第41話 彼氏との初デートで待ち合わせをしただけなのに、いつもの駅が知らない場所みたいに見えました
土曜日の朝、午前五時四十一分。
目を覚ました私は、まだカーテンも開けていない薄暗い部屋の中で、しばらく自分がどうしてこんな時間に起きたのか分からなかった。
目覚ましを設定したのは七時だったはずだ。待ち合わせは午前九時で、岩瀬駅までは家からそれほど時間もかからない。朝食を食べて髪を整え、昨日用意した服へ着替えるだけなら、こんなに早く起きる必要はどこにもなかった。
それなのに、胸の奥だけがとっくに朝を迎えている。
私は布団の中で横を向き、枕元のスマートフォンを手に取った。画面に表示された時刻は、やっぱり午前五時四十一分。見間違いでも、寝ぼけているわけでもないらしい。
「……早すぎる」
小さく呟いてから、もう一度眠ろうと目を閉じてみる。
けれど、瞼の裏に浮かんだのは、春斗の顔だった。
今日は春斗とデートをする。
しかも、幼馴染として一緒に出掛けるのではなく、彼氏と彼女になってから初めての正式なデートだ。
そう意識した途端、眠気は綺麗に消えた。
「無理……」
諦めて目を開ける。心臓は朝から妙に元気で、これでは二度寝なんてできそうにない。
恋人になる前、竹下くんとのデートの日にも早く目が覚めた。
あの日は服を何度も確認して、待ち合わせよりかなり早く駅へ着いて、それでも落ち着かなかった。好きな人と二人で出掛けるというだけで、何を話せばいいのか、どんな顔をしていればいいのか、考えれば考えるほど分からなくなった。
今日だって、好きな人とのデートという意味では同じだ。
なのに、胸の騒ぎ方がまるで違う。
竹下くんとのデートのときは、どう見られるのかが怖かった。可愛いと思ってもらえるだろうか。一緒にいて楽しいと思ってもらえるだろうか。今日が終わったあと、また会いたいと思ってもらえるだろうか。
もちろん、今日だってそれは気になる。
春斗には可愛いと言われたいし、一緒にいて楽しいと思ってほしい。今日が終わったら、次のデートもしたいと思ってほしい。
でも、それだけではなかった。
もう春斗は私の彼氏だ。
春斗が私を好きだということを、私は知っている。会いたいと言ってくれることも、手を繋ぎたいと思ってくれていることも知っているし、昨日送った私服の写真を保存していたくらい、私のことを可愛いと思ってくれていることも分かってしまった。
だからこそ、別の緊張がある。
今日は何が起きるのだろう。
どこまで近づくのだろう。
昨日までより、もっと恋人らしくなるのだろうか。
そこまで考えたところで、私は逃げるようにスマートフォンの画面をつけた。
通知が一件入っている。
送り主は春斗。
時刻は午前五時二十八分だった。
『起きてる?』
思わず上半身を起こした。
「春斗も早い……」
昨日、私より早く待ち合わせ場所へ来ると言っていたけれど、だからといって五時台から起きている必要はない。もしかすると、私と同じなのかもしれないと思っただけで、少し嬉しくなった。
『今起きた』
そう送ると、すぐに既読がついた。
『おはよう』
『おはよう』
『早い』
『春斗が言う?』
『俺は五時』
『もっと早いじゃん』
『寝れなかった』
私は画面を見たまま、思わず笑ってしまった。
『楽しみで?』
少しだけ勇気を出して聞いてみる。
既読はすぐについた。
『うん』
たった二文字なのに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
私も同じだ。
『私も』
今度は迷わず返した。
少しすると、また春斗からメッセージが届く。
『真理』
『何?』
『今日』
『うん』
『デート』
『知ってる』
『本当に?』
『忘れるわけないでしょ』
『確認』
『何回確認するの』
『会うまで』
その答えがあまりにも春斗らしくなくて、でも最近の春斗らしくて、また笑ってしまう。
『じゃあ、あと何回確認するつもり?』
『いっぱい』
『嫌』
『真理』
『何』
『早く会いたい』
指が止まった。
まだ六時にもなっていない。待ち合わせまで三時間近くあるのに、そんなことを言われたら、ますます眠れるわけがない。
でも。
私も同じことを思っている。
『私も早く会いたい』
付き合う前だったら、こんなに素直には言えなかったかもしれない。
会いたくても理由を探して、寂しくても平気なふりをして、春斗がどう思っているのかを確かめてからじゃないと踏み込めなかった。
今は違う。
会いたいと思ったなら、会いたいと言っていい。
だって私たちは、もう恋人なのだから。
そんなことを考えていると、春斗からとんでもない提案が届いた。
『八時半にする?』
私は思わず時計を確認した。
『九時って言ったでしょ』
『早く会いたい』
『私もだけど』
『じゃあ』
『駄目』
『何で』
『私が準備できない』
『何時ならいける?』
「交渉してくるんだ……」
思わず声に出してしまった。
昨日から服もバッグも財布も用意してある。それでも髪を整えたいし、朝食も食べなければならない。母に何か言われる時間まで含めれば、それなりに余裕は必要だった。
少し考えてから送る。
『八時四十五分』
『分かった』
『十五分だけだからね』
『十五分大きい』
『子どもみたい』
『彼氏』
『便利な言葉にしないで』
『使える』
「もう……」
呆れながらも、頬は緩んでいた。
朝からやっていることは、いつもの私と春斗のやり取りと大して変わらない。
それなのに今日だけは、一つ一つの言葉が少し違って見えた。
◇
午前六時十二分。
私はようやくベッドを抜け出し、カーテンを開けた。
昨日の天気予報通り、空はよく晴れていた。薄い雲はいくつか浮かんでいるけれど雨の気配はなく、住宅街の屋根や道路には柔らかな朝日が落ちている。まだ人通りの少ない道を眺めていると、休日の朝らしい静けさが部屋の中まで入り込んでくるようだった。
「晴れた」
小さく呟く。
春斗は昨日から何度も天気を確認していた。
雨だったとしても木下書房には行けるし、水戸だって歩けないわけではない。それでも初デートの日くらいは晴れてほしいと思っていたのだろう。
そんな春斗を想像すると、また笑ってしまう。
今日は春斗とのデートだ。
改めてそう思いながら、部屋の椅子へ掛けておいた服を見る。
白いブラウスに、水色のカーディガン。紺色の膝下スカートと白いスニーカー。小さな白いショルダーバッグに、髪には新しく買った白いヘアピンを合わせるつもりだった。
昨日、何度も組み合わせを確認した。
春斗の好みを聞いて、愛ちゃんにも相談して、それでも最後は自分で選んだ服だ。
ブラウスを手に取った瞬間、少しだけ緊張が戻ってくる。
写真では春斗も見ている。
でも、実際にこの格好をした私を見るのは今日が初めてだ。
可愛いと言ってくれるだろうか。
いや、たぶん言ってくれる。
というより。
「……ちゃんと言ってって、私から頼んだんだ」
昨日の自分を思い出した途端、急に恥ずかしくなった。
私、かなり欲張りになった気がする。
前は春斗に可愛いと言ってほしくても、遠回しに聞いて、逃げられて、それでもしつこく追いかけるくらいしかできなかった。
今は「彼氏なんだからちゃんと言って」と頼める。
恋人という立場にはまだ慣れない。
けれど、その立場を少しずつ好きになっている自分がいた。
◇
午前六時四十分。
洗面所の鏡の前で、私は同じところを何度も櫛で梳かしていた。
「真理」
後ろから母の声がした。
「何?」
「今日、何回目?」
「何が?」
「そこ梳くの」
手が止まった。
「……一回」
「五回くらいやってるけど」
「見てたの?」
「朝ご飯作りながらね」
母は呆れたように笑いながら、洗面所の入口にもたれた。
「デート?」
「知ってるでしょ」
「知ってるけど、聞きたかったの。今日の真理、昨日よりずっと分かりやすいから」
「そんなに?」
「かなり」
私は鏡の中の自分を見た。自分ではいつも通りのつもりなのに、母には全部見抜かれているらしい。
「春斗にもよく言われる」
「昔から一緒なんだから、春斗くんにも分かるでしょうね」
「嫌だなあ」
口ではそう言いながら、そこまで嫌ではない。
母の視線が、洗面台の横へ置いてあった白いヘアピンへ向いた。
「今日は白いのにするの?」
「うん」
「新しいやつだよね。前の茶色じゃないんだ」
胸の奥が少しだけ動いた。
母は覚えている。
竹下くんと偕楽園へ行った日、私は茶色のヘアピンを使っていた。
「今日は新しいのにする」
私は白いピンを手に取りながら答えた。
「春斗との最初のデートだから」
自分で口にすると、思った以上に恥ずかしい。
母は鏡越しに私を見て、少しだけ柔らかく笑った。
「いいと思う」
「うん」
「前のものを捨てなくても、新しいものを増やしていけばいいから」
その言葉は、思っていたより静かに胸へ入ってきた。
竹下くんを好きだった時間は消えない。
消す必要もない。
その時間があったから、自分が誰を好きなのか分かったこともある。
「うん」
私は白いピンで髪の片側を留め、少し顔を動かして角度を確認した。
「どう?」
「似合ってるよ」
「本当?」
「本当」
「春斗も言うかな」
「言わせるんでしょう?」
「……うん」
母が吹き出した。
「強くなったね」
「何が?」
「前だったら聞けなくて、一人でぐるぐるしてたでしょう」
「今もぐるぐるしてるよ」
「でも、今は本人に聞くでしょう?」
少し考えてから頷いた。
「聞く」
「なら進歩」
そう言われると、少しだけ嬉しい。
私は最後にもう一度髪を確認した。
今度は櫛を手に取らなかった。
◇
午前七時十五分。
父はまだ眠っていたので、朝食は母と二人だった。
テーブルにはトーストと目玉焼き、簡単なサラダと牛乳が並んでいる。いつもならもっと早く食べ終わるのに、今日は時計やスマートフォンが気になってしまい、どうしても食べる速度が遅くなった。
「緊張してる?」
母が目玉焼きを切りながら聞いてくる。
「少し」
「食べられない?」
「食べる」
「昨日も言ったけど、ちゃんと食べて行きなさいよ」
「分かってるって」
返事をしながらトーストを齧る。
味がしないわけではない。
でも、いつもより意識が食事に向いていない。
八時四十五分、岩瀬駅。
春斗と会う時間が少しずつ近づいている。
テーブルの横へ置いたスマートフォンへ、つい視線が向いた。
「見ていいよ」
母に言われた。
「何を?」
「スマホ」
「見てない」
「気にしてるでしょう」
否定できず、画面を確認する。
午前七時十二分に春斗からメッセージが届いていた。
『準備中?』
『朝ご飯』
返すと、すぐに既読がついた。
『食べてる?』
『食べてる』
『ちゃんと』
『お母さんみたい』
『昨日、真理の母さんにも言われた』
思わず笑ってしまう。
『春斗は?』
『食べた』
『服は?』
少し迷ってから聞いてみた。
『まだ』
『見たい』
送ってから、自分でも少し驚いた。
私の服は、春斗に最初に直接見てもらいたかった。
でも、春斗の服は見たい。
我ながら勝手だ。
『写真?』
『うん』
既読がついてから、少しだけ返事が遅れた。
『嫌』
思わず眉を寄せる。
『何で』
『直接最初に見てほしい』
その一文を読んだ瞬間、胸が大きく鳴った。
同じだった。
春斗も、私と同じことを考えていた。
『ずるい』
『真理も俺にそうした』
『そうだけど』
『だから同じ』
私はしばらく画面を見てから、笑ってしまった。
『分かった。楽しみにしてる』
『うん』
スマートフォンを置くと、向かいの母がこちらを見ていた。
「何?」
「顔」
「また?」
「今、かなり嬉しそうだった」
「……春斗みたい」
「何が?」
「すぐ顔に出るって言うところ」
母が笑う。
私もつられて笑ってから、今度こそ朝食へ戻った。
◇
午前七時五十八分。
着替えを終えた私は、自室の鏡の前に立っていた。
昨日写真で確認したのと同じ服なのに、実際に朝の光の中で着てみると少し違って見える。白いブラウスの上に羽織った水色のカーディガンは思ったより柔らかな印象で、紺色のスカートも歩くたびに裾が軽く揺れた。
白いスニーカーなら長く歩いても大丈夫だろう。
小さなショルダーバッグを肩に掛け、白いヘアピンを確認する。
悪くないと思う。
たぶん。
「春斗、何て言うかな……」
写真より可愛い。
昨日、春斗はそう言った。
直接会ったらちゃんと言う、とも言った。
思い出しただけで恥ずかしくなるのに、言われなかったらたぶん私は不満になる。
「面倒くさい彼女かも」
自分で言ってから、少し笑った。
バッグの中身をもう一度確認する。
財布、スマートフォン、ハンカチ、ティッシュ、折り畳み傘、モバイルバッテリー。
そして、春斗から借りた本。
『君の隣を選び直す』
今日は木下書房へ行く。
春斗が昔から通っている場所で、私のことを相談した場所。
店主さんには、付き合ったことを報告するつもりらしい。
そのあとは水戸へ行く。
春斗が何か考えているらしいけれど、詳しいことは教えてくれなかった。
そして、その先には――。
昨日、話したことが頭をよぎる。
キス。
その二文字を意識した瞬間、私は勢いよくバッグを閉じた。
「まだ。そこはまだ考えない」
昨日決めた。
その瞬間になって、自分がしたいと思ったらする。
今から答えを決めて緊張していても仕方がない。
そう自分へ言い聞かせても、顔の熱はしばらく引かなかった。
◇
午前八時十一分。
玄関へ下りると、母が私を上から下まで眺めた。
「早くない?」
「八時四十五分待ち合わせだから」
「駅までそんなにかからないでしょう?」
「電車に乗るわけじゃないしね」
「それは知ってる」
母は少し笑ってから、私の顔を覗き込んだ。
「春斗くんより先に着きたい?」
答えずに靴を履いていると、背後から楽しそうな声が飛んでくる。
「当たりね」
「春斗も絶対早く来るから」
「じゃあ二人とも早く来て、待ち合わせ時間って何だったんだろうってなるのね」
「……ありそう」
「忘れ物は?」
「ない」
「お金」
「ある」
「スマホ」
「ある」
「充電」
「百パーセント」
「ハンカチ」
「ある」
そこで母が少し間を置いた。
「春斗くん」
「駅」
「まだいないでしょう」
「もういるかもしれない」
そう答えてから、自分でも本当にありそうだと思った。
玄関の扉へ手を掛けたところで、母の声が少しだけ柔らかくなる。
「真理」
「何?」
「楽しんでおいで」
普通の言葉だった。
でも、そのあとに続いた言葉で、私は振り返った。
「考えるためのデートじゃなくてね」
竹下くんとのデートの前にも、似たことを言われた。
あの頃の私は、竹下くんをもっと好きになれるのか、春斗への気持ちは何なのか、どこかで答えを探そうとしていた。
今日は違う。
もう選んでいる。
「うん」
私は自然に笑った。
「今日は春斗と楽しんでくる」
「それでいい」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関を出ると、朝の空気が頬へ触れた。
少し冷たい。
けれど日差しは柔らかく、歩いていればすぐにちょうどよくなりそうだった。
駅までの道は、何百回も歩いている。
春斗と一緒に登校したことも、学校から帰ったことも、数え切れないくらいある。
それなのに今日は違う。
これから彼氏とデートをする。
たったそれだけで、見慣れた道が少しだけ知らない場所みたいに見えた。
◇
午前八時二十六分。
岩瀬駅へ着いた私は、スマートフォンの時刻を見て苦笑した。
「……早い」
八時四十五分へ変更したばかりなのに、さらに十九分も早く着いてしまった。
駅前は平日より人が少なかった。部活動へ向かうらしい学生や、小さな旅行鞄を持った家族連れ、改札へ急ぐ年配の夫婦が時折通り過ぎる程度で、休日らしいのんびりとした空気が漂っている。
春斗の姿は見当たらない。
少しだけ勝った気分になった。
私はいつものベンチへ向かった。
平日の朝、春斗と座ることのある場所だ。
今日はそこで彼氏を待つ。
そう考えるだけで、また少し恥ずかしい。
ベンチへ腰を下ろし、スマートフォンを開く。
『着いた』
そこまで入力してから指が止まった。
早く来すぎたことを伝えたら、春斗が急ぐかもしれない。
少し考えて文章を変える。
『駅着いた。急がなくていいよ』
送信。
一秒もしないうちに既読がついた。
そして。
『俺もいる』
「え?」
思わず顔を上げた。
駅前を見回す。
いない。
『どこ?』
すぐに返事が来た。
『後ろ』
振り返る。
そこで、私は動けなくなった。
改札側の柱の近くに春斗が立っていた。
黒に近い紺色のシャツの下に白いTシャツ。細身のベージュのパンツに白いスニーカーを合わせ、小さな黒いバッグを肩に掛けている。
髪も学校へ行く日より少しだけ丁寧に整えてあった。
見慣れない。
でも、間違いなく春斗だ。
毎日のように顔を合わせている幼馴染なのに、私服で待ち合わせ場所に立っているだけで、知らない男の子みたいに見える。
いや。
違う。
知らない男の子じゃない。
私の彼氏だ。
そう思った途端、心臓が大きく跳ねた。
春斗もこちらを見ていた。
すぐに歩いてくると思ったのに、数秒ほど動かない。
私もベンチから立ち上がったまま動けなかった。
目が合う。
普段なら何でもないことなのに、今日はお互いの私服を初めて直接見る約束をしていたせいか、妙に緊張する。
やがて春斗がゆっくり歩いてきた。
「おはよう」
「……おはよう」
自分の声が少しだけ硬い。
春斗も普段より表情が固かった。
「早い」
「春斗もでしょ」
「俺、八時十五分」
「もっと早いじゃん」
「真理を待ちたかった」
朝から簡単にそういうことを言う。
胸がまた鳴った。
「私も、春斗を待ちたかった」
今日は素直に答えた。
春斗の目が少しだけ柔らかくなる。
けれど、次の瞬間には黙り込んでしまった。
私を見ている。
髪から始まって、カーディガン、スカート、靴へ視線が下がり、最後にもう一度顔へ戻ってきた。
何も言われないと、急に不安になる。
「何?」
「……」
「春斗」
「うん」
「変?」
「違う」
「じゃあ何?」
春斗は一度息を吐いた。
それから、逃げずに私の目を見た。
「写真より可愛い」
胸の奥が一気に熱くなった。
「本当?」
「うん」
「昨日言ったから、今日も言ってるだけじゃない?」
「違う」
「じゃあ、どこが?」
聞いた途端、春斗が少し困った顔になった。
「全部」
「それ、一番適当なやつ」
「適当じゃない」
春斗は私をもう一度見た。
「白も似合ってるし、水色もいい。スカートも、髪も……」
そこで少し言葉を探すように黙ったあと、春斗の声が小さくなった。
「あと、俺を見つけたときに真理が笑った顔」
一瞬、何も言えなくなった。
「それ……昨日も似たようなこと言った」
「本当だから」
「春斗、今日強くない?」
「かなり我慢したから」
「何を?」
「昨日、写真見てから。直接会ったときに言おうと思ってた」
少し照れたように笑う春斗を見ていたら、嬉しさの方が恥ずかしさを上回った。
「ありがとう」
「うん」
今度は私の番だ。
「春斗も」
「俺?」
「うん」
改めて見る。
制服姿とは違う。
いつもより少し大人っぽく見えて、それが余計に緊張する。
「格好いい」
思い切って言った。
今度は春斗が完全に止まった。
「……」
「何?」
「今の、もう一回」
「嫌」
「何で」
「恥ずかしいから」
「俺は言った」
「一回ずつでいいでしょ」
「真理」
「嫌です」
そう言いながら春斗を見ると、耳が赤くなっている。
それが妙に嬉しかった。
恥ずかしいのは私だけじゃない。
今日は春斗だって、ちゃんと緊張している。
◇
午前八時三十二分。
本来の待ち合わせ時間より、まだ十三分も早い。
それなのに、私たちはもう一緒にいる。
「どうする?」
「木下書房は九時半くらいだから、まだ早いな」
「駅前歩く?」
「うん」
そう答えた春斗が、少しだけ迷うように私を見た。
そして右手を差し出した。
「最初から」
意味はすぐに分かった。
昨日、駅から手を繋ぐと約束した。
周りには人がいる。
何度も手を繋いだことはあるし、付き合ってからも一緒に帰った。
それでも、デートの最初にこうして手を差し出されると、今までとは少し違う。
私は春斗の手へ自分の手を重ねた。
「うん」
指が自然に絡む。
恋人繋ぎになった。
春斗の手は少しだけ強く私の手を包んでいる。でも痛くはなくて、むしろその力が心地よかった。
「今日、最初からこれなの?」
「うん」
「ずっと?」
「できるだけ」
「……そうなんだ」
「嫌?」
私は繋いだ手を見る。
離したくない。
その答えは考えるまでもなかった。
「嫌じゃない」
「じゃあ、離さない」
春斗が少しだけ握る力を強める。
また心臓が大きく鳴ったけれど、今度は逃げなかった。
「うん」
私も握り返した。
それから二人で、駅前を歩き始めた。
◇
土曜日の朝ということもあり、駅前にはまだ開いていない店も多かった。コンビニから出てくる人やバスを待つ人、駅へ向かう車が時折視界へ入る程度で、平日の慌ただしさはない。
私と春斗は、その中を手を繋いで歩いている。
何百回も一緒に歩いた場所だ。
なのに、今日はやっぱり違う。
「なんか見られてる気がする」
思わず言うと、春斗が周囲を見た。
「誰に?」
「みんな」
「見てないよ」
「同じ学校の人がいたらどうするの?」
「土曜だし、そんなにいないだろ」
「部活の子とかいるかも」
「いたらいたでいい」
「噂になるよ」
「もう付き合ってるの知ってる人多いし」
「そうだけど……」
春斗が少し笑った。
「恥ずかしい?」
「少し」
「離す?」
聞かれた瞬間、嫌だと思った。
「離さない」
即答すると、春斗の目が少し柔らかくなった。
「うん」
「でも恥ずかしいものは恥ずかしい」
「俺もだよ」
「全然そう見えない」
「かなり恥ずかしい」
よく見ると、春斗の耳が少し赤い。
「あ、本当だ」
「何?」
「耳赤い」
「見るな」
「見る」
「真理」
「今日、春斗を一番見るって言ったでしょ」
昨日の約束を持ち出すと、春斗が一瞬言葉に詰まった。
「……そうだった」
「うん」
「じゃあ俺も、今日は真理を一番見る」
今度は私の顔が熱くなる。
「前も見て。危ないから」
「それはそう」
結局、二人で笑った。
繋いだ手は離れなかった。
◇
少し歩いたところにある小さな公園へ入り、空いていたベンチへ並んで腰を下ろした。
手は繋いだままだ。
肩が触れそうなくらい近くに座ると、朝の風が髪を揺らした。道路を走る車の音が遠くに聞こえ、犬を連れた人がゆっくり公園の外を通り過ぎていく。
春斗が私の髪へ視線を向けた。
「そのピン、新しい?」
「分かるの?」
「前のデートのとき、茶色だっただろ」
胸の奥が少しだけ揺れた。
春斗も覚えていた。
竹下くんと偕楽園へ行った日のことだ。
「今日は白にした」
「どうして?」
私は白いヘアピンへ指先で触れた。
少し迷ったけれど、隠すようなことでもない。
「春斗との最初のデートだから」
春斗が黙った。
「前のが嫌いになったわけじゃないよ。あれも気に入ってる。でも、今日は新しいのにしたかった」
春斗はしばらく私の顔を見ていた。
「真理」
「何?」
「今、かなり嬉しい」
「顔見れば分かる」
「そういうの、嬉しい」
「そういうの?」
「俺とのデートだからって、ちゃんと分けてくれてること」
繋いでいる手を、春斗が少しだけ強く握った。
「前、竹下とのデートで着る服を俺に見せただろ」
「うん」
「あれ、かなり嫌だった」
「……ごめん」
「今は謝っていい」
少し意地悪な言い方だったので、私は笑ってしまった。
「じゃあ、ごめんなさい」
「受け取る」
最近の私たちがよく使う言葉だ。
春斗は少し笑ってから、もう一度私の服を見る。
「でも今日は、俺に最初に見せてくれた」
「うん」
「ヘアピンも新しい」
「うん」
春斗は言葉を探すように少しだけ黙った。
「なんか、本当に彼氏になったんだなって感じる」
その言葉を聞いて、私はほんの少しだけ春斗へ身体を寄せた。
肩が触れる。
「私も」
「うん」
「今日、ちゃんと彼氏とデートしてる感じがする」
「まだ駅前だけど」
「駅前でもデートはデートでしょ」
「便利な言葉だな」
「それ、春斗が最初に言ったんだからね」
「使えるものは使う」
二人で笑う。
それだけのことなのに、今までより距離が近くなった気がした。
◇
公園の前を、自転車に乗った高校生くらいの男子二人が通り過ぎた。
一瞬こちらを見られた気がして、私は反射的に繋いだ手を少し引きかけた。
けれど春斗は離さなかった。
「知り合い?」
「分からない」
「じゃあいいだろ」
「春斗、今日強いね」
「付き合ったから」
「そればっかり」
呆れて笑ったけれど、春斗の表情は少しだけ真面目になった。
「でも、隠したくない」
その言葉で、私も笑うのをやめた。
「真理が嫌なら無理にはしないけど」
「嫌じゃないよ」
そこだけはすぐに答えられた。
「恥ずかしいだけ」
「俺も同じ」
「でもね」
私は繋いだ手へ一度視線を落としてから、春斗を見る。
「私も、春斗と付き合ってることを隠したくない」
春斗の目がわずかに揺れた。
「うん」
返事は短かった。
でも、その直後に握られた手が少しだけ強くなったので、それで十分だった。
◇
午前八時五十分。
最初に決めた待ち合わせ時刻どころか、変更した待ち合わせ時刻まで過ぎていた。
「春斗」
「何?」
「本当の待ち合わせ時間、もう過ぎた」
スマートフォンの時計を見せると、春斗も覗き込む。
「本当だ」
「十五分早めたのに、それよりもっと早く会ってる」
「でも早く会えた」
「うん」
それだけで嬉しい。
「そろそろ木下書房の方へ行く?」
「そうだな」
二人で立ち上がるため、一度だけ手が離れた。
バッグの位置を直している間、ほんの数秒なのに手元が妙に寂しい。
すると春斗が、当然のようにもう一度手を差し出した。
今度は迷わず私から取った。
「早い」
春斗が笑う。
「だって……離したくないから」
言ってから、自分で固まった。
顔が一気に熱くなる。
春斗も動かなくなった。
「……真理」
「何」
「今のもう一回」
「絶対嫌」
「何で」
「恥ずかしいから!」
「俺、今日かなり無理かも」
「何が?」
「嬉しすぎる」
「春斗」
「真理が悪い」
「何で私なの」
「離したくないとか言うから」
そう言いながら、春斗は私の手を少し強く握った。
「俺も離したくない」
さっき自分で言ったくせに、言われる側になると何も返せなくなる。
「……うん」
それだけ答えて、私たちは再び歩き出した。
◇
木下書房へ向かうにつれて、駅前の景色は少しずつ住宅街へ変わっていった。
昔からある小さな店や住宅が並ぶ通りを、春斗はいつもよりゆっくり歩いている。最初は私が無意識に速度を落としているのかと思ったけれど、少し観察しているうちに違うと気づいた。
「春斗」
「何?」
「今日、歩くのゆっくりだね」
「そう?」
「私に合わせてる?」
「少し」
「認めるんだ」
「急いでないから」
「木下書房、開いちゃうよ」
「開いてから入ればいいだろ」
春斗は前を向いたまま、少しだけ笑った。
「今日、長いから。ゆっくりでいい」
その言葉に胸が温かくなった。
同時に、竹下くんとの偕楽園での時間がふと蘇る。
あの日も、短い時間を大切にするようにゆっくり歩いた。
忘れたわけではない。
比べたいわけでもない。
竹下くんと過ごした時間も、私にとっては本物だった。
でも今、隣にいるのは春斗だ。
春斗と手を繋ぎ、春斗との新しい時間を作っている。
「真理」
突然呼ばれて顔を上げた。
「何?」
「今、何考えてた?」
「分かるの?」
「少しだけ」
嘘をつく必要はないと思った。
「前のデート」
春斗の手に、ほんの少し力が入った。
「竹下?」
「うん。偕楽園でも、ゆっくり歩いたなって思い出した」
「……うん」
春斗はやっぱり少し嫌そうだった。
でも、手を離さない。
私はその手を握り返した。
「でも、今日は春斗と歩いてる」
春斗がこちらを見る。
「それが嬉しい」
少しだけ沈黙が続いた。
やがて春斗が、息を吐くように笑った。
「真理がそういうの、ちゃんと言ってくれるの助かる」
「嫉妬した?」
「した」
「やっぱり」
「でも、最後が俺ならいい」
前にも聞いた言葉だった。
竹下くんを好きだった時間のあとでも、最後に自分を選んでくれるならいい。
今の春斗は、それを少しずつ本当に受け入れようとしている。
「強くなったね」
「真理の彼氏だから」
「またそれ」
「使えるから」
結局、二人とも笑った。
少しだけ残った気まずさも、その笑いの中で自然に薄れていった。
◇
午前九時十七分。
やがて、木下書房の看板が見えてきた。
少し色褪せた昔ながらの看板。店先には小さな鉢植えが並び、まだ閉まっている扉の向こうは薄暗い。
「早かった?」
「九時半くらいに開くから、あと十三分」
「待つ?」
「うん」
店の前を塞がないよう少し離れた場所で立ち止まる。
春斗は木下書房の看板を眺めていた。
その横顔は、駅で私を待っていたときとも、学校にいるときとも少し違う。どこか懐かしそうで、安心しているようにも見えた。
「春斗」
「何?」
「ここ、好き?」
「好き」
「昔から?」
「うん。中学の頃から」
春斗は看板を見たまま答えた。
「学校が嫌な日とか、よく来てた」
「春斗でも学校嫌な日あったの?」
「普通にあるよ」
「何か意外」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「面倒事を避けながら静かに生きてる人」
「だいたい合ってる」
少し笑ったあと、私はもう一度店を見る。
中学生の春斗がここへ一人で来て、どんな本を読んで、何を考えていたのか。
私は知らない。
幼馴染なのに、知らない時間はたくさんある。
「今日、いっぱい教えて」
「何を?」
「私が知らない春斗」
春斗がこちらを見た。
「じゃあ真理も」
「私?」
「俺が知らない真理、教えて」
「そんなにある?」
「あるだろ」
「例えば?」
「それをこれから聞く」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「じゃあ、お互いに少しずつね」
「うん」
春斗が繋いだ手の指を少し動かした。
「恋人だから」
今日だけで何回聞いたか分からない。
でも、今回は不思議とからかう気にならなかった。
「うん。恋人だから」
私が同じ言葉を返すと、春斗は少しだけ嬉しそうに笑った。
◇
午前九時二十八分。
木下書房の中に灯りがついた。
曇りガラスの向こうで人影が動いている。たぶん店主さんが開店準備をしているのだろう。
それを見た瞬間、さっきまで落ち着いていた緊張が戻ってきた。
「春斗」
「何?」
「本当に言うの?」
「言う」
「入ってすぐ?」
「たぶん」
「何て?」
「付き合いましたって」
「そのまますぎない?」
「他に何て言うんだよ」
「絶対笑われる」
「たぶん笑う」
「嫌なんだけど」
春斗は少しだけ笑った。
「でも、言いたい」
その言葉を聞いて、私は何も返せなくなった。
この店で春斗は、私のことを相談した。
幼馴染を好きになった。
でも言えない。
待つのが苦しい。
私が別の人を好きなのを知っていて、それでも隣にいたい。
そんな春斗の気持ちを、店主さんは聞いていた。
そして今日、その春斗の隣に私はいる。
彼女として。
「うん」
私は頷いた。
「言おう」
「一緒に?」
「春斗から言って」
「真理も言ってよ」
「私、何て言うの?」
「付き合ってます」
「無理。恥ずかしい」
「俺も恥ずかしい」
「じゃあ春斗だけでいいじゃん」
「彼女だろ」
「便利に使わないで」
春斗が笑う。
私も笑った。
そのときだった。
木下書房の扉が開いた。
店主さんが外へ出てきて、最初に春斗を見る。
次に私。
そして最後に、私たちの繋いだ手へ視線を落とした。
「……おや」
店主さんの目が少しだけ大きくなる。
春斗の表情が固くなった。
私も急に緊張してきて、無意識に背筋を伸ばす。
けれど店主さんは、すぐに事情を察したらしい。
口元がゆっくり緩んだ。
「なるほど」
絶対に分かっている。
まだ何も言っていないのに。
私は春斗を見る。
春斗も私を見る。
「春斗」
「うん」
「言って」
「真理も」
「春斗から」
小声で押しつけ合っているけれど、店主さんには全部聞こえているらしい。楽しそうに笑っている。
春斗は観念したように一度息を吐いた。
それでも繋いだ手は離さなかった。
私の手を握ったまま、店主さんへ向き直る。
「付き合いました」
短い言葉だった。
でも、はっきりしていた。
その瞬間、胸が大きく鳴った。
春斗が誰かに向かって、私との関係を口にした。
幼馴染ではなく。
相談相手でもなく。
好きな人でもなく。
恋人として。
店主さんは数秒だけ黙っていた。
それから、派手ではないけれど、とても優しい笑顔を浮かべた。
「そうか。おめでとう」
その言葉が静かに胸へ入ってきた。
「……ありがとうございます」
私も小さく答える。
繋いだ春斗の手を少しだけ握ると、すぐに握り返された。
初めての正式なデートは、まだ始まったばかりだ。
特別な場所へ行ったわけでもない。
いつもの駅で待ち合わせをして、見慣れた町を手を繋いで歩いただけ。
それなのに私には、もう昨日までとはまるで違う一日になっていた。
そして、目の前には木下書房の開いた扉がある。
その向こうには、中学生の頃から春斗が過ごしてきた時間がある。私がまだ知らない春斗の思い出や、好きな本や、きっと私には話していなかったこともたくさん残っている。
幼馴染だから、春斗のことは何でも知っていると思っていた。
でも、恋人になってみたら違った。
知らないことは、まだいくらでもある。
それを寂しいとは思わなかった。
これから知っていけるのだと思うと、むしろ嬉しい。
「入る?」
隣から春斗が聞いた。
私は開いた扉を見て、それから春斗を見る。
「うん」
繋いだ手は、そのままだった。
「行こう」
そう答えて、私は春斗と一緒に木下書房の中へ足を踏み入れた。




