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『好きな人がいるので、幼馴染に恋愛相談していたら、なんだか様子がおかしくなりました』   作者: 伊佐波瑞樹


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28/52

第28話 幼馴染と手を繋いだ翌日、好きな人は笑わずに私を待っていました


 金曜日の朝、午前五時三十四分。


 目を覚ました私は、布団の中で右手をゆっくり握った。


 昨日。


 春斗と手を繋いだ。


 一度だけではない。


 古本屋からの帰り道。人通りの少ない川沿いで、春斗に「手を繋ぎたいか」と聞かれ、私は自分の意思で「繋ぎたい」と答えた。


 指先が触れ、手のひらが重なり、春斗の指が私の手を包んだ。


 最初は、離れようと思えばいつでも離れられるほど弱かった。


 それでも私が、もう少し強く握っていいと伝えると、春斗は本当に少しだけ力を込めた。


 その感触が。


 一晩眠っても、まだ右手へ残っているような気がした。


「……覚えてる」


 誰もいない部屋で、小さく呟く。


 春斗と手を繋げて嬉しかった。


 その気持ちは、昨日から変わっていない。


 竹下くんへ伝えたあとも。


『土曜日、会うけど、俺たぶん優しくできない』


『怒ると思う』


 その返事を受け取ったあとも。


 私は春斗と手を繋いだことを、間違いだったとは思わなかった。


 でも。


 竹下くんを傷つけた。


 それも、間違いなく本当だった。


 竹下くんは一昨日、学校を休んだ。


 昨日も私からの連絡へ返事をくれたものの、会話は短かった。土曜日の約束は残っている。正式に告白すると言っていた気持ちが、今も同じかは分からない。


 会えば。


 怒られる。


 責められる。


 泣かれるかもしれない。


 それでも。


 私は行く。


 逃げないと約束した。


 スマートフォンへ手を伸ばす。


 通知が二件。


 一件は愛ちゃん。


『起きてる? 今日逃げないように』


 午前五時二十九分。


 早すぎる。


 愛ちゃんも、私と同じ始発に近い時間で動いているから起きているのだろう。それでも、朝一番に送る内容としては重い。


 もう一件は春斗だった。


『本、三分の一読んだ』


 午前五時十二分。


 春斗へ渡した。


『幼馴染を好きになるまで』


 あの本を。


 私は身体を起こし、すぐに返信する。


『早くない?』


 既読はすぐについた。


『昨日寝る前に読んだ』


『どうだった?』


『まだ途中』


『途中の感想』


 少し間が空く。


『主人公が鈍い』


 思わず眉を寄せる。


『私に言ってる?』


『本の話』


『本当に?』


『半分』


「半分なんだ」


 声に出してしまう。


『春斗も言わなすぎ』


『だから負けかけた』


『負けてないって昨日言ってた』


『今は』


 その短い二文字に、胸が鳴る。


 今は。


 まだ竹下くんにも可能性がある。


 私が誰を選ぶか、明日まで分からない。


 春斗はそれを分かっている。


 それでも、昨日私が自分の方へ進んだことを喜び、今日も本を読んでくれている。


『私も今日読む』


 送る。


『俺が選んだ方?』


『うん』


『感想』


『読み終わってから』


『逃げるなよ』


『逃げない』


 昨日から。


 何度も交わしている言葉。


 逃げない。


 竹下くんからも。


 春斗からも。


 愛ちゃんからも言われた。


 そして一番。


 自分自身へ言い聞かせなければならない言葉だった。


     ◇


 午前六時前。


 玄関を出ると、空はまだ薄暗かった。


 東の端だけが淡く明るみ始め、住宅街には新聞配達のバイクの音が響いている。昨日より空気は冷たく、息を吐くと少しだけ白く見える気がした。


 今日は春斗の家の送迎当番。


 数分待つと、見慣れた車が角を曲がってきた。


 後部座席のドアを開ける。


 春斗は窓側へ座り、昨日交換した本を読んでいた。


「おはよう」


「はよ」


「車でも読むの?」


「続き気になるから」


「酔うよ」


「大丈夫」


「主人公が鈍いから?」


「かなり」


 春斗は本へ栞を挟み、閉じた。


 表紙が見える。


 自分で選んだ本なのに。


 春斗が持っているだけで、急に恥ずかしくなる。


「隠して」


「何で」


「題名」


「真理が選んだ」


「分かってるけど」


「母さんにも見られた」


「えっ」


 運転席にいる春斗のお母さんが、バックミラー越しに笑った。


「おはよう、真理ちゃん」


「お、おはようございます」


「春ちゃんが恋愛小説を読んでるから、珍しいなと思って」


「母さん」


「しかも幼馴染もの」


「前見て」


「見てるわよ」


 春斗のお母さんの口元は、完全に笑っている。


「真理ちゃんが選んだの?」


「えっと……はい」


「へえ」


 何かを察したような声。


 顔が熱くなる。


「おばさん」


「何?」


「深い意味は」


「ある」


 春斗が横から割って入った。


「春斗!」


「選ばれに来てるから」


「親の前で言わないで!」


 思わず大きな声を出す。


 春斗のお母さんが楽しそうに笑った。


「朝から元気でいいわね」


「よくないです」


「春ちゃん、ずいぶん変わったでしょう」


「……変わりました」


「前は真理ちゃんの話をしても、すぐ自分の部屋へ逃げてたのに」


「母さん」


「小学生の頃なんて、真理ちゃんがほかの男の子と遊んだだけで不機嫌になってたのよ」


「やめろ」


「本当ですか?」


「聞くな」


 春斗の耳が赤い。


 今までは。


 春斗の過去の感情を聞いても、幼馴染としての独占欲だと思っていたかもしれない。


 今日は違う。


 昔から。


 春斗は私がほかの男の子といると嫌だった。


 その意味が。


 今になって、恋の形へ変わって見える。


「誰と遊んだとき?」


 私は聞いた。


「覚えてない」


 春斗が即答する。


「おばさん」


「田村くんだったかな。子ども会で一緒だった」


「母さん」


「帰ってからずっと不機嫌でね。真理ちゃんが庭へ来たら、急に機嫌直して」


「今すぐ車止めて」


「駅まで歩く?」


「……いい」


 春斗が窓の外へ顔を向ける。


 私は笑いそうになる。


「何」


「可愛い」


「朝から言うな」


「春斗が昔から分かりやすかったって」


「真理が鈍かっただけ」


 また。


 春斗が読んでいる本の主人公と同じだと言われたような気がした。


「私、そんなに鈍い?」


「かなり」


「でも春斗も言わなかった」


「言えるわけないだろ」


「どうして?」


「真理が俺を男だと思ってなかったから」


 車内の空気が少し変わる。


 春斗のお母さんは、今度は何も言わなかった。


 私は春斗を見る。


「今は?」


 聞く。


 春斗もこちらを見る。


「昨日、手繋いだ」


 小さな声。


 それでも運転席には届いたらしい。


「あら」


 春斗のお母さんの声。


「母さん!」


「聞こえたもの」


「忘れて」


「無理ね」


 私は恥ずかしさで顔を覆った。


 それでも。


 昨日のことを春斗が言葉へしたのが、少し嬉しかった。


     ◇


 岩瀬駅のホーム。


 私と春斗は、いつものベンチへ並んで座った。


 朝の電車を待つ人たちは多いものの、まだ誰も大声では話していない。缶コーヒーを持った会社員が時刻表を見上げ、少し離れた場所では中学生らしい三人が眠そうに肩を寄せている。


 春斗は本を鞄へしまった。


「続き読まないの?」


「真理いるから」


「私が邪魔?」


「今は話したい」


 胸が少し高鳴る。


「何を?」


「昨日の手」


 すぐに言われ、顔が熱くなる。


「朝から?」


「昨日の夜、話してない」


「メッセージしたじゃん」


「本の話だけ」


「それでいいよ」


「よくない」


 春斗は右手を膝の上へ置く。


「真理」


「何?」


「後悔してない?」


「してない」


「竹下に言ったあとも?」


「うん」


「今日、学校で会っても?」


 胸が少し痛む。


 竹下くん。


 今日は来るだろうか。


 昨日休んだ。


 今日まで休むかもしれない。


 もし来たら。


 私はどんな顔をすればいいのだろう。


「分からない」


 正直に答える。


「後悔する?」


「昨日のこと自体はしない」


「うん」


「でも竹下くんの顔見たら、苦しくなると思う」


「うん」


「春斗に悪い?」


「少し」


「ごめん」


「でも、それでいい」


 春斗は正面を見る。


「竹下を好きなのは本当だから」


「うん」


「一日で消えたら、それも嫌」


「どうして?」


「真理が俺を選んでも、竹下との恋が全部嘘だったみたいになる」


 意外だった。


 春斗なら。


 竹下くんへの気持ちが早く消えた方が嬉しいと思っていた。


「春斗、竹下くん嫌いじゃないの?」


「好きではない」


「だよね」


「でも」


 春斗は少しだけ眉を寄せる。


「真理が本気で好きだったことは知ってる」


「うん」


「それを、俺のために最初から間違いだったことにされたら」


 声が少し低くなる。


「俺を選んだ理由まで軽くなる気がする」


 胸へ落ちる。


 竹下くんへの恋は本物。


 春斗への気持ちも本物。


 どちらかを選ぶとき。


 選ばなかった恋まで嘘にする必要はない。


「春斗」


「何」


「大人みたい」


「違う」


「今のは大人だった」


「竹下がどうでもいいなら、大人かも」


「違うの?」


「かなり嫌」


 春斗は正直に続ける。


「真理が竹下見て赤くなるのも、明日会うのも、全部嫌」


「うん」


「でも、嫌だからって本物じゃなかったことにできない」


 その未熟さと理性が混ざった答えが。


 春斗らしいと思った。


「ありがとう」


「何が」


「私の恋を否定しないでくれて」


「その代わり」


「何?」


「俺への気持ちも否定するな」


「うん」


「昨日、俺と手繋ぎたいって言った」


「うん」


「今日、竹下に会って苦しくなっても、そこは変えるな」


「分かった」


 ホームへ電車の到着を知らせる放送が流れる。


 春斗が立ち上がる。


 私も立つ。


 電車が遠くから近づき、線路の音が大きくなる。


「春斗」


「何?」


「昨日、もう一回繋いだとき」


「うん」


「最初より嬉しかった」


 言ってから恥ずかしくなり、私は先に乗車位置へ向かった。


 後ろから。


「真理」


 春斗が呼ぶ。


 振り返る。


 春斗の耳は赤かった。


「俺も」


 短い言葉。


 でも。


 その一言だけで。


 朝の冷たい空気が少し温かくなった気がした。


     ◇


 水橋高校へ着くまで。


 竹下くんから連絡はなかった。


 水戸駅から学校へ向かう道では、春斗と並んで歩いた。


 視線は昨日ほどではない。


 噂が消えたわけではない。ただ、目新しさが少し薄れたのか、露骨にこちらを見る生徒は減っている。


 校門の近く。


 サッカー部の男子たちが数人、前を歩いていた。


 その中に。


 竹下くんがいた。


 胸が強く鳴る。


 昨日休んだ竹下くん。


 今日は制服姿で、サッカー部の鞄を肩へ掛けている。小野寺くんが隣で何かを話しているが、竹下くんはほとんど返事をしていないようだった。


「竹下」


 春斗も気づく。


「うん」


「行く?」


 聞かれる。


 私は一瞬迷う。


 竹下くんは一人にしてほしいと言った。


 昨日のメッセージでは、土曜日に会うとだけ言った。


 今日、学校で話したいとは言っていない。


「今は行かない」


 答える。


「いいの?」


「逃げるんじゃなくて、向こうの時間を待つ」


「うん」


 それでも。


 竹下くんの背中から目を離せない。


 小野寺くんが振り返る。


 私たちへ気づく。


 竹下くんへ何かを伝えた。


 竹下くんが、ゆっくり振り返った。


 目が合う。


 一瞬。


 竹下くんの視線が、私の隣にいる春斗へ移る。


 表情が硬くなる。


 昨日。


 私と春斗が出かけたこと。


 手を繋いだこと。


 竹下くんは知っている。


 私は足を止めなかった。


 春斗の隣から離れなかった。


 竹下くんも、こちらへ来ない。


 ただ。


 数秒だけ視線が重なり。


 竹下くんは前を向いた。


 胸が痛い。


「真理」


 春斗が呼ぶ。


「うん」


「追いかける?」


「追いかけたい」


 正直に答える。


「でも行かない」


「うん」


「土曜日、話す」


「うん」


「今日は?」


「春斗との時間も大事にする」


 朝から。


 何度も確認している。


 それでも。


 今、竹下くんの背中を見たあとで言うのは、簡単ではなかった。


 春斗は何も言わず。


 少しだけ私へ近づいた。


 肩が触れる。


 校門の前。


 多くの生徒がいる。


 手は繋がない。


 それでも。


 離れないと伝えるには十分だった。


     ◇


 昇降口へ入ると、石井さんが下駄箱の前にいた。


 今日は一人。


 私と春斗へ気づいたあと、視線が一度だけ二人の距離へ落ちる。


「おはよう」


 石井さんが言う。


「おはよう」


 私も答える。


 春斗は短く「はよ」と返した。


 昨日より。


 空気は少し落ち着いている。


 石井さんが私を見る。


「竹下くん、来たね」


「うん」


「話した?」


「まだ」


「何で?」


「竹下くんが話したいときにする」


 石井さんは少しだけ眉を上げた。


「待てるんだ」


「どういう意味?」


「すぐ追いかけると思った」


「昨日までなら追いかけてたかも」


「今日は?」


「自分の不安を軽くするために行くのは違うと思った」


 石井さんは黙る。


 少しして。


「春斗と手、繋いだって本当?」


 胸が鳴る。


「誰から?」


「噂」


「もう広がってるの?」


「川沿いで同じ学校の一年が見たって」


 見られていた。


 人通りは少ないと思っていた。


 それでも完全に誰もいなかったわけではない。


「本当?」


 石井さんがもう一度聞く。


 春斗が答えようとする。


 私は先に口を開いた。


「本当」


 石井さんの表情が僅かに歪む。


「竹下くんと喧嘩した翌日?」


「うん」


「それで今日、竹下くん来てるのに春斗と一緒?」


「うん」


「やっぱり」


 石井さんの声へ、苛立ちが混ざる。


「何?」


「分からない」


「石井さんも?」


「分からないけど腹立つ」


 昨日より正直だった。


「春斗へ?」


「久保さんへ」


「うん」


「でも、昨日みたいに言うつもりはない」


 自分へ言い聞かせるような声。


 感情が消えたわけではない。


 ただ、暴走させないようにしている。


「ありがとう」


 私が言うと、石井さんは眉を寄せた。


「お礼言われることじゃない」


「我慢してくれたから」


「我慢じゃなくて、反省しただけ」


「うん」


「でも」


 石井さんは春斗を見る。


「本当に手繋いだんだ」


「うん」


 春斗は隠さない。


「嬉しかった?」


 聞かれ。


「かなり」


 即答した。


 石井さんの顔が少し曇る。


 私の胸にも。


 小さな優越感のようなものが生まれた。


 春斗が私との手繋ぎを、石井さんの前で嬉しかったと言った。


 それが嬉しい。


 その感情へ気づき。


 私はすぐに自己嫌悪した。


 石井さんを傷つけて嬉しいわけではない。


 でも。


 自分が春斗にとって特別だと示されたことは嬉しい。


「真理」


 春斗が呼ぶ。


「何?」


「また考えすぎ」


「うん」


 石井さんが少しだけ目を細める。


「久保さん」


「何?」


「私に勝ったみたいに思った?」


 正面から聞かれた。


 誤魔化せない。


「少し」


 答える。


 石井さんの眉が寄る。


「最低」


 言われる。


 胸が痛む。


 けれど。


 石井さんはすぐに続けた。


「私も、春斗と委員会で一緒だって言ったとき、久保さんが嫌そうにしたの嬉しかった」


 今度は私が驚く。


「石井さんも?」


「少し」


「じゃあ同じ」


「一緒にしないで」


「でも同じだよ」


「久保さんよりはまし」


「何で?」


「私は竹下くんに好きって言ってない」


 また。


 刺さる言葉。


 でも昨日までより、完全に悪意だけではなかった。


 自分も醜い感情を持ったと認めたうえで。


 それでも私へ腹を立てている。


「石井」


 春斗が止める。


「分かってる」


 石井さんは一度息を吐く。


「今の言い方は悪かった」


「うん」


「ごめん」


「受け取る」


「でも嫌い」


「私もまだ苦手」


「知ってる」


 石井さんは鞄を持ち直す。


「今日、図書委員あるから」


「うん」


 春斗が答える。


「久保さん、嫌?」


「嫌」


 私は迷わず言った。


 石井さんが少しだけ笑う。


「なら、ちゃんと仕事する」


「わざと近づく?」


「昨日ならしたかも」


「今日は?」


「しない」


 石井さんは春斗を見る。


「春斗が私を好きじゃないって言ったから」


 少し寂しそうな声。


「でも、だからってすぐ諦められるかは分からない」


「うん」


 春斗は曖昧に優しくしない。


 でも、石井さんの感情を笑いもしなかった。


「好きか分からないんじゃなかった?」


 私が聞く。


「まだ分からない」


「じゃあ何を諦めるの?」


「特別になりたい気持ち」


 石井さんは言った。


「恋じゃなくても、春斗にほかの女子とは違うって思われたかった」


 胸へ残る。


 石井さんの感情は。


 恋だけではないのかもしれない。


 自分へ興味を持たない春斗に、振り向いてほしかった。


 そこへ私が現れ。


 春斗が私へだけ、明らかに違う顔を見せた。


 それが悔しかった。


「分かる」


 私は言った。


「何が?」


「好きか分からなくても、特別でいたい気持ち」


「竹下くんにも春斗にも?」


 すぐに返される。


「……うん」


「本当に欲張り」


「分かってる」


 石井さんは呆れたように息を吐く。


「でも」


 少しだけ声を弱める。


「昨日よりは、何考えてるか分かった」


「私も」


「仲良くはしない」


「うん」


「でも、もうみんなの前では言わない」


「ありがとう」


「だからお礼言わないで」


 石井さんはそう言い、階段へ向かった。


 その背中を見送る。


「真理」


 春斗が呼ぶ。


「何?」


「石井と仲良くなりそう」


「ならないよ」


「さっき分かるって」


「少しだけ」


「それで十分」


「春斗は嬉しい?」


「面倒減るなら」


「淡白」


「真理にだけでいい」


 不意打ち。


 胸が鳴る。


 石井さんがまだ階段の途中で振り返った。


「聞こえてる」


 春斗は何も言わない。


 石井さんは少しだけ顔を歪め、今度こそ階段の上へ消えた。


「春斗」


「何」


「言い方」


「本当」


「石井さん傷つく」


「期待させないでって真理が言った」


「そうだけど」


「なら中途半端にしない」


 正しい。


 でも。


 高校生の感情は。


 正しいだけでは収まらない。


 石井さんの背中が。


 少しだけ寂しそうに見えた。


     ◇


 教室へ入る。


 竹下くんは席にいた。


 昨日空いていた場所。


 今日は、本人が座っている。


 胸が締めつけられる。


 竹下くんは教科書を開いている。


 私が教室へ入ったことには気づいているはずだ。


 でも。


 顔を上げない。


 愛ちゃんが後ろの席から、心配そうにこちらを見る。


 私は自分の席へ鞄を置いた。


 声をかけるべきか。


 待つべきか。


 迷う。


 そのとき。


「久保さん」


 竹下くんが呼んだ。


 身体が固まる。


「うん」


「土曜日」


 竹下くんは教科書へ視線を落としたまま言う。


「予定通りでいい?」


「うん」


「場所も?」


「水戸芸術館」


「うん」


「時間も?」


「午後一時」


「分かった」


 それだけ。


 顔は見ない。


「竹下くん」


「今は」


 私の言葉を止める。


「普通に話せない」


「うん」


「でも、明日は会う」


「うん」


「逃げないで」


「逃げない」


「春斗くんと手を繋いだこと」


 竹下くんの指が、教科書の端を強く掴む。


「明日、直接聞く」


「うん」


「何で繋ぎたかったのかも」


「答える」


「俺が怒っても?」


「うん」


「泣いても?」


 胸が痛む。


「うん」


 竹下くんがようやく顔を上げる。


 目の下に、少し疲れが残っている。


「俺、明日」


 声が僅かに震える。


「格好悪いと思う」


「うん」


「優しくできないって言った」


「うん」


「それでも」


 竹下くんはまっすぐ私を見る。


「好きって言う」


 胸が大きく鳴る。


「うん」


「ちゃんと聞いて」


「聞く」


「そのあと」


 一度、息を吸う。


「俺を選んでほしいって言う」


「うん」


「今すぐ返事じゃなくてもいいって、前は言ったけど」


 竹下くんの表情が苦しそうに歪む。


「明日は、待てないって言うかもしれない」


「分かった」


「嫌?」


「怖い」


「俺も」


 竹下くんは少しだけ目を伏せた。


「でも、会いたい」


「私も」


 答えると。


 竹下くんの目が揺れた。


「春斗くんと手繋いでも?」


「うん」


「まだ俺に会いたい?」


「うん」


「何で」


「竹下くんが好きだから」


 教室の周囲には生徒がいる。


 昨日までなら、恥ずかしさを先に考えた。


 今日は。


 竹下くんへ伝えなければならないと思った。


「好きなのに、春斗くんとも手繋ぐ?」


「うん」


 痛い質問。


「分からない」


 竹下くんは小さく言う。


「俺には分からない」


「うん」


「明日、教えて」


「うん」


「俺が納得できるかは分からないけど」


「逃げずに話す」


 竹下くんは少しだけ頷く。


 それから再び教科書へ視線を戻した。


 会話は終わった。


 でも。


 昨日のように。


 竹下くんが教室からいなくなることはなかった。


     ◇


 ホームルームが始まる前。


 愛ちゃんが私の机へ身を寄せた。


「話したね」


「うん」


「明日、かなり重くなる」


「分かってる」


「春くんとは?」


「今日も帰る」


「手は?」


「分からない」


「繋ぎたい?」


 聞かれ。


 昨日の手の感触を思い出す。


「繋ぎたい」


 答える。


 愛ちゃんは苦しそうな顔をした。


「真理」


「何?」


「本当に、今日中に少し整理した方がいい」


「うん」


「明日竹下くんへ告白されて、その場で春くんとも手を繋ぎたいって気持ちのままだと」


「うん」


「どんな答えを出しても、真理自身が後悔するかもしれない」


「どうすればいい?」


「今日、二人と何か新しく進めるより」


 愛ちゃんは少し考える。


「一人で考える時間を作ったら?」


 今まで。


 誰かと話していた。


 春斗。


 竹下くん。


 愛ちゃん。


 母。


 誰かの反応を見ながら、自分の気持ちを確かめてきた。


 でも。


 最後に選ぶのは私。


「今日の帰り」


 私は呟く。


「春斗に、一人で帰るって言う?」


「春くん怒ると思う」


「うん」


「でも、自分で決めたなら」


 愛ちゃんは静かに続ける。


「それも必要かもしれない」


 私は斜め前の竹下くんを見る。


 そして。


 別校舎にいる春斗を思う。


 どちらとも会いたい。


 どちらにも近づきたい。


 だからこそ。


 一人になるのが怖い。


 その怖さこそ。


 今の私に必要なものかもしれなかった。


     ◇


 昼休み。


 竹下くんは、小野寺くんたちと食堂へ行った。


 私を誘わない。


 私も追いかけなかった。


 愛ちゃんと二人で弁当を食べる。


 周囲の噂は、少しずつ別の話題へ移り始めている。それでも、私が竹下くんと一緒に食べていないことへ気づき、こちらを見る生徒はいた。


「卵焼き」


 愛ちゃんが私の弁当箱を見る。


「今日は交換しないね」


「うん」


「寂しい?」


「寂しい」


「春くんと手繋いだこと、嬉しい?」


「嬉しい」


「同時にある?」


「うん」


 私は卵焼きを箸で半分に切る。


「どっちが強いか分からない」


「うん」


「でも」


 昨日。


 竹下くんから返事が来たとき。


 すぐに安心した。


 春斗と手を繋いでいる最中でも。


 竹下くんの言葉を待っていた。


 そして春斗と手を繋いだとき。


 竹下くんへ悪いと分かっても、もう一度繋ぎたいと答えた。


「二人とも違うところにいる」


「うん」


「竹下くんは、恋してるって一番分かりやすい」


「うん」


「春斗は」


 言葉を探す。


「失いたくないだけじゃなくなった」


「うん」


「触れたいし、触れてほしい」


「うん」


「もっと知りたい」


「うん」


「それって恋?」


 愛ちゃんはすぐに答えなかった。


「恋だと思う」


 やがて静かに言う。


 胸が苦しくなる。


「じゃあ本当に二人を好き?」


「たぶん」


「どうやって選ぶの」


「私には選べないよ」


「うん」


「真理が、どちらとの未来を望むか」


「未来」


「付き合ったあとのこと」


 竹下くんと付き合う。


 一緒に昼を食べる。


 部活がない日は帰る。


 休日にデートをする。


 手を繋ぐ。


 恋人らしい時間を積み重ねる。


 春斗と付き合う。


 朝も帰りも。


 家族ぐるみの時間も。


 今までの安心へ、恋人としての近さが加わる。


 でも。


 どちらかを選べば。


 もう一方とは、今のようにはいられない。


「一人で考える」


 私は言った。


「今日、帰り」


「春くんへ言う?」


「うん」


「逃げずに?」


「うん」


 愛ちゃんは頷いた。


     ◇


 放課後。


 終礼が終わる。


 竹下くんはサッカー部のバッグを持ち、立ち上がった。


 私の席の横を通る。


 一瞬だけ足を止める。


「明日」


「うん」


「十二時五十分には行く」


「私も早く着くと思う」


「早すぎないで」


 少しだけ。


 以前のような会話。


「竹下くんも」


「無理かも」


「私も」


 竹下くんの口元が僅かに動く。


 笑いそうになり。


 でも、完全には笑わなかった。


「また明日」


「うん」


 竹下くんは教室を出る。


 小野寺くんが私へ小さく頭を下げ、そのあとを追った。


 私は鞄を持つ。


 愛ちゃんが隣へ来る。


「行ける?」


「うん」


「春くん、たぶんかなり嫌がる」


「分かってる」


「でも、真理が一人で考えたいなら」


「言う」


 教室を出る。


 廊下。


 階段。


 昇降口。


 春斗は、昨日と同じ外の階段下で待っていた。


 手には。


 私が選んだ恋愛小説。


 読んでいる。


 胸が痛む。


 春斗は私へ気づくと、本を閉じた。


「遅い」


「三分」


「三分は三分」


「春斗」


 いつもの会話へ逃げそうになる。


 でも。


 今日言うと決めた。


「何?」


「今日は」


 言葉が喉へ引っかかる。


「一人で帰りたい」


 春斗の表情が止まった。


「何で」


「考えたいから」


「俺とじゃ駄目?」


「春斗といると」


 正直に言う。


「春斗の方へ行きたくなる」


 春斗の目が揺れる。


「なら来ればいい」


「でも竹下くんと会う前に、春斗の気持ちだけで決めたくない」


「うん」


「竹下くんと話す前に、春斗とまた手繋いだら」


「嫌?」


「繋ぎたい」


「じゃあ」


「だから一人になりたい」


 春斗は黙る。


 階段を下りてくる生徒たちが、私たちの横を通り過ぎていく。


「真理」


「何?」


「俺、嫌」


「うん」


「今日も一緒に帰りたい」


「うん」


「本も途中まで読んだ」


「うん」


「感想も話したい」


「うん」


「手も」


 春斗の右手が少し動く。


「繋ぎたい」


 胸が苦しい。


「私も」


「なら何で」


「明日、誰を選ぶか考えるため」


 はっきり言う。


「今日一人になれないなら、私はまた誰かの顔を見て答えを決めようとする」


 春斗の眉が寄る。


「俺の顔で決めればいい」


「春斗」


「選ばれに来てる」


「うん」


「一人で考えた結果、竹下を選ばれるの嫌」


 感情が露わになる。


 春斗も。


 冷静ではない。


「だから一緒に帰りたい」


「うん」


「俺を見てほしい」


「うん」


「でも」


 私は春斗を見る。


「今日は一人で帰る」


 言い切る。


 春斗の表情が傷ついたように歪む。


「決めた?」


「うん」


「俺が嫌でも?」


「うん」


「竹下に頼まれた?」


「違う」


「愛に言われた?」


「きっかけは愛ちゃん。でも決めたのは私」


 春斗は本を持つ手へ力を込める。


「分かった」


 声が冷たい。


「怒ってる?」


「かなり」


「うん」


「でも止めない」


「ありがとう」


「感謝するな」


 春斗は顔を逸らす。


「今日、連絡していい?」


「夜まではしないで」


「何時」


「九時」


「長い」


「ごめん」


「謝るな」


 苛立ちが声へ混じる。


「真理」


「何?」


「明日」


「うん」


「竹下を選んだら」


 言葉が止まる。


 春斗は唇を結び。


「俺と手繋いだこと、後悔する?」


「しない」


 すぐに答えた。


「本当に?」


「うん」


「俺を選ばなくても?」


「うん」


「何で」


「春斗と繋ぎたかった気持ちは本物だから」


 春斗の目が揺れる。


「なら」


 声が少し弱くなる。


「一人で考えても、そこ忘れるな」


「忘れない」


「俺が好きだって言ったことも」


「うん」


「本を読んでることも」


「うん」


「真理と恋人になりたいことも」


「忘れない」


 春斗は小さく息を吐いた。


「九時」


「うん」


「俺から送る」


「分かった」


「返して」


「返す」


 それだけ決め。


 春斗は先に歩き出した。


 校門ではなく。


 商業科の校舎へ戻る方向。


「春斗」


 呼ぶ。


 振り返らない。


「何」


「帰らないの?」


「図書委員」


 石井さんと一緒。


 胸がざわつく。


「石井さんと?」


「うん」


「嫌」


 反射的に言った。


 春斗が振り返る。


「真理、一人で帰るんだろ」


「うん」


「俺が委員会行くのは嫌?」


「うん」


「勝手」


「分かってる」


「なら持って」


 春斗は私が以前言われた言葉を返す。


「俺が石井と仕事することも」


「うん」


「それが嫌でも、一人で考えるって決めたことも」


「うん」


「全部、真理が選んだ」


 胸へ刺さる。


「分かった」


 私は頷く。


「行ってらっしゃい」


「うん」


 春斗は今度こそ歩き出す。


 その背中が。


 商業科の校舎へ消えていくまで。


 私は見ていた。


     ◇


 愛ちゃんとも駅で別れた。


 今日は。


 本当に一人。


 水戸駅のホーム。


 電車。


 岩瀬駅。


 いつも隣に春斗がいた帰り道を、一人で進む。


 空いた隣の座席。


 会話のない時間。


 スマートフォンへ手を伸ばしたくなる。


 春斗へ。


 竹下くんへ。


 愛ちゃんへ。


 誰かへ話したい。


 でも。


 午後九時までは。


 自分だけで考える。


 鞄から、春斗にもらった本を取り出す。


『君の隣を選び直す』


 表紙を開く。


 物語の主人公は。


 長く憧れていた相手へ恋をしている。


 けれど。


 自分が苦しいとき。


 嬉しいとき。


 最初に会いたいと思う相手は別にいる。


 ページをめくる。


 胸が痛む。


 竹下くんを思う。


 最初に見たときの憧れ。


 笑顔。


 映画。


 手を繋いだ偕楽園。


 彼女になってほしいと言われた瞬間。


 竹下くんと恋人になりたい。


 今もそう思う。


 次に。


 春斗を思う。


 朝の車。


 毎日の電車。


 嫌と言った声。


 期待すると言った顔。


 公園。


 古い手紙。


 古本屋。


 繋いだ手。


 春斗と恋人になりたい。


 それも本当。


 では。


 誰の隣を。


 私は選びたいのか。


 本の文字が、少し滲む。


 泣いていることに気づき。


 慌てて目元を拭う。


 どちらかを選べば。


 もう一方を失うかもしれない。


 その怖さではなく。


 誰と恋人になりたいのか。


 答えを探す。


 電車が進む。


 窓の外へ、夕方の街が流れる。


 今日は。


 誰の顔も見ず。


 誰の言葉にも頼らず。


 私は初めて。


 自分の恋と。


 一人で向き合っていた。

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