第29話 好きな人へ会う前夜、一人で考えたはずなのに幼馴染の声を聞いた瞬間に泣いてしまいました
岩瀬駅へ着いたとき、空はすでに深い群青色へ変わっていた。
改札を抜ける人の流れに乗りながら、私は鞄の中へ本を戻した。春斗から渡された『君の隣を選び直す』は、帰りの電車だけで半分ほどまで読み進めていた。
物語の主人公は、まだ誰も選んでいない。
長く憧れていた相手へ向ける、眩しくて分かりやすい恋。
苦しいときや嬉しいとき、気づけば探してしまう相手へ向ける、生活の奥へ染み込んだような感情。
あまりにも今の自分と似ていて、読み進めるほど胸が苦しくなった。
私は本の続きを知りたいと思う。
けれど、物語の結末を借りて自分の答えを決めてはいけない気もした。
主人公がどちらを選ぶかと、私が誰を選ぶかは別だ。
分かっている。
それでも、一人になった途端に答えが見つかるほど、恋は簡単ではなかった。
駅前には、家族の迎えを待つ学生や仕事帰りの人たちが集まっていた。ロータリーへ入ってくる車のヘッドライトが濡れてもいない道路を白く照らし、少し離れた店からは揚げ物の匂いが漂ってくる。
いつもなら、ここから春斗と一緒に帰る。
迎えの当番がどちらの家でも、同じ車へ乗る。
それが当たり前だった。
今日は。
一人で帰ると決めた。
春斗は図書委員の仕事へ戻り、私は一人で電車に乗った。
その選択は必要だったと思う。
でも。
改札の外へ出た瞬間、隣に春斗がいないことが、想像していたよりずっと寂しかった。
「真理」
聞き慣れた声がして、私は顔を上げた。
ロータリーの端に停まっている車のそばで、母が手を振っている。
「お母さん」
「今日は一人?」
「うん」
「春斗くんは?」
「委員会」
嘘ではない。
でも、それだけでもない。
母は私の顔を見たあと、何も聞かずに助手席を指した。
「乗りなさい。冷えるよ」
「うん」
車へ乗り込む。
ドアを閉めると、外の音が少し遠くなった。車内には暖房が入っており、張り詰めていた身体から力が抜けていく。
母はすぐに車を出さなかった。
「泣いた?」
「少し」
「電車で?」
「うん」
「誰かに見られた?」
「たぶん大丈夫」
母は小さく息を吐いた。
「一人で帰ってきたのは、自分で決めたの?」
「うん」
「どうして?」
「明日、竹下くんと会うから」
「それで?」
「春斗と一緒にいたら、春斗の方へ行きたくなる」
自分の口で言うと、胸がまた痛んだ。
「昨日、手を繋いだ」
「聞いたね」
「今日も繋ぎたいと思った」
「うん」
「でも明日は、竹下くんが告白するって言ってる」
「うん」
「だから今日は、誰の顔も見ずに考えたかった」
母は前を向いたまま、ゆっくり車を発進させた。
駅前の明かりが後ろへ流れていく。
「考えられた?」
聞かれる。
「少し」
「答えは?」
「まだ」
「そっか」
「怒らないの?」
「何に?」
「まだ決められないこと」
「お母さんが怒って決めることじゃないでしょう」
「でも、二人を傷つけてる」
「そうだね」
否定されない。
胸が重くなる。
「真理は今、二人を好きなんだと思う」
「うん」
「誰かを好きな気持ちは、命令されて一つにできない」
「うん」
「でも、付き合う相手は一人にしないといけない」
「分かってる」
「明日、決められそう?」
私は窓の外を見る。
暗い田畑。
遠くの住宅の明かり。
見慣れた道。
竹下くんの顔が浮かぶ。
次に、春斗の顔が浮かぶ。
「分からない」
「なら、明日すぐ付き合わないという答えもあるよ」
「それじゃ竹下くんをまた待たせる」
「うん」
「春斗も」
「うん」
「それに、もう二人とも限界だと思う」
竹下くんは、もう待てないかもしれないと言った。
春斗も、竹下くんに最後の時間を渡したくないと焦っていた。
私が決められない限り。
二人は傷つき続ける。
「真理」
「何?」
「誰も傷つけない答えは、もうないと思う」
静かな言葉だった。
「誰かを選んだら、もう一人は傷つく」
「うん」
「選ばなくても、二人とも傷つく」
「うん」
「だから、傷つけないためじゃなくて」
母は一度だけ私を見る。
「自分が望む相手を選びなさい」
何度も言われてきた。
誰を失いたくないかではなく。
誰と恋人になりたいのか。
それでも。
私の頭は、すぐに失う怖さへ戻ってしまう。
「怖い」
「うん」
「竹下くんを選んだら、春斗が離れる」
「そうかもしれない」
「春斗を選んだら、竹下くんともう話せないかもしれない」
「そうだね」
「どっちも嫌」
「なら、両方を失うまで迷い続ける?」
胸へ鋭く刺さる。
「……嫌」
「だったら明日、答えが出なくても」
母は続ける。
「どうして出ないのかくらいは、自分の言葉で話しなさい」
「うん」
「竹下くんが怒っても、泣いても、聞く」
「うん」
「真理も泣いていい」
「うん」
「でも、嘘だけはつかない」
「分かった」
車が家の前へ着く。
エンジンが止まる。
母はすぐに降りず、ハンドルへ手を置いたまま私を見る。
「ところで」
「何?」
「午後九時に春斗くんから連絡が来るんでしょう?」
驚いて顔を上げた。
「何で知ってるの?」
「車に乗ってから時計を何回見たと思ってるの」
「見てた?」
「五回くらい」
まだ午後七時前。
九時までは二時間以上ある。
「春斗と話したら、また春斗の方へ傾くかな」
「傾くかもしれないね」
「じゃあ、連絡しない方がいい?」
「それをお母さんに決めてもらうの?」
「……決めない」
「春斗くんの声を聞きたい?」
聞かれ。
私はすぐに答えた。
「聞きたい」
「なら聞けばいい」
「でも」
「一人で考えるって、誰とも二度と話さないことじゃないよ」
母は少しだけ笑った。
「考えたあとで、誰の声を聞きたいと思ったかも、真理の気持ちでしょう」
胸が強く鳴った。
今。
春斗の声を聞きたい。
竹下くんから連絡が来れば、それも嬉しい。
でも。
午後九時を待っている自分がいる。
その事実から。
逃げてはいけないのだと思った。
◇
夕食を終え、入浴を済ませ、自室へ戻ったのは午後八時十二分だった。
机の上へスマートフォンを置く。
鞄から、二冊の本を取り出す。
春斗から渡された『君の隣を選び直す』。
私が春斗へ選んだ『幼馴染を好きになるまで』。
春斗は、もう三分の一を読んだと言っていた。
主人公が鈍い。
私へ半分言っているとも。
私は自分の本を開く。
続きを読もうとする。
けれど、文字が頭へ入らない。
時計を見る。
午後八時十五分。
三分しか経っていない。
スマートフォンへ手を伸ばす。
竹下くんとのトーク画面を開く。
最後のやり取り。
『土曜日』
『うん』
『会う』
『私も会いたい』
『今日、春斗くんと出かけた?』
そのあと。
手を繋いだと伝えた。
竹下くんは、優しくできない、怒ると思うと言った。
私はそれでも行くと答えた。
今日、教室で目が合った。
土曜日の予定を確認した。
私を好きだと、もう一度言うと宣言された。
連絡を送るべきだろうか。
明日よろしく。
逃げない。
それだけでも。
でも。
今送れば、竹下くんは何か返さなければならないと思うかもしれない。
私は画面を閉じた。
次に春斗とのトーク画面。
『九時』
『俺から送る』
『返して』
約束。
午後八時十九分。
まだ四十分以上ある。
「長い」
小さく呟く。
春斗も。
同じように時計を見ているだろうか。
図書委員は終わったはず。
石井さんと一緒だった。
そのことを思うと、胸がざわつく。
今日。
私は一人で帰ると決めた。
その結果、春斗は石井さんと委員会の仕事をした。
当然。
私に止める権利はない。
それでも。
どんな話をしたのか気になる。
石井さんは、春斗へ自分の感情を伝えただろうか。
春斗は、どう答えただろう。
また。
嫉妬。
私は机へ額をつける。
「もう嫌」
二人を好きで。
二人に嫉妬して。
二人から選ばれたいと思っている。
石井さんへ、春斗に近づいてほしくない。
竹下くんが別の女子へ向くのも嫌。
でも。
私はどちらも選べていない。
自分が一番嫌な女に思える。
午後八時二十六分。
本を開く。
今度は無理に読み進めた。
主人公は、憧れていた相手との約束へ向かう途中で、別の人から届いた短いメッセージを何度も見返している。
大丈夫。
ただそれだけ。
でも。
一番苦しいときに欲しかった言葉だった。
私は読む手を止めた。
春斗は。
いつも、私が苦しいときに隣にいた。
それは幼馴染だから。
生活が重なっているから。
でも。
竹下くんも、私が泣いた映画のあと、温かい飲み物を買ってくれた。
迷っている私を責めず、今から自分を見てと言ってくれた。
二人とも。
優しい。
二人とも。
私を好きでいてくれる。
どちらの優しさが上か比べるのではない。
誰の優しさを。
恋人として受け取りたいのか。
午後八時三十四分。
私はノートを開いた。
昨日まで、何度か気持ちを書き出そうとした。
でも、竹下くんの良いところ、春斗の良いところを並べるだけになっていた。
今日は違うことを書く。
『竹下くんと恋人になったら』
その下へ。
思いつく未来を書く。
朝、教室で目が合う。
昼を一緒に食べる。
部活のない日は帰る。
休日にデートする。
サッカーの試合を見に行く。
手を繋ぐ。
彼女として応援する。
竹下くんの家族へ紹介される。
卒業後は。
進路が違うかもしれない。
それでも連絡を取り。
会う時間を作る。
想像すると。
胸が温かくなる。
幸せそう。
竹下くんの隣にいる自分を、嫌だとは思わない。
むしろ。
なりたい。
次に。
『春斗と恋人になったら』
ペンが止まる。
朝。
今まで通り一緒に行く。
でも、隣に座る意味が変わる。
帰り。
同じ電車。
家族同士の食事。
それでも。
恋人として手を繋ぐ。
春斗の家へ行くことも。
春斗が私の部屋へ来ることも。
今までとは違う緊張を持つ。
喧嘩する。
本の感想を話す。
何も話さず隣にいる。
卒業後。
進路が違っても。
朝の習慣がなくなっても。
自分から会いたいと伝える。
春斗が別の人と過ごす時間を、ただの幼馴染として見送らなくていい。
想像した瞬間。
涙が落ちた。
ノートへ小さな染みができる。
「……何で」
春斗と恋人になる未来を考えただけで。
嬉しい。
でも。
同じくらい怖い。
もし付き合って。
別れたら。
幼馴染へ戻れないかもしれない。
家族同士の関係まで気まずくなる。
今までの全部を失うかもしれない。
竹下くんとの恋には。
これから作る未来がある。
春斗との恋には。
今までの時間まで賭ける怖さがある。
だから迷っているのだろうか。
竹下くんの方が好きだからではなく。
春斗を選ぶことが怖いから。
その可能性が。
初めて胸へ浮かんだ。
私はペンを握り直す。
『春斗を選ぶのが怖い理由』
書く。
別れたら全部失う。
家族へ知られる。
今までの関係へ戻れない。
竹下くんを傷つける。
竹下くんへの恋を終わらせる。
次に。
『竹下くんを選ぶのが怖い理由』
春斗が離れる。
毎朝一緒ではなくなる。
帰り道も別になる。
春斗が石井さんや別の誰かと付き合う。
私の知らない春斗が増える。
春斗の一番ではなくなる。
書く手が止まった。
春斗の一番ではなくなる。
それが。
怖い。
竹下くんと恋人になって。
幸せになれたとしても。
春斗が別の女の子を好きになり、その子を一番にする未来が。
どうしても受け入れられない。
竹下くんが私を一番にしてくれるのに。
私は。
春斗にも一番にしてほしいと思っている。
「最低」
自分で呟く。
でも。
これは答えへ近づくために、隠してはいけない気持ちだった。
私はさらに書く。
『誰と恋人になりたいか』
空欄。
まだ書けない。
その下へ。
『誰の恋人になる未来を失う方が怖いか』
書いた瞬間。
ペン先が止まる。
答えが。
胸の奥に浮かびかける。
でも。
怖くて。
文字にできなかった。
◇
午後八時五十七分。
あと三分。
私は机の前へ座ったまま、スマートフォンを見つめていた。
春斗から連絡が来る。
何を話すのだろう。
本の感想。
今日、一人で帰ったこと。
石井さんとの委員会。
明日の竹下くんとのデート。
どれも。
聞きたい。
午後八時五十八分。
画面は変わらない。
春斗は。
九時ちょうどに送るつもりだろうか。
それとも、怒っていて送らないのだろうか。
今日、一人で帰りたいと言った。
春斗はかなり怒っていた。
でも九時に送ると約束した。
春斗は約束を破らない。
分かっている。
それでも不安になる。
午後八時五十九分。
心臓が速い。
まるで告白を待っているようだった。
九時。
スマートフォンが震えた。
『考えた?』
春斗。
たった四文字。
なのに。
画面を見た瞬間。
涙が溢れた。
「……何で」
自分でも分からない。
一人で考えた。
ノートへ書いた。
竹下くんとの未来も。
春斗との未来も。
誰にも頼らず向き合った。
そのあと。
春斗から予定通り連絡が来た。
それだけで。
張り詰めていたものが一気に崩れた。
私はすぐに返事を打てない。
涙で画面が滲む。
一分。
春斗から追加で届く。
『真理?』
さらに。
『返して』
約束。
私は涙を拭いながら打つ。
『考えた』
すぐに既読。
『答え出た?』
指が止まる。
『まだ全部は』
送る。
少し間。
『そっか』
短い返事。
落胆している。
胸が痛む。
『でも』
続ける。
『少し分かった』
『何が』
文字で伝えるのが怖い。
でも。
今。
春斗へ言いたい。
『春斗を選ぶのが怖い』
送信。
既読。
返事が来ない。
一分。
二分。
電話の着信が鳴った。
春斗。
私は驚きながら通話ボタンへ触れる。
「もしもし」
『真理』
春斗の声。
聞いた瞬間。
また涙が溢れた。
「春斗」
『泣いてる?』
「少し」
『何で』
「分からない」
『今から行く』
「駄目」
『何で』
「一人で考えるって決めたから」
『もう九時』
「でも」
『声だけでいい?』
「うん」
春斗の呼吸が聞こえる。
電話越し。
すぐ近くにはいない。
それでも。
声を聞くだけで安心した。
『俺を選ぶのが怖いって』
「うん」
『俺が嫌だから?』
「違う」
『恋人になりたくない?』
「なりたい」
口から出た。
春斗が黙る。
私も。
自分の言葉に息を止める。
「春斗と恋人になりたいって、思ってる」
『真理』
「でも怖い」
『何が』
「別れたら」
声が震える。
「全部なくなるかもしれない」
『全部?』
「幼馴染でもいられなくなる」
『うん』
「家族も気まずくなる」
『うん』
「今までの時間まで、嫌なものになるかもしれない」
『うん』
「それが怖い」
春斗はすぐに答えなかった。
私は泣きながら続ける。
「竹下くんとは、これから作る恋だから」
『うん』
「怖くないわけじゃないけど、春斗ほどじゃない」
『うん』
「春斗を選ぶって、今までの全部を変えることでしょう」
『そうかも』
「だから」
息を吸う。
「好きじゃないから迷ってるんじゃないかもしれない」
電話の向こうで、春斗が息を止めたように感じた。
『もう一回言って』
「嫌」
『真理』
「恥ずかしい」
『俺、今かなり大事なこと聞いた』
「うん」
『好きじゃないから迷ってるんじゃない?』
春斗が確認する。
「うん」
『俺を好きかもしれないから怖い?』
胸が強く鳴る。
「……うん」
認めた。
電話越し。
顔は見えない。
それでも。
今までで一番はっきり。
春斗への恋へ近づいた。
『真理』
「何」
『明日、竹下と会うなって言いたい』
「うん」
『俺を選べって、今すぐ言いたい』
「うん」
『でも』
春斗の声が少し震える。
『竹下に会って』
意外な言葉だった。
「いいの?」
『よくない』
「うん」
『かなり嫌』
「うん」
『でも、竹下を見ないで俺を選んだら』
少し間が空く。
『真理はあとで後悔する』
胸へ落ちる。
「春斗」
『何』
「優しい」
『違う』
「じゃあ何?」
『真理に、ちゃんと俺を選んでほしい』
声が強くなる。
『竹下に会えなかったからじゃなく』
「うん」
『俺との今までを失うのが怖いからでもなく』
「うん」
『俺と恋人になりたいから選んでほしい』
涙がまた落ちる。
「うん」
『だから明日』
「うん」
『竹下のこと、ちゃんと見て』
「うん」
『好きだった気持ちも、今好きな気持ちも、全部持って話して』
「うん」
『そのあと』
春斗が一度、息を吸う。
『俺のところへ来て』
胸が止まりそうになった。
「春斗」
『来てほしい』
以前の春斗なら。
待っているとしか言わなかった。
今は。
望みを隠さない。
『竹下を選ばなかったら』
「うん」
『その足で俺に会いに来て』
「どこへ?」
『岩瀬駅』
「何時になるか分からない」
『待つ』
「ずっと?」
『来るまで』
「行かなかったら?」
聞く。
残酷な質問。
春斗は少し黙った。
『そのときは』
声が弱くなる。
『真理が竹下を選んだと思う』
胸が痛む。
「春斗」
『何』
「怖い?」
『怖い』
即答だった。
『明日、真理が来なかったらって考えると、今から無理』
「うん」
『でも待つ』
「うん」
『最後に一回だけ』
春斗は続ける。
『俺を選ばれに行かせて』
声が震えている。
春斗も。
余裕などない。
私を竹下くんへ送り出すことが、大人だからできるわけではない。
怖くて。
嫌で。
取られたくない。
それでも。
私が後悔しないように、竹下くんへ会えと言ってくれている。
「分かった」
私は答えた。
「明日」
『うん』
「竹下くんとちゃんと話す」
『うん』
「逃げない」
『うん』
「そのあと」
喉が詰まる。
「春斗へ会いたいと思ったら」
『うん』
「岩瀬駅へ行く」
春斗はしばらく何も言わなかった。
『会いたいと思わなかったら?』
苦しい問い。
「行かない」
嘘はつかない。
『分かった』
「春斗」
『何』
「怒った?」
『かなり』
「うん」
『今すぐ会いに行きたい』
「うん」
『真理を抱き締めて、竹下に行くなって言いたい』
心臓が大きく鳴る。
春斗の口から。
抱き締めたい。
初めて聞いた。
「春斗」
『何』
「今の、ずるい」
『何が』
「明日の前に言わないで」
『本音』
「抱き締めたいの?」
『うん』
迷わない。
『手繋いだら、次はもっと近づきたくなった』
「うん」
『真理が泣いてるなら、余計に』
「うん」
『でも今日は行かない』
「ありがとう」
『明日』
春斗の声が少し低くなる。
『俺のところへ来たら』
「うん」
『抱き締めてもいい?』
胸が熱くなる。
答えは。
今決めることではないと思った。
それでも。
想像した。
竹下くんとのデートを終え。
岩瀬駅へ戻り。
春斗が待っている。
その春斗へ近づき。
抱き締められる。
嫌ではない。
むしろ。
その場所へ行きたいと。
少し思ってしまった。
「そのとき聞いて」
私は答えた。
『また?』
「ちゃんと答える」
『逃げない?』
「逃げない」
『分かった』
春斗の声が少しだけ柔らかくなる。
「春斗」
『何』
「本、まだ半分」
『今日中に読まなくていい』
「春斗は?」
『最後まで読む』
「寝不足になるよ」
『明日待つから』
「昼まで寝れば?」
『無理』
「どうして?」
『真理が竹下に会う時間、寝てられない』
春斗らしくない。
でも。
それほど怖いのだ。
「私も怖い」
『うん』
「竹下くんを傷つけるのも」
『うん』
「春斗のところへ行かないかもしれないことも」
自分で言うと、胸が痛む。
『うん』
「でも」
私はノートを見る。
書けなかった答え。
『誰の恋人になる未来を失う方が怖いか』
「少しだけ」
『何』
「答えに近づいた」
春斗は聞き返さなかった。
無理に答えを取ろうとしない。
『そっか』
「うん」
『明日、待ってる』
「うん」
『真理』
「何?」
『好き』
電話越しの告白。
何度も言われている。
それでも。
今夜の言葉は、今までより深く胸へ入った。
「うん」
『返さない?』
以前なら。
言えなかった。
今も。
竹下くんへ会う前。
簡単には返したくない。
でも。
「春斗を好きかもしれない」
私は言った。
『かもしれない?』
「今はそこまで」
『十分』
「本当に?」
『今日の俺には』
春斗が少し笑ったように聞こえた。
『かなり大きい』
「うん」
『おやすみ』
「まだ寝ない」
『本読む?』
「うん」
『泣きすぎるなよ』
「春斗のせい」
『知ってる』
「おやすみ」
『おやすみ』
電話が切れる。
画面が暗くなる。
部屋へ静けさが戻る。
私はスマートフォンを胸へ抱えたまま、しばらく動けなかった。
一人で考えた。
誰にも頼らず。
そのはずだった。
でも。
春斗の声を聞いた瞬間、泣いた。
会いたいと思った。
抱き締めたいと言われ、嫌ではなかった。
明日。
竹下くんへ会う。
私を最初に恋へ連れ出してくれた人。
手を繋ぎ。
好きだと言い合った人。
私の答えを待っている人。
その竹下くんと。
最後まで向き合う。
そして。
デートのあと。
岩瀬駅には春斗が待っている。
私が来るかも分からないのに。
来るまで待つと言っている。
私はノートを開く。
『誰の恋人になる未来を失う方が怖いか』
その下へ。
震える手で。
まだ名前ではなく。
一つの文章を書いた。
『いなくなるのが怖いだけではなく、その人と恋人になれない未来が怖い相手』
ペンを置く。
胸の中には。
すでに一人の顔が浮かんでいた。
けれど。
まだ名前は書かなかった。
明日。
竹下くんの目を見て。
好きだった時間を。
今も好きな気持ちを。
全部受け止めてから。
私は初めて。
自分が本当に望んでいる人の名前を。
書くのだと思った。




