第37話 好きな人を選んだ責任は、誰かを嫌いになることではありませんでした
放課後、最後の授業終了を告げるチャイムが鳴ってから、まだ十分ほどしか経っていなかった。
教室には、部活動へ向かうために急いで鞄をまとめる生徒や、友人とそのまま雑談を続けている生徒、スマートフォンを眺めながらのんびり帰り支度をしている生徒が残っている。普段なら何でもない放課後の光景なのに、今日は教室全体がどこか落ち着かず、私が立ち上がるだけでも何人かの視線がこちらへ向けられた。
理由は、もちろん分かっている。
昼休み、特進棟と商業棟を繋ぐ渡り廊下で、春斗と竹下くんが真正面からぶつかった。
『俺、まだ真理好きだから』
『真理は俺の彼女だ』
どちらも大きな声で怒鳴ったわけではない。それでも、人の多い昼休みの渡り廊下であれほどはっきり言えば、噂が広がらないはずがなかった。
直接その場を見ていた生徒もいるし、見ていなくても昼休みのうちに友人から聞いた生徒もいる。私たちのことを心配してくれている人ばかりではなく、単純に面白い恋愛話として眺めている人もいるのだろう。
「真理」
隣から愛ちゃんが呼んだ。
「うん」
「本当に行くんだね」
「行く」
私は鞄を持ったまま頷いた。
愛ちゃんは少し眉を寄せ、私の顔をじっと見る。
「怖くない?」
「怖いよ」
「春くん、かなり怒ってると思う」
「うん」
「竹下くんも、たぶん引く気ないよ」
「それも分かってる」
昼休みが終わる少し前、竹下くんは私へ言った。
『放課後で終わらせる』
何を終わらせるつもりなのか、そこまでは聞けなかった。
自分の恋なのか。
春斗との意地の張り合いなのか。
それとも、私へまだ好きだと言い続けることなのか。
春斗も昨日からずっと、竹下くんと話すと言っている。二人とも逃げるつもりはなく、だからこそ余計に何が起こるか分からなかった。
「真理、一個だけ」
愛ちゃんの声が少し真面目になる。
「何?」
「竹下くんが泣いても、春くんが怒っても、真理がまた二人の真ん中へ戻る必要はないからね」
その言葉に、私は一瞬答えられなかった。
今日、何度似たことを言われただろう。
竹下くんを大事に思うことと、誰の隣へ立つのかは別。
竹下くんが傷ついているからといって、私が春斗との関係を曖昧にしてはいけない。
「分かってる」
私はゆっくり頷く。
「春斗の隣にいる」
「うん。それで春くんが変なことしたら止めればいい」
「止める」
「竹下くんが暴走しても?」
「止める」
「二人とも高校生だからね。頭に血が上がったら殴り合いくらいしそう」
「やめてよ」
「半分くらい本気」
愛ちゃんが苦笑する。
そのおかげで、張りつめていた胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。無理なら戻ってきて」
「うん」
私は教室を出た。
◇
校舎裏へ向かう廊下を歩く。
窓の外では運動部の練習が始まっていた。サッカー部の掛け声、野球部が打つ金属バットの乾いた音、少し離れたテニスコートから響くボールの音が、夕方の校内へ重なっている。
学校は、いつも通り動いている。
それなのに、私の足だけが少し重かった。
途中の角を曲がったところで、何人かの生徒が同じ方向を気にしていることへ気づく。
嫌な予感がした。
その先へ進む。
そして、見つけた。
春斗と竹下くん。
二人は数メートルほど距離を空けて、校舎裏の壁際で向かい合っていた。
まだ言い争ってはいない。
それでも、二人の間にある空気だけで、これが普通の会話ではないことくらい分かる。
さらに少し離れたところには、明らかに様子を見に来た生徒が何人かいた。校舎の窓からこちらを覗いている顔まである。
完全に見世物だ。
最悪。
そう思ったけれど、ここで引き返す気にはならなかった。
私は一度だけ深く息を吸って、そのまま二人へ近づく。
「真理」
最初に気づいたのは春斗だった。
竹下くんも振り返り、少しだけ驚いた顔をする。
「来たのか」
「うん」
「呼んでないけど」
春斗が言う。
「知ってる。でも来た」
私は二人を見る。
「私のことで話すんでしょ。だったら、私だけいないのも違うと思った」
春斗は何か言いたそうにしたけれど、結局止めなかった。
竹下くんも小さく息を吐くだけだった。
少し強い風が吹き、校舎裏に落ちていた枯れ葉が足元を転がっていく。グラウンドから聞こえる部活動の声が遠く感じられ、私たちの周囲だけ切り離されたようだった。
◇
「じゃあ」
最初に口を開いたのは竹下くんだった。
「何から話す?」
昼休みより声は落ち着いている。
でも、感情がなくなったわけではない。
春斗も同じだ。
「俺は一つ」
「何?」
「真理に伝言頼むの、もうやめろ」
春斗は遠回しにせず、いきなり核心へ入った。
竹下くんが少し目を細める。
「それ?」
「それ。俺の彼女に『まだ好きだ』って言って、その内容を俺へ伝えさせるな」
春斗の声は低いものの、怒鳴ってはいない。
「俺と話したいなら俺に言え。真理を間に挟むな」
竹下くんはしばらく春斗を見ていた。
私は無意識に少し身構えたけれど、竹下くんの口から出た言葉は予想していたものと違った。
「……悪かった」
春斗も僅かに目を動かす。
「そこは本当に悪かった。昨日は、久保さんに言えばお前へ伝わるって分かってて頼んだ」
「性格悪いな」
「知ってる」
「開き直るな」
「でも、今日本人見たら自分で言いたくなった」
「それも性格悪い」
「それも知ってる」
二人の会話へ、ほんの少しだけ余白ができた。
仲が良くなったわけではない。
でも少なくとも、いきなり掴みかかるような空気ではなくなった。
「竹下くん」
私は口を挟んだ。
「何?」
「昼休みのことは、もう人がいる場所でやらないでほしい」
竹下くんは私を見る。
「うん」
「私も困るし、春斗も傷つくから」
そこで春斗を見ると、彼の目が僅かに揺れた。
竹下くんもその視線の動きを見ていた。
少しだけ苦しそうな顔をする。
「分かった」
それでも、きちんと頷いた。
「ごめん」
「うん」
私はその謝罪を受け取った。
◇
しばらく誰も話さなかった。
少し離れたところには、まだ何人かの野次馬が残っている。
竹下くんがそちらへ視線を向けた。
「見世物じゃないんだけど」
少し大きめの声で言う。
何人かが気まずそうに離れていった。
それでも完全にはいなくならない。
仕方ない。
昼休みにあれだけ目立ったのだから、今さら完全に人目を避けることもできない。
「竹下」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「俺、お前のこと嫌いだった」
竹下くんが一瞬固まり、それから少し笑った。
「知ってる」
「かなり」
「それも知ってる」
「今も嫌い」
「そこは少しにしとけよ」
「少しは減った」
「本当?」
「少しだけ」
思ったより普通のやり取りだった。
それでも、その奥にあるものは軽くない。
「何でそんなに嫌いだった?」
竹下くんが聞く。
「分からない?」
「分かるけど、お前の口から聞きたい」
春斗が僅かにため息をつく。
「真理が好きだったから」
胸が鳴った。
「お前の話を、ほぼ毎日聞かされてた」
「……」
「サッカーしてるところが格好いいとか、今日話せたとか、何送ればいいとか、どうやったら仲良くなれるとか」
言われるたび、過去の記憶が一つずつ浮かぶ。
全部、私は春斗へ話した。
何も知らずに。
「俺、笑って聞いてたけど」
春斗は苦笑した。
「本当はかなり苦しかった」
竹下くんが黙る。
「お前に相談されるたび、死ぬほど嫌だった」
「そんなに?」
「そんなに」
「じゃあ言えよ」
「言えるか」
「何で」
春斗の視線が一瞬、私へ向く。
「真理が嬉しそうだったから」
胸の奥が強く締めつけられた。
「俺が嫌だからって、好きな奴の話するななんて言えるわけないだろ」
竹下くんはしばらく何も言わなかった。
それから少し視線を落とす。
「……そっか」
短い言葉。
でも、さっきまでより少しだけ春斗を見る目が変わったように感じた。
◇
「でも」
今度は竹下くんが口を開く。
「俺だって頑張ったんだよ」
その声は、さっきまでより少し低かった。
「知ってる」
春斗が答える。
「分かってない」
竹下くんはすぐに否定した。
「好きな子が別の男選んで、それがずっと隣にいた幼馴染って、普通に最悪だから」
苦い笑み。
「お前、最初から持ってるもの多すぎるだろ」
「何が」
「家近い。毎朝一緒。帰りも一緒。家族ぐるみ。何でも相談される。俺が知るずっと前から久保さんの隣にいる」
春斗は黙って聞いている。
「俺なんか途中参加じゃん」
竹下くんが自嘲するように笑った。
「勝てる気しないだろ」
「でも真理、お前好きだった」
「分かってるよ」
竹下くんの声が少し強くなる。
「だから余計に悔しいんだよ」
私は息を止めた。
「ちゃんと好きになってもらえたと思った。映画も行った。偕楽園も行った。手も繋いだ」
春斗の表情が僅かに硬くなる。
分かってはいる。
でも、本人の口から聞くのはやっぱり嫌なのだと思う。
「竹下くん」
私は呼んだ。
けれど竹下くんは首を横へ振る。
「今だけ言わせて」
止められなかった。
「毎日考えたんだよ。どうしたら久保さんにもっと見てもらえるか、何話せば楽しいと思ってくれるか、次どこ誘えばいいか」
少しずつ声が震える。
「好きになってもらえてると思った。俺ももっと好きになった。それで告白して」
拳が握られる。
「振られた」
胸が痛い。
「悔しいんだよ」
その一言に、誰もすぐ答えられなかった。
勝った人と負けた人。
そんな簡単な話ではない。
春斗はずっと片思いをして苦しんだ。
竹下くんは私と距離を縮めて、本気で好きになって、そして振られた。
二人とも傷ついた。
その中心にいるのは、私だ。
でも。
だからといって。
私はもう、二人の間へ戻ることはできない。
◇
「竹下くん」
私は呼んだ。
二人とも私を見る。
喉が少し詰まりそうになる。
それでも逃げない。
「私、竹下くんのこと好きだった」
春斗の身体が僅かに硬くなる。
竹下くんの目も揺れた。
「知ってる」
「ううん。今、ちゃんと言いたい」
私は竹下くんを見る。
「本当に好きだった」
その言葉を口にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「映画も楽しかった。偕楽園も楽しかったし、手を繋げたのも嬉しかった」
春斗がどんな顔をしているのか、分かる。
きっと苦しい。
それでも。
これは竹下くんへ伝えなければいけない。
「全部、大事な思い出だよ」
竹下くんの目が赤くなる。
「だから、なかったことにはしない」
竹下くんは一度目を閉じた。
数秒。
そして、少し掠れた声で言う。
「それ、ずるい」
「ごめん」
「謝るなって言っただろ」
「うん」
「本当に好きだった?」
「うん」
「俺が勝手に勘違いしてただけじゃない?」
「違う」
私は首を振る。
「ちゃんと好きだった」
竹下くんは空を見上げるように顔を上げた。
「そっか」
その声は小さかった。
でも。
たぶん、今日初めて。
少しだけ何かを受け取ってくれた気がした。
◇
私はそのまま春斗を見る。
春斗も私を見ていた。
少し不安そうで。
少し怖そうで。
でも、私の言葉を止めずに待ってくれている。
「でも」
私ははっきり言った。
「私が選んだのは春斗」
竹下くんの前で。
春斗の前で。
逃げずに言う。
「今、一緒にいたいのは春斗。恋人として隣にいたいのも春斗だよ」
春斗の目が僅かに揺れた。
「竹下くんを好きだったことと、春斗を選んだことは別だから」
静かだった。
でも。
ちゃんと届いたと思う。
竹下くんが少し苦く笑う。
「本当に選ばれたんだな、お前」
春斗を見る。
「うん」
「良かったな」
春斗が少し驚く。
「竹下」
「何?」
「それ言えるんだ」
「言いたくないよ」
竹下くんはすぐに返した。
「じゃあ何で」
「久保さんがここまで言ったのに、俺だけいつまでもぐちゃぐちゃ言ってたら格好悪いだろ」
「今さら?」
「うるさい」
ほんの少し。
空気が緩んだ。
私はそこで初めて、肩に力が入りっぱなしだったことへ気づいた。
◇
「でも」
竹下くんは再び春斗を見る。
「まだ嫌い」
春斗も少し笑う。
「俺も」
「少し?」
「かなり減った」
「どれくらい」
「前が百なら八十」
「全然減ってないじゃん」
思わず私も少し笑った。
完全な和解ではない。
それでいい。
今日一日で友達になる必要なんてない。
「あと」
竹下くんが続ける。
「俺、まだ久保さん好きだから」
春斗の顔から少し笑いが消える。
「それは」
「分かってる」
竹下くんが遮る。
「付き合ってるのも分かってるし、邪魔したら久保さんに嫌われるのも分かってる」
私を見る。
「だから、何回も好きって言いに行ったりはしない」
春斗は黙って聞いている。
「でも、今日ここで全部消すのは無理」
竹下くんの声は、今までより穏やかだった。
「明日から急に何とも思わなくなるなんて無理だよ」
春斗が小さく息を吐く。
「それは……分かる」
竹下くんが少し驚いたように見る。
「俺も何年も好きだったから」
春斗は続ける。
「真理が他の奴を見てても、嫌いにはなれなかった」
胸が熱くなる。
「だから、好きなままなのは勝手だと思う」
春斗の目が少しだけ強くなる。
「ただ、真理に何回も言うのは嫌だし、俺の前で毎回宣言するのも嫌」
「毎回は言わない」
「毎回?」
「言葉の綾」
「今は、とかもやめろ」
「それは無理」
「竹下」
「本当に、今完全に諦めるとは言えないんだよ」
春斗は少しの間黙った。
それから。
「分かった」
私は驚いて春斗を見る。
「でも、真理を困らせるな」
「分かった」
「俺に喧嘩売るなら真理を通すな」
「直接ならいいの?」
「できれば売るな」
「そこは普通なんだ」
「普通だろ」
竹下くんが少しだけ笑う。
春斗の口元も、ほんの僅かに緩んだ。
◇
そのとき、遠くから足音が近づいてきた。
「竹下!」
振り返る。
サッカー部の練習着へ着替えた小野寺くんが走ってきた。
「何してんだよ。練習始まってるぞ」
「話」
「見れば分かる」
小野寺くんは春斗を見て、それから私を見る。
「殴ってない?」
「まだ」
竹下くんが答えた。
「まだって何だよ!」
小野寺くんが頭を抱える。
春斗が少し笑った。
「殴らない」
「本当?」
「真理に言われた」
「なら信用する」
「俺の信用じゃない?」
「ない」
「何でだよ」
そこで、私も思わず笑った。
張りつめていた空気が、少しだけ戻る。
「竹下」
小野寺くんが今度は少し真面目な声になる。
「練習行ける?」
「うん」
「無理なら」
「行く」
竹下くんは短く答えた。
そして、もう一度私と春斗を見る。
「春斗くん」
「何?」
「まだ嫌いだから」
「俺も」
「久保さん」
「うん」
竹下くんの表情が少しだけ柔らかくなる。
「今日はありがとう」
胸が詰まりそうになる。
「うん」
「好きだったって、ちゃんと言ってくれて」
「うん」
それから竹下くんは春斗を見る。
一度口を開きかけて。
少し迷う。
でも。
「久保さん、大事にしろよ」
春斗が完全に止まった。
私も息を呑む。
小野寺くんまで少し目を見開いた。
「言われなくても」
春斗が答える。
「大事にする」
竹下くんは少しだけ笑った。
「ならいい」
それだけ言い、小野寺くんと一緒に歩き出す。
遠ざかる背中。
私はその場に立ったまま見送った。
完全に終わったわけではない。
竹下くんはまだ私を好きだと言った。
春斗も、まだ強く嫉妬している。
でも。
今日。
何かが少しだけ変わった。
◇
しばらくして、春斗が大きく息を吐いた。
「真理」
「何?」
「疲れた」
私は思わず笑う。
「私も」
「かなり」
「私もかなり」
春斗の顔がようやく少し緩んだ。
それから、こちらを見る。
「でもさ」
「うん」
「さっき」
「何?」
「俺の彼女でいたいって言った」
思い出し。
顔が熱くなる。
「言った」
「もう一回」
「嫌」
「何で」
「恥ずかしいから」
「今聞きたい」
「何で」
春斗は少し苦笑する。
「竹下の前で、かなり嫉妬した」
「分かってた」
「だから補充」
「何それ」
「真理不足」
「朝会った」
「関係ない」
「昼も見た」
「竹下いた」
私は笑ってしまう。
でも。
分かる。
春斗は強く見えて。
今日ずっと不安だったのだと思う。
「春斗」
「何」
私は周囲を見る。
野次馬はほとんど消えている。
部活へ行く生徒も少なくなった。
「手」
自分から差し出す。
春斗が少し目を見開いた。
「学校だけど」
「もう人あんまりいない」
「竹下は?」
「部活行った」
「じゃあ」
春斗の手が重なる。
指が絡む。
温かい。
「真理」
「何?」
「かなり嬉しい」
「知ってる」
「何で」
「顔」
春斗が少し笑う。
「真理も嬉しそう」
「うん」
私は逃げなかった。
「春斗の隣に立てたから」
春斗の足が止まる。
「真理」
「何?」
「今日、強い」
「何が」
「そういうの」
「だって」
私は少しだけ繋いだ手へ力を入れる。
「彼女だから」
春斗の目が柔らかくなる。
「便利な言葉」
「使えるから」
以前、春斗に言われた言葉をそのまま返した。
春斗が笑う。
◇
学校を出て、私たちは駅へ向かって歩いた。
空には少し厚い雲が広がっていたけれど、西の方だけが僅かに明るく、雲の隙間から夕方の光が差している。
「春斗」
「何」
「竹下くん、まだ好きって言ったね」
「言った」
春斗の顔が少しだけ硬くなる。
「嫌?」
「嫌」
「うん」
「かなり嫌」
「うん」
「でも」
春斗は少し息を吐いた。
「前より竹下のこと分かった」
「何が?」
「本当に真理好きだったんだなって」
「前から知ってたでしょ」
「知ってた。でも今日、悔しいとか頑張ったとか直接聞いたから」
春斗は前を見ながら続ける。
「あれ、俺も同じだった」
胸が少し痛んだ。
「春斗」
「何?」
「昔、ごめん」
「何が」
「私、竹下くんの話いっぱいした」
「うん」
「春斗が私を好きなの知らなくて」
「うん」
「苦しかった?」
「かなり」
即答だった。
胸が痛くなる。
「でも」
春斗が繋いだ手を少し握る。
「今、真理は俺の彼女だから」
「うん」
「かなり報われた」
「かなり?」
「かなり」
私は少し笑った。
「春斗」
「何」
「竹下くんを好きだったこと、否定しないでくれてありがとう」
春斗の歩く速度が少しだけ遅くなる。
「嫌だけど」
「うん」
「真理の過去だから」
「うん」
「消せないし、真理も消したくないだろ」
「うん」
「なら、俺がその後になる」
心臓が少し強く鳴る。
「その後?」
「竹下の恋の後」
春斗がこちらを見る。
「でも最後は俺がいい」
胸が一気に熱くなった。
「春斗」
「何」
「それ、かなり強い」
「真理に言われたくない」
二人で笑う。
◇
駅へ続く道。
手は繋いだままだった。
今日、春斗と竹下くんは初めて真正面から向き合った。
友達になったわけではない。
竹下くんの恋が今日だけで消えたわけでもない。
春斗の嫉妬も、全部なくなったわけではない。
それでも私は、一つだけはっきり分かった。
春斗を選ぶことは、竹下くんを嫌いになることではない。
竹下くんとの恋を間違いだったことにすることでもない。
大事だった記憶は、大事だったままでいい。
そのうえで。
今、恋人として立つ場所を選ぶ。
私は春斗の隣にいる。
それが、私が選んだ答えだった。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「今日、俺ちゃんと我慢した」
「何を?」
「殴るの」
「当たり前」
「褒めて」
「嫌」
「真理」
「でも」
私は繋いだ手を少し強く握った。
「ありがとう」
春斗が私を見る。
少しだけ嬉しそうに。
「それでいい」
「単純」
「彼女だから」
「また使った」
「使えるから」
春斗が笑う。
私も笑った。
学校には、まだ噂が残っている。
竹下くんが明日どんな顔で教室へ来るのかも分からない。
石井さんの気持ちだって、完全には終わっていない。
小野寺くんや愛ちゃん。
周囲の生徒。
これから向き合わなければならないことは、まだたくさんある。
それでも。
今日。
私は誰の隣に立つのかを、もう一度自分で選んだ。
春斗の手を、自分から握り返す。
夕方の道を、二人でゆっくり歩いていく。
今は、それで十分だった。




