第32話 好きな人と手を繋ぐだけなのに、私は駅までの道を三回も歩き直したくなりました
放課後の校舎には、部活動へ向かう生徒たちの声が響いていた。
窓の外からは運動部の掛け声が聞こえ、その向こうでは吹奏楽部の音が微かに混ざっている。夕方の陽射しは昼間よりも柔らかく、校舎の床へ長い影を落としていた。
そんな何でもない放課後の景色の中で、私の心臓だけがどう考えても普通ではなかった。
『今日も、手繋ぐ?』
春斗に言われた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
昨日、私は春斗の手を選んだ。
抱き締められた。
好きだと伝えた。
恋人になりたいと思っていることまで、もう言ってしまった。
だから本来なら、今さら手を繋ぐくらいでここまで緊張する必要はないはずなのだ。
それなのに、春斗の右手を意識した瞬間、胸の奥が一気に熱くなる。
私は春斗を見る。
春斗も、いつもの無表情に近い顔をしているけれど、完全に平静ではないことくらい分かった。ほんの少しだけ肩が硬く、私の返事を待つ目にも期待が混じっている。
急かしてはいない。
でも、繋ぎたいとは思っている。
その気持ちが分かるからこそ、余計に胸がくすぐったかった。
「……うん」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
春斗が少し首を傾げる。
「何?」
「聞こえてるでしょ」
「もう一回」
「嫌」
「真理」
口元が僅かに笑っている。
絶対に聞こえていた。
わざとだ。
「繋ぐ」
今度は、さっきより少しだけはっきり言った。
春斗の目が柔らかくなる。
「うん」
それだけ言って、自然に右手を差し出された。
私は、その手を見る。
昔から何度も見てきた手だった。
小学生の頃、一緒に遊んで転びそうになった私を引っ張ってくれたこともある。
中学生の頃、重い荷物を持つ私から何も言わず鞄を取ったこともある。
朝の電車でも、帰り道でも、ずっと隣にあった。
でも、今は違う。
好きな男の子の手だ。
そう思った途端、また顔が熱くなる。
「真理」
「分かってる」
「まだ何も言ってない」
「急かそうとした」
「少し」
「認めるんだ」
思わず笑ってしまった。
緊張しているのに、春斗と話すと少しだけ力が抜ける。
私はゆっくりと、自分から手を重ねた。
指先が触れる。
温かい。
春斗の指が少し動いて、私の手を包む。
強くはない。
でも、離れない程度にしっかりしている。
恋人繋ぎではない。
ただ普通に手を繋いでいるだけ。
それなのに、それだけで十分すぎるくらい心臓が騒がしかった。
「緊張してる?」
春斗が聞く。
「してない」
「嘘」
「してない」
「手」
「何?」
「力入ってる」
指摘され、私は繋いだ手を見る。
確かに、自分の方が少し強く握っていた。
「……してる」
認める。
「春斗もでしょ」
「してる」
即答だった。
私は思わず吹き出した。
「認めるんだ」
「してないって言う意味ある?」
「ないけど」
「だろ」
少しだけ空気が軽くなった。
私たちはそのまま、手を繋いで駅へ向かって歩き始めた。
◇
夕方の通学路は、何も変わっていなかった。
いつも通る交差点。
何度も見た店。
住宅街の塀。
自転車で追い越していく中学生。
見慣れているものばかりなのに、今日は全部が少し違って見える。
理由は分かっている。
隣に春斗がいるから。
昔から隣にいた。
でも今日は、好きな人として隣にいる。
それだけで、いつもの帰り道が別の場所みたいに思えた。
「竹下」
しばらく歩いたところで、春斗がぽつりと言った。
私は少しだけ顔を上げる。
「うん」
「今日も休みだったな」
「うん」
胸の奥が少し痛んだ。
竹下くんの空席を見たときの感覚が戻ってくる。
「心配?」
春斗が聞く。
「するよ」
私は誤魔化さなかった。
「そっか」
春斗はそれ以上、何も言わなかった。
嫌な顔もしない。
私が竹下くんを心配することを、否定しない。
それが少し救いだった。
「まだ好き?」
春斗が聞いた。
私はすぐには答えなかった。
竹下くんを好きだった気持ちは、昨日振ったからといって全部消えたわけではない。
楽しかった時間も。
手を繋いだ記憶も。
可愛いと言ってもらえた嬉しさも。
全部残っている。
「好きだった気持ちはある」
私は正直に答えた。
「うん」
「でも」
そこで一度春斗を見る。
「春斗といる方が嬉しい」
言った瞬間、自分で恥ずかしくなった。
春斗が黙る。
「……何」
「今の反則」
「何で」
「嬉しい」
「知らない」
私は顔を逸らした。
でも、春斗は手を離さない。
むしろ、少しだけ握る力が強くなった。
「真理」
「何」
「俺、かなり調子に乗りそう」
「駄目」
「無理」
「無理じゃない」
「真理が悪い」
「何で」
「今みたいなこと言うから」
春斗が少し笑う。
私は顔を熱くしたまま、それでもその言葉を否定しなかった。
以前の私なら、絶対こんなことは言えなかった。
でも今は言いたかった。
本当のことだったから。
◇
駅へ着く頃には、空が少し赤く染まり始めていた。
ホームには、部活帰りらしい男子生徒や買い物帰りの女性、同じ制服を着た女子のグループがいる。電車が来るまで少し時間があり、私たちはいつものベンチへ並んで座った。
当然のように隣。
当然のように近い。
けれど。
まだ恋人ではない。
それが不思議だった。
「真理」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「うん」
春斗は少しだけ真面目な顔になる。
「俺たち、今どういう状態?」
心臓が鳴った。
それは、私もずっと考えていたことだった。
「幼馴染」
「昨日抱き締めた」
「うん」
「好きって言われた」
「うん」
「手繋いでる」
「うん」
「恋人じゃない」
「うん」
春斗が少し眉を寄せる。
「意味分からん」
私は思わず笑ってしまった。
「私も少し思う」
「だろ」
「でも」
私は正面を見る。
線路の向こう側には、夕陽を反射したホームが見える。
「まだ、竹下くんのことを整理したい」
春斗は何も言わず待っている。
「ちゃんと好きだったから」
「うん」
「忘れたいわけじゃない」
「うん」
「でも、春斗と付き合う前に」
少しだけ声が弱くなる。
「自分の中で、ちゃんと終わらせたい」
春斗はすぐに答えなかった。
その沈黙が少し怖くなる。
嫌だっただろうか。
待たせすぎだと思われただろうか。
私は不安になり、春斗の横顔を見る。
夕陽がその頬を照らしている。
数秒後。
春斗は小さく息を吐いた。
「分かった」
「本当?」
「本当」
「怒らない?」
「怒る」
思わず春斗を見る。
「怒るんだ」
「付き合いたいから」
胸が鳴った。
「でも」
春斗は続ける。
「急がせて後悔されたくない」
私はしばらく春斗を見た。
前だったら。
春斗は、自分の気持ちを全部飲み込んで「待つ」と言ったと思う。
今は違う。
付き合いたい。
早く恋人になりたい。
でも、急かしたくない。
その両方を言う。
「春斗」
「何」
「ありがとう」
「礼は付き合ってから」
「交渉しないで」
「する」
真顔で言われ、私はまた笑ってしまった。
本当に最近の春斗は遠慮がなくなった。
でも。
嫌じゃない。
むしろ、その方が嬉しい。
◇
電車が来るまで、私たちは何でもない話をした。
授業のこと。
愛ちゃんのこと。
先生の話。
最近クラスで起きたこと。
いつもなら何も意識しない会話ばかりなのに、今日は妙に楽しい。
春斗と話しているだけで。
それだけで。
嬉しい。
「そういえば」
春斗が言った。
「石井」
「うん」
「今日ちょっと変だった」
その名前に、私は思わず反応する。
「何で?」
「嫉妬?」
「違う」
「本当?」
「……少しだけ」
春斗が笑った。
悔しい。
「何か言われた?」
「真理とどうなったのって」
「何て答えたの?」
「内緒」
「春斗」
「冗談」
少し間を置いてから。
「まだ付き合ってないって」
「うん」
「そしたら、そっかって」
それだけ。
でも。
私は少し考えてしまう。
石井さん。
まだ完全には吹っ切れていない。
でも、以前のように感情のまま私へぶつかってくる感じも減っている。
「石井さん、どうなるかな」
私は呟いた。
「分からん」
春斗は正直に答える。
「でも」
「うん」
「俺は期待させる気ない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
安心した。
そして。
安心した自分が少し嬉しい。
「何」
春斗がこちらを見る。
「何が」
「今、安心した顔した」
「してない」
「した」
「してない」
否定したけれど。
多分していた。
春斗は、前から私の顔をよく見ていたのかもしれない。
今はそれを隠さなくなった。
だから。
余計にドキドキする。
◇
電車がホームへ入ってきた。
私たちは乗り込み、並んで座る。
夕方の車内は少し混雑していたが、二人で座れる程度には空いていた。
窓の外を、夕焼けに染まった街が流れていく。
隣には春斗。
肩が少し触れそうな距離。
私はふと。
今まで何度も同じ場所へ座っていたことを思い出した。
「春斗」
「何」
「私たち、前からこうやって帰ってたよね」
「帰ってた」
「毎日」
「毎日」
「なのに」
少し笑う。
「全然違う」
春斗も笑った。
「俺も思った」
「何でだろう」
「真理が可愛いから」
「関係ない」
「ある」
「ない」
「ある」
即答だった。
私はため息を吐く。
でも。
その言葉が嫌ではない。
むしろ。
嬉しい。
そう思ってしまうことが、少しだけ悔しかった。
◇
岩瀬駅へ着く。
ホームへ降りると、夕方の風が少し冷たかった。
私たちは並んで改札へ向かって歩く。
そして。
改札の少し手前で。
春斗が足を止めた。
「真理」
「何?」
いつもより少し真面目な顔。
私は自然と姿勢を正した。
「俺」
「うん」
「待つって言ったけど」
「うん」
「無限には待たない」
心臓が鳴る。
「……うん」
「ちゃんと付き合いたい」
「うん」
春斗の声には。
前までの遠慮がなかった。
欲しい。
私と恋人になりたい。
その気持ちを隠さない。
「だから」
春斗が私を見る。
「いつかじゃなくて」
「うん」
「真理の中で答え決まったら、ちゃんと言って」
私は少しだけ目を伏せた。
分かっている。
春斗は優しい。
でも。
何も言わず待ち続ける人では、もうない。
選ばれたい。
恋人になりたい。
ちゃんとそう言ってくれる。
「分かった」
「うん」
「逃げない」
「うん」
「ちゃんと答える」
春斗は少しだけ安心したように笑った。
「ならいい」
そして。
いつものように歩き出す。
私もその隣へ並んだ。
でも。
もう分かっていた。
その日は。
遠くない。
私は春斗が好きだ。
春斗も私を好きだ。
手も繋いだ。
抱き締められた。
会いたいと言い合った。
残っているのは。
本当に最後の一歩だけ。
その一歩を踏み出す日は、きっと思っているより近い。
そんな予感を胸に抱きながら。
私は、春斗の隣を歩いていった。




