第47話 初キスをした帰り道、彼氏と離れるだけなのに私は次に会う約束を何度も確認してしまいました
水戸駅の改札を通ったあとも、私は何度か春斗の顔を見ようとして、そのたびに途中で視線を逸らしてしまった。
ほんの少し前までなら、こんなことはなかった。朝から何度も手を繋いで、木下書房では私の知らなかった春斗の昔を聞き、図書館では十年後も隣にいられたらいいとまで話した。公園では二度も抱き締め合ったし、それでも春斗の顔を見ることくらいは普通にできていた。
でも、今は違う。
小さな公園の木陰に置かれたベンチ。少し震えていた春斗の声と、「キスしていい?」と尋ねられた瞬間の緊張。それから、私が「していいよ」と答えて目を閉じたあと、ほんの一瞬だけ唇が触れた感覚。
思い出すたびに、自分の唇まで妙に熱くなった気がする。
「真理」
隣を歩いていた春斗に呼ばれ、私は正面を向いたまま返事をした。
「何?」
「また逸らした」
「何を?」
「目。今ので三回目」
「数えないでよ」
春斗は楽しそうに笑っている。私はむっとして前を向いたけれど、たぶん耳まで赤くなっていることも春斗には分かっている。
休日の改札内はそれなりに混んでいた。電光掲示板には岩瀬方面へ向かう列車の時刻が表示され、ホームへ続く階段には、買い物帰りらしい家族連れや学生がゆっくり流れていく。
今から電車へ乗る。
岩瀬へ帰る。
そこまでは春斗と一緒なのに、改札を通っただけで「今日が終わる」ということが急に現実味を帯びてきた。
「春斗、電車まで何分?」
「あと九分くらい」
「そっか」
私が小さく答えると、春斗が横から覗き込んできた。
「乗り遅れたい?」
「違う」
「少しそういう顔してた」
「してないよ」
「してた」
また簡単に見抜かれる。私は少し迷ったものの、今日はできるだけ思ったことを言おうと決めたことを思い出し、小さく息を吐いた。
「……帰るのが、ちょっと寂しいだけ」
口にしたあと、すぐ恥ずかしくなるかと思った。でも今日はもう、それ以上に恥ずかしい言葉を何度も春斗へ伝えている。
好き。
帰りたくない。
抱き締めて。
キスしていいよ。
そこまで言った私なら、「寂しい」くらいは、まだ言える。
春斗は数秒だけ黙ってから、少しだけ表情を柔らかくした。
「俺も」
「本当?」
「うん」
「どれくらい?」
「かなり」
「またそれ」
「一番分かりやすいから」
春斗はそう言って、改札を通るときに一度離していた私の手へ自分の指を絡めた。
また手が繋がる。
人は多いし、同じ学校の生徒が近くにいてもおかしくない。でも今は、そんなことより、あとどれくらいこの手を繋いでいられるのかという方が気になった。
私は無意識に少し強く握っていたらしい。
「真理、強い」
「え?」
「手」
「あ、ごめん」
慌てて少し力を緩めようとすると、春斗は離さないまま首を横へ振った。
「だから嫌じゃないって」
「でも痛かったら言ってね」
「痛くない」
「本当?」
「うん」
春斗が少し笑う。
「真理、今日それ多いな」
「何が?」
「大丈夫? 本当? 嫌じゃない? って」
「春斗も同じでしょ」
「そうかも」
「だからお互い様」
「うん」
何でもない会話だった。でも、その間もずっと手は繋がっている。
それだけで、私は少し安心した。
◇
ホームへ降りると、ちょうど前の列車が出たあとだったらしく、人の流れは少し落ち着いていた。
ベンチには買い物帰りらしい年配の夫婦が並んで座り、少し離れた場所では部活動帰りと思われる高校生三人が笑いながら話している。線路の向こうから夕方の風が入り込み、ホームの屋根の下へ溜まった昼の熱を少しずつ運んでいった。
私と春斗は、人の少ない端寄りへ移動した。
「座る?」
春斗に聞かれたけれど、私は少し考えて首を横へ振った。
「立ってたい」
「疲れてない?」
「少しは疲れてる」
「じゃあ座ればいいのに」
「でも……今、春斗と並んでたい」
言ってから、自分でも少し驚いた。
春斗も同じだったらしく、一度目を瞬かせる。
「……今も並んでるけど」
「そういう意味じゃないの」
「分かってる」
「じゃあ言わないで」
春斗は小さく笑った。
「今日、本当に素直だな」
「それ、ずっと言われてる」
「だって本当だから」
「春斗が言わせてるんでしょ」
「俺?」
「うん」
私は繋いでいる手をほんの少し揺らした。
「春斗が好きとか、会いたいとか、嬉しいとか、ちゃんと言うようになったから。私だけ黙ってるのが嫌になった」
春斗の表情が少し変わった。からかうような笑顔ではなく、本当に嬉しいときの柔らかな顔になる。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、もっと言う」
「急に増やさないで」
「何で?」
「処理できないから」
「真理も言うなら同じだろ」
「私は少しずつ」
「ずるい」
二人で笑った。
そのとき、ホームの向こう側から少し強い風が流れてきた。私は反射的に髪を押さえ、指先が白いヘアピンへ触れる。
朝。
春斗との最初のデートだからと選んだ、新しい白いピン。
それに触れた瞬間、今日一日の出来事が一気に頭へ浮かんだ。
木下書房。
中学生の頃から、春斗が私の話を店主さんへ何度もしていたこと。
図書館。
小学生の私が書いた『十年後も好きな場所』。
大人になっても幼馴染と近くにいたい、と書いていた昔の自分。
そして。
初めてのキス。
胸がまた騒がしくなる。
「真理」
「何?」
「今度は何?」
「何が」
「また顔赤い」
「風」
「風で?」
「そう」
「絶対違う」
春斗がこちらを見る。
何を言われるのか何となく分かってしまい、私は先に釘を刺した。
「春斗、キスのこと言わないで」
「まだ何も言ってない」
「言いそうだった」
「言おうとはした」
「やっぱり!」
春斗が笑う。
でも、そのあと少しだけ声を落とした。
「俺も思い出したから」
胸が大きく鳴った。
「だから言わないでって」
「ごめん」
「本当に?」
「少しだけ」
「少しなの?」
「でも、嬉しい」
春斗の声が急に真面目になった。
私は一瞬だけ迷ったあと、小さく答える。
「……私も」
それ以上、春斗は何も言わなかった。
ただ、繋いだ手へ少し力を入れた。
それで十分だった。
◇
やがて電車がホームへ入ってきた。
車輪の金属音と風圧が近づき、私たちは黄色い線より少し内側へ下がる。扉が開くと、先に降りてくる人を待ち、それから二人で車内へ入った。
土曜日の夕方ということもあり、まだ混み切るほどではない。二人で並んで座れる席を見つけ、行きと同じように私が窓側、春斗が通路側へ腰を下ろした。
朝、岩瀬から水戸へ向かったときも同じ並びだった。
でも、あのときと今では全然違う。
行きは、今日何が起きるのだろうと緊張していた。
帰りは、今日起きたことを思い返して緊張している。
春斗が座席の間で私の手へ触れた。私も自然に指を寄せ、また恋人繋ぎになる。
「真理」
「何?」
「今日、一番よかったの何?」
「一個だけ?」
「一個」
「無理」
「じゃあ三つ」
「それでも無理」
「そんなに?」
「いっぱいある」
私は少し窓の外を見た。
まだホームには何人か人が歩いている。
「木下書房もよかったし、図書館もよかった。パスタも美味しかったし、ブックマーカーも嬉しかったし……」
「うん」
「あと……」
そこで止まる。
春斗が待っているのが分かる。
言いたい。
でも、言ったら絶対にまた意識する。
「何?」
「聞かないで」
「分かった」
あっさり引かれた。
それも少しだけ物足りなくて、結局私は自分から続けた。
「……でも」
「うん」
春斗を見る。
一瞬だけ。
「キスも」
言った直後、すぐ窓へ顔を向けた。
春斗は何も言わない。
その沈黙が、逆に恥ずかしい。
「何か言って」
「言ったら怒る?」
「内容による」
「かなり嬉しい」
「それならいい」
「いいんだ」
「それ以外は言わないで」
「例えば?」
「もう一回とか」
口にした瞬間、やってしまったと思った。
春斗がこちらを見る。
「真理」
「何」
「自分から言った」
「違う!」
「何が?」
「例だから!」
「うん」
「例。だからそれ以上広げない」
「じゃあ聞かない」
またあっさり引いた。
それも。
少しだけ。
物足りない。
本当に、今日の私は面倒くさい。
◇
電車が水戸駅を離れ、窓の外の建物が少しずつ流れていく。
私はしばらく黙って景色を見ていたけれど、胸の中へ別の不安が浮かんできた。
「春斗」
「何?」
「明日」
「うん」
「本当に会う?」
春斗が少し驚いた顔をした。
「会いたいって言っただろ」
「うん」
「真理も会いたいって言った」
「うん」
「じゃあ会う」
「何時?」
「早いな」
「だって」
「帰ってから決めるんじゃなかった?」
「そうだけど……」
春斗は少しだけ私の顔を見て、それから声を落とした。
「不安?」
図星だった。
自分でも、何が不安なのか分かっていなかった。
今日が楽しかった。
春斗が彼氏として隣にいてくれた。
何度も好きと言われて、手を繋いで、抱き締められて、キスまでした。
なのに。
今日が終わったら。
明日の朝になったら。
いつもの幼馴染へ戻ってしまいそうな気がした。
「……今日が終わったら、春斗がまた普通の幼馴染に戻りそうで」
口にした瞬間、自分でも驚いた。
そんな不安があったんだ。
春斗は少しだけ黙ったあと、すぐに言った。
「戻らない」
「本当?」
「うん」
「明日も?」
「彼氏」
「月曜も?」
「彼氏」
「来週も?」
「彼氏」
「……」
春斗が少し笑う。
「いつまで確認する?」
「分からない」
「じゃあ、真理が慣れるまで毎日言う?」
「何を?」
「俺が彼氏だって」
顔が熱くなる。
「それは恥ずかしい」
「じゃあどうするんだよ」
「でも、たまには言ってほしい」
「真理」
「何」
「やっぱり面倒」
「分かってる!」
春斗が笑う。
でも、その直後。
「でも好き」
何でもないみたいに言った。
「そういうの急に言わないで」
「彼氏だから」
「便利にしないで」
「真理も今日使ってた」
「今日は特別なの」
「俺も特別」
そんなやり取りをしているうちに、胸の不安が少しだけ軽くなった。
今日だけ恋人だったわけではない。
初デートだから特別に彼氏と彼女をやっていたわけでもない。
明日も。
月曜日も。
普通に制服を着て学校へ行く日も。
春斗は私の彼氏だ。
まだ私は、その事実を何度も確認しないと安心できない。
でも。
春斗は面倒だと言いながら、ちゃんと答えてくれる。
それなら。
少しずつ慣れていけばいい。
◇
電車が水戸の街を抜けると、窓の外には住宅と田畑が少しずつ増えていった。
朝から早く起き、一日歩き回り、気持ちも何度も大きく揺れたせいか、急に眠気が押し寄せてくる。
「真理、眠い?」
「少し」
「朝早かったからな」
「春斗もでしょ。五時だっけ?」
「うん」
「私は五時四十一分」
「勝った」
「何の勝負?」
「早起き」
「それなら負けて嬉しい」
「何で?」
「春斗も楽しみで寝られなかったんでしょ」
聞くと、春斗は今度もごまかさなかった。
「うん」
その一言が嬉しい。
昔の春斗なら、たぶん「別に」とか「たまたま」とか言っていた。
今は。
楽しみだったと認める。
会いたかったと言う。
嬉しいと伝える。
それが、私は好きだ。
「寝てもいいよ」
「電車で?」
「うん」
「春斗いるし」
「いる」
私は少し迷った。
本当に眠い。
車内の一定の揺れと、繋いだ手の温かさが気持ちいい。
「寝たら起こして」
「岩瀬で」
「その前」
「何で?」
「寝顔見られる時間長くなるから」
「それは起こせない」
「春斗」
「冗談」
「最近、冗談多い」
「真理が反応するから」
「そればっかり」
私は笑った。
でも、瞼は本当に重くなってくる。
窓へ頭を預けようとしたのに、何となく春斗の方へ視線が向いた。
「真理」
「何?」
「寝る?」
「まだ」
「もう眠そう」
「……春斗見てたい」
口から出た。
自分で言ってから固まる。
春斗も固まった。
「……」
「今のなし」
「無理」
「寝ぼけてる」
「まだ寝てない」
「もう寝る!」
私は恥ずかしさから逃げるように窓側へ身体を寄せた。
でも。
嘘ではない。
朝、「今日は春斗を一番見る」と言った。
まだ見ていたい。
今日が終わるまで。
少しでも。
「真理」
「何」
「俺も見てたい」
「それじゃ寝られないでしょ」
「寝たら見る」
「やめて!」
春斗が笑う。
私も笑ってしまう。
そして、そのあと。
気づいたら。
本当に眠っていた。
◇
次に目を開けたとき、最初に見えたのは春斗の肩だった。
「……え?」
ぼんやりしていた頭が一気に目覚める。
私の頬が。
春斗の肩へ乗っている。
寝る前は、窓側へ寄ったはずだった。
それなのに電車の揺れで身体が傾いたのか、いつの間にか春斗側へ寄りかかっていたらしい。
「起きた?」
頭の上から春斗の声がした。
「……うん」
「おはよう」
「何分寝た?」
「二十分くらい」
「そんなに?」
「うん」
「何で起こさないの!」
「寝てたから」
「だから!」
私は急いで身体を起こす。
その動きで、春斗が少し肩を回した。
「重かった?」
「全然」
「嘘」
「本当」
「寝顔見た?」
「見た」
「最悪」
「可愛かった」
「もっと最悪!」
思わず声が少し大きくなった。
近くに座っていた年配の女性がこちらを見て、口元を少し緩めている。たぶん全部聞かれている。
さらに恥ずかしくなった。
「春斗」
「何」
「もう喋らない」
「何で」
「恥ずかしい」
「キスより?」
「今それ言わないで!」
春斗が笑う。
もう本当に強い。
そのとき、ふと気づいた。
手。
まだ繋いでいる。
「春斗」
「何?」
「手、寝てる間も?」
「うん」
「離さなかったの?」
「真理が握ってた」
見る。
確かに私の指は、眠っていたとは思えないくらいしっかり春斗の指へ絡んでいる。
「……」
「真理」
「何」
「離したくないって言ってたし」
「言わないで」
「寝てても実践してる」
「言わないで!」
春斗は楽しそうに笑う。
私は恥ずかしい。
でも。
繋いでいる手は。
結局、離さなかった。
◇
岩瀬駅が近づくにつれて眠気は完全に消え、その代わり、さっき一度薄れた寂しさが戻ってきた。
駅へ着いたら家は近い。
今日ずっと一緒にいた春斗とは、そこで別れる。
「真理」
「何?」
「また顔」
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「寂しい顔でしょ」
「うん」
私は少し笑った。
「本当に分かるようになったね」
「昔から分かってた」
「嘘」
「今は言うようになっただけ」
胸が少し止まる。
「前から?」
「うん」
「全部?」
「全部じゃない。でも真理が嬉しいとか、怒ってるとか、寂しいとかはだいたい」
「だったら言ってよ」
「前は幼馴染だったから」
「今は?」
春斗は迷わなかった。
「彼氏だから言う」
また、その言葉。
何度聞いても、今は嬉しい。
だから。
私も。
ちゃんと口にする。
「じゃあ……寂しい」
「うん」
「帰るの」
「うん」
「まだ一緒にいたい」
春斗の目が少し柔らかくなる。
「俺も」
「でも帰る」
「うん」
「また明日」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
「何時?」
春斗が笑った。
「帰ってから決める」
「絶対?」
「絶対」
「メッセージする?」
「する」
「電話は?」
「したい?」
聞かれて、私は少しだけ迷った。
でも。
もう答えは分かっている。
「……したい」
「じゃあする」
「何時?」
「真理」
「何」
「まだ電車の中」
「でも」
「帰ってから決めよう」
「うん」
自分でも少ししつこいと思う。
それでも今は、何度も確認したい。
今日が終わっても。
次がある。
春斗とまた会える。
そのことを。
何度でも聞きたい。
◇
夕方の岩瀬駅へ電車が滑り込み、私たちはホームへ降りた。
朝、待ち合わせをした場所。
同じ駅。
同じホーム。
なのに。
今は全然違う場所に見える。
朝は、私服姿の春斗を見て格好いいと思った。
春斗から「可愛い」と言われて顔が熱くなった。
最初から手を繋いだ。
そして水戸へ行って。
今は。
初めてキスをしたあとで。
同じ駅へ帰ってきた。
「真理」
「何?」
「ここ、朝と違うな」
「私も思った」
二人で改札へ向かう。
夕方の光がホームの床へ長い影を落としている。行き交う人は水戸よりずっと少なく、昼間とは違う落ち着いた空気が駅全体へ広がっていた。
改札を出て駅前へ向かう。
迎えの車が何台か停まっているけれど、私の母の車はまだ見えない。
スマートフォンを確認すると、少し前に母から連絡が来ていた。
『あと十分くらい』
「お母さん、あと十分だって」
「じゃあ待つ」
「春斗、帰らないの?」
「真理を一人で待たせる?」
「まだ明るいよ」
「でも待つ」
胸が温かくなる。
「彼氏だから?」
「それも」
「便利」
「あと」
春斗が少しだけ笑う。
「まだ一緒にいたい」
胸が大きく鳴る。
「私も」
今度はすぐ答えられた。
二人で朝に座った駅前のベンチへ向かう。
今日の最初に春斗と会った場所。
そしてたぶん、今日最後に二人で並んで座る場所。
それだけで。
少し寂しい。
◇
ベンチへ座ってすぐ、春斗が私を見た。
「真理」
「何?」
「今日」
「うん」
「もう一回」
胸が大きく鳴った。
何を?
キス?
すぐにそう思ってしまった自分が恥ずかしい。
でも春斗は続けた。
「写真見せて」
「……写真?」
「ブックマーカーのやつ」
「あ、うん」
ほっとする。
それなのに。
ほんの少しだけ残念に思った。
また。
この感覚。
本当に面倒くさい。
「何?」
春斗にすぐ気づかれる。
「何でもない」
「今、何かあった」
「言わない」
「何考えた?」
「絶対言わない」
春斗は少し私を見てから、口元を緩めた。
「キス?」
「春斗!」
当たった。
顔が一気に熱くなる。
「やっぱり」
「何で分かるの!」
「今日の真理、分かりやすい」
「いっぱい考えることあるでしょ!」
「でも今の顔はそれ」
「嫌!」
私は少し怒ったふりをする。
でも。
結局すぐ笑ってしまった。
春斗も笑っている。
「春斗」
「何?」
「今日……二回目」
言いかける。
春斗の表情が少し変わる。
「何?」
ここは駅前だ。
人もいる。
あと数分で母が来る。
今日はもう。
ここではしない。
それは決められる。
「今日は、もういい」
「キス?」
「うん」
春斗の表情に一瞬だけ残念そうなものが浮かんだ。
でも。
すぐに頷く。
「分かった」
その返事が嬉しい。
私が「今日はしない」と言えば、それで止まってくれる。
「でも」
私は続けた。
「次」
「うん」
「またしたい」
春斗が完全に止まった。
「真理」
「何」
「今、言った」
「言ったよ」
「今日もう一回じゃなくて?」
「うん。今日はもういい」
「じゃあ次」
「次のデートとか……そのとき」
顔が熱い。
でも。
もうここまで言った。
「聞いて」
春斗は数秒何も言わなかった。
それから、ゆっくり笑う。
「分かった」
「うん」
「絶対聞く」
「絶対は恥ずかしい」
「真理」
「分かってる」
私も笑った。
恥ずかしいけれど。
嬉しい。
◇
しばらくして、見慣れた母の車が駅前へ入ってきた。
それを見つけた瞬間。
胸の奥が、また寂しくなる。
「来た」
「うん」
春斗が立ち上がる。
私も立つ。
手は、まだ繋いだままだった。
車が近づいてくる。
そろそろ離さないといけない。
でも。
嫌。
「真理」
「何?」
「手」
「うん」
「お母さん、もう見てるかも」
車を見る。
運転席の母はこちらへ向かっている。
たぶん。
もう見えている。
「離す?」
春斗が聞く。
私は少しだけ迷った。
でも、首を横へ振る。
「車が止まるまで」
「うん」
あと数秒。
それだけなのに。
私は春斗の手を少し強く握った。
車が目の前へ停まり。
そこでやっと。
指を離した。
掌が急に冷たく感じる。
「じゃあ」
春斗が言う。
「うん」
「帰ったら連絡」
「する」
「電話」
「する」
「明日」
「決める」
「絶対?」
「絶対」
「次のデート」
「それも決める」
春斗が少しだけ笑う。
「キスも」
「春斗!」
「次は聞く」
「……うん」
母が車の中からこっちを見ている。
絶対にあとで何か言われる。
でも今は、それより春斗の方が気になった。
「またね」
「うん」
春斗が少し笑う。
「また明日」
その言葉だけで、胸の奥がすごく安心した。
「うん。また明日」
私は車へ乗り込む。
ドアを閉める。
窓の向こうには春斗がいる。
母が車を発進させると、私は反射的に振り返った。
春斗はまだ駅前に立っていて、小さく手を振っている。
私も振り返す。
車が角を曲がり。
春斗が見えなくなるまで。
私はずっと。
後ろを見ていた。
◇
「で?」
前を向き直った直後、母の第一声が飛んできた。
「何」
「どうだった?」
「楽しかった」
「それだけ?」
「それだけ」
「朝、あんなに緊張してたのに?」
「楽しかったもの」
母は運転しながら少し笑う。
「春斗くん、ちゃんとしてた?」
「ちゃんとしてた」
「どこ行ったの?」
「木下書房行って、パスタ食べて、図書館行って、最後に雑貨屋」
「いいね」
「ブックマーカー買った」
「お揃い?」
私は思わず母の横顔を見る。
「何で分かるの」
「その言い方」
「……うん」
「見せて」
「家で」
「写真ある?」
「ある」
「あとで見せてね」
「うん」
母は満足そうに少し頷いた。
「いい顔してる」
「何が」
「真理」
「また?」
「朝と全然違う」
胸が少し鳴る。
「どう違うの?」
「ちゃんと楽しんできた顔」
「何それ」
「楽しかったんでしょう?」
「うん」
「ならよかった」
それ以上、母はすぐには何も聞かなかった。
キスの話もしない。
助かる。
でも。
もしかして。
顔に出てる?
絶対。
言えない。
そう思ったところで。
「真理」
「何」
「春斗くんと何かあった?」
「何もない!」
反射的に大声が出た。
母が笑う。
「あるね」
「ない!」
「はいはい」
「本当に!」
「じゃあ聞かない」
そう言われると、逆に恥ずかしい。
私は逃げるように窓の外を見た。
夕方の住宅街がゆっくり流れていく。
そして。
また。
自分の唇を意識した。
春斗とキスした。
母は知らない。
私と春斗だけが知っている。
そのことが。
少しくすぐったかった。
◇
家へ着いたのは、夕方五時前だった。
玄関を上がると、私はそのまま自分の部屋へ向かった。バッグを椅子へ置き、着替えるより先にベッドへ腰を下ろす。
ほっとした瞬間。
今日一日の疲れが一気に出た。
それでも、真っ先に手へ取ったのはスマートフォンだった。
通知。
春斗。
『着いた?』
早い。
私は思わず笑う。
『今着いた』
送ると、ほとんど間を置かず既読がついた。
『俺も』
『歩き?』
『うん』
『疲れた?』
『少し』
『私も』
少しだけ間が空いた。
『今日ありがとう』
春斗から届く。
胸が温かくなる。
『私もありがとう』
『楽しかった』
『私も』
『かなり』
『またそれ』
『真理も使っていい』
『もう使ってる』
一人で笑ってしまった。
それから。
少し迷って。
『春斗』
『何』
『明日』
『うん』
『本当に会う?』
送った。
また確認している。
自分でも分かる。
しつこい。
それでも春斗は、すぐに返してくれた。
『会う』
その二文字だけで、胸が落ち着く。
『何時』
『七時は早い?』
『朝?』
『うん』
『早い』
『じゃあ九時』
『どこ』
『いつもの駅』
今日、朝に待ち合わせをした場所。
また明日。
同じ場所で。
『うん』
送る。
少しして、春斗からまた来た。
『真理』
『何』
『明日はデート?』
少し考える。
今日が初デート。
明日はただ会うだけ。
大きな予定はない。
『分からない』
『会うだけ?』
『それでもいい』
送る。
少しだけ間があった。
『俺も』
さらに。
『会いたい』
胸が温かくなる。
私はもう迷わなかった。
『私も』
◇
その直後。
また春斗から通知が来た。
『電話』
時計を見る。
まだ夕飯までは少し時間がある。
『今?』
『嫌?』
『嫌じゃない』
『じゃあ』
数秒後。
着信音。
画面には春斗の名前。
私は少しだけ深呼吸してから通話ボタンを押した。
「もしもし」
『真理』
「何」
『声』
「何が?」
『さっきまで聞いてたのに』
「うん」
『もう聞きたかった』
顔が熱くなる。
「春斗」
『何』
「重い」
『嫌?』
「嫌じゃない」
『じゃあいい』
最近の春斗。
本当に強い。
でも。
私も。
少し変わった。
「私も」
『何?』
「声、聞きたかった」
電話の向こうが静かになる。
「春斗?」
『今日』
「うん」
『帰したくなかった』
「うん」
『でも帰した』
「知ってる」
『今は』
「うん」
『電話で我慢する』
胸が温かい。
「私も」
『うん』
少しだけ沈黙が続いた。
電話なのに。
無理に何か話さなくても嫌じゃない。
春斗の小さな息遣いが聞こえるだけで、近くにいるような気がした。
「春斗」
『何』
「今日」
『うん』
「キス」
自分から言った。
電話の向こうが完全に静かになる。
「……春斗?」
『自分から言うんだ』
「切るよ」
『待って』
「じゃあ言わないで」
『分かった』
私も少し笑う。
「今日」
『うん』
「一回でよかった」
『うん』
「初めてだったし」
『うん』
「でも」
『うん』
顔が熱い。
でも。
電話だから春斗の顔は見えない。
その分だけ。
少し言いやすい。
「次」
『うん』
「また聞いて」
電話の向こうで、春斗が小さく息を吸った。
『うん』
優しい声。
『聞く』
「勝手にしないで」
『しない』
「でも」
『うん』
言うか少し迷う。
それでも。
「……あんまり怖がりすぎないで」
自分で言って、その意味を考える。
春斗はずっと待ちすぎた。
我慢しすぎた。
私を怖がらせたくなくて、自分の気持ちを飲み込んできた。
今は。
私は春斗の彼女だ。
全部分かっているわけではないけれど。
春斗が私に近づきたいと思っていることも。
触れたいと思っていることも。
少しずつ分かっている。
『真理』
「何」
『それ、どういう意味?』
「自分で考えて」
『難しい』
「頑張って見極めるんでしょ」
『そうだった』
「頑張って」
『うん』
私は笑う。
電話の向こうでも、春斗が少し笑ったのが分かった。
今日の初デートは終わった。
でも。
春斗の声は今ここにある。
明日、また会う。
次のデートもする。
またキスするかもしれない。
そういう「次」がもうある。
だから。
今日が終わったことは寂しいけれど。
もう怖くはない。
「春斗」
『何?』
「明日、絶対来てね」
『行く』
「私も行く」
『うん』
「九時」
『駅』
「うん」
少し間を置いて、春斗が言った。
『真理』
「何」
『明日も彼氏だから』
胸が止まりそうになった。
電車の中で私が言ったこと。
今日が終わったら、普通の幼馴染へ戻ってしまいそうで怖い。
春斗は。
ちゃんと覚えていた。
「……うん」
『月曜も』
「うん」
『その次も』
「うん」
『だから大丈夫』
胸が温かい。
少しだけ目の奥まで熱くなる。
「春斗」
『何』
「好き」
今日は何度目だろう。
でも。
言いたい。
だから言う。
電話の向こうで、春斗がほんの少し息を止めたのが分かった。
『俺も好き』
今度も。
すぐに返ってきた。
その声を聞いて。
私はようやく。
今日のデートからちゃんと家へ帰ってきたような気がした。
初めてのデートは終わった。
初めてのキスもした。
でも、恋人でいる時間まで終わるわけではない。
明日も会う。
月曜も会う。
その先も。
私はまだ「春斗の彼女」という新しい自分に慣れていなくて、たぶん何度も不安になり、そのたび何度も確認する。
そして春斗も。
面倒だと言いながら。
きっとそのたび答えてくれる。
それなら。
少しずつ慣れていけばいい。
私はベッドへ横になり、スマートフォンを耳へ当てたまま小さく笑った。
「春斗」
『何?』
「もう一回」
『何を?』
「彼氏」
言ったあとで。
やっぱり恥ずかしい。
でも。
聞きたい。
電話の向こうで、春斗が少し笑った。
『俺、真理の彼氏』
胸の奥がゆっくり満たされていく。
「うん」
『真理は?』
「何が?」
『俺の彼女』
「……」
『真理』
「分かってる」
『言って』
「春斗」
『何』
「面倒」
『知ってる』
仕返しされた。
私は少し笑ってから、目を閉じた。
「……春斗の彼女」
小さく言う。
電話の向こうで、春斗がしばらく何も言わなかった。
『かなり嬉しい』
「そればっかり」
『本当だから』
今日、何度も聞いた言葉。
それなのに。
今夜は。
何度聞いても嬉しかった。
初キスをした日の夜。
もう家へ帰ってきたのに。
明日また会えると分かっているのに。
私たちはまだ。
電話を切れずにいた。




