第48話 初キスの翌日にまた会っただけなのに、昨日まで平気だった距離が全部近すぎました
翌朝、目を覚ました瞬間、最初に思い出したのは昨日のデートでも、図書館で見つけた小学生の頃の作文でもなかった。
春斗の顔だった。
正確には、水戸の小さな公園。木陰のベンチで、いつもより少し緊張した表情のまま私へ近づいてきた春斗と、その直前に聞かれた「キスしていい?」という言葉。それから、ほんの一瞬だけ重なった唇の感触だった。
布団の中で完全に目が覚める。時計を見るより先に自分の唇へ意識が向いてしまい、私は慌てて掛け布団を鼻のあたりまで引き上げた。
「朝から何考えてるんだろう……」
昨日のことなのだから、感触なんて残っているはずがない。それでも思い出した途端、唇だけが熱を持ったような気がして、今度は枕へ顔を押しつける。
昨日の夜、春斗とは結局かなり長い時間電話をしていた。
何度も「明日も会う」と確認して、午前九時にいつもの岩瀬駅で待ち合わせることも決めた。大きな予定があるわけではなく、ただ会って、話して、気が向いたらどこかへ行く。それだけだった。
初デートの翌日なのだから、わざわざ会わなくてもいいのかもしれない。学校なら明日には会えるし、昨日だって朝から夕方までほとんど一日中一緒にいた。
それなのに帰宅してすぐメッセージを送り合い、電話までして、そのうえ翌朝また待ち合わせる。
付き合う前の私だったら、自分でも少し呆れていたと思う。
けれど今は違う。
会いたい。
昨日あれだけ一緒にいたのに、それでもまた会いたいと思う。
その相手が、昨日初めてキスをした春斗だと考えた途端、私は枕へさらに顔を埋めた。
「……無理かも」
昨日までは普通に会えていた。
毎朝のように顔を合わせ、送迎の車では隣へ座り、駅でも学校でも何年も同じ距離にいた。肩が触れるほど近くに座ることだって珍しくなかったし、春斗の顔なんて数え切れないほど見てきた。
なのに、今日からは少し違う。
目が合えば思い出す。
春斗の唇を見ても、たぶん思い出す。
手を繋がれても、昨日キスをしたあとの帰り道を思い出すかもしれない。
私はちゃんと普通にしていられるのだろうか。
そんなことを考えていると、枕元に置いたスマートフォンが短く震えた。
反射的に身体を起こして画面を見る。
春斗からだった。
『おはよう』
時刻は午前六時十九分。
昨日よりは遅いけれど、休日の高校生が起きる時間としては十分早い気がする。
『おはよう』
返すと、ほとんど待たずに既読がついた。
『起きてた?』
『今起きた』
『昨日寝れた?』
私は画面を見たまま少し考えた。
実際には、電話を切ったあともかなり長い間眠れなかった。目を閉じるたびにキスを思い出し、その次には春斗が電話越しに言った「俺、真理の彼氏」という言葉を思い出した。
さらに、自分が「春斗の彼女」と答えたことまで蘇ってきて、結局しばらく布団の中を転がっていた。
『少し寝つけなかった』
正直に送る。
少しして、春斗からも返事が来た。
『俺も』
その短い言葉を見た途端、少しだけ悪戯心が湧いた。
『何で?』
送るとすぐ既読はついたものの、返事は来ない。
五秒。
十秒。
私は画面を見つめながら待った。
『真理』
『私?』
『昨日』
そこで文章が途切れる。
嫌な予感がした。
いや、嫌ではない。
何が来るのか、むしろほとんど分かっているからこそ恥ずかしい。
『何』
送る。
数秒後。
『キス』
「……っ!」
声にならない声が漏れ、私はスマートフォンを胸元へ伏せた。
朝から容赦がない。
まだ起きて数分しか経っていないのに、昨日のことを正面から言われただけで、顔まで熱くなる。
少し間を置いてから恐る恐る画面を戻した。
『言わないで』
『聞いたの真理』
『そこまで聞いてない』
『でもそれ』
『春斗』
『何』
『朝』
『うん』
『まだ六時』
『知ってる』
『無理』
送ると、今度はすぐ返ってきた。
『俺も無理』
「何それ……」
思わず笑ってしまう。
春斗も昨日のことを普通に思い出している。
私だけが朝から布団の中で一人で悶えていたわけではない。
そう分かるだけで、不思議と少し安心した。
『今日』
続けて春斗から届く。
『うん』
『九時』
『忘れてない』
『駅』
『分かってる』
『来る?』
私は瞬きをした。
昨日、何度も確認していたのは私の方だった。春斗はそのたびに笑いながら「会う」と言ってくれたのに、今日は春斗が確認している。
『行く』
『本当?』
『本当』
『絶対?』
そこまで読んで、とうとう笑ってしまった。
『春斗昨日の私みたい』
少し間が空く。
『うん』
否定しなかった。
だから私は、少しだけ踏み込んでみる。
『不安?』
既読はついた。
でも今度は、なかなか返事が来ない。
私は急かさずに待った。
やがて、短い返事が届く。
『少し』
『何が?』
『昨日あんなに近かったのに』
胸が鳴った。
続けて届いた言葉を読んで、今度は指が止まる。
『今日会って真理が恥ずかしくなって距離取ったら嫌だなって』
私は、まさに同じことを考えていた。
会ったらどうなるんだろう。
顔をまともに見られるのか。
普通に話せるのか。
昨日みたいに手を繋げるのか。
キスを思い出して、反射的に距離を取ってしまわないか。
でももし私が本当にそんな態度を取ったら、春斗は「昨日のことを後悔している」と思うかもしれない。
それは嫌だった。
『恥ずかしくはなると思う』
まず、それだけ送る。
『うん』
『たぶん顔も見れない』
『うん』
『でも』
そこで一度指を止めた。
昨日から何度も、言葉にすることの大切さを知った。
恥ずかしくても、伝えないまま勝手に相手の気持ちを決めつけるよりはいい。
『離れたいわけじゃない』
既読がつく。
今度は返事が来るまで少し長かった。
『よかった』
たった四文字。
でも、その一言で胸の奥がゆっくり温かくなった。
『春斗は?』
『何』
『距離取る?』
『取らない』
今度は即答だった。
『少しは取って』
『何で』
『近すぎると無理』
『でも離れたくない』
「もう……」
また顔が熱くなる。
付き合う前の春斗なら、こんなことを朝から普通に言っただろうか。
たぶん言わなかった。
私も同じだ。
好きだと分かって、彼氏と彼女になって、初めてキスまでして。少しずつ、相手へ言ってもいいことが増えている。
『昨日キスしたからって何でも言っていいと思ってる?』
『思ってない』
『絶対思ってる』
『でも会いたい』
ずるい。
その一言を出されると、何も言えなくなる。
私は少し笑ってから。
『私も』
と返した。
◇
午前七時を少し過ぎた頃、朝食を食べるため一階へ降りると、母はすでに台所に立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
私が椅子へ座ると、母は味噌汁を置きながらこちらを見た。
その視線が妙に長い。
「何?」
「今日も出掛ける?」
早い。
「何で分かるの」
「顔」
「また?」
「昨日より分かりやすい」
「まだ何もしてないんだけど」
「だから顔って言ったでしょう」
本当に嫌だ。
そんなに全部出ているのだろうか。
母は向かいへ座ると、何でもない話題のように続けた。
「春斗くん?」
「……うん」
「二日連続?」
「会うだけ」
「それをデートって言うんじゃない?」
「分からない」
「付き合ってる男女が休日に二人で待ち合わせする」
「うん」
「デートじゃない?」
「……そう言われると」
私はトーストへ手を伸ばした。
母は楽しそうに笑う。
「昨日、楽しかった?」
「楽しかった」
「かなり?」
思わず顔を上げた。
「それ春斗の言い方」
「あら、移った?」
「何で知ってるの」
「春斗くん、前からたまに言うでしょう」
「そうかな」
「最近は特にね」
家族にも分かるくらいなのか。
私は少し恥ずかしくなり、誤魔化すようにトーストをかじった。
「今日はどこ行くの?」
「決めてない」
「本当に?」
「九時に駅で会うだけ」
「へえ」
「何」
「昨日あれだけ一日一緒にいて、今日も会いたいんだなと思って」
改めて言われると、かなり恥ずかしい。
でも私は、少し迷ったあとで素直に頷いた。
「……うん」
会いたいから会う。
今はもう、それを無理に否定する必要もない気がした。
母の表情が少しだけ柔らかくなる。
「いいんじゃない。ただ、昨日かなり歩いたんでしょう? 疲れてるなら、今日は無理して遠くまで行かないでね」
「分かってる」
そう答えたところで、母が味噌汁へ視線を落としたまま、少しだけ間を置いた。
「昨日」
「何?」
「何かあった?」
箸を持つ手が止まりそうになる。
「何も」
「本当?」
「うん」
「帰りの車で聞いたとき、すごい勢いで否定してたけど」
「……」
「真理?」
「楽しかっただけ」
「そう」
母はそれ以上追及しなかった。
でも。
笑っている。
絶対、何か勘づいている。
私は味噌汁を飲みながら、なるべく母の顔を見ないようにした。
昨日。
初キスをした。
それを母へ言う?
無理。
絶対に無理だ。
けれど恋人になったのなら、これから今までとは違うことが少しずつ増えていくのだと思う。
手を繋ぐ。
抱き締めてもらう。
キスをする。
その先は、今はまだ分からない。
考えなくてもいい。
ただ、春斗との距離が変われば、家族だっていつか気づくのかもしれない。
「真理」
「何」
「顔赤いよ」
「味噌汁熱い」
「そういうことにしとく」
「本当に熱いから!」
母は声を上げて笑った。
◇
午前八時二十分。
私は自室の鏡の前に立っていた。
今日は昨日ほど気合いを入れていない。
というより、気合いを入れすぎないようにしていた。
白いTシャツに薄いベージュのカーディガン。膝下まである黒いスカートと、歩き慣れたスニーカー。
昨日使った白いヘアピンだけは、最後まで迷った。
一度机へ置いて、別のものにしようとして、それでも結局もう一度手に取った。
髪へ留めて鏡を見る。
昨日、春斗はこの白いヘアピンまで覚えていてくれた。
今日も気づくだろうか。
そんなことを考えている自分が、かなり恋人っぽい。
いや。
恋人なのだけれど。
その事実には、まだ慣れない。
バッグへ財布とスマートフォンを入れたあと、机の上に置いてある短編集へ目が留まった。
昨日買った、お揃いのブックマーカーが挟まっている。
私は少し迷ってから、それもバッグへ入れた。
もしどこかで春斗と本を読むことになったら、見せたい。
同じものを持っている。
ただそれだけのことなのに、昨日から何度も嬉しくなる。
時計を見る。
八時二十八分。
まだ早い。
でも昨日、春斗は待ち合わせよりずっと早く駅へ来ていた。
今日も、もしかしたらもういるかもしれない。
そう思ったら、部屋で待っていられなくなった。
◇
午前八時三十八分。
私は家を出た。
待ち合わせまでは二十分以上ある。
「……また早い」
自分で笑う。
昨日と同じだった。
でも春斗も早い。
たぶん。
絶対。
昨日は八時十五分には駅にいた。
今日も、もういるかもしれない。
そう考えるたびに歩く速度が少しずつ速くなった。
昨日の初デートほど緊張しているわけではない。
服も、予定も、大きなイベントもない。
ただ会うだけ。
それなのに胸は、昨日とは別の意味で落ち着かなかった。
昨日キスをした人に、今日また会う。
その人は春斗だ。
何年も知っている。
小さい頃から何度も隣を歩いてきた。
でも昨日から、少し違って見える。
駅前が見えてくる。
そして。
「……いた」
すぐに見つけた。
昨日と同じベンチの近く。
春斗が立っている。
今日はグレーのパーカーに黒いパンツで、昨日より少し普段着に近い。見慣れているはずの格好なのに、やっぱり少し格好よく見えた。
春斗が顔を上げる。
私に気づいた。
目が合う。
一瞬、足が止まりそうになった。
春斗もほんの少し動きを止める。
まだ十メートル近く離れているのに、目が合っただけで昨日の公園が頭の中へ蘇った。
近づいてきた顔。
目を閉じた瞬間。
触れた唇。
春斗も同じなのだろうか。
少しだけ表情が固い。
私はもう一度歩き出した。
春斗もこちらへ数歩近づく。
「おはよう」
「おはよう」
いつも通りの挨拶。
それなのに目が合った途端、耐えられなくなって視線を逸らしてしまった。
「真理」
「何」
「朝言った通り」
「何が」
「顔見ない」
「だって……無理」
正直に言うと、春斗が少し笑った。
「俺も少し無理」
「見てるじゃん」
「頑張ってる」
「何を」
「彼女見るの」
「……朝からやめて」
「昨日からずっと彼女だけど」
「分かってる」
分かっている。
でも、その言葉を春斗の口から聞くたびに胸が鳴る。
春斗は私をもう一度見てから、少し照れたように笑った。
「今日も可愛い」
「……何で」
「服、似合ってる」
「普通だけど」
「普通でも可愛い」
「……ありがとう」
昨日も何度も可愛いと言われた。
そのたびに恥ずかしくなった。
なのに今日も、やっぱり嬉しい。
「春斗も」
「俺?」
「うん」
今度は私が頑張って春斗を見る。
「格好いい」
昨日よりは少しだけ言いやすかった。
それでも春斗の耳はすぐ赤くなる。
「ありがとう」
「うん」
二人で少し笑った。
そのあと、妙な沈黙が落ちる。
昨日なら、この辺りで普通に手を繋いでいた。
でも今日は。
お互いの手がすぐ近くにあるのに、どちらも動かない。
キスをした翌日に初めて会って、最初に手を繋ぐ。
昨日なら何でもなかったことまで意識してしまう。
春斗の右手がほんの少し動いた。
でも、途中で止まる。
「春斗」
「何?」
「手」
「うん」
「……繋がないの?」
自分から聞いた。
春斗が少し驚いた顔をする。
「いい?」
「何で聞くの」
「昨日、今日会ったら恥ずかしいって言ってたから」
「言ったけど」
「だから」
春斗が迷っているのが分かる。
私が嫌がるかもしれないと思っている。
そのことに気づいたから、私は今度こそ春斗の顔を見る。
「恥ずかしいだけ」
「うん」
「離れたいわけじゃないって言ったでしょ」
春斗の表情がゆっくり柔らかくなった。
「うん」
差し出された右手を、私は迷わず取った。
指が触れ、自然に絡む。
昨日だけで何度も繋いだ手なのに、今日最初に繋いだ瞬間、胸が大きく鳴った。
春斗の手は昨日と同じ温かさだった。
「真理」
「何」
「ちょっと強い」
「あ、ごめん」
「嫌じゃない」
昨日も何度もしたやり取りだった。
それに気づいて、二人同時に笑う。
「今日もこれやるのかな」
「何を?」
「私が強く握って、春斗が言うやつ」
「真理が強く握るから」
「春斗も握ってる」
「俺は普通」
「嘘」
「……少し」
「ほら」
また笑う。
その笑いで、ようやく少しだけ空気が元へ戻った。
昨日キスをした。
でも、春斗は春斗だ。
私は私だ。
何年も一緒にいた幼馴染だった時間が消えたわけではない。
そこへ、恋人という新しい関係が重なっただけ。
そう思えたら、少し安心した。
◇
「で、今日何するの?」
駅前を見ながら聞くと、春斗は少し考えるように首を傾げた。
「決めてない」
「本当に?」
「うん」
「春斗が?」
「昨日かなり考えたから」
「かなり」
「使う」
「気に入ってるね」
「真理も昨日から使ってる」
春斗が笑う。
「今日は真理に聞こうと思った」
「私?」
「何したい?」
急に聞かれて、少し考えた。
昨日は水戸まで行き、木下書房へ寄って、昼食を食べ、図書館へ行って、雑貨屋にも寄った。最後には公園で長い時間話した。
一日かなり歩いた。
今日はそこまで大きなことをしたいわけではない。
でも。
会いたかった。
春斗に。
それが一番だった。
「春斗と話したい」
そのまま答えると、春斗が少し止まった。
「それだけ?」
「うん」
「どこで?」
「どこでも」
「真理」
「何」
「それ、デートプランとしてかなり難しい」
「何で」
「範囲広すぎる」
「じゃあ……散歩」
「うん」
「疲れたらどこか座る」
「うん」
「本読む」
「うん」
「お昼食べる」
「うん」
「それくらい」
春斗が少し笑った。
「いいかも」
「でしょ」
「じゃあ今日は、何もしないデート」
「デートなの?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあデート」
あっさり決まった。
でも、その言葉が胸へ落ちると少し温かい。
「二日連続だね」
「うん」
「すごい」
「何が?」
「付き合ってる感じ」
自分で言ってから恥ずかしくなった。
春斗は、むしろ嬉しそうだった。
「かなり」
「そればっかり」
「本当だから」
◇
駅前を離れ、二人で住宅街の方へ歩いた。
昨日の初デートのように目的地を目指すわけではない。ただ並んで、気になった道へ曲がりながらゆっくり進む。
空はよく晴れていた。
朝の日差しはまだ強すぎず、時折吹く風が髪やカーディガンの裾を揺らす。道沿いの家々では洗濯物が風を受け、どこかの庭から犬の鳴き声が聞こえてきた。
日曜日の朝。
平日なら通学のために歩くこともある道。
でも今日は制服ではなく、学校へ向かっているわけでもない。
春斗と手を繋いでいる。
それだけで、いつもの景色が少し違って見えた。
「真理」
「何?」
「昨日」
その一言だけで胸が鳴る。
「……何」
「電話、長かったな」
「そっち」
「そっちって?」
「何でもない」
春斗が横から覗き込もうとしてくるので、私は少し顔を背ける。
「何時まで話してたっけ」
「十一時半くらい」
「そんなに?」
「真理が切らなかった」
「春斗もでしょ」
「うん」
「何話してたっけ」
「途中から覚えてない」
「私も」
「でも楽しかった」
「うん」
会話の内容なんて、ほとんど残っていない。
それでも、春斗の声を聞きながらベッドへ寝転んでいた時間が心地よかったことだけは覚えている。
少し歩いてから、今度は私が口を開いた。
「春斗」
「何?」
「昨日」
春斗の表情がほんの少し変わる。
「何」
「……キス」
自分から言った。
昨日なら、口にするだけで逃げたくなった言葉。
今日はまだ恥ずかしいけれど、少しだけ言える。
「うん」
「朝から思い出した?」
「起きてすぐ」
「私も」
二人とも、ほとんど同時に歩く速度が少し落ちた。
顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく笑う。
「春斗もなんだ」
「真理も」
「うん」
「何考えた?」
「言わない」
「何で」
「恥ずかしい」
「俺も」
「春斗は?」
「言わない」
「ずるい」
「真理と同じ」
付き合う前なら、こんな話はしなかったと思う。
どこまで近づいていいのか分からなくて、相手が何を考えているのか聞くことも怖かった。
でも今は、恥ずかしくても少しずつ話せる。
「春斗」
「何?」
「昨日、一瞬だったじゃん」
「うん」
「だから……正直、まだよく分かんない」
「キス?」
「うん」
自分でも何を聞いているんだろうと思う。
それでも春斗は笑わなかった。
「俺も」
「何が普通とか」
「うん」
「どれくらいするものなのかとか」
「普通って、たぶんないんじゃない?」
春斗は少し考えてから答える。
「他の人と比べなくてもいいと思う。俺らが嫌じゃなくて、二人ともいいと思えるなら、それでいいんじゃない」
昨日も似た話をした。
恋人なら何をするのが普通なのか。
どこまで進むのが普通なのか。
春斗は、誰かの普通に合わせなくてもいいと言っていた。
今なら、その意味が昨日より少し分かる。
「じゃあ、昨日のでよかった?」
私が聞くと、春斗が少し驚いた。
「よかった」
「本当?」
「うん」
「一瞬でも?」
「初めてだったし、真理がいいって言ってくれたし」
繋いでいる手へ、春斗の指が少しだけ強く絡む。
「俺は、それで十分だった」
胸の奥が温かくなる。
「私も、よかった」
ちゃんと言えた。
でも。
そこで終わればよかったのに。
「……でも」
「何?」
「次は」
口から出たところで止まる。
春斗は急かさない。
ただ待っている。
だから余計に逃げられない。
「……もうちょっとだけ」
「何が?」
「言わせないで」
「真理」
「分かるでしょ」
春斗が完全に黙った。
横を見ると、耳が分かりやすく赤い。
「春斗?」
「今の、かなり……」
「言わなくていい!」
繋いでいない方の手で春斗の腕を軽く叩く。
春斗は笑った。
「分かった」
「何が」
「次、ちゃんと聞く」
「……うん」
「もう少しだけ?」
「それ以上言わないで!」
また笑われる。
私は顔が熱くて仕方なかった。
でも。
嫌ではない。
次。
そういう言葉を春斗と普通に使えることが、少し嬉しかった。
◇
しばらく歩いたあと、私たちは近所の小さな公園へ入った。
昨日キスをした水戸の公園とは違う。
小さい頃から何度も遊びに来た場所だ。
古い滑り台とブランコ、小さな砂場。その端には何度も塗り直された跡のあるベンチが並び、日曜日の午前中らしく小さな子どもを連れた家族が何組か遊んでいた。
「懐かしい」
「よく来たな」
「小学生の頃?」
「もっと前」
「幼稚園?」
「うん」
春斗がブランコを見る。
「真理に思いっきり押されて落ちた」
「違う。もっとって言ったの春斗でしょ」
「押したのは真理」
「自分で頼んだんだから自己責任」
「真理、昔から強い」
「何が」
「色々」
「適当」
二人で笑いながら、空いているベンチへ向かった。
座るため、一度手を離す。
それだけで少し寂しいと思ってしまう自分がいる。
でも隣へ座れば、肩が触れそうなくらい近い。
そこで、昨日を思い出した。
公園。
ベンチ。
隣に春斗。
昨日とはまったく違う場所なのに、似た状況になっただけで意識してしまう。
春斗も急に静かになった。
「春斗」
「何?」
「今、考えた?」
「何を」
「……キス」
春斗は数秒黙った。
「考えた」
「やっぱり」
「真理も?」
「少し」
もう隠さなかった。
昨日、私は次もまたしたいと言った。
今日になったからといって、その気持ちが消えたわけではない。
ただ、私は周囲を見る。
滑り台には小さな子がいて、その近くには母親らしい人が立っている。少し離れたベンチには犬を連れた年配の男性もいた。
「ここではしない」
「うん」
春斗はすぐ答えた。
「分かった」
迷わない。
そのことが安心できる。
私がしたくないと言えば、春斗はそこで止まってくれる。
だからこそ、私も言える。
「春斗」
「何?」
「今日、キスだけが目的じゃないからね」
「知ってる」
「本当?」
「真理に会うのが目的」
胸が大きく鳴った。
「そういうの急に言うよね」
「本当だから」
春斗は少しだけ私の方へ身体を向けた。
「俺、昨日キスできたのも嬉しかったけど、今日また会えた方が嬉しいかも」
胸の奥が少し詰まる。
「何で?」
「昨日、真理が言ったじゃん。今日が終わったら、俺が普通の幼馴染に戻りそうで不安って」
「……うん」
「俺も少し似てた」
「春斗も?」
「うん」
春斗は子どもたちが遊んでいる方へ視線を向けた。
「昨日キスして、帰って。今日になったら真理が恥ずかしくなって、やっぱり無理って距離取ったら……結構へこむ」
最後は少し笑っていた。
でも、たぶん本気だ。
「避けない」
私はすぐ答えた。
「恥ずかしいけど、顔もまだちゃんと見られないときあるけど」
「今は見てる」
「頑張ってるの」
「うん」
「でも、会いたい」
私は少しだけ身体を寄せた。
肩が触れる。
昨日よりずっと小さな接触。
それでも今は、ちゃんと意味がある。
「今日も、会いたかった」
春斗は動かなかった。
ただ、目元が少し柔らかくなる。
「俺も」
小さな声だった。
でも、しっかり聞こえた。
◇
それからしばらく、公園では本当に何もしなかった。
私はバッグから昨日買った短編集を取り出した。
ページの間には、お揃いのブックマーカーが挟まっている。
「持ってきたんだ」
「うん」
「俺も」
春斗もバッグを開き、文庫本を一冊取り出した。
そこには昨日選んだ、色違いのブックマーカーが挟まっていた。
「使ってる」
「帰ってから入れた」
「写真撮る?」
「昨日撮ったじゃん」
「今日は二冊並べられる」
「昨日も並べたよ」
「あ、そっか」
「忘れてる」
「昨日色々ありすぎた」
その「色々」に何が含まれているのか分かってしまい、私は少しだけ春斗を睨んだ。
春斗が笑う。
「じゃあ読む?」
「うん」
二人で隣に座ったまま、それぞれ本を開いた。
手は繋いでいない。
でも肩は近い。
風が吹くたびにページが少し浮き、砂場から子どもたちの笑い声が届く。公園の外を犬が歩き、その向こうでは自転車に乗った人がゆっくり通り過ぎていった。
何でもない時間だった。
昨日までは、デートなら何か特別なことをしなければならないような気がしていた。
どこかへ行って。
何かを見て。
何かを食べて。
思い出になるようなことをする。
でも、こうして同じベンチで別々の本を読んでいるだけでも私は楽しかった。
むしろ、こういう時間も欲しかったのかもしれない。
数ページ読んだ。
いや。
正確には、ページを数枚めくっただけだった。
内容はほとんど頭へ入っていない。
隣に春斗がいることが気になる。
ページを押さえている指が視界の端に入る。
昨日、その手と何度も繋いだ。
抱き締めてもらった。
キスをした。
今は普通に本を読んでいる。
その全部が同じ春斗だと思うと、不思議な感じがした。
「真理」
春斗が本から目を上げないまま言った。
「何」
「全然読んでないだろ」
「読んでる」
「さっきから同じページ」
「……」
「真理?」
「春斗見てた」
口が勝手に動いた。
言ってから、遅れて恥ずかしくなる。
春斗が本を閉じた。
「真理」
「何」
「今日も強い」
「もう言わない」
「何で」
「恥ずかしいから」
「俺は嬉しい」
「知ってる」
私も本を閉じる。
顔を上げると、春斗と目が合った。
朝よりは少し長く見ていられる。
でも、やっぱり意識してしまう。
目。
鼻。
それから。
唇。
視線がそこへ落ちそうになり、慌てて目へ戻した。
春斗はたぶん気づいた。
でも何も言わない。
それが少し優しくて。
少しだけ悔しい。
「春斗」
「何?」
「聞かないの?」
「何を?」
「今」
「何か考えた?」
「うん」
春斗は少し考えるように私を見る。
「聞いてほしい?」
逆に聞かれた。
私は迷ったけれど、小さく頷いた。
「少し」
「じゃあ、何考えた?」
顔が熱くなる。
逃げてもいい。
でも今日は朝から、恥ずかしくても少しずつ言葉にしている。
だから。
「……唇」
春斗が完全に止まった。
「……」
「何か言って」
「真理」
「何」
「それは……かなり」
「言わないで!」
思わず笑いながら春斗の腕を叩く。
春斗も笑った。
でも、そのあと少しだけ真面目な顔になる。
「俺も」
「何?」
「真理の唇、見た」
「……」
今度は私が止まった。
顔が熱い。
春斗も耳まで赤い。
二人同時に視線を逸らす。
今はキスをしない。
周りに人もいる。
そう決めている。
でも、お互いに意識していることは分かる。
昨日まではなかった距離。
今までなら存在しなかった緊張。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
◇
午前十一時を過ぎる頃、公園にいる人も少し増えてきた。
「お腹空いた?」
春斗が聞く。
「少し」
「何食べる?」
「今日は近くでいい」
「コンビニ?」
「それでもいい」
「公園で食べる?」
「うん」
「デートなのに?」
「昨日ちゃんとしたから」
「今日は?」
「何もしないデート」
私が言うと、春斗が笑った。
「真理、それ気に入った?」
「うん」
「じゃあコンビニ」
近くの店まで歩く。
当然のように、また手を繋いだ。
店内でそれぞれ昼食を選ぶ。
私はサンドイッチと小さなおにぎり、それからミルクティー。
春斗はおにぎりを二つとパン、飲み物はコーヒーだった。
「またコーヒー」
「好きだから」
「覚えた」
「昨日、覚えるって言ってた」
「ちゃんと覚えてる」
「俺も」
「何を?」
「真理がミルクティー好きなの」
「それくらい前から知ってるでしょ」
「でも昨日から、前よりちゃんと覚えたい」
私は飲み物の棚の前で春斗を見る。
「何それ」
「彼氏だから」
「便利に使ってる」
「真理も使っていいよ」
「考えとく」
会計を済ませ、また公園へ戻った。
同じベンチへ座り、簡単な昼食を広げる。
昨日は店を探して、向かい合ってパスタを食べた。
今日はコンビニで買ったものを、公園のベンチで並んで食べている。
それでも。
「春斗」
「何?」
「昨日より安い」
「かなり」
「でも楽しい」
「俺も」
「昨日何点だった?」
「二百」
「今日も?」
「二百」
「同じなんだ」
「真理は?」
「百五十」
「下がった」
「昨日は初デートだったから」
「じゃあ今日は?」
私は少し考えた。
でも。
「点数いらない」
春斗がこちらを見る。
「何で?」
「ただ会いたかっただけだから」
「うん」
「それできたから、もう満足」
春斗はしばらく何も言わなかった。
それから、少しだけ目を細める。
「俺も」
私は笑って、サンドイッチを一口食べた。
昨日みたいな特別な一日ではない。
でも、たぶんこういう日の方がこれからは多い。
何も大きなことがなくて。
ただ会って。
並んで。
話して。
それだけの日。
それでいい。
むしろ。
こういう日も好きだと思った。
◇
昼食を食べ終え、もう一度少しだけ本を読んでから、私はスマートフォンで時間を確認した。
午後一時前。
「真理」
「何?」
「帰る?」
昨日なら、その言葉だけで胸が寂しくなった。
今日も帰りたくない気持ちはある。
でも昨日とは少し違う。
昨日は朝から一日歩いた。
今日は今日で朝から会っている。
そして明日は学校だ。
「二時くらいまで」
私は答えた。
「うん」
「それで帰る」
「分かった」
春斗はすぐ受け取る。
「寂しい?」
今度は私から聞いてみた。
「少し」
「私も」
でも。
次が分かっている。
明日、学校で会える。
春斗は今日だけの彼氏ではない。
そのことを、昨日より少しだけ信じられるようになっていた。
「春斗」
「何?」
「明日」
「うん」
「学校では……普通?」
春斗がこちらを見る。
「普通って?」
「手とか」
「学校では繋がない」
「うん」
「見せつけるみたいなのはしない」
「うん」
「でも隠さない」
それが一番しっくりきた。
「竹下くんもいるしね」
「うん」
「愛ちゃんも」
「うん」
「石井さんも」
「たぶん何か言われる」
「絶対言われる」
二人で笑う。
でも学校へ戻れば、私と春斗だけではない。
愛ちゃんがいる。
石井さんがいる。
小野寺くんもいる。
そして竹下くんもいる。
私が一度は好きになって、告白されて、それでも最後には断った人。
私と春斗が付き合い始めたからといって、それまでの人間関係が全部なくなるわけではない。
だからこそ、変に見せつけたくはない。
でも、隠して嘘をつくのも違う。
「真理」
「何?」
「また考えてる」
「明日、普通にできるかなって」
「無理じゃない?」
「即答しないで」
「真理、顔に出るから」
「春斗もでしょ」
「俺も?」
「昨日からすぐ嬉しそうな顔する」
「真理のせい」
「私?」
「うん」
「何で」
「嬉しいこと言うから」
「……またそういうこと言う」
私が少し睨むと、春斗は楽しそうに笑った。
でもすぐに、少し真面目な顔になる。
「隠さない」
「うん」
「見せつけもしない」
「うん」
「学校では学校で、普通に付き合う」
その言葉を聞くと、胸が少し落ち着いた。
「それがいい」
「うん」
普通。
その普通がどういうものなのかは、まだ二人とも知らない。
でも明日から、一緒に見つければいい。
◇
午後一時半。
私たちは公園のベンチから立ち上がった。
そろそろ駅へ戻る。
また自然に手を繋ぐ。
朝九時に会ってから、もう四時間以上経っていた。
大きなことは何もしていない。
散歩して、公園で話して、本を読んで、コンビニで昼食を買った。
それだけ。
でも楽しかった。
「真理」
「何?」
「今日」
「うん」
「キスしなかったな」
胸が鳴る。
「……うん」
「嫌?」
「違う」
すぐに答えた。
「むしろ、よかったかも」
「何で?」
春斗が少し意外そうにする。
私は繋いでいる手へ視線を落とした。
「昨日、初めてして」
「うん」
「今日また会って」
「うん」
「普通に話して、手繋いで、本読んで」
「うん」
「それでもちゃんと恋人だったから」
春斗が少しだけ歩く速度を緩めた。
「キスしないと恋人じゃないとか、そういうわけじゃないんだって」
「うん」
「今日、それが分かった」
春斗はしばらく考えてから笑った。
「俺も」
「本当?」
「うん」
「そっか」
「でも」
春斗が続ける。
「またしたい」
顔が熱くなる。
「……うん」
「真理は?」
昨日なら逃げていたかもしれない。
でも今日は。
少しだけなら言える。
「私も」
春斗の足が止まった。
「何」
「もう一回」
「嫌」
「聞こえた」
「じゃあ聞かないで」
恥ずかしくなって歩き出す。
でも春斗は手を離さない。
むしろ少しだけ強く握った。
「次」
春斗が小さな声で言う。
「ちゃんと聞く」
「うん」
「勝手にしない」
「うん」
私は少し笑った。
そして。
「待ってる」
口から出た。
言った瞬間、今度は私の足が止まった。
春斗も止まる。
「真理」
「何」
「今の」
「忘れて」
「無理」
「もう……」
春斗の腕を軽く叩く。
でも逃げない。
むしろそのまま少し近づいた。
肩が触れる。
春斗が分かりやすく嬉しそうな顔をした。
それを見て。
私も嬉しくなった。
◇
岩瀬駅へ戻ってきたとき、昨日ほど強い寂しさはなかった。
もちろん離れたくない。
まだ一緒にいたい。
でも明日また会える。
学校がある。
春斗は彼氏のまま。
今日が終わったら普通の幼馴染へ戻るわけではない。
そのことを、昨日より少しだけ信じられる。
「春斗」
「何?」
「昨日、何回も確認したじゃん」
「彼氏?」
「うん」
「今日もする?」
春斗が笑う。
私は少し考えてから答えた。
「一回だけ」
「何?」
「明日も?」
「彼氏」
即答。
胸が温かくなる。
「月曜も?」
「明日月曜」
「あ」
春斗が吹き出した。
「真理」
「何」
「曜日分かってる?」
「分かってる! 間違えただけ!」
「じゃあ明後日」
「火曜」
「彼氏」
「来週」
「彼氏」
「来月」
春斗が少しだけ止まった。
昨日なら「彼氏」と即答していたかもしれない。
でも今日は、少し考えたあとで言った。
「来月も彼氏でいたい」
胸が鳴った。
絶対とは言わない。
未来は分からない。
高校生の私たちが、この先どうなるのかなんて誰にも分からない。
でも。
いたい。
そう思ってくれている。
それで十分だった。
「私も」
答える。
「来月も、春斗の彼女でいたい」
春斗の目元が柔らかくなる。
「うん」
それから二人で少し歩き、いつもの駅前まで戻った。
「じゃあ明日」
「学校」
「朝は送迎?」
「たぶん、うち」
「じゃあ真理の家寄る」
「うん」
「普通に乗る」
「……無理かも」
「何で?」
「お母さんいる」
「昨日もいたじゃん」
「キスしたあと、春斗と一緒に会うの初めて」
言ってから、自分で顔が熱くなった。
春斗も一瞬固まる。
「……確かに」
「でしょ」
「何か言われるかな」
「絶対言われる」
「真理、顔に出るし」
「春斗も出る」
「俺は普通」
「嘘」
二人で笑う。
明日は。
家族の前で。
学校で。
友達の前で。
初キスをしたあと初めて、いつもの日常へ戻る。
少し怖い。
でも楽しみでもある。
「春斗」
「何?」
「明日、学校で」
「うん」
「目が合ったら」
「うん」
「キス思い出すかも」
春斗の顔が分かりやすく赤くなった。
「真理」
「何」
「俺も」
私は笑った。
「じゃあ二人で赤くなるね」
「最悪」
「すぐバレる」
「愛ちゃんに」
「石井にも」
「竹下くんは……」
そこで少しだけ空気が変わった。
でも、以前ほど重くはない。
「普通にする」
春斗が言う。
「うん」
「変に隠さない」
「うん」
「でも、見せつけない」
「うん」
私は頷いた。
これから、私と春斗の恋愛はもっと進むのかもしれない。
手を繋ぐことにも慣れて。
抱き締めることにも慣れて。
キスだって、いつか昨日ほど緊張しなくなるのかもしれない。
でも、私たちの周りにはちゃんと他の人がいる。
誰かの気持ちを踏みつけてまで、自分たちが幸せだと見せたいわけではない。
だからといって、付き合っていることを隠したいわけでもない。
二人でいられるところでは二人でいればいい。
学校では学校で、周りも見ながら自然に過ごせばいい。
春斗の言う「普通に付き合う」という言葉は、たぶんそういう意味なのだと思った。
「真理」
「何?」
「今日は会えてよかった」
「うん」
「昨日の続き、ちゃんとできた気がする」
胸が少し温かくなる。
「私も。昨日キスして、それで終わりじゃなくて、今日また会って普通に笑えた」
「うん」
「それ、かなり嬉しい」
春斗が笑った。
「取った」
「何が」
「かなり」
「使えるでしょ」
「俺の」
「言葉に所有権ないから」
「返して」
「嫌」
また二人で笑った。
いつもの駅前。
昨日はここで離れることが、あんなに寂しかった。
今日は少し違う。
寂しさはある。
でも、その向こうに明日が見える。
「じゃあ」
春斗が言う。
「また明日」
「うん」
「朝」
「うん」
「真理」
「何」
「キス」
「しない!」
反射的に答えた。
春斗が吹き出す。
「違う」
「何」
「明日、思い出して赤くなっても逃げるなよ」
私は少し笑った。
「春斗も」
「うん」
「目逸らさないで」
「頑張る」
「私も頑張る」
繋いでいた手を離す。
昨日よりは寂しくない。
でも、春斗の温度がなくなった掌は、やっぱり少しだけ冷たく感じた。
「またね」
「うん」
数歩進みかけて。
私は振り返る。
「春斗」
「何?」
「好き」
今日の最後に、ちゃんと言いたかった。
春斗は少し驚いた顔をした。
でもすぐに笑う。
「俺も好き」
それを聞いてから、私はもう一度歩き出した。
少し進んで振り返る。
春斗はまだそこにいた。
小さく手を振る。
私も振り返した。
昨日、初めてキスをした。
今日、もう一度会った。
今日はキスをしなかった。
でも。
昨日より少しだけ、恋人になれた気がした。
触れることだけが、近づくことではない。
会いたいと言って、本当に会うこと。
恥ずかしくても相手の顔を見ること。
昨日のことを二人で話すこと。
嫌なことは嫌だと言って、したいことは少しずつ伝えること。
何もしなくても、同じ場所で同じ時間を過ごして楽しいと思えること。
そして。
次もまた会いたいと思えること。
きっと、その全部が私たちにとっては大切なのだと思う。
私はまだ、彼女になったばかりだ。
春斗だって、彼氏になったばかり。
だから分からないことがあっていい。
何度確認してもいい。
少しずつ。
二人で慣れていけばいい。
そして明日。
私たちは学校へ戻る。
幼馴染として何年も過ごしてきた日常の中へ、今度は彼氏と彼女として。
初めてのキスをしたことを、二人だけが知ったまま。
たぶん私は、教室へ入る前から春斗の顔を見ただけで昨日を思い出す。
春斗も同じらしい。
だったら。
二人で赤くなればいい。
愛ちゃんには、きっとすぐに気づかれる。
石井さんにも何か言われるだろう。
竹下くんと顔を合わせたとき、私は少し戸惑うかもしれない。
それでも。
明日も春斗は私の彼氏で。
私は春斗の彼女だ。
そのことだけは。
昨日より少しだけ。
自然に信じられるようになっていた。




