第30話 好きな人から告白された日、私は初めて恋を終わらせるために好きだと伝えました
土曜日の朝、午前六時十一分。
目を覚ました私は、枕元のスマートフォンへ手を伸ばさなかった。
通知が来ているかもしれない。
竹下くんから。
春斗から。
愛ちゃんから。
昨日までの私なら、目を開けた直後に画面を確認していたと思う。誰から何が届いているか、それによってその日の最初の感情まで決めてしまっていた。
でも今日は。
少しだけ。
自分の中にあるものを、誰かの言葉を見る前に確かめたかった。
薄いカーテンの向こうから、朝の光が入っている。
天井を見る。
昨日、一人で帰った。
春斗から離れ。
竹下くんにも連絡せず。
一人で電車へ乗った。
そしてノートへ書いた。
『竹下くんと恋人になったら』
『春斗と恋人になったら』
どちらも想像した。
どちらも幸せそうだった。
竹下くんと付き合えば。
きっと楽しい。
学校で目が合うたび嬉しくなり、昼食を一緒に食べ、部活の予定を聞き、休みの日には水戸へ出かける。
サッカーの試合へ応援に行く。
手を繋ぐ。
写真を撮る。
いつか。
もっと近づく。
竹下くんは、私を大切にしてくれると思う。
私も。
竹下くんを大切にしたい。
その気持ちは。
今朝になっても消えていない。
でも。
春斗と付き合う未来を想像したとき。
私は泣いた。
怖かった。
今までの関係まで変わることが。
家族ぐるみの時間まで、恋人という名前へ巻き込まれることが。
もし別れたら。
朝も。
帰りも。
昔の思い出も。
全部が気まずいものになるかもしれないことが。
だから。
私は春斗を選べないのではなく。
春斗を選ぶことが。
怖かった。
そこまで考えたとき。
昨夜。
電話越しの春斗へ言った言葉が戻ってくる。
『春斗と恋人になりたいって、思ってる』
自分で言った。
春斗が誘導したわけではない。
泣いて。
怖くて。
それでも。
口から出た。
春斗と恋人になりたい。
私は布団の中で目を閉じる。
今日。
竹下くんへ会う。
竹下くんは。
好きだと言う。
正式に告白する。
私は。
それを聞かなければならない。
逃げずに。
竹下くんがどれだけ私を好きだったのか。
私がどれだけ竹下くんを好きだったのか。
全部。
なかったことにせず。
向き合う。
そのあと。
岩瀬駅には。
春斗が待っている。
私が来るかも分からないのに。
来るまで待つと言った。
「……春斗」
名前を呟く。
胸が締めつけられる。
会いたい。
今。
すでに。
会いたい。
それでも。
先に行く場所は。
春斗のところではない。
竹下くんのところだ。
私はようやくスマートフォンへ手を伸ばした。
画面をつける。
三件。
最初は愛ちゃん。
『今日は絶対逃げるな。泣いたら連絡して』
次は春斗。
午前五時四十六分。
『起きてる』
それだけ。
昨日。
眠れないと思うと言っていた。
本当に早くから起きている。
最後。
竹下くん。
午前六時三分。
『今日、一時で大丈夫?』
胸が鳴る。
私は竹下くんから返す。
『大丈夫。少し早く着くと思う』
送信。
すぐに既読。
『俺も』
いつものようなやり取り。
でも。
今日は。
その後に待っているものが違う。
『竹下くん』
一度、打つ。
何を続けるか迷う。
今日ちゃんと話す。
逃げない。
ありがとう。
好き。
どれも。
今、文字で送ることではない。
消す。
『じゃあ水戸で』
送る。
『うん』
竹下くんとの画面を閉じる。
春斗。
『起きた』
送る。
既読は。
ほとんど同時についた。
『今日』
『うん』
『行ってくる』
少し間。
『うん』
それだけ。
春斗は。
行くなとは言わない。
『待ってる?』
自分から聞いた。
返事。
『待つ』
胸が苦しい。
『何時になるか分からない』
『分かってる』
『行かないかもしれない』
送る指が震える。
既読。
少し長い沈黙。
『分かってる』
同じ言葉。
でも。
その二回目には。
春斗の怖さまで見える気がした。
『春斗』
『何』
『ちゃんと行ってくる』
『うん』
『逃げない』
『うん』
最後に。
『行ってらっしゃい』
届いた。
涙が出そうになる。
でも。
今は泣かない。
泣くのは。
竹下くんと向き合ったあとだ。
◇
午前九時十八分。
自室の床へ、三着の服が並んでいた。
一度目の映画デートで着た、水色のブラウス。
二度目の偕楽園で着た、クリーム色のブラウス。
そして。
今日のために昨日から考えていた、薄い桃色のシャツと濃紺のロングスカート。
竹下くんとの三回目のデート。
正式に告白される日。
だから。
手を抜きたくなかった。
今日。
もしかしたら。
竹下くんの恋を終わらせるかもしれない。
だからこそ。
適当に行きたくない。
竹下くんと会うために。
竹下くんが好きな私として。
きちんと準備したかった。
鏡の前へ立つ。
薄い桃色のシャツ。
濃紺のスカート。
白い靴。
髪は下ろし、片側だけを小さな飾りのついたピンで留める。
前回。
竹下くんへ最初に服を見せた。
今日も。
春斗へは見せていない。
春斗からも。
聞かれていない。
竹下くんとのデートだから。
今日の私を。
最初に見るのは竹下くん。
それは。
最後まで守りたかった。
扉が軽く叩かれる。
「入るよ」
母。
「どう?」
私は振り返る。
母は少しだけ目を細めた。
「いいと思う」
「本当?」
「竹下くんに会うため?」
「うん」
「春斗くんじゃなく?」
「うん」
迷わず答える。
「今日の服は竹下くんに最初に見せる」
「そっか」
母は部屋へ入り、ベッドの端へ腰を下ろした。
「答え出た?」
聞かれる。
私は鏡を見る。
「たぶん」
「たぶん?」
「でも」
一度息を吸う。
「竹下くんの顔見たら、変わるかもしれない」
「うん」
「告白されたら、やっぱり付き合いたいって思うかもしれない」
「うん」
「だから」
怖い。
それでも。
「今ここで、竹下くんを断るって決めきりたくない」
母は頷いた。
「それでいいと思うよ」
「いいの?」
「竹下くんに会う前に答えを固定したら、今日の時間が確認作業になるでしょう」
「うん」
「竹下くんをちゃんと見て」
「うん」
「そのあと決めなさい」
「分かった」
「でも」
「何?」
「春斗くんが駅で待ってることを、竹下くんとのデート中ずっと考えないようにね」
胸が痛む。
「努力する」
「できる?」
「やる」
「竹下くんとの時間なんでしょう」
「うん」
「なら今日は」
母が私の服を軽く整える。
「竹下くんを好きだった真理として、ちゃんと行っておいで」
好きだった。
過去形のように聞こえた。
「まだ好きだよ」
反射的に言う。
母は少し驚き。
そのあと優しく笑った。
「なら、なおさら」
胸へ落ちる。
そうだ。
私は。
まだ竹下くんを好きだ。
だから。
今日が苦しい。
◇
午前十一時三十分。
岩瀬駅。
日曜日ほどではないが、土曜日の駅には普段の通学時間とは違う人たちがいた。
部活動へ向かう中高生。
買い物へ行くらしい家族。
旅行鞄を持った夫婦。
ホームのベンチへ座る。
私はスマートフォンを鞄へ入れた。
今日は。
水戸駅へ着くまで。
春斗との画面を開かない。
竹下くんへ会う前に。
春斗の言葉で気持ちを動かさない。
電車が入ってくる。
一人で乗る。
いつもなら。
隣に春斗。
でも今日は。
一人。
窓側へ座る。
走り出した電車の窓から。
岩瀬の街が流れていく。
竹下くんとの最初のデートを思い出した。
朝から。
服を選んだ。
春斗へ写真を送った。
竹下くんに「今日の方が可愛い」と言われ、胸が止まりそうになった。
パスタ。
映画。
雨。
駅ビル。
指先が少し触れた。
二回目。
偕楽園。
竹下くんへ最初に服を見せた。
景色を見た。
手を繋いだ。
次も繋ぎたいと言った。
好きと言った。
全部。
私の大切な思い出だ。
たとえ。
今日。
竹下くんを選ばなかったとしても。
絶対に。
間違いだったとは思いたくない。
◇
午後十二時二十三分。
水戸駅へ着いた。
待ち合わせは一時。
また。
早すぎる。
でも。
今日は竹下くんも早く来ると言った。
北口へ向かう。
休日の駅は人が多い。
階段を上がる。
あの日。
初デートで待った時計が見える。
そこに。
竹下くんがいた。
もう来ている。
薄いグレーのシャツ。
黒のパンツ。
ショルダーバッグ。
私より早い。
竹下くんは、何度もスマートフォンを見ていた。
顔を上げる。
私へ気づく。
一瞬。
表情が柔らかくなる。
でも。
すぐに少し硬くなった。
私も。
足が遅くなる。
好き。
会えて嬉しい。
でも。
怖い。
それでも近づく。
「おはよう……じゃないね」
私が言う。
「こんにちは」
竹下くんが答える。
「早いね」
「久保さんも」
「十二時半前だよ」
「俺は十二時くらいに来た」
「もっと早い」
「家にいても落ち着かなかった」
「私も」
一瞬。
以前のように。
二人で少しだけ笑った。
でも。
すぐに沈黙。
竹下くんの視線が。
私の服へ向く。
「今日」
「うん」
「可愛い」
胸が鳴る。
初デート。
竹下くんに初めて私服を褒められたときと。
同じように。
嬉しい。
「ありがとう」
「今日も」
竹下くんは言葉を選ぶ。
「俺が最初?」
何を聞かれているか分かった。
「うん」
「春斗くんには見せてない?」
「見せてない」
「本当に?」
「うん」
竹下くんが少しだけ息を吐いた。
「それ」
「何?」
「嬉しい」
「うん」
「今日くらい」
声が僅かに震える。
「俺のためだけにしてほしかった」
胸が痛む。
「今日の服は竹下くんに会うため」
「うん」
「それは本当」
「ありがとう」
竹下くんは。
少しだけ笑った。
その笑顔を見て。
胸の奥へ。
懐かしいほど強い高鳴りが戻った。
好き。
私は。
やっぱり竹下くんを好きだ。
今日。
簡単には終われない。
◇
予定より早く会えたため、私たちは駅近くを少し歩いてから、水戸芸術館へ向かうことにした。
並んで歩く。
でも。
手は繋がない。
前回なら。
竹下くんが近づけば、意識していた。
今日は。
互いに少し距離を取っていた。
歩道には休日の人たちが行き交い、買い物袋を持った親子や、制服姿の学生とすれ違う。空はよく晴れているが、風は少し冷たい。
「竹下くん」
「何?」
「体調」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「木曜日休んだの」
「身体じゃない」
胸が痛む。
「ごめん」
「謝らないでって言った」
「うん」
「今日」
竹下くんは前を向いたまま続ける。
「ちゃんと話したい」
「私も」
「怒ると思う」
「うん」
「嫌なこと言うかもしれない」
「うん」
「それでも」
竹下くんが私を見る。
「途中で帰らないで」
「帰らない」
「春斗くんから連絡来ても?」
胸が強く鳴る。
「今日は」
スマートフォンの入った鞄を見る。
「竹下くんとの時間が終わるまで見ない」
竹下くんの表情が少し変わる。
「本当?」
「うん」
「約束?」
「うん」
「通知来ても?」
「緊急じゃなければ」
「春斗くんが寂しいとか送ってきても?」
「見ない」
竹下くんは少しだけ唇を緩めた。
「それなら」
「うん」
「今日は、俺を見て」
何度も。
言われた言葉。
「見る」
今日は。
本当に。
そのために来た。
◇
水戸芸術館へ着く。
広場には家族連れや若い人たちが歩き、少し離れた場所では写真を撮っている人もいた。特徴的な塔を見上げる観光客がいて、子どもたちが広場を走っている。
展示室へ入る。
最初は。
お互い緊張していた。
何を話していいか分からない。
でも。
一つの作品の前で。
竹下くんが小さく言った。
「俺、こういうの分からない」
「私も」
「分からないのに来た?」
「竹下くんが行ってみたいって言ったから」
「久保さんもいいって」
「興味はあった」
「感想」
「青い」
「それだけ?」
「竹下くんは?」
「大きい」
顔を見合わせる。
数秒。
二人で吹き出した。
近くにいた年配の女性が、少し驚いてこちらを見る。
「静かにしないと」
私が小声で言う。
「久保さんが笑うから」
「竹下くんが大きいって」
「本当に大きい」
「感想小学生」
「青いも同じ」
肩の力が少し抜けた。
展示を見ながら。
話す。
この色は好き。
これは怖い。
家に置くならどれ。
絶対これ。
それは嫌。
会話が。
少しずつ戻ってくる。
竹下くんといると楽しい。
今日。
改めて。
思う。
この人を嫌いになったわけではない。
気持ちが冷めたから。
春斗へ向いたわけでもない。
竹下くんといる時間は。
今も。
大切。
◇
展示を見終えたあと。
近くのカフェへ入った。
窓際。
二人席。
以前のパスタ店と似た位置。
でも。
今日の空気は全く違う。
私は紅茶。
竹下くんはコーヒー。
注文が届くまで。
竹下くんは何も言わなかった。
私も。
待った。
飲み物が運ばれる。
店員が離れる。
竹下くんが。
ようやく口を開いた。
「手」
胸が鳴る。
「うん」
「春斗くんと」
「うん」
「何で繋いだの」
逃げない。
「繋ぎたかったから」
竹下くんの指が、テーブルの下で強く握られる。
「俺と繋いだのに?」
「うん」
「次も繋ぎたいって言った」
「うん」
「今も?」
聞かれる。
胸が痛い。
でも。
嘘はつかない。
「竹下くんと手を繋ぐの」
自分の右手を見る。
「今も嫌じゃない」
「嫌じゃない?」
「繋ぎたいと思う気持ちもある」
「ある?」
「うん」
竹下くんの表情が苦しそうに歪む。
「じゃあ、どうして春斗くんとも」
「春斗とも繋ぎたかった」
「二人とも?」
「うん」
「それ」
竹下くんの声が少し強くなる。
「やっぱり分からない」
「うん」
「俺には無理」
周囲の客が僅かにこちらを見る。
竹下くんは気づき、声を抑えた。
「俺は」
呼吸を整える。
「久保さんと手を繋いだとき、もうほかの女子とは繋ぎたくないって思った」
「うん」
「久保さんだけでいいって」
「うん」
「だから」
竹下くんの目が赤くなる。
「久保さんが俺とも春斗くんとも繋ぎたいって気持ち、分からない」
「分かってもらおうとは思ってない」
「じゃあ何で」
「私も分からなかった」
紅茶のカップを両手で包む。
「最初は竹下くんだけだった」
「うん」
「春斗は幼馴染」
「うん」
「恋愛相談する相手」
「うん」
「それだけだと思ってた」
「でも違った」
「うん」
言葉を続ける。
「竹下くんを好きになったから」
「うん」
「春斗が私を好きだって知った」
「うん」
「春斗が私から離れようとした」
「うん」
「ほかの女の子と話してるの見た」
石井さん。
「嫌だった」
「うん」
「それで」
声が少し震える。
「春斗を失いたくないだけだと思った」
「違った?」
「違った」
竹下くんの顔が固くなる。
「手を繋いで」
「うん」
「嬉しかった」
「うん」
「男の子として」
言うのが苦しい。
「春斗を好きになってるって、分かった」
竹下くんは。
しばらく何も言わなかった。
店内には穏やかな音楽が流れている。
隣の席では、大学生らしい二人が楽しそうにスマートフォンを見ている。
私たちのテーブルだけ。
時間が止まったようだった。
「じゃあ」
竹下くんが言う。
「もう答え出てる?」
胸が締めつけられる。
「昨日」
「うん」
「一人で考えた」
「うん」
「竹下くんと付き合う未来も」
「うん」
「春斗と付き合う未来も」
竹下くんの喉が動く。
「どっち」
「まだ」
一度。
目を閉じる。
「ここに来るまでは」
竹下くんが私を見る。
「今は?」
答え。
胸の奥。
私は。
この人を好きだ。
目の前にいる竹下雅人を。
優しく。
格好よく。
少し負けず嫌いで。
嫉妬もして。
怒って。
泣きそうになっている。
全部を知るほど。
最初の憧れだけではなく。
本当に好きになった。
だからこそ。
「竹下くん」
「うん」
「私」
声が震える。
涙が溢れそうになる。
「竹下くんのこと、好き」
竹下くんの目が大きくなる。
「今も」
続ける。
「今日会えて嬉しかった」
「うん」
「可愛いって言われて嬉しかった」
「うん」
「展示見て笑ったのも楽しかった」
「うん」
「また」
涙が一つ。
頬を落ちる。
「竹下くんとこうやって出かけたいって思う」
竹下くんも。
目が赤い。
「じゃあ」
声が震える。
「俺を選んで」
胸が痛い。
「久保さん」
竹下くんが前へ身を乗り出す。
「俺と付き合って」
来た。
正式な告白。
「好き」
竹下くんは。
逃げない。
「最初は、久保さんが俺を好きなの分かって嬉しかっただけだった」
「うん」
「でも一緒に昼食べて」
「うん」
「映画行って」
「うん」
「偕楽園行って」
「うん」
「手繋いで」
竹下くんの声が掠れる。
「俺、本気で久保さんを彼女にしたいって思った」
涙が滲んでいる。
「春斗くんより」
「うん」
「俺を見てほしい」
「うん」
「俺が久保さんの一番になりたい」
「うん」
「春斗くんに取られたくない」
握った拳が震えている。
「だから」
竹下くんが。
私を見る。
「久保真理さん」
初めて。
名前まで。
はっきり呼ばれた。
「俺と付き合ってください」
胸が。
壊れそうなほど痛かった。
私は。
この告白を。
ずっと望んでいた。
入学して。
竹下くんを好きになり。
女友達へ相談して。
春斗へ相談して。
どうすれば近づけるか考え。
一緒に昼食を食べられただけで舞い上がり。
映画へ誘われ。
可愛いと言われ。
手を繋いだ。
あの頃の私なら。
一秒も迷わず。
はい。
と答えていた。
今も。
好き。
それなのに。
口から出る答えは。
「……ごめんなさい」
声が震えた。
竹下くんの表情が。
止まった。
私も。
涙を止められなかった。
「ごめん」
もう一度。
「竹下くん」
「……何で」
小さな声。
「好きなんだろ」
「うん」
「今も好きって」
「うん」
「じゃあ何で」
竹下くんの声が。
少しずつ強くなる。
「何で駄目なんだよ」
周囲の視線が集まる。
でも。
もう気にできなかった。
「春斗が」
言葉を出す。
竹下くんの顔が歪む。
「やっぱり春斗くん?」
「うん」
「久保さん」
「ごめん」
「謝らないで!」
竹下くんの声が大きくなった。
何人かの客が振り返る。
店員もこちらを見る。
竹下くんはすぐに顔を伏せ、声を抑えた。
「ごめん」
今度は竹下くんが謝る。
「でも」
涙が。
竹下くんの頬を落ちた。
初めて見た。
「俺」
声が震える。
「何が足りなかった?」
胸が痛い。
「足りないんじゃない」
「じゃあ何」
「竹下くんは」
言葉を探す。
「本当に好き」
「それ言わないで」
「でも」
「振る相手に好きって言わないでよ」
胸へ刺さる。
竹下くんの言うことは正しい。
でも。
好きだった気持ちまで嘘にはしたくない。
「ごめん」
「だから」
「でもこれだけは」
私は涙を拭いながら。
竹下くんを見る。
「好きだったことを、なかったことにしたくない」
竹下くんの目が揺れる。
「最初から春斗が好きだったんじゃない」
「うん」
「竹下くんを好きになった」
「うん」
「本気だった」
「うん」
「今も」
喉が苦しい。
「好きな気持ちは残ってる」
「じゃあ」
「でも」
私は。
昨夜。
ノートへ書けなかった名前を。
心の中で。
初めて。
はっきり書いた。
「春斗と恋人になれない未来の方が」
声が震える。
「怖かった」
竹下くんの表情が。
ゆっくり崩れる。
「……そっか」
「うん」
「俺を失うより?」
残酷。
でも。
逃げない。
「恋人としては」
涙が落ちる。
「うん」
答えた。
竹下くんは。
顔を伏せた。
肩が震えている。
泣いている。
私は。
触れられない。
今。
竹下くんの手を取ることは。
優しさではない。
私が楽になりたいだけになる。
だから。
ただ。
待った。
竹下くんが。
顔を上げるまで。
◇
どれくらい時間が経ったか分からない。
飲み物は。
すっかり冷めていた。
竹下くんは目元をハンカチで拭き、少しだけ笑った。
無理に。
「格好悪い」
「格好悪くない」
「泣いた」
「私も」
「久保さんはいい」
「何で」
「振った側だから」
「振った側も泣くよ」
「知らない」
少し。
いつもの竹下くん。
でも。
笑顔はすぐに消えた。
「春斗くんのところ」
言われる。
心臓が鳴る。
「行くの?」
竹下くんは。
知っていない。
岩瀬駅で春斗が待っていること。
「うん」
私は嘘をつかなかった。
「今日?」
「うん」
竹下くんが。
目を閉じる。
「そっか」
「ごめん」
「もう謝らないで」
「でも」
「俺」
竹下くんは。
テーブルの上へ置いた自分の手を見る。
「今、春斗くん嫌い」
「うん」
「かなり」
「うん」
「久保さんのことも」
胸が強く痛む。
「今はちょっと嫌い」
それでも。
私は受け止める。
「うん」
「ひどいこと言いたい」
「言っていい」
「言ったら後悔する」
「うん」
「だから言わない」
竹下くんは。
自分の感情を。
必死に止めている。
「でも」
「うん」
「今日、駅まで一緒に帰れない」
「分かった」
「手も」
「うん」
「もう繋げない」
胸が苦しい。
偕楽園。
温かかった手。
次も繋ぐと約束した。
「うん」
「写真」
「消さない」
反射的に言った。
竹下くんが顔を上げる。
「消さないの?」
「嫌なら消す」
「……」
「でも」
私は続ける。
「私は残したい」
「何で」
「大事な日だったから」
竹下くんの目から。
また涙が落ちる。
「ずるい」
「うん」
「振るのに、大事って」
「うん」
「俺、しばらく久保さんと普通に話せない」
「分かってる」
「同じクラスだから」
「うん」
「学校で見る」
「うん」
「春斗くんと付き合ったら」
言葉が詰まる。
「見たくない」
「うん」
「たぶん」
竹下くんは。
苦しそうに笑う。
「すごい嫌な態度取るかもしれない」
「うん」
「でも」
少し間。
「ずっとは嫌いでいたくない」
胸が締めつけられる。
「竹下くん」
「今は無理」
「うん」
「でも」
竹下くんは。
私を見た。
「久保さんを好きになったことは」
声が震える。
「俺も、間違いにしたくない」
涙が止まらない。
「ありがとう」
「それは言っていい」
「うん」
「今まで」
竹下くんは。
一度。
大きく息を吸う。
「楽しかった」
「私も」
「かなり」
「私も」
「初デート」
「うん」
「久保さん早すぎた」
「竹下くんも」
「映画」
「泣いた」
「俺、映画より久保さん見てた」
「え?」
「今言う」
竹下くんが。
少しだけ笑う。
「ずっと可愛いと思ってた」
また涙が出る。
「今言わないで」
「最後だから」
「ずるい」
「久保さんに言われたくない」
本当に。
少しだけ。
二人で笑った。
泣きながら。
「偕楽園」
竹下くんが続ける。
「手繋いだ」
「うん」
「俺」
自分の手を見る。
「一生忘れないと思う」
「私も」
「でも」
少し顔を歪める。
「次は、俺だけを好きな子と繋ぐ」
胸へ刺さる。
でも。
それでいい。
「うん」
「久保さんより」
「何?」
「可愛い子探す」
少しだけ強がり。
「いるかな」
私も返す。
「いる」
「即答」
「たくさんいる」
「ひどい」
「でも」
竹下くんが。
最後に。
私を見る。
「今は久保さんが一番可愛いと思ってる」
涙。
止まらない。
「本当にずるい」
「今日だけ」
「うん」
この人を。
好きになれて。
よかった。
心から。
そう思った。
◇
カフェを出たのは。
午後三時を少し過ぎた頃だった。
予定では。
本屋にも行くはずだった。
でも。
行かなかった。
もう。
デートを続けられる空気ではない。
駅へ向かう。
隣を歩く。
距離は。
少し離れている。
手は。
繋がない。
それでも。
途中までは。
一緒に歩いた。
駅の北口。
最初のデートで会った場所。
時計。
そこへ着く。
竹下くんが立ち止まる。
「俺」
「うん」
「少し歩いてから帰る」
「一緒じゃなくて?」
「今は一人になりたい」
胸が痛む。
でも。
分かる。
「うん」
「久保さん」
「何?」
「春斗くん」
竹下くんの表情が。
少しだけ険しくなる。
「泣かせたら」
言う。
「殴る」
「竹下くん」
「本気」
「暴力は駄目」
「じゃあサッカーで勝つ」
「何に?」
「知らない」
少しだけ笑う。
竹下くんも。
笑う。
「また」
私が言う。
竹下くんの表情が止まる。
「学校で」
言い直す。
「うん」
「すぐには無理でも」
「うん」
「いつか」
「うん」
竹下くんは。
小さく頷いた。
「じゃあ」
「うん」
「久保さん」
「何?」
「好きだった」
過去形。
まだ。
気持ちは。
現在形のはずなのに。
竹下くんは。
自分から過去へ変えようとしている。
「私も」
声が震える。
「好きだった」
言う。
でも。
それだけでは足りない。
「今も」
竹下くんの目が揺れる。
「恋を終わらせるから」
私は。
涙を拭う。
「好きだった気持ちごと、大事にする」
竹下くんは。
しばらく何も言わなかった。
そして。
ゆっくり頷いた。
「それなら」
「うん」
「いい」
竹下くんが背を向ける。
歩き出す。
私は。
追わない。
何度も。
振り返りそうになる。
でも。
竹下くんは。
一度も振り返らなかった。
人の流れへ。
消える。
私の。
最初の恋。
終わった。
◇
一人になった瞬間。
足から力が抜けた。
駅の端にあるベンチへ座る。
泣く。
人がいる。
見られている。
それでも。
止められない。
鞄からハンカチを出す。
竹下くん。
好きだった。
格好よかった。
可愛く笑った。
優しかった。
嫉妬した。
怒った。
泣いた。
全部。
恋だった。
「……ごめん」
誰へ向けた言葉か分からない。
竹下くん。
春斗。
自分。
スマートフォンは。
鞄の中。
竹下くんとの時間が終わるまで。
見ないと決めた。
終わった。
でも。
すぐには取り出せなかった。
春斗へ行く。
その前に。
少しだけ。
竹下くんとの恋を。
終わらせる時間が欲しかった。
五分。
十分。
ベンチへ座ったまま。
泣く。
少しずつ。
涙が止まる。
私は。
ようやく鞄からスマートフォンを出した。
通知。
愛ちゃん。
『どう?』
母。
『帰り決まったら連絡して』
春斗からは。
一件もない。
待つ。
そう言ったから。
何も送らず。
岩瀬駅で。
待っている。
私は時計を見る。
午後三時三十八分。
水戸から岩瀬。
電車に乗る。
一時間前後。
春斗は。
もう駅にいるのだろうか。
それとも。
私から何か連絡が来てから行くつもりなのか。
昨夜。
『来るまで』
と言った。
私は。
春斗との画面を開く。
指が震える。
『終わった』
打つ。
送る。
既読。
すぐ。
『うん』
それだけ。
『今どこ?』
聞く。
返事。
『岩瀬駅』
息が止まる。
『もう?』
『二時から』
「……馬鹿」
涙が。
また出る。
二時。
私が竹下くんと。
まだカフェにいた頃。
春斗は。
岩瀬駅で。
待っていた。
『早すぎ』
『分かってる』
『私、まだ水戸』
『うん』
『待つ?』
送る。
馬鹿な質問。
返事。
『待つ』
胸が。
苦しい。
『春斗』
『何』
打つ。
消す。
打つ。
また消す。
最後に。
『会いたい』
送った。
既読。
少し。
間が空く。
『俺も』
その二文字を見た瞬間。
私は立ち上がった。
◇
水戸駅のホーム。
帰りの電車を待つ。
人が多い。
土曜日の午後。
買い物帰り。
部活動帰り。
家族連れ。
私は。
一人。
右手。
竹下くんと繋いだ記憶。
左手ではなく。
右手。
あの日。
偕楽園。
嬉しかった。
そのあと。
春斗とも繋いだ。
嬉しかった。
同じ手。
違う恋。
私は。
今日。
一つを終わらせた。
でも。
もう一つへ。
すぐ飛びついていいのだろうか。
竹下くんを振った直後に。
春斗へ行く。
それは。
竹下くんを踏み台にすることにならないか。
胸へ不安が生まれる。
でも。
春斗へ会いたい。
昨夜。
約束した。
竹下くんを選ばなかったら。
春斗へ会いたいと思ったら。
岩瀬駅へ行く。
今。
会いたい。
それは。
竹下くんを振ったからではない。
昨日。
一人で考えた時点で。
すでに。
春斗と恋人になれない未来の方が怖いと。
気づき始めていた。
それでも。
私は。
まだ。
春斗と付き合うと決めたわけではない。
竹下くんとの恋を終えたばかり。
涙も。
まだ乾いていない。
だから。
今日。
春斗へ会って。
すぐに恋人にならなくてもいい。
でも。
伝えたい。
竹下くんを選ばなかったこと。
春斗へ会いたいと思ったこと。
そして。
私の中に。
春斗への恋があること。
電車が来る。
私は乗る。
◇
窓の外。
水戸の街が遠ざかる。
スマートフォンへ。
春斗から。
『乗った?』
『乗った』
『何時』
『四時五十二分くらい』
『分かった』
『寒くない?』
『少し』
『駅の中いれば』
『ホーム』
『何で』
『来る電車見えるから』
「本当に馬鹿」
声に出してしまう。
『中入って』
『嫌』
『風邪ひく』
『真理来るまで大丈夫』
『この前熱出したでしょ』
『今日は平気』
いつものやり取り。
それだけで。
胸が温かくなる。
私は。
ふと。
竹下くんとのトーク画面を見る。
最後。
昨日。
短い会話。
今日のことは。
まだ何も残っていない。
送るべきではない。
今は。
竹下くんへ何かを送れば。
自分が楽になりたいだけになる。
だから。
画面を閉じる。
竹下くんの写真。
消さない。
今は。
それでいい。
◇
午後四時五十一分。
電車が岩瀬駅へ近づく。
胸が。
どんどん速くなる。
ホームが見える。
人。
ベンチ。
柱。
その中。
見慣れた制服。
春斗。
本を持っている。
でも。
読んでいない。
線路の向こう。
こちらを見ている。
まだ電車は完全に止まっていない。
それなのに。
目が合った気がした。
春斗が。
立ち上がる。
電車が止まる。
扉が開く。
私は。
降りる。
足が。
震える。
春斗は。
走ってこない。
私が来るのを。
待っている。
一歩。
二歩。
ホーム。
距離が縮まる。
竹下くんと別れたばかり。
まだ。
目が赤い。
春斗は。
私の顔を見る。
「真理」
名前を呼ぶ。
その声を聞いた瞬間。
涙が。
また出た。
「春斗」
「うん」
「待ちすぎ」
「知ってる」
「寒いでしょ」
「少し」
「馬鹿」
「うん」
春斗は。
手を伸ばしかける。
途中で止める。
昨夜。
約束した。
私が来たら。
抱き締めてもいいか。
そのとき聞く。
春斗は。
私を見た。
「真理」
「何」
「竹下」
喉が詰まる。
「断った」
言う。
春斗の表情が。
大きく揺れる。
でも。
喜ばない。
すぐには。
「そっか」
「うん」
「泣いた?」
「二人とも」
「そっか」
「竹下くん」
涙を拭う。
「最後まで優しかった」
「うん」
「怒ったし」
「うん」
「泣いたし」
「うん」
「私のこと、今は少し嫌いって」
春斗の眉が僅かに寄る。
「でも」
「うん」
「好きになったことは間違いにしたくないって」
春斗は。
何も言わない。
ただ。
聞いてくれる。
「私も」
声が震える。
「竹下くんを好きだったこと、間違いじゃない」
「うん」
「今もまだ」
一度。
息を吸う。
「気持ち、全部なくなってない」
春斗の顔が少し痛そうに歪む。
それでも。
「うん」
受け止める。
「でも」
私は。
春斗を見る。
竹下くんではなく。
春斗。
「春斗に会いたかった」
春斗の目が揺れる。
「うん」
「水戸駅で」
「うん」
「終わって」
「うん」
「一人になって」
涙が止まらない。
「一番会いたかったの、春斗だった」
言った。
春斗の唇が。
僅かに震える。
「真理」
「何」
「それ」
「うん」
「期待していい?」
今まで。
何度も聞かれた。
期待する。
止める。
責任を持つ。
その繰り返し。
今日は。
「うん」
私は頷く。
「期待して」
春斗が。
目を閉じる。
一度。
長く息を吐く。
そして。
私を見る。
「抱き締めてもいい?」
聞かれた。
昨夜の約束。
心臓が。
壊れそうなくらい鳴る。
竹下くんと別れたばかり。
今。
春斗へ抱き締められる。
早いかもしれない。
ずるいかもしれない。
でも。
私は。
春斗へ会いたくて。
ここへ帰ってきた。
「……うん」
答えた。
春斗が。
一歩。
近づく。
腕が。
私の背中へ回る。
強くはない。
逃げられる。
でも。
私は逃げなかった。
春斗の胸へ。
身体が触れる。
制服越しの体温。
昔から知っている匂い。
でも。
初めての距離。
春斗の腕が。
少しだけ強くなる。
「真理」
耳元。
近い。
「来てくれてよかった」
涙が。
春斗の制服へ落ちる。
「うん」
「本当に」
声が震えている。
春斗も。
泣きそうなのかもしれない。
「春斗」
「何」
「私」
言わなければ。
今日。
竹下くんとの恋を終わらせた。
だからといって。
すぐ春斗の彼女になる。
それは違うと思う。
「まだ」
春斗の胸へ顔をつけたまま続ける。
「すぐ付き合うって言えない」
春斗の腕が。
一瞬。
僅かに固くなる。
「うん」
「竹下くんと別れた直後だから」
「うん」
「春斗を選んだから、竹下くんを振ったのは本当だけど」
「うん」
「今すぐ恋人になったら」
涙を拭うこともできない。
「竹下くんとの恋を、急いで上書きするみたいで嫌」
春斗は。
少しだけ。
抱く力を弱める。
離れはしない。
「分かった」
「怒る?」
「少し」
「うん」
「今すぐ付き合いたい」
「うん」
「かなり」
「うん」
「でも」
春斗の声が。
少しだけ柔らかくなる。
「真理が俺のところへ来た」
「うん」
「竹下じゃなく」
「うん」
「会いたいって言って」
「うん」
「抱き締めてもいいって」
「うん」
「それだけで」
春斗が。
小さく息を吐く。
「今日は十分」
胸が。
温かくなる。
「春斗」
「何」
「待てる?」
春斗は。
少しだけ身体を離す。
でも。
腕はまだ。
私の肩へ残っている。
顔が見える。
近い。
「長い?」
「分からない」
「一週間?」
「分からない」
「一か月?」
「そんなに待たせたくない」
「じゃあ」
春斗の口元が。
ほんの少し緩む。
「明日?」
「早い」
「明後日」
「交渉しないで」
「待つだけやめたから」
それを言う。
私は。
泣きながら笑った。
「春斗」
「何」
「私」
ここまで。
言える。
「春斗を好き」
春斗の表情が。
止まる。
完全に。
「真理」
「うん」
「今」
「言った」
「もう一回」
「嫌」
「何で」
「恥ずかしい」
「俺、何年待ったと思ってる」
「知らない」
「かなり」
「じゃあ一回で我慢して」
「無理」
春斗は。
泣きそうな顔で。
笑った。
「俺も好き」
「うん」
「ずっと」
「うん」
「今はもっと」
胸が鳴る。
「うん」
「だから」
春斗は。
また少しだけ。
私を抱き寄せる。
「恋人になるまで」
「うん」
「逃げるなよ」
「逃げない」
「竹下へ戻る?」
胸が痛む。
でも。
答える。
「戻らない」
「本当に?」
「竹下くんを好きだったことは大事にする」
「うん」
「でも」
春斗を見る。
「恋人になりたいと思ってるのは、春斗」
今度は。
はっきり。
言った。
春斗の目に。
涙が滲んだ。
「春斗、泣いてる?」
「泣いてない」
「目赤い」
「寒い」
「嘘」
「見るな」
「さっき私の顔ずっと見た」
「真理」
「何?」
「うるさい」
言いながら。
春斗は笑った。
私も。
泣きながら笑った。
◇
駅のホーム。
夕方。
人は。
何人もいる。
こちらを見ている人もいたかもしれない。
でも。
今は。
どうでもよかった。
私の最初の恋は。
今日。
終わった。
竹下雅人くん。
好きだった。
今も。
その気持ちの残りは。
胸の中にある。
だから。
すぐに消さない。
消す必要もない。
その恋があったから。
春斗の気持ちを知った。
春斗を失うことが怖いと気づいた。
幼馴染ではなく。
一人の男の子として。
春斗を見た。
そして。
自分から。
春斗のところへ帰ってきた。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「手」
聞かれる。
春斗の右手。
差し出されている。
竹下くんと繋いだことを。
なかったことにはしない。
でも。
今。
この手を。
取りたい。
私は。
自分から。
春斗の手へ指を重ねた。
「繋ぐ」
春斗が。
少し驚く。
「真理から?」
「嫌?」
「絶対離さない」
「駅では離して」
「何で」
「恥ずかしい」
「もう抱き締めた」
「それは泣いてたから」
「関係ない」
「春斗」
笑いながら。
手を繋ぐ。
恋人ではない。
まだ。
でも。
もう。
ただの幼馴染でもない。
私たちは。
その間にいる。
そして。
今日。
初めて。
私は。
誰かを失いたくないからではなく。
自分がその人を好きだから。
春斗の手を。
選んだ。




