第34話 幼馴染が彼氏になった翌朝、家族の前でいつも通りにするのは無理でした
月曜日の朝、午前五時三十一分。
目を覚ました私は、枕元の時計を見るより先に、自分の右手へ視線を落とした。
昨日、春斗と繋いだ手。
恋人として初めて繋いだ手。
もちろん、昨日までと形が変わったわけではない。指の長さも、手のひらの大きさも、何一つ変わっていないはずなのに、春斗の手を握った感覚を思い出した瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。
「……彼氏」
誰もいない部屋で、小さく口にしてみる。
その一言だけで、頬が熱くなった。
春斗が彼氏。
私は春斗の彼女。
文字にすれば簡単なのに、頭の中で繰り返すだけで心臓が落ち着かない。
昨日、近所の公園で私は春斗へ「付き合いたい」と伝えた。
そのあと春斗からも、改めて「俺と付き合ってください」と告白され、私は「はい」と答えた。
恋人になった。
手を繋いだ。
抱き締められた。
そして、キスはまだ。
そこまで思い返したところで、私は勢いよく布団を頭まで被った。
「無理……」
何が無理なのか、自分でもよく分からない。
恥ずかしい。
ただ、それだけは確かだった。
昨日までも春斗とは手を繋いでいたし、抱き締められたこともある。それなのに、恋人になったという一つの事実だけで、同じ接触が全部違うものに思えてしまう。
昨日までは、恋人になる直前の幼馴染。
今日は、彼氏と彼女。
境目はたった一日なのに、意識の中では大きく違っていた。
布団の中でしばらく転がったあと、私はようやく顔だけを出した。
スマートフォンへ手を伸ばす。
通知が一件。
午前五時十六分。
春斗。
『起きてる?』
「早い……」
思わず呟く。
でも、返事はすぐに打った。
『今起きた』
既読。
早い。
たぶん、春斗も画面を見ていた。
『おはよう』
それだけ。
昨日までなら普通の挨拶だった。
なのに今日は、妙に胸が鳴る。
『おはよう』
返す。
少しだけ間が空いた。
そして。
『彼女』
「っ……!」
私はスマートフォンを握ったままベッドへ倒れ込んだ。
何それ。
朝から。
そんな呼び方をする必要がどこにあるのか。
『やめて』
すぐ送る。
『何で』
『恥ずかしい』
『本当だから』
『そうだけど』
既読。
『真理』
『何』
『彼女』
『春斗』
『何』
『うるさい』
少し間。
『彼氏』
「うわぁぁぁぁ……!」
今度こそ枕へ顔を埋めた。
春斗。
昨日から本当に強い。
付き合う前まで、あれだけ気持ちを隠していた人とは思えない。
今は「好き」も「会いたい」も「彼女」も、全部普通に送ってくる。
ずるい。
『今日会える』
さらに届く。
私は一度深く息を吸い、少しだけ気持ちを整えた。
『うん』
『朝から』
『うん』
『嬉しい』
また顔が熱くなる。
でも。
少しだけ勇気を出す。
『私も』
そこまで打って。
もう一つ。
『会いたい』
送信。
既読。
すぐ。
『今行く』
『来なくていい!』
思わず即返信した。
『冗談』
『春斗の冗談分かりにくい』
『でも会いたい』
『駅で』
『うん』
会話が止まる。
私はスマートフォンを胸の上へ置いた。
今日、学校で春斗と会う。
今までも毎日会っていた。
でも今日から違う。
恋人として会う。
その事実だけで、朝から胃が少し痛くなるくらい緊張した。
◇
午前五時五十七分。
制服へ着替え、朝食を済ませた私は玄関を出た。
今日は私の家が送迎当番だ。
母が車を出している間、私は玄関前で待つ。
まだ朝日は完全に昇りきっておらず、住宅街には薄い青白さが残っていた。新聞配達のバイクが遠くを走り、近所の家の室外機だけが低い音を立てている。
そんな静かな朝なのに、私の心臓は妙にうるさかった。
数分後。
春斗の家の前へ車が停まる。
後部座席のドアが開き、春斗が乗り込んできた。
「おはよう」
「おはよう」
目が合う。
すぐに逸らす。
昨日までなら、こんなことはなかった。
普通に顔を見て。
普通に隣へ座って。
普通に本の話でも学校の話でもした。
でも今日は。
春斗が隣へ座っただけで近い。
肩。
腕。
膝。
全部が気になる。
「真理」
「何」
「近い」
「春斗が」
「俺いつもここ」
「私も」
運転席の母が、バックミラー越しにちらりとこちらを見る。
「二人とも、今日変だね」
「何もない」
「何もない」
完全に同時だった。
母が口元を緩める。
「本当に?」
「うん」
「昨日、二人で出かけた?」
胸が跳ねる。
「少し」
私が答える。
春斗は黙っていた。
「へえ」
母の声が妙に楽しそうだ。
絶対。
何か察している。
「春斗くん」
「はい」
「真理、昨日帰ってからずっとニヤニヤしてたよ」
「お母さん!」
思わず声が大きくなる。
春斗が横で小さく笑った。
「知ってます」
「何で!?」
「メッセージ」
「そんなの送ってない!」
「顔見なくても分かる」
「春斗!」
母まで笑い出す。
「本当に仲いいね」
その言葉。
昔から何度も言われてきた。
仲がいい。
幼馴染だから。
家が近いから。
家族ぐるみだから。
でも今は。
それだけではない。
恋人。
彼氏。
彼女。
言いたい。
でも。
恥ずかしい。
「真理」
春斗が小さな声で呼ぶ。
「何」
「言う?」
何を、なんて聞かなくても分かった。
母へ。
付き合ったこと。
「今?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
私は運転席にいる母の後頭部を見る。
「春斗から言って」
「何で俺」
「無理」
「真理から付き合いたいって言った」
「それは二人のときだから言えたの」
「母親だろ」
「だから恥ずかしいの」
その瞬間。
母が前を向いたまま言った。
「聞こえてるよ」
「えっ」
身体が固まった。
春斗も少しだけ止まる。
「何を?」
私は苦し紛れにとぼけた。
「付き合った?」
直球だった。
「……」
「……」
車内へ沈黙が落ちる。
ちょうど赤信号になり、車がゆっくり停まった。
母がバックミラー越しに私たちを見る。
「違う?」
私は春斗を見る。
春斗も私を見る。
数秒。
そして。
「付き合った」
春斗が言った。
胸が鳴る。
一気に顔が熱くなる。
母は。
しばらく。
本当に何も言わなかった。
それから。
「やっと?」
「お母さん!?」
予想していなかった反応に、私は思わず身を乗り出した。
「何でやっとなの!」
「だって」
母は楽しそうに笑う。
「春斗くん、ずっと真理のこと好きだったでしょう」
今度は春斗が固まった。
「知ってたんですか」
「親だからね」
「何で私には言わなかったの!」
「本人が言うことだから」
「でも!」
「真理は竹下くんが好きだったでしょう」
その名前が出た瞬間。
胸の奥が少し重くなる。
母もすぐ気づいたらしい。
「ごめん」
声が少し柔らかくなる。
「ううん」
「でも、ちゃんと決めたんだね」
「うん」
「竹下くんとは?」
聞かれる。
私は少しだけ視線を落とす。
「話した」
「うん」
「断った」
「そっか」
「泣いた」
母は何も挟まない。
「私も」
車内へ静かな空気が落ちる。
さっきまでのからかいが嘘みたいだった。
春斗も。
何も言わない。
私の横で。
ただ聞いている。
「竹下くんのこと」
母が前を向いたまま言った。
「悪い恋だったことにしないようにね」
「うん」
「真理が本気で好きだったのは、見ていて分かったから」
胸が少し痛む。
「うん」
それでも頷く。
「春斗くんも」
「はい」
「真理が竹下くんを好きだったこと、嫉妬しても否定しないであげてね」
「分かってます」
春斗はすぐに答えた。
母が少し笑う。
「よし」
「何が」
「一個安心」
「お母さん」
「でも」
今度は少し真面目な声になる。
「幼馴染から恋人になったからって、何でもすぐ恋人らしくしなくていいからね」
胸が鳴る。
「分かってる」
「キスとか」
「お母さん!」
思わず大声を出した。
春斗が窓の外を見る。
耳。
真っ赤。
「まだだから!」
口にしてから。
さらに恥ずかしくなる。
母が少しだけ目を細める。
「まだなんだ」
「そこ拾わないで!」
春斗の肩が小さく揺れている。
笑っている。
「春斗!」
「何」
「笑わないで」
「無理」
「彼氏なら助けて」
「母さんじゃない」
「彼氏って言った!」
自分で言って。
また顔が熱くなる。
母は本当に楽しそうだった。
「朝から元気ね」
私はもう。
何も言い返せなかった。
◇
岩瀬駅へ到着し、車を降りる。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母へ言う。
すると母が、今度は春斗へ声を掛けた。
「春斗くん」
「はい」
「真理よろしくね」
「はい」
「お母さん!」
叫んだ頃にはドアが閉まり、車はそのまま走り去っていった。
私はその場で顔を両手で覆った。
「無理」
「何が」
「全部」
「母親に付き合ったって言っただけ」
「春斗は恥ずかしくないの?」
「恥ずかしい」
「見えない」
「かなり」
「嘘」
「本当」
春斗は少し笑う。
でも。
そのあと。
「でも、嬉しい」
胸が鳴る。
「何が」
「真理の家で、俺が彼氏って認識された」
その言葉。
少しだけ。
胸の中へ落ちる。
今まで。
幼馴染。
家族ぐるみ。
近所。
真理の隣にいる春斗。
それだけだった。
今は。
彼氏。
その立場が。
少しずつ現実になっていく。
「春斗」
「何」
「私も嬉しい」
言ってから。
少しだけ照れた。
「うん」
春斗も小さく笑う。
二人で。
ホームへ向かった。
◇
いつものベンチ。
いつもの場所。
私と春斗は隣へ座った。
人は多い。
通学する学生。
会社員。
顔を知っている人もいる。
春斗の右手が近い。
手を繋ぐ?
そう思う。
でも。
もし見られたら。
学校で噂になる。
もう、竹下くんを巡ることではかなり噂になっている。
でも。
正式に春斗と付き合ったことは。
まだ知られていない。
「真理」
「何?」
「手」
やっぱり。
聞かれた。
「ここで?」
「嫌?」
私は周囲を見る。
同じ学校の制服。
少し離れた場所に二人。
別の高校らしい生徒。
通勤客。
「見られる」
「うん」
「噂になる」
「もうなってる」
「付き合ったのはまだ」
「たぶん広がる」
春斗は気にしていないらしい。
「嫌?」
改めて聞かれる。
私は少し考えた。
春斗と付き合ったことを。
隠したい?
答えは。
違う。
「嫌じゃない」
私は言った。
「でも恥ずかしい」
「それは俺も」
「じゃあ」
「でも繋ぎたい」
「春斗、最近欲望に忠実」
「待つだけやめた」
「便利な言葉にしてる」
「本当だから」
私は笑ってしまう。
そして。
ベンチの上。
春斗の手へ。
自分の手を少し近づける。
触れる。
でも。
握らない。
「これで」
春斗が見る。
「何これ」
「見えにくい」
「繋いでない」
「触れてる」
「真理」
「何」
「子ども?」
「恥ずかしいの!」
春斗は笑った。
でも。
無理に握らない。
指先だけ。
触れたまま。
それだけで。
少し。
落ち着いた。
◇
電車は混んでいた。
二人で座れる場所はなく、私たちは並んで吊り革を掴んだ。
朝の車内。
揺れ。
人の気配。
春斗が隣。
肩が近い。
「真理」
「何」
「今日」
「うん」
「学校で」
春斗が少しだけ声を落とす。
「付き合ったこと言う?」
胸が鳴る。
「誰に?」
「聞かれたら」
私は考える。
愛ちゃんはもう知っている。
竹下くんは知らない。
石井さんも。
小野寺くんも。
周囲の生徒も。
私と春斗が急に近くなったことには気づいている。
でも。
正式に交際したことまでは。
知らない。
「言う」
私は答えた。
「隠さない」
春斗の表情が少し柔らかくなる。
「うん」
「でも」
「何」
「自慢みたいには言わない」
「誰に」
「竹下くんの前とか」
春斗の表情。
少しだけ固くなる。
「うん」
「嫌?」
「少し」
正直。
「何が」
「竹下に気を遣うの」
春斗はそう言った。
「でも」
「うん」
「必要だと思う」
胸が少し温かくなる。
「春斗」
「何」
「ありがとう」
「うん」
「竹下くんのこと」
「うん」
「まだ」
声が少し弱くなる。
「気になると思う」
「うん」
「学校休んでたし」
「うん」
「今日来るかもしれない」
「うん」
「話したい」
「うん」
「二人で」
春斗の顔。
明らかに。
少し嫌そう。
「嫌?」
「かなり」
即答だった。
「でも止めない」
春斗は続ける。
「真理が竹下と話す必要あるなら」
「うん」
「止めない」
「ありがとう」
「でも」
「何?」
「終わったら俺のところ来て」
胸が鳴る。
「何で」
「彼氏だから」
また。
その言葉。
「……うん」
頬が熱い。
「分かった」
答えると。
春斗は少しだけ嬉しそうに笑った。
◇
水橋高校へ着く頃には、校門前には多くの生徒が集まっていた。
私と春斗は並んで歩く。
昨日までと。
ほとんど同じ。
歩幅も。
距離も。
会話も。
でも。
全部違う。
彼氏。
彼女。
そういう関係になった。
「春斗」
「何」
「変な感じ」
「俺も」
「いつも通りなのに」
「付き合ったから」
「それだけで?」
「それが大きい」
そうかもしれない。
昇降口へ入る。
その瞬間。
視線。
感じる。
石井さん。
下駄箱の前。
今日は一人ではない。
クラスメイトらしい女子が二人。
石井さんと目が合った。
そして。
石井さんは。
私と春斗の距離を見た。
何か。
感じ取ったような顔。
「おはよう」
石井さん。
「おはよう」
私。
「はよ」
春斗。
少し沈黙。
「久保さん」
「何?」
「昨日」
石井さんが少し迷う。
「春斗と会った?」
「うん」
「一昨日も?」
「うん」
石井さんの眉が少し寄る。
「それで」
続きを聞かれる前に。
私は。
言った。
「付き合った」
石井さんの表情が完全に止まった。
隣にいた女子たちも目を見開く。
春斗も。
私を見る。
でも。
私は。
自分で言いたかった。
「昨日から」
続ける。
「春斗と付き合ってる」
声。
震えなかった。
石井さんは口を少し開き。
でも。
何も言えず。
閉じる。
「……そっか」
それだけ。
でも。
顔。
平気ではない。
分かる。
「石井さん」
「何?」
私は。
反射的に。
「ごめん」
言った。
瞬間。
石井さんの眉が強く寄る。
「何で謝るの」
「だって」
「私が振られたから?」
「そういう意味じゃ」
「じゃあ何」
声。
少し強くなる。
周囲。
少し静かになる。
また。
見られている。
「久保さん」
石井さん。
目が。
少し赤い。
「付き合ったこと、謝らないで」
強い声。
「私」
途中。
少し詰まる。
「それ、一番嫌」
胸。
痛む。
「ごめ」
言いかけ。
止めた。
「……うん」
石井さんが。
少し息を吐く。
「春斗」
「何」
「おめでとう」
春斗の表情が少し変わる。
「ありがとう」
「本当に?」
「うん」
「よかったね」
声は。
少し震えている。
でも。
ちゃんと言う。
そして。
私を見る。
「久保さんも」
「うん」
「おめでとう」
胸が。
少し。
苦しくなる。
でも。
今度は謝らない。
「ありがとう」
受け取る。
石井さんは。
少し。
笑った。
無理をしている。
でも。
昨日までと。
違う。
「でも」
石井さん。
「今日はちょっと無理」
「うん」
「昼まで話しかけないで」
「分かった」
「春斗も」
「うん」
「図書委員は仕事だから普通にする」
「分かった」
石井さんは一度目を閉じる。
そして。
「じゃあ」
歩き出した。
クラスメイト女子二人が慌てて追う。
そのうち一人が。
石井さんの肩へ手を置いた。
遠ざかる。
「真理」
春斗。
「何」
「今の」
「うん」
「最後、謝らなかった」
「途中から」
「うん」
「成長」
「上から言わないで」
でも。
少しだけ。
嬉しかった。
石井さん。
傷ついた。
泣きたいと思う。
でも。
おめでとう。
言ってくれた。
すぐ友達になるわけではない。
まだ苦手。
まだ嫉妬。
でも。
一歩。
前へ。
◇
教室へ入る。
愛ちゃんは。
すぐ。
私の顔を見る。
そして。
にやにや。
「おはよう」
「おはよう」
「彼女」
「やめて!」
小声。
でも。
顔は熱い。
「春くんは?」
「商業科」
「当たり前」
「何」
「今日どうだった?」
「家族にバレた」
「もう?」
「車で」
「早」
「お母さん、やっとって」
愛ちゃん。
笑う。
「やっぱ親は分かるんだね」
「嫌」
「何で」
「恥ずかしい」
「そのうち春くんの家にも言うんでしょ」
胸が止まりそう。
「言うの?」
「付き合ってるなら」
「おばさん絶対知ってる」
「どうだろ」
「春斗が言うかな」
「言わせなよ」
「自分で?」
「彼女でしょ」
また。
その言葉。
「愛ちゃん」
「何」
「彼女って言わないで」
「何で」
「慣れてない」
「いつ慣れるの」
「分からない」
「面白い」
「楽しんでる」
「かなり」
愛ちゃん。
笑う。
私も。
少し笑う。
そして。
自然に。
竹下くんの席を見る。
空いている。
胸。
沈む。
「来てないね」
愛ちゃん。
「うん」
「今日も?」
「分からない」
担任。
まだ来ていない。
小野寺くん。
席にいる。
私と目が合う。
表情。
少し複雑。
私は。
小さく頭を下げる。
小野寺くん。
しばらく。
私を見る。
そして。
立ち上がる。
こちらへ。
来る。
「久保さん」
「うん」
「竹下」
胸。
強く鳴る。
「今日休む」
「そっか」
「昨日」
小野寺くん。
少し。
言葉を選ぶ。
「夜、電話した」
「うん」
「かなり落ち込んでる」
「うん」
「でも」
私を見る。
「久保さんの悪口、言わなかった」
胸。
痛い。
「春斗の悪口は?」
「かなり」
少し。
笑いそうになる。
でも。
笑えない。
「そっか」
「でも本気で何かする気はない」
「うん」
「ただ」
小野寺くん。
視線。
私の顔。
「もう付き合った?」
教室。
少し。
周囲の耳。
こっちへ。
私は。
逃げない。
「うん」
答える。
「昨日」
小野寺くんの目が少し大きくなる。
「そっか」
「うん」
「早い」
言われる。
胸へ刺さる。
「うん」
「竹下振って」
「うん」
「次の日?」
「うん」
小野寺くん。
少し眉を寄せる。
「正直」
「うん」
「竹下の友達としては、嫌」
胸。
痛む。
でも。
受け止める。
「うん」
「でも」
小野寺くん。
続ける。
「久保さんが春斗選んだのも知ってる」
「うん」
「昨日まで引っ張ってた方が、竹下にはもっときつい」
「うん」
「だから」
少し。
息を吐く。
「俺からは何も言わない」
「ありがとう」
「でも」
「うん」
「今、竹下の前でイチャついたら」
目。
少し強くなる。
「俺が怒る」
「分かった」
「春斗にも言って」
「うん」
「竹下が戻るまで」
「うん」
「少しだけ」
小野寺くん。
声。
弱くなる。
「時間くれ」
胸。
締めつけられる。
「分かった」
私は。
答える。
「ちゃんと春斗にも言う」
「うん」
小野寺くん。
小さく頷く。
そして。
席へ戻る。
愛ちゃん。
横。
少し。
心配そう。
「大丈夫?」
「うん」
「痛かった?」
「少し」
「でも」
私は。
竹下くんの空席を見る。
「言ってくれてよかった」
◇
朝のホームルーム。
担任。
出席。
「竹下、体調不良で欠席」
やっぱり。
胸が沈む。
周囲。
少しざわつく。
噂。
もう。
みんな知っている。
竹下くんが。
私を好きだった。
私が。
春斗を選んだ。
そして。
昨日から。
春斗と付き合っている。
その事実。
今日。
さらに広がる。
私は。
ノートを開く。
授業。
始まる。
でも。
気持ち。
落ち着かない。
◇
二時間目の休み時間。
愛ちゃんと廊下へ出る。
すると。
前から。
商業科の女子二人。
歩いてくる。
私を見て。
少し。
声を小さくする。
「久保さん?」
「うん」
「春斗くんと付き合ったって本当?」
早い。
本当に。
早い。
「うん」
答える。
「昨日から」
「やっぱり!」
一人。
少し興奮。
「すご」
「竹下くん振ったって」
もう一人。
言う。
愛ちゃんの表情。
少し硬くなる。
「それ」
私は。
声を落とす。
「あんまり面白がらないで」
二人。
少し止まる。
「ごめん」
「竹下くんも」
「うん」
「今、学校来てないから」
「そっか」
気まずそう。
「でも」
一人。
「おめでとう」
言う。
私は。
少しだけ。
笑う。
「ありがとう」
受け取る。
それで。
いい。
◇
昼休み。
春斗からメッセージが届く。
『屋上近く』
何それ。
『何』
『来れる?』
私は愛ちゃんを見る。
「春斗」
「行ってきな」
「昼」
「食べてから」
「うん」
急いで昼食を食べる。
そして。
校舎。
屋上近く。
普段。
人の少ない階段踊り場。
春斗。
待ってる。
「何?」
私が聞く。
「話」
「何の」
「石井」
「朝?」
「うん」
「大丈夫?」
「俺は」
「石井さんは?」
「昼、普通だった」
「そっか」
「あと」
春斗。
私を見る。
「小野寺」
「何で知ってるの?」
「愛から」
「早い」
「真理」
「何」
「竹下戻るまで」
春斗。
少し声を落とす。
「学校で手繋ぐのやめる?」
胸。
少し痛い。
でも。
「うん」
答える。
「私もそう思ってた」
春斗。
少し残念そう。
「嫌?」
「嫌」
「うん」
「彼女なのに」
また。
胸が鳴る。
「でも」
春斗。
続ける。
「竹下が戻れなくなるのも嫌」
「うん」
「俺」
少し。
顔。
苦しそう。
「竹下嫌いだけど」
「うん」
「真理が好きだった相手だから」
「うん」
「壊したいわけじゃない」
胸。
温かい。
「ありがとう」
「でも」
「何」
「学校出たら繋ぐ」
「春斗」
「そこは譲らない」
思わず。
笑う。
「分かった」
「本当に?」
「うん」
「彼氏だから?」
「……うん」
答える。
春斗。
顔。
少し嬉しそう。
「もう一回」
「嫌」
「何で」
「恥ずかしい」
「慣れて」
「無理」
いつもの。
でも。
恋人の会話。
◇
昼休み。
戻る途中。
石井さんとすれ違う。
目。
合う。
少し。
気まずい。
でも。
石井さん。
私を見る。
「久保さん」
「何?」
「朝」
「うん」
「ごめん」
「何が?」
「ちょっと態度悪かった」
「大丈夫」
「大丈夫って言われるのも嫌」
「じゃあ」
少し考える。
「受け取る」
「うん」
石井さん。
少し笑う。
「それでいい」
そして。
春斗を見る。
「春斗」
「何」
「幸せそう」
少し。
刺のある声。
でも。
前より柔らかい。
「うん」
春斗。
即答。
石井さん。
顔。
少し歪む。
「そこ即答する?」
「本当だから」
「腹立つ」
「ごめん」
「春斗が謝るな」
石井さん。
少し笑う。
私も。
少し。
笑う。
完全に。
仲良くなったわけではない。
でも。
変わっている。
◇
放課後。
教室。
竹下くんの席。
今日も。
空いたまま。
私は鞄を持つ。
愛ちゃん。
「帰る?」
「うん」
「春くん?」
「うん」
「彼氏と?」
「言わないで」
「いつ慣れるの」
「まだ一日」
「じゃあ一週間後また言う」
「やめて」
笑う。
でも。
竹下くんの席を。
最後に見る。
「真理」
「何?」
「明日」
愛ちゃん。
言う。
「竹下くん、来るかも」
「うん」
「そのとき」
「うん」
「普通にできなくても責めないでね」
「分かってる」
「春くんも」
「分かってる」
「ならいい」
私は。
教室を出る。
◇
昇降口。
春斗。
待っている。
私を見る。
「おかえり」
言われる。
胸。
止まりそう。
「何それ」
「何」
「おかえりって」
「俺のところ来たから」
「学校だけど」
「彼女だから」
また。
それ。
「春斗」
「何」
「最近全部そこに繋げる」
「使えるから」
「便利にしないで」
私は。
笑う。
そして。
学校を出る。
校門。
人。
多い。
手。
まだ。
繋がない。
竹下くんが。
戻るまで。
少し。
控える。
でも。
学校から少し離れた。
角。
人。
減る。
春斗。
止まる。
「真理」
「何」
右手。
差し出す。
「ここから」
私は。
周囲を見る。
誰も。
ほとんどいない。
そして。
自分から。
春斗の手を取る。
「うん」
繋ぐ。
春斗。
少し笑う。
「やっぱ嬉しい」
「私も」
答える。
すぐ。
顔。
熱くなる。
「真理」
「何」
「今」
「言わないで」
「嬉しい」
「言った」
「大事だから」
春斗。
笑う。
私は。
もう。
少しだけ。
慣れてきた。
彼氏。
彼女。
恋人。
まだ。
口にすると恥ずかしい。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
嬉しい。
昔から。
同じ道を。
何百回も歩いた。
でも。
今日は。
初めて。
恋人として。
春斗の手を繋ぎ。
帰る。
その日常が。
少しずつ。
始まっていた。




