第26話 幼馴染を失うのが怖いと気づいた日に、好きな人へ隠したかった噂が届きました
朝のホームルームが始まってからも、私は何度か教室の入口へ視線を向けていた。
石井美咲さんが、ここへ来るはずはない。
彼女は春斗と同じ商業科で、使っている校舎も違う。今朝の昇降口で感情をぶつけ合ったからといって、わざわざ特進クラスまで私を追いかけてくるとは思えなかった。
それでも、廊下を誰かが通るたびに肩が僅かに強張る。
担任が週末に予定されている模試の注意事項を説明している間も、石井さんの言葉が何度も頭の中へ戻ってきた。
『私は二人を同時に待たせたりしない』
『好きな人がいたら、その人だけを見る』
言い方はひどかった。
大勢がいる昇降口で、私が竹下くんと手を繋いだことまで口に出し、二人から好かれることを楽しんでいるのかと問い詰めた。傷つけようとする気持ちが、一つもなかったとは思えない。
けれど、全部が間違いだったわけでもない。
私は竹下くんを好きだと伝え、手を繋ぎ、次のデートを約束している。
その一方で春斗にも、ただの幼馴染ではない、男として意識している、誰かに取られるのは嫌だと言った。昨日は公園で指先を重ね、次は手を繋ぐかもしれないという期待まで持たせている。
迷っている。
すぐには決められない。
それは本当だ。
でも、その間にも二人との関係は確実に進んでいる。
「久保」
担任の声が飛び、私は慌てて顔を上げた。
「はい」
「今週末の模試、開始時刻は」
一瞬、答えが出てこない。
黒板には大きく書かれている。
「午前八時半です」
「集合は」
「八時……十五分」
「七時五十分だ」
教室のあちこちから、小さな笑いが漏れた。
「遅刻する気か」
「しません」
「なら人の話を聞け」
「はい」
隣で愛ちゃんが口元を手で隠しながら笑っている。
担任が再び説明へ戻ると、愛ちゃんはノートの端へ短く書き、私の机へ滑らせた。
『今日も重症』
私はその下へ返す。
『笑わないで』
『笑ってない』
『笑ってた』
『少し』
紙を戻そうとしたとき、担任がこちらを見た。
私は慌てて紙をノートの下へ隠す。
「大杉」
「はい」
「久保の監視を頼む」
「任せてください」
「愛ちゃん」
思わず声が出る。
教室に笑いが広がった。
「久保はまず目の前の授業と恋愛を分けろ」
「先生!」
今度はさらに大きな笑いが起きる。
斜め前の竹下くんも、少し困ったように笑いながら振り返った。
目が合う。
その瞬間。
今朝、春斗へ言われたこと。
石井さんに春斗を取られるのが怖いと、愛ちゃんへ認めたこと。
その全部を、竹下くんにはまだ話していないと思い出した。
笑おうとした表情が、少しだけ固くなる。
竹下くんはその変化へ気づいたようだったが、ホームルーム中だから何も聞かなかった。ただ、ほんの少し眉を寄せたまま前へ向き直る。
その背中を見ながら、胸へ新しい不安が生まれた。
今朝のことは、どれくらいの生徒が聞いていただろう。
春斗が私を好きだとはっきり言った。
石井さんが私へ、別の男子と手を繋いでいると指摘した。
あれだけ人がいた。
誰にも話すなと言ったわけでもない。
噂が広がる可能性を、私は今になってようやく現実として考え始めていた。
◇
ホームルームが終わると、竹下くんはすぐには私の席へ来なかった。
普段なら目が合えば少し笑い、授業前の短い時間にも何か一言を交わす。けれど今日は、小野寺くんから声をかけられても上の空で、机の中から教科書を取り出しながら何度かスマートフォンを確認していた。
「真理」
愛ちゃんが声を落とす。
「何?」
「噂、もう動いてるかも」
私も同じことを考えていた。
「何で分かるの?」
「廊下」
愛ちゃんの視線を追う。
教室の入口近くで、別の特進クラスの女子が二人、こちらを見ながら小声で話していた。私と目が合うと、不自然なくらい早く顔を逸らす。
「聞いてたのかな」
「昇降口にいた子から聞いたかも」
「どうしよう」
「どうしようって?」
「竹下くんに」
言葉を止める。
何を知られたくないのだろう。
春斗が私を好きだということは、竹下くんも知っている。
私が春斗を男として意識し始めたことも、完全には隠していない。
ただし。
昨日、公園で指先が触れたこと。
石井さんへ、春斗に期待させないでほしいと言ったこと。
そして今朝。
春斗が大勢の前で、私を好きだと断言したこと。
その場で私は、春斗と恋人になりたいか考えていると答えた。
竹下くんが聞けば、傷つく。
怒るかもしれない。
次の土曜日に正式に告白すると言ってくれたばかりなのに、その前日に近いところで、私は春斗との関係まで進めている。
「言わなきゃ駄目かな」
私が呟くと、愛ちゃんは少し厳しい顔になった。
「何を?」
「昨日の公園とか、今朝のこと」
「全部報告する必要はないと思う」
「うん」
「でも、噂で先に聞く方がもっと嫌じゃない?」
胸へ刺さる。
その通りだった。
竹下くんは何度も言った。
知らないまま待ち、あとから知る方が嫌だと。
「私から言う」
「うん」
「今日の昼?」
「早い方がいいと思う」
愛ちゃんはそう言いながらも、私の顔を見て少し表情を和らげた。
「怖い?」
「怖い」
「怒られるのが?」
「竹下くんに嫌われるのが」
答えた瞬間。
教室の入口にいた女子たちが離れていく。
入れ替わるように、サッカー部の男子生徒が一人、竹下くんの席へ近づいた。同じクラスではない。隣の普通科クラスの生徒で、以前小野寺くんと一緒にいるところを見たことがある。
男子生徒は竹下くんの耳元へ何かを話す。
竹下くんの表情が変わった。
目が大きくなり、そのあと一気に硬くなる。
私は息を止めた。
男子生徒が何か付け加え、小野寺くんが「朝から何の話?」と割って入る。竹下くんは答えず、ゆっくり私の方を見た。
目が合う。
いつもと違う。
怒っている。
それだけではない。
傷ついている。
それが、離れた場所からでも分かった。
「真理」
愛ちゃんが小さく呼ぶ。
「うん」
「来るよ」
竹下くんが立ち上がった。
教室の中を歩き、私の机の前で止まる。
周囲の何人かが、その動きを目で追っていた。
「久保さん」
声が硬い。
「うん」
「今朝」
一度、言葉を止める。
「春斗くんが、みんなの前で久保さんを好きだって言った?」
もう届いている。
「言った」
私は嘘をつかなかった。
竹下くんの目が僅かに揺れる。
「それだけ?」
「何を聞いたの?」
「久保さんが俺と手を繋いだことを、商業科の女子に責められたって」
教室の空気が静かになり始める。
完全に会話が止まったわけではない。
けれど、近くにいた生徒たちは明らかにこちらへ耳を向けている。
「場所、変えよう」
私は立ち上がった。
「今、授業始まる」
「でも」
「じゃあ昼」
竹下くんは私を見る。
「逃げない?」
胸が痛む。
「逃げない」
「本当に?」
「うん」
「昨日、春斗くんと何したかも話せる?」
指先へ、昨日の感触が戻る。
言葉に詰まった。
その一瞬だけで、竹下くんには答えが伝わったらしい。
「何かしたんだ」
声が低くなる。
「竹下くん」
「手は繋いでないって言ったよね」
「繋いでない」
「じゃあ何」
「ここでは話したくない」
「俺には話したくないんじゃなくて?」
周囲の視線がさらに集まる。
「違う」
「でも、春斗くんとのことだから言わないって昨日も言った」
「うん」
「俺とのことも春斗くんには全部言ってないから、それでいいって思おうとした」
「うん」
「でも、何も知らないまま、ほかのやつから聞かされるのは無理だよ」
竹下くんの声が震えていた。
怒りを抑えている。
「昼に話す」
私は言った。
「全部は話せないかもしれない」
「何で」
「春斗とのことだから」
「またそれ?」
竹下くんの声が大きくなった。
教室が今度こそ静まる。
前の方で話していた生徒も、教科書を出していた生徒も、こちらを見ている。
「俺とのことは、春斗くんに知られたくないって言ったよね」
「うん」
「それは俺との時間を守りたいってことだと思った」
「そうだよ」
「じゃあ、春斗くんとのことを俺に言わないのも、春斗くんとの時間を守りたいから?」
答えは。
そうだった。
昨日の公園で指先が触れたことを、竹下くんの反応で悪い思い出にしたくない。
春斗が私を男として意識させた時間を、竹下くんへ許可されるものにしたくない。
その感情を、今ここで隠すのは違う。
「うん」
私は答えた。
竹下くんの顔から、少しだけ色が消えた。
「そっか」
「竹下くん」
「俺との時間も守る。春斗くんとの時間も守る」
「うん」
「俺には、どっちも選んでるようにしか見えない」
教室へ沈黙が落ちた。
愛ちゃんが何か言おうとする。
けれど、私は小さく首を横へ振った。
これは私と竹下くんの話だ。
「選んでる」
認める。
竹下くんが唇を強く結ぶ。
「今の時間は、それぞれ選んでる」
「それをいつまで続けるの」
「土曜日まで考える」
「土曜日に俺と会うのに?」
「うん」
「俺とデートして、俺から告白されて、そのあと春斗くんとどこか行ったことも考えて決める?」
「そうなる」
竹下くんは何も言わなくなった。
怒鳴られるより。
その沈黙の方が苦しかった。
次の授業を担当する教師が教室へ入ってくる。
入り口で空気の異変へ気づき、私たちを見た。
「何をしている。席へ戻れ」
竹下くんは私から目を逸らさない。
「昼」
小さく言う。
「二人で話したい」
「うん」
「大杉さんも、小野寺も来ないで」
「分かった」
竹下くんは自分の席へ戻った。
周囲の生徒たちも、慌てて教科書を開き始める。
教師は何か言いたそうに眉を寄せたが、チャイムが鳴ったため授業を始めた。
私はノートを開く。
手が少し震えていた。
◇
一時間目の内容は、ほとんど頭へ入らなかった。
教師の声は聞こえている。
黒板へ書かれる文字も見えている。
けれど、その意味が頭の中でつながらない。
竹下くんの背中だけが視界へ入り続ける。
いつもより姿勢が硬い。
一度もこちらを見ない。
昨日までは、授業中に目が合うだけで嬉しかった。
今日は。
その目が自分へ向かないことが苦しかった。
嫌われたかもしれない。
土曜日の約束を取り消されるかもしれない。
正式に告白すると言ってくれたのに、もう言いたくないと思っているかもしれない。
想像するたび、胸が締めつけられる。
それでも。
昨日の春斗との時間を後悔しているかと聞かれれば、答えは違う。
公園へ行けてよかった。
春斗の気持ちを知れてよかった。
指先へ触れてほしいと自分で許した。
その記憶を消したくない。
どちらも失いたくない。
そんな考えが浮かび。
私はノートへ向けていた視線を止めた。
また。
失いたくない。
誰と恋人になりたいのかではなく、どちらも失いたくないと考えている。
土曜日までに変わらなければならないのは、そこだった。
◇
休み時間になっても、竹下くんは席を立たなかった。
小野寺くんが近づき、何かを聞こうとしたが、竹下くんは小さく首を横へ振った。小野寺くんは心配そうな顔で私を見る。
私は何も言えなかった。
「真理」
愛ちゃんが私の机へ寄る。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「昼、二人で話せる?」
「話す」
「感情的になってると思う」
「うん」
「真理も、言い返す前に一回考えてね」
愛ちゃんの助言は正しい。
でも。
私は少しだけ苦しくなった。
「竹下くんばかり我慢してると思う?」
聞く。
愛ちゃんはすぐには答えなかった。
「今はそう見える部分もある」
「春斗も我慢してる」
「うん」
「私も苦しい」
「うん」
「なのに、みんな私が決めれば終わるみたいに言う」
声が少し強くなる。
愛ちゃんは怒らなかった。
「真理」
「何」
「決めても全部は終わらないよ」
「うん」
「選ばれなかった方は傷つくし、真理も苦しむ」
「うん」
「だから簡単に決めろとは思ってない」
愛ちゃんは静かに続ける。
「でも、竹下くんも春くんも、真理の迷いの中にずっと置かれてる」
「分かってる」
「今朝、石井さんに言われたことが痛かったのも、分かってるからでしょう」
「うん」
「なら昼、竹下くんが悪いって話にしないで」
「しない」
「自分が何をしたいのか、逃げずに話して」
私は頷いた。
「愛ちゃん」
「何?」
「私、二人から好かれてることを、どこかで嬉しいと思ってるのかな」
口にするのが怖かった。
石井さんに言われたこと。
二人から好かれて楽しいのか。
私は否定したかった。
けれど。
春斗に嫉妬されれば嬉しい。
竹下くんに独占したいと言われても嬉しい。
二人が自分を選んでほしいと争うように近づいてくることへ、胸が高鳴る瞬間がある。
「少しはあると思う」
愛ちゃんは正直に答えた。
「最低?」
「高校生で、二人の男の子から好きって言われて、全然嬉しくない方が珍しいと思う」
「じゃあ」
「でも、嬉しいから両方へ期待させ続けていいわけじゃない」
「うん」
「そこを認めた方が、真理はちゃんと選べると思う」
胸へ痛みと一緒に、少しだけ息が通る。
自分は純粋に悩んでいるだけ。
誰かを傷つけたくないだけ。
そう思おうとしていた。
でも。
選ばれる喜びへ甘えている部分もある。
それを認めなければ、同じことを繰り返す。
「昼、言う」
「何を?」
「私も、二人から好かれて嬉しいと思ってること」
「全部そのまま言うと、竹下くん余計傷つくかも」
「じゃあどうすれば」
「自分がずるいところも分かってるって伝える」
愛ちゃんは少し困ったように笑う。
「真理、正直と無遠慮が時々同じになるから」
「気をつける」
「本当にね」
◇
昼休みの鐘が鳴ると、竹下くんは弁当箱を持たずに立ち上がった。
私を見る。
「行こう」
「うん」
愛ちゃんも小野寺くんも何も言わない。
周囲の生徒たちは、私たちが教室を出る様子を気にしていた。朝の会話を聞いていた者も多い。廊下へ出たあとも、背中に視線が残っている気がした。
竹下くんは階段を下り、校舎裏へ向かった。
昼休みの中庭には多くの生徒がいる。ベンチで弁当を食べる者、購買のパンを持って歩く者、短い時間を使ってボールを蹴る男子たち。
竹下くんは人の少ない渡り廊下の端で止まった。
窓の外には、昨日の雨で少し色を濃くした木々が見える。遠くから運動部の声が聞こえるが、ここには私たち以外ほとんど人がいなかった。
「何したの」
竹下くんは、私が立ち止まるとすぐに聞いた。
「昨日、春斗くんと」
声はまだ硬い。
「公園へ行った」
「二人で?」
「うん」
「何で公園?」
「昔行ったことがある場所だったから」
「春斗くんが誘った?」
「うん」
「そこで何したの」
私は少し息を吸う。
全部を話す必要はない。
でも、何も言わずに守ろうとすれば、また竹下くんを置き去りにする。
「昔の話をした」
「それだけ?」
「春斗が、昔私からもらった手紙を持ってた」
「うん」
「幼馴染だから好きなんじゃなくて、私が春斗をちゃんと見てきたから好きだって言われた」
竹下くんの表情が僅かに歪む。
「告白された?」
「前から好きって言われてる」
「昨日も言われたってこと?」
「うん」
「それで?」
指先へ目を落とす。
「手を繋いだ?」
「繋いでない」
「何したの」
「指が触れた」
言った。
竹下くんが動きを止める。
「指?」
「春斗が触っていいか聞いた」
「久保さんは?」
「いいって言った」
沈黙。
遠くで誰かが笑う声が聞こえた。
日常の音だけが、私たちの間を通り過ぎていく。
「何で」
竹下くんが小さく聞く。
「触ってほしかったから」
逃げずに答えた。
「俺と手繋いだよね」
「うん」
「次も繋ぎたいって言った」
「うん」
「俺を好きって」
「それも本当」
「なのに春斗くんにも触ってほしい?」
「うん」
竹下くんの目が赤くなる。
泣くわけではない。
でも、感情を押し込めきれていない。
「俺、何を信じればいいの」
胸が痛む。
「竹下くんを好きなこと」
「それだけ?」
「一緒にいたい。土曜日も会いたい。告白もちゃんと聞きたい」
「でも、春斗くんとも恋人になりたいか考える」
「うん」
「それ、俺のこと本当に好きって言える?」
今まで。
竹下くんは私の気持ちを、本物だと認めてくれていた。
春斗を考えても、竹下への恋まで嘘にしなくていいと言ってくれた。
けれど今。
その竹下くん自身が、信じられなくなっている。
「言える」
私は答えた。
「竹下くんを好き」
「じゃあ俺を選んで」
初めて。
待つという言葉をつけずに言われた。
「今、俺を選んでよ」
声が震えている。
「竹下くん」
「土曜日までって言ったけど、もう嫌だ」
「うん」
「春斗くんとまた何かあるかもしれないって考えながら、土曜日まで待つの無理」
「うん」
「今日、答えて」
胸が苦しくなる。
竹下くんを失いたくない。
今選べば。
竹下くんと付き合える。
好きな人の彼女になれる。
最初に望んでいた未来。
けれど。
春斗を切り離す覚悟が、今の私にはない。
「今は答えられない」
私は言った。
竹下くんの表情が崩れる。
「やっぱり春斗くんの方が大事?」
「分からない」
「昨日、指が触れただけで?」
「それだけじゃない」
「昔から一緒だから?」
「それもあるけど」
「じゃあ何」
竹下くんの声が大きくなる。
「俺より春斗くんの何がいいの」
感情が溢れている。
竹下くんも、高校生だ。
ずっと理性的に待てるわけではない。
「比べる言い方したくない」
「俺は比べてる」
「竹下くん」
「春斗くんに負けたくない」
竹下くんは拳を握る。
「サッカーも勉強も、負けたら次頑張れる。でも久保さんは、一回選ばれなかったら終わりかもしれない」
「うん」
「だから怖い」
声が弱くなる。
「久保さんが春斗くんを失うの怖いって思うのと同じくらい、俺も久保さんを失うのが怖い」
胸へ深く落ちる。
私は石井さんに春斗を取られる想像をし、息が苦しくなるほど怖いと思った。
竹下くんも同じだ。
私が春斗の方へ行く未来を想像し、怖がっている。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「今、優しくされると余計つらい」
竹下くんは顔を背けた。
私は何も言えなくなる。
少しして。
「土曜日」
竹下くんが言う。
「うん」
「来る?」
「行きたい」
「春斗くんと何かあっても?」
「うん」
「俺が告白しても、まだ考えるって言う?」
「今は分からない」
竹下くんは目を閉じる。
一度、深く息を吸い。
「分かった」
静かに言った。
「待つ?」
「待ちたくない」
「うん」
「でも、今無理に付き合ってもらっても」
竹下くんは私を見る。
「春斗くんに取られるかもって、ずっと疑うと思う」
「うん」
「だから土曜日までは待つ」
「ありがとう」
「ただし」
声が強くなる。
「春斗くんと、それ以上進まないで」
胸が固くなる。
「それ以上?」
「手、繋がないで」
「竹下くん」
「キスも」
「しないよ」
「分からないだろ」
竹下くんは苦しそうに言う。
「昨日だって、指が触れるなんて聞いてなかった」
「うん」
「土曜日までは、俺に考える時間をくれるって言った」
「私が考える時間」
「同じだよ」
「違う」
反射的に言った。
竹下くんの表情が変わる。
「私が誰と恋人になりたいか考える時間」
「うん」
「その間、竹下くんとだけ近づいて、春斗とは止まるなら」
言葉を選ぶ。
「最初から竹下くんを選んでるのと同じになる」
「それでいい」
即答だった。
「俺を選んで」
「今はできない」
「じゃあ春斗くんとも進みたい?」
答えに詰まる。
「……うん」
竹下くんの顔が歪む。
「最低」
小さな言葉。
胸へ刺さった。
竹下くん自身も、言った直後に後悔したようだった。
目を見開き、口を閉じる。
「ごめん」
今度は竹下くんが謝った。
「今のは違う」
「違わない部分もある」
「でも言い方」
「石井さんにも似たこと言われた」
「俺はあの人と同じじゃない」
「分かってる」
「俺は久保さんを傷つけたいわけじゃない」
「うん」
「ただ、苦しい」
竹下くんの声が掠れる。
「好きだから」
私は頷いた。
「分かってる」
「分かってないよ」
また少し強い声になる。
「分かってたら、春斗くんにも進みたいなんて言えない」
「私も二人とも好きだから苦しい」
「それを俺に理解しろって?」
「違う」
「じゃあ何」
「分からない」
互いに感情が剥き出しになっていた。
正しい言葉を選ぶ余裕がない。
「今日は」
竹下くんが一度顔を伏せる。
「一緒に昼食べられない」
「うん」
「教室戻っても、普通にできない」
「うん」
「少し一人にして」
胸が痛い。
それでも。
今、追いかけて慰めれば。
また竹下くんへ期待を持たせる言葉を重ねてしまうかもしれない。
「分かった」
私は答えた。
「土曜日」
「今は約束したままにする」
「うん」
「でも、夜まで連絡しない」
「分かった」
竹下くんは私の横を通り過ぎ、渡り廊下の向こうへ歩いていく。
その背中を。
私は追えなかった。
◇
教室へ戻ると、愛ちゃんと小野寺くんが別々の席で待っていた。
小野寺くんは竹下くんが戻っていないことへ気づき、すぐに立ち上がる。
「竹下は?」
「一人にしてって」
「何があった?」
声が少し強い。
友人として心配している。
「小野寺くん」
「久保さんを責めたいわけじゃない。でも竹下、朝からかなりおかしかった」
「うん」
「どこ行った?」
「分からない」
小野寺くんは少し迷ったあと、教室を出ていった。
竹下くんを探しに行くのだろう。
愛ちゃんが私の隣へ来る。
「話した?」
「うん」
「どうなった?」
「土曜日までは待つって」
「それなら」
「でも、春斗とそれ以上進まないでって言われた」
「うん」
「断った」
愛ちゃんは驚いたように私を見る。
「どうして?」
「竹下くんだけと近づいて、春斗とは止まるなら、考える意味がないと思った」
「うん」
「春斗とも進みたいって言った」
愛ちゃんはしばらく黙った。
「竹下くん、何て?」
「最低って」
「真理」
「すぐ謝ってくれた」
「うん」
「でも、間違ってないと思う」
声が震える。
愛ちゃんは私の前の席へ座り、少し身体を近づけた。
「泣く?」
「泣かない」
「目、赤いよ」
「教室だから」
「空き教室行く?」
「行かない」
ここで泣けば。
周囲にさらに噂が広がる。
私は鞄から弁当箱を出す。
「食べるの?」
「午後授業あるから」
蓋を開ける。
卵焼きが入っている。
昨日までは竹下くんと交換していた。
今日は。
一人分だけ。
箸を持とうとして、手が震えた。
「愛ちゃん」
「何?」
「私、竹下くんを好きだよ」
「うん」
「傷つけたいわけじゃない」
「うん」
「でも春斗とも進みたい」
「うん」
「やっぱり最低かな」
愛ちゃんはすぐには答えなかった。
「未熟だと思う」
「うん」
「欲張り」
「うん」
「でも、今それを認めたなら」
愛ちゃんは静かに続ける。
「土曜日までに、本当に選ばないといけない」
「うん」
「今日みたいなこと、何回も続けたら二人とも壊れるよ」
私は頷く。
弁当の卵焼きを口へ入れる。
味がほとんど分からなかった。
◇
午後の授業が始まっても、竹下くんは教室へ戻ってこなかった。
担任が出席を確認し、空いている席を見て眉を寄せる。
「竹下は」
小野寺くんが手を上げた。
「保健室です」
「体調不良か?」
「少し」
小野寺くんは詳しく言わなかった。
担任は心配そうにしながらも、保健室から連絡が来ているのか、それ以上追及せず授業を始めた。
私は竹下くんの空席を見る。
自分があそこから追い出したような気がした。
スマートフォンを取り出したくなる。
大丈夫か聞きたい。
ごめんと送りたい。
土曜日は必ず行くと伝えたい。
でも。
一人にしてほしいと言われた。
今送れば。
自分の罪悪感を軽くするために、竹下くんの時間へ入り込むことになる。
私は何も送らなかった。
◇
放課後。
竹下くんは最後まで教室へ戻らず、そのまま早退したと小野寺くんから聞いた。
「家の人に迎え来てもらった」
教室の入口で、小野寺くんが言う。
「体調は?」
「身体は大丈夫」
「うん」
「でも今、久保さんとは話せないって」
胸が痛む。
「分かった」
「何があったか、竹下から少し聞いた」
「うん」
「俺、久保さんを責めるつもりはない」
小野寺くんは珍しく真剣な表情だった。
「でも竹下、本気だから」
「分かってる」
「たぶん、久保さんが思ってるより余裕ない」
「うん」
「サッカーの試合前でも、あんな顔しない」
「ごめん」
「俺に謝られても」
小野寺くんは一度視線を落とす。
「土曜日、行くんだよね?」
「うん」
「なら逃げないで」
「逃げない」
「竹下が何言っても?」
「うん」
「ちゃんと聞いて」
「約束する」
小野寺くんは小さく頷いた。
それから、いつものように軽口を言うこともなく教室を出ていった。
◇
愛ちゃんと一緒に昇降口へ向かう。
朝の噂はさらに広がっていた。
廊下を歩く途中で、何度か名前を聞いた。
「久保さんって」
「商業科の男子と」
「でも竹下くんとデートして」
小声でも分かる。
胸が苦しくなる。
「気にしないで」
愛ちゃんが言う。
「無理」
「だよね」
「みんな、私のこと嫌な女だと思ってるかな」
「思う人はいると思う」
「正直すぎ」
「でも、全部知ってる人はいない」
「全部知っても同じかも」
「それでも、噂だけで決める人のために選ぶわけじゃないでしょう」
愛ちゃんの言葉へ頷く。
昇降口へ着く。
春斗が待っていた。
私の顔を見ると、すぐに表情を変えた。
「何があった」
近づいてくる。
「竹下くんと話した」
「うん」
「喧嘩した」
「何言われた?」
春斗の声が低くなる。
「春斗」
「何」
「怒らないで」
「内容による」
「竹下くんが悪いわけじゃない」
「真理、泣いた?」
「泣いてない」
「目赤い」
愛ちゃんと同じことを言われる。
春斗が私の顔へ手を伸ばしかける。
その指先を見て。
竹下くんの言葉を思い出す。
それ以上進まないで。
私は反射的に一歩下がった。
春斗の手が止まる。
「触るの嫌?」
「違う」
「じゃあ何」
説明しなければならない。
「竹下くんに」
声が少し震える。
「土曜日まで、春斗とそれ以上進まないでって言われた」
春斗の表情が硬くなる。
「真理は?」
「断った」
春斗の目が少し見開かれる。
「どうして」
「春斗とも進みたいから」
はっきり言った。
愛ちゃんが少し離れた場所で息を止める。
春斗は何も言わない。
「でも今」
私は続ける。
「竹下くんを傷つけたこと思い出したら、触られるの怖くなった」
「俺が嫌なんじゃなく?」
「違う」
「竹下に悪いから?」
「うん」
春斗は一度、伸ばしかけた手を握り込む。
「分かった」
「怒らない?」
「怒ってる」
「竹下くんに?」
「真理に」
意外だった。
「何で?」
「春斗とも進みたいって言ったのに、竹下が傷ついた顔思い出して俺から下がったから」
「でも」
「俺との時間は俺とのものにするって言った」
「うん」
「今、俺が真理を心配して触ろうとした」
「うん」
「それを竹下に止められたみたいにするな」
胸へ刺さる。
春斗の言う通りだ。
「ごめん」
「謝るなら、次どうするか決めて」
「今は」
自分の気持ちを確かめる。
春斗に触れられるのは嫌ではない。
むしろ。
さっき手が伸びてきたとき、少し安心しかけた。
「触れてほしい」
答える。
春斗の目が揺れる。
「本当に?」
「うん」
「竹下に悪いと思っても?」
「思う」
「それでも?」
「春斗に触れてほしい」
春斗はゆっくり手を伸ばした。
今度は。
私の頭へ軽く触れる。
髪を撫でるのではなく。
手のひらをそっと置くだけ。
「今日はこれだけ」
「どうして?」
「真理が今、弱ってるから」
「うん」
「弱ってるときに、俺へ傾かせたくない」
春斗の声は静かだった。
受け身へ戻ったわけではない。
私を望みながら。
今踏み込むのは違うと、自分で決めている。
「春斗」
「何」
「ありがとう」
「うん」
手のひらの温かさが、頭から胸へゆっくり広がる。
昇降口には生徒がまだ残っている。
こちらを見る者もいる。
それでも春斗は手を離さなかった。
「噂」
春斗が言う。
「うん」
「広がってる」
「知ってる」
「俺が止める」
「どうやって?」
「聞かれたら、俺が真理を好きで勝手に動いてるって言う」
「全部春斗のせいにするの?」
「違う」
「私も悪い」
「分かってる」
春斗は少しだけ眉を寄せる。
「でも、真理だけが二人を弄んでるみたいに言われるのは違う」
「石井さんも」
「石井には話す」
「怒る?」
「怒ってる」
「でも、傷つけないで」
「約束はしない」
「春斗」
「俺も高校生だから」
その言葉へ。
胸が少し動く。
春斗も。
竹下くんも。
石井さんも。
私も。
誰も大人ではない。
正しい感情の扱い方を、最初から知っているわけではない。
「でも」
春斗は続ける。
「言いすぎたら謝る」
「うん」
「石井にも、竹下にも」
「竹下くんにも話すの?」
「必要なら」
「喧嘩しないで」
「向こう次第」
「春斗」
「冗談」
冗談に聞こえない。
でも。
少しだけ、いつもの春斗へ戻っていた。
「帰る?」
聞かれる。
「うん」
「今日、二人で?」
「うん」
「竹下が嫌がっても?」
胸が痛む。
それでも。
「今日は春斗と帰る」
答える。
春斗は頷いた。
「分かった」
◇
校門を出る。
夕方の空は薄い雲に覆われ、昨日より風が冷たかった。
春斗は私の隣を歩く。
触れない。
でも、離れない。
「真理」
「何?」
「土曜日」
「うん」
「竹下と会う?」
「会う」
「止めてほしい?」
聞かれる。
以前なら。
春斗が嫌ならどうしようと考えた。
今は。
自分の答えとして言う。
「行く」
「うん」
「竹下くんと話す」
「うん」
「告白も聞く」
「うん」
「そのうえで決める」
春斗の横顔が僅かに強張る。
「怖い?」
私が聞く。
「怖い」
隠さない。
「竹下を選ぶかもしれない」
「うん」
「でも、今日俺とも進みたいって言った」
「うん」
「それ、信じる」
春斗は前を見る。
「だから明日」
「何?」
「俺とも出かけて」
足が止まりそうになる。
「明日?」
「放課後」
「また?」
「土曜日の前に、俺ももう一回時間ほしい」
春斗は私を見る。
「竹下だけに最後の時間渡したくない」
独占欲。
焦り。
春斗も余裕がない。
「どこ行くの?」
「決めてない」
「また?」
「今決めたから」
「急すぎる」
「嫌?」
私は少し考える。
竹下くんと喧嘩した翌日。
春斗と出かければ。
さらに傷つけるかもしれない。
でも。
春斗との未来も考えると決めた。
逃げたくない。
「行く」
答える。
「春斗と」
春斗の表情が少し柔らかくなる。
「明日は」
私は続ける。
「竹下くんに悪いと思っても、春斗との時間として過ごす」
「うん」
「でも、無理に近づくためじゃない」
「分かってる」
「私が春斗と恋人になりたいか考えるため」
「それでいい」
春斗は静かに笑った。
私はその隣を歩きながら。
土曜日までの日数を数えた。
あと三日。
竹下くんと喧嘩した。
石井さんとの関係も壊れ始めている。
噂は学校へ広がっている。
春斗は、明日も私との時間を求めている。
恋愛が始まる前は。
好きな人と付き合えれば、それで幸せになれると思っていた。
今は。
誰かを選ぶまでの道が。
こんなにも痛く。
誰かを好きになることが。
こんなにも自分の未熟さを見せつけるものだとは思わなかった。
それでも。
竹下くんを好きな気持ちも。
春斗へ近づきたい気持ちも。
どちらも、もう嘘にはできなかった。
だから。
私は歩く。
傷つけたことから逃げず。
自分が何を望んでいるのかを。
次の土曜日までに見つけるために。




