第27話 好きな人と喧嘩した翌日の放課後、幼馴染は私を知らない場所へ連れ出しました
木曜日の朝、目を覚ました瞬間から、胸の奥には重たいものが残っていた。
昨夜は何度もスマートフォンを確認した。
竹下くんから連絡は来なかった。
私も送らなかった。
昼休みに「夜まで連絡しない」と言われた時間はとっくに過ぎている。それでも、こちらから話しかければ、一人にしてほしいと言った竹下くんの気持ちを無視するような気がして、画面を開いては閉じることを繰り返した。
最後に確認したのは、午前零時を少し過ぎた頃だった。
既読を待つための文章すら送っていないのだから、何も変わらない。
それなのに、通知欄へ竹下くんの名前がないことが苦しかった。
好きな人と喧嘩をした。
自分の言葉で傷つけた。
土曜日の約束は残っているけれど、本当に会えるのかは分からない。
正式に告白すると言ってくれた気持ちが、昨日の昼を境に変わってしまった可能性もある。
そう考えるたび、眠気は遠ざかった。
それでも朝は来る。
制服へ着替え、朝食を食べ、いつものように家を出る。家の前へ停まった車の後部座席には春斗がいて、私が乗り込むと何も言わず少しだけ身体を窓側へ寄せてくれた。
「おはよう」
「おはよう」
声はいつも通りだった。
けれど春斗は、私の顔を一度見ただけで何かを察したらしい。
「寝てない?」
「少しは寝た」
「何時」
「分からない」
「竹下から連絡?」
「来てない」
運転席では私の母がラジオを聞いている。会話の内容までは分からないよう、私たちは自然に声を落とした。
「送った?」
春斗が聞く。
「送ってない」
「何で」
「一人にしてって言われたから」
「いつまで?」
「分からない」
春斗は少しだけ眉を寄せた。
竹下くんへ怒っているのかもしれない。
でも、すぐに何かを言うことはなかった。
「今日」
春斗が言う。
「放課後?」
「うん」
「行く?」
聞かれた。
昨日。
竹下くんと喧嘩をしたあと、春斗は土曜日の前にもう一度時間がほしいと言った。
私は行くと答えた。
竹下くんに悪いと思っても、春斗との時間として過ごす。
そう決めた。
でも朝になり、竹下くんから何も届かない状況になると、その約束を守ることが急に怖くなった。
「迷ってる?」
春斗が私の顔を見る。
「少し」
「行きたくない?」
「違う」
「竹下に悪い?」
「うん」
正直に答える。
春斗はすぐには何も言わなかった。
車は薄暗い住宅街を抜け、駅へ続く道を走っている。窓の外には朝露に濡れた畑が広がり、低い雲の隙間から弱い光が差していた。
「真理」
「何?」
「今日、行かない?」
意外な言葉だった。
「春斗が誘ったのに?」
「竹下に悪いって思いながら来られても、俺が嫌」
「でも」
「昨日も言っただろ。俺との時間を竹下に止められたみたいにするなって」
「うん」
「それでも今、真理の頭の中が竹下だけなら」
春斗は一度窓の外へ視線を向けた。
「今日はやめる」
胸が痛んだ。
誘ってほしかった。
春斗との時間も欲しかった。
それなのに、竹下くんを傷つけた罪悪感で迷い、春斗の方から手を引かせようとしている。
「嫌」
口から出た。
春斗がこちらを見る。
「何が」
「やめるの嫌」
「でも迷ってる」
「迷ってるけど、行きたい」
「竹下を考えながら?」
「考えると思う」
「じゃあ」
「でも、春斗も見たい」
春斗の言葉を止めるように言った。
「昨日の帰りも、今日のこと考えた」
「うん」
「どこへ行くのか気になったし、春斗が何を見せたいのかも知りたい」
「うん」
「竹下くんに悪いって気持ちがあるからって、行きたい気持ちまで嘘にしたくない」
春斗はしばらく黙っていた。
「真理」
「何?」
「それ、俺が聞きたかった言葉」
「うん」
「でも、今日の途中で竹下から連絡来たら?」
胸が強く鳴る。
「見る」
「うん」
「必要なら返す」
「うん」
「でも、それで春斗との時間を終わりにはしない」
私は自分へ言い聞かせるように続けた。
「竹下くんの連絡は竹下くんとのこと。今日、春斗と出かけることは春斗とのこと」
「本当に分けられる?」
「分からない」
「正直」
「でも、やる」
春斗の口元が少しだけ緩んだ。
「じゃあ行く」
「うん」
「放課後、逃げるなよ」
「逃げない」
車内へ小さな沈黙が落ちる。
母は前を向いたまま、朝の交通情報に耳を傾けている。
私は隣にいる春斗の手を見た。
昨日、頭へ触れた手。
一昨日、公園で小指が重なった手。
春斗は今日は何をしようとしているのだろう。
そのことを考えた瞬間。
竹下くんへの罪悪感とは別に、胸が少し高鳴った。
◇
岩瀬駅のホームへ着くと、いつもより人が多かった。
近隣の学校へ通う生徒たちが数人ずつ集まり、ベンチの前で眠そうに話している。会社員らしい男性は紙コップのコーヒーを持ち、線路の向こうをぼんやり見つめていた。
私と春斗は、ホームの端へ並んで立った。
「竹下」
春斗が唐突に言う。
「何?」
「学校で会うだろ」
「うん」
「話す?」
「向こうが話したいなら」
「真理からは?」
「今は行かない」
「何で」
「一人にしてって言われたから」
「でも、噂は広がってる」
昨日一日で、校内にはかなり話が伝わっていた。
私が竹下くんとデートし、手を繋いだこと。
春斗が私を好きだと公言したこと。
石井さんが昇降口で私へ強く言ったこと。
竹下くんが朝、教室で私を問い詰め、昼に喧嘩をしたこと。
事実と、誰かの想像が混ざっている。
「今日も何か言われるかな」
「言われる」
「即答」
「昨日の今日だから」
「春斗は平気?」
「何が」
「私を好きって言ったこと、広がってる」
「本当だから別に」
「恥ずかしくない?」
「真理が俺を選ばないかもしれないことまで広がってる方が嫌」
声は淡々としていた。
でも、内側には悔しさがある。
「ごめん」
「謝るなって」
「でも」
「今日、俺と来るならそれでいい」
春斗は線路の向こうを見ながら続ける。
「噂より、真理が何を選ぶかの方が大事」
「うん」
「ただ」
「何?」
「石井が変なこと言ったら、俺が止める」
「喧嘩しないで」
「向こう次第」
「昨日も同じこと言った」
「冗談」
「春斗の冗談、分かりにくい」
少しだけ笑う。
朝から重かった胸が、ほんの少し軽くなる。
そのとき、スマートフォンが震えた。
心臓が跳ねる。
竹下くんかもしれない。
急いで画面を見る。
愛ちゃんからだった。
『駅着いた?』
期待していた相手ではないことへ、少し落ち込む。
その顔を春斗に見られた。
「竹下じゃなかった?」
「うん」
「残念?」
「少し」
春斗の表情が曇る。
でも、私は誤魔化さなかった。
「連絡ほしい」
「うん」
「怒っててもいいから、何か言ってほしい」
「うん」
「それでも今日は春斗と行く」
春斗が私を見る。
「毎回確認する?」
「私が忘れないため」
「分かった」
春斗は少しだけ息を吐く。
「なら、何回でも聞く」
「何を?」
「今日は俺と行く?」
私は答える。
「行く」
春斗の表情が、少し柔らかくなった。
◇
学校へ着くと、予想通り視線を感じた。
昇降口。
廊下。
階段。
こちらを見て小声で話す生徒がいる。
露骨に指を差す者はいない。それでも、私と春斗が並んで歩くだけで、会話が一瞬途切れる場所があった。
昨日までなら、恥ずかしさに耐えられず距離を取っていたかもしれない。
けれど今日は。
春斗の隣から離れなかった。
見せつけたいわけではない。
噂を認めたいわけでもない。
ただ、自分が春斗と一緒に学校へ来たという事実を、誰かの目のために隠したくなかった。
昇降口で靴を履き替えていると、少し離れた場所に石井さんがいた。
昨日、一緒にいた女子生徒と話している。
私たちへ気づく。
目が合った。
石井さんの表情が硬くなる。
私の胸も緊張で強張る。
春斗も気づいた。
「石井」
呼ぶ。
石井さんは一瞬迷ったあと、こちらへ歩いてきた。
昨日より顔色が悪い。
眠れなかったのかもしれない。
「何?」
声も硬い。
「昨日のこと」
春斗が言う。
石井さんの目が僅かに揺れる。
「今ここで?」
「人いない方がいいなら、昼」
「別に」
石井さんは私を見る。
その視線には昨日のような強い敵意はない。
代わりに。
気まずさ。
後悔。
そして、まだ消えていない苛立ちが混ざっていた。
「久保さん」
「うん」
「昨日は」
言葉が止まる。
石井さんと一緒にいた女子生徒が、少し離れた位置から心配そうに見ている。
「言いすぎた」
小さな声。
「うん」
「みんながいるところで言うことじゃなかった」
「うん」
「ごめん」
謝られた。
思っていたより早かった。
「謝ってくれると思わなかった」
正直に言うと、石井さんの眉が少し寄る。
「私だって悪いって分かる」
「うん」
「でも」
声が少し強くなる。
「言った内容を全部間違いだとは思ってない」
「分かってる」
「二人へ期待させてるのは本当でしょう」
「うん」
「竹下くんとも、昨日喧嘩したって」
胸が痛む。
「知ってるの?」
「もう噂になってる」
「そっか」
石井さんは少しだけ唇を結ぶ。
「私が余計なこと言ったから?」
「違う」
「でも、私が春斗のこと」
「石井さんが言わなくても、いつか喧嘩してたと思う」
それは本当だった。
私が二人との関係を進め続ける限り。
竹下くんが苦しくなる瞬間は、避けられなかった。
「だから」
私は続ける。
「謝ってくれたことは受け取る。でも、石井さんのせいだけじゃない」
石井さんは少し驚いた顔をした。
「何でそんな言い方できるの」
「何が?」
「私、久保さんにかなりひどいこと言った」
「うん」
「春斗のことも」
石井さんの視線が春斗へ向く。
「好きなの?」
春斗が聞いた。
石井さんの顔が赤くなる。
「今聞く?」
「昨日は違うって言った」
「……分からない」
初めて。
石井さんが弱い声を出した。
「分からない?」
私が聞く。
「春斗が誰かを好きって知って、嫌だった」
「うん」
「久保さんの前では、私の知らない顔するのも嫌だった」
「うん」
「でも、それが恋なのか」
石井さんは少し俯く。
「ただ自分だけ特別じゃなかったのが悔しいのか、分からない」
昨日までなら、単純な恋敵だと思っていた。
春斗を好きな女子。
私から春斗を奪うかもしれない相手。
でも石井さん自身も、自分の気持ちを理解できていない。
高校生で。
未熟で。
感情が先に暴走した。
私と同じだった。
「私も分からないこと多い」
言うと、石井さんが顔を上げる。
「一緒にしないで」
「そこは嫌なんだ」
「私は二人へ触ってほしいとか言わない」
胸へ刺さる。
春斗の表情がすぐに硬くなる。
「石井」
「今のは」
石井さん自身も言いすぎたと気づいた。
「ごめん」
言い直す。
「でも、まだ腹立つ」
「うん」
「久保さんが悪い部分もあると思う」
「うん」
「それでも昨日みたいには言わない」
石井さんの中で、全部が解決したわけではない。
謝った。
でも納得していない。
嫌いではなくなったわけでもない。
その方が自然だった。
「分かった」
私が答える。
「私も、すぐ仲良くできるとは思ってない」
「うん」
「春斗を好きかもしれないのも嫌」
石井さんの目が大きくなる。
「そこ言う?」
「私も正直に言う」
「久保さん、竹下くんが好きなんでしょう」
「うん」
「なのに?」
「春斗を取られるのも嫌」
「やっぱりずるい」
「分かってる」
石井さんはしばらく私を見たあと、少しだけ呆れたように息を吐いた。
「開き直ってる?」
「認めただけ」
「余計腹立つ」
「ごめん」
「謝ればいいと思ってる?」
「思ってない」
会話は穏やかではない。
それでも、昨日のように一方的に傷つけ合うだけではなかった。
「石井」
春斗が口を挟む。
「何」
「俺は真理が好き」
「知ってる」
「今は石井へ恋愛感情ない」
「今はって何」
「これからもたぶんない」
「もっと言い方あるでしょう」
「期待させるなって真理に言われた」
石井さんの視線が一気に私へ向く。
「言ったの?」
「うん」
「本当にずるい」
「分かってる」
「そこまで言わせて、自分は竹下くんとデート?」
「うん」
「信じられない」
石井さんは頭を押さえるように額へ手を当てた。
春斗が少し不満そうに言う。
「俺が決めた」
「春斗もおかしい」
「知ってる」
「二人とも変」
「石井に言われたくない」
春斗が返すと、石井さんは一瞬睨み。
そのあと。
ほんの少しだけ笑った。
「春斗、久保さんの前だと本当に喋るね」
寂しさの混ざった笑顔だった。
「クラスでもそれくらい話せばいいのに」
「疲れる」
「久保さんには?」
「別」
即答。
胸が熱くなる。
石井さんはその反応を見て、表情を僅かに曇らせた。
それでも、昨日のように私へ感情をぶつけることはしなかった。
「もう行く」
「昼、委員会」
「分かってる」
春斗が答える。
「資料忘れないで」
「持ってる」
「ならいい」
石井さんは数歩進み。
私の前で一度止まった。
「久保さん」
「何?」
「竹下くんと喧嘩したからって」
少し言葉を選ぶ。
「春斗へ逃げるのはやめて」
胸へ刺さる。
「逃げない」
「本当?」
「今日は春斗と出かける」
「それが逃げじゃないって言える?」
聞かれる。
私は一度だけ考えた。
「春斗と出かけたいから行く」
「竹下くんを忘れるためじゃなく?」
「違う」
「ならいい」
石井さんは頷いた。
「でも、嫌い」
「うん」
「まだ」
「私も苦手」
正直に返す。
石井さんは少しだけ目を丸くしたあと、今度こそ歩き出した。
その背中を見送りながら。
すぐに改心するわけではない。
すぐに友達になるわけでもない。
でも。
昨日より少しだけ。
石井美咲という一人の女の子を知った気がした。
◇
教室へ入ると、竹下くんの席は空いていた。
心臓が強く鳴る。
まだ来ていないだけかもしれない。
けれど、普段なら私より先にいることが多い。
「竹下くんは?」
愛ちゃんへ聞く。
「まだ」
「休み?」
「分からない」
小野寺くんも来ていない。
サッカー部で何か確認しているのかもしれない。
私は自分の席へ鞄を置き、何度も教室の入口を見る。
始業まで十五分。
十分。
五分。
竹下くんは来ない。
担任が教室へ入り、出席簿を開く。
「竹下は体調不良で欠席だ」
胸が沈んだ。
昨日、身体は大丈夫だと聞いた。
でも今日は休んだ。
私とのことが原因だろうか。
小野寺くんは少し遅れて教室へ入ってきた。担任に頭を下げ、自分の席へ向かう途中で私を見る。
表情が暗い。
ホームルームが始まる。
私は机の下でスマートフォンを握った。
連絡したい。
大丈夫か聞きたい。
でも、まだ一人にしてほしいのかもしれない。
迷い続け。
結局、短い文章を打った。
『体調大丈夫? 返事はいらないから、今日は休んでね』
送る。
すぐには既読がつかない。
それでも。
何もしないままではいられなかった。
◇
一時間目と二時間目の間。
小野寺くんが私の席へ来た。
「竹下から連絡来た?」
「来てない」
「送った?」
「体調だけ」
「そう」
小野寺くんは少し迷う。
「昨日、家帰ってからかなり落ち込んでたみたい」
「話したの?」
「電話した」
「何て?」
「詳しくは言えない」
「うん」
「でも」
小野寺くんは真剣な顔で続ける。
「久保さんを嫌いになったわけじゃない」
胸へ少しだけ息が入る。
「本当?」
「むしろ好きだからきつい」
「うん」
「土曜も会いたいって言ってた」
「うん」
「でも、今日学校で顔見るのは無理だったらしい」
胸が痛む。
「私のせい」
「全部そうとは言わない」
「でも」
「竹下が感情的になって、最低って言ったのも悪い」
「すぐ謝った」
「うん」
「私もひどいこと言った」
「春斗とも進みたい?」
「うん」
小野寺くんは少しだけ顔を歪める。
友人として、納得できない部分があるのだと思う。
「俺なら無理かも」
言われる。
「何が?」
「好きな子が、別の男とも進みたいって言うの待つの」
「うん」
「竹下、よく耐えてると思う」
「うん」
「でも」
小野寺くんは一度息を吐く。
「久保さんに嘘ついて竹下を選べとも言えない」
「うん」
「だから土曜、ちゃんと話して」
「約束する」
「今日、春斗と出かける?」
噂で知っているのか。
愛ちゃんから聞いたのか。
「うん」
「竹下、知ったら」
「傷つくと思う」
「それでも?」
「行く」
私は答えた。
小野寺くんは苦しそうな顔をする。
「どうして」
「春斗と行きたいから」
「竹下と喧嘩した直後なのに?」
「だからやめたら、春斗との時間が全部竹下くん次第になる」
「うん」
「それは違うと思う」
小野寺くんはすぐには納得しなかった。
でも。
少しして頷く。
「分かった」
「怒らないの?」
「怒ってる」
「うん」
「でも俺が口出すことじゃない」
小野寺くんは少しだけ視線を逸らす。
「ただ竹下の友達だから、竹下が傷つくの見るの嫌」
「ごめん」
「謝るなら土曜逃げないで」
「逃げない」
「春斗を選ぶとしても?」
胸が鳴る。
「うん」
「直接言って」
「約束する」
小野寺くんは小さく頷き、自分の席へ戻った。
◇
昼休み。
今日は竹下くんの席が空いたまま。
昨日まで向かい合って弁当を食べていた場所。
卵焼きを交換した机。
私は愛ちゃんと小野寺くんの三人で食べた。
会話は少なかった。
小野寺くんは何度もスマートフォンを確認している。竹下くんから連絡がないか気にしているのだろう。
「真理」
愛ちゃんが小さく呼ぶ。
「何?」
「放課後、本当に行ける?」
「うん」
「竹下くん休んだのに?」
「行く」
「苦しくない?」
「苦しい」
「それでも?」
「春斗との約束だから」
愛ちゃんは私を見つめる。
「逃げてない?」
朝、石井さんにも聞かれた。
「逃げてない」
「どうして言える?」
「竹下くんを忘れたいんじゃない」
「うん」
「春斗に慰めてもらうためでもない」
「うん」
「春斗と恋人になりたいか考えるために、春斗との時間が欲しい」
言葉にすると。
以前よりはっきりしていた。
春斗との時間が欲しい。
竹下くんへの苦しさとは別に。
「ならいいと思う」
愛ちゃんは頷いた。
「でも」
「何?」
「今日、何か進んだら」
「うん」
「土曜に隠さない方がいいかも」
胸が重くなる。
「全部?」
「全部じゃなくていい。でも、春くんとの関係が進んだことは」
「うん」
「竹下くんが告白する前に知る権利あると思う」
確かに。
竹下くんが、私と春斗は昨日の指先のままだと思って告白するのと。
もっと進んだと知ったうえで告白するのでは。
意味が違う。
「分かった」
私は答えた。
「逃げない」
◇
放課後。
終礼が終わると、教室にはいつもより重い疲労が残っていた。
竹下くんの空席を見たまま一日を過ごした。
噂を聞きに来る生徒もいた。
愛ちゃんが追い返してくれた者もいれば、直接「二股なの?」と聞いてきた女子もいた。
「付き合ってない」
そう答えると。
「でも二人とも好きなんでしょう?」
と返された。
否定できなかった。
周囲の反応は一つではない。
「迷うの分かる」と言う子。
「竹下くん可哀想」と言う子。
「春斗くんって誰?」と興味だけを見せる子。
「どっちも選ばなければいい」と簡単に言う子。
その全部を受け止める余裕はなかった。
私は鞄へ教科書をしまい、教室を出た。
愛ちゃんが途中までついてきてくれる。
「今日はどこ行くの?」
「知らない」
「春くん、秘密好きだね」
「決めてない可能性もある」
「昨日急に誘ったからね」
「でも、たぶん何か考えてる」
「信じてる?」
「うん」
答えた。
春斗は。
淡白で。
何も言わず。
本を読んでばかりだった。
でも今は、自分で時間を作り、私へ選ばれに来ている。
今日も。
きっと何かを考えている。
◇
昇降口へ着くと、春斗は柱の近くではなく、外の階段下で待っていた。
制服の上着を脱ぎ、鞄の持ち手へ掛けている。片手には小さな紙袋があった。
「それ何?」
近づく前から聞く。
「あとで」
「また秘密?」
「うん」
「春斗、最近隠し事多い」
「見せるための秘密」
愛ちゃんが私の隣で小さく笑う。
「春くん、頑張ってるね」
「何が」
「今までなら真理をどこかへ誘うなんて考えなかったでしょう」
「うん」
「愛、余計なこと言うな」
「図星?」
「早く帰れ」
「扱いひどい」
愛ちゃんは笑いながら、私の肩へ軽く触れた。
「真理」
「何?」
「楽しんできて」
「うん」
「罪悪感だけで終わらせないでね」
「分かってる」
愛ちゃんは春斗へも視線を向ける。
「春くん」
「何」
「真理、今日かなり弱ってる」
「分かってる」
「だから」
「弱ってるときに選ばせるようなことしない」
昨日と同じ。
春斗は私の弱さを利用しない。
愛ちゃんは少しだけ安心したように頷いた。
「なら任せる」
「何で愛に任されるんだよ」
「真理の親友だから」
「母親みたい」
「春くんよりは近い」
「それは違う」
二人のやり取りに少し笑う。
愛ちゃんは手を振り、校門の方へ歩いていった。
私と春斗だけが残る。
「竹下」
春斗が聞く。
「休みだった」
「知ってる」
「誰から?」
「噂」
「そっか」
「連絡は?」
「送ったけど返事ない」
春斗は一度だけ視線を落とす。
「今日、やめる?」
また聞かれる。
「やめない」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ行く」
春斗は紙袋を持ち直し、歩き始めた。
「今日はどこ?」
「駅とは逆」
「また学校の裏?」
「違う」
「遠い?」
「歩いて二十分」
「何があるの?」
「着けば分かる」
「またそれ」
私は少しだけ笑い。
春斗の隣へ並んだ。
◇
学校を出て、駅とは反対側の通りを歩く。
こちら側へ来ることは少ない。
住宅街の間に昔ながらの小さな店が並び、夕方になると店先へ惣菜や野菜が出される。自転車で帰宅する中学生や、買い物袋を持った年配の女性とすれ違った。
春斗は迷わず歩いている。
「よく来るの?」
「たまに」
「一人で?」
「うん」
「石井さんと?」
口から出た。
春斗がこちらを見る。
「何で石井が出る」
「同じクラスだから」
「来たことない」
「本当?」
「本当」
「ほかの女の子は?」
「ない」
「男の子は?」
「ある」
「誰?」
「クラスのやつ」
「私の知らない?」
「真理、俺のクラスほとんど知らないだろ」
胸が少しだけざわつく。
春斗には、私の知らない友人がいる。
私の知らない時間がある。
当たり前のこと。
それなのに。
以前は気にならなかったことまで、今は知りたくなる。
「春斗」
「何?」
「クラスで誰と仲いいの?」
「急に?」
「知りたい」
春斗は少し驚いた顔をした。
「何で」
「春斗のこと、もっと知りたいから」
自分の言葉へ、自分で驚く。
竹下くんに対して。
もっと知りたい。
それが恋の始まりだった。
春斗は長く一緒にいるから、何でも知っていると思っていた。
でも。
高校での生活。
クラスでの顔。
友人関係。
委員会。
私の知らない春斗は、たくさんある。
「真理」
「何?」
「それ、かなり嬉しい」
「うん」
「誰と仲いいか、あとで教える」
「今は?」
「今話すと長い」
「そんなにいるの?」
「少し」
「春斗、友達いたんだ」
「失礼」
「いつも一人で本読んでるから」
「真理がいない時間まで全部一人じゃない」
胸へ小さく刺さる。
「そっか」
「寂しい?」
春斗が聞く。
「少し」
「何で」
「私の知らない春斗がいるから」
「じゃあ知ればいい」
春斗は簡単に言う。
「これから」
胸が温かくなる。
「教えてくれる?」
「真理が知りたいなら」
「知りたい」
「うん」
春斗の口元が少し緩む。
歩く距離が。
自然に近づいた。
◇
二十分ほど歩き、春斗が立ち止まったのは、小さな古本屋の前だった。
住宅街の一角。
古い木製の看板に、『木下書房』と書かれている。
店の窓には色褪せた文庫本や絵本が並び、入口脇には百円均一の本が入った箱が置かれていた。外から見える店内は少し薄暗く、天井まで届く本棚が奥へ続いている。
「ここ?」
「うん」
「春斗、本屋好きだもんね」
「それだけじゃない」
春斗は扉を開ける。
小さな鐘が鳴った。
店内には紙と木の混ざった匂いが広がっている。古い本の背表紙がぎっしり並び、狭い通路の向こうでは、白髪の男性がカウンターに座って新聞を読んでいた。
「いらっしゃい」
店主らしい男性が顔を上げる。
春斗を見ると、少しだけ笑った。
「今日は女の子と一緒か」
「こんにちは」
春斗が答える。
私は驚いて隣を見る。
「知り合い?」
「たまに来るから」
「春斗くんが誰か連れてくるなんて珍しいな」
店主は私を見る。
「彼女?」
顔が一気に熱くなる。
「まだ」
春斗が答えた。
「春斗!」
「嘘じゃない」
「まだって何」
「なってほしいから」
店主が楽しそうに笑う。
「若いな」
私は恥ずかしくて顔を上げられない。
「おじさん、余計なこと言わないで」
「言ったの春斗くんだろう」
春斗は少し不満そうにしながら、店の奥へ進む。
私はその後を追った。
「春斗」
「何」
「ここへ連れてきた理由」
「本」
「分かってる」
「真理に選んでほしい」
「何を?」
「一冊」
春斗は紙袋を持ち上げる。
「俺も、真理に一冊選んだ」
胸が鳴る。
「交換?」
「うん」
「どうして?」
「竹下は、真理と出かけて、手繋いで、写真撮った」
春斗は本棚へ視線を向けたまま言う。
「俺は本くらいしか思いつかなかった」
「春斗らしい」
「嫌?」
「嫌じゃない」
むしろ。
嬉しい。
春斗が、自分の好きなものを私へ渡そうとしている。
「真理も、俺に読んでほしい本選んで」
「私、春斗ほど詳しくない」
「何でもいい」
「恋愛小説でも?」
「真理が俺に読ませたいなら」
「後悔するかも」
「読む」
春斗は真剣だった。
「真理が何を選ぶか知りたい」
「うん」
「俺をどう思ってるか、本で分かるかもしれない」
「そんなに考えて選ぶの?」
「考えて」
「重い」
「選ばれに来てるから」
春斗はそう言い。
私へ背を向け、本棚の間へ入っていった。
◇
私は一人で本棚を見上げた。
春斗へ読んでほしい一冊。
何を選べばいいのだろう。
恋愛小説。
青春小説。
幼馴染もの。
選ぶ作品へ、自分の気持ちが出る。
そう考えると、どの本にも手を伸ばせない。
店内には数人の客がいる。
高校生らしい男子が漫画の棚を見ており、奥では年配の女性が料理本を手に取っていた。店主は新聞へ戻ったが、ときどきこちらを見ているような気がする。
私は恋愛小説の棚へ移動した。
背表紙を一冊ずつ見る。
『君を待つ駅』
『十七歳の春』
『隣にいる理由』
題名だけで胸が落ち着かない。
その中に。
一冊。
『幼馴染を好きになるまで』
という本があった。
手が止まる。
あまりにも今の自分に近い。
背表紙へ指を触れる。
でも。
引き出せない。
これを春斗へ渡せば。
幼馴染を好きになる可能性を、自分から伝えるようなものだ。
期待させる。
でも。
もうすでに期待させている。
春斗と恋人になる未来を考えると伝えた。
男として意識していると言った。
石井さんに取られるのが嫌だとも認めた。
今さら、この題名だけで逃げるのは違う。
私は本を棚から引き出した。
表紙には、並んで歩く高校生の男女が描かれている。
あらすじを読む。
長い間、家族のように過ごした二人。
別の相手へ恋をしたことで、初めて互いの存在を異性として意識する物語。
心臓が速くなる。
映画で見た話にも少し似ている。
今の私たちにも。
「それ選ぶ?」
背後から春斗の声。
驚いて本を胸へ隠す。
「見ないで!」
「もう見えた」
「忘れて」
「無理」
春斗の耳が少し赤い。
「真理」
「何?」
「期待していい?」
「本の内容知らない」
「題名」
「たまたま」
「ほかにも本あるのに?」
「目に入ったから」
「買う?」
聞かれる。
私は本を見る。
逃げたい。
でも。
渡したい。
「買う」
答える。
春斗の表情がゆっくり柔らかくなる。
「俺に?」
「うん」
「読んでほしい」
「分かった」
「でも」
「何?」
「これを選んだからって、春斗を選ぶって意味じゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「でも期待はする」
「うん」
今度は止めない。
春斗は持っていた紙袋を差し出した。
「俺からはこれ」
中を見る。
一冊の新しい文庫本が入っている。
古本屋なのに。
新品のようにきれいだった。
「ここで買ったの?」
「昨日取り置きしてもらった」
「昨日?」
「真理を誘ったあと」
紙袋から本を出す。
題名は。
『君の隣を選び直す』
胸が大きく鳴る。
「これ」
「読んだことある」
「どんな話?」
「幼馴染じゃない」
「うん」
「一度別の人を好きになった主人公が、最後に誰の隣へいたいか考える話」
「私に読ませたかった?」
「うん」
「答え誘導してない?」
「少し」
「ずるい」
「選ばれに来てる」
同じ言葉。
でも。
春斗は笑っていた。
「結末は?」
「言わない」
「主人公、最初の好きな人を選ぶ?」
「自分で読んで」
「気になる」
「なら読んで」
本を胸へ抱える。
竹下くんと喧嘩した翌日。
春斗から、誰の隣を選ぶかを描いた本を渡された。
それだけ見れば。
春斗が竹下くんの弱った隙へ入り込んでいるようにも見える。
でも。
違う。
春斗は昨日から、この時間を望んでいた。
私も。
今日来たいと答えた。
「春斗」
「何?」
「ありがとう」
「うん」
「嬉しい」
春斗の表情が少しだけ止まる。
「本当に?」
「うん」
「竹下と喧嘩したこと忘れられた?」
「忘れてない」
「じゃあ何が嬉しい?」
「春斗が私のために選んだこと」
私は本の表紙を見る。
「春斗の好きな本を、私に読んでほしいって思ってくれたこと」
「うん」
「私の答えを考えながら選んだことも」
「うん」
「全部」
春斗は何も言わなかった。
でも。
耳が赤い。
私は少し笑う。
「春斗、分かりやすい」
「真理のせい」
「うん」
また。
否定しなかった。
◇
本を会計へ持っていく。
店主は、私が選んだ題名を見て眉を上げた。
「ずいぶん分かりやすい本を選んだね」
「読んでみたくて」
「春斗くんに?」
「はい」
「なるほど」
「おじさん」
春斗が低い声で止める。
店主は楽しそうに笑いながら会計を済ませた。
「若いうちは迷えばいい」
釣り銭を渡しながら言う。
「でも、迷ってる間も相手の時間をもらってることは忘れないようにな」
胸へ刺さる。
この人は何も知らないはずだ。
それでも。
今の自分へ言われたように感じる。
「はい」
私は答えた。
春斗も隣で黙って聞いている。
「それと春斗くん」
「何ですか」
「本だけで女の子の心が決まると思わないことだ」
「分かってます」
「ならいい」
店を出る。
夕方の光は弱くなり、住宅街の街灯がつき始めていた。
「春斗」
「何?」
「店主さん、春斗のこと知ってるね」
「中学の頃から来てる」
「私、知らなかった」
「うん」
「ここも春斗の世界?」
聞く。
春斗は少し考えたあと頷いた。
「そうかも」
「連れてきてくれて嬉しい」
「真理に知ってほしかったから」
「うん」
「俺が真理といないとき、何してるか」
胸が温かくなる。
「もっと知りたい」
「うん」
「友達も」
「今度会わせる」
「石井さんもいる?」
また名前が出る。
春斗は呆れたように息を吐く。
「いるかも」
「嫌」
「でもクラスの友達知りたいんだろ」
「石井さん以外」
「無理」
「何で」
「同じ委員会だから」
「じゃあ我慢する」
「真理も少し成長した」
「上から言わないで」
二人で笑う。
◇
帰り道。
春斗は少し遠回りをした。
川沿いの遊歩道。
夕方になると犬の散歩をする人や、部活動帰りの中学生が通る。川面には薄い光が残り、風が吹くたび細かな波が広がっていた。
人通りは多くない。
春斗が歩みを止める。
「何?」
私も止まる。
春斗は私の右手を見る。
「今日」
「うん」
「手」
胸が鳴る。
一昨日。
公園で指先が触れた。
昨日。
人がいないところで聞くと言われた。
今日。
竹下くんと喧嘩をし。
春斗と出かけた。
「繋ぎたい?」
春斗が聞く。
私は自分の気持ちを確かめる。
竹下くんに悪い。
その気持ちは消えない。
でも。
春斗と手を繋ぎたいか。
その問いだけへ答えるなら。
「繋ぎたい」
言った。
春斗の呼吸が一瞬止まる。
「本当に?」
「うん」
「今、弱ってるからじゃなく?」
「違う」
「竹下に見せつけたいとか」
「違う」
「俺と?」
「春斗と繋ぎたい」
はっきり答える。
春斗はゆっくり右手を差し出した。
私も。
左手ではなく。
右手を伸ばす。
指先が触れる。
一昨日よりも。
長く。
はっきりと。
春斗の手が私の手を包む。
竹下くんとは違う。
春斗の手は、よく知っているはずなのに。
今は初めて繋ぐ男の子の手だった。
指が重なる。
手のひらが合う。
春斗は強く握らない。
私が離したくなれば。
すぐに離せる。
「春斗」
「何?」
「もう少し強くていい」
自分から言った。
春斗の目が大きくなる。
次の瞬間。
握る力が少し強くなった。
胸が大きく鳴る。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「嬉しい?」
「うん」
答える。
春斗も。
小さく言った。
「俺も」
二人で歩き始める。
歩幅が合わない。
最初だけ。
春斗が少し遅くする。
私も少し近づく。
肩が触れそうな距離。
手は繋がったまま。
「春斗」
「何?」
「手、大きい」
「竹下と比べた?」
聞かれる。
私は少し黙り。
正直に答える。
「一瞬」
春斗の表情が曇る。
「でも」
「何」
「今は春斗の手として見てる」
春斗は少しだけ息を吐く。
「ならいい」
「違う?」
「何が」
「竹下くんと繋いだときと」
春斗は私を見る。
「聞きたい?」
「少し」
「俺は嫌」
「どうして」
「竹下の話になるから」
「うん」
「今は俺とのことだけ覚えて」
以前なら。
自分から言えなかった春斗。
今は。
独占するように言う。
「うん」
私は答えた。
「覚える」
手を握る力が。
ほんの少しだけ強くなった。
◇
しばらく歩いたところで。
スマートフォンが震えた。
身体が固まる。
春斗も気づく。
「竹下?」
「分からない」
「見る?」
「うん」
手を離そうとする。
春斗はすぐに離した。
そこだけ少し冷たくなる。
鞄からスマートフォンを取り出す。
竹下くんから。
心臓が大きく鳴った。
『体調は大丈夫』
朝送ったメッセージへの返事。
それだけ。
でも。
返してくれた。
『よかった』
すぐに送る。
既読がつく。
次の文章を迷う。
『今日は学校休んでごめん』
『謝らなくていいよ』
『土曜日』
胸が締めつけられる。
『うん』
『会う』
短い言葉。
私は息を吐いた。
『私も会いたい』
送る。
少し間が空く。
『今日、春斗くんと出かけた?』
聞かれた。
どこから知ったのだろう。
小野寺くんか。
噂か。
『うん』
嘘はつかない。
『何した?』
隣には春斗がいる。
さっきまで。
手を繋いでいた。
私は画面を見つめた。
「聞かれた?」
春斗が言う。
「うん」
「言う?」
「言う」
愛ちゃんと約束した。
関係が進んだことは、告白の前に伝える。
でも。
メッセージで言うべきだろうか。
「土曜日に言う?」
春斗が聞く。
「それだと遅い」
「うん」
「竹下くん、告白する前に知る権利ある」
春斗の表情が少し硬くなる。
「言ったら、土曜日なくなるかも」
「うん」
「それでも?」
「言う」
私は文章を打つ。
『本屋に行った』
『それだけ?』
すぐに来る。
指が止まる。
『手を繋いだ』
送信。
既読。
長い沈黙。
春斗も何も言わない。
夕方の川沿いを、風だけが通り抜けていく。
『そっか』
返事。
『ごめん』
送る。
既読。
『謝らないで』
『うん』
『土曜日』
『うん』
『会うけど、俺たぶん優しくできない』
胸が痛む。
『分かった』
『怒ると思う』
『うん』
『それでも来る?』
迷わない。
『行く』
送る。
竹下くんから。
『分かった』
それだけ。
会話が終わる。
私はスマートフォンを胸元へ下ろした。
「土曜、会う?」
春斗が聞く。
「うん」
「手繋いだことも?」
「言った」
「怒ってた?」
「優しくできないって」
「そっか」
「春斗」
「何」
「後悔してる?」
私と手を繋いだこと。
そのせいで。
竹下くんとの関係がさらに苦しくなった。
春斗はすぐに首を横へ振った。
「してない」
「うん」
「真理は?」
聞かれる。
竹下くんの短い返事。
土曜日に怒るという言葉。
胸は痛い。
罪悪感もある。
でも。
「してない」
私は答えた。
「春斗と手を繋ぎたかった」
「うん」
「繋げて嬉しかった」
「うん」
「竹下くんが傷ついても?」
苦しい問い。
「傷つけたのはつらい」
「うん」
「でも、春斗とのことを間違いにはしたくない」
春斗の表情が少しだけ柔らかくなる。
「なら」
春斗が右手を差し出した。
「もう一回」
胸が鳴る。
「いいの?」
「真理が嫌じゃなければ」
私は自分の右手を見る。
竹下くんへ伝えた。
隠していない。
それでも春斗と繋ぎたいか。
「繋ぎたい」
私はもう一度、春斗の手を取った。
指を重ねる。
今度は。
最初から。
少し強く握られた。
◇
岩瀬駅へ戻る頃には、空は暗くなり始めていた。
人の多い場所へ入る前に、私たちは手を離した。
春斗は繋いだままでもいいと言った。
でも私は。
まだ、周囲へ見せる覚悟まではなかった。
春斗は少し不満そうだったが、無理に続けなかった。
「本」
ホームで待ちながら、春斗が言う。
「今日読む?」
「少し」
「感想」
「すぐには無理」
「読み終わったら」
「うん」
「真理が選んだ方も読む」
「本当に?」
「うん」
「途中で恥ずかしくなってやめない?」
「やめない」
「恋愛小説だよ」
「知ってる」
「幼馴染もの」
「見た」
「恥ずかしい」
「選んだの真理」
「分かってる」
春斗は紙袋を少し持ち上げる。
「俺、嬉しい」
「何が?」
「真理がこれを俺に選んだこと」
「うん」
「手を繋いだことも」
「うん」
「今日」
春斗は少しだけ声を落とす。
「俺の方へ来たと思っていい?」
胸が鳴る。
完全に春斗を選んだわけではない。
土曜日。
竹下くんに会う。
告白を受ける。
それでも。
今日。
春斗と出かけ。
本を選び。
手を繋いだ。
確かに。
春斗の方へ進んだ。
「うん」
私は答えた。
「今日は、春斗の方へ進んだ」
春斗の目が少し揺れる。
「それ、かなり大きい」
「うん」
「明日、戻る?」
「分からない」
「正直」
「でも、今日をなかったことにはしない」
「うん」
春斗は少しだけ笑った。
「それでいい」
電車がホームへ入ってくる。
風が吹き。
私の髪が揺れる。
隣には春斗。
鞄の中には、春斗が私へ選んだ本。
右手には。
まだ、繋いでいた感触が残っている。
竹下くんからは、土曜日に会うと連絡が来た。
優しくできない。
怒ると思う。
それでも来るかと聞かれ。
私は行くと答えた。
逃げない。
春斗へ進んだことも。
竹下くんを好きなことも。
両方を持ったまま。
次の土曜日へ向かう。
ただ。
今日。
はっきり分かったことがある。
私はもう。
春斗を失いたくないだけではない。
春斗と恋人になる未来へ。
自分から近づき始めていた。




