第28話 幼馴染と手を繋いだ翌日、好きな人は笑わずに私を待っていました
金曜日の朝、午前五時三十四分。
目を覚ました私は、布団の中で右手をゆっくり握った。
昨日。
春斗と手を繋いだ。
一度だけではない。
古本屋からの帰り道。人通りの少ない川沿いで、春斗に「手を繋ぎたいか」と聞かれ、私は自分の意思で「繋ぎたい」と答えた。
指先が触れ、手のひらが重なり、春斗の指が私の手を包んだ。
最初は、離れようと思えばいつでも離れられるほど弱かった。
それでも私が、もう少し強く握っていいと伝えると、春斗は本当に少しだけ力を込めた。
その感触が。
一晩眠っても、まだ右手へ残っているような気がした。
「……覚えてる」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
春斗と手を繋げて嬉しかった。
その気持ちは、昨日から変わっていない。
竹下くんへ伝えたあとも。
『土曜日、会うけど、俺たぶん優しくできない』
『怒ると思う』
その返事を受け取ったあとも。
私は春斗と手を繋いだことを、間違いだったとは思わなかった。
でも。
竹下くんを傷つけた。
それも、間違いなく本当だった。
竹下くんは一昨日、学校を休んだ。
昨日も私からの連絡へ返事をくれたものの、会話は短かった。土曜日の約束は残っている。正式に告白すると言っていた気持ちが、今も同じかは分からない。
会えば。
怒られる。
責められる。
泣かれるかもしれない。
それでも。
私は行く。
逃げないと約束した。
スマートフォンへ手を伸ばす。
通知が二件。
一件は愛ちゃん。
『起きてる? 今日逃げないように』
午前五時二十九分。
早すぎる。
愛ちゃんも、私と同じ始発に近い時間で動いているから起きているのだろう。それでも、朝一番に送る内容としては重い。
もう一件は春斗だった。
『本、三分の一読んだ』
午前五時十二分。
春斗へ渡した。
『幼馴染を好きになるまで』
あの本を。
私は身体を起こし、すぐに返信する。
『早くない?』
既読はすぐについた。
『昨日寝る前に読んだ』
『どうだった?』
『まだ途中』
『途中の感想』
少し間が空く。
『主人公が鈍い』
思わず眉を寄せる。
『私に言ってる?』
『本の話』
『本当に?』
『半分』
「半分なんだ」
声に出してしまう。
『春斗も言わなすぎ』
『だから負けかけた』
『負けてないって昨日言ってた』
『今は』
その短い二文字に、胸が鳴る。
今は。
まだ竹下くんにも可能性がある。
私が誰を選ぶか、明日まで分からない。
春斗はそれを分かっている。
それでも、昨日私が自分の方へ進んだことを喜び、今日も本を読んでくれている。
『私も今日読む』
送る。
『俺が選んだ方?』
『うん』
『感想』
『読み終わってから』
『逃げるなよ』
『逃げない』
昨日から。
何度も交わしている言葉。
逃げない。
竹下くんからも。
春斗からも。
愛ちゃんからも言われた。
そして一番。
自分自身へ言い聞かせなければならない言葉だった。
◇
午前六時前。
玄関を出ると、空はまだ薄暗かった。
東の端だけが淡く明るみ始め、住宅街には新聞配達のバイクの音が響いている。昨日より空気は冷たく、息を吐くと少しだけ白く見える気がした。
今日は春斗の家の送迎当番。
数分待つと、見慣れた車が角を曲がってきた。
後部座席のドアを開ける。
春斗は窓側へ座り、昨日交換した本を読んでいた。
「おはよう」
「はよ」
「車でも読むの?」
「続き気になるから」
「酔うよ」
「大丈夫」
「主人公が鈍いから?」
「かなり」
春斗は本へ栞を挟み、閉じた。
表紙が見える。
自分で選んだ本なのに。
春斗が持っているだけで、急に恥ずかしくなる。
「隠して」
「何で」
「題名」
「真理が選んだ」
「分かってるけど」
「母さんにも見られた」
「えっ」
運転席にいる春斗のお母さんが、バックミラー越しに笑った。
「おはよう、真理ちゃん」
「お、おはようございます」
「春ちゃんが恋愛小説を読んでるから、珍しいなと思って」
「母さん」
「しかも幼馴染もの」
「前見て」
「見てるわよ」
春斗のお母さんの口元は、完全に笑っている。
「真理ちゃんが選んだの?」
「えっと……はい」
「へえ」
何かを察したような声。
顔が熱くなる。
「おばさん」
「何?」
「深い意味は」
「ある」
春斗が横から割って入った。
「春斗!」
「選ばれに来てるから」
「親の前で言わないで!」
思わず大きな声を出す。
春斗のお母さんが楽しそうに笑った。
「朝から元気でいいわね」
「よくないです」
「春ちゃん、ずいぶん変わったでしょう」
「……変わりました」
「前は真理ちゃんの話をしても、すぐ自分の部屋へ逃げてたのに」
「母さん」
「小学生の頃なんて、真理ちゃんがほかの男の子と遊んだだけで不機嫌になってたのよ」
「やめろ」
「本当ですか?」
「聞くな」
春斗の耳が赤い。
今までは。
春斗の過去の感情を聞いても、幼馴染としての独占欲だと思っていたかもしれない。
今日は違う。
昔から。
春斗は私がほかの男の子といると嫌だった。
その意味が。
今になって、恋の形へ変わって見える。
「誰と遊んだとき?」
私は聞いた。
「覚えてない」
春斗が即答する。
「おばさん」
「田村くんだったかな。子ども会で一緒だった」
「母さん」
「帰ってからずっと不機嫌でね。真理ちゃんが庭へ来たら、急に機嫌直して」
「今すぐ車止めて」
「駅まで歩く?」
「……いい」
春斗が窓の外へ顔を向ける。
私は笑いそうになる。
「何」
「可愛い」
「朝から言うな」
「春斗が昔から分かりやすかったって」
「真理が鈍かっただけ」
また。
春斗が読んでいる本の主人公と同じだと言われたような気がした。
「私、そんなに鈍い?」
「かなり」
「でも春斗も言わなかった」
「言えるわけないだろ」
「どうして?」
「真理が俺を男だと思ってなかったから」
車内の空気が少し変わる。
春斗のお母さんは、今度は何も言わなかった。
私は春斗を見る。
「今は?」
聞く。
春斗もこちらを見る。
「昨日、手繋いだ」
小さな声。
それでも運転席には届いたらしい。
「あら」
春斗のお母さんの声。
「母さん!」
「聞こえたもの」
「忘れて」
「無理ね」
私は恥ずかしさで顔を覆った。
それでも。
昨日のことを春斗が言葉へしたのが、少し嬉しかった。
◇
岩瀬駅のホーム。
私と春斗は、いつものベンチへ並んで座った。
朝の電車を待つ人たちは多いものの、まだ誰も大声では話していない。缶コーヒーを持った会社員が時刻表を見上げ、少し離れた場所では中学生らしい三人が眠そうに肩を寄せている。
春斗は本を鞄へしまった。
「続き読まないの?」
「真理いるから」
「私が邪魔?」
「今は話したい」
胸が少し高鳴る。
「何を?」
「昨日の手」
すぐに言われ、顔が熱くなる。
「朝から?」
「昨日の夜、話してない」
「メッセージしたじゃん」
「本の話だけ」
「それでいいよ」
「よくない」
春斗は右手を膝の上へ置く。
「真理」
「何?」
「後悔してない?」
「してない」
「竹下に言ったあとも?」
「うん」
「今日、学校で会っても?」
胸が少し痛む。
竹下くん。
今日は来るだろうか。
昨日休んだ。
今日まで休むかもしれない。
もし来たら。
私はどんな顔をすればいいのだろう。
「分からない」
正直に答える。
「後悔する?」
「昨日のこと自体はしない」
「うん」
「でも竹下くんの顔見たら、苦しくなると思う」
「うん」
「春斗に悪い?」
「少し」
「ごめん」
「でも、それでいい」
春斗は正面を見る。
「竹下を好きなのは本当だから」
「うん」
「一日で消えたら、それも嫌」
「どうして?」
「真理が俺を選んでも、竹下との恋が全部嘘だったみたいになる」
意外だった。
春斗なら。
竹下くんへの気持ちが早く消えた方が嬉しいと思っていた。
「春斗、竹下くん嫌いじゃないの?」
「好きではない」
「だよね」
「でも」
春斗は少しだけ眉を寄せる。
「真理が本気で好きだったことは知ってる」
「うん」
「それを、俺のために最初から間違いだったことにされたら」
声が少し低くなる。
「俺を選んだ理由まで軽くなる気がする」
胸へ落ちる。
竹下くんへの恋は本物。
春斗への気持ちも本物。
どちらかを選ぶとき。
選ばなかった恋まで嘘にする必要はない。
「春斗」
「何」
「大人みたい」
「違う」
「今のは大人だった」
「竹下がどうでもいいなら、大人かも」
「違うの?」
「かなり嫌」
春斗は正直に続ける。
「真理が竹下見て赤くなるのも、明日会うのも、全部嫌」
「うん」
「でも、嫌だからって本物じゃなかったことにできない」
その未熟さと理性が混ざった答えが。
春斗らしいと思った。
「ありがとう」
「何が」
「私の恋を否定しないでくれて」
「その代わり」
「何?」
「俺への気持ちも否定するな」
「うん」
「昨日、俺と手繋ぎたいって言った」
「うん」
「今日、竹下に会って苦しくなっても、そこは変えるな」
「分かった」
ホームへ電車の到着を知らせる放送が流れる。
春斗が立ち上がる。
私も立つ。
電車が遠くから近づき、線路の音が大きくなる。
「春斗」
「何?」
「昨日、もう一回繋いだとき」
「うん」
「最初より嬉しかった」
言ってから恥ずかしくなり、私は先に乗車位置へ向かった。
後ろから。
「真理」
春斗が呼ぶ。
振り返る。
春斗の耳は赤かった。
「俺も」
短い言葉。
でも。
その一言だけで。
朝の冷たい空気が少し温かくなった気がした。
◇
水橋高校へ着くまで。
竹下くんから連絡はなかった。
水戸駅から学校へ向かう道では、春斗と並んで歩いた。
視線は昨日ほどではない。
噂が消えたわけではない。ただ、目新しさが少し薄れたのか、露骨にこちらを見る生徒は減っている。
校門の近く。
サッカー部の男子たちが数人、前を歩いていた。
その中に。
竹下くんがいた。
胸が強く鳴る。
昨日休んだ竹下くん。
今日は制服姿で、サッカー部の鞄を肩へ掛けている。小野寺くんが隣で何かを話しているが、竹下くんはほとんど返事をしていないようだった。
「竹下」
春斗も気づく。
「うん」
「行く?」
聞かれる。
私は一瞬迷う。
竹下くんは一人にしてほしいと言った。
昨日のメッセージでは、土曜日に会うとだけ言った。
今日、学校で話したいとは言っていない。
「今は行かない」
答える。
「いいの?」
「逃げるんじゃなくて、向こうの時間を待つ」
「うん」
それでも。
竹下くんの背中から目を離せない。
小野寺くんが振り返る。
私たちへ気づく。
竹下くんへ何かを伝えた。
竹下くんが、ゆっくり振り返った。
目が合う。
一瞬。
竹下くんの視線が、私の隣にいる春斗へ移る。
表情が硬くなる。
昨日。
私と春斗が出かけたこと。
手を繋いだこと。
竹下くんは知っている。
私は足を止めなかった。
春斗の隣から離れなかった。
竹下くんも、こちらへ来ない。
ただ。
数秒だけ視線が重なり。
竹下くんは前を向いた。
胸が痛い。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「うん」
「追いかける?」
「追いかけたい」
正直に答える。
「でも行かない」
「うん」
「土曜日、話す」
「うん」
「今日は?」
「春斗との時間も大事にする」
朝から。
何度も確認している。
それでも。
今、竹下くんの背中を見たあとで言うのは、簡単ではなかった。
春斗は何も言わず。
少しだけ私へ近づいた。
肩が触れる。
校門の前。
多くの生徒がいる。
手は繋がない。
それでも。
離れないと伝えるには十分だった。
◇
昇降口へ入ると、石井さんが下駄箱の前にいた。
今日は一人。
私と春斗へ気づいたあと、視線が一度だけ二人の距離へ落ちる。
「おはよう」
石井さんが言う。
「おはよう」
私も答える。
春斗は短く「はよ」と返した。
昨日より。
空気は少し落ち着いている。
石井さんが私を見る。
「竹下くん、来たね」
「うん」
「話した?」
「まだ」
「何で?」
「竹下くんが話したいときにする」
石井さんは少しだけ眉を上げた。
「待てるんだ」
「どういう意味?」
「すぐ追いかけると思った」
「昨日までなら追いかけてたかも」
「今日は?」
「自分の不安を軽くするために行くのは違うと思った」
石井さんは黙る。
少しして。
「春斗と手、繋いだって本当?」
胸が鳴る。
「誰から?」
「噂」
「もう広がってるの?」
「川沿いで同じ学校の一年が見たって」
見られていた。
人通りは少ないと思っていた。
それでも完全に誰もいなかったわけではない。
「本当?」
石井さんがもう一度聞く。
春斗が答えようとする。
私は先に口を開いた。
「本当」
石井さんの表情が僅かに歪む。
「竹下くんと喧嘩した翌日?」
「うん」
「それで今日、竹下くん来てるのに春斗と一緒?」
「うん」
「やっぱり」
石井さんの声へ、苛立ちが混ざる。
「何?」
「分からない」
「石井さんも?」
「分からないけど腹立つ」
昨日より正直だった。
「春斗へ?」
「久保さんへ」
「うん」
「でも、昨日みたいに言うつもりはない」
自分へ言い聞かせるような声。
感情が消えたわけではない。
ただ、暴走させないようにしている。
「ありがとう」
私が言うと、石井さんは眉を寄せた。
「お礼言われることじゃない」
「我慢してくれたから」
「我慢じゃなくて、反省しただけ」
「うん」
「でも」
石井さんは春斗を見る。
「本当に手繋いだんだ」
「うん」
春斗は隠さない。
「嬉しかった?」
聞かれ。
「かなり」
即答した。
石井さんの顔が少し曇る。
私の胸にも。
小さな優越感のようなものが生まれた。
春斗が私との手繋ぎを、石井さんの前で嬉しかったと言った。
それが嬉しい。
その感情へ気づき。
私はすぐに自己嫌悪した。
石井さんを傷つけて嬉しいわけではない。
でも。
自分が春斗にとって特別だと示されたことは嬉しい。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「また考えすぎ」
「うん」
石井さんが少しだけ目を細める。
「久保さん」
「何?」
「私に勝ったみたいに思った?」
正面から聞かれた。
誤魔化せない。
「少し」
答える。
石井さんの眉が寄る。
「最低」
言われる。
胸が痛む。
けれど。
石井さんはすぐに続けた。
「私も、春斗と委員会で一緒だって言ったとき、久保さんが嫌そうにしたの嬉しかった」
今度は私が驚く。
「石井さんも?」
「少し」
「じゃあ同じ」
「一緒にしないで」
「でも同じだよ」
「久保さんよりはまし」
「何で?」
「私は竹下くんに好きって言ってない」
また。
刺さる言葉。
でも昨日までより、完全に悪意だけではなかった。
自分も醜い感情を持ったと認めたうえで。
それでも私へ腹を立てている。
「石井」
春斗が止める。
「分かってる」
石井さんは一度息を吐く。
「今の言い方は悪かった」
「うん」
「ごめん」
「受け取る」
「でも嫌い」
「私もまだ苦手」
「知ってる」
石井さんは鞄を持ち直す。
「今日、図書委員あるから」
「うん」
春斗が答える。
「久保さん、嫌?」
「嫌」
私は迷わず言った。
石井さんが少しだけ笑う。
「なら、ちゃんと仕事する」
「わざと近づく?」
「昨日ならしたかも」
「今日は?」
「しない」
石井さんは春斗を見る。
「春斗が私を好きじゃないって言ったから」
少し寂しそうな声。
「でも、だからってすぐ諦められるかは分からない」
「うん」
春斗は曖昧に優しくしない。
でも、石井さんの感情を笑いもしなかった。
「好きか分からないんじゃなかった?」
私が聞く。
「まだ分からない」
「じゃあ何を諦めるの?」
「特別になりたい気持ち」
石井さんは言った。
「恋じゃなくても、春斗にほかの女子とは違うって思われたかった」
胸へ残る。
石井さんの感情は。
恋だけではないのかもしれない。
自分へ興味を持たない春斗に、振り向いてほしかった。
そこへ私が現れ。
春斗が私へだけ、明らかに違う顔を見せた。
それが悔しかった。
「分かる」
私は言った。
「何が?」
「好きか分からなくても、特別でいたい気持ち」
「竹下くんにも春斗にも?」
すぐに返される。
「……うん」
「本当に欲張り」
「分かってる」
石井さんは呆れたように息を吐く。
「でも」
少しだけ声を弱める。
「昨日よりは、何考えてるか分かった」
「私も」
「仲良くはしない」
「うん」
「でも、もうみんなの前では言わない」
「ありがとう」
「だからお礼言わないで」
石井さんはそう言い、階段へ向かった。
その背中を見送る。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「石井と仲良くなりそう」
「ならないよ」
「さっき分かるって」
「少しだけ」
「それで十分」
「春斗は嬉しい?」
「面倒減るなら」
「淡白」
「真理にだけでいい」
不意打ち。
胸が鳴る。
石井さんがまだ階段の途中で振り返った。
「聞こえてる」
春斗は何も言わない。
石井さんは少しだけ顔を歪め、今度こそ階段の上へ消えた。
「春斗」
「何」
「言い方」
「本当」
「石井さん傷つく」
「期待させないでって真理が言った」
「そうだけど」
「なら中途半端にしない」
正しい。
でも。
高校生の感情は。
正しいだけでは収まらない。
石井さんの背中が。
少しだけ寂しそうに見えた。
◇
教室へ入る。
竹下くんは席にいた。
昨日空いていた場所。
今日は、本人が座っている。
胸が締めつけられる。
竹下くんは教科書を開いている。
私が教室へ入ったことには気づいているはずだ。
でも。
顔を上げない。
愛ちゃんが後ろの席から、心配そうにこちらを見る。
私は自分の席へ鞄を置いた。
声をかけるべきか。
待つべきか。
迷う。
そのとき。
「久保さん」
竹下くんが呼んだ。
身体が固まる。
「うん」
「土曜日」
竹下くんは教科書へ視線を落としたまま言う。
「予定通りでいい?」
「うん」
「場所も?」
「水戸芸術館」
「うん」
「時間も?」
「午後一時」
「分かった」
それだけ。
顔は見ない。
「竹下くん」
「今は」
私の言葉を止める。
「普通に話せない」
「うん」
「でも、明日は会う」
「うん」
「逃げないで」
「逃げない」
「春斗くんと手を繋いだこと」
竹下くんの指が、教科書の端を強く掴む。
「明日、直接聞く」
「うん」
「何で繋ぎたかったのかも」
「答える」
「俺が怒っても?」
「うん」
「泣いても?」
胸が痛む。
「うん」
竹下くんがようやく顔を上げる。
目の下に、少し疲れが残っている。
「俺、明日」
声が僅かに震える。
「格好悪いと思う」
「うん」
「優しくできないって言った」
「うん」
「それでも」
竹下くんはまっすぐ私を見る。
「好きって言う」
胸が大きく鳴る。
「うん」
「ちゃんと聞いて」
「聞く」
「そのあと」
一度、息を吸う。
「俺を選んでほしいって言う」
「うん」
「今すぐ返事じゃなくてもいいって、前は言ったけど」
竹下くんの表情が苦しそうに歪む。
「明日は、待てないって言うかもしれない」
「分かった」
「嫌?」
「怖い」
「俺も」
竹下くんは少しだけ目を伏せた。
「でも、会いたい」
「私も」
答えると。
竹下くんの目が揺れた。
「春斗くんと手繋いでも?」
「うん」
「まだ俺に会いたい?」
「うん」
「何で」
「竹下くんが好きだから」
教室の周囲には生徒がいる。
昨日までなら、恥ずかしさを先に考えた。
今日は。
竹下くんへ伝えなければならないと思った。
「好きなのに、春斗くんとも手繋ぐ?」
「うん」
痛い質問。
「分からない」
竹下くんは小さく言う。
「俺には分からない」
「うん」
「明日、教えて」
「うん」
「俺が納得できるかは分からないけど」
「逃げずに話す」
竹下くんは少しだけ頷く。
それから再び教科書へ視線を戻した。
会話は終わった。
でも。
昨日のように。
竹下くんが教室からいなくなることはなかった。
◇
ホームルームが始まる前。
愛ちゃんが私の机へ身を寄せた。
「話したね」
「うん」
「明日、かなり重くなる」
「分かってる」
「春くんとは?」
「今日も帰る」
「手は?」
「分からない」
「繋ぎたい?」
聞かれ。
昨日の手の感触を思い出す。
「繋ぎたい」
答える。
愛ちゃんは苦しそうな顔をした。
「真理」
「何?」
「本当に、今日中に少し整理した方がいい」
「うん」
「明日竹下くんへ告白されて、その場で春くんとも手を繋ぎたいって気持ちのままだと」
「うん」
「どんな答えを出しても、真理自身が後悔するかもしれない」
「どうすればいい?」
「今日、二人と何か新しく進めるより」
愛ちゃんは少し考える。
「一人で考える時間を作ったら?」
今まで。
誰かと話していた。
春斗。
竹下くん。
愛ちゃん。
母。
誰かの反応を見ながら、自分の気持ちを確かめてきた。
でも。
最後に選ぶのは私。
「今日の帰り」
私は呟く。
「春斗に、一人で帰るって言う?」
「春くん怒ると思う」
「うん」
「でも、自分で決めたなら」
愛ちゃんは静かに続ける。
「それも必要かもしれない」
私は斜め前の竹下くんを見る。
そして。
別校舎にいる春斗を思う。
どちらとも会いたい。
どちらにも近づきたい。
だからこそ。
一人になるのが怖い。
その怖さこそ。
今の私に必要なものかもしれなかった。
◇
昼休み。
竹下くんは、小野寺くんたちと食堂へ行った。
私を誘わない。
私も追いかけなかった。
愛ちゃんと二人で弁当を食べる。
周囲の噂は、少しずつ別の話題へ移り始めている。それでも、私が竹下くんと一緒に食べていないことへ気づき、こちらを見る生徒はいた。
「卵焼き」
愛ちゃんが私の弁当箱を見る。
「今日は交換しないね」
「うん」
「寂しい?」
「寂しい」
「春くんと手繋いだこと、嬉しい?」
「嬉しい」
「同時にある?」
「うん」
私は卵焼きを箸で半分に切る。
「どっちが強いか分からない」
「うん」
「でも」
昨日。
竹下くんから返事が来たとき。
すぐに安心した。
春斗と手を繋いでいる最中でも。
竹下くんの言葉を待っていた。
そして春斗と手を繋いだとき。
竹下くんへ悪いと分かっても、もう一度繋ぎたいと答えた。
「二人とも違うところにいる」
「うん」
「竹下くんは、恋してるって一番分かりやすい」
「うん」
「春斗は」
言葉を探す。
「失いたくないだけじゃなくなった」
「うん」
「触れたいし、触れてほしい」
「うん」
「もっと知りたい」
「うん」
「それって恋?」
愛ちゃんはすぐに答えなかった。
「恋だと思う」
やがて静かに言う。
胸が苦しくなる。
「じゃあ本当に二人を好き?」
「たぶん」
「どうやって選ぶの」
「私には選べないよ」
「うん」
「真理が、どちらとの未来を望むか」
「未来」
「付き合ったあとのこと」
竹下くんと付き合う。
一緒に昼を食べる。
部活がない日は帰る。
休日にデートをする。
手を繋ぐ。
恋人らしい時間を積み重ねる。
春斗と付き合う。
朝も帰りも。
家族ぐるみの時間も。
今までの安心へ、恋人としての近さが加わる。
でも。
どちらかを選べば。
もう一方とは、今のようにはいられない。
「一人で考える」
私は言った。
「今日、帰り」
「春くんへ言う?」
「うん」
「逃げずに?」
「うん」
愛ちゃんは頷いた。
◇
放課後。
終礼が終わる。
竹下くんはサッカー部のバッグを持ち、立ち上がった。
私の席の横を通る。
一瞬だけ足を止める。
「明日」
「うん」
「十二時五十分には行く」
「私も早く着くと思う」
「早すぎないで」
少しだけ。
以前のような会話。
「竹下くんも」
「無理かも」
「私も」
竹下くんの口元が僅かに動く。
笑いそうになり。
でも、完全には笑わなかった。
「また明日」
「うん」
竹下くんは教室を出る。
小野寺くんが私へ小さく頭を下げ、そのあとを追った。
私は鞄を持つ。
愛ちゃんが隣へ来る。
「行ける?」
「うん」
「春くん、たぶんかなり嫌がる」
「分かってる」
「でも、真理が一人で考えたいなら」
「言う」
教室を出る。
廊下。
階段。
昇降口。
春斗は、昨日と同じ外の階段下で待っていた。
手には。
私が選んだ恋愛小説。
読んでいる。
胸が痛む。
春斗は私へ気づくと、本を閉じた。
「遅い」
「三分」
「三分は三分」
「春斗」
いつもの会話へ逃げそうになる。
でも。
今日言うと決めた。
「何?」
「今日は」
言葉が喉へ引っかかる。
「一人で帰りたい」
春斗の表情が止まった。
「何で」
「考えたいから」
「俺とじゃ駄目?」
「春斗といると」
正直に言う。
「春斗の方へ行きたくなる」
春斗の目が揺れる。
「なら来ればいい」
「でも竹下くんと会う前に、春斗の気持ちだけで決めたくない」
「うん」
「竹下くんと話す前に、春斗とまた手繋いだら」
「嫌?」
「繋ぎたい」
「じゃあ」
「だから一人になりたい」
春斗は黙る。
階段を下りてくる生徒たちが、私たちの横を通り過ぎていく。
「真理」
「何?」
「俺、嫌」
「うん」
「今日も一緒に帰りたい」
「うん」
「本も途中まで読んだ」
「うん」
「感想も話したい」
「うん」
「手も」
春斗の右手が少し動く。
「繋ぎたい」
胸が苦しい。
「私も」
「なら何で」
「明日、誰を選ぶか考えるため」
はっきり言う。
「今日一人になれないなら、私はまた誰かの顔を見て答えを決めようとする」
春斗の眉が寄る。
「俺の顔で決めればいい」
「春斗」
「選ばれに来てる」
「うん」
「一人で考えた結果、竹下を選ばれるの嫌」
感情が露わになる。
春斗も。
冷静ではない。
「だから一緒に帰りたい」
「うん」
「俺を見てほしい」
「うん」
「でも」
私は春斗を見る。
「今日は一人で帰る」
言い切る。
春斗の表情が傷ついたように歪む。
「決めた?」
「うん」
「俺が嫌でも?」
「うん」
「竹下に頼まれた?」
「違う」
「愛に言われた?」
「きっかけは愛ちゃん。でも決めたのは私」
春斗は本を持つ手へ力を込める。
「分かった」
声が冷たい。
「怒ってる?」
「かなり」
「うん」
「でも止めない」
「ありがとう」
「感謝するな」
春斗は顔を逸らす。
「今日、連絡していい?」
「夜まではしないで」
「何時」
「九時」
「長い」
「ごめん」
「謝るな」
苛立ちが声へ混じる。
「真理」
「何?」
「明日」
「うん」
「竹下を選んだら」
言葉が止まる。
春斗は唇を結び。
「俺と手繋いだこと、後悔する?」
「しない」
すぐに答えた。
「本当に?」
「うん」
「俺を選ばなくても?」
「うん」
「何で」
「春斗と繋ぎたかった気持ちは本物だから」
春斗の目が揺れる。
「なら」
声が少し弱くなる。
「一人で考えても、そこ忘れるな」
「忘れない」
「俺が好きだって言ったことも」
「うん」
「本を読んでることも」
「うん」
「真理と恋人になりたいことも」
「忘れない」
春斗は小さく息を吐いた。
「九時」
「うん」
「俺から送る」
「分かった」
「返して」
「返す」
それだけ決め。
春斗は先に歩き出した。
校門ではなく。
商業科の校舎へ戻る方向。
「春斗」
呼ぶ。
振り返らない。
「何」
「帰らないの?」
「図書委員」
石井さんと一緒。
胸がざわつく。
「石井さんと?」
「うん」
「嫌」
反射的に言った。
春斗が振り返る。
「真理、一人で帰るんだろ」
「うん」
「俺が委員会行くのは嫌?」
「うん」
「勝手」
「分かってる」
「なら持って」
春斗は私が以前言われた言葉を返す。
「俺が石井と仕事することも」
「うん」
「それが嫌でも、一人で考えるって決めたことも」
「うん」
「全部、真理が選んだ」
胸へ刺さる。
「分かった」
私は頷く。
「行ってらっしゃい」
「うん」
春斗は今度こそ歩き出す。
その背中が。
商業科の校舎へ消えていくまで。
私は見ていた。
◇
愛ちゃんとも駅で別れた。
今日は。
本当に一人。
水戸駅のホーム。
電車。
岩瀬駅。
いつも隣に春斗がいた帰り道を、一人で進む。
空いた隣の座席。
会話のない時間。
スマートフォンへ手を伸ばしたくなる。
春斗へ。
竹下くんへ。
愛ちゃんへ。
誰かへ話したい。
でも。
午後九時までは。
自分だけで考える。
鞄から、春斗にもらった本を取り出す。
『君の隣を選び直す』
表紙を開く。
物語の主人公は。
長く憧れていた相手へ恋をしている。
けれど。
自分が苦しいとき。
嬉しいとき。
最初に会いたいと思う相手は別にいる。
ページをめくる。
胸が痛む。
竹下くんを思う。
最初に見たときの憧れ。
笑顔。
映画。
手を繋いだ偕楽園。
彼女になってほしいと言われた瞬間。
竹下くんと恋人になりたい。
今もそう思う。
次に。
春斗を思う。
朝の車。
毎日の電車。
嫌と言った声。
期待すると言った顔。
公園。
古い手紙。
古本屋。
繋いだ手。
春斗と恋人になりたい。
それも本当。
では。
誰の隣を。
私は選びたいのか。
本の文字が、少し滲む。
泣いていることに気づき。
慌てて目元を拭う。
どちらかを選べば。
もう一方を失うかもしれない。
その怖さではなく。
誰と恋人になりたいのか。
答えを探す。
電車が進む。
窓の外へ、夕方の街が流れる。
今日は。
誰の顔も見ず。
誰の言葉にも頼らず。
私は初めて。
自分の恋と。
一人で向き合っていた。




