第54話 接客係になった翌日、文化祭用のエプロンを見に行くだけだったのに彼氏と選ぶことになりました
土曜日の朝。
目を覚ました私は、カーテンの向こうから差し込んでいる明るい光をぼんやり眺めながら、今日は学校がないのだと思い出した。
昨日まで五日間続けて制服を着て、毎朝のように春斗と一緒に登校していた。月曜日から金曜日までは、私たちが幼馴染ではなく、彼氏と彼女になってから初めて学校で過ごした一週間でもある。
たった五日間なのに、思い返すと随分いろいろなことがあった。
月曜日は、春斗と目が合うだけで土曜日の初キスを思い出して、お互い分かりやすく赤くなっていた。火曜日には二回目のキスをして、水曜日には自分から「もう一回」と言った。木曜日はキスをしなかったけれど、それでも何も不安にはならなかった。
そして昨日は、文化祭の接客係が決まった。
春斗が私のクラスへ来る時間には、できれば自分が接客したい。そんなことまで、クラスメイトの前で認められるようになった。
「……一週間で色々ありすぎじゃない?」
誰もいない部屋で声に出すと、自分でも少しおかしくなって笑ってしまった。
付き合い始めたばかりなら、これくらい普通なのかもしれない。でも、その「普通」を私は知らない。彼氏ができたのは初めてだし、春斗だって彼女ができたのは初めてだ。
だから私たちは、毎日一つずつ覚えているのだと思う。
手を繋ぐこと。好きだと言うこと。抱き締めてもらうこと。キスをすること。学校ではどのくらいの距離でいるのか。友達やクラスメイトの前ではどうするのか。
それから、したくないときには「しない」と言っても大丈夫なのだということも。
全部、最初から正解を知っているわけではない。
二人で話して、相手へ聞いて、自分の気持ちも確かめながら、少しずつ私たちなりの形を作っている。
そんなことを考えながら、私は枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばした。
時刻は午前六時二十八分。
通知は二件来ている。
一件は文化祭関係のクラスグループ。
そして、もう一件は春斗だった。
『おはよう』
いつもの四文字を見ただけで、口元が少し緩む。
『おはよう』
返してから、私は先にクラスグループの通知を開いた。
昨日の夜、何人かが文化祭準備について話していたらしい。接客係が決まったばかりだというのに、すでに話題は衣装へ移っていた。
『エプロンどうする?』 『学校にあるやつじゃ足りないよね』 『色揃えたい』 『男女同じでいい?』 『黒とか茶色なら無難』 『ベージュも喫茶っぽい』
その下には、佐々木さんが送ったエプロンの画像が何枚も並んでいる。
黒。濃い茶色。薄いベージュ。腰から下だけを覆う短いタイプに、胸元まである一般的な形。大きめのポケットが付いたものもあれば、本当に装飾の少ないシンプルなものもある。
少なくとも、メイド服ではない。
それだけで少し安心した。
昨日のホームルームでは、誰かが最後まで「メイド服でもよくない?」と言っていた気がするけれど、さすがにクラス全員で使うものとなれば現実的な方向へ落ち着いたらしい。
私は何となく、その中の一枚を開いた。
薄いベージュの、胸元まであるシンプルなエプロン。
白いシャツの上から着ても、それほど浮かなそうだ。明るい色だから喫茶店らしい柔らかさもあるし、男女どちらでも使えそうに見える。
文化祭の教室。
机を並べ替えて。
黒板にはメニューを書いて。
私たち接客係は、このエプロンを着る。
そして。
春斗が来る。
そこまで想像した瞬間、昨日から何度も聞いた言葉が頭へ戻ってきた。
『見たい』
『可愛いと思う』
『最初に真理見つける』
「……」
私は画面を見つめたまま、布団の中で少し身体を丸めた。
昨日は自分から、春斗が来るのを楽しみにしていると言った。
それどころか、メッセージでは。
『可愛くできるようにする』
とまで送ってしまった。
「自分で難易度上げてる……」
布団の上で頭を抱える。
可愛くする。
何を。
エプロン姿を?
髪を?
制服の上からクラスで決めたエプロンを着るだけなのに、何をそんなに頑張るつもりなのだろう。
文化祭なのだから、私だけが特別な格好をするわけではない。接客係だけではなく、当日の時間帯によっては他のクラスメイトも同じものを使うかもしれない。
分かっている。
それでも。
春斗が見に来る。
そう思うだけで、少しだけちゃんとしたいと思ってしまう。
髪が変になっていないか。
エプロンが曲がっていないか。
いつもより少しくらい、可愛く見えたらいい。
そこまで考えてから、私は枕へ額を押しつけた。
「……完全に彼女だ」
もう否定する気にもならなかった。
そのとき、スマートフォンが短く震えた。
『起きてた?』
春斗だ。
『今』
返すと、すぐに次のメッセージが来る。
『今日』
『何』
『会う?』
指が止まった。
昨日まで毎日会っていた。
先週の土曜日は初デート。その翌日の日曜日も会った。そのあと月曜日から金曜日までは学校で毎日顔を合わせている。
つまり、気づけば一週間近く毎日会っていることになる。
『毎日会ってるよ』
送る。
『うん』
『今日も?』
『会いたい』
即答だった。
その三文字を見た瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。
前だったら。
こんなに毎日会いたいと言われたら、少し戸惑っていたかもしれない。
でも今は。
私も会いたい。
それを、もう自分で分かっている。
『何するの』
『決めてない』
『また?』
『真理は?』
私は一度クラスグループへ戻り、エプロンの画像を見た。
それから少しだけ考える。
『文化祭のエプロン』
『うん』
『クラスで候補出てる』
『見たい』
「早い」
思わず声に出た。
最近の春斗は、本当にそこばかり気にしている。
『画像』
『見せて』
『何で』
『真理着る』
『まだ決まってない』
『でも候補』
私は少し迷ってから、佐々木さんが載せた画像のうち三枚を保存した。
黒。
濃い茶色。
薄いベージュ。
春斗へ送る。
『どれ』
既読がつき、ほとんど待たずに返事が来た。
『ベージュ』
『早い』
『真理似合いそう』
まだ着てもいない。
ただの画像だ。
それなのに胸が鳴る。
『本当に?』
『うん』
『黒は?』
『似合う』
『茶色』
『似合う』
『全部じゃん』
『真理だから』
「……」
本当に便利すぎる。
最近の春斗は、何でも最後に「真理だから」を付ければ成立すると思っている気がする。
『参考にならない』
『じゃあベージュ』
『何で』
今度は少しだけ間が空いた。
『柔らかい感じする』
私はもう一度ベージュの画像を開いた。
確かに、黒より明るく、茶色より軽い印象がある。制服にも合わせやすそうだった。
『私も少し好き』
『じゃあ一票』
『クラスで決める』
『知ってる』
その返事を見て、私は少しだけ安心した。
昨日から春斗は、そこを間違えない。
私のクラスのことは、私たちのクラスで決める。私の係も、私が自分で選ぶ。
春斗は「見たい」と言う。
似合いそうな色について意見も言う。
でも、それを理由に私へ何かを決めさせようとはしない。
そういう距離が。
今の私には心地よかった。
『で』
また春斗から来る。
『何』
『会う?』
私は思わず笑った。
最初の話へ戻った。
『会う』
『本当?』
『うん』
『何時』
『九時くらい?』
『駅?』
『うん』
『分かった』
そこまでやり取りしてから、今度は私の方から一つ送る。
『文化祭の物見に行く?』
『エプロン?』
『春斗それしかないの』
『違う』
『何』
『装飾とかも』
『まだ係で買い出しじゃないよ』
『見るだけ』
見るだけ。
それなら悪くないかもしれない。
文化祭で使えそうな文房具や紙、飾り。春斗のクラスで使えそうなものもあるだろう。
自分たちで勝手に買うわけではない。
参考を見るだけ。
『じゃあ見るだけ』
『うん』
『デート?』
胸が少し鳴る。
先週の日曜日は、「何もしないデート」だった。
今日は文化祭の下見。
これもデートなのだろうか。
『多分』
『じゃあデート』
『簡単に決める』
『嫌?』
『嫌じゃない』
『じゃあデート』
春斗は本当に強くなった。
でも。
私も。
『うん』
と、ほとんど迷わず返せるくらいには変わっていた。
◇
朝食の席で今日も春斗と出掛けると伝えると、さすがの母も少し驚いた顔をした。
「また?」
「何」
「先週から毎日会ってない?」
「学校あるから」
「先週の土日も会ったでしょう」
「うん」
「今週、平日五日」
「うん」
「今日も」
「うん」
母は味噌汁を一口飲み、少しだけ目を細めた。
「仲良いね」
「前から仲良かった」
「幼馴染として?」
来ると思った。
でも今日は、それほど迷わなかった。
「……今は彼氏」
自分で答える。
母が少しだけ目を見開いた。
「普通に言った」
「何が」
「彼氏」
「だってそうだから」
「慣れたね」
「少し」
本当に少しずつ、彼氏という言葉が自分のものになってきている。
前なら。
母の前で「春斗が彼氏」と口にするだけでも、それだけで味噌汁の湯気へ顔を隠したくなっていた気がする。
今は恥ずかしいけれど。
事実だから。
そう言える。
「今日はどこ行くの?」
「文化祭で使えそうなもの見る」
「二人で?」
「うん」
「春斗くんのクラスと真理のクラス、企画違うのに?」
「だから見るだけ」
「なるほど」
母が少し笑う。
「エプロン?」
「何でお母さんまでそこなの!」
「昨日、接客係になったって言ってたから」
「見るかもしれないけど」
「春斗くんと?」
「……うん」
「選んでもらう?」
「選んでもらうっていうか、意見を聞くだけ」
「同じでは?」
「違う」
「そう?」
自分でも説明しづらい。
クラスで使うものを春斗が決めるわけではない。
でも。
春斗がどれを似合うと思うのか。
私はそれを知りたい。
たとえ最終的に別の色へ決まったとしても。
春斗が「ベージュが似合いそう」と思ってくれたこと自体が、少し嬉しい。
「真理」
「何」
「楽しそうだね」
急に母が言った。
今度はからかうような声ではなかった。
「文化祭?」
「それも」
「何」
「春斗くんといるの」
私はトーストへ視線を落とした。
少しだけ恥ずかしい。
でも。
「……楽しいよ」
「うん」
「かなり」
自分から付け足す。
母が笑った。
「完全に移ったね」
「みんな言う」
「いいんじゃない?」
「うん」
否定しない方が。
今はずっと自然だった。
◇
午前八時四十三分。
岩瀬駅へ着く。
待ち合わせは九時だった。
駅前には休日らしいゆったりした空気が流れていて、通勤や通学で使う平日より人の流れも少ない。ベンチの近くでは年配の人が新聞を広げ、駅舎から出てきた親子が駐車場の方へ歩いていた。
そして。
昨日まで制服で見ていた人は。
もういた。
「やっぱり」
思わず声が出る。
春斗も私に気づき、こちらへ顔を向けた。
「真理も早い」
「春斗も」
「八時二十分」
「早すぎ」
「真理来ると思った」
「何で」
「先週も早かった」
「覚えてるの?」
「うん」
私たちは互いに歩き、少しずつ距離を縮める。
今日の春斗は、薄い紺色のシャツに黒いパンツだった。制服ではない格好を見るのは、この一週間では休日だけだ。
学校で見る春斗とは少し違う。
休日の春斗。
今日、一緒に出掛ける人。
それから。
彼氏。
その一つ一つを思うだけで、前より少し特別に見える。
「真理」
「何?」
春斗の視線が、私の服装へ落ちた。
「今日も可愛い」
「もう言う?」
「うん」
「まだ何もしてない」
「服」
「普通だけど」
今日は白いカットソーに薄いグレーのカーディガン、紺色のロングスカート。文化祭用のものを見に行くだけなので、歩きやすい格好にした。
「似合ってる」
「……ありがとう」
前より少しだけ、素直に受け取れるようになった。
可愛いと言われる。
恥ずかしい。
でも嬉しい。
その二つが同時にあってもいいのだと、最近やっと分かってきた。
「春斗も」
「俺?」
「うん」
私も春斗を見る。
「格好いい」
言った。
春斗が少し固まる。
「真理」
「何」
「今日早い」
「何が」
「格好いいって言うの」
「文化祭前の練習」
「練習?」
「春斗が当日格好よかったら言うから」
春斗の耳が赤くなった。
「練習いる?」
「私にはいる」
「今日も言った」
「今の春斗も格好いいから」
そこまで言って。
私は止まった。
春斗はもっと分かりやすく止まった。
駅前を吹き抜けた風が私のスカートの裾を揺らす。
「……」
「……」
「真理」
「忘れて」
反射的に言った。
でも。
すぐに、昨日までとは違う言葉を思い出す。
「……じゃなくて」
春斗が少し驚いた顔をする。
私は一度視線を逸らし、もう一度春斗を見た。
「覚えてて」
春斗の表情がゆっくり柔らかくなる。
「うん」
その笑顔が少しずるい。
「でも何回も言わないで」
「分かった」
「本当?」
「できるだけ」
「絶対言う」
二人で笑う。
「行く?」
「うん」
春斗が自然に手を差し出した。
駅前には人がいる。
でも、学校ではない。
私は一度周囲を意識しただけで、もう迷わなかった。
その手を取る。
「今日は学校じゃない」
春斗が言う。
「うん」
「最初から」
「うん」
指が絡む。
手を繋ぐ。
それも。
もう、一回一回大騒ぎするほどのことではなくなってきている。
でも。
慣れたから嬉しくなくなったわけではない。
春斗の手は今日も温かかった。
◇
最初に向かったのは、駅から少し離れた生活雑貨店だった。
特別大きな店ではないけれど、文房具から収納用品、キッチン用品、季節の装飾品まで一通り揃っている。学校帰りでも寄れる距離にある店だが、休日だから時間を気にせずゆっくり見られる。
外の空気は朝から少し蒸し暑かった。
自動ドアが開くと、冷房の涼しい風が腕へ触れる。
入口近くには季節向けの造花や小物が並び、その奥には色とりどりの文房具。さらに先には収納用品やキッチン用品の棚が見えた。
「文化祭っぽい」
春斗が言った。
「どこが?」
「何でもある」
「雑」
「でも使えそう」
「確かに」
私たちはまず文房具売り場へ向かった。
色紙、画用紙、マーカー、テープ、造花。小さな黒板風ボードまである。
「これ」
私は黒板風のボードを手に取った。
「メニュー書けそう」
「うん。入口に置く?」
「それもありそう。でもクラスで買うなら、学校でまとめて決めてからかな」
「写真だけ撮れば?」
「そうする」
スマートフォンを取り出し、値段と大きさが分かるように撮る。
商品を自分たちの判断で買うわけではない。
あくまで参考。
その線引きは二人とも分かっていた。
次に見つけたのは、小さな木製看板だった。
「これ、喫茶っぽくない?」
「入口?」
「うん。店名とか書くの」
「真理書く?」
「字は普通だよ」
「俺より上手い」
「春斗の字は?」
「読める」
「そういう問題じゃない」
思わず笑う。
春斗も笑った。
学校ではない。
クラスメイトもいない。
ただ二人で店を歩きながら。
話していることは、ずっと文化祭。
でも不思議とデートじゃないとは思わなかった。
「春斗」
「何?」
「春斗のクラスも何か使えそう?」
「景品入れる箱」
「地味」
「必要」
「確かに」
「あと射的に使えそうなの」
春斗が玩具売り場の方を見る。
「学校で用意するかもしれないけど」
「一応見る?」
「うん」
私たちはそれぞれ気になるものを見つけるたび、参考用に写真を撮った。
箱の大きさ。
飾り付けに使えそうなテープ。
的へ貼れそうな紙。
そのたびに「これは使える」「これは高い」「これはクラスで聞かないと分からない」と話す。
しばらくして。
私はふと、自分たちがさっきから本当に文化祭の話しかしていないことに気づいた。
「春斗」
「何?」
「今日、文化祭の話しかしてない」
「嫌?」
「違う」
私は少し笑う。
「デートなのに」
「これもデート」
「文化祭デート?」
「準備前の下見デート」
「長い」
「じゃあ学校行事デート」
「もっと変」
「普通にデートでいい」
「最初からそれでよかったじゃん」
二人で笑いながら次の売り場へ移る。
何をするかではなく。
誰といるか。
最近は、その方がデートらしさを決めるのかもしれない。
公園で本を読むだけでもデートだった。
文化祭の下見でも。
春斗と二人なら。
たぶん、ちゃんとデートだった。
◇
そして。
キッチン用品売り場へ入ったところで。
ついに見つけた。
「あ」
思わず声が出る。
春斗も私が見ている方向へ顔を向けた。
壁一面に、何種類ものエプロンが掛けられていた。
黒。茶色。ベージュ。紺。深い緑。
腰だけのタイプもあれば、胸元まで覆うものもある。大きなポケットが付いたもの、紐が細いもの、生地が少し厚めのもの。ネットの画像だけで見るより、実物はかなり違って見える。
「真理」
「何」
「ベージュ」
春斗がほとんど迷わず言った。
昨日、画像を見たときも最初に選んだ色。
「本当に好きなんだ」
「真理似合いそう」
「まだ着てない」
「試す?」
「売り物だから」
「鏡ある」
「買わないのに?」
「見るだけ」
私は少し迷った。
試着用という表示はない。
さすがに勝手に身につけるのは違う。
「駄目でしょ」
「じゃあ当てるだけ」
「春斗」
「何」
「見たいだけでしょ」
「うん」
即答だった。
隠す気がまったくない。
私は呆れたように息を吐いた。
でも。
結局笑っている。
「一個だけ」
「本当?」
「当てるだけだから」
私はベージュのエプロンをハンガーごと手に取り、身体の前へ合わせた。
少し離れた場所に姿見がある。
そこへ身体を向ける。
今日の白いカットソーとベージュの色は、思っていたよりよく合っていた。制服の白いシャツでも、それほど印象は変わらない気がする。
少しだけ喫茶店らしく見える。
そして。
鏡の奥。
私の少し後ろには春斗がいる。
「どう?」
聞いた。
返事が来ない。
私は鏡越しに春斗を見る。
「春斗?」
「似合う」
いつもより少しだけ低い声だった。
冗談っぽくなく。
真っ直ぐだった。
「本当?」
「うん」
「文化祭は制服だよ」
「それでも似合う」
「何で分かるの」
「真理だから」
「またそれ」
思わず言ったけれど。
嫌ではない。
むしろ。
嬉しかった。
私はエプロンを一度戻し、今度は黒を手に取る。
「黒は?」
身体の前へ合わせる。
「どう?」
「似合う」
「茶色は?」
「似合う」
「全部じゃん!」
春斗が笑う。
「でも」
「何」
「ベージュが一番好き」
今度は少し真面目な声だった。
「何で?」
「真理に合ってる」
「具体的には?」
春斗が少し考える。
私は答えを急かさず待った。
「柔らかい」
「私が?」
「色が」
「びっくりした」
「真理も」
「何」
「柔らかいと思う」
胸が鳴った。
手に持っているエプロンの紐を、無意識に少し強く握ってしまう。
「春斗」
「何」
「それ」
「嫌?」
「違う」
私は鏡へ視線を戻した。
ベージュのエプロンを当てている自分の頬が、少し赤い。
前なら。
恥ずかしさを誤魔化すために「意味分かんない」と言っていたかもしれない。
でも今は。
「……ありがとう」
ちゃんと言えた。
春斗が少しだけ笑う。
「真理」
「何?」
「当日」
「うん」
「もっと可愛いと思う」
「無理」
「何が」
「今言わないで」
「でも」
「当日に言って」
口から出た。
言ってから。
私は固まった。
春斗も数秒動かなかった。
店内には別のお客さんがカートを押す音と、少し離れたレジから聞こえる機械音が流れている。その中で、私と春斗だけが妙に静かになった。
「真理」
「何」
「言う」
「……うん」
「絶対」
「それは恥ずかしい」
「でも言う」
「小声で」
「分かった」
私はエプロンを元の位置へ戻した。
指先が少し落ち着かない。
でも。
嫌ではなかった。
文化祭当日。
春斗が私の教室へ来る。
私はエプロンを着ている。
春斗が私を見つける。
そして。
『可愛い』
そう言ってくれる。
その未来を。
私は今、自分から欲しいと言った。
◇
エプロン売り場を離れたあと、今度は春斗のクラスで使えそうなものを見て回った。
雑貨コーナーの端には、祭り用の小さな法被が並んでいる。子ども向けが中心だったけれど、雰囲気を見るには十分だった。
「春斗」
「何?」
「法被」
「着ないと思う」
「でも似合いそう」
紺色の一枚を見ながら言うと、春斗の耳が少し赤くなった。
「真理」
「何」
「今」
「普通でしょ」
「見たい?」
「少し」
「着る?」
「今は無理」
「じゃあ文化祭」
「学校で用意されたら」
「うん」
「そのとき見る」
「うん」
私も人のことは言えない。
春斗は私のエプロン姿を見たい。
私は春斗が文化祭で普段と違う格好をしていたら見たい。
見てもらいたい。
見たい。
たぶん。
かなり似ている。
「春斗」
「何?」
「私たち、似てきた?」
昨日、石井さんにも似たようなことを言われた。
春斗は少し考えてから笑う。
「前から似てたかも」
「どこが」
「頑固」
「春斗が」
「真理も」
「違う」
「似てる」
「嫌」
「俺は好き」
何でもない会話の途中に急に入ってきた言葉に、胸が鳴った。
「そういうの急に入れないで」
「本当だから」
「もう」
困る。
でも。
私は笑っていた。
◇
昼前になり、私たちは店を出て近くのカフェへ入った。
文化祭の喫茶の参考。
という名目は一応ある。
メニューの量。
店内の装飾。
接客の仕方。
参考になるところはあるかもしれない。
でも実際には。
普通の昼食だった。
「何頼む?」
春斗がメニューを見る。
「サンドイッチ」
「飲み物」
「ミルクティー」
「やっぱり」
「春斗は?」
「コーヒー」
「やっぱり」
二人で笑う。
窓際の二人席へ向かい合って座った。
窓の外には休日の車がゆっくり流れ、店内には低い音量で音楽が流れている。コーヒーの香りと、焼いたパンの匂いが少し混ざっていた。
そこで。
また思い出す。
文化祭では。
私が接客係。
春斗がお客さん。
「真理」
「何?」
「今考えた」
「何を」
「文化祭」
「うん」
「俺が座る」
「うん」
「真理が来る」
「うん」
「注文取る」
「うん」
「今と逆」
「あ」
ちょうど店員さんがこちらへ近づいてくる。
今は私たちがお客さん。
文化祭では。
私が店員。
春斗が客。
急に想像が具体的になった。
エプロン姿の私。
席には春斗。
メニューを持って。
『ご注文は?』
無理。
「……無理」
「何で」
「想像した」
「俺も」
「顔赤い?」
「少し」
「春斗も」
「うん」
ちょうど店員さんが来たので、二人とも一度会話を止める。
サンドイッチ。
ミルクティー。
コーヒー。
普通に注文する。
店員さんが離れていったあと。
春斗が少し笑った。
「練習する?」
「何を」
「注文」
「ここで?」
「俺客」
「無理」
「真理店員」
「もっと無理」
「じゃあ文化祭」
「本番でいい」
「緊張する?」
「春斗来たら」
「俺も」
「何で春斗が」
「真理が接客するから」
「だから?」
「可愛い」
「まだ!」
少し声が大きくなり、近くの席の人がこちらを見る。
私はすぐに身体を少し縮め、声を落とした。
「春斗」
「何」
「学校じゃなくても人いるから」
「分かった」
春斗が笑いを抑える。
でも。
私も結局少し笑った。
こんな会話をしながら文化祭の日を想像していること自体が。
もう。
楽しかった。
◇
昼食を終えてからも、私たちはすぐには席を立たなかった。
飲み物を少しずつ飲みながら、今度は文化祭で撮る写真の話になった。
「愛ちゃんが撮るって言ってた」
「うん」
「石井さんはポーズ指定するって」
「いらない」
「私もそう思う」
「でも」
春斗が少し考える。
「どんな写真にする?」
「普通」
「普通って?」
「二人で並んで」
「うん」
「笑う」
「うん」
「終わり」
「手」
春斗が言う。
私はストローへ伸ばしかけた手を止めた。
「何」
「繋ぐ?」
文化祭。
学校。
クラスメイトもたくさんいる。
そして。
写真として残る。
「……分からない」
「嫌?」
「違う」
「うん」
「恥ずかしい」
「うん」
「でも」
私は少しだけ考えた。
二人だけで写る写真。
恋人になって初めての文化祭。
それなら。
「二人だけの写真なら、少し」
春斗の目元が柔らかくなる。
「じゃあ」
「何」
「当日聞く」
やっぱり。
その答えが一番安心する。
「うん」
今決めなくてもいい。
文化祭当日。
その瞬間。
私がどう思うか。
春斗が聞いて。
私が答える。
それでいい。
「春斗」
「何?」
「写真」
「うん」
「残るね」
「うん」
「何年も」
「たぶん」
少し不思議な気持ちになった。
未来なんて分からない。
来月のことだって、絶対ではない。
高校生の恋人同士がこの先どうなるかなんて、誰にも分からない。
でも。
高校生の今。
初めての彼氏と迎える文化祭。
二人で撮る写真。
それが残る。
何年かあと。
その写真を見る日が来るかもしれない。
そのとき。
隣にいる人が。
今と同じ春斗だったら。
そこまで考えそうになって、私は一度ミルクティーへ視線を落とした。
まだ。
そこまで先を決める必要はない。
でも。
少しだけ。
そんな未来も嫌ではなかった。
「真理」
「何?」
「撮ろう」
春斗が言った。
私は顔を上げる。
「うん」
「絶対」
「うん」
今度は。
絶対と言われても止めなかった。
文化祭で写真を撮る。
そのくらいの未来なら。
ちゃんと約束していいと思えた。
◇
午後。
駅へ戻る前に、近くの小さな公園へ寄った。
先週「何もしないデート」で行った公園とは違う。住宅街の端にある小さな場所で、滑り台とブランコがあり、木陰のベンチが二つ並んでいる。
空いている方へ二人で座る。
手はそのまま繋いでいた。
午前中より気温は上がっているけれど、木陰には少し風が通る。遊具の方から子どもたちの声が聞こえ、公園の外では自転車が一台ゆっくり通り過ぎていった。
「今日」
私から言った。
「うん」
「キス」
春斗が少しだけ私を見る。
「したい?」
私はすぐには答えなかった。
昨日は一回した。
今日は朝からずっと文化祭の話をして。
エプロンを見て。
昼食を食べて。
手を繋いで。
楽しかった。
キスは。
どうしたい?
自分の気持ちへちゃんと聞く。
「……少し」
答えた。
春斗は周囲を確認する。
少し離れた遊具には子どもがいる。その近くには保護者らしい大人もいる。公園の外を通る人も時々見える。
「ここでは?」
「しない」
「うん」
春斗はすぐ答えた。
私は少しだけ笑う。
「残念?」
「少し」
「正直」
「でも」
春斗が私を見る。
「真理といるからいい」
胸の奥が温かくなる。
「私も」
今日は。
それで十分だ。
したい気持ちは少しある。
でも。
場所が合わないならしない。
そんなことも、前より自然に言えるようになった。
「春斗」
「何?」
「前より、しないって言うのも楽」
「何で?」
「嫌われないって分かるから」
春斗の表情が少し変わった。
それまでの柔らかい笑いが消え、真面目に私を見る。
「真理」
「何」
「嫌わない」
「うん」
「キスしないからとか」
「うん」
「そういうので嫌いにならない」
胸の奥が、少しだけ締めつけられた。
嫌な痛みではない。
安心するような。
嬉しいような。
「うん」
「真理が嫌ならしない」
「うん」
「したいときは」
「うん」
「また聞く」
「うん」
何度も似た確認をしてきた。
それでも。
何度聞いても。
安心する。
慣れたから。
もう聞かなくていいとは思わない。
たぶん。
こういうことは。
何回でも確かめていい。
「ありがとう」
私が言う。
春斗が少し笑った。
「俺も」
「何が」
「真理が言ってくれるから」
「何を」
「したいとか」
一気に顔が熱くなる。
「春斗」
「何」
「今それ言う?」
「嬉しい」
「分かった」
「かなり」
「それも分かった」
二人で笑う。
今日はキスをしなかった。
でも。
距離が遠くなったとは。
全然思わなかった。
むしろ。
しないと言っても大丈夫。
そのことをまた一つ確かめられた。
それも。
私にはちゃんと近づいたことの一つだった。
◇
夕方になる前に駅へ戻った。
今日は母の送迎ではない。
お互いにここから歩いて帰る。
駅前まで来ても、まだ手は繋いでいた。
休日の午後。
行きより少し人が増えている。
それでも。
私はもう手を離そうとは思わなかった。
「真理」
「何?」
「今日」
「うん」
「エプロン」
「まだクラスでベージュに決まったわけじゃないよ」
「でも」
「何」
「似合ってた」
午前中の店を思い出す。
「当てただけ」
「うん」
「文化祭は制服だし」
「うん」
「髪もどうするか分からない」
「うん」
「それでも?」
「可愛いと思う」
胸が熱くなる。
「春斗」
「何」
「当日まで言わないで」
「今日言った」
「これから」
「分かった」
「本当?」
「当日」
「うん」
「言う」
「小声で」
「うん」
「人前で言わないで」
「うん」
そこまで言って。
私は少し迷った。
でも。
本当の気持ちは。
ちゃんと別にある。
「でも」
「何?」
「……言って」
春斗が黙った。
数秒。
駅前を走る車の音がやけに大きく聞こえる。
「真理」
「何」
「今の」
「覚えてていい」
先に言った。
春斗が笑う。
「うん」
もう。
恥ずかしいから「忘れて」と言って逃げるだけではない。
本当は欲しい言葉なら。
言ってほしいと伝えていい。
春斗も。
「春斗も」
「何?」
「文化祭」
「うん」
「私が春斗のクラスへ行ったら」
「うん」
「格好いいって思ったら」
春斗が何も言わず待っている。
私は少しだけ笑った。
「言う」
「うん」
「だから」
「何」
「頑張って」
春斗が笑う。
「頑張る」
「無理はしないで」
「でも真理見るから」
「うん」
「かなり頑張る」
「そこまでしなくていい」
二人で笑う。
お互い。
少しだけ。
相手に見てもらうために頑張りたい。
それくらいなら。
悪くない。
むしろ。
私は少し好きだった。
◇
そろそろ別れる時間になった。
今日はキスをしない。
繋いでいた手を離す。
掌から春斗の温度がなくなると、やっぱり少しだけ寂しい。
でも。
その寂しさは、前みたいな不安とは違った。
「春斗」
「何?」
「今日楽しかった」
「俺も」
「文化祭の物を見るだけだったのに」
「デート」
「うん」
「次」
「何」
「また明日?」
春斗が聞く。
私は少し笑った。
「毎日会う?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ」
「でも」
少しだけ考える。
会いたい。
でも。
会わない日があってもいい。
それも確かめてみたい気がした。
「明日は家で文化祭のグループとか確認する」
「うん」
「会わなくてもいい」
春斗は少しだけ寂しそうな顔をした。
その顔を見ると。
会おうと言いたくなる。
でも。
春斗はすぐ頷いた。
「分かった」
「嫌?」
「少し」
「私も」
「でも月曜」
「うん」
「学校」
「うん」
次が分かっている。
それだけで。
前ほど不安にならない。
「春斗」
「何?」
「会わない日があっても」
「うん」
「彼氏?」
春斗が少し笑った。
「彼氏」
「うん」
「真理は?」
「彼女」
「うん」
その確認を。
私はまだ好きだ。
付き合い始めた頃は。
確認しないと不安だった。
今は。
答えを分かっていて。
それでも聞きたい。
少し違う。
「じゃあ」
「うん」
「明日はメッセージ」
「うん」
「電話?」
「夜」
「うん」
「少し」
「長くなる?」
「たぶん」
「真理切らない」
「春斗も」
二人で笑う。
「また月曜」
「うん」
「春斗」
「何」
「好き」
今日の最後に。
言いたかった。
春斗の目元が柔らかくなる。
「俺も好き」
今度こそ完全に手を離す。
今日はキスをしなかった。
でも。
全然気にならなかった。
今日は今日で。
たくさん春斗と話した。
文化祭。
エプロン。
飾り。
春斗の衣装。
喫茶。
写真。
少し先の未来。
その全部を一緒に考えられたことが。
楽しかった。
◇
家へ帰ると、クラスグループの通知がさらに増えていた。
『エプロン候補投票しよう』
佐々木さんからだった。
候補は三色。
黒。
茶色。
ベージュ。
私は机の椅子へ座り、改めて三枚の画像を見比べた。
春斗は。
ベージュが一番好きと言った。
私に似合うとも言ってくれた。
でも。
それだけを理由に選ぶのは違う。
私は制服との相性や、教室の明るさ、喫茶の雰囲気を考える。まだ装飾は決まっていないけれど、暗い色で統一するより、少し明るい方が普通の喫茶らしく見える気がした。
そして。
自分が着るなら。
やっぱり。
ベージュが一番好きだと思った。
一票入れる。
途中結果では、ベージュが一番多い。
私は少しだけ笑った。
それから春斗へメッセージを送る。
『ベージュ一位』
すぐ既読がついた。
『本当?』
『まだ途中』
『真理入れた?』
『うん』
『俺が言ったから?』
その質問を見て。
少しだけ考える。
でも。
正直に。
『それも少し』
送る。
さらに続けた。
『でも自分でも一番好き』
今度は返事まで少し間が空いた。
『ならよかった』
胸が温かくなる。
『何で』
『俺だけで決めたみたいになるの嫌だから』
やっぱり。
春斗はそこをちゃんと気にしている。
自分の好みを言う。
似合うとも言う。
でも。
それで私の選択を決めたくはない。
そのことが嬉しかった。
『うん』
少し考えてから。
私も送る。
『でも』
『春斗が似合うって言ったの嬉しかった』
既読。
返事が止まった。
数秒。
『真理』
『何』
『今日会わないって明日?』
『うん』
『今すぐ会いたい』
私は思わず笑ってしまった。
『駄目』
『何で』
『今日はもう会った』
『うん』
『明日は会わない日』
『うん』
『我慢』
『分かった』
少し間が空いて。
『でも好き』
届いた。
胸が温かい。
『私も』
返す。
それから。
少し考えて。
『かなり』
付け足す。
『取った』
『共有』
画面を見ながら笑った。
今日は。
文化祭用のエプロンを見に行っただけだった。
本当にただの下見。
クラスで使うものを。
彼氏と一緒に見ただけ。
春斗が決めるわけではない。
私だって春斗のクラスのことを決めるわけではない。
でも。
似合いそう。
見たい。
格好いいと思う。
そんな意見を聞いて。
自分も言って。
相手の言葉を受け取る。
それが。
思っていたより嬉しかった。
そして今日。
キスはしなかった。
それでも。
昨日より遠くなったとは思わない。
むしろ。
別の意味で少し近づけた気がする。
たぶん。
近づくことは。
触れることだけではない。
相手がいる少し先を考えることでもある。
文化祭。
春斗が私のクラスへ来る。
私はエプロンを着る。
可愛いと言ってほしい。
春斗が射的の係にいる。
私は見に行く。
格好いいと思ったら。
ちゃんと言いたい。
二人で写真も撮る。
もしかしたら、手を繋ぐかもしれない。
それは当日になってから決めればいい。
そういう少し先の場面に。
今は自然に春斗がいる。
幼馴染だった頃には。
そんなふうに考えたことはなかった。
私は机の上に置かれている短編集へ目を向ける。
間には、お揃いのブックマーカー。
その横にはスマートフォン。
クラスグループでは、文化祭のエプロン候補が投票されている。
そして春斗との画面には。
『でも好き』
という文字が残っている。
私はその言葉をもう一度見て。
少しだけ笑った。
明日は会わない。
たった一日。
でも。
たぶん何度もメッセージをする。
夜には電話もする。
そして月曜日には。
また学校で会う。
春斗は彼氏のまま。
私は彼女のまま。
会っていない時間まで含めて。
恋人なのだと。
私はもう。
前よりずっと自然に信じられるようになっていた。




