第53話 文化祭の係を決めるだけだったのに、彼氏が来る時間を気にしていたら接客係を勧められました
金曜日の朝。
目を覚ました私は、枕元に置いていたスマートフォンへ手を伸ばしながら、昨日より少しだけ早く頭が動き始めていることに気づいた。
カーテンの向こうはもう明るい。朝の光が薄い布越しに部屋へ入り、机の上に置いた教科書や昨日使ったノートの輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。まだ布団から出たくない気持ちは残っているのに、頭の中では昨日決まったばかりの文化祭のことが、もう勝手に動き始めていた。
私たちのクラス企画は喫茶。
春斗のクラスは、射的と輪投げを行うゲーム企画。
私は春斗の教室へ遊びに行く。春斗も私のクラスへ来る。文化祭の自由時間が合えば二人で校内を回って、友達とも一緒に楽しんで、それから二人だけの写真も撮る。
春斗が私の教室へ来たときは、最初に私を見つけてもらう。
私も春斗の教室へ行ったら、最初に春斗を探す。
文化祭自体はまだ先なのに、昨日だけでずいぶん約束が増えた。
そして今日は、係決めがある。
「……接客かな」
まだ布団の中なのに、私は小さく呟いた。
昨日の帰り道、春斗から何度も「接客して」と言われた。理由は単純で、私がエプロンを着て注文を取るところを見たいらしい。
もし本当に接客担当になれば、春斗が客として来る可能性がある。私が春斗の席へ行き、注文を聞くことになるかもしれない。
春斗はたぶん、いつものような顔で「コーヒー」と言う。
それだけならまだいい。
昨日の話を覚えているなら、そのあとに平然と「真理のおすすめも」と付け足す可能性が高い。
「……無理だって」
私は枕へ頬を押しつけた。
想像しただけで恥ずかしい。たぶん春斗の席へ近づく途中から顔が熱くなるし、注文を聞いている最中だって落ち着かない。
けれど。
本当に嫌なのかと、自分へ聞いてみる。
答えはすぐに出た。
嫌ではない。
ただ、恥ずかしいだけだ。
春斗が私のクラスへ来てくれる。そのとき私が接客担当で、直接注文を聞ける。
それはきっと。
かなり嬉しい。
「……かなりって、本当に移ったなあ」
昔は春斗がよく使っていた言葉なのに、最近では私まで普通に口にするようになった。
そんなことを考えていると、枕元のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
春斗。
『おはよう』
昨日までと変わらない四文字だった。
でも、表示された名前を見るだけで少し口元が緩むのは、もう仕方ない気がする。
『おはよう』
返すと、すぐに既読がついた。
『今日係?』
やっぱり聞かれた。
『たぶん』
『何やる』
『まだ分からない』
『接客』
返事が速すぎる。
『何で決めるの』
『見たい』
『知ってる』
『やって』
『春斗』
『何』
『クラスの係だから』
『うん』
『春斗のために決めるものじゃない』
『分かってる』
そこだけは、春斗もきちんと分かっているらしい。
少し間が空いてから、もう一通届いた。
『でも真理が接客だったら嬉しい』
「……そういう言い方するんだ」
私は布団の中で少し笑った。
最近の春斗は、昔よりずっと言葉にする。
嬉しい。
会いたい。
見たい。
好き。
付き合う前なら胸の中で止めていたのだろうと思う言葉を、今は私へちゃんと渡してくれる。
たぶん、それに影響されているのは私も同じだった。
『じゃあ春斗は』
『何』
『何係』
『今日決める』
『射的?』
『たぶんどっちか』
そこで私は続きの文章を打った。
『私が行く時間』
指が止まる。
何を書こうとしたのか、自分では分かっていた。
私が春斗のクラスへ遊びに行く時間。
そのとき、春斗が当番だったら嬉しい。
そういう意味だ。
送る?
少しだけ迷った。
でも昨日は、もっと恥ずかしいことを言えた。
『一番最初に私を見つけてほしい』
そこまで言えたのなら。
これくらいは。
『私が行く時間、春斗の当番だったらいいな』
送信した。
すぐに既読がついた。
なのに。
返事が来ない。
十秒。
二十秒。
「……また止まってる」
最近の春斗は、私が少しだけ積極的なことを言うと、よく返信が止まる。
『春斗?』
送ると。
『今かなり嬉しい』
やっぱり。
『それしかないの』
『ある』
『何』
『真理が来る時間に俺もいたい』
胸が少し鳴った。
自分だけではなかった。
私は春斗がいる時間に行きたい。
春斗も、私が来る時間に自分がいたい。
それが分かるだけで、文化祭当日の想像が少し具体的になる。
『じゃあ当番分かったら教えて』
『真理も』
『うん』
『合わせられたら』
『うん』
『合わせる』
文化祭。
まだ当番表すらできていない。
それなのに私たちは、二人で回る時間だけではなく、お互いのクラスへ行く時間まで合わせようとしている。
「……付き合ってるなあ」
口から自然にこぼれた。
少し前なら、それを自分で言うだけでも恥ずかしかった。
今は。
照れはするけれど。
ちゃんと嬉しい。
◇
朝食を終え、制服へ着替えて一階へ降りると、母が台所でお弁当の袋をまとめていた。
「おはよう」
「おはよう。今日は何かあるの?」
「文化祭の係決め」
「ああ、昨日クラス企画が決まったんだっけ」
「うん。喫茶」
母はお弁当の袋の口を閉じながら、何気ない調子でこちらを見る。
「じゃあ真理、何やるの?」
「まだ分からない」
「接客?」
私は思わず母を見る。
「何でみんなそこなの」
「みんな?」
「……何でもない」
「春斗くんにも言われた?」
早い。
「何で分かるの」
「顔」
「またそれ!」
母が楽しそうに笑った。
「でも接客、向いてそうだけどね。普通に人と話せるし」
「そうかな」
「春斗くんが来たら、自分で注文取りに行けるし」
「お母さんまで同じこと言わないで」
「春斗くんもそこまで言ったの?」
「接客してって」
「へえ」
母の笑い方が少しだけ深くなる。
「じゃあやれば?」
「春斗が見たいって言っただけで決めるのは違うでしょ」
「そこはちゃんとしてる」
「普通だよ」
「でも、自分も少しやりたい?」
その聞き方はずるい。
私は冷蔵庫の横に掛かっている時計へ一度視線を逃がしてから、結局正直に答えた。
「……少し」
母の表情が柔らかくなる。
「なら、クラスの都合と合って、自分でもやってみたいならいいんじゃない?」
「うん」
「春斗くんのためだけじゃなくて、真理自身も楽しめるなら」
「分かってる」
こういうところは。
母は急にまともなことを言う。
「何その顔」
「何でもない」
「失礼だねえ」
二人で笑ったところで、玄関のチャイムが鳴った。
「来たね」
「うん」
鞄を持ち、玄関へ向かう。
昨日より、また少し自然だった。
扉を開ける。
「おはよう」
春斗が立っていた。
「おはよう」
目が合う。
少し前までなら、それだけで初キスを思い出して顔が熱くなっていた。
今も忘れたわけではない。
昨日はキスをしなかったことまで、ちゃんと覚えている。
でも、今日は普通に春斗の目を見ることができた。
「真理」
「何?」
「今日、普通」
「失礼」
「違う」
春斗が少し笑う。
「ちゃんと顔見てる」
「春斗もでしょ」
「うん」
後ろから母の声が飛んできた。
「成長したねえ」
「お母さん」
「何も変なこと言ってないよ」
「言い方が変なの」
春斗が隣で笑う。
「春斗も笑わないで」
「ごめん」
「全然ごめんって顔じゃない」
そう言いながらも、私も少し笑ってしまった。
そして三人で車へ向かった。
◇
登校の車では、今日も後部座席のいつもの場所へ座った。
私が左。
春斗が右。
母は運転席。
一昨日は私から。
昨日は春斗から。
小指を絡めた。
今日は、どちらともなく始まった。
信号で車が止まったとき、膝の横へ置いていた指先が触れる。私は少しだけ手を動かし、春斗も同じように動いた。
そのまま小指だけが軽く絡む。
言葉にしなくてもできたことが、少し嬉しかった。
「文化祭」
前から母が話し始める。
「うん」
「春斗くんのクラスって何だっけ?」
「ゲームです」
「射的?」
「射的と輪投げです」
「真理は遊びに行くの?」
「行く」
「春斗くんは真理の喫茶へ?」
「行きます」
春斗の返事が早い。
母が少し笑った。
「二人とも忙しそうだね。当番の時間とか合わせるの?」
私は一瞬黙った。
「何で分かるの」
「高校生の文化祭で付き合ってたら、そういうこと考えるのかなって」
「……できたら」
「へえ」
母はそれ以上からかわなかった。
でも、バックミラーに映った目は少し笑っている。
「春斗」
私は声を落とした。
「何?」
「お母さん鋭い」
「前から」
「知ってる」
「真理が分かりやすい」
「春斗もだよ」
「俺?」
「うん。最近かなり」
春斗が小さく笑う。
「取った」
「もう共有でいいでしょ」
「半分俺」
「まだ言うの?」
私たちが小声で笑っていると、母が前から言った。
「楽しそうだね」
「文化祭!」
私は反射的に答えた。
「何も聞いてないけど」
「先に言った」
「なるほどね」
母には今日も勝てそうになかった。
◇
教室へ入ると、昨日まで黒板に残っていた候補はきれいに消され、中央に大きく『喫茶』と書かれていた。
その下には四つの項目。
メニュー。
装飾。
衣装。
係。
朝から何人かが黒板の前へ集まり、どの仕事をやるか話している。
「真理」
愛ちゃんが席から手を上げた。
「おはよう」
「おはよう。係どうする?」
「まだ決めてない」
「接客?」
また。
「何でみんな接客なの」
「向いてそうだから」
「お母さんにも言われた」
「春くんは?」
私は少しだけ黙った。
その沈黙だけで、愛ちゃんには十分だったらしい。
「言われたんだ」
「……接客してって」
「やっぱり」
「何で分かるの」
「見たいでしょ。真理のエプロン姿」
「……うん」
そこまで否定する気にはなれなかった。
「真理も少しやりたい?」
愛ちゃんに聞かれ、私は今度は少し真面目に考える。
「春斗が来るからっていう理由だけじゃないなら、やってもいいかなって思う」
「いいじゃん」
「愛ちゃんは?」
「広報かな。昨日から言ってた写真とかポスターやりたい」
「向いてそう」
「真理も広報来る?」
「迷う」
「接客と準備の係は兼任になると思うよ。文化祭って一人一個しかやらないわけじゃないし」
確かに。
準備期間と当日では仕事も違う。
当日だってずっと同じ役割だけを続けるとは限らない。
「久保」
後ろから山口くんに呼ばれた。
「何?」
「お前、接客な」
「何で決定なの」
「彼氏が客で来る」
「関係ない!」
教室の何人かが笑う。
「でも向いてるだろ」
山口くんがそう言うと、佐々木さんまで会話へ入ってきた。
「私も久保さん接客いいと思う」
「佐々木さんまで?」
「普通に話せるし、最近よく笑うし」
「接客って笑顔大事だよね」
別の女子まで頷いた。
付き合ってから前より表情が柔らかくなった。
愛ちゃんにも、前にそう言われた。
自分ではよく分からない。
でも。
前より笑っているのは。
たぶん本当だ。
「まだ正式に決めてないでしょ」
「今日決めるぞ」
山口くんが黒板の『係』を指す。
「逃げるな」
「何で逃げる前提なの」
教室にまた笑いが起きた。
私もつられて笑う。
愛ちゃんが小声で聞いた。
「真理、嫌?」
「……嫌ではない」
「じゃあ候補でいいじゃん」
「うん」
「春くんも喜ぶ」
「それは言わないで」
「まだ何も言ってないのに」
「分かるの」
もう何度目か分からないやり取り。
でも。
前ほど恥ずかしくない。
むしろ少し楽しかった。
◇
一時間目が終わった休み時間。
スマートフォンを確認すると、春斗からメッセージが来ていた。
『係』
『まだ』
『俺も』
『何候補』
『射的担当か受付』
『受付?』
『ルール説明とか』
『見たい』
ほとんど考えず送った。
すぐに。
『真理』
『何』
『何でも見たい?』
一瞬だけ指が止まる。
でも。
答えは分かっている。
『春斗だから』
送信。
既読。
そして。
返事が来ない。
「……」
まただ。
『春斗?』
『今授業前』
『知ってる』
『無理』
『何が』
『真理』
私は机へ頬杖をつきながら少し笑った。
話題を変える。
『私は接客候補』
『本当?』
今度はすぐ返ってくる。
『まだ』
『やって』
『春斗』
『何』
『クラスで決める』
『分かってる』
『でもやったら教えて』
『うん』
『当番も』
『うん』
『俺行く』
その言葉だけで、胸の奥が少し温かい。
『私も春斗の当番教えて』
『教える』
『行く』
『約束』
『うん』
まだ係すら正式に決まっていない。
それでも。
文化祭の予定だけは、少しずつ形になっていた。
◇
昼休み。
今日も食堂では、私、春斗、愛ちゃん、石井さんの四人で席を囲んだ。
少し離れたところには竹下くんが友達と座っている。
一瞬だけ目が合った。
お互いに軽く会釈する。
それだけだった。
前だったら、竹下くんが同じ食堂にいるというだけで意識がそちらへ引っ張られていたと思う。
でも今は。
普通に挨拶して。
それで終われる。
春斗もたぶん気づいている。
それでも何も言わず、普通に箸を動かしていた。
「係どうだった?」
愛ちゃんが春斗へ聞いた。
「まだ」
「石井さんは?」
「俺、装飾」
私は少し驚いた。
「意外」
「何でだよ」
「そういうのやるんだと思って」
「雑用を押しつけられただけ」
「本当は?」
春斗が聞く。
石井さんは少しだけ間を置いたあと、肩を竦めた。
「まあ、作るの嫌いじゃない」
「じゃあいいじゃん」
愛ちゃんが笑う。
「私は広報ほぼ確定。真理は接客候補」
その瞬間。
春斗の箸が止まった。
「何」
私は春斗を見る。
「本当に?」
「まだ候補」
「やって」
「また言ってる」
愛ちゃんが笑った。
「春くん、本当に真理へ接客させたいんだね」
「見たい」
「隠さないなあ」
「うん」
春斗は普通に答える。
私の方が恥ずかしくなってくる。
「真理は?」
今度は石井さんがこちらを見る。
「何?」
「春斗が射的担当だったら」
「見たい」
即答した。
三人の動きが少し止まる。
「何」
私は三人を見る。
石井さんが笑った。
「最近、お前ら似てきたな」
「何が」
「お互い見たい見たいって」
愛ちゃんも頷く。
「確かに。真理、前よりかなり言うようになった」
「春斗が言うから」
「俺?」
「うん」
春斗も私を見る。
「真理も言う」
「……うん」
否定しなかった。
付き合う前は、思っても飲み込んでいたことが多かった。
見たい。
会いたい。
嬉しい。
好き。
春斗がちゃんと言ってくれるようになったから。
私も。
少しずつ言えるようになった。
「でもさ」
愛ちゃんが少し真面目な顔になる。
「真理が接客担当になったら、当日かなり忙しくない?」
「それが気になってる」
私が答えると、石井さんが言った。
「二人で回る時間と当番合わせれば?」
「俺もそう思ってた」
春斗が答えた。
私と春斗の目が合う。
「朝も話した」
「うん」
愛ちゃんはすぐスマートフォンを取り出した。
「じゃあ当番決まったら四人で共有しよう」
「何で四人?」
「四人で回る時間も作るんでしょ?」
「ある」
春斗が答える。
「だから、真理と春くんの二人時間」
「その名前やめて」
「四人時間」
「それも名前つけなくていい」
「それぞれのクラス当番」
「うん」
「私と石井さんの予定」
石井さんが眉を上げた。
「俺も入ってる?」
「昨日一緒に回るって話になったでしょ」
「俺そんな約束した?」
「してた」
「マジ?」
春斗が笑う。
愛ちゃんは楽しそうに指を動かした。
「全部分かったら、簡単なタイムテーブル作る」
「早いよ。まだ係も決まってない」
「決まったらでいいの」
「文化祭ガチ勢」
「だって楽しみじゃん」
その言葉を聞いて。
私も少し笑った。
「私も」
言う。
「かなり」
春斗がすぐ反応した。
「取った」
「もう共有」
四人で笑った。
文化祭の話だけで。
こんなに昼休みが楽しくなるなんて。
少し前の私は、まだ知らなかった。
◇
六時間目。
いよいよ係決めになった。
黒板には先生が大きく役割を書き出していく。
準備期間は、装飾、広報、会計、買い出し。
当日は、接客、調理補助、呼び込み、片付け。
「希望を書け。人数が偏ったところは後で相談する」
配られた紙には、第一希望から第三希望まで書く欄があった。
私は鉛筆を持ったまま少し止まる。
接客。
広報。
どちらも少し気になる。
隣を見ると、愛ちゃんはもう書き始めていた。
「早い」
「広報」
「迷わない?」
「写真とかポスターやりたいから」
「そっか」
「真理は?」
「迷ってる」
「接客?」
「……うん」
春斗が見たいと言ったから。
それも理由の一つではある。
でも。
それだけではない。
私は人と話すことが嫌いではない。
アルバイト経験はないけれど、文化祭の一日くらいなら、教室へ来た人と話しながら注文を取るのも楽しそうだと思う。
エプロンは恥ずかしい。
春斗に見られるのはもっと恥ずかしい。
でも。
みんなと一緒なら。
やってみたい気持ちはある。
「真理」
愛ちゃんの声が少しだけ柔らかくなる。
「春くん抜きでもやりたい?」
大事なのはそこだ。
私は少し考えた。
もし。
春斗が文化祭へ来られないとして。
それでも接客をやりたいか。
絶対に接客がいい、というほどではない。
でも。
「……やってみたい」
答えた。
愛ちゃんが頷く。
「じゃあいいじゃん」
「うん」
第一希望。
接客。
第二希望。
広報。
第三希望。
買い出し。
書いた紙を提出した。
先生が集計を始めると、教室の中ではあちこちから小さな声が上がる。
接客は女子の希望が多い。
装飾は男子が多い。
買い出しも人気。
広報は思ったより少ない。
「接客希望多いな」
先生が紙を見ながら言う。
「当日はローテーションで全員多少は接客すると思うけど、中心担当は六人くらい欲しい」
私は少しだけ緊張した。
なれなくても構わない。
でも。
春斗が来る時間に接客できたら。
少し嬉しい。
「接客第一希望……」
先生が名前を読み上げる。
六人。
ちょうど。
その中に。
「久保」
私の名前もあった。
「六人ちょうどか。希望通りでいいな?」
特に異論は出なかった。
愛ちゃんが私を見る。
口元がすでに笑っている。
「何」
「接客」
「うん」
「春くん」
「言わないで」
「まだ何も言ってない」
「分かるから」
でも。
嬉しい。
接客担当。
文化祭当日。
エプロンを着て。
お客さんのところへ注文を取りに行く。
その中に。
春斗がいるかもしれない。
想像だったものが、少しずつ現実になっていく。
「久保」
また山口くんに呼ばれた。
「何?」
「接客?」
「うん」
「彼氏来る時間、シフト入れとけよ」
「何で山口くんまで!」
教室に笑いが広がる。
「売上上がるから」
「春斗一人で売上変わらないでしょ!」
「友達も連れてくる」
「勝手に団体客にしないで!」
近くの女子が笑いながら言った。
「でも、彼氏が来たとき自分で接客したいでしょ?」
また。
そこ。
周りの何人かがこちらを見る。
昨日は。
『彼氏に可愛いって言われたいでしょ?』
と聞かれた。
今日は。
接客したい?
と聞かれている。
少し前の私なら。
『別に』
と否定したかもしれない。
でも。
今は。
「……できたら」
答えた。
一瞬。
そして教室から。
「おおー」
という声が上がった。
「久保、最近素直!」
「恋人パワー!」
「強くなった!」
「もう!」
顔は熱い。
でも。
笑える。
「そこまで騒ぐことじゃないでしょ!」
「いや、前の久保だったら絶対否定してた」
佐々木さんまで言う。
「そう?」
「うん。彼氏って言われるだけでも赤くなってた」
「今も赤い」
「でも答えるようになった」
その違い。
自分でも分かる。
恥ずかしい。
でも。
否定したくない。
春斗が来たとき。
私が接客したい。
それは。
本当だから。
「まあ」
担任が苦笑しながら話を戻した。
「個人の予定は当番表を作るときに調整しろ。ただしクラス運営を優先すること」
「はい」
私が誰よりも早く返事をしてしまった。
また教室に笑いが起きる。
「久保、やる気あるな」
「違う!」
「何が違うんだよ!」
笑い声が重なる。
文化祭の準備が。
少しずつ。
本当に楽しくなってきた。
◇
放課後。
終礼が終わると、私はすぐ春斗へメッセージを送った。
『接客になった』
既読は早かった。
『本当?』
『うん』
『やった』
「やったなんだ……」
『何で春斗が喜ぶの』
『見れる』
『知ってる』
『注文取りに来て』
『当番なら』
『行く時間合わせる』
胸の奥が少し温かくなる。
『春斗は?』
『射的担当』
『本当?』
『うん』
『見に行く』
私も即答した。
『真理』
『何』
『俺も嬉しい』
『何が』
『見てもらえる』
また。
胸が鳴る。
文化祭。
見る。
見られる。
それだけなのに。
お互い、少しだけ特別に思っている。
『じゃあ』
私は少し考えて。
『格好いいか確認する』
送った。
既読。
十秒ほどして。
『頑張る』
思わず笑う。
『何を』
『格好よくする』
『昨日も言ってた』
『真理が見るから』
ずるい。
でも。
私も。
『私も』
そこまで打って止まる。
何を?
可愛くする。
そう言う?
少しだけ顔が熱くなった。
でも。
最近は、言えるときに言うようにしている。
『可愛くできるようにする』
送信。
既読。
返事が来ない。
「……」
『春斗?』
『今無理』
『何が』
『真理』
私は廊下で一人、少し笑った。
すぐに次のメッセージ。
『昇降口』
気づけば。
歩く速度が少しだけ速くなっていた。
◇
昇降口へ着くと、春斗はすでに待っていた。
私を見つけた瞬間。
少しだけ耳が赤い。
「お疲れ」
「お疲れ」
「真理」
「何」
「さっきの」
「何」
「可愛く――」
「もう言うの?」
「真理が送った」
「忘れて」
「無理」
いつもの返事。
でも。
今日は。
「じゃあ覚えてて」
自分から言った。
春斗が少し止まる。
それから。
嬉しそうに笑った。
「うん」
このやり取りも変わった。
前なら。
私が恥ずかしいことを言う。
すぐ「忘れて」と言う。
春斗が「無理」と返す。
私はさらに恥ずかしくなる。
それだけだった。
今は。
覚えてて。
と続けられる。
春斗が喜んでくれるなら。
自分が言った言葉を、残してもいいと思える。
「春斗も」
「何?」
「格好よく」
「する」
「頑張りすぎないで」
「でも」
「私が見るから?」
「うん」
「知ってる」
二人で笑った。
学校を出る。
まだ周囲には部活動へ向かう生徒や、友達と帰る生徒が多い。
だから手は繋がない。
でも。
隣を歩く距離は。
もうすっかり自然だった。
「当番」
春斗が言う。
「うん」
「いつ決める?」
「来週かな。春斗のところは?」
「たぶん同じくらい」
「合わせられるかな」
「先生に怒られない範囲で」
「うん。クラス優先」
「分かってる」
春斗が少し笑う。
「でも」
「何?」
「真理の接客」
「うん」
「絶対行く」
「うん」
「最初に見つける」
「うん」
「注文する」
「うん」
「コーヒー」
「うん」
「おすすめ」
「うん」
「可愛いって言う」
「そこまで予定に入れないで!」
春斗が声を上げて笑った。
「でも言うと思う」
「まだ見てないでしょ」
「真理だから」
「またそれ」
「本当」
顔が熱い。
でも。
私も負けたくなくなる。
「じゃあ」
「何?」
「春斗も」
「うん」
「格好よかったら」
「うん」
「言う」
春斗の歩く速度が少し遅くなった。
「何を?」
分かっていて聞いている。
私も分かっている。
「格好いい」
ちゃんと言った。
春斗が完全に足を止めそうになった。
「真理」
「何」
「今の」
「まだ条件付きだから」
「でも」
「春斗」
「何」
「ここ学校の近くだよ」
近くを男子生徒が数人通り過ぎる。
春斗は何か言いたそうな顔のまま口を閉じた。
でも。
嬉しそうだった。
それを見て。
私も少し笑った。
◇
住宅街へ入り、制服姿の生徒が少なくなったところで、今日は春斗の方から手を差し出してきた。
「真理」
「何?」
「手」
「うん」
私は迷わず取った。
指が絡む。
学校の中では普通に並んで歩いて。
二人だけになれば手を繋ぐ。
その切り替わりも、少しずつ自然になっている。
しばらく歩いてから、春斗が少し真面目な声で聞いた。
「真理」
「何?」
「接客、本当に嫌じゃない?」
急に確認され、私は春斗を見る。
「嫌じゃない」
「俺が言ったから?」
「それも少しはある」
そこは正直に答える。
「でも」
「うん」
「春斗が来ないとしても、やってみたいと思った」
春斗の表情が少し柔らかくなった。
「そっか」
「うん」
「じゃあ楽しんで」
「うん」
「俺も楽しむ」
「うん」
こういうところが。
私は好きだと思う。
春斗は、自分が見たいから接客してほしいと言った。
それでも。
実際に私が接客担当になったと知れば。
私が本当に嫌ではないのかを確認してくれる。
春斗のために無理をしているのではないか。
そこを気にしてくれる。
「春斗」
「何?」
「ありがとう」
「何が?」
「今」
「何もしてないけど」
「したよ」
「何」
私は少し考えてから答えた。
「確認」
春斗の顔が少しだけ納得したように変わる。
「うん」
「春斗が見たいからってだけで決めたと思ってない?」
「思ってない」
「うん」
「真理が嫌ならやらない方がいいと思う」
「うん」
「でも、真理もやりたいなら」
「うん」
「やっぱり見たい」
最後はそこへ戻る。
「結局それ」
「本当だから」
私は笑った。
「知ってる」
繋いだ手へ。
少しだけ力を込めた。
◇
母との待ち合わせまでは、まだ十分ほどあった。
昨日はキスをしなかった。
手を繋いで。
文化祭の話をして。
それだけで帰った。
今日。
どうするんだろう。
そんなことを少しだけ考える。
でも。
焦る気持ちはなかった。
毎日キスしなければいけないわけではない。
昨日しなかったから。
今日はしなければいけないわけでもない。
ただ。
今。
春斗と手を繋いで歩いている時間が。
すごく心地よかった。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「昨日」
「うん」
「しなかった」
やっぱり。
同じことを考えていたらしい。
「うん」
「今日」
春斗は一度言葉を止めた。
それから。
「したい?」
聞かれる。
私はすぐには答えなかった。
昨日は。
したくないからしなかったわけではない。
あの日は、手を繋いで話して帰るだけで満足だった。
今日は。
どうだろう。
自分の気持ちへ聞く。
答えは。
難しくなかった。
「……したい」
前より早く言えた。
春斗の目元が少し柔らかくなる。
「場所」
「うん」
周囲を見る。
いつもの公園が近い。
まだ子どもたちが遊んでいて、道路にも人がいる。
「ここは嫌」
「うん」
春斗はすぐに頷いた。
「もう少し歩く?」
「うん」
二人で歩き続ける。
昨日は無理にしなかった。
今日は。
自分がしたいと思った。
だから。
する。
その違いを自分で分かっていることが。
少し嬉しかった。
公園の裏手にある遊歩道へ向かう。
昨日も通った場所だ。
けれど今日は、犬を連れた人が一人歩いている。
「今は無理」
「うん」
春斗はすぐに歩き続ける。
少し待ち。
別の小さな道へ入った。
住宅はあるけれど、人通りは少ない。
完全に隠れるような場所ではない。
だからこそ。
私にはその方が安心できる。
「ここ?」
春斗が聞く。
私は周囲を確認した。
「少しなら」
「うん」
繋いでいた手を離す。
春斗が私を見る。
「真理」
「何?」
「キスしていい?」
胸が鳴る。
でも。
この質問は。
もう怖くない。
むしろ。
ちゃんと聞いてくれることに安心する。
「うん」
答える。
「していい」
春斗がゆっくり近づいてくる。
私は目を閉じた。
唇が触れる。
短い。
昨日しなかった分まで。
なんて。
思わない。
昨日は昨日。
今日は今日。
今日。
私がしたいと思ったキス。
それでいい。
唇が離れる。
目を開くと。
春斗の顔がまだ近い。
「大丈夫?」
「うん」
すぐ答えられる。
「春斗は?」
「かなり」
予想通りの返事。
私は笑った。
「それ、大丈夫の答えじゃない」
「かなり大丈夫」
「何それ」
春斗も笑う。
少しだけ間が空いてから。
「もう一回?」
聞かれた。
私は考える。
昨日はしなかった。
今日は一回した。
今は。
それで十分。
「今日は一回」
「うん」
春斗は本当にすぐ頷いた。
「分かった」
その速さが。
好きだった。
「春斗」
「何?」
「嫌?」
「何が」
「一回で終わり」
春斗が少し笑う。
「嫌じゃない」
「本当?」
「うん」
「もっとしたい?」
「したい」
即答だった。
一気に顔が熱くなる。
「でも」
春斗が続ける。
「真理が一回って言ったから」
「うん」
「今日は一回」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
「うん」
「また次」
「聞く?」
「うん」
「分かった」
もう一度手を繋ぎ。
歩き出す。
恋人になるというのは。
キスの回数が増えていくことだけではない。
言うこと。
聞くこと。
止まること。
待つこと。
相手がどうしたいか確認すること。
その全部へ。
少しずつ慣れていくことなのかもしれない。
◇
待ち合わせ場所へ着く少し前。
私は今日の係決めについて、もう一度春斗へ話した。
「接客中心は六人」
「うん」
「私入った」
「うん」
「当日はローテーションするから、他の人も接客はすると思う」
「でも真理は中心?」
「たぶん」
春斗は少し嬉しそうだ。
「何」
「楽しみ」
「知ってる」
「エプロン」
「まだ決まってない」
「可愛い」
「まだ見てない!」
「予想」
「ずるい」
私も少し笑う。
「真理」
「何?」
「俺のとこ」
「うん」
「射的」
「うん」
「当番だったら」
「うん」
「遊んで」
「遊ぶ」
「本当?」
「うん」
少し考えてから。
私は文化祭当日を想像する。
「春斗が説明して」
「うん」
「私が撃つ」
「うん」
「景品取る」
「頑張って」
「春斗が取って」
「俺、係だから」
「じゃあ取りやすいの教えて」
「それは不正」
「彼氏なのに」
「そこは使わない」
私は笑った。
「正しい」
「真理」
「何?」
「でも」
春斗が少し声を落とす。
「景品取れなかったら」
「うん」
「何か別であげる」
胸が鳴った。
「何?」
「まだ決めてない」
「じゃあ言わないでよ」
「約束だけ」
「何の?」
「文化祭」
春斗が笑う。
「真理が来る」
「うん」
「何かあげる」
「……うん」
「欲しい?」
聞き方がずるい。
でも。
答える。
「欲しい」
春斗が少し足を止めそうになった。
「真理」
「何」
「今日」
「何」
「強い」
「それ禁止」
二人で笑った。
何をくれるのか。
まだ分からない。
でも。
それも一つ。
文化祭の楽しみになった。
◇
遠くに母の車が見えてきた。
私たちは手を離す。
今日はキスを一回。
手はたくさん繋いだ。
文化祭の係が決まって。
約束もまた増えた。
「春斗」
「何?」
「今日」
「うん」
「接客決まった」
「うん」
「春斗のためだけじゃない」
「分かってる」
「でも」
少しだけ顔が熱くなる。
「春斗が来るのも楽しみ」
春斗が完全に止まった。
「真理」
「何」
「今の」
「覚えてていい」
先に言った。
春斗が少し笑う。
「うん」
「でも」
「何?」
「当日」
「うん」
「私が忙しそうだったら、無理に話しかけないで」
「分かった」
「でも」
「うん」
「目は合わせて」
言った瞬間。
自分の胸が鳴った。
春斗の目が少しだけ柔らかくなる。
「絶対」
「うん」
「真理見つける」
「うん」
「目合わせる」
「うん」
それだけでも。
たぶん嬉しい。
接客で忙しくて。
春斗の席へ行けないかもしれない。
ゆっくり話せないかもしれない。
でも。
教室の中で。
春斗を見つける。
春斗も私を見つける。
目が合う。
それだけで。
きっと文化祭の中の大事な一瞬になる。
◇
母の車へ乗り込む。
「お疲れ」
「お疲れ」
「ありがとうございます」
春斗も隣へ座る。
母が車を出した。
「係決まった?」
「接客」
私が答える。
「やっぱり」
「何で」
「向いてそうって言ったでしょ」
「うん」
「春斗くんは?」
「射的担当です」
「じゃあ真理、遊びに行くね」
「行く」
「春斗くんも真理の喫茶へ?」
「行きます」
春斗がすぐ答える。
母が少し笑う。
「予定いっぱいだね」
「うん」
「二人で回る時間あるの?」
「作る」
私はほとんど反射的に答えた。
母が少しだけ目を見開く。
「ちゃんと決めてるんだ」
「まだ時間までは」
「当番が決まってから合わせます」
春斗が補足する。
「へえ」
母は楽しそうに笑った。
「いいね。楽しそうで」
「うん」
私は素直に答える。
「かなり」
隣から春斗。
「取った」
「共有」
母がバックミラー越しに私たちを見る。
「何それ」
「何でもない」
私と春斗は少し笑った。
車は夕方の町を走る。
私は窓の外へ視線を向けた。
文化祭。
企画が決まった翌日。
係が決まった。
私は接客。
春斗は射的。
ただそれだけのはずだった。
でも。
私が接客するなら。
春斗が来る時間が気になる。
春斗が射的担当なら。
私もその時間に遊びに行きたい。
当番が合えば。
合わせたい。
それを考えていたら。
愛ちゃんたちまで。
私と春斗の二人で回る時間。
四人で回る時間。
それぞれの当番。
全部を組み合わせようとし始めた。
少し前の私なら。
『そんなのまだ分からない』
と言って逃げたと思う。
でも。
今は。
合わせられるなら合わせたい。
春斗が私の教室へ来たとき。
できれば私が注文を取りたい。
私が春斗の教室へ行くとき。
できれば春斗に射的の説明をしてほしい。
そんなことまで。
普通に思える。
それが。
少し嬉しい。
私は隣へ目を向けた。
ちょうど春斗もこちらを見た。
「何?」
小さな声で聞かれる。
「文化祭」
「うん」
「接客」
「うん」
「春斗が来るとき」
「うん」
少しだけ迷う。
でも。
言う。
「私だったらいいなって」
春斗の顔が少し赤くなった。
「俺も」
「何が?」
「真理が来るとき」
「うん」
「俺が射的にいたい」
胸が温かくなる。
「じゃあ」
「うん」
「当番決まったら」
「合わせる」
「クラス優先ね」
「分かってる」
「でも」
私は少しだけ笑った。
「できたら」
「うん」
「合わせよう」
春斗の目元が柔らかくなる。
「約束」
「約束」
前から母の声がした。
「また文化祭の約束?」
「そう」
今度は。
私は笑って答えた。
「どんどん増えるね」
「うん」
母の何気ない言葉。
でも。
本当にその通りだった。
文化祭の約束。
一緒に回る。
二人で写真を撮る。
お互いの教室へ行ったら最初に相手を見つける。
衣装を見る。
私のおすすめのメニューを春斗へ教える。
当番が合えば、私が春斗を接客する。
私は春斗の射的へ遊びに行く。
もし景品が取れなかったら。
春斗が何かくれる。
何かはまだ知らない。
でも。
それも。
少し楽しみだった。
ただの学校行事だった文化祭が。
クラスメイトと作るイベントになって。
愛ちゃんたちと楽しむ予定になって。
春斗と過ごす約束になっていく。
全部が重なって。
少しずつ。
私の中で大きくなっている。
私はもう一度だけ春斗を見る。
今度は目が合っても、何も言わなかった。
ただ。
少し笑う。
春斗も笑った。
係を決めただけの金曜日。
それなのに。
文化祭当日の春斗を想像する時間は。
昨日よりまた少し。
増えていた。




