第44話 彼氏が私の好きなものを覚えていてくれただけなのに、初デートの昼食からもう帰りたくなくなりました
水戸駅の改札を出てからも、春斗は私の手を離さなかった。
休日の駅構内は岩瀬とは比べものにならないほど人が多い。待ち合わせをしている学生や買い物袋を提げた家族連れ、大きなキャリーケースを引く人たちが絶え間なく行き交い、駅ビルへ向かう流れと外へ出ようとする流れが何度も重なっていた。
少し気を抜けば、春斗との距離がすぐに開いてしまいそうになる。
だから、手を繋いでいることにはちゃんと理由がある。
人混みの中ではぐれないため。お互いを見失わないため。それだけだと言ってしまえば簡単だけれど、私はもう、春斗も私もそんな理由だけで手を繋いでいるわけではないと分かっていた。
「真理、こっち」
半歩ほど前を歩いていた春斗が、人の流れを避けるように私の手を引いた。自然に身体が寄り、肩が触れそうな距離になる。
「うん」
春斗はすぐ前へ視線を戻したけれど、私はその横顔を少しだけ見上げた。
さっき岩瀬駅の横で抱き締められた。
そのあと、顔が近づいた。
ほんの少しだけ。
キスされるのかもしれないと思った。
そして私は、逃げなかった。
結局、春斗の方から距離を取ったけれど、そのことを思い出すと今でも胸の奥が落ち着かない。
安心したのは本当だ。まだ自分から「キスしたい」と言えるほどの勇気はないし、春斗が急がなかったことにほっとした。
でも同時に、少しだけ残念だった。
その事実も、もう誤魔化せない。
「また考えてる」
突然言われ、私は春斗を見る。
「え?」
「真理、さっきからたまに急に静かになる」
春斗は前を向いたままだった。私は慌てて繋いでいる手へ視線を落とす。
「人多いから」
「関係ある?」
「ある」
「本当?」
「本当」
少しだけ間があった。
「じゃあ信じる」
春斗はそれ以上追及しなかった。
ほっとする。
でも同時に、ほんの少しだけ物足りないとも思ってしまう。
聞いてほしいのか、聞かれたくないのか。自分でも分からない。本当に面倒くさい。
「春斗」
「何?」
「今日の私、面倒?」
春斗が少しだけ振り返った。
「今日だけ?」
「どういう意味?」
「前から」
「酷い」
思わず空いている方の手で春斗の腕を軽く叩くと、春斗は楽しそうに笑った。
「でも嫌じゃない」
「それ先に言ってよ」
「今言った」
「遅い」
「真理もよくやる」
「何を?」
「大事なこと、あとから言う」
言い返せない。
「……最近は頑張ってる」
「知ってる」
「かなり」
「それ俺の言い方」
「使える」
「取られた」
さっきも似たような会話をした。
それでも飽きない。
むしろ、同じ冗談を何度も使って笑えることが、少しだけ恋人らしい気がした。
◇
春斗が連れていってくれたのは、水戸駅からそれほど離れていない小さなイタリアンレストランだった。
大通りから一本入ったところにある店で、外観は白い壁と濃い茶色の扉でまとめられている。入口脇には黒板が置かれ、今日のランチメニューが手書きで並んでいた。
「ここ?」
「うん」
「春斗、来たことあるの?」
「ない」
「ないんだ」
「調べた」
さらっと答えられ、私は店の看板と春斗を交互に見る。
「私のために?」
「デートだから」
「その言葉、便利に使いすぎじゃない?」
「でも本当」
春斗は少しだけ照れたように目を逸らした。
「駅から歩きすぎなくて、昼に入りやすくて、真理が好きそうなものがある店」
「そこまで考えたの?」
「あと、高すぎない」
「高校生には大事」
「かなり」
現実的だ。
でも、その現実的なところまで含めて嬉しかった。
春斗は、ただ有名な店やおしゃれな店を探したわけではない。私が歩き疲れないこと、好きなものを食べられること、私たち高校生でも無理なく払えることまで、ちゃんと考えてくれた。
「春斗」
「何?」
「ありがとう」
春斗が少し首を傾げる。
「まだ食べてない」
「店選んでくれたこと」
「うん」
「嬉しい」
「まだ早い」
「何が?」
「うまいか分からない」
そこまで心配していたのか。
少し真剣な顔をしている春斗を見て、私は笑ってしまった。
「春斗が作るわけじゃないんだから」
「でも俺が選んだ」
「そんなに責任感じなくていいよ」
「外したくない」
春斗はそれだけ言った。
胸の奥が少し温かくなる。
初デートを失敗したくない。
私を楽しませたい。
だからきっと、春斗も朝からずっと緊張している。
私だけではない。
「大丈夫」
私は繋いでいる手を少しだけ握った。
「春斗と食べるなら、たぶん楽しいから」
言ってから、自分でも少し恥ずかしくなる。
春斗は数秒黙ったあと、ゆっくり息を吐いた。
「それ言われると楽になる」
「本当?」
「うん」
「ならよかった」
「でもハードルは下げない」
「何で」
「ちゃんと美味しい方がいい」
「欲張り」
「真理に言われたくない」
二人で笑いながら店へ入った。
◇
店内にはすでに何組か客がいた。
窓際では小さな子どもを連れた家族が食事をしていて、奥の席には大学生らしい男女のグループもいる。カウンター近くでは年配の夫婦が静かに話しており、厨房からは食器の触れ合う音と料理の香りが流れてきていた。
休日の昼らしい、穏やかな空気だった。
店員さんに二人だと伝えると、窓側の二人席へ案内された。
向かい合わせ。
それだけで少し緊張する。
学校では隣にいることが多い。電車でもさっきまで隣に座っていた。こうして真正面から春斗を見る時間は、思っているほど多くない。
「何?」
メニューを開こうとしていた春斗が顔を上げた。
「見てた」
「今日よく見る」
「約束したから」
「そうだった」
「嫌?」
「全然」
春斗はそう答えたあと、何かを続けようとして一度止まる。
「何?」
「言わない」
「私には聞くくせに」
「真理と同じ」
「ずるい」
「じゃあ言う」
「何?」
春斗が少しだけ私を見る。
「見られるの、嬉しい」
今度は私が黙る番だった。
「……そう」
「聞いたの真理」
「分かってる」
「顔赤い」
「店内暑い」
「またそれ?」
「本当に暑い」
さっき水戸駅でも同じ言い訳をした。
春斗は完全に分かっている顔をしている。
「最近、春斗が強すぎる」
「待つだけやめたから」
付き合う前から何度も聞いた言葉だった。
でも今は、その意味がもっと分かる。
春斗は本当に変わった。
何でも飲み込んで、平気そうな顔で私の恋愛相談を聞くだけだった春斗はもういない。
好きなら好きと言う。
会いたければ会いたいと言う。
手を繋ぎたければ聞く。
抱き締めるときには、私がいいと言ったあとでももう一度確認する。
嫉妬したら、嫉妬したと言う。
嫌なことも、嬉しいことも、前よりずっと私へ見せてくれる。
その変化が、私は好きだった。
春斗はメニューをこちらへ少し向ける。
「何食べる?」
「迷う」
「パスタ好きって言ってた」
「好き。でも種類多い」
トマトソース、クリーム、和風、季節限定。ランチセットならサラダと飲み物も付くらしい。
「春斗は?」
「カルボナーラ」
「早い」
「最初から決めてた」
「好きなの?」
「うん」
「知らなかった」
春斗が少し笑った。
「今日一個増えた」
「何が?」
「真理が知ってる俺」
その言い方が少し嬉しい。
朝からずっとそうだ。
幼馴染だから何でも知っていると思っていた春斗のことを、私は今日になって何度も新しく知っている。
「じゃあ覚える」
「カルボナーラ」
「うん」
「あとミートソース」
「二個?」
「ナポリタンも」
「多い」
「パスタだいたい好き」
「最初からそう言ってよ」
私は笑いながらメニューへ視線を戻した。
しばらく悩んだ末、トマトとモッツァレラのパスタに決める。
注文を終えると、店員さんがメニューを片づけていった。
テーブルには水の入ったグラスだけが残り、向かいには春斗がいる。
自然に目が合った。
何となく、二人とも笑う。
「何?」
私が聞く。
「デートっぽい」
「今さら?」
「店入ったから」
「朝からデートでしょ」
「そうなんだけど」
春斗はテーブルへ肘をつかないようにしながら、ほんの少し身体を前へ寄せた。
「向かいに真理いるの、なんか違う」
「何が?」
「いつも横だから」
「私も思った」
「顔よく見える」
「見ないで」
「今日俺を一番見るって言った人が?」
「春斗も私を見るって言ったけど、ずっとは駄目」
「何で」
「恥ずかしいから」
「俺も」
「じゃあ見ないで」
「でも見たい」
その一言は、今度は冗談っぽくなかった。
春斗は少し照れているのに、それでも目を逸らさない。
私はどうすればいいのか分からなくなって、グラスの水を一口飲んだ。
「真理」
「何」
「可愛い」
危うくむせそうになる。
「急に言わないで!」
思わず少し声が大きくなり、近くの席の女性がちらりとこちらを見た。
私は慌てて声を落とす。
「もう……」
「昨日、言ってって言った」
「言ったけど、タイミング!」
「今思った」
「だからって全部言わなくていい」
「どっち?」
「何が?」
「言ってほしいのか、言わないでほしいのか」
困った。
正しい。
私は少しだけ口を尖らせる。
「……言ってほしい」
「うん」
「でも急だと無理」
「予告する?」
「それも嫌」
「難しい」
「私もそう思う」
春斗が笑う。
私も少し笑った。
恋人になると、自分が思っていたよりずっと面倒くさい。
言ってほしいのに、恥ずかしい。
近づきたいのに、緊張する。
聞いてほしいのに、聞かれたら逃げたくなる。
矛盾ばかりだ。
それでも、その面倒くささを春斗と一緒に笑えるなら、たぶん悪くない。
◇
先にサラダと飲み物が届いた。
私はアイスティー。
春斗はアイスコーヒー。
「朝もコーヒーだった」
私が言うと、春斗がストローの袋を外しながら頷く。
「好きだから」
「ブラック?」
「今日はガムシロ入れる」
「意外」
「何で?」
「春斗、ブラックのイメージ」
「格好つけてる?」
「違う。淡白だから」
「飲み物と性格に関係ある?」
「少し」
「じゃあ真理のアイスティーは?」
「普通」
「ずるい」
サラダを食べながら、どうでもいい話をする。
学校のこと。
愛ちゃんのこと。
月曜日に私たちが教室へ入ったらどんな顔をされるのか。
石井さんがまた春斗をからかってきそうなこと。
竹下くんのことも、ほんの少しだけ話題に出た。
でも、前みたいに空気は重くならなかった。
「竹下、来週は普通に来るかな」
春斗が言う。
「たぶん」
「真理、気になる?」
「少しは」
「うん」
春斗はそれだけ答えて、サラダへ視線を戻した。
私は少しだけ気になって聞く。
「嫌?」
「嫉妬はする」
「うん」
「でも、それで真理に気にするなって言ったら違うと思う」
私はフォークを止めた。
「春斗」
「何?」
「本当に変わったね」
「何が」
「前だったら、何も言わないで一人で嫌になってた」
「たぶん」
「今は言う」
「かなり」
「それ好き」
自然に出た。
春斗の手が止まる。
私も遅れて、自分が何を言ったのか気づいた。
「……今の」
「聞いた」
「忘れて」
「嫌」
「今日それ多い」
「全部覚える」
「困る」
春斗が嬉しそうに笑う。
「真理」
「何」
「俺も」
「何が?」
「今の真理、好き」
胸が大きく鳴った。
「今だけ?」
「またそれ?」
「春斗がさっきやった」
「毎日好き。その中で今も好き」
「……うん」
「真理?」
「何」
「顔赤い」
「サラダ食べて」
春斗は笑いながらフォークを動かした。
◇
しばらくして、パスタが運ばれてきた。
私の前には、鮮やかな赤いトマトソースと白いモッツァレラが乗った皿。
春斗の前には、黒胡椒のかかった濃厚そうなカルボナーラ。
「美味しそう」
「真理のも」
「交換する?」
「少し?」
「うん」
言ってから、自分で少しだけ止まった。
料理を分ける。
恋人っぽい。
いや、友達でもする。
愛ちゃんとだって普通にする。
なのに春斗とだと、何でも意味を持っているように見えてしまう。
「真理?」
「何?」
「交換しないの?」
「する」
春斗が小皿を二枚取る。
互いに少しずつ取り分けるだけなのに、妙に嬉しい。
「先食べて」
「春斗が先」
「俺が選んだ店だから」
「何その責任感」
「美味しいか確認する」
「じゃあ同時」
「子ども?」
「いいから」
二人でほぼ同時にフォークを口へ運ぶ。
トマトの酸味とチーズの柔らかさが広がった。
「美味しい」
思わず言う。
春斗がすぐこちらを見る。
「本当?」
「うん。かなり」
その瞬間、春斗の肩から少し力が抜けるのが分かった。
「よかった」
「そんなに心配してたの?」
「少し」
「嘘」
「かなり」
「やっぱり」
私は笑った。
「春斗」
「何?」
「本当にありがとう」
「まだ言う?」
「言う」
「何回?」
「言いたいだけ」
私は一度フォークを置き、春斗を見る。
「今日のために色々調べてくれたんでしょ」
「うん」
「木下書房は春斗の好きな場所で、ここは私が好きそうなところを探してくれて、そのあとも何かある」
「うん」
「嬉しい」
春斗は少し黙った。
「俺」
「うん」
「真理とデートしたことなかったから」
「二人で出掛けたことならいっぱいあるけどね」
「でも幼馴染だった」
「うん」
「だから最初くらい、ちゃんとしたかった」
少し言葉を探したあと、春斗はそう言った。
胸の奥が温かくなる。
「ちゃんとしてるよ」
「本当?」
「うん」
「何点?」
「百」
「早い」
「だって楽しい」
「まだ昼」
「今の時点で百」
「じゃあこのあと失敗したら?」
「下がる」
「厳しい」
春斗が笑う。
「嘘。たぶん下がらない」
「何で」
「春斗と一緒だから」
また言ってしまった。
今日はこんなことばかりだ。
でも、今まで春斗がずっと欲しかった言葉なら、言えるときにちゃんと言いたい。
春斗はしばらく何も言わなかった。
「真理」
「何?」
「今日、本当に強い」
「春斗が強くした」
「俺?」
「待つだけやめたから」
春斗が少し笑った。
「ならよかった」
そう答えて、もう一度カルボナーラを食べる。
でも、耳は少し赤かった。
◇
食事が半分ほど進んだところで、私は春斗の皿へ視線を向けた。
「美味しい?」
「うん」
「ちょっと食べたい」
「さっき小皿で渡した」
「もう一回」
「欲張り」
「彼女だから」
春斗の動きが止まった。
「それ俺の」
「使える」
「完全に取られた」
「早い者勝ち」
私は笑う。
春斗は少し考えてから、自分のフォークを止めて小皿へ手を伸ばした。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
変なことを考えた。
春斗のフォーク。
そのまま使う?
いや。
無理。
何を考えているんだろう。
間接キス。
高校生。
恋人。
普通なのかどうかも分からない。
でも、さっき本当のキスを意識してしまったせいで、そんなことまで気になる。
「真理?」
「何?」
「ぼーっとしてる」
「してない」
「した」
「小皿で」
「うん」
春斗が普通に取り分ける。
ほっとする。
そして。
ほんの少しだけ残念に思った。
まただ。
この感覚。
私は本当にどうしてしまったのだろう。
「春斗」
「何?」
「恋人って」
「うん」
「どこまでが普通?」
聞いた。
春斗が完全に止まった。
「何の話?」
「全部」
「広すぎる」
「手繋ぐとか」
「うん」
「抱き締めるとか」
「うん」
そこまで言って、次の言葉が出ない。
キス。
言える?
無理。
春斗は急かさずに待っている。
「……その先とか」
かなりぼかした。
でも春斗には伝わったらしい。
目が少しだけ変わった。
「真理」
「何」
「急がなくていい」
答えはすぐだった。
「普通とかないと思う」
「うん」
「俺たちがしたいと思ったときでいい」
胸がゆっくり落ち着いていく。
でも今度は、別のことが聞きたくなった。
「春斗は?」
「何が」
「……その先」
自分で言っているのに恥ずかしい。
春斗の視線が少し泳ぐ。
「したい?」
聞いてしまった。
今度こそ春斗が黙った。
周囲には普通に客がいる。隣の席では家族が楽しそうに話しているし、店員さんが空いた皿を下げている。厨房からはフライパンの音も聞こえる。
こんな場所でする質問ではなかったかもしれない。
「ごめん。今のなし」
「したい」
私の言葉と春斗の答えが、ほとんど同時に重なった。
心臓が一気に跳ねる。
「……え?」
春斗が少しだけ視線を落とした。
「したいよ」
もう一度。
今度は、はっきり。
「でも」
春斗はゆっくり私を見る。
「真理がしたいと思うまでしない」
呼吸を忘れそうになった。
さっき岩瀬駅の横で、春斗が距離を取った。
あれは。
「だから、さっき?」
聞く。
春斗の表情が少しだけ固まった。
「気づいた?」
「何となく」
「うん」
胸の奥が大きく揺れる。
やっぱり。
春斗も、あのときキスを考えた。
でも、私がどう思っているのか分からなかったから、しなかった。
勝手に進まなかった。
「春斗」
「何」
「さっき」
言う?
迷う。
まだ、かなり恥ずかしい。
でもここまで聞いた。
春斗はちゃんと言った。
したい。
でも私がしたいと思うまでしない、と。
だったら、私も少しだけちゃんと言った方がいい。
「私」
「うん」
声が小さくなる。
「嫌じゃなかった」
春斗が動かない。
「何が?」
分かっているくせに。
「……近かったの」
「うん」
「嫌じゃなかった」
顔が熱い。
もう逃げたい。
でも言う。
「少しだけ、残念だった」
言った。
春斗の目が大きくなる。
「真理」
「もう聞かないで」
「でも」
「今はこれ以上無理」
私は逃げるようにパスタへフォークを入れた。
一口食べても、さっきまで美味しかった味がほとんど分からない。
春斗は何も言わない。
ほんの数秒の沈黙なのに、それが余計に恥ずかしく感じられた。
「何か言って」
結局、私の方が耐えられなくなる。
「何言えばいいか分からない」
「何でも」
「かなり嬉しい」
「そればっかり」
「本当だから」
春斗が小さく笑う。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「でも」
「うん」
「次もちゃんと聞く」
「……うん」
「勝手にしない」
「うん」
「それでいい?」
私は頷いた。
「それがいい」
春斗の表情が少し柔らかくなる。
私も少しだけ安心した。
そして同時に。
前よりさらに意識してしまう。
次。
春斗が。
『キスしていい?』
と聞いてきたら。
私は何と答えるのだろう。
想像しただけで心臓が速くなった。
◇
昼食を終えた頃には、時刻は午後十二時四十分を過ぎていた。
会計は別々にするつもりだったのに、春斗が先に財布を出そうとして、レジの少し手前で揉めた。
「自分の分払う」
「初デート」
「高校生」
「少しくらい」
「駄目」
「何で」
「春斗だけ負担するの嫌」
「でも」
「次もデートしたい」
春斗が止まった。
私はそのまま続ける。
「一回で春斗のお金なくなるの嫌」
「そこまで使わない」
「そういう意味じゃない」
私は少し笑う。
「ずっと続けたいから、無理しない」
春斗が黙る。
数秒してから、小さく息を吐いた。
「真理」
「何?」
「それ、かなり嬉しい」
「じゃあ割り勘」
「……分かった」
「よし」
結局、自分の分は自分で支払った。
店を出ると、昼の日差しは朝よりずっと強くなっていた。駅周辺の人通りも増え、店の前を歩く人たちの影が道路へ濃く落ちている。
春斗は店を出てすぐ、右手を差し出した。
私は迷わず取る。
「今日、本当にすぐ出すね」
「何を」
「手」
「離したくないから」
あまりにも普通に言われた。
少し前なら、私だけが真っ赤になって終わっていたと思う。
でも。
今は。
「私も」
返せる。
春斗がこちらを見る。
「何?」
「四回目」
「数えないでって言った!」
春斗が笑う。
私も笑った。
それから春斗は、駅とは反対方向へ歩き出す。
「次どこ?」
「秘密」
「まだ言わないの?」
「もう少し」
「何分?」
「十五分くらい」
「歩く?」
「うん」
「私が好きそうな場所?」
「たぶん」
「外したら?」
「怖い」
「そんな顔しないで」
「朝からかなり緊張してる」
「知ってる」
「何で」
「今日いっぱい分かったから」
私は繋いでいる手を少し揺らした。
「春斗、私が思ってたよりずっと色々考えてる」
「何を?」
「私のこと」
春斗が少し黙る。
「かなり」
「またそれ」
「本当」
「うん」
胸が温かくなる。
◇
水戸の町を歩く。
駅前の大きな建物が少しずつ背後へ遠ざかり、通りの雰囲気も変わっていく。人通りはまだ多いけれど、駅前ほど慌ただしくはなくなった。
春斗は地図を確認することもなく歩いている。
「道覚えたの?」
「一応」
「調べた?」
「何回か」
「そんなに?」
「迷ったら嫌だから」
「スマホあるよ」
「デートでずっと地図見てるの嫌」
そこまで考えていた。
「春斗」
「何?」
「今日、百点超えた」
「何点?」
「百二十」
「上がるんだ」
「上がる」
「下がることある?」
「まだない」
「頑張る」
「頑張りすぎないで」
私は少しだけ春斗の腕へ近づいた。
「春斗が楽しめなくなったら嫌」
「俺も楽しい」
「本当?」
「かなり」
「ならいい」
歩きながら、私は少しずつ気づいた。
今日、春斗は私を楽しませようとしてくれている。
でもデートは、私が春斗に楽しませてもらうだけではない。
私も春斗を喜ばせたい。
春斗が、今日終わってほしくないと思うくらい、楽しい一日にしたい。
そのために、私は何ができるだろう。
手はもう繋いでいる。
好きだとも何度も言った。
抱き締めるのも、またする約束をした。
その先のことまで、さっき初めて話した。
そして私は、どうしても考えてしまう。
もし今日。
春斗がもう一度近づいてきて。
『キスしていい?』
と聞いてきたら。
今の私は。
たぶん。
朝とは違う。
◇
「真理」
春斗の声で、私は思考から引き戻された。
「何?」
「着いた」
顔を上げる。
そして少し驚いた。
「ここ……」
目の前には、古い石造り風の外壁を持つ落ち着いた建物があった。
入口の上には控えめな文字で施設名が掲げられ、ガラス越しには本棚が見える。大きな公共図書館ほど堅い雰囲気ではなく、入口付近には小さな展示スペースらしい案内もあり、学生や親子連れがゆっくり出入りしていた。
「図書館?」
「うん」
春斗が少しだけ緊張した顔で私を見る。
「正確には、図書館と小さい展示スペースが一緒になってるところ」
「何でここ?」
「真理」
「うん」
「前に、本読むの嫌いじゃないって言ってたから」
「うん」
春斗は少しだけ間を置く。
「あと、昔の写真とか町の記録見るの好きって」
私は止まった。
「……いつ言った?」
「一年くらい前」
「覚えてたの?」
「うん」
「そんなことまで?」
「真理の話だから」
また、その言葉。
でも今度は笑えなかった。
胸の奥がじわじわいっぱいになっていく。
「春斗」
「何?」
「私、そんな話したこと忘れてた」
「俺は覚えてた」
「何で」
分かっている。
聞かなくても、もう分かる。
それでも聞きたかった。
春斗は少しだけ困ったように笑う。
「好きだったから」
過去形。
でも、それだけでは終わらなかった。
「今も好きだから」
続いた。
胸の奥がきゅっと締まる。
私は繋いでいる手を見る。
朝から何度、春斗の「好き」を受け取っただろう。
直接言われた。
行動でも分かった。
昔の話からも分かった。
今日の予定にも全部出ている。
私が知らなかったところで、春斗は私の言葉をずっと覚えていた。
「真理?」
春斗が少し心配そうに覗き込む。
「嫌だった?」
「違う」
「じゃあ」
「嬉しい」
声が少しだけ揺れた。
「……かなり」
春斗の目が柔らかくなる。
「よかった」
「でも」
「何?」
私は建物を見る。
「これが秘密?」
「半分」
「半分?」
「中にある」
「何が?」
「見せたいもの」
胸がまた動いた。
「何?」
「入ったら分かる」
「まだ秘密?」
「あと少し」
「もう」
私は笑う。
でも気になる。
春斗が私へ見せたいもの。
私自身が忘れていた昔の何気ない言葉を覚えて、わざわざ今日この場所へ連れてきた。
その意味を考え始めると、また胸が速くなる。
「入ろう」
春斗が言う。
「うん」
入口へ向かって歩き出した。
でも、二歩ほど進んだところで私は春斗の手を引く。
「春斗」
「何?」
振り返った春斗へ、私は少しだけ近づいた。
人はいる。
だから抱き締めるわけにはいかない。
でも、何か返したかった。
「ありがとう」
「まだ見てない」
「今言いたい」
「うん」
「今日ね」
言葉を探す。
朝からずっと嬉しい。
でも、それだけでは足りない。
「私も、春斗が喜ぶことちゃんとしたい」
春斗が少し目を見開いた。
「真理?」
「春斗ばっかり頑張るデートにしたくない」
「頑張ってるつもりないけど」
「かなり頑張ってる」
「そう?」
「そう」
私は少し笑った。
「だから、何かしてほしいことがあったら言って」
春斗の表情が止まる。
「何でも?」
「何でもではない」
「早い」
「範囲あるから」
「どこまで?」
「それは……」
言ってから気づいた。
この流れ。
危ない。
春斗も、たぶん同じことを考えた。
さっきレストランで話した。
その先。
キス。
春斗の目が少しだけ変わる。
私は逃げたくなる。
でも、完全には逃げたくない。
「春斗」
「何」
「今は図書館」
「うん」
「だから、変なこと言わないで」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「真理も」
「私?」
「うん」
心臓が跳ねた。
「何て?」
聞いてしまった。
春斗は少しだけ私を見る。
入口の前を親子が通り過ぎる。
別の学生二人が建物から出てくる。
昼の光がガラスへ反射している。
周囲には普通に人がいる。
だから、ここでは何も起きない。
分かっている。
それなのに、春斗の声が少しだけ低くなった。
「あとで聞こうかなって」
「何を」
「何してほしいか」
胸が大きく鳴る。
「……うん」
私はそれ以上何も言えなかった。
でも、嫌とは言わなかった。
春斗も、それ以上は聞かなかった。
「行こう」
「うん」
再び歩き出す。
繋いだ手が、さっきより少しだけ熱い。
初デートは、まだ午後へ入ったばかりだ。
朝より。
昼前より。
私はずっと春斗を近く感じている。
そして、たぶん春斗も、私が朝より近づいていることに気づいている。
今日の終わりまでには、今よりもう一歩近づいているかもしれない。
キスなのか。
それとも、まだ別の何かなのか。
今は分からない。
でも。
もう私は、その可能性から逃げたいとは思っていなかった。
春斗の手を握り直しながら、私は彼と一緒に図書館の扉へ向かった。




