第31話 春斗を選んだ翌朝、私は好きな人へおはようを送るだけで緊張しました
午後七時四十二分。
私は自室のベッドへ腰を下ろし、今日だけで何度目になるのか分からないため息を吐いた。窓の外はすっかり暗くなっており、カーテンの隙間から見える住宅街には、ぽつぽつと家々の明かりが灯り始めている。
夕食はもう終わった。お風呂にも入ったし、宿題だって一応は机の上に広げてある。
それなのに、何一つ進んでいなかった。
「……はぁ」
また、ため息が漏れる。
原因なら分かっている。
今日、私は竹下くんを振った。
そして、そのあと春斗へ会いに行った。
岩瀬駅のホームで、午後二時からずっと待っていた春斗を見つけたとき、胸の奥が痛いくらい締めつけられた。私が来るかどうかも分からなかったのに、それでも待っていたと知った瞬間、自分が春斗へ会いに来てよかったと強く思った。
それから、初めて抱き締められた。
春斗に。
幼馴染としてではなく、私を好きだと言った男の子に。
思い出した途端、頬が一気に熱を持った。
「……」
私は近くにあった枕を抱き寄せ、そのまま胸元へ押しつける。
けれど、すぐに思った。
違う。
これじゃない。
春斗はもっと大きかったし、腕ももっとしっかりしていた。背中へ回された腕の感触も、制服越しに伝わってきた体温も、耳を澄ませば聞こえそうだった心臓の音も、全部もっと近かった。
「うわぁ……」
自分が何を思い出しているのか急に恥ずかしくなり、私は枕へ顔を埋めた。
今日、私は竹下くんを振ったばかりだ。
竹下くんは泣いた。
私も泣いた。
それなのに、その日の夜には春斗に抱き締められた感触を思い出して、こんなに顔を熱くしている。
最低なのではないか。
そう思った瞬間、胸の奥へ別の痛みが広がった。
カフェで向かい合った竹下くんの顔が浮かぶ。
『何が足りなかった?』
あの言葉は、今も胸へ深く残っていた。
「足りなかったんじゃないのに……」
小さく呟く。
本当に、竹下くんに足りないものがあったわけではない。
優しかった。
格好よかった。
一緒にいる時間は楽しかったし、もっと知りたいと思った。
好きだった。
今だって、その気持ちが一日で完全に消えたわけではない。
それでも私は、竹下くんではなく春斗を選んだ。
選んでしまった、という言い方は違うのかもしれない。
自分で選んだ。
何度考え直しても、そこだけは変わらなかった。
私は枕をベッドへ置き、ゆっくり立ち上がって机へ向かった。
机の上には、一冊のノートがある。
第29話で、自分の気持ちを整理するために使ったノート。
竹下くんと恋人になった未来。
春斗と恋人になった未来。
どちらも書いた。
誰かの言葉に頼らず、自分がどうしたいのかを考えるために。
私はページを開いた。
『誰の恋人になる未来を失う方が怖いか』
自分で書いたその文字が、今も残っている。
私はペンを持ち、その下へゆっくりと名前を書いた。
『春斗』
初めてだった。
曖昧な言葉ではなく、はっきり名前を書いた。
その文字をじっと見つめる。
消したいとは思わなかった。
もう、逃げなくていい。
「好きなんだ」
誰もいない部屋で、声に出してみる。
春斗が好き。
幼馴染だから大事なのではなく、一人の男の子として好き。
恋人になりたいと思うくらい。
その事実を、今度こそ自分の中で否定しなかった。
ちょうどその瞬間、机の上へ置いていたスマートフォンが震えた。
「っ!」
驚いて肩が跳ねる。
画面を見る。
春斗。
それだけで胸が鳴った。
私は慌てるようにトーク画面を開く。
『帰れた?』
短いメッセージだった。
たったそれだけ。
今までも春斗とは何年も連絡を取り合ってきたし、この程度の文章なら何度も見ている。
でも今は違う。
春斗を好きだとはっきり認めたあとに届く、春斗からのメッセージ。
それだけで心臓がおかしくなる。
『帰れた』
送ると、すぐに既読がついた。
早い。
たぶん、春斗も画面を見ていた。
『泣いた?』
続けて届く。
竹下くんのことだ。
胸の奥が少し重くなる。
『少し』
正直に返した。
数秒後。
『俺も少し』
その返事を見て、思わず笑ってしまった。
『何で』
『分からない』
『嘘』
少し待つと。
『少し安心した』
私はスマートフォンを持つ指を止めた。
『何に』
『真理が来たこと』
胸の奥がまた大きく揺れる。
今日、私は春斗のところへ行った。
それが、春斗にとってこれほど大きなことだったのだ。
『私も安心した』
少し迷ったけれど、送った。
本当だったから。
岩瀬駅へ着き、ホームに立っている春斗を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
会えてよかった。
来てよかった。
そう思った。
『そっか』
短い返事なのに、何となく嬉しそうなのが分かる気がした。
『春斗』
『何』
『風邪引いてない?』
『大丈夫』
『二時間以上ホームいたじゃん』
『真理来たから治った』
『馬鹿』
『知ってる』
思わず笑う。
こういうやり取りは昔から変わらない。
でも今は、同じ会話なのに少し違って感じる。
その違いがくすぐったくて、心地よかった。
少しだけ会話が止まる。
私はスマートフォンの画面を見つめた。
何か送りたい。
でも何を送ればいいか分からない。
まだ恋人ではない。
けれど、もうただの幼馴染でもない。
好きだと伝えた。
抱き締められた。
会いたいとも思っている。
なのに、その関係に名前はまだない。
本当に、距離感が分からなかった。
すると春斗から新しいメッセージが届く。
『真理』
『何』
『今日』
『うん』
『会いに来てくれてありがとう』
胸が締めつけられた。
『うん』
それしか返せない。
春斗から、さらに続く。
『俺』
『うん』
『かなり嬉しかった』
頬が熱くなる。
『うん』
『かなり』
『二回言った』
『大事だから』
「ずるい……」
思わず口に出た。
最近の春斗は、本当にずるい。
以前なら、こんなことは絶対に言わなかった。
気持ちを隠して、何でもない顔をして、本を読んでいた。
でも今は違う。
嬉しい。
嫌だ。
会いたい。
全部、言葉にする。
『春斗』
『何』
『私も』
そこまで打って、指が止まった。
恥ずかしい。
でも、伝えたい。
『会えて嬉しかった』
送信。
既読はすぐについた。
『知ってる』
『何で』
『抱き締めたから』
「うわぁぁぁ!」
私はスマートフォンを握ったままベッドへ倒れ込んだ。
無理。
本当に無理。
顔が熱すぎる。
春斗が強い。
最近、明らかに強い。
前の春斗なら、絶対こんなことを平然とは言わなかった。
『寝る』
逃げるように送る。
『逃げるな』
『逃げる』
『駄目』
『眠い』
『嘘』
『本当』
『おやすみ』
『おやすみ』
会話が終わった。
私はスマートフォンを胸へ抱えたまま、しばらく天井を見上げていた。
そして、ふと気づく。
今日、私は竹下くんのことでたくさん泣いた。
胸が痛かった。
罪悪感もまだある。
竹下くんへの気持ちだって完全には消えていない。
それでも春斗と話している間、私は自然に笑っていた。
春斗へ近づきたい。
前へ進みたい。
そう思っている。
その事実は少し怖くて、同時に少しだけ嬉しかった。
◇
翌朝。
午前五時二十六分。
私は目を覚ました。
正確には、目が覚めてしまった。
いつもより少し早い。
理由は分かっている。
枕元のスマートフォンへ目を向ける。
通知はまだない。
それでも春斗を思い出した。
昨日。
抱き締められた。
好きだと言った。
好きだと返された。
今まで何年も近くにいた春斗と、昨日を境に少しずつ関係が変わっている。
そして今。
私は、あることを考えていた。
「……送ろうかな」
スマートフォンを取る。
春斗とのトーク画面を開く。
文字を打つ。
『おはよう』
そこで止まる。
消す。
もう一度打つ。
『おはよう』
また止まる。
「何やってるの、私……」
送るだけ。
たった四文字。
告白ですらない。
それなのに、告白するときより緊張している気がする。
今まで自分から春斗へ「おはよう」と送ったことがあっただろうか。
たぶん、ほとんどない。
朝は会うから。
わざわざ送る必要がなかった。
でも今日は送りたい。
どうしてなのか、自分でも考える。
春斗の一番になりたいから。
それも少しあるかもしれない。
会いたいから。
それもある。
でも一番は、たぶん。
好きだから。
好きな人へ、朝一番に声をかけたい。
それだけだった。
「……送る」
小さく決意し、送信ボタンへ触れた。
『おはよう』
送った。
その瞬間。
「うわぁぁぁぁ!」
私はベッドへ倒れ込んだ。
顔が熱い。
自分でも何をしているのか分からない。
高校生なのに。
ただ「おはよう」と送っただけなのに。
枕へ顔を埋める。
「馬鹿だ……」
そのときスマートフォンが震えた。
「早っ!?」
慌てて確認する。
春斗。
『起きてる』
即返信だった。
『知ってる』
送る。
『真理がおはよう送ってきたから』
また胸が鳴る。
『いつから起きてたの』
『五時』
『早い』
『寝れなかった』
昨日。
私もなかなか寝つけなかった。
だからその気持ちは少し分かる。
『春斗』
『何』
『今日学校』
『うん』
『会えるね』
送った瞬間、また顔が熱くなった。
何を言っているんだろう。
学校へ行けば毎日会っている。
それなのに、「会えるね」なんて送っている。
既読。
『うん』
そして続いて。
『会いたい』
心臓が止まりそうになった。
朝から。
こんなの反則だ。
『朝から?』
『朝だから』
『意味分からない』
『会いたい』
『二回言った』
『大事だから』
昨日と同じ流れ。
ずるい。
本当にずるい。
『学校で』
『うん』
『会おう』
『うん』
画面を閉じた。
でも、頬が緩んでいる。
止められない。
好きな人と、朝から「会いたい」と言い合う。
そんなこと。
今までの私にはなかった。
◇
朝。
送迎車が来るより五分ほど早く、私は家を出た。
別に外で待つ必要はない。
玄関の中にいてもいい。
それでも外へ出た。
春斗を少しでも早く見たかった。
道の角から見慣れた車が曲がってくる。
停まり、後部座席のドアを開ける。
春斗がいた。
「おはよう」
「おはよう」
返す。
目が合った。
そして、ほとんど同時に二人とも視線を逸らした。
車内へ妙な沈黙が落ちる。
昨日までなら、何も考えず隣へ座れた。
今日は違う。
春斗を好きだと認めた翌朝。
肩が近いだけで気になる。
手が見えるだけで、昨日繋いだ感触を思い出す。
運転席の春斗のお母さんが、バックミラー越しにこちらを見た。
「どうしたの、二人とも。今日はずいぶん静かね」
「何も」
「何もない」
完全に同時だった。
春斗のお母さんが少し笑う。
「へえ」
絶対に信じていない。
でも説明できない。
だって。
昨日までとは本当に違うのだ。
「真理」
春斗が小さな声で呼ぶ。
「何」
「朝」
「うん」
「嬉しかった」
すぐ分かった。
私が送った「おはよう」のことだ。
また顔が熱くなる。
「そう」
「うん」
「良かったね」
「かなり」
また二回言いそうな気配。
私は逃げるように窓の外へ顔を向けた。
それでも。
窓ガラスへ映る自分の顔は。
どう見ても少し笑っていた。
◇
学校へ着き、教室へ入る。
鞄を自分の席へ置いたあと、私は無意識に斜め前を見た。
竹下くんの席。
空いている。
胸が小さく痛んだ。
来ていない。
昨日、私に振られた。
同じクラスで。
すぐに普通に顔を合わせられる方が難しいのかもしれない。
「来てないね」
後ろから愛ちゃんの声がした。
「うん」
「心配?」
「うん」
私は隠さなかった。
愛ちゃんも責めない。
「好きだったもんね」
「うん」
その一言で、胸がまた少し痛む。
でも。
愛ちゃんはすぐに別の話へ移った。
「それで、昨日の夜、春くんとは話した?」
「……少し」
答えた瞬間。
愛ちゃんが私の顔を見る。
「真理」
「何」
「顔」
「何?」
「全部出てる」
私は机へ突っ伏した。
「もう嫌」
「両想いになった女子高生みたいな顔してる」
「女子高生だよ!」
「そうだった」
愛ちゃんが笑う。
私も少しだけ顔を上げた。
「でも、まだ付き合ってない」
「うん」
「何で?」
「すぐ上書きしたくない」
「竹下くんを?」
「うん」
私は机の上で指を組む。
「竹下くんとの恋を終わらせた次の日に、はい春斗と付き合います、ってしたら」
「うん」
「何か違う気がする」
「でも春くん好き?」
「好き」
即答してしまった。
愛ちゃんの口元が上がる。
「会いたい?」
「会いたい」
「昨日、抱き締められた?」
「……うん」
「今朝は?」
私は少し黙る。
「おはよう送った」
「真理から?」
「うん」
愛ちゃんが目を見開いた。
「終わった」
「何が」
「重症」
「分かってる」
「春くんは?」
「会いたいって」
「朝から?」
「朝から」
「そっちも終わってる」
「愛ちゃんまで」
私は再び机へ額をつけた。
本当に。
終わっている気がした。
竹下くんの空席を見ると胸が痛む。
それなのに。
春斗の話をするだけで頬が緩む。
どちらも本当。
だから。
まだ少し。
自分の中で時間が必要だった。
◇
昼休み。
教室を出て廊下を歩いていると、反対側から春斗が来た。
前なら。
普通に手を振った。
名前を呼ばれても何も思わなかった。
今は。
目が合っただけで心臓が一つ大きく鳴った。
「真理」
「何」
普通の声を出そうとした。
たぶん。
少し失敗している。
「放課後、話せる?」
「うん」
「じゃあ駅」
「うん」
それだけ。
本当にそれだけ。
なのに、頬が熱くなる。
近くを歩いていた女子生徒たちが、何かを察したようにこちらを見ていた。小さな囁き声も聞こえる。
きっと噂になる。
もうなっているかもしれない。
でも今は。
周りの視線より。
放課後、春斗と一緒に帰れることの方が嬉しかった。
◇
放課後。
終礼が終わると、愛ちゃんがすぐこちらを見た。
何も言っていないのに、口元がにやにやしている。
「何」
「駅」
「何で知ってるの」
「顔」
「本当に顔で全部分かるのやめて」
「無理」
愛ちゃんは楽しそうに笑う。
「行ってきな」
「うん」
私は鞄を持ち、教室を出た。
階段を下り。
昇降口で靴を履き替え。
外へ出る。
いつもの場所。
春斗が待っていた。
私へ気づくと、少しだけ笑う。
「来た」
「来た」
「当たり前」
「うん」
私も笑う。
それから。
二人の間へ少しだけ沈黙が落ちた。
でも。
嫌な沈黙ではない。
何を話そうか探しているわけでもない。
ただ。
近くにいることを意識しすぎて。
少し緊張しているだけ。
春斗が一歩だけ近づいた。
「真理」
「何」
春斗は少し迷うように視線を落とした。
それから。
私を見る。
「今日も、手繋ぐ?」
胸が大きく鳴った。
昨日。
私は春斗を選んだ。
好きだと言った。
抱き締められた。
それなのに。
手を繋ぐ。
ただそれだけの言葉で。
まだ。
こんなに緊張する。
私は春斗の顔を見た。
春斗も。
少しだけ緊張している。
平気なふりをしているけれど。
分かる。
それが。
少し嬉しい。
私だけではない。
春斗だって。
今の私たちの距離へ。
まだ慣れていない。
私は小さく息を吸った。
答えは。
もう決まっていた。




