愛ちゃんが手を上げる。
「先に学校備品の色と数を確認して、統一できなさそうなら候補を探し直すでもいいですか?」
「その方がいいな。昼休みか放課後に家庭科準備室へ聞きに行ってみろ」
「はい」
文化祭って。
こういうところまで含めて準備なのだと思う。
昨日、春斗と見に行ったものも、少しは役に立つかもしれない。
「久保」
後ろから山口くんが小声で呼んだ。
「何?」
「彼氏ベージュ推しなのに」
「関係ないから」
「残念じゃない?」
「まだ決まってないでしょ」
「でも久保もベージュ好きなんだろ」
「うん」
即答すると、山口くんが少しだけ驚いた。
「そこ即答なんだ」
「自分でも一番好きだから」
「彼氏が選んだからだけじゃなくて?」
「うん」
「なるほど」
山口くんはそれだけ言って前へ向き直った。
私は少しだけ嬉しくなる。
春斗の意見を聞いたことは嬉しい。
似合うと言われたことも。
でも。
最終的には、自分も好きだったからベージュへ投票した。
そこをちゃんと。
自分の言葉で言えた。
◇
一時間目、二時間目の授業は普通に進んだ。
昨日一日会わなかった春斗が、今日は同じ校舎のどこかにいる。そのことをふと思い出す瞬間はあったけれど、そればかり考えているわけではない。
授業中はノートを取り、先生に当てられれば答える。分からないところには印をつけ、次の時間の準備もする。
そうやって学校の時間を過ごしたあと、二時間目の休み時間にスマートフォンを見ると。
春斗からメッセージが来ていた。
『真理』
『何』
『会いたい』
「……」
まだ。
朝別れてから二時間くらいしか経っていない。
『昼まで我慢』
『長い』
『昨日一日会わなかった』
『それとこれ違う』
『何が』
『近くにいる』
分かる。
同じ学校にいる。
同じ建物かもしれない。
でも。
教室は違う。
それだけで、少し会いたくなる。
私も同じだった。
『私も少し』
送ると、すぐ返事が来た。
『少し?』
『かなりじゃない』
『本当?』
『授業ある』
『真面目』
『普通』
『でも昼』
『うん』
『行く』
『待ってる』
送ったあと、少しだけ恥ずかしくなる。
でも。
消したいとは思わなかった。
既読。
『今行きたい』
『駄目』
『分かった』
春斗は、ちゃんと待つ。
そこも。
私は好きだった。
◇
三時間目が終わった休み時間。
愛ちゃんと佐々木さん、私の三人で家庭科準備室へ向かった。
文化祭用の備品エプロンを確認するためだ。
準備室へ入ると、家庭科担当の先生が事情を聞いて、奥の収納棚から大きな箱をいくつか出してくれた。
「学校行事用なら、この辺ですね」
箱の中には、色も形も違うエプロンが何枚も入っていた。
白。
紺。
黒。
そして。
「ベージュもありますよ」
「本当ですか?」
私と佐々木さんの声が重なった。
先生が少し笑う。
「二十枚くらいだったと思いますけど」
三人で数えてみる。
二十二枚。
「足りないね」
愛ちゃんが言う。
「でも、追加八枚だけなら買えるかも」
佐々木さんがすぐ計算する。
「予算かなり減るよね」
私も頷いた。
備品のベージュは、昨日店で見たものより少しだけ濃い。けれど、喫茶店の雰囲気には十分合いそうだった。
「これに近い色を探せば、完全に同じじゃなくても統一感は出るかも」
私が言うと、佐々木さんがこちらを見る。
「昨日お店で見たやつ?」
「うん」
「写真ある?」
「あるよ」
私はスマートフォンを出し、昨日春斗と雑貨店で撮ったエプロン売り場の写真を見せる。
値段と全体の色が分かるように撮っておいたものだ。
「これなら近いね」
愛ちゃんが画面を覗き込む。
「いくら?」
「千円ちょっとだったと思う」
「八枚なら先生に相談できそう」
昨日の下見が。
本当に。
文化祭で役に立った。
「真理」
愛ちゃんが少し笑う。
「デート役立ったね」
「文化祭の下見」
「デートでもある」
「……うん」
もう否定しない。
佐々木さんも笑う。
「彼氏と文化祭準備するの楽しそう」
「違うクラスだけどね」
「でも一緒に見に行ったんでしょ?」
「うん」
「いいなあ」
ごく普通に言われる。
前なら「彼氏」と出されるだけで顔を真っ赤にしたかもしれない。
今も少し恥ずかしい。
でも。
「楽しかったよ」
答えられた。
愛ちゃんが私を見て、少し嬉しそうに笑う。
「本当に素直」
「もうそれいいって」
三人で笑いながら、備品の数と色をメモした。
◇
昼休み。
愛ちゃんと食堂へ向かっていると、廊下の曲がり角から春斗と石井さんが歩いてきた。
私と春斗の目が合う。
朝会った。
まだ数時間しか経っていない。
それでも。
少し嬉しい。
春斗も同じような顔をした。
「真理」
「何?」
「会えた」
「朝会ったでしょ」
「でも昼」
「うん」
石井さんが隣で呆れたように言う。
「昨日一日会わなかっただけだろ」
「そう」
春斗は普通に答える。
「俺、一週間くらい会ってないのかと思った」
「一日」
私も答える。
「一日でこれ?」
「石井さん」
「何」
「付き合いたて」
後ろから愛ちゃんが言った。
「本人が使うな」
私が返すと、四人で笑った。
食堂へ入り、いつもの四人席へ座る。
今日は春斗が隣。
昨日は、電話の向こうに声だけがあった。
今は横を向けば顔がある。
その違いが。
やっぱり少し嬉しくて。
私は何度か春斗を見てしまう。
「真理」
小さな声で呼ばれる。
「何」
「見てる」
「春斗も」
「昨日見てない」
「朝も言った」
「まだ足りない」
「何それ」
向かいの石井さんが箸を持ったまま言う。
「聞こえてるぞ」
「石井」
「近いからな」
愛ちゃんが笑う。
「今日この二人、少し放っておく?」
「何で」
私が聞く。
「一日会わなかった反動」
「そんなのない」
そう言いながら。
また春斗を見る。
少しは。
あるのかもしれない。
「文化祭」
私は話を変えるように言った。
「エプロン」
春斗がすぐ反応する。
「ベージュ?」
「学校に二十二枚あった」
「本当?」
「うん。足りない分だけ買う案になりそう」
「じゃあベージュ?」
「多分」
春斗が嬉しそうに笑う。
「やった」
「何で春斗が喜ぶの」
「見れる」
「まだそこ」
愛ちゃんと石井さんが笑う。
「春くん本当にブレない」
「うん」
春斗は普通に頷く。
今度は愛ちゃんが私を見る。
「真理はベージュで嬉しい?」
「うん」
「春くんが好きだから?」
聞かれる。
でも。
その答えは、もう自分の中で分かっている。
「それも少しある」
「うん」
「でも私も好きだから」
「うん」
春斗が私を見る。
その目元が少しだけ柔らかい。
「何」
聞くと。
「何でもない」
春斗はそう言った。
たぶん。
昨日と同じ。
自分の意見だけで私が決めたわけではないと分かったことが。
嬉しいのだと思う。
「春斗」
「何?」
「射的の景品どうなった?」
「候補は絞った」
「何?」
「お菓子、文房具、小さい雑貨」
「チョコは?」
「入るかも」
「本当?」
「真理が欲しいって言ったから」
「それだけで決めてない?」
「参考」
「うん」
その答えに安心する。
お互い。
相手の意見は聞く。
でも。
クラスのことはクラスで決める。
それが今は自然になっていた。
「で」
石井さんが箸を止める。
「当番、いつ決めるんだ?」
「今週」
春斗。
「こっちも」
私。
すると愛ちゃんがスマートフォンを取り出した。
「決まったら本当に予定表作るからね」
「本気?」
「本気」
「文化祭ガチ勢」
「だって楽しいじゃん」
愛ちゃんは指を折りながら数えていく。
「四人時間」
「その名前」
「恋人時間」
「もっとやめて」
「それぞれのクラス当番」
「うん」
「食べる時間」
「必要」
石井さんが頷く。
「写真」
春斗が言った。
私は春斗を見る。
「うん」
「二人写真」
愛ちゃんが笑う。
「私が撮る」
「それは分かった」
「手繋ぐ?」
余計なことを言ったのは石井さんだった。
「当日聞く!」
春斗が即答する。
私は少しだけ驚いた。
「春斗」
「何」
「覚えてた」
「うん」
昨日。
カフェで。
二人の写真を撮るときに手を繋ぐかどうか。
今決める必要はない。
当日に聞いて。
そのときの私が決める。
そう話した。
「うん」
私は少し笑った。
「それでいい」
愛ちゃんと石井さんが一瞬だけ静かになる。
それから愛ちゃんが、少し柔らかい声で言った。
「じゃあ当日、真理が嫌なら普通に並んで撮る」
「うん」
「いいなら手を繋ぐ」
「うん」
「で、写真は絶対可愛く撮る」
「そこはお願いします」
四人で笑う。
文化祭の予定が。
少しずつ形になっていく。
春斗と二人だけのものではない。
友達と過ごす時間。
クラスの当番。
写真。
食べるもの。
その全部が混ざっていく。
今は。
それが楽しみだった。
◇
午後の授業を終え、終礼の時間。
担任が文化祭について追加の連絡をした。
「エプロン、学校備品二十二枚使えるそうだな」
佐々木さんが頷く。
「はい」
「不足分はクラス費から出していい。ただし、一枚千円程度まで。同系色で探せよ」
「はい」
教室が少しざわついた。
「ベージュ確定!」
「やった!」
あちこちから声が上がる。
私も少しだけ笑う。
本当に決まった。
文化祭。
ベージュのエプロン。
春斗が見に来る。
たぶん。
約束通り「可愛い」と言う。
昨日まで想像していたことが。
また一つ。
現実へ近づいた。
「久保」
後ろから山口くんが呼ぶ。
「何?」
「彼氏に速報」
「昼に学校備品の話はもう言った」
「早」
「でも正式決定は今だから、あとで言う」
「言うんだ」
「言うよ」
普通に答えると、山口くんが笑った。
「最近強いな」
「みんなそれ言う」
「前なら『春斗は関係ない』とか言ってそう」
「今は関係あるから」
言ってから。
自分で少し止まる。
近くにいた何人かも聞いていたらしく。
「おお」
「久保」
「彼女」
声が飛んできた。
「もう!」
顔が熱くなる。
でも。
否定はしない。
「彼氏なんだから関係あるでしょ!」
言う。
教室へ笑いが広がった。
愛ちゃんなんて机へ手をついて笑っている。
「真理、強い!」
「笑わないで!」
私も結局、笑った。
恥ずかしい。
それでも。
嫌ではない。
◇
昇降口へ向かいながら、春斗へメッセージを送った。
『正式にベージュ』
既読。
『本当?』
『うん』
『やった』
『また』
『楽しみ』
『知ってる』
『かなり』
『それも知ってる』
少し歩いたところで、また返事が来る。
『真理』
『何』
『今日会えたのもかなり』
危うく廊下の真ん中で立ち止まりそうになる。
周囲にはまだ生徒が多い。
それでも。
口元が少し緩んだ。
『私も』
送る。
今日は。
そこへ。
『かなり』
付け足した。
既読。
『取った』
『共有』
続けて。
『昇降口』
もうすぐだった。
角を曲がる。
春斗がいる。
朝も見た。
昼も見た。
それでも。
また少し嬉しい。
「お疲れ」
「お疲れ」
「ベージュ」
「決まった」
「楽しみ」
「知ってる」
「真理」
「何」
「今日それ何回目」
「春斗が何回も言うから」
二人で笑いながら、学校を出た。
◇
住宅街へ入るまでは、手を繋がなかった。
でも、今日は並んで歩く距離が少しだけ近い。
一日会わなかったことについて、朝から何度も話した。
もう十分だと思う。
それでも。
まだ少しだけ。
言いたいことが残っていた。
「春斗」
「何?」
「昨日」
「うん」
「会わなくて」
「うん」
「今日会って」
「うん」
私は言葉を探す。
「何か、前より分かった」
「何が?」
「会いたいって思う感じ」
春斗の歩く速度が少し落ちた。
「真理」
「何」
「俺も」
「うん」
「昨日も好きだったし」
「うん」
「今日も好き」
「うん」
「でも、会うともっと分かる」
胸の奥が温かくなる。
ちょうど住宅街へ入り、生徒の姿も減ってきた。
私は自分から右手を差し出す。
「手」
「うん」
春斗がその手を取る。
指が絡む。
一日空いただけなのに。
春斗の手の温かさを少し懐かしいみたいに感じる自分がおかしかった。
「真理」
「何?」
「昨日の電話」
「うん」
「好き」
「私も」
「今日」
「何」
「手」
「うん」
「好き」
「それ何」
「両方」
春斗が笑う。
私も笑った。
「じゃあ」
私は繋いだ手を少しだけ揺らす。
「会わない日も、会う日も」
「うん」
「どっちも好き」
春斗の足が少し止まりかけた。
「真理」
「何」
「今日、かなり強い」
「それは禁止って何回言えばいいの」
「でも」
「春斗」
「何」
私は少しだけ照れながらも。
「覚えてていい」
先に言った。
春斗の目元が柔らかくなる。
「うん」
もう。
この言葉も。
少しずつ二人の中で自然になってきた。
◇
母との待ち合わせまでは、まだ少し時間がある。
私たちはいつもの公園近くの道を、手を繋いだまま歩いていた。
昨日は会わなかった。
その前の土曜日はキスをしなかった。
金曜日は一回。
そんなことを思い出して。
今日。
どうしたいだろう。
ほんの少しだけ考える。
でも。
急ぐ必要はない。
春斗と並んで歩く。
手を繋ぐ。
話す。
今はそれだけでも十分楽しい。
「真理」
「何?」
「昨日の電話」
「うん」
「今日また聞いてって言った」
思い出す。
キスのこと。
今日するかどうかは、今日になってから聞いてほしい。
そう言った。
「うん」
春斗が周囲を見る。
道路にはまだ時々人が通る。
自転車も一台、私たちの横を通り過ぎていった。
「今は?」
聞かれる。
私は少しだけ自分へ問いかける。
したい。
昨日は会わなかった。
今日は顔を見た。
手も繋いでいる。
嬉しい。
だから。
「……したい」
正直に答える。
でも。
「ここじゃない」
「うん」
春斗はすぐに頷いた。
「もう少し場所探す?」
聞かれて。
少し考える。
母の迎えまでは、あと十分くらい。
時間はある。
でも。
キスをするためだけに、わざわざ人目のない場所を探す。
今日は。
何となく違う気がした。
「今日は」
私は言う。
「しなくてもいい」
春斗がこちらを見る。
「したいけど?」
「うん」
「でも?」
「会えたから」
春斗が少し驚く。
私は繋いだ手を見た。
「昨日一日会わなくて、今日顔見て、手も繋いで」
「うん」
「それだけで今、かなり嬉しい」
言った。
春斗の足が完全に止まる。
私も手を繋いでいるから、一歩だけ先へ出たところで止まった。
「真理」
「何」
「それ」
「覚えてていい」
「まだ何も言ってない」
「顔」
春斗が笑った。
「かなり嬉しい」
「知ってる」
「キスしなくても?」
「うん」
「俺も」
胸がまた温かくなる。
「じゃあ」
「うん」
「今日は手」
「うん」
春斗が繋いだ手を少しだけ握る。
私も握り返す。
今日は。
この答えが好きだった。
◇
歩きながら、今度は文化祭の話へ戻る。
「当番」
春斗が言う。
「うん」
「今週決めると思う」
「こっちも多分」
「合わせられるかな」
「クラス優先」
「うん」
「でも、できたら」
「うん」
春斗が少し笑う。
「合わせたい」
「私も」
「真理接客」
「うん」
「俺、客」
「うん」
「コーヒー」
「うん」
「おすすめ」
「うん」
「可愛い」
「そこは当日!」
春斗が笑う。
「覚えてる」
「小声でね」
「うん」
「一回でいい」
「何回も言いたい」
「駄目」
「何で」
「接客できなくなるから」
「じゃあ一回」
「うん」
「かなり可愛い」
「かなり付けないで!」
二人で笑う。
「真理も」
「何」
「俺の射的」
「うん」
「格好いい」
「格好よかったら」
「条件付き」
「まだ見てないから」
「頑張る」
「無理はしないで」
「でも真理見る」
「見る」
「最初に探す?」
「探す」
「俺も」
文化祭について。
何度同じ約束を確認しただろう。
でも。
確認するたびに。
少しずつ具体的になる。
ベージュのエプロン。
射的。
景品。
当番。
二人の写真。
まだ先だった文化祭が、少しずつ現実へ近づいている。
◇
母との待ち合わせ場所が見えてきた。
まだ車は来ていない。
私たちは道端の少し広い場所で立ち止まった。
「春斗」
「何?」
「今日ね」
「うん」
「朝、顔見たとき」
少し恥ずかしい。
でも。
言う。
「思ってたより嬉しかった」
春斗が黙る。
私はそのまま続ける。
「一日だけなのに。昨日もメッセージして、電話もしてたのに」
「うん」
「それでも、顔見るのって違うね」
春斗の目元が柔らかくなった。
「俺も」
「本当?」
「玄関の扉開いたとき」
「うん」
「真理見て、抱き締めたかった」
胸が鳴る。
「朝から?」
「うん」
「お母さんいた」
「だからしなかった」
「当たり前」
春斗が少し周囲を見る。
今は人がいない。
母の車もまだ見えない。
「今」
その一言で。
何を聞きたいのか分かった。
私は少しだけ考えてから。
「抱き締める?」
自分から聞いた。
今度は春斗が少し驚く。
「いい?」
私も周囲を確認する。
キスよりは少し平気。
でも。
道路の近く。
だから短く。
「少しなら」
「うん」
春斗が繋いでいた手を離す。
私も一歩近づいた。
腕が背中へ回る。
身体が触れる。
たった一日なのに。
少しだけ久しぶりだと思ってしまう。
制服越しに感じる春斗の体温。
いつもと同じ匂い。
近くで聞こえる呼吸。
昨日はなかったもの。
「……春斗」
「何?」
「会った」
「うん」
「ちゃんと」
「うん」
自分で言いながら、少し笑う。
「昨日の分?」
春斗が聞いた。
「分からない」
「俺は」
「何」
背中へ回った腕が少しだけ強くなる。
でも、苦しくはない。
「昨日の分も会いたかった」
胸の奥が温かい。
「うん」
私も小さく返す。
「私も」
数秒。
それだけ。
私たちは離れた。
キスはしない。
でも。
今日はこれで十分だった。
春斗の顔がまだ近い。
私はちゃんと見る。
「今日」
春斗が言う。
「うん」
「キスなし?」
「うん」
「抱き締めた」
「うん」
「嬉しい?」
「かなり」
答えると、春斗が笑った。
「取った」
「共有」
二人で笑う。
そのとき。
遠くに母の車が見えた。
「お母さん来た」
「うん」
私たちは自然に少し距離を取る。
でも。
今は。
離れても。
不安なんてなかった。
◇
母の車へ乗り込む。
「お疲れ」
「お疲れ」
「ありがとうございます」
母がバックミラー越しに私たちを見る。
一秒。
二秒。
「今日は本当に機嫌いいね」
「文化祭」
私は先に言った。
「まだ何も聞いてないけど」
「でも文化祭」
「何決まったの?」
「エプロン。正式にベージュ」
「よかったね」
「うん」
母が今度は春斗を見る。
「春斗くんも嬉しい?」
「はい」
即答だった。
母が笑う。
「真理より嬉しそう」
「何で」
「声」
「お母さん」
「でも真理も嬉しいんでしょう?」
今日。
何回聞かれたか分からない。
それでも。
「うん」
私は答える。
「文化祭も嬉しいし」
「うん」
「今日、春斗に会えたのも」
言った。
車内が一瞬だけ静かになる。
春斗が隣で止まったのが分かる。
母もバックミラー越しに私を見る。
「……真理」
「何」
「本当に素直になったね」
恥ずかしい。
でも。
今言ったことを取り消したいとは思わなかった。
「そう?」
「うん」
「じゃあ」
私は少しだけ窓の外へ視線を向ける。
「慣れたのかも」
「彼氏に?」
母が聞く。
春斗が隣から私を見る。
朝にも似たことを聞かれた。
だから。
「……うん」
私は少し笑った。
「春斗が彼氏なのに」
春斗の耳が赤くなる。
母も笑った。
「いいことじゃない」
「うん」
車が夕方の町を走っていく。
◇
昨日。
一日だけ。
春斗に会わなかった。
その時間があったから。
今日、顔を見たとき。
自分が思っていた以上に嬉しかった。
朝の玄関では、ちゃんと目を合わせた。
車の中では小指を絡めた。
学校へ着けば別々の教室で過ごして、昼には食堂でまた会った。
放課後には手を繋いだ。
キスはしなかった。
その代わり。
少しだけ抱き締めてもらった。
どれか一つが特別に大きな出来事だったわけではない。
全部。
今までにもしてきたことの延長だ。
でも。
昨日一日は。
その全部がなかった。
だから今日は。
一つずつ戻ってくるたびに。
少しずつ嬉しかった。
私は隣の春斗を見る。
ちょうど春斗もこちらを見た。
その瞬間。
母の声。
「また目合わせてる」
「いいでしょ」
反射的に答えた。
母が一瞬静かになる。
春斗も私を見る。
「真理」
「何」
「今」
「何」
「いいでしょって」
「……」
確かに。
前なら。
『普通』
と誤魔化していたと思う。
でも。
今日は。
もういい。
「だって彼氏だから」
私は言った。
春斗が完全に黙る。
母が楽しそうに笑う。
「はいはい」
「何その返事」
「別に」
少し恥ずかしい。
でも。
今度は窓の外へ逃げずに、春斗を見る。
「春斗」
「何?」
「何で黙るの」
「嬉しい」
「分かってる」
「かなり」
「それも分かってる」
二人で笑った。
昨日。
会っていない時間にも恋人なのだと分かった。
そして今日。
もう一つ分かった。
会っていなくても恋人なのは変わらない。
でも。
会えたら。
やっぱり嬉しい。
顔を見たい。
直接声を聞きたい。
手を繋ぎたい。
たまには抱き締めてほしい。
そう思うことは。
春斗がいないと何もできないこととは違う。
会えないと不安で仕方ないわけでもない。
会わない日にも、自分の時間を過ごせる。
それでも。
会えたら嬉しい。
今の私には。
それくらいの距離が。
たぶん。
ちょうどいい。
文化祭のエプロンも正式にベージュへ決まり、これからメニューや当番、装飾が少しずつ形になっていく。
春斗との関係も。
同じなのかもしれない。
付き合った瞬間に全部完成したわけではない。
会う日。
会わない日。
学校。
休日。
友達といる時間。
二人だけの時間。
手を繋ぐ日。
キスをする日。
しない日。
抱き締めるだけの日。
そういう一日一日を重ねながら。
私たちなりの普通を作っていく。
車の窓の外では、夕方の町がゆっくり後ろへ流れていた。
私は隣にいる春斗の気配を感じながら、昨日一日会わなかっただけで、今日こんなに嬉しくなるなんて少しおかしいと思う。
でも。
その理由は。
もう分かっていた。
会えなくても不安にはならない。
会わない時間も大切にできる。
それでも、顔を見た瞬間にこんなに嬉しくなる。
多分。
私は春斗のことが。
自分で思っていたよりもずっと。
かなり好きなのだ。




