第35話 失恋した好きな人が学校へ戻ってきた日、彼氏になった幼馴染の手を私は人前で取れませんでした
火曜日の朝、午前五時二十八分。
目を覚ました私は、昨日までより少しだけ自然な動きで枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。恋人になったことへ慣れたわけではないけれど、起きたらまず春斗から連絡が来ていないか確認することが、ここ数日で新しい朝の習慣になりつつある。
画面には一件の通知が表示されていた。
午前五時十二分。
『おはよう』
春斗からだった。
たった四文字。それでも、数日前までの私なら、これだけでベッドの上を転がりたくなるほど恥ずかしくなっていたと思う。
今朝は少しだけ笑ってから、同じ言葉を返すことができた。
『おはよう』
送信すると、すぐに既読がついた。
そこまでは普通だったのに、次に届いた短い一文を見た瞬間、私は布団へ顔を埋めることになった。
『彼女』
「……やっぱり無理」
全然慣れていなかった。
『朝からやめて』
『何で』
『恥ずかしい』
『二日目』
『だから何』
『昨日より慣れた?』
『無理』
『俺は少し』
春斗は早い。
付き合う前までは、あれだけ自分の気持ちを飲み込んでいたくせに、彼氏になった途端、「彼女」という言葉を何度でも使いたがるようになった。
『何に慣れたの』
『真理が彼女』
また胸が鳴った。
やっぱり、私はその言葉に弱い。
嬉しい。
でも恥ずかしい。
その両方が同時に来るから困る。
私は少し迷ったあと、朝からずっと気になっていたことを文字へ打ち込んだ。
『春斗』
『何』
『今日』
一度、指が止まる。
そのまま送るか迷ったけれど、結局続きを打った。
『竹下くん、来るかな』
送信。
既読はすぐについたものの、返事までは少し間があった。
『来るかも』
『うん』
『心配?』
私は誤魔化さなかった。
『うん』
送ったあと、少しだけ胸が重くなる。
付き合ったばかりの彼女が、朝から元好きな人のことを心配している。
逆の立場なら、たぶん私も嫌だ。
もし春斗が朝から石井さんを気にしていたら、平気な顔はできないと思う。
だから、そのままもう一つ送った。
『でも春斗が彼氏なのは変わらない』
送った瞬間、自分から「彼氏」と書いたことに気づき、また顔が熱くなった。
既読。
十秒。
二十秒。
返事が来ない。
『春斗?』
『今かなり嬉しい』
思わず笑ってしまった。
『そんなに?』
『そんなに』
『竹下くん心配って言ったのに?』
『それとは別』
春斗は最近、自分の感情を本当によく言葉へ出す。
嬉しい。
嫌。
会いたい。
嫉妬する。
付き合う前までは何でも胸の内へしまっていたのに、今は私へそのまま渡してくれる。
『真理』
『何』
『竹下来ても』
『うん』
『俺から離れすぎるなよ』
その一文を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
春斗も怖いのだ。
私は春斗を選んだし、正式に付き合った。
それでも竹下くんを本気で好きだったことを、春斗は誰より知っている。ずっと恋愛相談を聞いてきたのだから、私がどれだけ竹下くんを好きだったのかも全部知っている。
『離れない』
私は返した。
少し考えてから。
『でも学校では手繋がないよ』
『分かってる』
『竹下くん戻ってすぐは』
『うん』
数秒後。
『嫌だけど』
その正直さが、春斗らしかった。
『ありがとう』
『学校出たら繋ぐ』
『うん』
『絶対』
『分かった』
そこで会話を閉じた。
今日は竹下くんが学校へ戻ってくるかもしれない。
そのことが、朝からずっと胸の中へ残っていた。
◇
午前五時五十八分。
今日は春斗の家が送迎当番だった。
車へ乗り込むと、春斗はいつものように後部座席へ座っていた。私へ気づくと少しだけ口元を緩める。
「おはよう」
「おはよう」
目が合う。
以前なら何でもなかったことなのに、今は少し笑い合うだけで胸が温かくなる。
恋人になってから三日目。
昨日よりは自然。
でも、まだ普通ではない。
「真理ちゃん、おはよう」
運転席から春斗のお母さんが声を掛けてきた。
「おはようございます」
「最近、二人とも朝から機嫌いいわね」
私と春斗は同時に固まった。
おばさんがバックミラー越しにこちらを見る。
「何かあった?」
「母さん」
「何?」
「前見て」
「見てるわよ」
絶対、何か気づいている。
「真理ちゃん」
「はい」
「春ちゃん、最近スマホ見る回数増えたのよ」
「母さん」
「夜もね。通知が鳴るとすぐ見るし」
「本当にやめて」
春斗の耳が赤くなっている。
普段は私ばかりがからかわれている気がするので、少しだけ面白くなった。
「春斗」
「何」
「可愛い」
「言うな」
「前まで私ばっかり言われてた」
「真理」
「何?」
「あとで覚えてろ」
少し低い声で言われ、胸が鳴る。
「何するの」
「知らない」
「怖い」
「手繋ぐ」
「いつもじゃん」
「強く」
「何それ」
春斗のお母さんがまたバックミラーを確認する。
「手、繋いでるの?」
車内へ一瞬だけ妙な沈黙が落ちた。
私は春斗を見る。
春斗もこちらを見る。
「……うん」
私が答えた。
「あら。じゃあ、付き合った?」
「母さん」
「違うの?」
春斗は深く息を吐いたあと、諦めたように答えた。
「付き合った」
その瞬間、今度は私の顔が一気に熱くなる。
春斗のお母さんは数秒黙っていた。
そして。
「やっとねえ」
「お母さんと同じ!」
思わず大きな声が出た。
「真理ちゃんのお母さんも?」
「昨日言われました!」
「やっぱり」
春斗が頭を抱える。
「親同士で何か話してた?」
「別に」
「怪しい」
「春ちゃんが分かりやすすぎたのよ。小学生の頃から」
「母さん」
「それ昨日聞いた」
私が言うと、春斗がこちらを向いた。
「真理」
「何」
「忘れろ」
「無理」
おばさんは楽しそうに笑っていた。
けれど、しばらくすると、その声が少しだけ穏やかになる。
「でも、よかった」
私も春斗も少しだけ姿勢を正した。
「二人とも、幼馴染だった時間が長いでしょう」
「はい」
「だからこそ、付き合ったからって今までより何でも分かると思わない方がいいよ」
その言葉が胸へ残った。
「恋人だから分かる、じゃなくてね。恋人になったからこそ、今まで聞かなかったことをちゃんと聞かないといけなくなるから」
昨日までは、春斗のことを何でも知っているつもりだった。
好きな本も、食べ物も、癖も、嘘をつくときの顔も知っている。
それでも。
学校での春斗。
石井さんとの関係。
商業科での友人。
私の知らない部分はいくらでもある。
「……はい」
私は頷いた。
「分かった」
春斗も短く答える。
それからおばさんは何も言わず、車内にはラジオから天気予報が流れ始めた。
今日は日中晴れ。
夕方から少し雲が増えるらしい。
そんな普通の情報を聞きながら、私はおばさんの言葉をしばらく考えていた。
◇
岩瀬駅。
いつものベンチへ、私と春斗は並んで座った。
今日は通勤客も学生も多い。
だから手は繋がない。
その代わり、私の右手と春斗の左手は、ベンチの上で指先だけが触れていた。
「真理」
「何?」
「さっき」
「おばさん?」
「うん」
春斗は少しだけ視線を落とした。
「俺、真理のことかなり知ってると思ってた」
「私も」
「でも、知らないことあるな」
「あるね」
私は少し考えてから笑った。
「だから、これから知ればいい」
春斗がこちらを見る。
「それ」
「何?」
「俺が言おうと思った」
「遅い」
「真理最近取る」
「何を?」
「いい台詞」
「知らない」
二人で少し笑う。
指先は触れたままだった。
すると春斗が少しだけ手を動かし、私の小指へ自分の小指を引っかける。
「これなら見えにくい」
昨日、私がやったのと同じだった。
「真似?」
「うん」
「子ども?」
「真理に言われたくない」
笑う。
でも、その小さな接触が嬉しかった。
◇
水橋高校へ着き、校門をくぐった瞬間、朝から空気が少し違うのが分かった。
視線が多い。
私と春斗を見る目が、昨日より明らかに増えている。
昨日、交際が広まり始めた。
たぶん、もうかなりの人数が知っている。
「早いね」
私が小声で言う。
「学校だから」
「誰が広めたんだろ」
「石井じゃないと思う」
「何で」
「昨日、委員会で何も言ってなかった」
「じゃあ商業科の誰かかな」
「たぶん」
昨日、昇降口で私は石井さんへ「付き合った」と言った。
周囲にも何人か生徒がいた。
春斗は少し肩をすくめる。
「まあ、隠さないんだろ」
「うん」
「ならいい」
それでも恥ずかしい。
「春斗くん!」
前から商業科らしい女子二人が走ってきた。
春斗が振り返る。
「付き合ったって本当?」
「うん」
即答。
「うわ、本当なんだ!」
「久保さん?」
今度は私へ視線が向く。
「はい」
「おめでとう!」
「ありがとうございます」
顔が熱い。
「春斗くん、めっちゃ分かりやすかったもん」
「何が」
「久保さん来ると声違う」
「違わない」
「違う違う」
女子二人が笑う。
私は春斗を見る。
「声違う?」
「知らない」
「今度聞く」
「何を」
「商業科での春斗」
「別に普通」
「知りたい」
女子の一人がすぐ食いついた。
「久保さん、今度クラス来れば?」
春斗が少し嫌そうな顔をする。
「何で」
「いいじゃん」
「春斗の席見たい」
思わず言った。
「来て来て!」
「俺の席見る意味ある?」
「ある」
「何が」
「彼氏の学校での場所」
言った瞬間、自分で固まった。
女子二人が一気に盛り上がる。
「彼氏!」
「今言った!」
「可愛い!」
「もう行く!」
顔を覆いたくなった。
春斗が、私の背中を軽く押すようにしてその場から離れる。
「春斗!」
「真理が悪い」
「何で!」
後ろから女子たちの笑い声が聞こえた。
朝からかなり疲れた。
◇
昇降口へ入ると、石井さんがいた。
一人。
私と春斗へ気づく。
昨日より顔色は少しいい。
「おはよう」
石井さん。
「おはよう」
「はよ」
春斗。
少しだけ沈黙が落ちる。
「噂」
石井さんが言った。
「もう広がってるね」
「うん」
私は少し迷ったあと聞く。
「石井さんじゃないよね」
「私じゃない」
「分かってる」
「なら聞かないで」
「確認」
「疑ってる」
「ごめん」
「受け取る」
昨日より、少しだけ自然に話せた。
でも、完全ではない。
「久保さん」
「何?」
「昨日」
石井さんは少し言いにくそうに視線を逸らした。
「家帰ってから泣いた」
胸が締めつけられる。
「……うん」
「だから今日も少し嫌い」
私は頷いた。
「うん」
「でも」
一度だけ春斗を見る。
「春斗が幸せそうなの、それ自体はよかったと思う」
春斗はすぐには答えなかった。
でも。
「石井」
「何」
「ありがとう」
石井さんは目を逸らした。
「今はそれだけでいい」
「うん」
私も受け取る。
石井さんはそれ以上何も言わず、自分の教室へ向かった。
その背中は、昨日より少し小さく見えた。
◇
私は特進クラスへ向かった。
教室が近づくほど、胸が少し速くなる。
竹下くん。
来ているだろうか。
扉を開ける。
いつもの朝。
生徒たちの声。
愛ちゃん。
小野寺くん。
そして。
竹下くんが席にいた。
息が止まった。
制服。
机。
教科書。
全部いつも通り。
でも、顔色は少し悪い。
目の下には薄く疲れが残り、髪も普段より少し乱れている。
私が入る。
竹下くんも気づく。
目が合う。
胸が強く痛んだ。
立ち止まりそうになる。
でも、私は歩いた。
自分の席へ。
「おはよう」
愛ちゃんが小さな声で言う。
「おはよう」
「来たね」
「うん」
私は鞄を置く。
竹下くんは前を向いた。
話しかけてこない。
私も行かない。
小野寺くんがこちらを見る。
昨日言われた。
時間をくれ。
だから待つ。
でも、心臓は落ち着かなかった。
◇
朝のホームルーム。
担任が教室へ入り、竹下くんを見る。
「体調戻ったか」
「はい」
竹下くんは普通に答える。
「無理するなよ」
「はい」
先生はそれ以上聞かなかった。
出席が進む。
今日、全員揃う。
それだけなのに、胸が苦しい。
竹下くんの席が埋まっていることへの安心と、そこに本人がいることで生まれる痛みが同時にあった。
私はノートを開いた。
◇
一時間目が終わった。
チャイムが鳴り、先生が教室を出る。
すぐに教室のざわめきが戻った。
竹下くんが立ち上がる。
私は反射的に見る。
こちらへ来る。
胸が速くなる。
愛ちゃんも少し身体を起こす。
小野寺くんも見ている。
竹下くんは私の机の前で止まった。
「久保さん」
「うん」
声は普通だった。
でも少し硬い。
「少し、廊下いい?」
私は立ち上がった。
「うん」
愛ちゃんは何も言わなかった。
でも、その視線は「行ってこい」と言っているように見えた。
◇
教室から少し離れた窓際。
人通りはある。
でも二人で話せる程度には静かだった。
「体調、大丈夫?」
私から聞く。
竹下くんは少しだけ笑った。
「うん」
「本当に?」
「身体は」
その答えだけで胸が痛む。
「そっか」
しばらく沈黙。
竹下くんが窓の外を見る。
「付き合った?」
聞かれた。
私は逃げない。
「うん」
「日曜に?」
「うん」
竹下くんが一度目を閉じた。
「早いね」
「うん」
「俺振って」
「うん」
「次の日」
「うん」
声が震えそうになる。
でも、正直に答える。
「ごめ」
謝りかけて止めた。
竹下くんが私を見る。
「何で止めた?」
「謝られたくないって言ったから」
竹下くんが少し苦しそうに笑う。
「覚えてた?」
「うん」
「そっか」
少し沈黙。
「俺、昨日かなり春斗くんの悪口言った」
「小野寺くんから聞いた」
「言ったんだ」
「かなりって」
「かなり」
ほんの少しだけ笑いそうになる。
でも空気はすぐに戻った。
「久保さんの悪口も言おうと思った」
「うん」
「でも言えなかった」
「どうして?」
竹下くんが少しだけ顔を上げる。
「まだ好きだったから」
胸が締めつけられる。
「……うん」
「今も、まだ好き」
喉が痛くなる。
「うん」
「だから春斗くんと付き合ったって聞いて、最悪だった」
「うん」
「昨日も学校来ようと思ったけど無理だった」
竹下くんは拳を少し握る。
「今日も朝、行きたくなかった」
声が少し震えていた。
「でも、休み続けたら久保さんに振られたから学校来れないやつになるの、それも嫌だった」
その言葉には、高校生らしい意地とプライドが滲んでいた。
「だから来た。でも、まだ普通にはできない」
「分かってる」
「久保さんが春斗くんと話してるところ、今は見たくない」
「うん」
「手繋いでるのも」
「学校では、しばらくしない」
私がそう言うと、竹下くんの表情が少し変わった。
「何で」
「小野寺くんにも言われた。竹下くんが戻るまで少し時間ほしいって」
「うん」
「春斗とも話した」
「春斗くんも?」
「うん」
「嫌がった?」
「かなり」
ほんの少しだけ、竹下くんの口元が動いた。
「そっか」
「でも分かってくれた」
「……そっか」
少し沈黙。
「久保さん」
「うん」
「気を遣われるの、本当は嫌」
「うん」
「俺のせいで二人が付き合ってるの隠すみたいなのも嫌」
「隠さない」
私ははっきり言った。
「聞かれたら言う。でも目の前で見せつけるみたいなことはしない」
「見せつけるつもりなくても、手繋いでるだけで今はきつい」
「分かった」
「だから」
竹下くんは少しだけ顔を背ける。
「ありがとう」
小さな声だった。
胸が締めつけられる。
「うん」
それしか言えなかった。
◇
少しだけ間が空いた。
廊下を何人かの生徒が通り、遠くでは先生が誰かを注意する声も聞こえた。
「写真」
竹下くんが言う。
すぐ分かった。
偕楽園で二人で撮った写真。
「うん」
「まだある?」
「ある」
「そっか」
「消した方がいい?」
聞くと、竹下くんはすぐには答えなかった。
「俺もまだある」
「うん」
「消せない」
胸が少し温かくなるのと同時に、痛みも広がった。
「でも見てない。今見たら無理」
「分かる」
「久保さんは?」
「まだ見てない。消すつもりもない」
「うん」
「竹下くんが嫌なら」
「いい」
遮られる。
「消さなくていい。俺も消してないのに、久保さんだけ消したら、それも何か嫌」
「分かった」
大事な記憶。
でも、まだ触れられない。
今はそれでいいのだと思った。
◇
「あと」
竹下くんが続けた。
「春斗くんに言って」
「何を?」
竹下くんの目が少し強くなる。
「俺、まだ久保さん好きだから」
胸が鳴る。
「うん」
「諦めたって言いたくない」
「竹下くん」
「付き合ってるのは分かってる。邪魔する気も、今はない」
その「今は」が少し危うく聞こえた。
竹下くん自身も、それを分かっているようだった。
「でも、春斗くんにもう完全に俺が消えたと思われるのは腹立つ」
春斗への対抗心。
まだ強い。
「分かった」
「言う?」
「うん」
「嫌じゃない?」
「少し怖い」
「何が」
「春斗、嫉妬するから」
「してほしい」
竹下くんは即答した。
私は目を見開く。
「何で」
「俺ばっかり苦しいの嫌」
子どもっぽい。
でも正直だった。
「竹下くん」
「分かってる。性格悪い」
「うん」
「でも今は、少しくらい春斗くんも嫌な気持ちになればいいと思ってる」
私は怒らなかった。
怒れなかった。
「分かった」
「怒らない?」
「怒れない」
「何で」
「私も石井さんで同じこと思ったから」
竹下くんが少し驚く。
「久保さんも?」
「うん」
「春斗くん取られそうで?」
「うん」
「付き合う前?」
「うん」
竹下くんは少し苦しそうに、それでも笑った。
「やっぱり春斗くん好きだったんじゃん」
胸が痛む。
でも逃げない。
「うん」
私は答えた。
「気づくの遅かった」
「それで俺が振られた」
「……うん」
「最悪」
「うん」
竹下くんは少しだけ目を伏せた。
「でも、分かった」
何が、とは聞かなかった。
◇
教室へ戻る。
竹下くんが先に入り、私は少し遅れて入った。
愛ちゃんが私を見る。
大丈夫?
目で聞いている。
私は小さく頷いた。
小野寺くんも竹下くんを見る。
そして、何かを感じ取ったように少し肩の力を抜いた。
私は席へ座った。
胸はまだ苦しい。
でも、竹下くんとちゃんと話せた。
それだけで昨日までより少し前へ進めた気がした。
◇
昼休み。
私は愛ちゃんと二人で昼食を食べた。
竹下くんは小野寺くんたちと別の場所へ行っている。
まだ以前のように同じ空間で笑えるほどではない。
「どうだった?」
愛ちゃんが聞く。
「まだ好きって言われた」
「うん」
「春斗に伝えてって」
「何を?」
「完全に消えたと思うなって」
愛ちゃんの眉が少し上がる。
「竹下くん、戦う気?」
「邪魔する気は今はないって」
「今は?」
「うん」
愛ちゃんがため息を吐く。
「高校生だね」
「うん」
「春くん荒れそう」
「うん」
「言う?」
「言う」
「今日?」
「うん」
「修羅場」
「やめて」
愛ちゃんは少し笑う。
でも、すぐに真面目な顔へ戻った。
「真理」
「何?」
「竹下くんにまだ好きって言われて、嬉しかった?」
胸が少し動く。
正直に考える。
竹下くんはまだ私を好き。
そのことを知ったとき、苦しかったし、申し訳なかった。
でも。
それだけではなかった。
「少し」
私は答えた。
愛ちゃんは責めない。
「それ、春くんに言う?」
苦しい。
「聞かれたら」
「自分からは?」
「分からない」
「真理」
愛ちゃんは箸を置いた。
「付き合ったばかりだから何でも全部報告しろとは言わない」
「うん」
「でも、竹下くんがまだ好きって言って、それを真理が少し嬉しいと思ったこと、後から春くんが知ったらかなり面倒になると思う」
「……うん」
「かなり」
「分かった」
「言える?」
「怖い」
「春くん絶対嫉妬する」
「分かってる」
「でも」
愛ちゃんは少しだけ口元を緩める。
「今の春くんなら、嫉妬しても逃げないでしょ」
確かに。
春斗はもう、黙って本を読むだけではない。
嫌。
怖い。
嫉妬する。
全部言う。
「話す」
私は決めた。
◇
放課後。
校門近くで春斗が待っていた。
昨日、学校では手を繋がないと約束した。
だから並んで歩くだけ。
でも、春斗は少しだけ不満そうだった。
「何」
私が聞く。
「何が」
「顔」
「別に」
「手繋ぎたい?」
「うん」
「素直」
「彼女いるのに繋げない」
「学校だから」
「竹下のため」
声が少し低い。
嫉妬。
分かりやすい。
「春斗」
「何」
「今日、竹下くんと話した」
春斗の歩幅が少し遅くなる。
「何話した?」
「学校休んだこととか、まだ普通にはできないってこと」
「うん」
「それと」
少し怖い。
でも言う。
「まだ私を好きって」
春斗の足が止まった。
私も止まる。
「……何て?」
「まだ好きだって」
「竹下が?」
「うん」
春斗の顔が明らかに変わる。
眉が寄り、目が少し細くなる。
「真理は何て言った」
「聞いた」
「それだけ?」
「うん」
「嬉しかった?」
来た。
私は逃げない。
「少し」
春斗の表情が一気に固くなる。
「……そっか」
声も少し冷たくなる。
「春斗」
「俺、今かなり嫌」
「うん」
「真理が悪いって言いたい」
「うん」
「でも、竹下にまだ好きって言われて何も思わない方がおかしいのも分かる」
「うん」
「でも嫌」
「うん」
春斗は拳を少し握った。
「俺と付き合ってるのに、別の男に好きって言われて嬉しいって」
「ごめ」
言いかける。
「謝る?」
春斗がこちらを見る。
「謝るなら、嬉しかったこと自体?」
私は止まる。
嬉しかった。
それは事実だ。
「違う」
「じゃあ」
「春斗を不安にさせたこと」
答える。
春斗の表情が少しだけ変わる。
「それなら謝って」
「ごめん」
「受け取る」
最近、石井さんとのやり取りで使うようになった言葉。
今日は春斗との間でも使う。
「でも」
春斗は続けた。
「真理」
「何?」
「俺の彼女」
「うん」
「もう一回」
胸が鳴る。
「私は春斗の彼女」
言う。
春斗が少し息を吐いた。
「それ聞くと少しマシ」
「そんなに?」
「かなり」
でも、話はまだ終わっていない。
「竹下、他に何言った?」
「春斗に、完全に自分が消えたと思うなって」
春斗が黙る。
数秒。
「……は?」
怖い。
「それ何」
「まだ諦めたって言いたくないって」
「真理」
「何」
「俺、殴っていい?」
「駄目」
「じゃあ何ならいい」
「何もしない」
「無理」
「春斗」
「彼女にまだ好きって宣言して、彼氏に伝えろって、完全に喧嘩売ってる」
「少し」
「少しじゃない」
「でも、邪魔する気は今はないって」
「今は?」
「うん」
春斗の目がさらに細くなる。
「やっぱり明日話す」
「誰と」
「竹下」
「何を」
「今はって何って」
「喧嘩しないで」
「話すだけ」
「本当?」
「たぶん」
「春斗!」
私は思わず春斗の腕を掴んだ。
春斗が止まる。
そして、自分の腕を掴んでいる私の手を見る。
「真理」
「何」
「今、俺止めるために触った?」
「うん」
「もう少し、そのまま」
「何それ」
「落ち着く」
急に声が柔らかくなる。
「さっきまで怒ってた」
「まだ怒ってる」
「でも?」
「真理が触ってる」
ずるい。
でも少し可愛い。
「春斗」
「何」
「可愛い」
「今言う?」
「うん」
「怒ってるのに」
「うん」
春斗の口元が少し緩む。
「それ以上言うと許す」
「じゃあ言わない」
「何で」
その瞬間、口から勝手に言葉が出た。
「少し嫉妬してほしい」
春斗が固まる。
私も、自分で驚いた。
「真理」
「何」
「今」
「忘れて」
「無理」
「言わなきゃよかった」
「嫉妬してほしい?」
顔が熱い。
「少し」
「何で」
「春斗が私のこと好きって分かるから」
春斗が完全に黙った。
しばらくして、少しだけこちらへ近づく。
「真理」
「何」
「俺の独占欲、煽らない方がいい」
心臓が鳴る。
「どうなるの」
「分からない」
「春斗でも?」
「今まで我慢してたから」
声が少し低い。
「付き合ったら、前より我慢しなくていいと思ってる」
胸が熱くなる。
怖い。
でも、少し嬉しい。
私は春斗の腕から手を離した。
そして、自分から右手を差し出す。
「学校から離れた」
春斗がその手を見る。
「うん」
「繋ぐ?」
昨日までは春斗から聞かれていた。
今日は私から。
春斗の目が柔らかくなる。
「繋ぐ」
手が重なる。
指が絡む。
少し強く。
でも痛くない。
「春斗」
「何」
「竹下くんに喧嘩売らないで」
「向こうが売ってる」
「買わないで」
「無理」
「彼女のお願い」
春斗が止まる。
「それずるい」
「使えるから」
昨日の春斗の言葉を、そのまま返した。
春斗が少し笑う。
「分かった」
「本当?」
「殴らない」
「話は?」
「するかも」
「穏やかに」
「努力する」
完全な約束ではない。
でも今はそれでいい。
◇
駅へ向かう道を、私たちは手を繋いで歩いた。
恋人になって三日目。
まだ何もかも新しい。
それでも今日、少しだけ分かったことがある。
恋人になれば、安心するだけではない。
嫉妬も。
不安も。
独占欲も。
付き合う前より、むしろ強くなることがある。
竹下くんはまだ私を好き。
春斗はそれが嫌。
私も、もし石井さんが春斗へ近づけば、きっと嫌だと思う。
選んだから終わりではない。
選んだからこそ、今度は守りたい関係ができた。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「明日、竹下来たら」
「うん」
「俺、普通にする」
少し意外だった。
「本当?」
「努力する」
「偉い」
「でも、向こうがまた真理に好きって言ったら、そのときは無理」
「どうするの」
春斗は私を見る。
「真理の前で、俺の彼女って言う」
顔が熱くなる。
「それだけ?」
「手繋ぐかも」
「学校では駄目」
「そのときは例外」
「勝手」
「彼氏だから」
「便利にしないで」
二人で笑う。
それでも、繋いだ手は少しだけ強かった。
竹下くんの気持ちは、まだ終わっていない。
石井さんの気持ちも、完全には消えていない。
校内の噂も、これからもっと広がる。
私と春斗が付き合ったからといって、全部が綺麗に終わるわけではない。
でも今。
私には春斗の手がある。
そして私は、その手を自分の意思で握り返していた。




