第55話 彼氏と会わない日を作ってみたら、会っていなくても恋人なのだと前より分かるようになりました
日曜日の朝。
目を覚ました私は、カーテンの向こうから差し込む明るい光をぼんやり眺めながら、いつもより少し長く布団の中にいた。
昨日は春斗と岩瀬駅で待ち合わせて、文化祭で使えそうなものを見に行った。生活雑貨店では黒板風のボードや飾りを見て、文化祭用の候補になっているエプロンまで身体の前へ当てたし、昼には近くのカフェへ入って文化祭当日のことを何度も話した。
キスはしなかったけれど、物足りなかったわけではない。春斗とはずっと手を繋いでいたし、ベージュのエプロンが一番似合うと言ってもらった。さらに私は、文化祭当日には「可愛い」と言ってほしいと、自分からお願いまでしてしまった。
そして別れる前には、「明日は会わなくてもいい」と私から言った。
春斗は少し寂しそうな顔をしていたし、私だって少し寂しかった。それでも月曜日になれば学校で会えるし、朝にはまた迎えに来てくれる。そのことを確かめたうえで、今日は付き合ってから初めて、二人で決めた「会わない日」になった。
「……会わない日、か」
声に出してみると、妙に大げさな響きがした。
先週の土曜日から昨日まで、私たちは本当に毎日顔を合わせていた。初めてのデートをした土曜日、その翌日には「何もしないデート」をして、月曜日から金曜日までは学校で毎日会った。そして昨日も、休日なのに二人で出掛けている。
恋人になってから、ほとんど途切れることなく春斗が私の日常の中にいた。
今日は違う。
喧嘩をしたわけでもなければ、予定が合わないわけでもない。家から出られない事情があるわけでもなく、会おうと思えばたぶん普通に会える。
今から私が春斗へ『やっぱり会う?』と送れば、かなりの確率ですぐに『会う』と返ってくるだろうし、そのあと本当に家まで来る気もする。
そこまで考えたところで、私は枕元に置いたスマートフォンへ視線を向けた。
まだ触れてはいない。
でも、ものすごく気になる。
「……五分くらい我慢してみようかな」
何に対する我慢なのか、自分でも分からなかった。
今日は会わない日であって、連絡をしない日ではない。昨日だって、メッセージは普通にするし、夜には電話もしようと話していた。それなのに、起きてすぐ春斗から何か来ていないか確認するのが少しだけ悔しくて、私は布団の中でもう少し粘ってみることにした。
時計を見ないまま天井を眺める。
十秒くらい。
もう少し。
たぶん、一分も経っていない。
「……無理」
結局、私は手を伸ばした。
画面を点けると、時刻は午前六時四十二分。通知は一件だけ来ていて、送り主は予想通り春斗だった。
『おはよう』
たった四文字なのに、見た瞬間に口元が緩む。
「……ちゃんといるじゃん」
自分で呟いてから、何を当たり前のことを言っているのだろうと思った。
今日は会っていない。
でも、春斗がいなくなったわけではない。昨日までと同じように朝を迎えて、今日も私へ言葉を送ってくれている。
『おはよう』
返すと、すぐに既読がついた。
『今日会わない日』
その一文に思わず笑う。
『覚えてる』
『本当に?』
『昨日私が言った』
『うん』
『何』
『確認』
『何で』
今度は少しだけ返事が遅れた。
『朝起きたら会いたくなった』
胸の奥が、きゅっと小さく縮む。
嫌な感じではない。むしろ、私も同じだった。
『私も少し』
正直に返した。
既読はすぐについたけれど、今度はなかなか返事が来ない。十秒、二十秒と待っているうちに、こういうとき春斗が黙る理由も最近は少し分かるようになってきた。
『春斗?』
送ると、しばらくして。
『今かなり危なかった』
『何が』
『会いに行くって言いそうだった』
私は布団の中で声を出して笑った。
『今日は会わない』
『うん』
『明日会う』
『うん』
『学校』
『うん』
『だから今日は家』
『分かった』
少しして、もう一通届く。
『でもメッセージする』
『それはする』
『かなり』
『そこにかなり使う?』
『使う』
朝からいつも通りだった。
会わない日なのに、春斗とのやり取りは何も変わらない。そのことが思ったより嬉しくて、私はスマートフォンを胸元へ置きながら、しばらく天井を眺めていた。
◇
一階へ降りると、母はもう台所で洗い物をしていた。窓から入る朝の光が流し台へ反射し、食卓には味噌汁と焼き魚、それから卵焼きが並んでいる。
「おはよう」
「おはよう。今日は出掛けないの?」
冷蔵庫から麦茶を出しながら母を見ると、いつもと同じ調子で聞かれた。
「うん。今日は家にいる」
「珍しいね」
「何が」
「春斗くんと出掛けないの」
やっぱり、そこだった。
「今日は会わない」
私が答えると、母の手が一瞬だけ止まった。
「喧嘩?」
「違う!」
「じゃあ何?」
「普通に会わないだけ。昨日まで毎日会ってたから」
「ああ、なるほど」
今度はすぐに納得したらしく、母は小さく頷いた。
「そういう日も必要かもね」
「うん」
「寂しい?」
急に聞かれて、私は味噌汁へ伸ばしかけた手を止めた。
前だったら、たぶんすぐに否定していたと思う。別に平気だとか、一日くらいどうでもいいとか、そんなふうに誤魔化していた。
でも最近は、自分が思ったことを全部隠す必要はないのだと、少しずつ分かってきた。
「……少しは」
素直に答えると、母は驚くでもなく普通に頷いた。
「でも明日会うし」
「学校で?」
「うん。朝も迎えに来ると思う」
「じゃあ大丈夫か」
「うん」
母は私の前へ味噌汁を置きながら、少しだけ笑った。
「前だったら、春斗くんと一日会わなくても、そんなこと考えなかったでしょうね」
その言葉に、私は少し考えた。
「……そうかも」
幼馴染だった頃は、一日や二日会わないことなんて普通にあった。家族の予定があったり、友達と出掛けたり、学校の用事が合わなかったりして、連絡すらしない日だってあったはずだ。
それでも何とも思わなかった。
春斗は、次に会えば普通に隣にいる。
それを疑ったことなんてなかった。
今は同じ一日でも少し違う。昨日あれだけ一緒にいたのに、朝になればもう顔を見たいと思うし、会わないと決めたことを少し残念にも思っている。
「恋人って不思議」
思わず呟くと、母が笑った。
「そういうものでしょ」
「お母さん分かるの?」
「あなたよりは長く生きてます」
「それはそうだけど」
母は向かいの椅子へ腰を下ろし、麦茶を一口飲んだあと、さっきまでより少し穏やかな声で続けた。
「毎日会わないと駄目な関係より、会わない日があっても大丈夫な方が楽じゃない?」
「……うん」
「会いたいなら会えばいいし、今日は一人でいたいなら、それでもいい。相手がいないと何もできない、にならない方が長く付き合うなら楽だと思うよ」
からかうときとは違う声だった。
私は箸を置き、少しだけ母を見る。
「私も、そうしたいかも」
「ならいいじゃない」
「うん」
「で、今日は何するの?」
「文化祭のこと。クラスのグループ確認したり」
私が答えた瞬間、母が少し笑った。
「会わなくても春斗くん?」
「違う! クラスの文化祭だから!」
「はいはい」
「本当だから」
「エプロンの色、今日決まるんだっけ?」
「たぶん」
「ベージュ?」
私は思わず母を見る。
「何で知ってるの?」
「昨日言ってたでしょう」
「私が?」
「春斗くんが一番似合うって言った色だって」
「そこまで言った!?」
「言った」
全然覚えていない。
昨日帰ってきてから、かなり浮かれていたのかもしれない。
「顔赤いよ」
「朝からそれ言わないで」
私は味噌汁へ視線を逃がした。
でも、もしベージュに正式決定したら、春斗へ一番に伝えたいと思っている。その時点で、母の言う通り、今日も私の中にはかなり春斗がいた。
◇
午前九時を過ぎる頃には、文化祭のクラスグループがかなり動き始めていた。
昨日から続いているエプロンの色投票は、黒、茶色、ベージュの三択。締め切りは午前十時で、私は文化祭用のメモを取るために机へノートを広げながら、時々スマートフォンで途中経過を確認していた。
今のところベージュが一位だけれど、黒とは二票差しかない。
『ベージュ強いね』
『黒も喫茶っぽい』
『男子ベージュ平気?』
『別に』
『汚れ目立たない?』
『洗えるやつにしよう』
『胸当てあり?』
『統一した方がいい』
佐々木さんや山口くん、それ以外のクラスメイトたちが普通に意見を出している。
恋愛とは何も関係ない、ただの文化祭準備だ。
それなのに、ベージュの票が増えるたびに少しだけ嬉しくなる。
春斗が選んだ色だから。
もちろん、それだけではない。昨日、店で実物を見たとき、自分でも一番好きだと思った。
それでも、春斗が「一番似合う」と言ってくれたことが、まったく影響していないかと言われれば嘘になる。
そんなことを考えていると、スマートフォンが震えた。
『何してる』
春斗。
『文化祭』
『エプロン?』
『それも』
『今何色』
やっぱり気になっているらしい。
『ベージュ一位』
『やった』
『まだ確定じゃない』
『うん』
『春斗は?』
『俺も文化祭』
『日曜なのに』
『クラスグループ動いてる』
『何の話』
『景品』
春斗のクラスでは、射的と輪投げの景品候補について話し始めているらしい。
『何になりそう?』
『お菓子とか文房具』
『いいね』
『真理欲しい?』
『取れたら』
『取れなかったら』
そこで、前に春斗が言ったことを思い出す。
私が射的で景品を取れなかったら、何か別のものをあげる。
そんな約束をした。
『何かくれるんでしょ』
送ると、すぐ既読がついた。
『覚えてた』
『覚えてる』
『何がいい』
『決めてないんじゃなかった?』
『今考える』
『文化祭までまだあるよ』
『うん』
私は少し考えてから、『当日まで秘密でもいい』と送った。
自分で言ってから、急に少し楽しみになる。
高いものはいらない。
本当に、何でもいい。
春斗が私のために何かを選ぶ。
それだけで、きっと嬉しい。
『秘密?』
『うん』
『本当に?』
『うん』
『じゃあ秘密』
『でも高いの駄目』
『分かった』
『無理しないで』
『うん』
『私も射的ちゃんとやる』
『景品取っても』
『何』
『何かあげる』
「……ずるい」
思わず声に出た。
『それ景品取れなかったらじゃなかった?』
『変更』
『勝手』
『彼氏だから』
『便利に使わないで』
画面を見ながら笑う。
今日は一度も顔を合わせていない。
それなのに、朝からもう何度も春斗のせいで笑っていた。
◇
午前十時。
投票の締め切り時間になり、少しして佐々木さんから結果が送られてきた。
『ベージュで決定!』
続けて、二位が黒、三位が茶色、形は胸当てありの一般的なタイプを想定し、予算については月曜日に先生へ確認するという説明まで流れてくる。
私は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
決まった。
ベージュ。
昨日、春斗と一緒に店で見た色。
身体の前へ当てて鏡を見て、春斗から「似合う」と言われた色。
文化祭当日には、制服の白いシャツの上から、たぶん同じようなベージュのエプロンを着る。そして、その教室へ春斗が来る。
そこまで想像した瞬間、私はほとんど迷わず春斗との画面を開いていた。
『決まった』
すぐ既読がつく。
『何』
『ベージュ』
『本当?』
『うん』
『見たい』
『知ってる』
『楽しみ』
胸の奥が温かくなる。
『私も』
そこまで送ってから、少しだけ迷った。
でも結局。
『春斗来るの』
と付け足した。
既読はついたものの、返事が来ない。十秒、二十秒、三十秒と待っても動かない。
「……また止まってる」
『春斗?』
しばらくして。
『今日会わないの無理かもしれない』
届いた瞬間、私は声を出して笑った。
『駄目』
『何で』
『自分で分かったって言った』
『うん』
『今日は会わない日』
『うん』
『ベージュは文化祭』
『うん』
『まだ着ない』
『分かってる』
少し間が空いたあと。
『真理』
『何』
『写真撮った?』
『昨日?』
『エプロン当てたとき』
私は少し考える。
撮っていない。
店で身体の前へ当て、鏡を見て、春斗にも見てもらっただけだ。
『撮ってない』
すると。
『よかった』
と返ってきた。
『何で』
『俺だけ見た』
その一文を見た瞬間、胸の奥が一気に熱くなる。
『春斗』
『何』
『そういう言い方』
『嫌?』
嫌ではない。
むしろ、昨日のあの姿を今のところ春斗しか見ていないのだと思うと、少しだけ特別に感じた。
『嫌じゃない』
それだけでは足りない気がして、少し迷った末にもう一通送る。
『ちょっと嬉しい』
既読がつく。
今度は本当に長く返事が来なかった。
一分近く待ってから。
『春斗?』
と送る。
やっと届いたのは。
『今日会わない日やめたい』
「もう!」
私は笑いながら机へ額をつけた。
会わない日。
なのに。
朝からずっとこんな調子だった。
◇
昼前になると、今度は愛ちゃんから個人メッセージが来た。
『エプロン決まったね』
『うん』
『ベージュ』
『うん』
『春くん喜んだ?』
やっぱり、そこを聞く。
『かなり』
『取った』
『そこまで知ってるの?』
『真理最近使いすぎ』
『春斗も』
少しして、今度は。
『で、今日会ってる?』
と聞かれた。
『会ってない』
『え』
『何』
『珍しい』
みんな同じ反応をする。
『昨日会わないって決めた』
『喧嘩?』
『違う』
『じゃあ何』
『毎日会ってたから』
『あー』
納得するのは早かった。
『でも連絡してる?』
『してる』
『ずっと?』
私は朝からのやり取りを思い返す。
『そこそこ』
『それ会ってないだけでは』
『そうだよ』
『なるほど』
少しして、愛ちゃんから『いいんじゃない』と届いた。
『何が』
『会わない日も。付き合ったからって全部一緒にする必要ないし』
母と似たことを言う。
『お母さんにも言われた』
『正論』
『愛ちゃんも』
『親友ですから』
『関係ある?』
『ある』
私は少し笑った。
それから、自分から。
『でも夜電話する』
と送る。
『するんじゃん』
『約束』
『何話すの』
『分からない』
『毎日会ってメッセージしてまだ話ある?』
確かに、言われてみればそうだった。
毎日会っている。
今日だって朝から何度もメッセージしている。
それでも、夜になったら春斗の声を聞いて、まだ何か話したい気がしている。
『あると思う』
『すごい』
『何が』
『付き合いたて』
『またそれ』
『楽しそうでよろしい』
私は少しだけ画面を眺めたあと。
『楽しい』
と返した。
もう、そこは否定しなかった。
◇
午後は自分の机へノートを広げ、文化祭の喫茶で出せそうなメニュー案を考えていた。
接客係の私が勝手に決めることではないし、実際には食品関係の校内ルールを先生へ確認してから、クラス全体で決める必要がある。それでも、話し合いで出せる案を考えるくらいならできる。
昨日入ったカフェのメニューを思い出しながら、ノートへいくつか書き出した。
コーヒー、紅茶、ミルクティー、オレンジジュース。
簡単な焼き菓子や個包装のお菓子。
校内で調理ができないなら仕入れ中心にして、細かいところは先生へ確認する。
そんなことを書いているうちに、私は文化祭の準備そのものを楽しみ始めている自分へ気づいた。
春斗が来るから。
それだけではない。
クラスのみんなで喫茶店を作って、私は接客をする。愛ちゃんは広報として写真やポスターを担当し、佐々木さんたちとエプロンを揃える。山口くんは、たぶん当日まで何度も余計なことを言う。
準備をして、当日になって、いろいろな生徒が教室へ来る。
その中に、春斗も来る。
その形がいい。
恋人との予定だけで文化祭が埋まるのではなく、クラスで楽しむ文化祭の中に春斗との時間もあって、愛ちゃんたちと過ごす時間もある。
そういう文化祭が、少しずつ楽しみになっていた。
そのとき、スマートフォンが震える。
『暇』
春斗。
『文化祭やってる』
『俺も』
『暇じゃないじゃん』
『真理いないから暇』
「……ずるい」
また口元が緩んだ。
『今日会わない』
『知ってる』
『何してるの』
『景品候補見てる』
『何ある』
『消しゴム、ペン、お菓子』
『普通』
『文化祭』
『そうだけど』
少しして。
『真理』
『何』
『どれ欲しい』
『射的の景品?』
『うん』
私は少し考えた。
『お菓子』
『何』
『チョコ』
『分かった』
『でも景品決めるのクラスだからね』
『知ってる』
『参考?』
『うん』
その返事に、少し安心する。
昨日もそうだった。
春斗は自分の希望を言うけれど、私のクラスのことを自分で決めようとはしない。私も同じで、春斗の企画へ意見は言えても、決めるのは春斗たちだと思っている。
そこを無理に混ぜない距離が、今は心地いい。
『春斗』
『何』
『私の喫茶』
『うん』
『何あったら嬉しい?』
『真理』
「……」
思わず画面を見つめる。
『メニュー』
『コーヒー』
『知ってる』
『甘いの』
『何』
『クッキー』
『なるほど』
『あと』
『何』
『真理おすすめ』
またそれ。
『それ何でもいいじゃん』
『真理が選ぶ』
『責任重い』
『食べる』
私は笑いながら、ノートへ「クッキー」と書き足した。
春斗が言ったからだけではない。
普通に喫茶店にも合う。
だから、参考として残しておく。
◇
夕方になり、母に頼まれて近所のスーパーまで買い物へ出た。
今日は家から一度も出ていなかったので、外へ出るのはこれが初めてだった。
夏の終わりが近づいているとはいえ、夕方になっても道路にはまだ昼間の熱が残っている。近くの木からは蝉の声が聞こえ、少し離れた大きな道路から車の走る音が続いていた。
一人で歩く。
隣に春斗はいない。
手も繋いでいない。
休日は二週続けて春斗と過ごしていたから、一人で近所を歩くことが少し久しぶりに感じた。
でも、寂しくて仕方ないわけではない。
スマートフォンは鞄の中に入っている。
もしかすると春斗から何か届いているかもしれないけれど、今すぐ確認しなくてもいい。スーパーへ行って、買い物をして、家へ帰ってから見ればいい。
そう思えることが、少し嬉しかった。
店へ入り、母から頼まれた牛乳や卵、キャベツ、豆腐をかごへ入れていく。
途中でお菓子売り場を通ったとき、棚に並ぶチョコレートが目に入った。
文化祭。
射的。
春斗。
すぐにそこまで連想してしまう。
「……結局思い出すんだ」
小さく笑った。
でも、思い出すことと、ずっと一緒にいることは違う。
私は私で買い物をする。
春斗も自分の家で、自分の時間を過ごしている。
そして夜になったら、それぞれ今日あったことを話せばいい。
そんな時間の持ち方も。
恋人なのかもしれない。
◇
帰宅してからスマートフォンを確認すると、春斗から二件届いていた。
『今コンビニ』
『チョコ見た』
同じことをしている。
私は思わず笑った。
『私もスーパーで見た』
すぐに既読がつく。
『同じ』
『文化祭の景品』
『うん』
『何買った?』
『何も』
『私も』
少し間が空いてから。
『真理』
『何』
『今日会ってないけど』
『うん』
『結構一緒にいる感じする』
私は画面を見たまま、少しだけ動きを止めた。
それは、私も今日何度か感じていたことだった。
朝に起きて。
エプロンが決まって。
文化祭のメニューを考えて。
スーパーでチョコを見て。
何かが起きるたびに、「春斗へ言おう」と自然に思う。
これが決まった。
これを見た。
これが面白かった。
会っていないのに、春斗へ話したいことが増えていく。
『私も』
送る。
『変?』
『分からない』
『でも嫌じゃない』
『俺も』
そして。
『夜電話』
『うん』
『何時』
『九時』
『分かった』
『長くなる?』
『たぶん』
昨日話した通りだった。
『私切らない』
『俺も』
私はスマートフォンの画面を消した。
時計は午後六時を少し過ぎたところ。
電話まではまだ三時間近くある。
それでも、別に寂しくない。
春斗はちゃんといる。
そのことが、もう分かっているからだった。
◇
午後九時。
私は自分の部屋で、机の椅子へ座っていた。
宿題は終わっている。
文化祭のクラスグループも一通り確認した。
エプロンはベージュでほぼ決定。明日、先生へ予算を確認する。メニュー案は次のホームルームで話し合う。接客のシフトは来週以降に作る予定だ。
春斗のクラスも、景品候補を少しずつまとめているらしい。
時計が二十一時ちょうどになった。
ほぼ同時に、スマートフォンが鳴る。
春斗からの電話。
私は少しだけ緊張しながら、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『真理』
「うん」
『こんばんは』
「何それ」
『今日初めて声聞いた』
言われて、気づく。
本当だ。
今日は朝からずっとメッセージしていたし、何度も春斗の文字を見た。でも、声を聞くのはこれが初めてだった。
「……本当だ」
『うん』
「変な感じ」
『俺も』
少しだけ沈黙が落ちる。
いつも隣にいれば、黙っていても春斗の顔が見える。
電話では表情は分からない。
その代わり、いつもなら意識しないような小さな呼吸や声の揺れが耳元へ届く。その距離が、何となく普段より近く感じる瞬間もあった。
「春斗」
『何?』
「今日何してた?」
『文化祭』
「それは知ってる」
『あと家』
「雑」
『昼ご飯食べた』
「何?」
『焼きそば』
「普通」
『真理は?』
「お昼?」
『うん』
「うどん」
『普通』
「お互い普通」
二人で笑う。
顔は見えなくても、春斗が笑っていることは声だけで分かる。
『スーパー行ったんだろ』
「うん」
『何買った』
「お母さんに頼まれたやつ。卵、牛乳、キャベツ、豆腐」
『主婦』
「違う」
『買い物』
「春斗はコンビニで何買ったの?」
『アイス』
「文化祭関係ない」
『チョコ見た』
「見ただけでしょ」
『うん』
「何アイス?」
『バニラ』
「普通」
『真理』
「何」
『さっきから普通しか言ってない』
「本当に普通だから」
また二人で笑う。
文化祭の大事な話だけでなく、今日何を食べたとか、スーパーで何を買ったとか、コンビニでアイスを買ったとか、そんなことまで話した。
会っていたら、たぶんわざわざ全部は話さない。
でも今日は会っていないから。
少しだけ、何でも話したくなる。
それが何となく面白かった。
『真理』
「何?」
『エプロン』
「また?」
『決まった』
「ベージュ」
『うん』
「春斗、嬉しい?」
『かなり』
「やっぱり」
『真理は?』
「私も嬉しい」
『本当に?』
「うん」
私は椅子の背もたれへ少し身体を預けた。
「春斗が選んだから決めたわけじゃないよ。私も一番好きだったから」
『うん』
「でも」
『何』
「春斗が、一番似合うって言ってくれたのも……嬉しかった」
最後は少しだけ小さな声になった。
電話だから顔は見えない。
そのせいなのか、会っているときより少し素直に言えた。
電話の向こうが静かになる。
「春斗?」
『いる』
「何で黙るの」
『顔見えなくてよかった』
「何で」
『かなり赤いと思う』
私も多分同じだ。
「私も赤いと思う」
『真理も?』
「うん」
『見たい』
「電話だから無理」
『ビデオ』
「しない」
『即答』
「今日は電話」
『分かった』
私は少し笑った。
声だけだから言えることがある。
そんな時間も。
悪くなかった。
◇
電話は、思っていたよりずっと長く続いた。
文化祭のこと。
月曜日の授業。
愛ちゃん。
石井さん。
クラスのエプロン。
春斗の射的。
景品。
そこから話はいつの間にか、昔のことへ変わっていった。
小学生の頃、二人とも夏休みの宿題を最後まで残して一緒に怒られたこと。
春斗が私の自由研究を手伝おうとして、逆に失敗させたこと。
「春斗が水入れすぎたんだよ」
『真理が入れてって言った』
「少しって言ったの」
『少しだった』
「コップ半分は少しじゃない」
『小学生だったから』
「関係ない」
『真理もそのとき笑ってた』
「あとで怒った」
『覚えてる』
「何でそんなこと覚えてるの」
『真理のことだから』
「またそれ。便利だよね、その言い方」
『本当だから』
私は少し笑った。
「でも、私も覚えてる」
『うん』
「春斗だからかも」
電話の向こうが、また静かになる。
「春斗」
『何』
「今日何回止まるの」
『真理が言うから』
「何を」
『そういうの』
「電話だから言える」
『会ってても最近言う』
「少しだけ」
『うん』
「慣れてきたから」
『俺に?』
朝にも似たようなことを聞かれた。
私は少しだけ笑って、今度は迷わず答える。
「……彼氏に」
電話の向こうから、小さく息を吐く音が聞こえた。
『真理』
「何」
『今日会わなくてよかったかも』
少し意外だった。
「何で?」
『こういうの初めてだから』
「電話?」
『うん』
「前も電話したことあるでしょ」
『ある』
幼馴染だった頃も、宿題の確認や予定の連絡で電話をしたことはある。
『でも、彼女と電話するのは初めて』
胸が鳴る。
「……うん」
『会わない日に、一日のこと話すのも』
「うん」
春斗が少し言葉を探してから。
『何か、好き』
と言った。
「何が?」
『これ』
私は少し笑った。
「私も」
『本当?』
「うん」
それから少しだけ考えて、今日一日を思い返す。
「朝は、ちょっと会いたかった」
『俺も』
「ベージュ決まったときも」
『会いたかった』
「うん。でも」
窓の外はもう真っ暗だった。
部屋には私一人しかいない。
隣に春斗はいない。
それでも耳元には春斗の声がある。
「会わなくても、大丈夫だった」
私はゆっくり言った。
『うん』
「不安にならなかった。春斗が彼氏じゃなくなるとか、そういうの」
『うん』
付き合う前。
私は春斗と恋人になれない未来が怖かった。
竹下くんに告白されて、もし竹下くんと付き合えたとしても、そのせいで春斗が私から離れるなら、その方がずっと怖いと思った。
だから。
私は春斗を選んだ。
恋人になったあとも、最初の頃は何度も確認していた。
今日も彼氏なのか。
明日も彼氏なのか。
会わない日があっても変わらないのか。
そんなことを。
でも今日は、一日中会わなかった。
それでも、朝から夜まで春斗は春斗のままで、私の彼氏だった。
「春斗」
『何?』
「今日、会わない日にしてよかった」
少しだけ沈黙が落ちる。
『俺も』
「本当?」
『うん』
「朝会いに来そうだったのに」
『今も会いたい』
「駄目」
『知ってる』
二人で笑う。
『でも明日』
「うん」
『会う』
「学校で」
『うん』
「朝迎えに来る?」
『行く』
「うん」
『真理』
「何」
『明日会ったら、手』
「学校行く前?」
『車』
「小指?」
『うん』
私は笑った。
「する」
『本当?』
「うん」
『学校の外では?』
「帰り」
『手繋ぐ?』
「うん」
そこで春斗が少しだけ間を空けた。
『キス』
私はすぐには答えなかった。
明日したいかもしれないし、したくないかもしれない。場所も、そのときの気持ちも、今から決めておく必要はない。
「明日、また聞いて」
そう答えると、春斗の声が少し柔らかくなった。
『うん』
「今日決めなくていい」
『分かった』
「でも……会いたかった分」
そこまで言って、恥ずかしくなって止まる。
春斗は急かさず待っている。
『うん』
「……明日は会うの楽しみ」
少しだけ言い換えたけれど、たぶん春斗には分かっていた。
『俺も。かなり』
「取った」
『共有』
また二人で笑った。
◇
ふと時計を見ると、午後十時三十七分だった。
「春斗」
『何』
「一時間半」
『うん』
「少しじゃない」
『真理切らなかった』
「春斗も」
『まだ話せる』
「明日学校」
『うん』
「寝るよ」
『嫌』
「子ども」
『もう少し』
その言い方を少しだけ可愛いと思った。
でも、それを本人へ言うのは恥ずかしいので黙っておく。
「五分」
『十分』
「五分」
『七分』
「何で間を取るの」
『交渉』
「六分」
『分かった』
本当に、それから六分くらい話した。
最後の方は、ほとんど明日のことだった。朝は何時に出るとか、文化祭の予算確認があるとか、エプロンや当番のこととか、本当に普通の話ばかりだった。
それでも、なかなか切りたくなかった。
「じゃあ、本当に切るよ」
『うん』
「春斗」
『何』
今日は一度も顔を見ていない。
だから。
最後くらい。
ちゃんと言いたかった。
「好き」
電話の向こうが一瞬だけ静かになる。
『俺も好き』
「うん」
『真理』
「何」
『今日会わなかったけど、彼女』
胸の奥がじんわり温かくなった。
「うん」
『俺も?』
「彼氏」
『うん』
この確認は、もう不安だからするだけではなかった。
言うと嬉しいから。
好きだから。
確かめる。
そんなものへ少しずつ変わってきている。
「おやすみ」
『おやすみ』
「また明日」
『うん』
「学校で」
『迎え行く』
「うん」
『真理』
「何?」
『早く明日になってほしい』
胸が鳴る。
私も同じだった。
「……私も」
そう答えて、通話を切った。
◇
急に部屋が静かになった。
さっきまで耳元に春斗の声があったせいで、いつもの自分の部屋なのに、少しだけ広く感じる。
私はスマートフォンを机の上へ置き、椅子の背もたれへ身体を預けた。
今日は一日、春斗と会わなかった。
本当に、一度も顔を見ていない。手も繋いでいないし、抱き締めてもいない。もちろんキスもしていない。
それでも、何もなかった一日ではなかった。
朝には「おはよう」と送り合った。
エプロンがベージュに決まったときには、一番に春斗へ伝えた。
昼には愛ちゃんと話し、午後は文化祭のメニューを考えた。スーパーでチョコを見れば春斗の射的を思い出し、春斗もコンビニで同じものを見ていた。
夜には、一時間半以上も電話をした。
会ってはいない。
それでも、春斗は今日の中にちゃんといた。
でも。
春斗だけの一日でもなかった。
私は家で自分の時間を過ごしたし、母と話した。文化祭の準備をして、一人で買い物にも行った。
そして、そのあとで今日あったことを春斗へ話した。
たぶん、こういう形が私には合っている。
毎日会ってもいい。
会いたい日は会えばいい。
でも、会わない日があってもいい。
会わなかったからといって、好きが減るわけではない。
むしろ今日、一つ大事なことが分かった。
春斗が隣にいない時間でも、私は春斗の彼女だ。
私が隣にいない時間でも、春斗は私の彼氏だ。
そんな当たり前のことを。
前より、ずっと自然に信じられるようになっていた。
机の上には、木下書房で買った短編集が置いてある。その間には、お揃いのブックマーカーが挟まっていた。
その隣にはスマートフォン。
文化祭のクラスグループには。
『ベージュで決定!』
という文字が残っている。
春斗との画面には。
『早く明日になってほしい』
そのメッセージが残っていた。
私はもう一度だけスマートフォンを手に取った。
少し迷ってから。
『明日、会ったら最初にちゃんと顔見たい』
と送る。
すぐに既読がついた。
まだ起きていたらしい。
少し待って。
『俺も。目逸らすなよ』
と返ってきた。
私は笑う。
『春斗も』
『うん』
『おやすみ』
『おやすみ』
今度こそスマートフォンを置いた。
明日は月曜日。
また春斗が迎えに来る。
制服を着て、学校へ行って、文化祭の準備が続いて、いつもの一週間が始まる。
でも。
先週の月曜日とは少し違う。
あの朝は初キスを思い出すだけで、春斗の顔すらまともに見られなかった。
明日は、一日会わなかったあとの春斗を見る。
たぶん、嬉しくて。
また少し顔が赤くなる。
でも、それでもいい。
私は布団へ入り、部屋の灯りを消した。
今日は、会わない日を作っただけの日曜日だった。
デートもしていない。
キスもしていない。
大きな出来事だって起きていない。
それなのに。
春斗と付き合ってから、かなり大事なことを一つ覚えた気がする。
恋人は、隣にいるときだけ恋人なのではない。
会っていない時間にも、好きな人は好きな人のままで、彼氏は彼氏のまま、彼女は彼女のままだ。
そのことを信じられるからこそ、次に会える時間がもっと楽しみになる。
目を閉じると、最後に浮かんだのはやっぱり春斗の顔だった。
でも今夜は、会えなかった寂しさよりも。
明日会える嬉しさの方が、ずっと大きかった。




