第52話 文化祭のクラス企画が決まっただけなのに、彼氏に見られる服装までみんなで相談することになりました
木曜日の朝。
目を覚ました私は、枕元のスマートフォンへ手を伸ばす前に、一度だけ天井を見上げた。カーテンの隙間から差し込む朝の光はまだ淡く、部屋の中には夜の名残のような静けさが残っている。
昨日までなら、起きてすぐ春斗から連絡が来ているか確認していた気がする。もちろん今日も気にはなっているし、たぶんこのあと画面を点けたら最初に探すのは春斗からのメッセージだ。
でも、今朝は少しだけ違った。
真っ先に頭へ浮かんだのは、文化祭だった。
昨日のホームルームで、私たちのクラス企画は喫茶、お化け屋敷、縁日の三つまで絞られた。今日はその中から正式に一つを決める予定になっていて、企画が決まれば係や装飾、買い出しについても少しずつ話が進んでいく。
文化祭そのものはまだ先なのに、春斗と一緒に回る約束をしただけの頃より、ずっと現実味が増してきた。
「喫茶かな……」
昨日の話し合いを思い返しながら、小さく呟く。
準備のしやすさだけなら、たぶん喫茶が一番強い。お化け屋敷は人気が出そうだけれど、教室全体を暗くしたり仕切りを作ったり、安全面まで考える必要がある。縁日も楽しそうではあるものの、複数の遊びを用意するなら準備する物も人手もかなり増えるだろう。
そして、もし喫茶になったら。
昨日話題になった衣装のことも、本当に考えなければならなくなる。
エプロン。
その言葉を思い浮かべた瞬間、昨日の春斗の声まで一緒に蘇ってきた。
『見たい』
「……文化祭のこと考えてたのに」
結局そこへ行く。
私は布団の中で小さく息を吐き、枕へ頬を押しつけた。
春斗に見られる。それだけで、ただのエプロン一枚の意味が変わる。
付き合う前なら、クラス企画で必要なら普通に着たと思う。多少恥ずかしくても、みんな一緒なら仕方ないと割り切れただろうし、誰に見られるかなんてそこまで気にしなかったはずだ。
今は違う。
春斗が見に来る。
たぶん私を探す。
そして、本当に昨日言っていた通りなら。
『可愛い』
たぶん、普通の顔でそう言う。
「無理……」
まだ何も決まっていないのに、想像しただけで頬が熱くなった。
そのとき、枕元のスマートフォンが震える。
私はすぐに顔を上げて手を伸ばした。
画面には、やっぱり待っていた名前が表示されていた。
『おはよう』
いつもの四文字。
それだけなのに、口元が勝手に緩んだ。
『おはよう』
返すと、すぐに既読がつく。
『今日決まる?』
何が、と聞かなくても分かる。
『たぶん文化祭』
『何になると思う』
『喫茶かな』
少し考えて送ると、数秒後には返事が来た。
『エプロン?』
「早い」
思わず声に出た。
『そこ?』
『大事』
『何で』
『真理が着る』
朝から真っ直ぐすぎる。
付き合う前の春斗なら、絶対こんなふうには言わなかったと思う。少なくとも、私がどう受け取るかを気にして、一度は誤魔化していたはずだ。
『まだ決まってない』
『決まったら?』
『着るかも』
『見に行く』
『知ってる』
昨日から何度も聞いている。それでも、不思議と嫌ではなかった。
『春斗』
『何』
『自分のクラスは』
『今日決まる』
『ゲーム有力?』
『たぶん』
『射的?』
『それか輪投げ』
『春斗やる?』
『当番なら』
少しだけ想像する。
文化祭の教室。
普段とは違う飾りつけ。
春斗が射的の係をしていて、私が遊びに行く。春斗がルールを説明して、私が的を狙って、それを近くで見ている。
いつもの教室や廊下とは少し違う春斗。
『見に行く』
今度は迷わず送った。
『本当?』
『約束した』
『うん』
そこで一度会話が止まる。
私は布団から起き上がり、カーテンを開けた。朝の光が一気に部屋へ入り、机の上に置かれた教科書や昨日使ったノートを照らす。
その横には、木下書房で買った短編集。
間には、春斗とお揃いのブックマーカーが挟まっている。
付き合う前からずっと使っていた部屋なのに、ここにも少しずつ春斗とのものが増えている。形のある物だけではなく、電話をした場所とか、メッセージを読みながら笑った朝とか、そういう記憶まで少しずつ積み重なっていた。
スマートフォンがもう一度震える。
『真理』
『何』
『文化祭』
『うん』
『二人の写真』
胸が少しだけ鳴った。
昨日、春斗と約束したこと。
文化祭で、二人だけの写真を撮る。
『忘れてない』
『俺も』
『何で確認するの』
『楽しみだから』
私は少し笑った。
『私も』
それだけ送ってから、一度指を止める。
でも、今ならもう少し言える気がした。
『かなり』
付け足す。
すぐに既読がついた。
『また取った』
『もう私も使う』
『半分俺』
『言葉に半分とかない』
『ある』
朝からくだらない。
でも、そのくだらなさが楽しい。
◇
登校の車では、今日も母に見えないところで小指だけを絡めた。
昨日は私から「小指」と言ったけれど、今日は春斗の方から少しだけ手を寄せてきた。だから私は何も言わず、自分の小指を重ねるようにして絡めた。
そのやり取りを母は見ていないはずだった。
少なくとも、私はそう思っていた。
「最近、後ろ静かだね」
信号待ちで母が言った。
「普通」
私が答えると、母はバックミラー越しに少しだけ目を細める。
「そう?」
「うん」
「春斗くんは?」
「普通です」
「二人揃って同じこと言うようになったね」
春斗と目が合いそうになる。
危ない。
ここで笑うと、絶対に何か言われる。
私は窓の外へ視線を向けた。
「真理」
春斗が小さく呼ぶ。
「何」
「今日、喫茶になったら」
「まだ言う?」
「見に行く」
「知ってる」
「一番に」
私は思わず春斗を見る。
「何が?」
「真理見る」
心臓が大きく跳ねた。
「春斗」
「何」
「車」
「小声」
「そういう問題じゃない」
前から母の声が飛んでくる。
「何の話?」
「文化祭!」
私と春斗の声が綺麗に重なった。
母が少し笑う。
「そう。じゃあ文化祭の話ってことにしとく」
「本当にそうだから!」
「はいはい」
絶対に信じていない。
でも追及まではしてこなかった。
小指は、学校へ着く少し前までそのままだった。
◇
教室へ入ると、黒板には昨日残った三つの候補が大きく書かれていた。
喫茶、お化け屋敷、縁日。
その下には、誰かが勝手に書いたらしい予想票まである。
喫茶、十二。
お化け屋敷、九。
縁日、六。
「何これ」
鞄を机へ置きながら言うと、愛ちゃんがすぐに振り返った。
「朝来たらもうあった」
「投票したの?」
「非公式。昨日残ってた人たちで予想したみたい」
「誰が数えたの」
「山口くんたち」
教室の後ろを見ると、山口くんが別の男子と話しながらこちらへ手を上げた。
「久保、一票どれ?」
「まだ決めてない」
「喫茶だろ」
「何で」
「彼氏来るし」
「それ関係ないから!」
朝からそれ。
周囲にいた何人かが笑い、私も少し遅れてため息をついた。
もう、私と春斗が付き合っていること自体は完全に教室の日常へ溶け込み始めている。
「久保が喫茶なら彼氏呼ぶって」
「呼ぶとは言ってない!」
「来るんだろ?」
「来ると思うけど」
「ほら」
「だから、それで票決めないで!」
また笑いが起きた。
愛ちゃんが隣で肩を揺らしている。
「真理」
「何」
「もう春くんがクラス企画の戦力になってる」
「客一人だけで戦力にしないで」
「春くん、友達も連れてくるかもしれないじゃん」
「石井さんくらいじゃない?」
「その石井さんを私は知らない」
「昨日も誰って言われた」
「そこ面白いよね」
「何が?」
愛ちゃんは少し笑いながら、机へ肘をついた。
「真理の中では普通に春くんの友達なんだけど、クラスのみんなからすれば知らない人なんだなって」
言われてみればそうだった。
私は春斗のことをずっと知っている。
家族も。
好きな食べ物も。
普段よく一緒にいる人も。
何となく苦手そうなことも、機嫌がいいときの話し方も。
でも、クラスメイトからすれば。
春斗はまず、私の彼氏。
それが一番最初に来る。
「変な感じ」
私が呟くと、愛ちゃんが首を傾げた。
「何が?」
「みんなにとって春斗が、私の彼氏なんだなって」
「彼氏でしょ」
「そうだけど」
「まだ慣れない?」
「少しずつ」
愛ちゃんは私の顔を見て、少しだけ笑った。
「でも昨日より普通」
「何が」
「真理が『彼氏』って言うの」
私は一瞬止まる。
確かに。
前なら、その言葉を自分で口にするだけで顔が熱くなった。
今も恥ずかしい。
でも、ちゃんと言える。
「……慣れてきた」
「いいじゃん」
「うん」
その言葉を、今日は素直に受け取れた。
◇
午前中の授業が終わり、昼休み。
食堂へ向かう途中で春斗と合流すると、今日は石井さんも一緒だった。
「真理」
「何?」
「決まった?」
「まだ。六時間目」
「こっちも」
「何になりそう?」
「ゲーム」
春斗が答えた横から、石井さんが笑いながら口を挟む。
「こいつ射的やる気だぞ」
「本当?」
「まだ決まってない」
春斗はそう言ったけれど、私は少し嬉しくなる。
「見たい」
「また即答」
「だって昨日から言ってる」
春斗は少しだけ嬉しそうに笑い、それから私を見る。
「真理のクラスは?」
「喫茶が強い」
「エプロン?」
「何でそれしか聞かないの」
「気になる」
「春くん」
後ろから愛ちゃんの声がした。
「真理、朝からそれで恥ずかしがってるよ」
「愛ちゃん!」
「本当?」
春斗が私を見る。
「見ないで」
「まだ着てない」
「そういう意味じゃない!」
石井さんが笑いを堪えながら、春斗の肩を軽く叩いた。
「お前ら、文化祭までずっとこんな感じなの?」
「何が」
「衣装の話だけでこれ」
「真理が反応する」
「春斗が言うからでしょ!」
四人で食堂へ入った。
昼の食堂はいつも通り混んでいて、トレーを持った生徒たちが席を探し、椅子を引く音や笑い声があちこちで重なっている。私たちは少し奥の四人席を見つけ、それぞれ昼食を広げた。
「で」
愛ちゃんが箸を取りながら言う。
「文化祭の予定」
「また?」
「まだ当番決まってないじゃん」
「でも決められることあるよ」
「何」
「写真」
胸が少しだけ動く。
春斗も反応した。
「二人で撮るんでしょ?」
「……うん」
私が答えると、石井さんが春斗を見る。
「お前ら、今まで二人の写真ないの?」
「ある」
春斗が答える。
「でも少ない」
「幼馴染なのに?」
「家族一緒とか学校行事とかならあるけど」
私も説明する。
「二人だけって、意外と少ない」
「付き合う前はわざわざ撮らないか」
愛ちゃんが少し納得したように頷く。
「じゃあ文化祭でちゃんと撮りなよ」
「うん」
「衣装で」
「それは……」
私が止まると、愛ちゃんがにやりと笑った。
「真理がエプロン。春くんが射的の係なら、何か法被とか着るかも」
「法被?」
春斗が自分の服を想像するように首を傾げる。
「縁日っぽいならあるかもな」
石井さんまで乗ってくる。
私の頭の中に、春斗の法被姿が一瞬浮かんだ。
制服とは違う格好。
少しだけ祭りっぽくて。
たぶん似合う。
「……見たい」
気づいたときには口から出ていた。
三人が一斉に止まる。
「何」
私は三人を見る。
「何で止まるの」
春斗の耳が赤くなっている。
「真理」
「何」
「最近、本当に自分から言う」
「だって見たいから」
言ってから、さらに恥ずかしくなる。
でも、もう言った。
愛ちゃんが嬉しそうに笑った。
「いいじゃん。真理、ちゃんと彼女してる」
「何その言い方」
「前は春くんが何着るかなんて、こんなに気にしてなかったでしょ」
少し考える。
確かに、格好いいと思うことはあったかもしれない。
でも。
見たい。
似合いそう。
そういう気持ちを、本人へ言葉にしたことはなかった。
「春斗」
「何?」
「法被じゃなくても」
「うん」
「文化祭の係の格好、見せて」
春斗が少し笑った。
「うん」
「写真も」
「撮る」
「二人の」
「うん」
何度目か分からない確認。
でも。
今度は愛ちゃんが勢いよく手を上げた。
「はい」
「何?」
「その写真、私が撮る」
「え」
「二人で撮るなら誰か必要でしょ」
「スマホ立てるとかでも」
「私が撮る」
「何でそんなに強いの」
「親友特権」
石井さんも面白そうに笑った。
「じゃあ俺、春斗のスマホ担当」
「いらない」
「冷たいな」
「愛一人で足りる」
「じゃあ俺はポーズ指定」
「もっといらない」
四人で笑う。
でも。
少しだけ。
本当にいいかもしれないと思った。
愛ちゃんが撮ってくれる。
私と春斗。
二人の写真。
恋人になって初めての文化祭。
たぶん、ずっと残る一枚になる。
◇
六時間目。
教室の空気は、普通の授業より明らかに浮ついていた。
担任が黒板の前に立ち、昨日残った三つの候補を指す。
「今日は正式に決める。多数決でいいな?」
反対の声はほとんど出なかった。
まず、喫茶。
手が上がる。
私は少しだけ迷った。
春斗が来るとか。
エプロンとか。
そういうことを全部抜きにして考えても、準備や当日の運営は現実的だと思う。
だから。
私も手を上げた。
次にお化け屋敷。
そのあと縁日。
先生が人数を数えていく間、教室の声が少しずつ小さくなった。
「喫茶、十六」
小さなどよめきが起こる。
「お化け屋敷、十一。縁日、八」
先生は一度黒板を見てから、教室へ向き直った。
「じゃあ、喫茶で決定」
その瞬間、教室のあちこちから声が上がった。
「よっしゃ!」
「準備楽!」
「いや絶対楽じゃない!」
「メニューどうする?」
「エプロン!」
「そこから!?」
私は黒板へ大きく残された『喫茶』の文字を見る。
決まった。
ということは。
春斗が来る。
たぶん、本当に。
私を見に来る。
「真理」
愛ちゃんが隣から呼ぶ。
「何」
「決まったね」
「うん」
「春くん」
「言わなくていい」
「まだ何も言ってない」
「絶対言う」
愛ちゃんが笑う。
先生はそのまま黒板へ新しい項目を書き足していった。
メニュー。
装飾。
衣装。
係。
「今日は大まかな方向だけ決めるぞ。まず、飲み物中心にするか、軽食まで出すか」
「焼きそば!」
男子の一人が声を上げる。
「喫茶じゃない!」
女子側からすぐに突っ込みが飛び、教室が笑いに包まれた。
「ケーキとかは?」
「調理できるの?」
「仕入れなら?」
「飲み物だけだとちょっと弱くない?」
「トーストくらいなら?」
「学校側の許可いるだろ」
教室の空気が一気に文化祭らしくなる。
さっきまで企画候補だったものが、今はもう「どう作るか」を考える段階へ進んでいる。
私はそのやり取りを聞きながら、少しずつ楽しくなっていた。
恋人との文化祭。
もちろん、それも楽しみだ。
春斗と一緒に回りたい。
二人で写真を撮りたい。
春斗のクラスにも行きたい。
でも、それだけではない。
この教室でみんなと何かを作ることも。
ちゃんと楽しそうだった。
少し前まで。
私は恋愛のことで頭がいっぱいだった。
竹下くんが好きで。
どうすれば近づけるのか。
相手がどう思っているのか。
その相談を春斗へして。
そればかり考えていた。
今は、春斗と付き合っている。
恋愛はむしろ、あの頃よりずっと近くにある。
手を繋ぐ。
抱き締めてもらう。
キスもする。
それでも不思議と、毎日が恋愛だけになったわけではない。
授業がある。
友達がいる。
竹下くんとも、少しずつ新しい距離を作っている。
文化祭も始まる。
その全部の中に。
恋人になった春斗がいる。
その感じが。
私は少し好きだった。
「次、衣装」
先生が黒板の別の欄へ丸をつける。
教室がまたざわついた。
「全員同じエプロンでよくない?」
「色どうする?」
「男子も?」
「男子も」
「メイド服!」
「却下!」
女子の声が綺麗に揃い、また大きな笑いが起きる。
山口くんが手を上げた。
「女子だけちょっと可愛いエプロンとか」
「男子も可愛いの着れば?」
「嫌だ!」
「じゃあ黙れ!」
さらに笑いが広がった。
愛ちゃんが私の方へ少し身を寄せる。
「真理」
「何」
「エプロンは確定っぽい」
「うん」
「春くん」
「分かってる!」
思わず声が少し大きくなった。
前の席の女子が振り返る。
「久保、彼氏来るんだっけ?」
「……うん」
「じゃあ衣装ちゃんとした方がいいね」
「何で私基準なの!?」
「彼氏に可愛いって言われたいでしょ?」
今度は。
私の周りだけ。
一瞬静かになった。
何人かがこっちを見る。
愛ちゃんは完全に笑っている。
顔が熱い。
「別に……」
否定しかける。
でも。
途中で止まった。
本当に?
春斗に可愛いと言われたいか。
言われたくないか。
恥ずかしい。
絶対に顔は赤くなる。
でも。
言われたら。
たぶんすごく嬉しい。
「……少し」
答えた。
周囲から一斉に声が上がった。
「久保素直!」
「付き合ってから変わった!」
「青春だー」
「もう!」
机へ顔を伏せそうになった。
でも。
逃げなかった。
愛ちゃんが笑いながら、私の肩へ軽く触れる。
「いいじゃん」
「恥ずかしい」
「でも本当なんでしょ」
「……うん」
もう一度。
今度は小さく認める。
春斗に可愛いと思ってほしい。
彼氏だから。
それは。
たぶん、何も変なことではない。
◇
放課後。
教室を出てすぐ、私は春斗へメッセージを送った。
『決まった』
ほとんど待たずに返事が来る。
『何』
『喫茶』
既読。
数秒。
『エプロン?』
「本当にそこ……」
廊下を歩きながら思わず笑ってしまった。
『たぶん』
『見に行く』
『知ってる』
『絶対』
『怖い』
『何で』
『見られるの恥ずかしい』
少し間が空いた。
『でも見たい』
何を。
私のエプロン姿。
そういう意味。
もう分かる。
『春斗』
『何』
『私も』
『何が』
『春斗の文化祭の格好見たい』
送った。
既読はついた。
でも返事が来ない。
十秒。
二十秒。
『春斗?』
ようやく届いた。
『今かなり嬉しい』
私は廊下の真ん中で少し笑ってしまった。
『そればっかり』
『本当だから』
そのあとすぐに。
『昇降口』
と来る。
私は少しだけ歩く速度を速めた。
◇
昇降口へ着くと、春斗はすでに待っていた。
「お疲れ」
「お疲れ」
「喫茶」
「決まった」
「エプロン」
「まだ色も形も決まってない」
「見たい」
「朝から何回目?」
「分からない」
春斗が笑う。
「こっちは?」
「ゲーム」
「決まった?」
「うん」
「何?」
「射的と輪投げ両方」
「二つ?」
「教室を分けるか、時間で分けるか考えるらしい」
「春斗は?」
「係まだ。でもたぶんどっちかやる」
「見に行く」
私もすぐ言った。
春斗の表情が少し柔らかくなる。
「真理」
「何」
「今日、本当に言う」
「何を」
「見たいって」
「だって見たい」
前なら。
ここで恥ずかしくなって。
忘れて。
と言ったと思う。
でも。
今日は言わない。
春斗が嬉しそうにしているから。
「春斗」
「何?」
「文化祭」
「うん」
「私のクラス来たら」
「うん」
少し迷う。
でも。
言う。
「最初に私見つけて」
春斗の動きが止まった。
「真理」
「何」
「それ」
「言った」
「うん」
「約束」
私が先に言った。
春斗は数秒、何も言わずに私を見る。
それから。
少しだけ笑った。
「絶対見つける」
胸が温かくなる。
「うん」
「真理も」
「何」
「俺のクラス来たら」
「うん」
「俺探して」
「探す」
「すぐ?」
「すぐ」
今度は春斗が少し嬉しそうに笑った。
たったそれだけの約束。
でも。
文化祭がまた一つ。
二人のものになった。
◇
学校を出てしばらく歩き、住宅街へ入る。
下校中の生徒が少なくなったところで、今日は春斗の方から右手を少し差し出してきた。
「真理」
「何?」
「手」
昨日までは私から。
今日は春斗から。
私は迷わずその手を取った。
「うん」
指が絡む。
それだけで、学校の中にいた時間から、二人の帰り道へ切り替わったような気がした。
「春斗」
「何?」
「今日さ」
「うん」
「クラスで、彼氏に可愛いって言われたいでしょって言われた」
春斗の歩く速度が少しだけ遅くなる。
「何て答えた?」
聞くと思った。
顔が熱い。
でも。
「……少し」
「真理」
「何」
「それ」
「言わないで」
「まだ何も言ってない」
「かなりって言うでしょ」
「言おうとした」
「やっぱり!」
春斗が笑う。
私も少し笑った。
「でも」
春斗が続ける。
「可愛いって言うと思う」
「まだ見てない」
「真理だから」
「またそれ」
「本当」
胸が温かい。
でも。
私も少しだけ意地悪したくなった。
「じゃあ」
「うん」
「春斗が文化祭で何か着て」
「うん」
「格好よかったら」
そこで少し言葉が止まる。
春斗は急かさずに待っている。
「私も言う」
春斗が完全に足を止めた。
「真理」
「何」
「今」
「言った」
「格好いいって?」
「格好よかったら」
「条件ついてる」
「まだ見てないから」
「じゃあ頑張る」
「何を」
「格好よくする」
私は笑った。
「頑張りすぎないで」
「真理が見る」
「うん」
「なら頑張る」
その言葉。
少し嬉しい。
私が春斗に可愛いと思ってほしいのと。
春斗が私に格好いいと思われたいのと。
たぶん。
同じなのだと思う。
◇
母との待ち合わせまでは、まだ十分以上あった。
今日は遠回りするほどではないけれど、昨日も通った小さな公園の近くを通る道へ入った。
その景色を見た瞬間。
昨日のことを思い出す。
この辺りで。
春斗とキスを二回した。
最初の一回だけではなく。
私の方から「もう一回」と言った。
それを思い出すと、やっぱり少し顔が熱くなる。
隣を見ると、春斗もほんの少し歩く速度を落としていた。
「春斗」
「何?」
「今、思い出した?」
「何を」
「昨日」
春斗が少し笑う。
「うん」
「私も」
もう。
毎回「キス」という言葉を口にしなくても、お互い分かる。
「今日」
春斗が少しだけ声を落とした。
「うん」
「どうする?」
何を聞かれているのか。
分かる。
私は周囲を見る。
夕方の公園には、まだ子どもが何人か遊んでいる。少し離れたベンチには親らしい人が座っていて、今いる道にも時々人が通る。
「ここではしない」
「うん」
春斗はすぐ受け取った。
でも。
私は少しだけ続ける。
「今日は」
「うん」
「しなくてもいい」
春斗がこちらを見る。
「嫌?」
「違う」
私は繋いだ手へ視線を落とした。
「昨日したから」
「うん」
「今日も絶対しないと嫌とかじゃない」
「うん」
「手繋いで」
その手を少しだけ握る。
「話して」
「うん」
「それでいい」
春斗の表情が少し柔らかくなる。
「俺も」
「本当?」
「うん」
そこで。
余計なことを聞いてしまった。
「したくない?」
聞いた直後。
何でそんなこと聞くの。
と自分で思う。
春斗は少しだけ笑った。
「したい」
即答だった。
顔が熱くなる。
「でも」
春斗はそのまま、少し真面目な声で続けた。
「真理が今日はここまでって言うなら、ここまで」
胸がゆっくり温かくなる。
「うん」
「次」
「うん」
「また聞く」
「うん」
それでいい。
毎日進まなくても。
毎日キスしなくても。
昨日より何か一つ増えなくても。
恋人なのは変わらない。
そのことを、私たちは何度か確かめてきた。
だから今日は。
手を繋いで帰るだけでも。
十分だった。
◇
歩きながら、私は春斗へ今日のホームルームの話をした。
喫茶が正式に決まったこと。
飲み物と簡単な軽食を出す案が出ていること。
衣装は全員エプロンになりそうなこと。
係は明日以降決めること。
「真理何やる?」
「まだ分からない」
「接客?」
「だからまだ」
「接客して」
「何で」
「見たい」
「春斗」
「何」
「そればっかり」
「だって」
春斗が少しだけ笑う。
「真理が俺の席まで注文取りに来たら」
そこで。
想像してしまう。
文化祭。
春斗。
客。
私。
エプロン。
春斗の席へ行って。
注文を聞く。
「無理」
「まだ何も言ってない」
「分かる」
「注文するだけ」
「それが無理」
「何で」
反射的に答えた。
「春斗だから」
一瞬。
春斗が黙る。
私も少し遅れて、自分が何を言ったのか気づいた。
「……今の」
「覚える」
「早い」
「忘れてって言う前に」
「もう」
でも。
昨日。
私は自分から言った。
覚えてていい。
恥ずかしくても。
春斗が喜ぶ言葉まで全部消さなくていい。
だから。
「……覚えてていい」
今度は自分から言い直した。
春斗が少し目を見開く。
「真理」
「何」
「最近、本当に変わった」
「悪い?」
「逆」
春斗が繋いだ手へ少し力を入れた。
「嬉しい」
「知ってる」
「かなり」
「それも知ってる」
二人で笑った。
◇
待ち合わせ場所が近づく。
母の車はまだ来ていない。
あと数分。
「春斗」
「何?」
「文化祭」
「うん」
「私が接客だったら」
「うん」
「来る?」
「行く」
「何注文する?」
「コーヒー」
「やっぱり」
「あと」
「何?」
「真理おすすめ」
胸が少し鳴った。
「何それ」
「真理が好きなの」
「文化祭のメニューの中で?」
「うん」
「じゃあ、決まったら教える」
「約束」
「うん」
少しだけ。
想像する。
春斗が私の教室へ来る。
私が春斗を見つける。
春斗は一番最初に私を探す。
私がエプロンを着ていて。
春斗がコーヒーを頼んで。
私は自分のおすすめを教える。
そのあと。
二人で文化祭を回る。
写真を撮る。
友達とも合流する。
春斗のクラスにも行く。
「真理」
「何?」
「笑ってる」
「春斗も」
「文化祭?」
「うん」
「俺も」
そのとき、遠くに母の車が見えた。
私は春斗の手を離す。
でも。
今日は離す前に一度だけ、少し強く握った。
春斗も握り返す。
「また明日」
「うん」
「まだ帰ってないけど」
「でも」
「うん」
私は少しだけ春斗を見る。
「また明日も彼氏?」
自分から聞いた。
春斗が少し笑う。
「彼氏」
「うん」
「真理は?」
「彼女」
前より。
ずっと自然に言えた。
春斗の表情が柔らかくなる。
「うん」
◇
母の車へ乗ると、いつものように春斗が隣へ座った。
「お疲れ」
「お疲れ」
「ありがとうございます」
母が車を出す。
「文化祭、何か決まった?」
「喫茶」
私が答える。
「へえ。真理、接客するの?」
「まだ分からない」
「春斗くんは?」
「ゲームになりました」
「何するの?」
「射的と輪投げです」
「楽しそう」
母がバックミラー越しに少し笑う。
「お互い見に行くんでしょう?」
「……うん」
私が答える。
「はい」
春斗も答えた。
「写真も撮る?」
私は思わず母を見る。
「何で分かるの」
「文化祭なら撮るかなって」
「……撮る」
「二人で?」
「お母さん」
「聞いただけ」
「撮るけど」
答えた。
自分でも少し驚く。
母も一瞬だけ何も言わなかった。
それから。
「いいじゃない」
普通に言った。
「うん」
「今度見せてね」
「それは考える」
「何で」
「二人のだから」
口から自然に出た。
春斗が隣で少しだけ動く。
母もバックミラー越しに目を細めた。
「そっか」
それだけ。
追及しない。
少し。
嬉しかった。
二人の写真。
もちろん愛ちゃんが撮ってくれるかもしれない。
その場にクラスメイトがいるかもしれない。
母にも、いつか普通に見せるかもしれない。
でも。
最初に。
私と春斗が。
二人で残したいと思って撮る写真。
それでいい。
私は窓の外へ目を向けた。
今日。
文化祭のクラス企画が決まった。
喫茶。
ただそれだけ。
それなのに。
そこから。
春斗が私を見に来る。
私も春斗を見に行く。
衣装。
写真。
おすすめのメニュー。
二人で回る時間。
どんどん約束が増えていく。
少し前の私は。
好きな人へどう近づけばいいかを春斗へ相談していた。
春斗は相談相手だった。
幼馴染だった。
好きな人の話を一番聞いてくれる人だった。
今は。
文化祭で一番最初に私を見つけてほしい相手が。
春斗になっている。
自分でも不思議だった。
でも。
もう間違えない。
私は隣へ顔を向けた。
ちょうど春斗もこちらを見た。
「何?」
小さな声で聞かれる。
「何でもない」
「真理」
「何」
「今、何か考えた」
「うん」
「何?」
少しだけ迷う。
でも。
今日は言う。
「文化祭」
「うん」
「春斗に、一番最初に見つけてほしいって」
春斗が黙った。
顔が少し赤くなる。
私も。
言ったあとで頬が熱い。
でも。
忘れて。
とは言わない。
「だから」
私は続ける。
「ちゃんと来てね」
春斗は数秒私を見つめてから、小さく笑った。
「行く」
「うん」
「絶対見つける」
「うん」
「一番最初に」
胸の奥が温かくなる。
「約束」
「約束」
前から母の声がした。
「文化祭の約束?」
「そう!」
私はすぐ答えた。
今度は。
嘘ではない。
本当に文化祭の約束だった。
ただ。
母が思っているより。
私にとっては。
ずっと大事な約束。
クラス企画が決まっただけの木曜日。
それなのに。
春斗と迎える文化祭が。
昨日よりさらに。
楽しみになっていた。




