第42話 彼氏が私を好きだった頃の話を本人以外の口から聞いて、嬉しいのに少し泣きそうになりました
木下書房の扉をくぐった瞬間、紙と古い木の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
外から見たときにも昔ながらの小さな書店だとは思っていたけれど、中へ入るとその印象はさらに強くなる。入口近くには新刊や雑誌が整然と並び、奥へ進むほど背の高い本棚が増えていく。表紙の色が少し褪せた文庫本や、何年も前に出版されたらしい単行本まで、狭い棚へ丁寧に収められていた。
床板も新しくはない。歩くたびに微かに軋み、窓から斜めに差し込む朝の光には細かな埃がゆっくり浮かんでいる。静かな店内では、小さなラジオから流れる穏やかな音楽と、店主さんがカウンターへ戻っていく足音だけが聞こえた。
私は、春斗と繋いでいた手をどうするべきか迷った。
外ではあれだけ離したくないと思っていたのに、店へ入った途端、急に誰かの家へ上がり込んだような恥ずかしさが出てくる。しかもここは、春斗が長い間、私のことを相談していた場所だ。
私が竹下くんを好きだと話していた頃も。
春斗が何も言わずに隣へいてくれた頃も。
きっと、この店では私の知らない春斗が何度も座り、私の知らない言葉を口にしていた。
そう思うと、今こうして手を繋いでいることまで見透かされているような気がした。
「真理」
隣から小さく呼ばれ、私は顔を上げる。
「何?」
「手。嫌なら離すけど」
言われて初めて、自分の手へ少し力が入っていたことに気づいた。
春斗は無理に握っていない。私が離そうと思えば、いつでも離せるくらいの力で繋いでいる。
私は店主さんの背中をちらりと見た。
どう考えても、もう全部気づかれている。
だったら今さら隠す意味もない。
「嫌じゃない」
「じゃあ、このまま?」
「……うん」
私が頷くと、春斗は少しだけ嬉しそうに指を絡め直した。
その仕草だけで、まだ朝から続いている初デートの緊張が少し和らぐ。
店主さんはカウンターの内側へ回り、開店準備の続きらしい伝票をまとめながらこちらを見た。
「朝から珍しいな」
「土曜だから」
春斗が普通に答える。
店主さんは少し笑った。
「そういう意味じゃないよ」
その視線が、私たちの繋いだ手へゆっくり落ちた。
私は反射的に肩へ力を入れる。春斗も視線に気づいたはずなのに、手を離そうとはしなかった。
「その子を連れてきたことが珍しいんだ」
その子。
言われなくても、それが自分のことだと分かる。
私は少し遅れて頭を下げた。
「はじめまして。久保真理です」
「知ってるよ」
「え?」
思わず顔を上げる。
店主さんは、まるで当然のことのように答えた。
「名前は何回も聞いた」
「店主」
すぐに春斗が止めた。
「何だ」
「余計なこと言わなくていい」
「まだ何も言ってないだろう」
「これから言いそう」
店主さんが小さく笑う。
私は隣の春斗を見る。
耳が少し赤い。
それだけで、聞いてはいけないと言われたところを聞きたくなる。
「何回くらい聞いたんですか?」
「聞かなくていい」
春斗が即座に割り込んできた。
「聞きたい」
「真理」
「今日、知らない春斗を教えてって言ったでしょ」
駅からここへ来る途中で、そう約束した。
幼馴染だったからこそ、春斗のことはかなり知っているつもりだった。でも恋人になってみると、知らない時間も、知らない顔も、知らない考え方もたくさんある。
私はそれを知りたいと思っている。
春斗は少し困った顔をしたものの、完全には止めなかった。
その反応が、少し嬉しい。
「そういう話なら座るか?」
店主さんはカウンター横から小さな丸椅子を二つ出した。
「いいんですか?」
「朝はまだ客も少ないからな」
扉は開いたばかりで、店内にはまだ私たち以外の客はいない。
私は少し緊張しながら椅子へ腰を下ろした。春斗も隣へ座り、そのとき一度だけ手が離れる。
ほんの数秒前まで繋いでいた場所が急に軽くなった。
少し寂しい。
そんなことを思ってしまう自分に、また少し驚く。
私は膝の上へバッグを置いた。
店主さんは私たちの顔を順番に見て、改めて口を開く。
「本当に付き合ったんだな」
「はい」
春斗が先に答えた。
私も少し遅れて頷く。
「はい」
自分で答えた途端、顔が熱くなる。
「いつから?」
「日曜日からです」
今度は私が答えた。
「まだ一週間も経ってないのか」
「うん」
「それでそんなに分かりやすい?」
店主さんが笑う。
春斗が眉を寄せた。
「何が」
「顔」
また顔。
私は思わず春斗を見る。
春斗もこちらを見た。
「真理も分かりやすい」
「春斗もでしょ」
「俺は普通」
「嘘」
即答すると、店主さんが声を立てずに笑った。
「少なくとも前とは全然違うぞ」
春斗の表情が少し固まった。
「前?」
私はすぐに反応する。
「店主」
「何だ」
「そこは言わなくていい」
「私は聞きたい」
私が横から入ると、春斗は小さくため息を吐いた。
それでも「駄目」とは言わなかった。
◇
店主さんはカウンターの下から小さな電気ケトルを取り出した。
「コーヒーでいいか?」
「俺は」
春斗が答える。
私は少し迷ってから聞いた。
「私は紅茶でもいいですか?」
「あるよ」
店主さんが戸棚からティーバッグを取り出す。
春斗がこちらを見る。
「コーヒーじゃないんだ」
「苦いから」
「前、飲んでた」
「ミルクいっぱい入れてたでしょ」
「じゃあコーヒーじゃない?」
「コーヒーです」
私は少し笑う。
店主さんが湯を沸かしながらこちらを見た。
「その辺も知らないのか」
「紅茶が好きなのは知ってる」
春斗が答える。
「でも今日は確認した」
「うん」
「なら、それでいいんじゃないか」
店主さんはそう言いながら二つのカップへ湯を注いだ。
「恋人になったからって、何でも知ってる必要はないだろう」
その言葉が、朝から何度か私の中へ浮かんでいた考えと重なった。
私は少しだけ店主さんを見る。
「春斗も、似たようなこと言ってました」
「本当か」
「俺は言ってない」
「言ってたようなものじゃん」
「何て?」
「これから聞くって」
店主さんが少し笑う。
「成長したな」
「何が」
「前は、何でも分かった気になってた」
春斗の顔がまた固くなる。
「店主」
「黙ってた方がいいか?」
「言ってください」
私は即答した。
春斗がこちらを見る。
「真理」
「今日いっぱい教えてって言ったもん」
「言ったけど」
「だったら聞く」
店主さんは面白そうに笑いながらカップを私たちの前へ置いた。
「前の春斗は、真理ちゃんが何を考えてるか勝手に想像して、それで勝手に落ち込んでた」
「……」
春斗が黙る。
「本人の気持ちだけは、何も聞いてなかったのにな」
胸が少し動いた。
その頃の春斗は、私を好きだった。
でも言わなかった。
私は竹下くんを好きになった。
春斗は、それを聞き続けながら勝手に自分の恋を終わらせようとしていた。
「春斗」
「何」
「今は聞く?」
「聞く」
答えは即座だった。
「かなり」
その言い方が少し嬉しくて、私は笑った。
「うん」
店主さんも私たちを見ながら頷く。
「その方がいい」
◇
紅茶のカップを両手で持つ。
指先へじんわり熱が伝わってくる。
春斗はコーヒーを一口飲み、店主さんもカウンターの内側へ椅子を引いて腰を下ろした。
私は少し緊張しながら聞く。
「春斗は、ここでどんな相談をしてたんですか?」
「真理」
「聞くって決めた」
「全部は無理」
「全部じゃなくていいよ」
私は春斗を見る。
「春斗が嫌なところまで聞くつもりはない」
春斗は少しだけ表情を緩めた。
「うん」
店主さんがしばらく考える。
「最初に真理ちゃんの話を聞いたのは……去年だったかな」
「もっと前」
春斗が訂正した。
「中三」
私は思わず目を見開いた。
「中三?」
竹下くんを知るより前。
今の高校へ入るより前。
「そんな前から?」
「うん」
春斗が少しだけ視線を逸らす。
「何を話したの?」
「覚えてない」
「嘘」
店主さんがすぐに言った。
「覚えてるだろ」
「店主」
「最初だったから、こっちも覚えてる」
聞きたい。
でも。
少しだけ怖い。
そこまで昔から春斗が私を好きだったと知ると、嬉しいだけでは済まない気がした。
「どんな話だったんですか?」
店主さんは、すぐには答えずに春斗を見る。
「いいか?」
春斗は少し黙った。
その横顔には恥ずかしさも、ためらいもある。
それでも最後には小さく頷いた。
「……うん」
私に聞かせることを選んでくれた。
それだけで胸が温かくなる。
「最初は、女の子の誕生日に本を贈りたいって話だった」
「誕生日?」
中学三年生の頃。
思い出す。
春斗が私へくれた一冊の文庫本。
青い表紙。
当時、私が好きだと言っていた作家の短編集。
「……あれ?」
春斗の顔が少し赤くなる。
「うん」
「ここで選んだの?」
「うん」
「普通に本屋へ行って買っただけだと思ってた」
「本屋で買った」
「そういう意味じゃない」
店主さんが笑った。
「二時間くらい迷ってた」
「二時間!?」
思わず声が大きくなった。
ちょうど入口から年配の女性が入ってきて、こちらを一瞬見る。
「いらっしゃい」
店主さんが会釈する。
私は慌てて声を落とした。
「二時間?」
「店主が盛ってる」
「一時間四十分はいた」
「ほぼ二時間じゃん」
春斗はコーヒーへ口をつけて逃げようとする。
「何でそんなに迷ったの?」
「何でもよかったから」
「絶対違う」
「真理」
「二時間近く迷って、何でもいいは無理があるでしょ」
店主さんが、昔を思い出したように笑う。
「好きな子が一番喜ぶものが分からないって、ずっと棚の前を行ったり来たりしてたよ」
胸の奥が締めつけられた。
中学三年生の春斗。
まだ今より少し幼かった春斗が。
私の誕生日に何を渡せば喜ぶのか分からなくて、この店を何度も行ったり来たりしていた。
私は何も知らなかった。
ただ、幼馴染がくれた本として普通に受け取った。
「春斗」
「何」
「あの本、今も持ってるよ」
春斗が顔を上げた。
「本当?」
「うん。本棚の上から二段目」
「場所まで覚えてる?」
「覚えてるよ」
「俺があげたから?」
私は少しだけ考えた。
「それもある」
当時、春斗を恋愛対象として好きだったわけではない。
でも。
大事な幼馴染だった。
ずっと隣にいる人だった。
「春斗から初めてもらった本だったから」
春斗の目が少し柔らかくなった。
「そっか」
「うん」
胸が温かい。
これまでただの思い出だった一冊の本の裏側に、春斗が私の知らないところで長い時間迷ってくれた事実が加わった。
同じ本なのに。
少しだけ。
大切さが増した気がした。
◇
店主さんは途中で入ってきた客の会計をしながら、話を続けてくれた。
春斗はさっきから少し居心地が悪そうだった。
でも。
帰ろうとはしない。
私も聞きすぎないようにしようと思う。
それでも、もっと知りたい気持ちは止められなかった。
「そのあとも、春斗はよくここへ来たんですか?」
「来たよ。本を買う日もあったし、何も買わない日もあった」
店主さんはレジの金額を確認しながら春斗を見る。
春斗は何も言わない。
「学校が嫌だった日?」
私が聞く。
「それもある」
春斗が答えた。
「何が嫌だったの?」
「色々」
「例えば?」
「真理」
少し困ったような声だった。
私はすぐに言い直す。
「嫌ならいいよ」
春斗がこちらを見る。
数秒。
店内では本を選ぶ女性が棚の前をゆっくり移動している。
ラジオの音が低く流れている。
その静かな間のあと、春斗が口を開いた。
「友達関係とか」
「うん」
「中学の頃、今より人付き合いが面倒だった」
少し意外だった。
でも、石井さんも言っていた。
昔の春斗は今以上に淡白で、必要なことしか話さなかった、と。
「喧嘩したとか?」
「そこまでじゃない」
「うん」
「ただ、周りに合わせて笑うのが疲れる日とかあった」
初めて聞いた。
「真理といると平気だったけど」
「私?」
「うん」
春斗が少し笑う。
「真理は昔から勝手だから」
「酷くない?」
「俺が喋らなくても一人で喋るし」
「うん」
「返事しなくてもあんまり気にしない」
「それは春斗が返事しなさすぎなんだよ」
「でも、楽だった」
その一言に、胸が少し熱くなる。
恋人になるずっと前から。
春斗にとって。
私と一緒にいる時間は楽だった。
「でも」
春斗は続けた。
「真理には言えないこともあったから」
店主さんが少しだけ笑う。
「それでここに来た」
「うん」
胸が少し痛い。
私に言えないこと。
私が好きだということ。
私の恋愛相談を聞くのが苦しいこと。
きっと。
そういうものを。
ここで少しずつ吐き出していた。
「ごめん」
反射的に口から出た。
春斗がすぐに返す。
「謝らなくていい」
「でも」
「真理は知らなかったから」
今まで何度も言われた。
知らなかったのだから仕方ない。
だから。
今度は別の言葉を選ぶ。
「じゃあ、ありがとう」
「何が?」
「ずっと隣にいてくれて」
春斗の目が少し動く。
「うん」
それだけ。
でも。
店主さんは何も言わずに私たちを見ていた。
その沈黙が、少しだけ優しかった。
◇
午前九時四十七分。
店内には少しずつ客が増えてきた。
常連らしい年配の男性が新聞を買い、親子連れが児童書の棚を見ている。開店直後の静けさは残っているものの、人の気配が少しずつ店へ満ち始めていた。
レジの近くでいつまでも話し続けるのも悪い気がして、私は椅子から立ち上がる。
「お店、見てもいいですか?」
「もちろん」
店主さんが答える。
「春斗」
「うん」
「案内して」
「何を?」
「春斗が好きなところ」
春斗は少し考えてから立ち上がった。
「じゃあ、こっち」
店の奥へ向かう。
狭い通路を二人で歩く。
今度は手を繋いでいない。
それでも肩が近い。
それだけで、少し嬉しい。
「ここ」
春斗が一つの本棚の前で止まった。
文庫本が多い棚だった。
「昔からここ見るの?」
「うん」
「何読むの?」
「色々」
「それ答えになってない」
春斗が少し考える。
「ミステリー」
「それは知ってる」
「SF」
「少し意外」
「何で」
「春斗、かなり現実的だから」
「本まで現実じゃなくていいだろ」
その答えが少し好きだった。
「あと恋愛」
「え?」
思わず春斗を見る。
「恋愛小説読むの?」
「読む」
「前から?」
「うん」
「知らなかった」
「言ってない」
「何で?」
「恥ずかしい」
春斗の耳が少し赤い。
私は笑う。
「春斗でも恥ずかしいことあるんだ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「淡白な人」
「昔は」
「今は?」
何となく聞いた。
春斗が私を見る。
「真理には、かなり」
胸が鳴る。
「質問変える」
「逃げた」
「逃げてない」
でも。
顔は熱い。
◇
春斗は棚の一番下から、一冊の文庫本を抜いた。
「これ」
「何?」
表紙を見る。
読んだことのない作品だった。
裏表紙のあらすじを読む。
幼馴染同士の恋愛。
そんな話らしい。
「好きなの?」
「昔読んだ」
「どんな話?」
春斗は少し言いにくそうに本を見る。
「ずっと幼馴染の女を好きな男が」
「うん」
「その子に他の男を好きになられる」
「……」
かなり似ている。
「それ、自分で選んだの?」
「店主」
私はカウンターを見る。
店主さんは別の客の対応をしている。
「何で勧められたの?」
「その頃、真理が竹下を好きになったから」
胸が少し痛む。
でも。
今の春斗は、そのことを以前より普通に話せる。
「読んだらどうだった?」
「余計きつくなった」
「何で読んだの」
「最後が気になった」
「どうなるの?」
春斗が少し笑う。
「最後は幼馴染を選ぶ」
私は一瞬止まった。
「……それ読んで期待した?」
「した」
答えはすぐだった。
その正直さに、胸が大きく鳴る。
「でも」
春斗が続ける。
「現実は小説じゃないと思った」
「うん」
「だから諦めようとした」
胸が痛い。
「できなかったけど」
今。
春斗は私の隣にいる。
私は春斗の彼女になった。
「春斗」
「何」
「今、小説みたいだね」
春斗が少し止まる。
「何が?」
「幼馴染がいて」
「うん」
「途中で他の人を好きになって」
「うん」
「最後は」
顔が熱くなる。
でも。
言う。
「春斗を選んだ」
春斗の目が少し揺れた。
「真理」
「何?」
「今、抱き締めたい」
私は反射的に周囲を見る。
少し離れた棚の向こうでは親子連れが児童書を選んでいる。
「ここでは無理」
「うん」
春斗もすぐに頷く。
私は少しだけ迷う。
でも。
言いたい。
「あとでなら」
自分で言った瞬間、自分自身が止まった。
春斗も完全に固まる。
「真理」
「何」
「今日、強すぎる」
「春斗に言われたくない」
私は顔を逸らした。
恥ずかしい。
でも。
胸の奥は、嬉しさでいっぱいだった。
◇
次に春斗が連れていったのは、店の一番奥だった。
そこには新刊ではなく、少し古い本や絶版になった作品が並んでいる。棚の上には手書きの小さな札も置かれていて、この店が長い時間をかけて本を残してきたことが伝わってきた。
「ここ、古本もあるんだ」
「一部だけ」
「春斗、ここも見る?」
「見る」
春斗は棚を眺めながら、迷いなく一冊へ手を伸ばした。
その動作がとても自然だった。
何度も来ている人の動きだった。
「それ?」
「うん」
表紙を見て、私は目を見開いた。
「これ……」
『君の隣を選び直す』
春斗から借りた本。
昨日、最後まで読み終えた本。
棚にあるのは少し古い版だけれど、同じ作品だった。
「ここで買ったの?」
「最初のは」
「最初?」
「俺のやつ」
「じゃあ、私に貸したのは春斗の?」
「うん」
胸が少し動く。
前から何となく。
分かっていた。
でも。
ちゃんとは聞いていない。
「何で、この本を私に貸したの?」
春斗は少しだけ棚へ視線を逃がした。
「言う?」
「聞きたい」
「恥ずかしい」
「私も感想言うから」
春斗が小さくため息を吐いた。
「真理に気づいてほしかった」
胸が止まりそうになる。
「何を?」
春斗はゆっくり私を見る。
「俺、隣にいるだけじゃ嫌だった」
店内は静かだった。
少し離れたカウンターから会計の音が聞こえるだけ。
「幼馴染じゃなくて」
春斗は続ける。
「選んでほしいと思ってた」
胸が熱い。
私は本の表紙へ指先で触れた。
「本で?」
「直接言えなかったから」
「うん」
「だから、最低限」
そこから先は。
分かった。
気づいてほしかった。
自分を見てほしかった。
でも。
告白する勇気までは持てなかった。
淡白だった頃の春斗の中にも、ずっとこんな気持ちがあった。
「春斗」
「何」
「感想、言う」
「うん」
私は本を見ながら言葉を探す。
「主人公、幼馴染を選ぶまで遅すぎる」
春斗が少し笑う。
「真理に言われたくない」
「私も読んでて思った」
「うん」
「近くにいすぎると」
少し胸が苦しくなる。
「大事なのに、それが恋だって分からないんだなって」
私は春斗を見る。
「すごく似てた」
春斗は黙って聞いている。
最後の言葉を思い出す。
隣にいたから選んだのではなく、何度離れても隣へ戻りたいと思ったから選んだ。
その文章を、そのまま口にする必要はない。
だって。
もう自分の言葉で言える。
「私ね」
少しだけ声が小さくなる。
「近かったから春斗を選んだんじゃないよ」
春斗の目が揺れる。
「竹下くんのこと、好きだった」
「うん」
「本当に好きだった」
「分かってる」
「でも」
私は一度息を吸った。
「それでも最後に、春斗の隣へ戻りたいって思った」
紙の匂い。
朝の光。
本棚の影。
静かな店の空気。
全部が、その瞬間だけ少し遠く感じられた。
「だから、春斗を選んだ」
春斗は何も言わない。
目元が、ほんの少し赤く見える。
「春斗?」
「何」
「泣く?」
「泣かない」
「顔」
「真理が悪い」
「何で」
春斗が少しだけ笑った。
「今日、俺がずっと欲しかった言葉ばっかり言うから」
胸が締めつけられる。
でも。
苦しいだけじゃない。
嬉しい。
「だって」
私は少し笑う。
「彼女だから」
春斗が止まった。
「それ」
「使える」
「取られた」
「早い者勝ち」
今度は二人で笑った。
◇
午前十時十二分。
店主さんが客の途切れた隙に、奥の私たちへ声を掛けた。
「どうだ?」
「何が?」
春斗が答える。
「久しぶりに案内役をやってるみたいだな」
「色々教えてもらってます」
私が答えると、店主さんは少し笑った。
「春斗がここまで喋るの、珍しいぞ」
「本当ですか?」
「店主」
春斗が少し嫌そうな顔をする。
「前は必要なことしか喋らなかったからな」
石井さんにも同じようなことを聞いた。
「でも真理ちゃんの話になると長かった」
「それは言わなくていい」
「どれくらいですか?」
「真理」
止められる。
でも店主さんは少し考えたあと答えた。
「長い日は一時間くらい」
「一時間!?」
また声が大きくなった。
今度は近くに客がいなかったので、少しだけ安心する。
「一時間も私の話?」
「毎回じゃない」
春斗が必死に訂正する。
「でも、一時間はあるんでしょ?」
「店主が話を盛ってる」
「質問したら止まらなかったんだよ」
店主さんが笑う。
「今日はこんな話をしたとか、朝一緒にいたとか、真理ちゃんが竹下くんの話ばかりするとか」
春斗の顔が完全に赤くなる。
「店主」
「竹下くんの名前まで知ってたんですか?」
「かなり聞いたよ」
胸が少し痛い。
でも。
同時に。
少し嬉しい。
私が春斗へ竹下くんの相談をしていたあと。
春斗はきっとここへ来て。
誰かへ話した。
苦しかったことを。
嫉妬したことを。
それでも私の恋を応援しようとしていたことを。
「春斗」
「何」
「ここで話すと、少し楽になった?」
春斗は一度店主さんを見る。
それから頷いた。
「うん」
少し間を置いて。
「かなり」
私は店主さんを見る。
朝から言いたかった言葉がある。
「ありがとうございます」
店主さんが少し眉を上げた。
「何が?」
「春斗の話、聞いてくれて」
春斗がこちらを見る。
「私、知らなかったから。春斗がずっと苦しかったとき」
少しだけ言葉が詰まる。
「ここで聞いてくれて、本当にありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
店主さんは数秒、何も言わなかった。
それから。
穏やかに笑った。
「私は本を売っていただけだよ」
「でも」
「話は春斗が勝手にした」
「店主」
「事実だろ」
春斗が少し困ったように顔を逸らす。
店主さんはそんな春斗を見たあと、私へ視線を戻した。
「それに」
声が少し柔らかくなる。
「春斗が報われたなら、聞いた甲斐はあった」
胸が熱くなった。
春斗は少しだけ視線を逸らす。
「報われた?」
私は春斗を見る。
春斗は少し照れながらも答えた。
「かなり」
「今?」
「今、かなり」
顔が熱くなる。
でも。
今回は逃げない。
「私も」
私は笑った。
「春斗の彼女になれて嬉しい」
店主さんが少し笑う。
「若いな」
「店主」
「褒めてる」
◇
そのあと、私は春斗が中学生の頃によく読んでいた本を何冊か教えてもらった。
難しそうな海外ミステリー。
少し古いSF。
短編集。
そして、意外なくらい可愛らしい表紙の恋愛小説。
「これも?」
私が薄桃色の表紙の本を持ち上げると、春斗が少し嫌そうな顔をした。
「それは店主に勧められた」
「読んだ?」
「読んだ」
「泣いた?」
「泣いてない」
遠くから店主さんの声が飛んでくる。
「翌日、目が赤かった」
「店主!」
私は思わず笑った。
「春斗、泣くんだ」
「普通に泣く」
「見たことない」
「見せないから」
「彼女にも?」
聞くと、春斗は一瞬だけ黙った。
「そのうち」
その答えが少し嬉しい。
「じゃあ、そのうち見せて」
「何で」
「知らない春斗だから」
「そういうのまで?」
「恋人だから」
春斗がため息を吐く。
でも。
笑っている。
「便利」
「使える」
また二人で笑った。
◇
午前十時三十八分。
気づけば、木下書房へ来てから一時間以上が経っていた。
「そろそろ行く?」
春斗が時計を見る。
「水戸?」
「うん」
「もう?」
自分で言ってから少し驚く。
かなり長くいたはずなのに。
まだ足りないと思っている。
もっとこの店を知りたい。
もっと春斗の昔を聞きたい。
「また来る?」
「来る」
「二人で?」
「うん」
「デート?」
「うん」
春斗が普通に答える。
胸が温かい。
「じゃあ今日はここまで」
「うん」
私はバッグから春斗に借りていた本を取り出した。
『君の隣を選び直す』
「これ、返す」
春斗が表紙を見る。
「もういいの?」
「読んだし、感想も言った」
「うん」
でも、春斗はすぐに受け取らなかった。
「真理」
「何?」
「持ってていいよ」
「何で?」
「そのまま」
「読み返せってこと?」
「違う」
春斗は少し視線を逸らした。
「真理に持っててほしい」
胸が鳴る。
「春斗の本でしょ」
「うん」
「大事じゃない?」
「大事」
「じゃあ」
「だから」
春斗が私を見る。
「真理に持っててほしい」
その意味が。
少し分かる。
この本は、春斗が自分を重ねた本。
私に気づいてほしくて貸した本。
春斗の長い片思いの時間まで入っているような本。
「もらっていいの?」
「うん」
「本当に?」
「うん」
私は本を胸の近くへ抱えた。
「大事にする」
春斗が少し笑う。
「うん」
カウンターの向こうで、その様子を見ていた店主さんが声を掛けた。
「春斗」
「何」
「それ、昔ここで買ったやつだろ」
「うん」
「手放すんだな」
「真理だから」
胸が大きく鳴った。
今日だけで何回。
この人は私を困らせれば気が済むのだろう。
「春斗」
「何」
「あとで」
「うん」
「本当に抱き締めていいから」
口から出た。
春斗が固まる。
店主さんも一瞬だけ眉を上げる。
そして。
私自身が一番遅れて意味を理解した。
「違う!」
何が違うのか、自分でもよく分からない。
「違わないけど、今じゃなくて!」
店主さんが声を立てて笑う。
春斗の耳も一気に赤くなった。
「真理」
「何」
「それ、忘れるの無理」
「忘れて」
「あとで」
春斗が少し笑う。
「ちゃんと覚えてる」
「もう嫌」
恥ずかしい。
でも。
自分で言った。
だから。
たぶん。
逃げない。
◇
帰る前に、私は一冊だけ本を買うことにした。
春斗が昔好きだったという短編集。
「これにします」
レジへ持っていくと、店主さんが表紙を見て少し笑った。
「春斗が昔よく読んでたやつだな」
「はい」
「真理」
春斗が少し恥ずかしそうに呼ぶ。
「何?」
「別に買わなくても貸すよ」
「自分で欲しい」
「何で?」
「今日の記念」
春斗が黙った。
店主さんは楽しそうに笑う。
「じゃあ、栞もつけておこう」
「ありがとうございます」
会計を終え、本が袋へ入れられる。
私はそれをバッグの中へ大事にしまった。
「また来ます」
「いつでも」
春斗も少しだけ店主さんを見る。
「ありがとう」
短い言葉だった。
でも。
店主さんにはきっと意味が伝わっている。
「楽しんでこい」
「うん」
そして。
店主さんが今度は私を見る。
「真理ちゃん」
「はい」
「春斗、面倒だろう」
「店主」
春斗がすぐに止める。
私は少し笑った。
「かなり」
「真理」
「でも」
春斗を見る。
今日。
ここへ来たから。
今。
ちゃんと言いたい。
「好きです」
春斗が完全に止まった。
店主さんは大笑いはしなかった。
でも。
とても満足そうに笑った。
「なら大丈夫だな」
私は少し恥ずかしかった。
でも。
言えて嬉しかった。
◇
午前十時四十七分。
木下書房を出ると、朝より日差しが強くなっていた。
通りには人も増え、近くの店も開き始めている。少し離れた道路から車の音が聞こえ、休日の町が本格的に動き出したのだと分かる。
扉が閉まり。
私は一度、ゆっくり息を吐いた。
「緊張した」
「俺も」
「見えなかった」
「かなり」
顔を見合わせる。
少しだけ笑う。
「春斗」
「何」
「今日、来てよかった」
私は木下書房の看板を一度見上げた。
「知らない春斗、いっぱいあった」
「まだあるよ」
「もっと?」
「ある」
だったら。
これから。
少しずつ。
知っていけばいい。
「じゃあ、これから教えて」
「真理も」
「うん」
「俺の知らない真理」
「何から知りたい?」
春斗が少しだけ近づいた。
「今、何考えてる?」
心臓が少し鳴る。
でも。
今日はかなり素直になっている。
「春斗のこと」
「何を?」
「好きだなって」
春斗が止まった。
自分でも、今日何回恥ずかしいことを言っているのだろうと思う。
でも。
止めたくない。
「昔の春斗」
私は続ける。
「私の誕生日に二時間近く本選んだり、一時間も私の話したり」
「店主が盛ってる」
「少しは本当でしょ」
「……うん」
「それを知ったら」
胸が少し苦しい。
でも。
それ以上に温かい。
「もっと好きになった」
春斗は何も言わなかった。
頬が少し赤くて、目は柔らかい。
「真理」
「何?」
「約束」
「何の?」
「さっきの」
すぐに分かった。
抱き締める。
「……うん」
私は周囲を見る。
木下書房の前には、時々人が通る。
「ここじゃない」
「分かってる」
「水戸行くでしょ」
「うん」
「その前に」
春斗は少し笑い、右手を差し出した。
「駅まで手」
私は迷わず取った。
指が自然に絡む。
朝より、ずっと自然だった。
「うん。離さない」
「俺も」
二人で歩き出す。
木下書房で知ったのは、私の知らなかった春斗だけではなかった。
中学生の頃から、春斗は私のことを何度も考えていた。
誕生日に渡す本一冊を選ぶために長い時間迷って。
私が竹下くんを好きになってからは、苦しさを抱えたままこの店へ来て。
それでも。
私へは何も言わずに。
ずっと隣へいてくれた。
それを思うと。
胸が少し痛む。
もっと早く気づけたのではないか。
あのとき私がもう少し春斗を見ていれば。
そんなことを考えそうになる。
でも。
今さら過去へ戻ることはできない。
だったら。
これから。
春斗がずっと欲しかった言葉を。
今の私が。
ちゃんと伝えていけばいい。
好き。
会いたい。
嬉しい。
離したくない。
そういうことを。
恋人になった今なら。
前より少しだけ素直に言える。
私は繋いだ手を、ほんの少しだけ強く握った。
すぐに春斗も握り返してくれる。
それだけで。
また胸が温かくなる。
私たちは手を繋いだまま、再び岩瀬駅へ向かって歩き始めた。
初めての正式なデートは、まだ午前中だ。
木下書房を出ただけなのに。
私は朝よりもう少しだけ。
春斗の彼女になれた気がしていた。




