第46話 初めてのキスは一瞬だったのに、離れたあとも私は春斗の顔をまともに見られませんでした
「キスしていい?」
春斗の声は、いつもより少し低かった。
すぐ近くにいるせいで、言葉だけではなく息遣いまで分かる。さっきまで私の背中へ回っていた腕はもう離れているのに、私たちの距離そのものはほとんど変わっていなかった。
小さな公園の木陰に置かれたベンチへ並んで座り、互いに少しだけ身体を向け合っている。春斗の顔は、手を伸ばさなくても届きそうなくらい近い。
頭上では風に揺れた葉が擦れ合い、さらさらと小さな音を立てている。道路を走る車の音も、少し離れた場所で父親らしい男性とボールを蹴っている子どもの笑い声も聞こえていた。
世界は何も変わらず動いている。
それなのに、私の中だけ時間が止まってしまったみたいだった。
春斗は何も言わない。急かさないし、もう一度聞き直すこともしない。ただ私の目を見ながら、私が答えるのを待ってくれている。
嫌なのかと、自分へ問いかける。
違う。
怖いかと聞かれれば、少しだけ怖い。緊張しているかと言われたら、ものすごくしている。
でも、したいか。
その答えだけは、もう決まっていた。
朝、岩瀬駅の横で抱き締められたあと、春斗の顔が近づいた。私は逃げなかったけれど、春斗の方から距離を取った。
あのときは安心した。まだ自分からキスを望んでいるとは、はっきり言えなかったから。
それでも同時に、少しだけ残念だった。
そのことまで昼のレストランで春斗へ話した。
『嫌じゃなかった』
『少しだけ残念だった』
今思い返しても、よくあんなことを自分から言えたと思う。恥ずかしすぎて、あの場面だけ記憶から消したくなるくらいだ。
でも春斗は、それを聞いたあとでも勝手に距離を縮めなかった。
次もちゃんと聞く。
そう言った。
そして今、本当に聞いてくれた。
だから今度は、私が答える番だ。
私は小さく息を吸った。胸の奥で暴れている心臓を落ち着かせるには、あまりにも頼りない呼吸だった。
「……うん」
声は、自分で思っていたよりずっと小さかった。
でも春斗には聞こえたらしい。私を見ていた目がほんの少しだけ揺れた。
それを見たら、急にもっときちんと言いたくなった。
今日一日、春斗は私の言葉を待ってくれていた。
好き。
会いたい。
一緒にいたい。
帰りたくない。
全部、少し前の私なら恥ずかしくて飲み込んでいた言葉だ。それを今日は、一つずつ自分の口から春斗へ渡してきた。
だったら、これも同じだ。
「していいよ」
今度は、春斗の目を見たままはっきり言った。
言った瞬間、顔が一気に熱くなる。恥ずかしくて、もう逃げたいくらいなのに、本当に逃げたいわけではなかった。
むしろ今ここで春斗が「やっぱりやめる」と言ったら、たぶん私はまた少しだけ残念に思う。
そんな自分に気づいて、余計に恥ずかしくなった。
春斗はすぐには動かなかった。
目を少し見開いたまま、本当に数秒固まっている。
「春斗?」
「……うん」
「何?」
「今、かなり緊張した」
その言葉で、肩へ入っていた力が少し抜けた。
「私も」
「本当にいい?」
もう一度確認してくれる。
今度は迷わず頷いた。
「うん。嫌になったらちゃんと言う」
「うん」
「だから……」
ここまで言って、また恥ずかしくなる。
でも春斗は待っている。
私は少しだけ唇を噛んでから、勢いで続けた。
「春斗も、早くして」
春斗が一瞬固まり、それから小さく笑った。
「真理」
「何」
「今日、本当に強い」
「今それ言わないで」
「ごめん」
まだ少し笑っていた春斗の顔から、次の瞬間にはゆっくり笑みが消えていった。
もう一度、私を見る。
さっきまで何度も見ていたはずの顔なのに、急に別のものみたいに感じる。いつもなら何とも思わない睫毛や鼻筋まで、今は妙にはっきり見えてしまう。
それから、春斗の顔が少しずつ近づいてきた。
本当に少しずつ。
私が嫌がったらいつでも止まれるくらい、ゆっくりと。
私は動けなかった。
怖くて固まっているわけではない。
逃げたいわけでもない。
ただ、どうすればいいのか分からない。
目を閉じるのはいつ?
今?
まだ?
閉じるのが早すぎたら変?
そんな、どうでもいいはずのことばかり頭へ浮かんでくる。
春斗の目が近い。
鼻も、頬も。
そして唇も。
そこまで見えてしまった瞬間、急に恥ずかしさへ耐えられなくなった。
私は反射的に目を閉じた。
視界が暗くなる。
そのせいで、今度は春斗の気配だけがやけに近く感じた。
次の瞬間。
唇へ、柔らかな感触が触れた。
一瞬だった。
本当に、触れただけだった。
それなのに、身体が完全に固まった。
心臓が壊れるんじゃないかと思うくらい強く鳴る。胸の内側から音が響いているようで、こんなに近くにいる春斗にも聞こえてしまうんじゃないかと思った。
指先まで変に熱い。
何かしなきゃと思った頃には、もう遅かった。
触れたと認識した直後には、春斗の唇は離れていた。
顔の距離が少し戻る。
それでも私は、しばらく目を開けられなかった。
何が起きたのかは分かっている。
春斗とキスした。
初めて。
ずっと幼馴染だった春斗と。
頭では理解しているのに、感情が全然追いついてこない。
唇へ残っている気がする感触ばかり意識してしまう。ほんの一秒くらい、もしかしたらそれより短かったのに、そこだけが身体から切り離されたみたいに妙に意識へ残っている。
「真理」
春斗の声が聞こえた。
「……何」
「大丈夫?」
私はまだ目を閉じたまま答えた。
「分からない」
「嫌だった?」
その一言を聞いた瞬間、私はすぐに目を開けた。
「違う」
春斗を見る。
本当に心配そうな顔をしていた。さっきまでの緊張とは違う、私の反応を間違えたんじゃないかと不安になっている顔だった。
「嫌じゃない」
「本当?」
「うん」
そこだけは、ちゃんと言いたい。
「嫌じゃなかった。びっくりしただけ」
春斗の肩から、目に見えて力が抜けた。
「よかった……」
小さな声だった。
しかも、その声まで少し震えている。
「春斗」
「何?」
「緊張した?」
「かなり」
「やっぱり」
「手、まだ少し震えてるかも」
「本当?」
春斗の右手を見る。
ベンチの端へ置かれているその手は、目立って震えているわけではない。でも指先へ力が入り、親指が落ち着かないように少し動いている。
「本当だ」
「見るな」
「春斗も緊張するんだ」
「するよ」
「最近ずっと強いから」
「何だよ、それ」
「だって、付き合ってからの春斗、前よりずっと言うようになったし」
「これは別」
「何が?」
春斗は少しだけ目を逸らした。
「初めてだから」
その言葉が、胸へもう一度響いた。
「春斗も?」
聞いてから、自分でも何を確認しているんだろうと思った。
でも、気になる。
春斗は少し驚いたように私を見て、それから頷いた。
「初めて」
「……そっか」
「真理も?」
「うん」
「知ってる」
「何で?」
「竹下とはしてないって言ってた」
「誰から聞いたの?」
「真理」
「私?」
「うん」
「いつ?」
「家で付き合ったのバレた日の車」
そこまで言われて思い出した。
母が突然キスの話を始めて。
『まだだから!』
私は大声で叫んだ。
あのときの自分を思い出しただけで、今度は耳まで熱くなる。
「……忘れて」
「無理」
「春斗、本当に何でも覚えてる」
「真理のことだから」
またその言葉。
普段なら少し嬉しい。
でも今は、いつも以上に恥ずかしい。
私は春斗から逃げるように正面を向いた。さっきまで普通に見られていた横顔すら、今は視界へ入れるだけでキスを思い出してしまう。
「真理?」
「何」
「こっち見ない」
「無理」
「何で」
「キスしたから」
「俺もした」
「知ってる!」
思わず声が大きくなった。
公園の反対側にいた子どもが一瞬こちらを見たので、私は慌てて口元を押さえた。父親らしい男性は気にした様子もなく転がってきたボールを拾っていて、それが余計に恥ずかしい。
「もう……」
春斗が小さく笑う。
「真理」
「何」
「可愛い」
「今言う!?」
「今思ったから」
「レストランでもそれやった!」
「本当だから」
「もう嫌」
「嫌?」
「そういう意味じゃない!」
春斗がまた笑う。
その笑顔につられて、私も少しだけ笑ってしまった。
やっと、ほんの少しだけ緊張が抜ける。
でも完全には戻らない。
戻れるわけがない。
私は今日、春斗と初めてキスをした。
その事実だけは、もうなかったことにはできない。
◇
それからしばらく、私たちはベンチを立たなかった。
次の場所へ行こうとも言わない。たぶん春斗も私も、今すぐ何事もなかったように歩き出すことなんてできなかった。
風が少し強くなり、木陰の葉が大きく揺れる。午後の日差しはまだ明るいけれど、朝よりも少し柔らかな色へ変わっているように感じた。
さっきまで遊んでいた親子は公園の端にある水道の方へ歩いていき、代わりに犬を連れた女性が遊歩道をゆっくり通り過ぎていく。
周りでは、本当に何も変わっていない。
変わったのは私たちだけだ。
私は膝の上で指を組んだ。
唇へ触れたくなる。
さっきの感触が本当に残っているのか、それとも意識しすぎてそう感じているだけなのか確かめたい。
でも、春斗の前でそんなことをしたら、さっきのキスを意識しているのが完全にばれる。
もうとっくにばれている気もするけれど。
「真理」
「何?」
「聞いていい?」
「また?」
「違う」
「何」
春斗は少し迷ってから、小さく聞いた。
「どんな感じだった?」
私は完全に固まった。
「何が?」
「キス」
「聞く!?」
「俺も分からないから」
「何が」
「大丈夫だったか」
春斗の表情を見る。
からかっているわけではない。本当に確認したいだけなのが分かった。
だったら、私もちゃんと答えた方がいい。
「……一瞬だった」
「うん」
「何が起きたか、あんまり分からなかった」
「うん」
「でも」
私は少し言葉を探した。
「嫌じゃなかった」
春斗の表情が柔らかくなる。
「うん」
「今分かるの、それくらい。あとは……」
「あとは?」
「聞かないで」
「自分から言ったのに」
「言いかけただけ」
「気になる」
「私も何て言えばいいか分からないの」
少し考える。
嫌じゃなかった。
それより先の感情。
嬉しかった、と言ってしまっていいのか。
もっと、と一瞬思ってしまったことまで言うのか。
自分でもまだ整理できていない。
「春斗は?」
逃げるように聞き返すと、春斗も少し困った顔になった。
「俺も似たような感じ」
「春斗も?」
「うん。緊張しすぎて、ほとんど覚えてない」
「それは少し酷くない?」
「真理も一瞬だったって言っただろ」
「そうだけど」
「でも」
春斗が少しだけ笑った。
「もう一回したら、もう少し分かるかも」
「……」
私は春斗を見る。
春斗も、言ってから少しだけ顔を赤くした。
「春斗」
「何」
「今の、狙った?」
「少し」
「やっぱり」
「でも本当」
心臓がまた少し速くなる。
もう一回。
その言葉が、さっきから頭の片隅へ残っている。
春斗の顔を見たせいで、視線が勝手に唇の方へ落ちそうになった。慌てて目を逸らす。
「真理?」
「何」
「また考えてる」
「考えてない」
「嘘」
「……少し」
春斗はそれ以上聞かなかった。
そのことへほっとする。
でも同時に、また少しだけ物足りない。
私は自分でもかなり面倒だと思う。
「春斗」
「何?」
「私、面倒だよね」
「前にも聞いた」
「今はもっと」
「何で」
「聞かれたら恥ずかしいけど、聞かれないと少し寂しい」
言ってしまった。
春斗が少し驚いた顔をする。
「それ」
「うん」
「かなり難しい」
「私も思う」
「どうすればいい?」
「分からない」
「真理」
「何」
「頑張る」
「何を」
「見極める」
春斗が真面目な顔で言うので、私は笑ってしまった。
「無理だと思う」
「じゃあ真理が言って」
「何を」
「聞いてほしいとき」
「それが恥ずかしいの」
「難しいな」
「でしょ」
二人で笑う。
さっきキスしたばかりなのに、こんな会話をしている。
でも、それが安心する。
春斗は、キスしたあとも春斗だ。
私も、急に別の人間になったわけではない。
恋人らしいことが増えても、幼馴染だった時間まで消えるわけではない。
昨日まで積み重ねてきたものの上へ、今日の新しいことが一つ増えただけなのだ。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
◇
少し沈黙が落ちたあと、春斗がまた私の名前を呼んだ。
「真理」
「何?」
「さっき言いかけたやつ」
「……」
忘れていなかった。
「何?」
「『あとは』って言っただろ」
「忘れて」
「無理」
「今日そればっかり」
「真理が忘れてほしいこと増やすから」
言い返せない。
私は膝の上の手を見ながら、少しだけ迷った。
さっきよりは。
ほんの少しだけ。
言葉にできる気がする。
「……もっとって」
「うん」
「少しだけ思った」
春斗が黙った。
私は一気に恥ずかしくなって、慌てて続ける。
「今じゃない!」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる!」
「どんな顔?」
「嬉しそうな顔!」
「嬉しいから」
「ほら!」
春斗は笑った。
私はもう正面しか見られない。
「でも」
ここまで来たら、ちゃんと言う。
「一回で終わりじゃなくてもいいと思った」
春斗の笑いが少しだけ収まる。
「今日?」
「分からない」
「うん」
「今日かもしれないし、次のデートかもしれないし……本当に分からない。でも、一回したからもうしないっていうのは嫌」
そこまで言ってから、私は両手で顔を覆いたくなった。
何を言っているんだろう。
でも。
春斗には伝えたかった。
春斗はしばらく何も言わなかった。
「何か言って」
「さっきと同じ」
「何」
「何言えばいいか分からない」
「また?」
「でも、かなり嬉しい」
「そればっかり」
「本当だから」
私も少し笑う。
春斗は笑ったあと、少しだけ真面目な声へ戻った。
「じゃあ次も聞く」
「うん」
「勝手にしない」
「うん」
「真理がいいって言ったらする」
「……うん」
「嫌ならしない」
「うん」
その約束が嬉しかった。
今日、私が春斗とキスできたのも、たぶんそれが分かっていたからだ。
春斗は待ってくれる。
私が恥ずかしがっても。
迷っても。
ちゃんと答えるまで。
その安心があるから、私は少しずつ前へ進める。
でも次を想像すると、やっぱり心臓は速くなった。
◇
「そろそろ行く?」
春斗がスマートフォンで時間を確認する。
午後二時半を少し過ぎていた。
「うん」
私たちはベンチから立ち上がった。
座っていた時間はそれほど長くなかったはずなのに、何だかずっとここにいたような気がする。
公園の出口へ向かって数歩歩いたところで、春斗が右手を差し出した。
朝なら、その手を見るだけでも少し迷った。
今はもう迷わない。
私はすぐに取って、指を絡める。
今までと同じ。
でも、やっぱり少し違う。
キスしたあとの手繋ぎ。
それだけなのに、指が触れているところまで妙に意識してしまう。
「真理」
「何?」
「手、強い」
「え?」
見てみると、かなり強く握っていた。
「ごめん」
少し力を緩める。
「嫌じゃない」
「でも」
「緊張してる?」
「……少し」
「俺も」
「まだ?」
「まだ」
その答えで少し安心した。
春斗も同じ。
普通に緊張している。
「春斗」
「何?」
「キスして――」
言いかけたところで、自分の言葉に気づいた。
春斗の足が止まる。
「真理?」
「違う!」
「何が違う?」
「今の忘れて!」
「無理」
「違うの!」
「何言おうとした?」
「キスしてから!」
言って、さらに悪化した。
「キスしてから、手繋ぐのも変に緊張するって言おうとしたの!」
春斗が数秒黙った。
それから肩が少し震え始める。
「笑わないで!」
「ごめん」
「絶対笑ってる」
「かなり」
「もう!」
私は空いている手で春斗の腕を軽く叩いた。
春斗は楽しそうに笑っている。
でも、繋いだ手は離さない。
「でも」
春斗が言う。
「何」
「一瞬期待した」
私はまた足を止めた。
「何を」
「もう一回してって言われるの」
顔が一気に熱くなる。
「言わない!」
「さっき、一回で終わりじゃなくていいって」
「それとこれは別!」
「違う?」
「違う!」
春斗は少しだけ私を見た。
さっきまでの冗談っぽさを少しだけ抑えて。
「じゃあ、今日もう一回はなし?」
声は慎重だった。
私はすぐには答えられなかった。
なし、と言えば楽だ。
でも。
本当に、なし?
今は恥ずかしい。
それでも夕方、帰る前。
もしもう一度同じ距離になったら。
春斗がまた「キスしていい?」と聞いてくれたら。
私は嫌?
たぶん。
嫌ではない。
「……分からない」
正直に答えた。
春斗はすぐに頷いた。
「分かった」
「うん」
「じゃあ、今は聞かない」
今は。
その言い方に少しだけ胸が動く。
「うん」
「真理がしたそうなら聞く」
「分かるの?」
「頑張って見極める」
「さっきの続きじゃん」
「大事だから」
「絶対無理だと思う」
「じゃあ失敗したら教えて」
「それも恥ずかしい」
「面倒」
「分かってる!」
春斗が笑う。
でもすぐに、繋いだ手を少しだけ握った。
「でも嫌じゃない」
朝と同じ言葉。
胸が温かくなる。
「知ってる」
私も笑いながら返した。
◇
公園を出て、水戸の街を再び歩き始めた。
午後の人通りは昼前より少し多くなっていた。買い物を終えた家族連れ、友達同士で歩く高校生、カフェの前でスマートフォンを構えて写真を撮る人たちが行き交っている。
私と春斗も、その中の普通の高校生だ。
周りから見れば、手を繋いで歩いているだけのカップル。
たぶん、それだけ。
でも私の中では、大事件が起きたばかりだった。
初キス。
しかも相手は春斗。
幼馴染。
何年も当たり前みたいに隣にいた人。
小さい頃から何度も一緒に歩いて、喧嘩して、笑って、家族みたいに近かった人。
その人と、キスをした。
考えれば考えるほど信じられない。
「真理」
「何?」
「また顔赤い」
「暑い」
「今日それ何回目?」
「暑いの!」
「分かった」
絶対信じていない。
「春斗は?」
「何が」
「平気なの?」
「全然」
「見えない」
「かなり緊張してる」
「嘘」
「本当」
春斗は少しだけ前を見ながら続けた。
「さっきから何回も思い出してる」
胸が鳴る。
「何を」
「キス」
「言わないで」
「真理もだろ」
「……うん」
もう否定しない。
「何回くらい?」
「数えないで」
「俺も数えてない」
「珍しい」
「でも」
春斗が繋いだ手を少しだけ握り直した。
「真理がいいって言ったの、かなり嬉しかった」
その声は、思っていたより真面目だった。
「何で?」
「俺、ずっと真理に近づきたかったけど」
「うん」
「前は、幼馴染の関係まで壊すのが怖かった」
胸が少し締めつけられる。
今なら分かる。
私が竹下君のことで春斗へ相談していた頃。
春斗はどんな気持ちで隣にいたんだろう。
好きな相手から、別の人を好きだと何度も聞かされて。
それでも離れなかった。
「今も、勝手に近づいて嫌われるのは怖い」
「うん」
「付き合ったから、何してもいいわけじゃないし」
「うん」
「だから」
春斗が私を見る。
「真理が自分から『していい』って言ってくれたの、かなり大きかった」
何となく。
分かる。
春斗にとって大切だったのは、キスそのものだけではない。
私が春斗を受け入れたこと。
私が自分の意思で「していい」と言ったこと。
それが大事だった。
「春斗」
「何?」
「私も」
「うん」
「春斗が聞いてくれたから、できた」
春斗の目が少し柔らかくなる。
「そっか」
「うん。朝みたいに、何も言わずに近づかれてたら……たぶん、もっと緊張してた」
「朝はごめん」
「違う。怒ってない」
「うん」
「朝のも嫌じゃなかった。でも今は、聞いてもらった方がいい」
「分かった」
春斗はちゃんと頷いた。
「じゃあ次も聞く」
「うん」
「三回目も」
「まだ二回目もしてない!」
「可能性の話」
「早い!」
私は笑う。
春斗も笑う。
さっきまでの緊張が、少しずつほどけていった。
◇
そのあと春斗が連れていってくれたのは、図書館から少し離れた小さな雑貨店だった。
大きなショッピングモールの中にあるような店ではなく、木製の看板が掛けられた落ち着いた雰囲気の店だ。ガラス越しに文房具や革小物、アクセサリー、ポストカードなどが並んでいるのが見えた。
入口の横には小さな黒板が立てられ、手書きの文字で季節の小物が紹介されている。店内から流れてくる静かな音楽が、扉を開ける客に合わせて少しだけ外へ漏れていた。
「ここ?」
「うん」
「何で?」
「最後の予定」
「最後?」
その言葉を聞いた瞬間、胸が少し沈んだ。
春斗もすぐ気づいたらしい。
「まだ帰らない」
「本当?」
「うん。店出てすぐ駅って意味じゃない」
「じゃあ最後って言わないで」
「ごめん」
自分でも驚く。
朝からずっと一緒なのに。
まだ帰りたくない。
もちろん分かっている。
デートはいつか終わる。
夕方になれば電車へ乗って、岩瀬へ帰らなければならない。
でも、朝の待ち合わせでは一日が長いと思っていたのに、今は残っている時間ばかり気になってしまう。
「何見るの?」
私は気持ちを切り替えるように店を見る。
「一個」
「何?」
春斗が少し照れたように視線を逸らした。
「今日の記念」
胸が動く。
「買うの?」
「高いやつじゃない」
「お揃い?」
聞くと、今度は春斗が少し止まった。
「嫌?」
私はすぐに首を横へ振る。
「嫌じゃない」
むしろ、嬉しい。
今日という日が、写真だけじゃなくて手元にも残る。
「何にする?」
「それを真理と選びたかった」
さらに嬉しくなる。
「春斗」
「何?」
「百点」
「下がった?」
「違う。百二十だった」
「今は?」
「百五十」
「増えた」
「うん」
「じゃあ頑張る」
「だから頑張りすぎないでって」
私たちは笑いながら店へ入った。
◇
店内には、小さなガラス棚や木製のラックがいくつも並んでいた。
キーホルダーやチャーム、ブックマーカー、革小物、小さな動物の置物。それから高校生でも買えそうな値段のアクセサリーもある。
奥では私たちと同じくらいの年齢の女の子二人がイヤリングを見比べていて、レジの近くでは年配の女性がポストカードを一枚ずつ眺めていた。静かな店だけれど、誰も喋ってはいけないような堅苦しさはない。
「お揃いって何がいいかな」
私は棚を見回した。
「アクセサリー?」
そう言いながら、一瞬だけ指輪へ目が行く。
細いリングが何種類か、小さなガラスケースの中へ並んでいた。
でも。
付き合ってまだ数日。
高校生。
いきなりペアリング。
少し重い。
春斗も同じことを考えたらしい。
「指輪はまだかな」
「うん。私も思った」
「よかった」
「何が」
「いきなりペアリングとか言われたらどうしようかと思った」
「怖い?」
「少し」
「俺も」
そこは同じで、少し安心した。
「でも」
「何?」
「いつかなら?」
春斗が聞く。
私はガラスケースをもう一度見た。
いつか。
その言葉なら、今すぐ答えを決めなくていい。
「……そのとき考える」
「分かった」
「嫌とは言ってないからね」
言ってから、自分で余計なことを足したと気づいた。
春斗がこっちを見る。
「真理」
「何」
「今日すごい」
「だから言わないで!」
小声で言い返すと、近くにいた女の子二人の片方がこちらをちらりと見て、少しだけ笑った気がした。
恥ずかしくなって、私はすぐ別の棚へ移動する。
そこには細い金属製のブックマーカーが並んでいた。
星、月、花、猫、葉っぱ。
いろいろな形がある。
「春斗」
「何?」
「これどう?」
私が手に取ったのは、小さな葉を模したシンプルなブックマーカーだった。隣には同じデザインの色違いもある。
私は銀色。
春斗は黒。
「いい」
「本当?」
「うん」
「二人とも本読むし」
「使えるし」
「学校でも使える」
「目立たないし」
それも大事だ。
いかにも恋人同士のお揃いです、と見せつけるようなものではない。
でも私たちは知っている。
同じ日に。
二人で選んだ。
「じゃあ」
少しだけ胸が鳴る。
「お揃いにする?」
春斗が笑った。
「うん」
それだけで嬉しい。
初デートの記念。
高価じゃない。
大げさでもない。
でも、二人で同じものを選んだ。
それだけで十分だった。
「自分の分は自分で払う」
私は先に言った。
「分かってる」
「学習した?」
「かなり」
「よし」
「でもプレゼントでもよかった」
「今日はいっぱい出してもらってるから駄目」
「分かった」
春斗が素直に引く。
そのことにも少し笑ってしまう。
会計はそれぞれで済ませた。
小さな袋を受け取った私は、その場で開ける。
「今使う?」
春斗が聞く。
「本持ってる」
「木下書房で買ったやつ?」
「うん」
バッグから朝に買った短編集を取り出し、銀色のブックマーカーを挟んで春斗へ見せた。
「どう?」
「いい」
「春斗は?」
「帰ってから」
「本持ってないの?」
「ある」
「あるの?」
「いつでも読むから」
春斗がバッグから文庫本を一冊出した。
「春斗らしい」
「待ち時間とかあると読むし」
「じゃあ今入れて」
「はい」
春斗も黒いブックマーカーを挟む。
二冊の本を並べる。
同じ葉の形。
色違い。
それを見ているだけで、口元が緩んでしまう。
「写真撮りたい」
私はスマートフォンを出した。
「撮る?」
「うん」
二冊を並べて、ブックマーカーが見えるように写真を撮る。
そのとき春斗の手が少しだけ写り込んだ。
「もう一枚」
「失敗?」
「違う。これもいいけど」
画面を見ながら思う。
写真の中に春斗の手がある。
それだけで、ただ本を撮った写真じゃなくなっている。
「真理」
「何?」
「二人の手も撮る?」
胸が少し鳴る。
「うん」
店の中では邪魔になりそうなので、外へ出てから撮ることにした。
店先の端へ寄り、二人で買った小さな袋を並べる。
そして、その横で手を繋ぐ。
スマートフォンを持つ都合で恋人繋ぎにはできなかったけれど、私の指と春斗の指が触れているのはちゃんと写った。
顔は写っていない。
でも。
二人の手。
二つの袋。
同じ店。
今日ここに来たことを、私たちなら分かる。
「保存した」
私が言う。
「俺にも送って」
「うん」
すぐにメッセージで送る。
春斗は届いた写真をしばらく見ていた。
「これ、かなり好き」
「写真?」
「うん」
「私も」
「待ち受けにしたいくらい」
「それは恥ずかしい」
「顔写ってないよ」
「私たちは分かるでしょ」
「じゃあやめる」
「……別に、駄目とは言ってない」
春斗が顔を上げる。
「真理」
「何」
「やっぱり面倒」
「うるさい」
二人で笑う。
今日、また一つ。
残るものが増えた。
◇
店を出る頃には、午後三時半を過ぎていた。
空の光は少しずつ傾き始め、朝とは違う柔らかな色が建物の壁へ当たっている。駅へ向かう人も増えてきた。
「真理」
「何?」
「そろそろ」
その一言だけで、帰るという意味だと分かった。
「うん」
胸が少し寂しくなる。
「帰る?」
「まだ」
「本当?」
「駅まで歩く」
「うん」
「途中、どっか寄りたい?」
私は少し考えた。
まだ一緒にいたい。
でも、無理に何か予定を増やしたいわけではない。
今はただ、もう少し隣を歩いていたかった。
「少し歩きたい」
「遠回りする?」
「うん」
「分かった」
春斗はすぐに頷いた。
また手を繋ぐ。
朝よりずっと自然。
初キスのあとだから恥ずかしさは増えたのに、それでも離したいとは思わなかった。
◇
水戸駅へ向かう道を、私たちは少しだけ遠回りして歩いた。
特別な場所ではない。
普通の店が並び、信号が変わるのを待ち、休日の人混みを避けながら歩く。
それでも、今日ならそれでいい。
目的地へ着くことより、春斗と並んで歩いている時間そのものが楽しい。
「春斗」
「何?」
「初デート」
「うん」
「楽しかった」
まだ終わっていない。
でも今のうちに言いたかった。
「俺も」
「本当?」
「かなり」
「何点?」
「百?」
「真似した」
「真理方式」
「もっと」
「じゃあ二百」
「雑」
春斗が笑う。
でも少しして、真面目な表情へ戻った。
「本当に」
繋いだ手へ少しだけ力が加わる。
「ずっと覚えてると思う」
胸が温かくなった。
「キスも?」
口が勝手に言った。
春斗が止まる。
私も止まる。
「真理」
「何」
「自分から言った」
「今のなし」
「無理」
「もう!」
でも、私も笑っている。
春斗の顔も少し赤い。
「覚えてるよ」
「……うん」
「かなり」
私も、たぶんずっと覚えている。
初めて春斗とキスした公園。
木陰。
風。
ベンチ。
春斗が緊張していたこと。
私が目を閉じるタイミングで悩んだこと。
触れた瞬間、何も考えられなくなったこと。
一瞬だったこと。
その全部。
「真理」
「何?」
「次」
「うん」
「デート」
胸が鳴る。
「いつ?」
「早い」
「でも決めたい」
「今日帰ってから?」
「それでもいい」
「予定見ないと」
「うん」
「でも」
私は少し笑う。
「私も次、したい」
春斗がこちらを見る。
「デート?」
「当たり前!」
「一瞬、キスかと」
顔が熱くなる。
「春斗!」
また腕を軽く叩く。
「冗談」
「今日それ多い」
「真理が反応するから」
「もう反応しない」
「無理」
「何で」
「顔に出る」
「嫌」
「好き」
急に言われた。
足まで少し遅くなる。
「そういうの!」
「何」
「急に言うのやめて」
「嫌?」
「嫌じゃないから困るの!」
春斗が笑う。
私は顔が熱い。
でも。
嬉しい。
付き合う前なら、こんな言葉を春斗から聞くことなんてなかった。
きっと春斗も、ずっと飲み込んでいた。
その分を今、少しずつ聞いている。
そう思うと。
恥ずかしくても。
聞きたかった。
◇
やがて水戸駅が見えてきた。
その瞬間、胸の奥が少し沈んだ。
今日が終わる。
電車へ乗る。
岩瀬へ帰る。
家へ着いたら、春斗は隣にいない。
朝はあんなに緊張しながら駅へ来たのに、今は同じ駅が見えてくることが寂しい。
「真理」
「何?」
「寂しい?」
見抜かれた。
「……少し」
「俺も」
「本当?」
「うん」
春斗は駅の方を見た。
「朝からずっと一緒だったから」
「うん」
「帰ったら、たぶんすぐ連絡する」
「私も」
「じゃあまだ終わらない」
春斗が繋いだ手を少し強く握った。
胸が少し軽くなる。
「うん」
「家帰っても今日の話する」
「うん」
「キスの」
「それはしない!」
即答した。
春斗が笑う。
「じゃあ別の」
「ブックマーカーとか」
「写真とか」
「図書館」
「木下書房も」
「パスタも」
「作文も」
「いっぱいあるね」
本当。
いっぱいある。
朝から積み重ねてきた一つ一つが、もう今日の思い出になっている。
だから。
今日が終わっても。
今日の時間まで消えるわけではない。
「真理」
「何?」
「写真」
「うん」
「あとで全部送って」
「春斗も撮ったの送って」
「分かった」
「絶対」
「送る」
そんな小さな約束まで嬉しかった。
◇
改札へ入る少し前で、私は足を止めた。
周囲には電車へ向かう人たちが行き交っている。キャリーケースを引く人、買い物袋を下げた家族、制服姿の学生。改札からは電子音が一定の間隔で聞こえ、駅の案内放送が天井から流れていた。
公園みたいに静かな場所ではない。
だから、もうキスなんてしない。
……しないと思う。
そう考えた瞬間、またさっきのキスを思い出してしまった。
「春斗」
「何?」
「今日」
「うん」
「ありがとう」
「また?」
「最後じゃないけど、今言いたい」
朝の待ち合わせ。
木下書房。
パスタ。
図書館。
小学生の作文。
公園。
初めてのキス。
お揃いのブックマーカー。
どれも春斗一人が作った一日ではない。
二人で話して。
二人で笑って。
二人で一つずつ作った。
「本当に楽しかった」
言うと、春斗の目が少し柔らかくなる。
「俺も」
「あと」
言うか迷う。
でも。
言いたい。
「キス」
春斗の表情が少し変わる。
「うん」
「してくれて……」
言ってから、違う気がした。
「違う」
「何が?」
「何か、それだと春斗だけがしたみたい」
「じゃあ?」
私は少し考える。
恥ずかしい。
でも。
さっき春斗に言ったばかりだ。
聞いてほしいのに、聞かれたら恥ずかしい。
そんな面倒な私でも、言えるときにはちゃんと言う。
「一緒にできて、嬉しかった」
言った。
春斗が完全に黙った。
周りを歩く人の足音だけが、妙にはっきり聞こえる。
「春斗?」
「何」
「何か言って」
春斗は少しだけ苦笑した。
「今日、本当に帰したくない」
胸が強く鳴る。
その言葉だけなら、少し怖く聞こえたかもしれない。
でも春斗はすぐに続けた。
「でも帰す」
「知ってる」
「また会う」
「月曜」
「その前」
「明日?」
「会いたい」
まっすぐ言われる。
胸が温かくなる。
「私も」
今度は迷わず答えられた。
「でも今日は帰る」
「うん」
「帰ったら連絡する」
「うん」
「写真も送る」
「うん」
「それから」
春斗が少しだけ笑った。
「次のデート決める」
「今日決めるの?」
「駄目?」
「……駄目じゃない」
「じゃあ決める」
「早い」
「真理もしたいって言った」
「デートをね」
「分かってる」
本当に分かっているのか少し怪しい。
でも、笑ってしまう。
「またデートしよう」
「うん」
「絶対」
「うん。絶対」
それなら約束できる。
十年後がどうなるかは分からない。
進路だって分からない。
大人になったとき、どこにいるのかも知らない。
付き合い始めたばかりの私たちが、遠い未来を今ここで約束する必要もない。
でも。
次のデートはできる。
今日、春斗が好きだった。
明日も会いたい。
帰ったら声を聞きたい。
次の休みも一緒に出かけたい。
そういう近い未来を、一つずつ春斗と作っていけばいい。
私はそう思いながら、改札へ向かう前にもう一度だけ春斗の手を握り直した。
春斗も同じくらいの強さで握り返してくれる。
初めてのキスは、本当に一瞬だった。
触れて。
離れて。
それだけだった。
なのに、その一瞬のせいで私はもう、昨日までと同じようには春斗の顔を見られない。
話している途中で唇へ目が行きそうになる。
近づかれたら、さっきの感触を思い出す。
きっと今夜、家へ帰って一人になったら、もっと思い出す。
恥ずかしくなって。
布団へ顔を埋めて。
それでもたぶん、少し笑ってしまう。
そして。
次に春斗が「キスしていい?」と聞いてくれたとき。
今日よりほんの少しだけ早く。
今度はちゃんと春斗の顔を見ながら。
「うん」
そう答えられる気がしていた。




