第45話 彼氏が覚えていた昔の私を見つけて、今の私はもっと彼の隣にいたくなりました
図書館の自動扉が開いた瞬間、外の賑やかさが一段遠くなった。
完全な静寂ではない。受付で職員さんと話す声や、ページをめくる音、子ども向けの棚の辺りから聞こえる小さな話し声が、広い館内へ柔らかく混ざっている。それでも、水戸駅前の人混みを歩いてきたあとだからか、ここだけ時間の流れが少し遅くなったように感じた。
入口のすぐ近くには返却カウンターと新着本の棚があり、その奥に一般書の本棚が続いている。右手側には、春斗が言っていた小さな展示スペースへ続くらしい案内板が出ていた。
『水戸の街並みと記憶――写真で見る昭和・平成』
そう書かれた文字を読んで、私は少し足を止めた。
「これ?」
隣にいる春斗を見上げると、彼は少しだけ口元を緩めた。
「半分」
「まだ半分なの?」
「うん。もうすぐ」
「秘密、引っ張るね」
「真理がすぐ聞くから」
「だって気になるじゃん」
館内だから、私たちの声も自然と小さくなった。
外でずっと繋いでいた手は、入口を入ったところで一度離している。人目が気になるというより、静かな図書館で恋人繋ぎのまま歩くのが少し気恥ずかしかった。
それなのに、離れた直後から妙に落ち着かない。
さっきまで掌にあった春斗の体温がなくなっただけなのに、すぐ隣にいる彼が少し遠くなったように感じる。
その感覚が自分でもおかしくて、私は迷った末に春斗の袖を指先でそっとつまんだ。
「真理?」
「何でもない」
「袖」
「はぐれないように」
春斗が周囲を見渡した。広いといっても視界の届かないほどではないし、今のところ人混みもない。
「館内で?」
「広いから」
「さっき手離したの真理だけど」
「ここで手繋ぐのは恥ずかしいの」
「袖ならいいんだ」
「これくらいならいい」
自分でもかなり都合がいいと思う。
でも、春斗は笑っただけで離れようとはしなかった。むしろ私が袖をつまみやすいようにするみたいに、少しだけ歩く速度を落とした。
その何気ない動きが、今日の私にはいちいち嬉しい。
たぶん恋人になる前なら見逃していた。
それとも。
前から春斗はこういうことをしていて、私が気づいていなかっただけなのだろうか。
そう考えると、また胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
◇
展示スペースへ入ると、壁沿いに大きく引き伸ばされた古い写真が並んでいた。
白黒の水戸駅前。今よりずっと低い建物が並ぶ通り。古い形のバスや制服姿の学生、店先へ商品を並べる商店街の人たち。祭りの日らしい写真には、道の両側へ大勢の人が集まり、今とはまるで違う服装で笑っていた。
同じ町なのに、まるで知らない場所のようだった。
「すごい」
思わず声が漏れる。
近くにいた年配の男性がちらりとこちらを見たので、私は慌てて口元へ手を当てた。
「ごめん」
「何が?」
「声、大きかった」
「これくらい平気だろ」
春斗も小声で答える。
私は最初の写真へ近づいた。
説明には昭和四十年代と書かれている。
「ここ、本当に水戸駅?」
「らしい」
「全然違う」
「何回か建て替わってるし」
「でも、この辺の道は今も残ってるのかな」
「一部はあると思う」
「分かるの?」
「少し地図見た」
私は思わず春斗を見る。
「また調べたの?」
「少しだけ」
「今日のため?」
春斗は、一瞬だけ私から視線を逸らした。
「展示見るなら、ちょっとくらい知ってた方がいいかなって」
「そこまでする?」
「する」
返事は迷いがなかった。
「何で?」
聞かなくても分かる。
でも聞きたい。
今日の私は、春斗が私のために何かをしてくれたと知るたび、その理由まで聞きたくなってしまう。
「真理がこういうの好きって言ってたから」
やっぱり。
また、それだった。
胸の奥がじわっと熱くなる。
一年前。
私自身は忘れていた。
たぶんテレビかネットか何かを見ながら、昔の町並みを見るのって面白いよね、と何気なく言っただけだったと思う。
春斗は覚えていた。
その言葉を、今日こうして拾ってくれた。
「春斗」
「何?」
「私、本当に好き」
春斗の動きが止まった。
「……何が?」
分かっているくせに、少しだけ期待した目をする。
私はそれが悔しくて、写真へ視線を戻した。
「こういうの」
「そっち」
「何だと思ったの?」
「言わない」
「春斗」
「館内」
「それ関係ない」
春斗が小さく笑った。
よく見ると、耳が少し赤い。
たぶん私も同じだ。
だから、それ以上は追及しなかった。
◇
展示を一枚ずつ見ていく。
昔の偕楽園。
梅まつり。
千波湖。
今より狭そうな道路。
古い校舎。
学生服姿の高校生。
商店街で買い物をする家族。
どの写真にも、私たちの知らない人たちの日常が残されていた。
「不思議」
私は一枚の家族写真の前で足を止めた。
「何が?」
「この人たち」
写真の中では、父親らしい男性と母親らしい女性が、小さな女の子を挟んで笑っている。後ろには今とは違う街並みが広がっていた。
「このときは、たぶん普通の日だったかもしれないじゃん」
「うん」
「特別なことがあったわけじゃなくて、たまたま写真撮っただけかもしれない」
「そうかも」
「でも今、展示されてる」
春斗も私の隣で写真を見る。
私は、母親の手を握っている小さな女の子へ目を向けた。
「この子、今だったらおばあちゃんくらいかな」
「年齢によるけど、そのくらいかも」
「自分がここに写ってるって覚えてるのかな」
「覚えてないかもな」
「でも写真には残ってる」
何でもない時間。
その瞬間は特別だと思っていなくても、何年も経ってから振り返れば大切な一日になっていることがある。
そう考えた瞬間。
今日のことが頭へ浮かんだ。
朝の岩瀬駅。
私服姿の春斗を見た瞬間。
木下書房。
春斗が昔の私を好きだった頃の話。
初めてのデートで食べたパスタ。
抱き締められたこと。
キスを意識したこと。
そして今。
まだ今日の途中なのに、すでにたくさんのことが起きている。
何年か経ったら。
私は今日を覚えているだろうか。
たぶん。
覚えている。
「真理」
「何?」
「また考えてる」
すぐに気づかれた。
「今日はいいこと」
「何?」
「今日のこと」
私は写真を見たまま答えた。
「何年後も覚えてるかなって思ってた」
春斗はすぐには答えなかった。
少しして、写真の方を向いたまま言う。
「俺は覚えてると思う」
「本当?」
「うん」
「全部?」
「全部は無理」
「そこは現実的なんだ」
「でも」
春斗が少しだけこちらを見る。
「真理が今日何着てたかは覚えてると思う」
胸が動いた。
「白いブラウス」
「うん」
「水色のカーディガン」
「うん」
「紺のスカート」
「うん」
「白いピン」
「……うん」
最後の一つで、声が少しだけ小さくなった。
朝。
春斗との最初のデートだから。
竹下くんとのデートで使った茶色いヘアピンではなく、新しい白いヘアピンを選んだ。
そのことまで。
春斗は覚えていたいと言う。
「春斗」
「何?」
「それ、ずるい」
「何が」
「嬉しい」
「ならいい」
春斗は少しだけ笑った。
「私も覚える」
「俺の服?」
「それも」
「それも?」
「朝、私見て固まった春斗の顔」
「忘れて」
「嫌」
「真理」
「今日、春斗に何回も言われたから」
「仕返し?」
「そう」
春斗は困ったように笑う。
私はその顔を見ながら。
それも覚えていたいと思った。
◇
展示スペースの奥へ進むにつれ、写真は少しずつ新しい時代へ移っていった。
昭和から平成へ。
白黒だった写真には色が付き、街並みも少しずつ私たちの知っている姿へ近づいていく。
ある写真の前で、春斗が突然足を止めた。
「真理」
「何?」
「これ」
指さされた写真を見る。
高校生らしい男女が、駅前のベンチへ並んで座っていた。
制服は今のものとは違う。もちろん、私たちではない。
ただ。
二人の距離が少しだけ近い。
男の子は隣の女の子を見ていて、女の子は前を向いたまま何かを話しているように笑っている。
「何?」
「俺らみたい」
胸が小さく跳ねた。
「どこが?」
「駅」
「それだけ?」
「高校生二人」
「それだけじゃん」
「幼馴染かも」
「分からないでしょ」
「付き合ってるかも」
「勝手に設定作ってる」
私が笑うと、春斗は写真を見たまま少しだけ口元を緩めた。
「でも、こういうの見ると昔から変わらないんだなって思う」
「何が?」
「高校生が誰か好きになるの」
少し意外だった。
「春斗、そんなこと考えるんだ」
「何だと思ってる?」
「淡白」
「まだ言う?」
「昔は」
「今は?」
私は少し考えるふりをする。
「かなり恋愛脳」
「真理のせい」
「私?」
「うん」
「何で?」
春斗は周囲へ一度視線をやってから、かなり小さな声で言った。
「朝からキスの話ばっかり考えてる」
一瞬で顔が熱くなった。
「春斗!」
「静かに」
「誰のせい!」
「真理」
「違う!」
「残念だったって言った」
「それは……!」
反論しようとして、声を飲み込む。
近くには他の見学者がいる。
私は春斗を睨んだ。
「忘れて」
「無理」
「本当に忘れて」
「今日の重要事項」
「展示見て!」
春斗が肩を揺らして笑う。
腹が立つ。
でも。
嫌じゃない。
むしろ春斗も私と同じくらいキスのことを意識しているのだと分かって。
少しだけ安心してしまった。
◇
展示スペースを抜けると、その先には郷土資料の棚が並んでいた。
水戸の歴史。
茨城県内各地の古い地図。
写真集。
学校史。
地域の祭り。
鉄道路線の変遷。
いくつもの背表紙が並んでいるのを見た瞬間、私は思わず足を止めた。
「ここも見ていい?」
「もちろん」
「時間大丈夫?」
「急いでない」
「このあと予定あるんでしょ?」
「ある」
「何時?」
「決めてない」
「予約とか?」
「してない」
「じゃあ」
私は棚を見回す。
「少し見たい」
「少しじゃなくてもいいよ」
春斗の返事は早かった。
「でも春斗、退屈じゃない?」
「俺も本あるし」
「自分の見る?」
「うん」
「じゃあ別々?」
何気なく聞いた。
その瞬間。
胸の奥がほんの少しだけ沈んだ。
自分でも驚く。
さっきまでずっと一緒だったのに。
図書館で十分か十五分、それぞれ好きな棚を見るだけなのに。
それすら。
少し寂しいと思ってしまった。
春斗は、そんな一瞬の変化を見逃さなかった。
「一緒に見る?」
「え?」
「真理、今ちょっと嫌そうな顔した」
「してない」
「した」
「……少しだけ」
今日はできるだけ素直になると決めている。
だから、ごまかすのをやめた。
「一緒にいたい」
言った途端、春斗が完全に止まった。
「真理」
「何?」
「五回目」
「何が」
「離れたくない系」
「数えてるの!?」
「かなり大事だから」
「もうやめて」
「嫌」
春斗は少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ一緒に見る」
「春斗の本は?」
「あとでいい」
「本当に?」
「今日、真理とデートだから」
「また使った」
「本当だから」
胸が温かくなる。
私は郷土資料の棚から一冊の写真集を抜き取った。
「じゃあ、これ見よう」
「うん」
◇
窓際の閲覧席には、二人並んで座れる机があった。
正面には大きな窓があり、昼過ぎの柔らかな光が机の上へ広がっている。外の木々が風に揺れるたび、葉の影もゆっくり動いていた。
私は写真集を開く。
春斗は隣に座っている。
レストランでは向かい合わせだったけれど、今はまた隣。
やっぱり。
こっちの方が落ち着く。
「近い?」
春斗が小声で聞いた。
「何が?」
「椅子」
言われてみれば少し近い。
ページを見るために二人とも身体を寄せているから、肩がときどき触れる。
「大丈夫」
「うん」
春斗はそれ以上離れなかった。
ページをめくる。
昔の水戸駅。
商店街。
千波湖。
学校。
公園。
見覚えのある場所もあれば、まったく分からない場所もある。
「春斗」
「何?」
「ここ行ったことある?」
私は一枚の公園写真を指さした。
「ある」
「いつ?」
「小さい頃」
「私と?」
「たぶん」
「覚えてない」
「俺もあんまり」
説明欄に書かれた地名を読む。
家族ぐるみで出掛けた場所は多い。
私と春斗は、昔から同じ景色をたくさん見てきた。
でも、その頃は。
今日みたいに、手を繋ぐ意味を考えたり。
肩が触れるだけで意識したり。
顔が近づいただけでキスを想像したり。
そんなことはなかった。
「真理」
「何?」
「昔戻りたい?」
不意に聞かれた。
「何で?」
「写真見てるから」
私は少しだけ考えてから首を横へ振った。
「戻りたくない」
春斗が少し意外そうにこちらを見る。
「即答」
「うん」
「楽しくなかった?」
「楽しかったよ」
私は写真集へ視線を戻す。
小学生の頃。
中学生の頃。
春斗と一緒にいた時間。
竹下くんを知らなかった頃。
恋が今よりずっと遠かった頃。
全部大切だ。
でも。
「今の方がいい」
「今?」
「うん」
少しだけ春斗の方を見る。
「今は春斗が彼氏だから」
春斗が完全に動かなくなった。
「真理」
「何?」
「図書館」
「春斗がさっき言ったじゃん」
「何を?」
「静かにって」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ何?」
春斗は少し視線を落とした。
「抱き締めたくなる」
心臓が跳ねる。
小さな声だった。
周囲には聞こえない。
でも、私にはしっかり届いた。
「……今は駄目」
「知ってる」
「あとで」
気づけば、自然にそう答えていた。
春斗の目がこちらへ向く。
「また?」
「約束したでしょ」
「うん」
「だから」
私は写真集へ視線を戻した。
顔が熱い。
「あとでなら、いい」
春斗は少しだけ笑った。
「覚えた」
「増やさないで」
「何を」
「覚えること」
「無理」
春斗の声が嬉しそうだった。
◇
写真集を半分ほど見たところで、春斗が急に名前を呼んだ。
「真理」
「何?」
「見せたいの、これじゃない」
「え?」
私は本から顔を上げる。
「まだあったの?」
「うん」
「今までのは?」
「真理が好きそうだったから連れてきた」
「それだけでも十分なんだけど」
「でも」
春斗が少しだけ緊張した顔になる。
「本命は別」
「本命?」
また胸が速くなった。
「どこ?」
「こっち」
写真集を元の棚へ戻し、私は春斗についていく。
一般書の棚を抜け、児童書の近くを通る。その奥に、地域の学校や学生の活動を紹介する小さな掲示スペースが設けられていた。
ポスター。
作文。
昔の広報誌。
子どもたちの絵や写真。
「ここ?」
「うん」
春斗が一枚の展示へ近づいた。
それは、数年前に行われた市内の小中学生向け企画らしい。
『未来の水戸を描こう』
絵や作文がいくつも展示されている。
「何これ?」
「昔の企画」
「うん」
「真理」
「何?」
春斗が一枚の紙を指さした。
私は何気なくそちらへ視線を向ける。
少し色褪せた紙。
子どもらしい文字。
そして。
一番下に書かれている名前。
『久保真理』
「……え?」
息が止まった。
私は思わず一歩近づく。
「私?」
「うん」
「これ、本当に?」
「名前」
「同姓同名とか」
「学校も学年も合ってる」
見る。
小学校名。
六年生。
確かに。
私だ。
記憶の奥を探る。
学校で何かを書いた。
そういう記憶だけが、ぼんやりと残っている。
「これ……」
題名。
『十年後も好きな場所』
私はまったく覚えていなかった。
「何で春斗知ってるの?」
「前来たとき見つけた」
「いつ?」
「中学のとき」
「何で言わなかったの?」
「最初、真理だと思わなかった」
「でも学校見たら分かるでしょ」
「分かった」
「じゃあ何で?」
春斗は少し気まずそうに視線を逸らした。
「言うの恥ずかしかった」
「何が?」
「読めば分かる」
私は展示へ目を戻した。
小学生の私が書いた文章は、今読むと少し拙い。それでも、一行ずつ読み進めるうちに、胸の奥がゆっくり締めつけられていった。
『私は十年後も、今みたいに家族や友達と同じ場所で笑っていたいです。町が変わっても、一緒にいる人が変わらなければ、好きな場所はなくならないと思います』
「……私、こんなこと書いたの?」
「書いてる」
「全然覚えてない」
「俺は覚えてる」
「春斗が書いたんじゃないのに」
「何回か読んだから」
胸がまた動く。
さらに文章を追う。
そして。
最後。
『私は幼なじみと駅へ行ったり、公園へ行ったり、本を読んだりする時間が好きです。大人になっても、近くにいられたらいいです』
そこで私は完全に動けなくなった。
「……春斗」
「うん」
「これ」
「うん」
「幼馴染って」
「たぶん俺」
「たぶん?」
「他にいた?」
考える必要すらなかった。
「……いない」
「じゃあ俺」
顔が熱くなる。
でも、それだけではない。
胸が痛いくらいいっぱいになる。
小学生の私は。
恋なんて、たぶん分かっていなかった。
春斗を男の子として好きだったわけでもない。
ただ。
隣にいるのが当たり前だった。
一緒に駅へ行くこと。
公園で遊ぶこと。
本を読むこと。
どうでもいい話をすること。
そういう時間が大事で。
それがずっと続けばいいと思っていた。
そして今。
私は春斗の彼女になっている。
「春斗」
「何?」
「これ、見せたかったの?」
「うん」
「何で?」
春斗は少しだけ困ったように笑う。
「俺が中学のとき見つけて、かなり嬉しかったから」
胸が締めつけられる。
「その頃」
「うん」
「もう私のこと好きだった?」
「好きだった」
「……うん」
「でも真理がどう思ってるか分からなかった」
春斗は展示へ視線を戻した。
「これ見て」
「うん」
「恋じゃないって分かってたけど」
少しだけ声が弱くなる。
「大人になっても近くにいたいって、真理も昔思ってたんだって」
私は何も言えなかった。
「だから」
春斗は続ける。
「少しだけ安心した」
嬉しい。
でも。
同時に胸が痛い。
中学生の春斗は、こんな小学生の作文一枚を見て安心しなければならないくらい、私の気持ちが分からなかった。
それでも私には何も言わず。
私の隣にいた。
「春斗」
「何?」
「これ、中学のとき見つけたんだよね?」
「うん」
「私、何も知らなかった」
「言ってないから」
「何で」
聞いてから。
分かった。
前の春斗はそうだった。
好きでも言わない。
苦しくても言わない。
私が竹下くんの話をしても、ただ聞く。
「……言えなかった?」
「うん」
春斗は小さく答えた。
「言ったら、今までの関係まで変わりそうだったから」
胸へ静かに刺さった。
私は展示をもう一度見る。
『大人になっても、近くにいられたらいいです』
小学生だった私の願い。
今。
叶っているのだろうか。
まだ大人にはなっていない。
でも。
十年後。
私はどうしているのだろう。
春斗は。
隣にいるだろうか。
考えた瞬間、少しだけ怖くなった。
付き合ってまだ数日。
高校生。
進路だって分からない。
卒業後に同じ場所へいる保証もない。
だから。
絶対なんて言えない。
でも。
いたい。
その気持ちは。
今の私に確かにある。
「春斗」
「何?」
「十年後」
春斗が少し驚いたようにこちらを見た。
「うん」
私は言葉を選ぶ。
簡単な約束にしたくない。
ずっと一緒。
絶対。
そんな言葉で終わらせたくない。
「まだ隣にいられたら、いいね」
春斗はすぐには答えなかった。
少し離れた場所では、小さな子どもが本を抱えて母親のところへ走っていく。職員さんが古い掲示物を整え、午後の日差しが窓から細長く床へ伸びていた。
普通の午後。
普通の図書館。
そこで。
春斗が静かに答える。
「うん」
そして少しだけ私へ向き直った。
「いたい」
胸が大きく鳴る。
「十年後も、真理の隣にいたい」
それ以上は要らなかった。
未来を保証してほしいわけではない。
絶対別れないと誓いたいわけでもない。
ただ今。
春斗がそう思っている。
私もそう思っている。
それで十分だった。
「私も」
声が少し震えた。
「春斗の隣にいたい」
春斗の目が少し揺れる。
そして何かを我慢するように、一度息を吐いた。
「真理」
「何?」
「今、かなり抱き締めたい」
私は泣きそうなのに笑ってしまった。
「図書館」
「知ってる」
「我慢して」
「してる」
「あとで」
「また言った」
「約束だから」
「うん」
春斗も笑った。
その笑顔が。
本当に嬉しそうで。
たぶん。
私も同じ顔をしている。
◇
図書館を出たのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
外へ出ると、昼前より少しだけ柔らかくなった風が頬へ触れた。雲は朝より増えているけれど、雨が降るような空ではない。道を走る車の音と、遠くで話す人たちの声が、静かな館内から出たばかりの耳には少しだけ大きく聞こえた。
自動扉が閉まる。
春斗が右手を出そうとした。
でも。
今度は私の方が早かった。
春斗の手が完全に上がる前に、自分から掴んだ。
「……真理」
「何?」
「早い」
「今日はいっぱい繋ぐって言った」
「うん」
「だから」
自分から指を絡める。
春斗の手は温かい。
その体温へ触れると、胸の中にあったものが少しだけ落ち着いた。
「春斗」
「何?」
「ありがとう」
「今日何回目?」
「数えてない」
「かなり」
「それ春斗の言い方」
「使える」
私たちは少し笑った。
でも、私はすぐに真面目になる。
「本当にありがとう」
春斗も表情を変えた。
「うん」
「昔の私、あんなこと書いたの忘れてた」
「うん」
「でも春斗は覚えててくれた」
「うん」
「何かね」
うまく言葉にできない。
私は繋いだ手を見ながら考えた。
「自分が知らない自分を、春斗が持ってたみたい」
春斗は少し考える。
「俺も今日そうだった」
「何が?」
「真理が昔の本まだ持ってるって知った」
「誕生日の?」
「うん」
中学三年生の誕生日に。
春斗が一時間四十分迷って選んでくれた本。
私はずっと本棚へ置いている。
そのことを春斗は今日初めて知った。
「同じ?」
「少し」
そうかもしれない。
春斗だけが私の昔を持っているわけではない。
私の中にも。
春斗自身が知らなかった春斗との時間が残っている。
「じゃあ」
私は少し笑った。
「お互い様だね」
「うん」
歩き出す。
でも胸の奥には、さっきの言葉が残っていた。
十年後も隣にいたい。
高校生。
付き合ってまだ数日。
未来は分からない。
それでも。
不思議と重いとは思わなかった。
むしろ。
嬉しい。
「春斗」
「何?」
「次は?」
「まだある」
「本当に?」
「少し」
「何時まで?」
「真理が帰りたい時間まで」
思わず春斗を見る。
「決めてないの?」
「うん」
「私が帰りたいって言ったら?」
「帰る」
「今?」
春斗が少しだけ私を見る。
「帰りたい?」
聞かれた。
私は考えるより先に答えていた。
「帰りたくない」
春斗が止まった。
私も少し遅れて立ち止まる。
口にしたあとで恥ずかしくなったけれど。
訂正する気はなかった。
本当だから。
「真理」
「何?」
「今の、かなり嬉しい」
「また」
「本当だから」
春斗の顔が、本当に嬉しそうに緩んでいる。
それを見ると。
もっと言いたくなった。
「私、まだ一緒にいたい」
今度はちゃんと考えてから言った。
春斗の指が、繋いだ手の中で少し動く。
「俺も」
春斗は少し間を置いてから続けた。
「まだ帰したくない」
胸が強く鳴った。
でも、春斗はすぐに苦笑する。
「でも帰すけど」
「当たり前」
「門限とかある?」
「特にないけど、遅すぎるのは駄目。夕飯までには連絡する」
「じゃあ、まだ大丈夫?」
春斗がスマートフォンで時間を確認する。
「うん」
私は少しだけ春斗へ近づいた。
歩くと肩が触れそうになるくらい。
「まだ一緒」
「うん」
その返事を聞いて。
私たちはまた歩き始めた。
◇
図書館から少し離れたところで、春斗が小さな公園を見つけて足を止めた。
大きな遊具があるような場所ではなく、通りから少し奥へ入ったところに数本の木とベンチが置かれているだけの小さな公園だった。午後二時を過ぎた時間だからか人は少なく、離れたところで小さな子どもと父親が遊んでいるくらいだった。
「少し休む?」
春斗が聞く。
「うん」
私たちは木陰のベンチへ並んで座った。
今度は、かなり近い。
繋いだ手もそのままだった。
しばらく何も話さない。
葉が風に揺れる音。
道路を走る車の音。
少し離れた場所から聞こえる子どもの笑い声。
朝からずっと一緒にいて、会話が途切れた時間もあったはずなのに。
今の沈黙は。
少しだけ違う。
図書館で見つけた小学生の私。
十年後の話。
朝から積み重なってきたたくさんの感情が、二人の間に静かに残っている。
「真理」
春斗が呼んだ。
「何?」
「さっき」
「うん」
「してほしいことがあったら言ってって言った」
胸が急に速くなった。
来た。
そう思った。
「……うん」
春斗がこちらを見る。
さっきまで普通に繋いでいた手まで急に意識してしまう。
「一個、言っていい?」
声が少し低い。
心臓が大きく鳴る。
キス。
すぐに頭へ浮かんだ。
でも。
まだ春斗は何も言っていない。
私は逃げないように、一度小さく息を吸った。
「うん」
春斗を見る。
「何?」
春斗は少しだけ迷った。
それから言う。
「もう一回、抱き締めたい」
少し安心した。
でも。
ほんの少しだけ。
別の感情が胸に浮かんだ。
キスじゃない。
そう思った自分に気づいて。
私はもう。
何を期待しているのか。
かなり分かってきていた。
「いいよ」
私は笑った。
「今?」
春斗が周囲を見る。
完全に人がいないわけではない。
でも、公園の端のこのベンチは少し木陰になっていて、他の人からも距離がある。
「少しなら」
答える。
春斗の目が少し変わった。
「本当?」
「うん」
私は自分から少し身体を寄せる。
「抱き締めて」
今日、二回目。
春斗の腕がゆっくり背中へ回る。
今度は朝よりずっと自然だった。
私もほとんど迷わず、春斗の背中へ両腕を回す。
「真理」
「何?」
「早い」
「何が」
「抱き返すの」
「嫌?」
「逆」
春斗の声がすぐ近くで聞こえる。
「かなり嬉しい」
「知ってる」
私は春斗の胸元で少し笑った。
今日。
何度も同じ言葉を聞いている。
でも飽きない。
むしろ。
春斗が嬉しいと思ったことを、ちゃんと言ってくれるのが好きだ。
背中へ回った腕は温かい。
朝より少しだけ慣れた。
だからこそ。
今度はもっと。
離れたくないと思ってしまう。
図書館で十年後の話をした直後だからなのか。
今ここにいる春斗を。
いつもより近く感じる。
「春斗」
「何?」
「今日」
「うん」
「本当に帰りたくない」
春斗の腕に、ほんの少し力が加わった。
「俺も」
耳の近くへ声が響く。
「でも」
「うん」
「ちゃんと帰る」
「分かってる」
「またデートする」
「うん」
「絶対」
「それは約束していい」
私は少し笑う。
これなら。
十年後よりずっと近い未来だから。
約束できる。
「次も」
「うん」
「今日よりもっと、春斗のこと知りたい」
春斗の呼吸が一瞬止まったのが分かった。
「俺も」
小さく答える。
「もっと真理のこと知りたい」
そのまま、しばらく抱き合っていた。
何十秒なのか。
一分なのか。
時間は分からない。
でも。
もう急いで離れたいとは思わなかった。
やがて春斗の腕が少しずつ緩む。
私もゆっくり背中から腕を離す。
身体が少し離れた。
でも。
今度も。
顔が近い。
朝の岩瀬駅と同じくらい。
いや。
たぶん。
今の方が近い。
私は逃げなかった。
春斗も、すぐには離れない。
目が合う。
息が少しだけ浅くなる。
春斗の目。
頬。
そして。
唇。
また意識してしまう。
でも。
今度は。
朝とは違う。
レストランで私は言った。
近かったのが嫌ではなかった。
少しだけ残念だった。
春斗はそのことを知っている。
だから。
もう。
知らないふりはできない。
春斗が小さく息を吸った。
「真理」
「何?」
自分の声が少し震えた。
春斗も緊張している。
すぐ近くにいるから、それが分かる。
「聞いていい?」
胸が大きく鳴った。
たぶん。
分かる。
何を聞かれるのか。
それでも私は逃げなかった。
「うん」
春斗の目を見る。
春斗は少しだけ迷ってから。
ゆっくり。
はっきり言った。
「キスしていい?」
その瞬間。
周囲の音が遠くなった気がした。
道路を走る車。
葉が揺れる音。
遠くで笑っていた子どもの声。
全部が少しずつ薄くなる。
朝の岩瀬駅。
顔が近づいた。
でも春斗は離れた。
昼のレストラン。
『真理がしたいと思うまでしない』
そう言ってくれた。
そして今。
春斗はちゃんと聞いた。
勝手に近づかない。
私に決めさせてくれている。
嫌?
違う。
怖い?
少しだけ。
緊張してる?
ものすごく。
じゃあ。
したい?
私は自分へ問いかける。
答えは。
もう。
胸の奥にあった。
春斗だから。
今なら。
してみたい。
私は小さく息を吸った。
春斗の目を見る。
逃げない。
ごまかさない。
今日ずっと、春斗が私へしてくれたように。
今度は私が、自分の気持ちをちゃんと言葉にする番だった。
私は春斗を見たまま、ゆっくり口を開いた。




