第49話 初キスをしたあとで学校へ戻ったら、幼馴染だった頃と同じ顔で彼氏を見ることができませんでした
月曜日の朝。
目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました私は、薄明るくなり始めた天井を見上げたまま、しばらく布団から出ることができなかった。
眠いわけではない。むしろ頭は妙に冴えていて、昨日までの出来事が目を閉じなくても次々と浮かんでくる。
土曜日は春斗との初めての正式なデートだった。
岩瀬駅で待ち合わせをして、木下書房へ行って、春斗がずっと私を好きだった頃の話を店主さんから聞いた。水戸へ移動して昼食を食べ、昔の私が書いた作文まで見つけて、お揃いのブックマーカーも買った。
そして、公園のベンチで。
『キスしていい?』
春斗にそう聞かれて。
私は、自分で「していいよ」と答えた。
「……」
そこまで思い出したところで、無意識に布団を鼻の辺りまで引き上げた。
昨日は昨日で、春斗と近所を散歩して、公園で本を読み、コンビニで買った昼食を並んで食べただけだった。土曜日と比べれば、本当に何も起きていない。
キスもしなかったし、抱き締めてもらったわけでもない。
でも、昨日もう一度会えたことには意味があった。
土曜日に初めてキスをして、そのまま次に会うまで何日も空いていたら、私は今日よりもっと春斗の顔を見られなくなっていたかもしれない。
昨日は恥ずかしくても会えた。
手を繋げた。
普通に笑えた。
春斗の唇を意識してしまったことまで、最後には少しだけ話せた。
だから。
今日も大丈夫。
制服を着て学校へ行けば、きっといつもの日常へ戻れる。
「……戻れる?」
自分で呟いてしまった。
昨日、春斗とは何度も「学校では普通にしよう」と話した。
付き合っていることは隠さない。
でも、周囲へ見せつけるようなこともしない。
校内で手を繋いだりはしないし、竹下くんの前でわざと恋人らしいことをするつもりもない。
それなら、表面だけ見れば今までと大きく違わないはずだ。
朝に会って。
学校へ行って。
昼休みに顔を合わせて。
放課後に帰る。
何年も繰り返してきたことだった。
問題は。
春斗の顔を見た瞬間、土曜日のことを思い出す可能性が高いことだ。
「……普通って、何だろう」
最近、この言葉ばかり考えている気がする。
恋人として普通。
学校で普通。
幼馴染だった頃と同じように普通。
けれど、たぶん全部同じ意味ではない。
枕元のスマートフォンへ手を伸ばす。
午前六時十一分。
そして、もう通知が一件届いていた。
春斗。
『起きた?』
「早い」
思わず笑った。
昨日も休みなのに早起きしていたけれど、今日は学校があるとはいえ、私が目を覚ますより先に連絡してくるとは思わなかった。
『今起きた』
送る。
すぐに既読がついた。
『おはよう』
『おはよう』
少しだけ間が空く。
『今日』
『学校』
『うん』
『緊張する』
私は画面を二度見した。
春斗から先に「緊張する」と言われるとは思わなかった。
『春斗も?』
『する』
『何で』
既読がついてから数秒。
返事を待つ間に、嫌な予感がする。
嫌というより。
分かってしまう予感。
『真理見たら思い出しそう』
やっぱり。
『何を』
分かっているのに、私は聞いた。
少しして。
『キス』
「……朝から言わないでよ」
誰もいない部屋でそう呟きながら、私は枕へ顔を伏せた。
まだ一日が始まったばかりなのに。
『学校行く前に言わないで』
『真理昨日自分から言った』
『それは昨日』
『今日は駄目?』
『駄目』
『分かった』
よかった。
終わった。
そう思った直後。
『でも思い出す』
「春斗……!」
思わず声が出た。
『春斗』
『何』
『私もだから言わないで』
送ったあとで、自分から認めてしまったことへ気づく。
でも、もう既読はついている。
『うん』
少しして。
『二人で赤くなる』
昨日、別れ際に私が言った言葉だった。
『最悪』
『愛にバレる』
『絶対』
『石井にも』
『たぶん』
そこで私は指を止めた。
もう一人。
避けては通れない人がいる。
『竹下くんには』
送る。
既読。
春斗の返事は、さっきまでより少し遅かった。
『見せつけない』
短い言葉だった。
でも、それで十分だった。
『うん』
『でも隠さない』
『うん』
私も同じ気持ちだった。
竹下くんが私への気持ちを完全に整理できたわけではないことを、私は知っている。
春斗も知っている。
だから、わざと傷つけるようなことはしたくない。
でも、竹下くんへ気を遣うために春斗との関係を隠したり、恋人ではないように振る舞ったりするのも違うと思う。
その間をどうすればいいのか。
今日から少しずつ探していくしかない。
『真理』
『何』
『今日も彼氏だから』
胸の奥がきゅっと縮まった。
土曜の夜にも聞いた。
昨日も聞いた。
何度も何度も確認した。
それでも。
まだ嬉しい。
『分かってる』
『本当に?』
『春斗』
『何』
私は少し迷ってから、文字を打った。
『私も彼女だから』
送信。
既読。
返事が来ない。
十秒。
二十秒。
『春斗?』
ようやく。
『今かなり無理』
私は吹き出した。
『朝から?』
『真理が悪い』
『何で』
『彼女って自分から言うから』
『本当でしょ』
『うん』
たったそれだけなのに。
胸が少し軽くなる。
『じゃあ後で』
『迎え行く』
『うん』
『真理』
『何』
『逃げるなよ』
『春斗も』
スマートフォンを枕元へ置く。
深く息を吸って。
吐いた。
今日。
学校へ戻る。
幼馴染だった頃から何度も一緒に過ごしてきた場所へ。
でも今は。
春斗は私の彼氏で。
私は春斗の彼女だ。
そして土曜日、初めてキスをした。
今のところ。
それを知っているのは。
私と春斗だけだった。
◇
午前七時二十分。
朝食を終えて制服へ着替え、鞄を持って一階へ降りると、母が玄関の近くで車の鍵を確認していた。
「今日はうちの車だよ」
「うん」
「春斗くん、もうそろそろ来るんじゃない?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いつも通りなら」
そう答えながら、私は自分で使った「いつも通り」という言葉に少しだけ緊張した。
春斗が家へ来る。
私の母がいる。
二人で後部座席へ座る。
それだけなら、今まで何百回もやってきた。
でも。
初めてキスをしたあとで。
春斗が家へ迎えに来るのは。
今日が初めてだった。
そう思った瞬間。
玄関のチャイムが鳴った。
身体が僅かに固まる。
母がすぐこちらを見る。
「来たんじゃない?」
「うん」
「出ないの?」
「出るよ」
「顔赤いけど大丈夫?」
「まだ何もしてない!」
反射的に言うと、母の眉が僅かに上がった。
「まだ?」
「そういう意味じゃない!」
「何も言ってないけど」
「顔が言ってる!」
母は明らかに笑いを堪えている。
「お母さん」
「何?」
「今日、変なこと言わないでね」
「変なことって何?」
「何でも」
「難しい注文ね」
「普通にして」
「お母さんはいつも普通だよ」
「嘘」
またチャイムが鳴る。
「ほら。春斗くん待ってる」
「分かってる」
私は靴を履き、覚悟を決めて玄関の扉を開けた。
「おはよう」
春斗が立っていた。
制服姿。
見慣れている。
昨日も一昨日も私服だったから、むしろ今日は昔から知っている春斗へ戻ったように見えるはずだった。
なのに。
目が合った瞬間。
水戸の公園。
木陰。
ベンチ。
春斗が近づいてきたときの顔。
全部が、一度に蘇った。
「……」
私は固まった。
春斗も一瞬動きを止めた。
耳が少し赤い。
たぶん。
私も同じくらい赤い。
「……おはよう」
春斗が、もう一度言った。
「おはよう」
何とか返す。
その直後。
「二人とも、朝から何してるの?」
背後から母の声が飛んできた。
「何でもない!」
「何でもないです」
私と春斗の声が綺麗に重なった。
母が数秒黙る。
「そう」
短い返事。
でも。
絶対に笑っている。
「行くよ」
私は逃げるように玄関を出た。
◇
車の後部座席。
私が左。
春斗が右。
いつもの位置だった。
距離も今までとほとんど変わらない。大人一人が入れるほどの隙間もなく、車が曲がるたびに制服の袖が軽く触れる。
これまでは何とも思わなかった。
今朝は。
その僅かな接触にまで意識が向いてしまう。
春斗も同じなのか、普段より明らかに静かだった。
「二人とも」
運転席から母の声がする。
「昨日も会ったんだよね?」
「うん」
「はい」
「その前の日も一日一緒?」
「うん」
「そうです」
「二日連続で会って、昨日の夜も連絡してたんでしょう?」
「……うん」
そこまで見られているのか。
母はバックミラー越しに私たちを見た。
「それなのに、今朝会った瞬間に二人ともあんなに緊張するの?」
来た。
私は反射的に春斗を見た。
そして。
見なければよかったと思った。
目が合っただけで、また思い出した。
春斗も同時に視線を逸らす。
「分かりやすいなあ」
母が呆れたような、それでいて楽しそうな声を出した。
「何が」
「何かあったでしょう」
「ない」
私は即答した。
春斗は黙っている。
嫌な予感。
「春斗くん?」
「俺に振らないでください」
「春斗!」
「何も言ってないだろ」
「今の言い方が怪しい!」
母が声を上げて笑った。
「まあ、いいけど」
「本当に?」
「二人の話でしょう?」
母の声が少しだけ柔らかくなる。
「ただね」
バックミラーに映る表情も、さっきまでより真面目だった。
「相手が嫌がることだけはしないこと。片方だけが我慢したり、断れなくて流されたりするのは駄目だからね」
私は少しだけ息を止めた。
土曜日。
春斗はちゃんと聞いてくれた。
『キスしていい?』
私が答えるまで待ってくれた。
昨日も。
次も聞く。
勝手にしない。
そう言ってくれた。
「大丈夫」
私は答えた。
春斗も、少し間を置いてから頷く。
「大丈夫です」
「ならいい」
母はそれ以上聞かなかった。
前へ視線を戻し、車内には道路を走る音だけが残る。
少しだけ。
気持ちが楽になった。
私は窓の外へ視線を向けながら、膝の横に置いた右手を見る。
学校まで。
春斗と手を繋ぎたい。
そんなことを、一瞬だけ考えた。
でも、母がいる。
さすがに無理。
そう思ったとき。
視界の端で。
春斗の左手の指先がほんの少し動いた。
膝の上。
私側へ。
数センチだけ近づく。
顔は前を向いたままだ。
もしかして。
同じことを考えている?
私は迷った。
そして。
自分の右手を、ほんの少しだけ春斗側へ寄せた。
小指が触れる。
春斗の指が一瞬だけ動いた。
それから。
小指同士が。
軽く絡んだ。
手を繋いでいるとは言えない。
母がバックミラーを見ても、たぶん分からない。
でも。
胸の奥が温かくなるには十分だった。
「真理」
春斗が前を向いたまま、小さな声で言う。
「何」
「これ、学校着いたら離す?」
「当たり前でしょ」
「うん」
「でも」
私は自分の小指を少しだけ絡め直した。
「今だけ」
春斗の口元が少し緩む。
「うん」
小指だけを繋いだまま。
私たちは学校へ向かった。
◇
梅桜高校の校門が見えてくると、一気に現実へ引き戻された。
自転車で登校する生徒。
校門前で挨拶をしている先生。
友達同士で歩く制服姿の生徒たち。
いつもの月曜日の朝だった。
母の車が送迎スペースへ入る。
「着いたよ」
「うん」
私は春斗の小指から自分の指を離した。
ほんの小さな接触だったのに。
なくなると。
少しだけ寂しい。
春斗も同じなのか、手を膝へ戻す前に一瞬だけ私を見た。
「行ってきます」
「行ってきます」
私と春斗が車を降りる。
すると、母が窓を少し下げた。
「真理」
「何?」
「今日は春斗くんの顔、見すぎないようにね」
「お母さん!」
近くを歩いていた女子生徒二人がこちらを見た。
しかも少し笑っている。
「もう!」
「行ってらっしゃい」
母は満足そうに車を出した。
隣を見ると。
春斗が肩を震わせている。
「笑わないで」
「ごめん」
「絶対笑ってる」
「かなり」
「春斗!」
「真理の母さん強い」
「昔から!」
言い合いながら校舎へ向かう。
手は繋がない。
昨日までのように肩を寄せることもしない。
学校の中では。
これが普通。
なのに。
「春斗」
「何?」
「変な感じ」
「俺も」
「昨日までずっと手繋いでたからかな」
「うん」
「繋がないだけで、ちょっと遠い」
言ってから。
しまったと思った。
春斗が私を見る。
「真理」
「何」
「それ、かなり大きい」
「言わなくていい」
「でも嬉しい」
「学校!」
「分かってる」
春斗は小さく笑い、それ以上近づいてこなかった。
「昼、会う?」
「うん」
「どこにする?」
「食堂でいいんじゃない?」
「愛も来そう」
「石井も」
「二人だけにはならないね」
「学校だからな」
「うん」
少しだけ寂しい。
でも。
それでいい。
付き合ったからといって。
学校生活まで二人だけのものにはならない。
「食堂にしよう」
「うん」
「隠さない」
「見せつけない」
二人で確認する。
昨日までは言葉だけだった。
今日から。
本当にそれをやっていく。
◇
昇降口で上履きへ履き替えたあと、私と春斗は途中で別れることになった。
私は商業棟。
春斗は特進棟。
いつものことだ。
何年も前から。
それなのに。
今日は少しだけ名残惜しい。
「じゃあ昼」
春斗が言う。
「うん」
「真理」
「何?」
春斗は一度周囲を確認した。
近くには普通に生徒がいる。
上履きを履き替える男子。
友達を待っている女子。
誰も私たちを注目しているわけではない。
それでも春斗は、私にしか聞こえないくらい声を落とした。
「好き」
顔が一気に熱くなる。
「春斗!」
「小声」
「学校!」
「だから小声」
「そういう問題じゃない」
「でも」
春斗は少し照れたように笑った。
「朝からまだ言ってなかった」
胸が。
温かい。
「……私も」
小さく言う。
「何?」
「言わせないで」
「聞こえない」
「春斗」
「何」
私は一度周囲を確認し。
頑張って春斗を見る。
「私も好き」
今度は春斗が止まった。
分かりやすく。
耳まで赤くなる。
少しだけ。
仕返しできた気がした。
「じゃあ昼」
「……うん」
春斗と離れ、それぞれの教室へ向かう。
数歩進んで。
何となく振り返った。
春斗も同じタイミングで振り返っていた。
目が合う。
その瞬間。
また。
土曜日の公園が浮かんだ。
春斗も同じなのか。
少し顔が赤くなる。
私も。
たぶん同じ。
「……」
耐えられなくなって前を向いた。
でも。
少し笑ってしまった。
◇
教室へ入った瞬間。
愛ちゃんと目が合った。
そして。
愛ちゃんの目が細くなった。
「真理」
「何?」
「こっち」
「何で」
「いいから」
まだ始業までは少し時間があり、教室には半分ほどの生徒しかいなかった。
私は自分の席へ鞄を置いてから、愛ちゃんの机へ向かう。
愛ちゃんは私が近づくと、顔から足元までじっくり確認した。
「何?」
「土曜日」
「うん」
「デート」
「うん」
「日曜日」
「会った」
「うん」
「今日」
「学校」
「当たり前」
「で」
「何」
「何した?」
「何も」
「嘘」
「昨日は本当に何もしてない」
言った瞬間。
失敗した。
愛ちゃんの眉が上がる。
「昨日は?」
「……」
「真理」
「何」
「土曜日、何かあった?」
何も言わない。
でも。
顔に出ている。
愛ちゃんは少し身を乗り出した。
「手繋いだ?」
「それは前から」
「抱き締めた?」
「……うん」
「それも前あったよね」
「うん」
愛ちゃんは数秒黙った。
私の顔をじっと見る。
そして。
周囲へ聞こえないくらい小さな声で。
「……キス?」
心臓が跳ねた。
それだけで。
たぶん答えになった。
愛ちゃんが両手で口元を覆う。
「え……」
「言わないで!」
私も声を落とし、慌てて愛ちゃんへ近づいた。
近くにいた女子が一瞬こちらを見る。
愛ちゃんも気づいたらしく、さらに声を小さくする。
「したの?」
「……」
「真理」
「……した」
認めた瞬間。
愛ちゃんの手が机を叩きかけて。
寸前で止まった。
「えええ……!」
声を押さえているのに。
表情が全力だった。
「いつ?」
「土曜日」
「初デートの日?」
「うん」
「春くんから?」
「……うん。でも」
「でも?」
「ちゃんと聞いてくれた」
愛ちゃんの表情が少し変わる。
「聞いた?」
「うん」
「キスしていいって?」
「……うん」
「真理は?」
「いいって言った」
顔が熱い。
自分の口から話すと、土曜日とは別の恥ずかしさがある。
愛ちゃんは数秒黙ってから。
思っていたよりずっと優しい顔になった。
「そっか」
「うん」
「よかったじゃん」
「……うん」
「ちゃんと真理が決めたんだ」
「うん」
「ならよかった」
胸の奥が少し落ち着く。
愛ちゃんはもう一度だけ小さく笑った。
「春くん、ちゃんと聞いたんだ」
「うん」
「そこは偉い」
「何目線なの」
「親友」
「上から」
「だって真理、相手のこと考えすぎて、自分が嫌かどうか後回しにすることあるでしょう」
「……否定しづらい」
「でも今回は、自分でいいって言ったんだよね」
「うん」
私は少しだけ土曜日を思い出した。
緊張した春斗の顔。
待ってくれた時間。
自分で「していい」と言った瞬間。
「したかった?」
愛ちゃんが聞く。
私は少し迷った。
でも。
「……うん」
小さく答えた。
愛ちゃんが柔らかく笑う。
「なら、本当によかった」
「うん」
そのあと。
少し間を置いて。
愛ちゃんの顔が急にいたずらっぽくなる。
「で?」
「何」
「どうだった?」
「言わない!」
「何で!」
「そこは春斗と私の話!」
「親友なのに!」
「関係ない!」
愛ちゃんが笑う。
私も顔が熱い。
でも。
少し嬉しかった。
誰かに話せた。
全部ではない。
それでも。
愛ちゃんが知ってくれたことで、少しだけ昨日までの出来事が現実になったような気がした。
「真理」
「何」
「今日、春くん見て平気?」
「無理」
「やっぱり」
「朝から何回か赤くなった」
「絶対見たい」
「やめて」
「昼一緒?」
「食堂」
「行く」
「何で」
「観察」
「嫌」
愛ちゃんは楽しそうだった。
私はため息をつく。
でも。
朝あれだけ緊張していた学校が。
少しだけ。
いつもの場所へ戻った気がした。
◇
一時間目。
二時間目。
授業は思っていたより普通に受けられた。
春斗は別棟だから姿が見えない。
そのおかげか。
キスを思い出す回数も減る。
とはいえ。
休み時間にスマートフォンを確認すると。
『大丈夫?』
春斗から届いていた。
『何が』
『学校』
『今のところ』
『愛にバレた?』
私は思わず画面を睨んだ。
『バレた』
『やっぱり』
『何で分かるの』
『真理』
『何』
『顔』
「みんなそればっかり……」
小さく呟く。
『春斗は?』
『石井』
『バレた?』
少しだけ間が空く。
『何かあったのは』
『キスは?』
『言ってない』
少し安心した。
愛ちゃんには自分で話した。
だからといって、学校中へ広めたいわけではない。
私と春斗だけのことまで、全部みんなへ知られる必要はないと思う。
『石井さん何て?』
『朝から俺が変だって』
『やっぱり』
『真理もだろ』
『うん』
そこは否定できない。
そして。
『昼』
『うん』
『食堂』
『愛ちゃん来る』
『石井も来そう』
『……』
春斗から点が三つ送られてくる。
『二人だけじゃない』
『学校だから』
『うん』
少しして。
『でも会える』
胸が少し温かくなる。
『うん』
それでいい。
学校だから。
二人だけではない。
でも。
春斗には会える。
◇
三時間目が終わったあと。
愛ちゃんと一緒に次の教室へ移動するため、廊下を歩いていた。
階段を曲がった先。
特進棟側から二人の男子が歩いてくる。
春斗。
その隣には石井さん。
二人で何か話していた。
そして。
春斗が私に気づく。
目が合った。
一瞬。
また。
土曜日の公園。
思い出す。
自分でも分かるくらい、頬が熱くなる。
春斗も。
僅かに顔が赤い。
「……分かりやす」
愛ちゃんが隣で呟いた。
「言わないで」
春斗たちが近づいてくる。
石井さんは、私と春斗を交互に見た。
「お前ら」
「何」
春斗が少し警戒した声を出す。
「いや」
石井さんが肩を竦めた。
「月曜の朝から青春してんなと思って」
「してない」
「してるだろ」
「何が」
「目が合っただけで二人とも赤い」
私はさらに顔が熱くなる。
「石井さん」
「何?」
「言わないでください」
「図星?」
「違います」
横では愛ちゃんが明らかに笑いを堪えている。
春斗は一度咳払いした。
「行くぞ」
「逃げた」
「移動教室」
「はいはい」
すれ違う直前。
春斗が私を見る。
「昼」
「うん」
たったそれだけ。
周囲にも何人か生徒がいる。
私たちが付き合っていること自体はすでに知られているから、特別大きな反応は起きない。
何だ。
少し。
安心した。
これが。
学校で付き合うということなのかもしれない。
何もかも隠すわけでもない。
ずっと恋人らしいことをするわけでもない。
ただ。
春斗とすれ違えば嬉しい。
昼に会う約束をする。
それくらい。
春斗たちとすれ違ったあと、私は前を向いて歩く。
「真理」
「何」
愛ちゃんの声。
「今、春くんの唇見た?」
「見てない!」
反射的に答えた。
愛ちゃんが笑う。
「見たんだ」
「見てない!」
絶対。
ほんの少しだけ。
見た。
◇
昼休み。
食堂はいつも通り生徒で賑わっていた。
私と愛ちゃんが先に席を確保し、少し遅れて春斗と石井さんが来る。
四人席。
私の向かいに春斗。
「……」
また。
土曜日のレストランを思い出した。
あの日も向かい合って座った。
あのときの春斗は。
まだキスをしたことのない人だった。
今は。
キスをした人。
「真理」
「何」
「また見てる」
「春斗も見てる」
「うん」
否定しない。
石井さんが箸を持ったまま、深いため息をついた。
「何なんだよ、お前ら」
「何が」
春斗が聞く。
「昨日何かあった?」
私は危うくむせかけた。
愛ちゃんも飲み物へ逃げる。
春斗だけが何とか平静を保ちながら、石井さんを見る。
「何で」
「何でって」
石井さんが呆れた顔をする。
「二人とも分かりやすすぎる。朝から何か変だぞ」
「普通」
「全然普通じゃねえ」
愛ちゃんが俯いて笑いを堪えている。
石井さんがすぐ気づいた。
「愛」
「何?」
「お前、何か知ってる?」
「知らない」
即答。
でも。
声が少し高い。
「絶対知ってるだろ」
「知らない」
「真理?」
「聞かないでください」
「それ答えじゃない」
私は春斗を見る。
春斗も困ったような顔をしていた。
でも。
少し笑っている。
「まあいいけど」
石井さんはそれ以上追及せず、箸を戻した。
「そのうち分かるだろ」
「分からなくていい」
「春斗」
「何」
「お前、何か余裕あるな」
「ない」
「あるだろ」
そのとき。
愛ちゃんが私の耳元へ顔を寄せた。
「春くん、キスした男の余裕?」
「愛ちゃん!」
反射的に声が大きくなった。
周囲の何人かがこちらを見る。
愛ちゃんはすぐに口を押さえた。
春斗は完全に固まっている。
石井さんも。
目を見開いた。
「……え?」
私は愛ちゃんを睨む。
「今の!」
「ごめん!」
愛ちゃんも本気で慌てていた。
かなり小声だった。
でも。
同じテーブルの石井さんには聞こえてしまった。
春斗の耳まで一気に赤くなる。
「お前ら」
石井さんが今度は自分から声を落とした。
「マジ?」
「石井」
春斗の声も低い。
「広めるな」
石井さんの表情からすぐにからかう色が消えた。
「広めねえよ」
その答えを聞いて、私は少しほっとした。
「……ごめん」
愛ちゃんも私へ小さく謝る。
「うん」
少し怒ってはいる。
でも。
わざとではない。
「もう言わないでね」
「絶対」
石井さんが春斗を見る。
そして。
意外なくらい真面目な声で聞いた。
「ちゃんと聞いた?」
「何を」
「許可」
春斗はすぐ頷いた。
「聞いた」
「ならいい」
「何でお前まで」
「そこ大事だろ」
愛ちゃんも頷く。
「私も同じこと聞いた」
私は両手で顔を覆いたくなった。
「何でみんな保護者みたいなの……」
三人が少し笑う。
恥ずかしい。
ものすごく。
でも。
嫌ではなかった。
私と春斗がキスをした。
友達に知られた。
でも。
ただ面白がってからかわれただけではない。
春斗が私の気持ちをちゃんと確認したか。
そこを大事にしてくれた。
それが。
少し嬉しかった。
◇
昼食を食べている途中。
食堂の入口から入ってきた人に、私はすぐ気づいた。
竹下くん。
友達二人と一緒だった。
私が反応したのを察したのか。
春斗も入口へ目を向ける。
一瞬だけ。
テーブルの空気が変わった。
愛ちゃんも。
石井さんも。
何も言わない。
竹下くんがこちらを見る。
目が合う。
少し緊張した。
でも。
逸らさなかった。
竹下くんの表情がほんの一瞬止まる。
それから。
普通に片手を上げた。
「久保」
「うん」
「春斗くん」
「うん」
春斗も普通に返す。
竹下くんが少しだけ苦笑した。
「おはようじゃないな」
「もう昼だよ」
「だよな」
「こんにちは?」
「学校でこんにちはも変じゃない?」
「確かに」
たったそれだけ。
短いやり取り。
でも。
胸の緊張が少しほどけた。
竹下くんは友達と別の席へ向かう。
私も。
春斗も。
その背中を追い続けたりはしなかった。
「大丈夫?」
愛ちゃんが小声で聞く。
「うん」
嘘ではない。
少し胸は痛む。
竹下くんが、まだ私を好きではなくなっていないことを知っているから。
それでも。
普通にしようとしてくれている。
「真理」
今度は春斗に呼ばれた。
「何?」
「大丈夫?」
同じことを聞かれる。
「うん」
私は春斗を見る。
「春斗は?」
「少し嫉妬した」
正直だ。
私は少しだけ笑う。
「でも?」
「普通にする」
「うん」
昨日。
二人で決めた。
それを。
今日。
ちゃんとできた。
ほんの少しだけ。
嬉しかった。
◇
昼休みが終わる少し前。
愛ちゃんが先生に呼ばれて職員室へ行ったため、私は一人で教室へ戻っていた。
階段を上がり、廊下へ出たところで。
「久保さん」
後ろから声がした。
振り返る。
竹下くんだった。
一人。
一瞬だけ。
心臓が少し速くなる。
「何?」
竹下くんは数歩こちらへ近づいた。
でも。
以前のように必要以上に距離を詰めない。
ちゃんと少し離れた位置で止まった。
「ちょっとだけいい?」
「うん」
昼休み終了前だから、廊下にはまだ何人か生徒がいる。
完全に二人きりではない。
その方が。
少し安心した。
「今日」
「うん」
「普通だった?」
突然の質問だった。
「何が?」
「俺」
少し驚く。
「普通だったよ」
「本当?」
「うん」
竹下くんが小さく息を吐いた。
「よかった」
「気にしてた?」
「少し」
竹下くんは窓の外へ一度視線を向けた。
「俺、気まずくしたくない」
「うん」
「まだ」
言葉が止まる。
でも。
逃げずに続ける。
「好きじゃなくなったとか、そういうのは言えない」
「うん」
「でも」
今度は私を見る。
「久保さんと春斗くんが付き合ってるの、邪魔するつもりはない」
胸が少し痛んだ。
少し前。
三人で話した。
竹下くんは、終わらせると言った。
あれで感情まで消えるわけではない。
それでも。
行動は変えようとしてくれている。
「ありがとう」
私が答えると、竹下くんは少し困ったように笑った。
「それ言われると変な感じだけど」
「でも、ありがとう」
「うん」
「私も」
少し考える。
「竹下くんのこと、変に避けたくない」
「うん」
「前とまったく同じには無理かもしれないけど」
「それでいい」
竹下くんはすぐに答えた。
「前みたいに恋愛相談される方が無理」
「……ごめん」
「それはもういいって」
少しだけ笑う。
「今度から春斗くんにしなよ」
「する」
「即答だな」
「彼氏だから」
言ってから。
少し恥ずかしくなった。
竹下くんの表情も、一瞬だけ止まった。
それでも。
「うん」
と返してくれる。
その一言が。
少し痛かった。
でも。
私は逃げたくなかった。
「竹下くん」
「何?」
「私ね」
言っていいのか。
少し考える。
でも。
言わないまま気を遣い続ける方が。
たぶん良くない。
「今、春斗と付き合えて嬉しい」
竹下くんは静かに聞いている。
「うん」
「だから、それを隠して竹下くんに気を遣うのも違うと思ってる」
「うん」
「でも」
言葉を選ぶ。
「わざと見せつけるようなことはしたくない」
数秒。
沈黙が落ちた。
竹下くんは少しだけ笑う。
「それ、春斗くんと話した?」
「うん」
「らしいな」
「何が?」
「二人」
胸の奥が少し温かくなった。
「そっか」
竹下くんは片手を上げる。
「じゃあ、また」
「うん」
「授業遅れる」
「そうだね」
竹下くんが離れていく。
私はその背中を数秒だけ見た。
でも。
追わない。
竹下くんを好きだった。
それは嘘ではない。
本当に好きだった。
だから。
何もなかったことにはしたくない。
でも。
今。
私が隣にいたいと思う人は決まっている。
春斗。
そこは。
もう迷わない。
◇
放課後。
終礼が終わると、教室の空気が一気にほどけた。
部活動へ向かう生徒。
友達と帰る相談をする生徒。
机へ残って話し続ける生徒。
窓の外では午後の光が少しずつ傾き、校舎の壁やグラウンドを淡い橙色へ変え始めていた。
私は教科書を鞄へ入れながら、スマートフォンを見る。
『昇降口』
春斗からだった。
『今行く』
返す。
「真理」
隣から愛ちゃん。
「春くん?」
「うん」
「帰り一緒?」
「うん」
「キス?」
「しない!」
即答。
愛ちゃんが笑う。
「冗談」
「今日みんなそれ言う!」
「だって真理が分かりやすいから」
「もう……」
愛ちゃんは少し笑ったあと。
表情を柔らかくした。
「でもさ」
「何?」
「今日、思ったより普通だったね」
私は少し考えた。
「うん」
「竹下くんも?」
「少し話した」
「二人で?」
「廊下で」
「大丈夫だった?」
「うん」
私は小さく笑う。
「ちゃんと」
「そっか」
愛ちゃんも頷いた。
「ならよかった」
「うん」
「じゃあ」
少しいたずらっぽい顔へ戻る。
「彼氏のところ行ってらっしゃい」
「言い方」
「彼氏でしょ」
「そうだけど」
朝より。
その言葉が少し自然に聞こえる。
「うん」
私は鞄を持って立ち上がった。
「行ってくる」
◇
昇降口へ行くと、春斗はすでに待っていた。
制服姿。
肩へ鞄。
見慣れている。
何年も見てきた。
それでも。
見つけた瞬間。
少し嬉しい。
春斗も私に気づく。
目が合った。
朝みたいにすぐ逸らしたくなる。
でも。
今度は少し頑張った。
「お疲れ」
春斗が言う。
「お疲れ」
私も返す。
二人で外へ出た。
今日は母が途中まで迎えに来ることになっているため、それまでは少し歩く。
「真理」
「何?」
「今日、大丈夫だった?」
「何が?」
「学校」
朝から春斗も気にしていた。
私は少しだけ笑う。
「思ったより」
「キス思い出した?」
「春斗!」
「小声」
「それでも言わないで」
「何回?」
「……何回か」
「俺も」
「やっぱり」
二人で笑う。
校門を出る。
まだ周囲には同じ学校の生徒が多い。
だから手は繋がない。
でも。
隣にいる。
それで十分だった。
「竹下くん」
私は自分から言った。
「うん」
「昼休みのあと、少し話した」
春斗の表情がほんの少しだけ変わった。
でも。
声は普通だった。
「何て?」
「気まずくしたくないって」
「うん」
「まだ好きじゃなくなったとは言えないけど、私たちを邪魔する気はないって」
「うん」
「私も、変に避けたくないって言った」
春斗は少しだけ黙った。
「嫌?」
私が聞く。
「嫉妬はする」
「うん」
「でも」
春斗は前を見たまま続ける。
「それでいいと思う」
胸の奥が温かくなった。
「ありがとう」
「ただ」
「何?」
春斗が今度は私を見る。
「俺に隠さないで」
真っ直ぐだった。
「うん」
私は迷わず答える。
「隠さない」
「俺も」
「うん」
「何かあったら言う」
「うん」
付き合う前。
春斗は何でも一人で我慢していた。
私が竹下くんの話をしても。
嫉妬しても。
傷ついても。
ほとんど言わなかった。
私は気づかなかった。
もう。
あれは嫌だ。
春斗だけが我慢するのも。
私だけが考え込むのも。
恋人になったから全部分かるわけではない。
だからこそ。
言わないといけない。
◇
学校から少し離れ、制服姿の生徒が減ってきた。
住宅街へ入る。
庭先で洗濯物を取り込んでいる人。
自転車で帰る中学生。
夕飯の支度をしているのか、どこかの家から少し香ばしい匂いも流れてきた。
春斗の右手が少し動く。
私はすぐ気づいた。
「手?」
「うん」
「ここなら?」
「いい?」
「うん」
春斗が差し出した手を取る。
指を絡める。
朝は小指だけだった。
学校では一度も触れなかった。
だから。
今日初めて、ちゃんと手を繋いだ。
「やっと」
思わず言う。
「何が?」
「今日」
私は繋いだ手を少しだけ揺らした。
「学校では我慢した」
「俺も」
「何回くらい繋ぎたいと思った?」
「数えるの?」
「聞きたい」
春斗は少し考えた。
「廊下ですれ違ったとき」
「うん」
「昼」
「うん」
「帰り」
「三回」
「あと朝の車」
「小指だった」
「うん」
私は笑う。
「私も似たような感じ」
「同じ?」
「だいたい」
手が温かい。
学校では普通に過ごした。
手なんて繋がなくても。
ちゃんと恋人だった。
それでも。
二人きりになってから手を繋げると。
やっぱり嬉しい。
「真理」
「何?」
「学校で付き合うの」
「うん」
「思ったより難しいな」
「何が?」
「近づきたいけど、学校でずっと近いと見せつけてるみたいになるし」
「うん」
「でも離れすぎるのも嫌」
「分かる」
すごく。
私も同じだった。
「じゃあ」
私は少し考える。
「今くらいがいいかも」
「今?」
「学校では、今までに近い感じ」
「うん」
「帰りとか、二人のときは」
少しだけ言葉を止めた。
でも。
続ける。
「ちゃんと恋人」
春斗が私を見る。
「それ」
「何?」
「かなり好き」
「またそれ」
「本当に」
私も少し笑った。
「私も」
春斗の手が少しだけ強くなる。
◇
信号へ差しかかり、二人で足を止めた。
夕方の空は少し赤みを帯び始め、道路を走る車の窓に光が反射している。
手を繋いだまま。
私はふと。
「春斗」
「何?」
「今日」
「うん」
「キスしないね」
自分から言って。
すぐ後悔した。
春斗が少し驚いた顔をする。
「する?」
胸が大きく鳴る。
「ここではしない」
「知ってる」
「じゃあ聞かないで」
「真理が言った」
「そうだけど」
信号が青へ変わる。
二人で横断歩道を渡る。
向こう側へ着いても。
胸はまだ少し速い。
春斗が声を落とした。
「したい?」
私は少しだけ歩く速度を緩めた。
土曜日。
初めて。
日曜日。
しなかった。
そして今日。
学校へ戻った。
友達に会った。
竹下くんとも話した。
いつもの日常を過ごした。
今。
二人だけの帰り道。
「……少し」
正直に答える。
春斗は何も言わない。
「でも」
私は続ける。
「今日じゃなくてもいい」
「うん」
「次でもいい」
「うん」
「でも」
顔が熱い。
「また聞いてほしい」
春斗が繋いでいる手へ少し力を入れた。
「分かった」
「うん」
少し沈黙。
それから春斗が聞いた。
「今は?」
「何が」
「抱き締めるの」
一瞬だけ。
少し安心した。
でも同時に。
ほんの少し別の期待もあった。
そんな自分に気づく。
周囲を見る。
住宅街。
人通りはほとんどない。
遠くに一人、自転車で走っていく人がいる程度だった。
「少しなら」
私が答えると、春斗の表情が柔らかくなった。
「本当?」
「うん」
繋いでいた手を離す。
その代わり。
春斗の腕がゆっくり私の背中へ回る。
私はもう土曜日みたいに固まらなかった。
自分から春斗へ近づき。
すぐに背中へ腕を回した。
心臓は速い。
でも。
怖くない。
「春斗」
「何?」
「学校帰りに、こういうのしてるの」
「うん」
「何かすごいね」
「何が?」
「彼氏っぽい」
春斗が胸元で少し笑った。
「彼氏だけど」
「知ってる」
私も笑う。
「彼女」
「うん」
今度は。
私から言いたくなった。
「私、春斗の彼女」
春斗の腕が僅かに強くなる。
「真理」
「何?」
「それ好き」
「何回でも言ってほしい?」
「言って」
「嫌」
「何で」
「恥ずかしい」
「でも」
「また今度」
抱き締め合ったまま。
二人で少し笑った。
今朝。
学校へ戻るのが怖かった。
初めてキスをしたあとで。
昔みたいに過ごせるのか分からなかった。
実際。
昔とまったく同じにはできなかった。
愛ちゃんにはすぐ気づかれた。
石井さんにも結局知られた。
春斗と目が合うだけで何度も顔が熱くなった。
竹下くんと話すときも、少し緊張した。
でも。
何も壊れなかった。
私と春斗は。
ちゃんと。
恋人のまま。
学校で一日を過ごせた。
「真理」
「何?」
「今日も会えてよかった」
「学校だから絶対会うけど」
「それでも」
「うん」
私は春斗を抱く腕へ少し力を込めた。
「私も」
◇
ゆっくり身体を離す。
顔が近い。
土曜日なら。
この距離になった瞬間に、何をされるのか分からなくて固まっていた。
今は。
何が起きる可能性があるのか。
もう知っている。
だからこそ。
唇を意識してしまう。
春斗もすぐには離れなかった。
目が合う。
でも。
近づいてこない。
私も動かない。
数秒だけ。
その距離を共有する。
「思い出した?」
春斗が小さく聞いた。
「何を?」
「キス」
「……うん」
「俺も」
私は少し笑って。
今度は自分から一歩だけ距離を取った。
「今日はここまで」
「うん」
春斗はすぐに受け取ってくれた。
そのことが嬉しい。
「でも」
「何?」
私は少し迷った。
それでも。
ちゃんと言う。
「次」
春斗の目が少し変わる。
「うん」
「また聞いて」
数秒。
春斗は何も言わなかった。
それから。
優しい声で。
「分かった」
「うん」
「絶対聞く」
「絶対って言わないで」
「何で」
「恥ずかしい」
「でも昨日、待ってるって言った」
「昨日!」
「覚えてる」
「忘れて」
「無理」
二人で笑う。
そのとき。
通りの向こうから見慣れた車が曲がってくるのが見えた。
「お母さん」
「うん」
「また何か言われるかな」
「絶対」
「今日抱き締めたの」
「それは言わない!」
「キスも」
「もっと言わない!」
私は春斗の腕を軽く叩いた。
春斗は笑う。
車が近づいてくる。
もう一度だけ手を繋ぐ。
でも。
母の車がはっきり見える距離まで来たところで。
自然に離した。
以前より。
それも少し上手になった気がする。
◇
母の車が近くへ停まった。
私が後部座席へ乗り、春斗も反対側から入る。
朝と同じ。
私が左。
春斗が右。
「お疲れさま」
母が言う。
「お疲れ」
「ありがとうございます」
「学校どうだった?」
「普通」
私が答える。
母はバックミラー越しに私を見る。
「本当に?」
「うん」
「朝より顔は普通になったね」
「何それ」
「慣れた?」
心臓が少し跳ねた。
「何に」
「春斗くんに」
「昔から知ってる!」
「あ、そうだった」
母が笑う。
隣を見ると、春斗も明らかに笑いを堪えている。
「春斗」
「何」
「笑ったら怒る」
「もう少し笑ってる」
「最悪」
そう言いながら。
私も結局笑ってしまった。
窓の外では夕方の町がゆっくり流れていく。
朝。
同じ車。
同じ座席。
同じ春斗。
なのに。
今は少しだけ違う。
初めてキスをした。
翌日にもう一度会った。
そして今日。
恋人になってから初めて。
学校といういつもの場所へ戻った。
思っていたより。
大丈夫だった。
全部が昔と同じではない。
でも。
全部が壊れたわけでもない。
幼馴染だった私たちの間に。
彼氏と彼女としての新しい距離が、少しずつ増えている。
学校で手を繋げなくても。
廊下ですれ違うだけで嬉しい。
昼休みに同じ席へ座れば少し照れる。
放課後になれば、また触れたくなる。
それでいい。
私は隣に座る春斗を、少しだけ見た。
ちょうど。
春斗もこちらを見た。
目が合う。
今度は。
逸らさなかった。
その代わり。
二人とも。
少しだけ頬が熱くなる。
前から母の声。
「また何か思い出した?」
「何も!」
「何もないです!」
私と春斗の声がまた重なった。
母が声を上げて笑う。
私も。
春斗も。
結局一緒に笑った。
学校へ戻った最初の日。
幼馴染だった頃とまったく同じ顔で春斗を見ることは、まだできなかった。
でも。
同じでなくてもいいのだと思う。
今の私は。
昔より少しだけ春斗を見ることが恥ずかしくて。
少しだけ近づきたくて。
触れていない時間に少し寂しさを覚えて。
次にキスをするときのことまで、時々考えてしまう。
昔より。
少しだけ欲張りになった。
それはきっと。
私が今。
春斗の彼女だからだ。
そして明日も。
学校で春斗と目が合えば。
たぶんまた。
土曜日の一瞬を思い出す。
でも今度は。
今日よりほんの少し長く。
春斗の目を見ていられる。
そんな気がしていた。




