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『好きな人がいるので、幼馴染に恋愛相談していたら、なんだか様子がおかしくなりました』   作者: 伊佐波瑞樹


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第43話 彼氏に抱き締めていいと言ったのは私なのに、本当に抱き締められたら次の一歩まで意識してしまいました



 木下書房を出てから、私と春斗は手を繋いだまま岩瀬駅へ向かって歩いていた。


 午前十一時前の町は、朝にここを通ったときよりずっと賑やかになっている。閉じていた店のシャッターはほとんど上がり、店先には営業中の札が出ていた。道路を走る車の数も増え、時折通り過ぎる自転車のベルや、遠くから聞こえる子どもの声まで重なって、休日の町がすっかり目を覚ましている。


 歩道はそれほど広くない。向こうから買い物袋を提げた人が来れば、私と春斗は自然に少し身体を寄せて道を譲った。そのたびに肩が近づくけれど、繋いだ手だけは離れない。


 朝よりずっと自然になったと思う。


 春斗の手を取ることも、指を絡めることも、隣へ近づくことも、数日前までとは比べものにならないくらい当たり前になりつつある。もちろん誰かに見られていないか気になるし、今だって少し恥ずかしい。でも、それ以上に春斗と繋いでいたいという気持ちの方が強くなっていた。


 それなのに、胸の奥にはさっきから別の緊張が居座ったままだ。


『あとでなら』


 木下書房の中で、自分からそう言った。


 春斗が私を抱き締めたいと言ったとき、ここでは無理だと答えた。そのあとで、あとでなら、と付け加えた。


 それだけではない。


 春斗から借りていた『君の隣を選び直す』を、そのまま私へ譲ってくれることになって。嬉しくなって、気持ちが大きくなってしまった私は、勢いのまま言ったのだ。


『本当に抱き締めていいから』


 思い返すたびに顔が熱くなる。


 あのときは、春斗が昔どれだけ私を好きでいてくれたのかを一気に知った直後だった。


 中学三年生の私の誕生日に、本を一冊選ぶためだけに一時間四十分も店内を歩き回っていたこと。私が竹下くんを好きになってからも、木下書房へ来て私の話を何度も店主さんへ聞いてもらっていたこと。


『君の隣を選び直す』を私へ貸したのも、ただ読んでほしかったからではなく、自分の気持ちに少しでも気づいてほしかったからだということ。


 全部知ったら、胸が苦しくなった。


 同時に、春斗へ何か返したいと思った。


 私は今、ちゃんと春斗を好きだと。


 幼馴染だから仕方なく選んだわけでも、竹下くんとの恋が終わったから代わりに選んだわけでもなくて、春斗だから選んだのだと。


 言葉だけではなく、もっと分かりやすい形で伝えたいと思った。


 その結果が、抱き締めていい、だった。


 けれど木下書房から離れ、こうして普通の町を歩いているうちに少しずつ冷静さが戻ってくると、今度は猛烈に恥ずかしくなってきた。


「真理」


 隣から呼ばれ、私は少し肩を揺らした。


「何?」


「静か」


「そう?」


「さっきまで店でかなり喋ってた」


「今も普通だけど」


「嘘」


 春斗が横目で私を見る。すぐ隣を歩いているから、その視線から逃げるのも難しい。


「何考えてる?」


 木下書房を出た直後にも同じことを聞かれた。


 そのときは素直に答えた。


 春斗のこと。


 好きだなって。


 今も春斗のことを考えている。


 ただし、少しだけ中身が違う。


「……言わない」


「何で」


「恥ずかしいから」


「俺のこと?」


 繋いだ手へ、ほんの少し力が入った。


 私は反射的に春斗を見る。


「何で分かるの」


「真理だから」


「その言葉、便利すぎない?」


「かなり使える」


 春斗が少し笑い、私もつられて笑ってしまう。それだけで胸の緊張が少し緩んだ。


 けれど、春斗は忘れていなかった。


「約束のこと?」


 一瞬、足が止まりそうになった。


「……何の?」


「抱き締めていいってやつ」


 やっぱり忘れていない。


「覚えてたの?」


「忘れるわけないだろ」


「忘れててもよかったのに」


「嫌」


 即答だった。


 こういうところだけは、本当に最近の春斗らしい。昔なら恥ずかしくて話を逸らしていたはずなのに、今は欲しいものを欲しいと言う。


 私は繋いだ手へ視線を落とした。


「……いつするの?」


 聞いてから、自分で何を言ったのか理解した。


 顔が一気に熱くなる。


 本当なら春斗の方から言うと思っていた。それなのに、私から確認している。


「真理」


「何」


「それ、自分から聞く?」


「だって約束したし」


「うん」


「でも、ここ人いるし」


 通りには普通に人がいる。小学生くらいの子どもを連れた家族が向こうから歩いてくるし、買い物帰りらしい女性が店先で立ち止まっている。自転車に乗った高校生らしい男子も、私たちのすぐ横を通り過ぎていった。


 さすがに、ここで抱き締められるのは無理だ。


「駅まで行ったら」


 春斗が言った。


「うん」


「少し寄るところある」


「どこ?」


「秘密」


「また?」


「今日の予定とは別」


「秘密多くない?」


「今日だけ」


「絶対?」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


 私は笑った。


「そこ、人少ない?」


「たぶん」


「またたぶん」


「土曜だから分からない」


「人いたら?」


 春斗は少し考えてから答える。


「探す」


「何を?」


「真理を抱き締められるところ」


 顔が一気に熱くなった。


「そういう言い方やめて」


「何で」


「恥ずかしいから」


「真理が許可した」


「そうだけど」


「じゃあ、ちゃんと探す」


 春斗は少し笑う。


 どうして最近の春斗は、こういうことを平気な顔で言えるのだろう。


 そう思ったけれど、よく見れば耳は少し赤い。


 そのことへ気づいた瞬間、私だけが恥ずかしがっているわけではないのだと分かって、少しだけ安心した。


     ◇


 午前十一時二分。


 岩瀬駅が見えてきた。


 朝、ここで待ち合わせをした。それからまだ数時間しか経っていないのに、そのときよりずっと春斗との距離が近くなった気がする。


 木下書房へ行った。


 中学生の春斗の話を聞いた。


 誕生日の本のことを知った。


 春斗が私へ気づいてほしくて読んだ恋愛小説のことを知った。


 そして、このあと抱き締めてもらう。


 そう思った途端、また胸が速くなる。


 私は右肩へ掛けているバッグの位置を直しながら、隣を歩く春斗の横顔を見た。


「何?」


 すぐに気づかれる。


「見てただけ」


「何を」


「春斗」


「何で」


「今日、春斗を一番見るって言ったから」


 朝から何度口にしたか分からない言葉だった。それでも今は、朝より自然に言える。


 春斗の口元が少し緩む。


「じゃあ俺も真理を見る」


「ちゃんと前も見てね」


「分かってる」


 そう言って笑う。


 駅前へ入ると、人は朝より明らかに増えていた。改札へ向かう人、駅前で誰かを待っている人、部活動へ向かうらしい制服姿の高校生もいる。


 同じ学校の生徒がいてもおかしくない。


 私は繋いだ手へ少しだけ力を入れた。


「知ってる子いるかも」


「いるかもな」


「どうする?」


「何が?」


「手」


 春斗が少しだけ私を見る。


「離したい?」


 朝、同じことを聞かれた。


 そのときも、離したくないと思った。


 今はもっと強くそう思う。


「離したくない」


 今回は、思ったまま口にした。


 春斗の歩く速度が少しだけ遅くなる。


「真理」


「何?」


「今日、その言葉二回目」


「数えてるの?」


「数える」


「何で」


「嬉しいから」


 春斗が握る力を少し強くする。


 私も握り返した。


「じゃあ」


 少しだけ意地悪したくなる。


「三回目も言うかも」


「今日?」


「分からない」


「言って」


「嫌」


「何で」


「言いたいときに言う」


 春斗は少し笑った。


「分かった」


 そして。


「待つ」


 と言った。


 その一言が、少しだけ胸へ残った。


 前の春斗は、ずっと待っていた。


 私が自分を見るまで。


 私が竹下くんへの気持ちを整理するまで。


 私が春斗を選ぶまで。


 長い時間、ずっと。


 今は違う。


 私が言いたくなるまで待つ。


 私が近づきたくなるまで待つ。


 私が触れたくなるまで待つ。


 同じ「待つ」なのに、意味が全然違う。


 今の待つは、春斗だけが苦しむものではなく、私の気持ちも大事にしてくれている。


 その違いが、少し嬉しかった。


     ◇


 改札へ入る直前、春斗が足を止めた。


「こっち」


「どこ?」


「少しだけ」


 春斗に手を引かれ、駅舎の横へ回る。


 駐輪場とは反対側に、私はほとんど使ったことのない細い通路があった。建物の壁沿いに歩道が続き、その先には小さな植え込みと古いベンチが一つ置かれている。


 駅前広場からは少し死角になっていた。


 改札へ向かう人がわざわざ立ち寄るような場所ではないらしい。


「こんなところあったんだ」


「ある」


「春斗、知ってたの?」


「昔、本読むとき来てた」


「一人で?」


「うん」


 たぶん、木下書房で買った本を持ってここへ来たこともあるのだろう。


 また知らなかった春斗が増えた。


「今日だけで色々出てくるね」


「まだあるよ」


「もっと?」


「うん」


「私、負けそう」


「何が」


「お互いの知らないことの数」


「競争じゃないだろ」


「分かってる」


 二人で少し笑う。


 ベンチには誰もいない。


 駅舎の向こう側からは車の音や改札の案内放送が聞こえるし、電車がホームへ入ってくる音も微かに届く。


 完全に静かな場所ではない。


 でも、人の視線はほとんどない。


 そこでやっと、私はここへ来た理由を意識した。


「春斗」


「何」


「……ここ?」


「うん」


 自分の声が少しだけ硬くなる。


 春斗も急に緊張した顔になった。


 さっきまで抱き締められるところを探すなんて言っていたのに、実際に二人きりに近い場所へ来ると、春斗も普通に緊張している。


「春斗も緊張してる?」


「してる」


 即答だった。


 私は少し笑った。


「朝からそれ何回目」


「本当だから」


「私も」


 そう答える。


 私たちの手は、まだ繋がったままだ。


 春斗がゆっくり身体をこちらへ向ける。


 それだけで心臓が大きく鳴った。


「真理」


「何?」


「本当にいい?」


 ちゃんと確認してくれる。


 木下書房では私がいいと言った。


 でも、場所が変わって時間が経ったから、もう一度聞いてくれる。


 私は春斗を見る。


 好き。


 大事。


 もっと近づきたい。


 少し怖い。


 でも、春斗に抱き締められることは嫌ではない。


 むしろ今は、してほしい。


「うん」


 私は頷いた。


 そして自分から言う。


「抱き締めて」


 言った瞬間、自分でも信じられないくらい恥ずかしくなった。


 春斗の目が少し見開かれる。


「真理」


「言わせたんだから早くして」


「今の保存したい」


「無理」


「覚える」


「忘れて」


「嫌」


 まだ、いつものやり取りだった。


 でも。


 春斗が一歩近づいた瞬間。


 お互い、笑わなくなった。


 繋いでいた手がゆっくり離れる。


 その代わり、春斗の両腕が私の背中へ回った。


 いきなり強く引き寄せるのではなく、私が嫌なら離れられるだけの時間をちゃんと残してくれている。


 でも、私は逃げなかった。


 それどころか、自分からほんの少し春斗へ身体を寄せた。


 肩が触れる。


 胸元が近づく。


 春斗の服へ頬が少し触れた。


 柔軟剤の匂いと、朝から歩いたあとの体温が思っていた以上に近い。


 背中へ回った腕に、少しだけ力が加わった。


 息が止まりそうになる。


 でも、苦しくない。


 怖くない。


 むしろ安心する。


 竹下くんを振った日。


 同じ岩瀬駅で。


 私は春斗に初めて抱き締められた。


 あの日も近かった。


 春斗の体温を感じたし、心臓の音まで聞こえそうだった。


 でも、あのときは竹下くんを傷つけた直後で、春斗を選んだ直後で、嬉しいだけではなかった。


 罪悪感も。


 悲しさも。


 安心も。


 全部混ざっていた。


 今日は違う。


 今の春斗は、私の彼氏だ。


 私は春斗の彼女だ。


 そして、抱き締めてほしいと自分から言った。


 私は少し迷ってから、春斗の背中へ自分の腕も回してみた。


 一瞬、春斗の身体が固くなる。


「真理」


 耳のすぐ近くで声がした。


 近い。


「何?」


「それ」


「何」


「俺も抱き締められてる」


「嫌?」


「逆」


 春斗の声に少しだけ笑いが混ざった。


「かなり嬉しい」


「知ってる」


「何で」


「最近そればっかりだから」


 私は春斗の胸元で少し笑う。


 春斗も笑ったらしく、その動きが身体越しに伝わってきた。


 抱き締められている。


 ではなく。


 二人で抱き合っている。


 そう気づいた瞬間、また心臓が速くなる。


 春斗の胸へ耳が近いせいか、春斗の心臓も少し速いように感じる。


「春斗」


「何」


「心臓」


「うん」


「速い」


「真理も」


「聞こえる?」


「近いから」


 顔が熱くなる。


 それでも離れたくない。


 むしろ、もう少しこのままでいたい。


 私は春斗の服を背中側で少しだけ掴んだ。


 それへ気づいたのか、春斗の腕がもう一度だけ強くなる。


「真理」


「何?」


「今日も、かなり好き」


 胸の奥がきゅっと縮まった。


「今日だけ?」


「毎日」


「じゃあ言い方変だよ」


「今日もかなり好き」


「……うん」


 私は春斗の背中へ回した腕に少し力を入れる。


「私も」


 かなり小さい声だった。


 でも、春斗には聞こえた。


「もう一回」


「嫌」


「何で」


「聞こえたでしょ」


「聞きたい」


 迷う。


 恥ずかしい。


 でも今日、木下書房で知った。


 春斗は昔から、ずっと私から欲しかった言葉があった。


 好き。


 その言葉を、私は今ちゃんと春斗へ言える。


「私も春斗が好き」


 今度ははっきり言った。


 春斗は何も返さなかった。


 ただ、抱き締める腕の力が少し強くなった。


 それだけで十分だった。


     ◇


 どれくらいそうしていたのか分からない。


 一分くらい。


 もしかすると、もっと短かったかもしれない。


 でも私には、かなり長く感じた。


 春斗の腕が少しずつ緩む。


 私も背中へ回していた腕を離した。


 身体がゆっくり離れる。


 でも、完全には離れなかった。


 近い。


 思っていたより、春斗の顔が近い。


 目が合う。


 その瞬間、呼吸が止まりそうになった。


 キス。


 朝から何度も考えないようにしてきた。


 その瞬間になったら、自分がしたいかどうかで決める。


 そう決めた。


 そして今。


 春斗が近い。


 私より少し高い位置にある顔。


 目。


 鼻。


 そして唇。


 そこまで意識した瞬間、胸がさらに速くなる。


 もし今、春斗がもう少しだけ顔を近づけてきたら。


 私はどうするのだろう。


 前なら、たぶん慌てて離れた。


 まだ、と言った。


 でも今は。


 嫌ではない。


 むしろ胸の奥に、ほんの少し期待している自分がいる。


 そのことに気づいて、私は余計に動けなくなった。


 春斗も私を見ている。


 目を逸らさない。


 でも動かない。


 数秒、二人とも何も言わなかった。


 駅から流れてくる案内放送。


 遠くで電車がホームへ入ってくる音。


 風が少し吹いて、白いヘアピンで留めきれなかった髪が頬へかかった。


 春斗が、その髪を見る。


 そしてほんの少し右手が動きかけた。


 髪へ触れるのか。


 頬へ触れるのか。


 分からない。


 私は動かなかった。


 触れられてもいいと思った。


 むしろ。


 待っている自分がいた。


 そのとき。


 春斗が先に、少しだけ距離を取った。


「……行こう」


 小さく言う。


 私は一瞬だけ驚いた。


「うん」


 答える。


 同時に、少し安心した。


 まだ自分からキスしたいと言えるほど心の準備ができているわけではない。春斗が一度引いてくれたことで、止めていた呼吸が戻った。


 でも。


 その直後。


 別の感情へ気づいた。


 少し残念だった。


 自分がそう感じた。


 あと少し。


 もう少しだけ近くにいてほしかった。


 その思いが胸の中へ浮かび、私は自分でも驚く。


「……」


「真理?」


「何?」


「顔」


「何」


「何か言いたそう」


「言わない」


「何考えてた?」


「言わない」


「俺のこと?」


「……うん」


「何?」


「絶対言わない」


 春斗が少し眉を寄せる。


 でも無理には聞かなかった。


「分かった」


「うん」


「そのうち聞く」


「嫌」


「恋人だから」


「便利に使わないで」


 いつもの会話へ戻る。


 でも私は、さっきまで近かった春斗の唇を少しだけ意識している。


 もし春斗がもう少し近づいていたら。


 私はたぶん逃げなかった。


 そのことが、自分でも少し怖い。


 でも。


 嫌ではない。


 私はごまかすようにバッグの位置を直した。


     ◇


 駅へ戻り、改札前の電光掲示板を確認する。


 水戸方面の電車までは、あと十二分ほどだった。


「ちょうどいいな」


 春斗が言う。


「うん」


「切符?」


「IC」


「俺も」


 二人で改札を通る。


 ホームには土曜日らしい人の流れがあった。部活動へ向かう高校生、小さな旅行鞄を持った家族、一人でベンチへ座る年配の男性。


 私たちはホームの少し端へ寄った。


 さっき抱き合った感覚がまだ身体に残っている。


 春斗はすぐ隣にいる。


 なのに、少しだけ目を合わせにくい。


「真理」


「何?」


「手」


 見ると、春斗が右手を差し出していた。


 私は一瞬だけ迷った。


 でも、すぐに取る。


 指を絡めると、さっきまでの恥ずかしさが少しだけ落ち着いた。


「さっき」


 春斗が小さく言う。


「何?」


「抱き締めたあと」


 胸が跳ねた。


「ここで言わないで」


「声小さい」


「でも」


 春斗は少しだけ私を見る。


「嫌じゃなかった?」


 ちゃんと確認してくれる。


 私はすぐに答えた。


「嫌じゃない」


「本当?」


「うん」


「またしていい?」


 胸が少し温かくなる。


「……うん」


 私は頷いた。


 そしてもう一歩。


「またして」


 言った。


 春斗が少し固まる。


「真理」


「何」


「今日」


「強い?」


「かなり」


「春斗もでしょ」


「俺はいつも」


「最近だけだよ」


 二人で少し笑う。


 そのあと、私はさっきのことをもう少しだけ言いたくなった。


「でも」


「うん」


「さっき」


「何?」


 言葉が止まる。


 もう少し近くてもよかった。


 そう言う?


 無理。


 それは、ほとんどキスしてもよかったと言うのと同じだ。


「……もう少し」


「何?」


「何でもない」


 春斗は私を見る。


 たぶん何かあると分かっている。


 でも、それ以上は聞かなかった。


「分かった」


 優しい。


 でも。


 少しだけ悔しい。


 気づいてほしい。


 でも聞かれたら恥ずかしい。


 自分でもかなり面倒くさいと思う。


     ◇


 やがて電車がホームへ入ってきた。


 金属音を響かせながら減速し、目の前で扉が開く。降りてくる人たちを先に通してから、私と春斗も車内へ入った。


 土曜日の午前中ということもあり、平日の通学時間ほど混んではいなかった。二人で並んで座れる席を見つけ、私は窓側、春斗は通路側へ腰を下ろす。


 座るために一度手が離れた。


 けれど、すぐに春斗の手が座席の間で少しこちらへ寄ってくる。


 私も自分から指を寄せた。


 触れる。


 そのまま、また手を繋ぐ。


「今日、ずっと手繋いでるね」


 私が言うと、春斗は少しだけ指へ力を入れた。


「嫌?」


「嫌じゃない」


「ならいい」


「うん」


 電車が動き出す。


 窓の外で岩瀬駅のホームがゆっくり後ろへ流れていく。


 ここから水戸へ向かう。


 春斗が何か考えている。


 まだ教えてもらっていない。


 その秘密が少し楽しみだった。


「春斗」


「何?」


「水戸で何するの?」


「秘密」


「まだ?」


「着いてから」


「ヒント」


「昼」


「ご飯?」


「それも」


「ほかは?」


「歩く」


「どこを?」


「秘密」


「秘密ばっかり」


 春斗が楽しそうに笑う。


「一個だけ言う」


「何?」


「真理が好きそうなところ」


「何それ」


「だから選んだ」


 胸が温かくなる。


「調べたの?」


「うん」


「いつ?」


「今週」


「学校あったのに?」


「夜」


「そんなに調べたの?」


「初デートだから」


 また、その言葉。


 便利に使っていると思う。


 でも今は嬉しい。


 春斗が今日をちゃんと特別にしようとしてくれている。


「楽しみ」


 私は素直に言った。


「かなり」


 春斗が少し笑う。


「俺みたい」


「俺もかなり楽しみ」


 二人で顔を見合わせて笑った。


     ◇


 窓の外の景色が少しずつ変わっていく。


 田畑の多い景色から住宅が増え、駅へ停まるたびに乗客が少しずつ増えていった。それでもまだ立っている人は多くなく、車内には休日特有のゆったりした空気が残っている。


 途中の駅から、高校生らしい女子二人が乗ってきた。


 私たちの近くへ座る。


 一瞬、繋いだ手を見られたような気がした。


 前なら反射的に離したかもしれない。


 でも今日は、恥ずかしいと思うだけで離したくはならなかった。


 むしろ。


 彼氏と彼女に見える。


 そのことが少しだけ嬉しい。


「真理」


「何?」


「顔」


「また?」


「嬉しそう」


 私は今度は否定しなかった。


「うん」


「何が?」


「分からない」


「分からない?」


「デート」


 窓の外へ視線を向けながら、言葉を探す。


「朝から、全部嬉しい」


 春斗が黙って聞く。


「待ち合わせも、木下書房も、春斗の昔を知れたのも嬉しかった」


「うん」


「抱き締められたのも」


 自分で言って、また顔が熱くなる。


 でも今日は、できるだけちゃんと言いたい。


「今、手繋いでるのも嬉しい」


 春斗の指へ少し力が入った。


「私ね」


「うん」


「デートって、こんなに楽しいんだね」


 春斗は少し黙った。


 でも口元がかなり嬉しそうに緩んでいる。


「何?」


 私が聞く。


「いや」


「何?」


 春斗は少し窓の外を見た。


「俺、今日終わってほしくない」


 胸がきゅっとなる。


「まだ昼前だよ」


「うん」


「早すぎ」


「でも、もう思った」


 春斗がこちらを見る。


 その目が少し寂しそうで、嬉しそうで。


 私も同じだと思った。


「私も」


 答える。


 まだ午前中。


 これから水戸へ行く。


 ご飯を食べる。


 春斗が考えた秘密の予定もある。


 たぶん、もっと近づく。


 それでも今から終わることを想像すると、少し寂しい。


「じゃあ」


 私は言った。


「終わるまでいっぱい楽しもう」


「うん」


「あと」


 少しだけ恥ずかしい。


「手も」


「うん」


「できるだけ離さない」


 春斗が笑った。


「三回目」


「何が」


「離したくない系」


「数えないで」


「嬉しいから」


「もう」


 私は笑う。


 春斗も笑った。


     ◇


 電車が水戸へ近づくにつれ、車内の乗客も少しずつ増えてきた。


 窓の外には住宅や建物が増え、道路を走る車の数も岩瀬周辺とは比べものにならない。遠くに高い建物が見え始めると、本当にデートの続きをしに来たのだという実感が強くなった。


「春斗」


「何?」


「緊張してきた」


「何で」


「秘密の予定」


「俺の?」


「うん」


「変なことしないよ」


「それは知ってる」


「じゃあ何で」


「何するか分からないから」


「真理が好きそうなところ」


「それだけ?」


「あと」


「何?」


 春斗が少し考えた。


「見せたいものがある」


 胸が少し鳴る。


「何?」


「着いてから」


「もう!」


 私は少し頬を膨らませた。


 春斗は楽しそうに笑う。


「真理」


「何」


「期待してる?」


「してる」


 即答すると、春斗の方が少し驚いた。


「本当に?」


「だって春斗が考えてくれたんでしょ」


「うん」


「じゃあ楽しみ」


 春斗の目が少し柔らかくなる。


「よかった」


 その顔を見ながら、私は思う。


 この人は、ずっと私を好きだった。


 でも今は、ただ好きでいるだけではない。


 私を喜ばせたい。


 楽しませたい。


 一緒に楽しい時間を作りたい。


 そう思ってくれている。


 恋人になるって、たぶんこういうことなのだ。


     ◇


 水戸駅へ着いたのは、午前十一時四十六分だった。


 電車がホームへ滑り込み、速度を落として止まる。扉が開くと、降りる人の流れに合わせて私たちも立ち上がった。


 その瞬間、一度手が離れる。


 でも。


 ホームへ降りた直後。


 春斗がまた右手を差し出した。


 私は思わず笑う。


「何?」


「早い」


「春斗が出したんでしょ」


「でも取った」


「うん」


 私は迷わず手を重ねた。


 水戸駅は岩瀬駅とは比べものにならないくらい人が多い。買い物へ向かう人、観光客、学生、家族連れ。ホームから改札へ向かう人の流れも速い。


 でも、春斗の手がある。


 それだけで少し安心できる。


「真理」


「何?」


「最初は昼」


「お腹空いた」


「食べられる?」


「朝、お母さんにも言われた」


「ちゃんと食べて」


「食べるよ」


「よし」


「何で春斗が確認するの」


「彼氏だから」


「またそれ」


「使える」


 二人で笑いながら改札へ向かう。


 でも歩きながら、私はふと思い出してしまう。


 抱き締められたあと。


 春斗の顔がすぐ近くにあった。


 あの数秒。


 もし春斗がもう少しだけ近づいてきたら。


 私はたぶん逃げなかった。


 そのことを、自分ではもう分かっている。


 胸がまた速くなる。


「真理?」


 春斗がすぐ気づいた。


「何でもない」


「顔赤い」


「暑い」


「駅の中で?」


「暑い」


「本当?」


「本当」


 少し早口になる。


 春斗は疑っている。


 でも、それ以上は聞かなかった。


 私は少し安心する。


 なのに。


 心のどこかでは。


 少しだけ。


 聞いてほしかった。


 そんな自分が、かなり面倒くさいと思う。


     ◇


 改札を出る。


 休日の水戸駅は明るく、人も多かった。店から流れる案内の声、キャリーケースの音、待ち合わせをする人たちの話し声が重なり、岩瀬とはまるで違う賑やかさがある。


 春斗は手を繋いだまま、少しだけ私を引く。


「こっち」


「どこ?」


「まずご飯」


「何食べるの?」


「決めてる」


「また秘密?」


「これは言う」


「何?」


「パスタ」


「好き」


「知ってる」


「何で?」


「前に言ってた」


「いつ?」


「かなり前」


「覚えてるの?」


「真理だから」


「ずるい」


 でも、嬉しい。


「そのあと?」


 私はすぐに聞く。


 春斗は少し笑った。


「秘密」


「また!」


 私が声を上げると、春斗が楽しそうに笑う。


 人は多い。


 でも手は離れない。


 私は、その手を少しだけ強く握る。


 今日。


 朝、岩瀬駅で始まった。


 木下書房へ行って、知らなかった春斗の過去を知った。


 抱き締めてもらった。


 電車で水戸へ来た。


 まだ昼。


 これから春斗が考えた予定がある。


 それだけでも、胸の中はもうかなりいっぱいだった。


 そして。


 もう一つ。


 どうしても消えない意識がある。


 抱き締められたあと。


 近かった。


 あの距離。


 キスを考えた。


 嫌ではなかった。


 むしろ、ほんの少ししたいと思った。


 そのことは、まだ春斗は知らない。


 私もまだ言えない。


 でも。


 もし今日。


 どこかで。


 もう一度あの距離になったら。


 そのときは。


 私は前より、たぶん逃げない。


 そんな予感を胸の奥へ抱えながら。


 私は春斗の手を握り返し、人の多い水戸駅の中を並んで歩いていった。

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