第25話 好きな人との約束を決めた夜、幼馴染が別の女の子へ私を特別だと言いました
公園から岩瀬駅へ向かう帰り道で、私は何度も右手の小指へ視線を落とした。
すでに春斗の指は触れていない。触れていた時間も、長かったわけではなかった。手のひらを重ねたわけでも、竹下くんと偕楽園を歩いたときのように、指を絡めて握ったわけでもない。
それなのに、指先へ残っている感覚は、思っていたよりも鮮明だった。
春斗の指が近づいてきたときの緊張。触れた瞬間に身体へ走った、驚きとも安心ともつかない熱。小指が僅かに絡んだだけで、息の仕方まで分からなくなったこと。
そして、スマートフォンの通知が鳴って離れたとき、寂しいと思ったこと。
その全部が、今も胸の中へ残っている。
「さっきから手ばかり見てる」
隣を歩いていた春斗が言った。
夕方の駅前は、学校帰りの生徒と仕事を終えた人たちで混み始めていた。交差点では車の列が長く伸び、飲食店の看板にも少しずつ灯りが入り始めている。風には昼間よりも冷たさが混じり、雨上がりの湿った匂いもまだ残っていた。
「見てないよ」
「今見てた」
「たまたま」
「公園出てから何回目?」
「数えてたの?」
「真理が分かりやすいから」
以前から何度も言われてきた言葉だった。
けれど今は、意味が少し違う。
春斗は、私が指先へ残った感触を気にしていると分かっている。そのうえで、楽しそうに聞いている。
「春斗」
「何?」
「嬉しそう」
「嬉しい」
「どうして?」
「俺が触ったところを気にしてるから」
正直すぎる。
以前の春斗なら、私が気づかないように感情を隠していた。少し機嫌が悪そうに見えても、聞けば「別に」と答え、本を開いて会話を終わらせていた。
その春斗が今は、好きだという気持ちも、期待も、嫉妬も、嬉しさも隠そうとしない。
「調子に乗らないで」
「無理」
「まだ指先だけだからね」
「真理が許した指先」
「そういう言い方しないで」
「何で」
「恥ずかしい」
「俺もかなり恥ずかしかった」
「見えなかった」
「見せないようにしてた」
「前と同じじゃん」
「前は全部隠した。今日は少し隠した」
春斗がそう言い、僅かに笑う。
私はその横顔を見ながら、胸の奥へ生まれた感情をどう扱えばいいのか分からなくなった。
竹下くんと手を繋いだとき。
好きな人と恋をしている。
そう強く感じた。
竹下くんの手は大きく、少し硬くて、握られた瞬間に身体中が熱くなった。並んで歩くことが嬉しく、周囲に見られているかもしれない恥ずかしささえ、恋愛らしい特別なものに思えた。
春斗とは。
まだ手を繋いでいない。
小指が触れただけ。
それでも、竹下くんとは違う場所が大きく揺れた。
長く知っているからこその安心。
その安心を壊すような緊張。
幼馴染の手ではなく、自分を好きな男の子の手として意識した瞬間、今まで何度も近くにあったはずの体温が、全く知らないもののように感じられた。
「真理」
「何?」
「また考えてる」
「うん」
「俺のこと?」
聞かれ、少し迷う。
でも、今日は春斗との時間だ。
「うん」
答えると、春斗の足が一瞬だけ遅くなった。
「何考えてた?」
「言わない」
「何で」
「今言ったら、もっと調子に乗るから」
「かなりいいこと?」
「少し」
「じゃあ言って」
「嫌」
「今日、俺を考えるって言った」
「考えるとは言ったけど、全部話すとは言ってない」
「ずるい」
「春斗に言われたくない」
言い合いながら歩く。
いつものような会話。
でも、肩が触れそうになるたび意識してしまう。春斗が少し近づけば、また指が触れるのではないかと考えてしまう。
そして、そのことを期待している自分にも気づいていた。
◇
岩瀬駅のホームへ着くと、帰宅時間と重なったため、朝よりも多くの人が電車を待っていた。
同じ水橋高校の制服を着た生徒も多い。部活動を終えたらしい男子生徒たちは大きな荷物を足元へ置き、練習の疲れを隠そうともせずベンチへ身体を預けている。女子生徒の集団は、誰かの恋愛話らしい内容で盛り上がっており、ときどき大きな笑い声が上がっていた。
私と春斗は、人の少ないホームの端へ移動した。
いつものベンチは埋まっている。
春斗は柱の近くへ立ち、私はその隣へ並んだ。
「疲れた?」
私が聞くと、春斗は首を横へ振った。
「今日は大丈夫」
「本当に?」
「朝から何回目」
「病み上がりなんだから仕方ないでしょ」
「公園まで歩かせたの俺だけど」
「途中で倒れたら怒るよ」
「誰に」
「春斗に」
「倒れてる相手に怒る?」
「倒れる前に言わなかったことへ」
「面倒」
「心配してるの」
「分かってる」
春斗は少しだけ口元を緩めた。
その表情を見て、私は安心する。
同時に。
石井さんが春斗の体調を気にかけ、委員会の資料を管理し、授業を休んだ分のことまで知っているのだとしたら。
そんな考えが胸へ浮かんだ。
「春斗」
「何?」
「石井さんって、春斗が熱出したこと知ってた?」
「クラスだから知ってる」
「連絡来た?」
「委員会の資料については来た」
「個人的に?」
「個人的って何」
「大丈夫、とか」
春斗は少し考えた。
「一回来たかも」
「何て?」
「体調どうって」
胸の奥が重くなる。
「返した?」
「返した」
「何て?」
「大丈夫って」
「それだけ?」
「たぶん」
たぶん。
春斗にとっては、覚えていないほど普通のやり取り。
でも石井さんにとっては。
そう考えると、落ち着かなくなる。
「真理」
「何?」
「また嫉妬してる」
「してない」
「今のでしてないは無理」
「だって」
「うん」
「私が知らないところで連絡取ってるの嫌」
口に出してから、自分の身勝手さがまた胸へ突き刺さる。
私も竹下くんと連絡を取っている。
今夜も話す。
土曜日の予定を決める。
春斗が知らない話もたくさんある。
それなのに。
春斗が石井さんから一度体調を聞かれ、返事をしただけで嫌だと思う。
「最低だと思ってる」
私は続けた。
「竹下くんとは連絡するのに、春斗が女の子と連絡取るの嫌って」
「うん」
「そこは否定してよ」
「身勝手ではある」
「春斗まで」
「でも、俺は嬉しい」
春斗は少しも迷わなかった。
「真理が俺を自分のものみたいに思ってるから」
「自分のものなんて」
「違う?」
聞かれる。
答えられない。
幼馴染だから。
家が近いから。
毎日一緒にいるから。
今までは、春斗が私の隣にいることを当然だと思っていた。
そこへ別の女子が入り込んだ瞬間、取られるような気がした。
「……少し」
「少し?」
「かなり」
認めると、春斗の目が柔らかくなる。
「真理」
「何?」
「俺を選ぶ可能性、本当にある?」
不意に聞かれた。
ホームを通り抜ける風が、春斗の前髪を僅かに揺らす。少し離れた場所では、電車の到着を知らせる案内放送が流れ始めていた。
「ある」
私は答えた。
「幼馴染を失いたくないだけじゃなく?」
「今日」
指先へ視線を落とす。
「男として意識した」
「うん」
「春斗と手を繋ぎたいかって聞かれて」
「うん」
「嫌じゃなかった」
「今すぐ繋ぐ?」
春斗が言う。
反射的に顔を上げた。
「ここで?」
「嫌?」
周囲には大勢の人がいる。
同じ学校の生徒もいる。
竹下くんの友人がいる可能性もある。
もし見られたら。
竹下くんへ伝わったら。
その不安が先に浮かぶ。
私は少しだけ右手を握った。
「今日は無理」
答える。
春斗の表情が僅かに曇った。
「竹下に見られるかもしれないから?」
「それもある」
「俺と繋ぎたいかじゃなく?」
「繋ぎたくないわけじゃない」
「でも今は繋がない」
「うん」
春斗は一度だけ息を吐いた。
「分かった」
「怒った?」
「少し」
「ごめん」
「でも」
春斗は私の右手を見る。
「嫌だからじゃないって聞けたから、前よりはいい」
「うん」
「次は人がいないところで聞く」
「また聞くの?」
「聞く」
「何回も?」
「真理が頷くまで」
「断り続けたら?」
「理由は聞く」
「面倒」
「待つだけやめたから」
春斗は静かに言った。
「欲しいものは欲しいって言う」
胸が大きく鳴る。
以前の春斗とは違う。
私の気持ちを尊重しながらも、諦めたふりをしない。
竹下くんに取られたくない。
自分を選んでほしい。
手を繋ぎたい。
その全部を、言葉へ変えてくる。
怖い。
でも。
嬉しい。
◇
到着した電車は混んでいた。
座席はほとんど埋まり、私と春斗は並んで吊り革につかまった。車内には濡れた傘の匂いと、部活動を終えた生徒たちの汗、誰かが持っている菓子パンの甘い香りが混ざっている。
電車が動き始めると、身体が大きく揺れた。
私は吊り革を握ったまま、少しよろける。
春斗の左手が、すぐに私の腕へ伸びた。
肘の少し上。
制服越しに支えられる。
「大丈夫?」
「うん」
「転ぶなよ」
「急に揺れたから」
「いつも乗ってるだろ」
「春斗が近いから気が散った」
口から出た。
春斗の動きが止まる。
私も、自分が何を言ったのか理解して顔が熱くなった。
「今の」
「忘れて」
「無理」
「聞かなかったことにして」
「絶対しない」
春斗は腕から手を離した。
けれど。
身体は少し近いまま。
「俺が近いと気になる?」
「少し」
「男として?」
「聞かないで」
「さっき言った」
「何回も言わせないで」
「じゃあ覚えておく」
「勝手にして」
窓の外へ顔を向ける。
夕方の街が流れていく。
ガラスへ映った自分の顔は、思った以上に赤かった。
その隣で。
春斗も少しだけ笑っている。
◇
家へ着いたのは、午後七時少し前だった。
玄関を開けると、夕食の匂いが廊下まで広がっている。台所からは鍋の蓋が触れる音が聞こえ、居間ではテレビのニュースが流れていた。
「おかえり」
母が台所から顔を出す。
「ただいま」
「遅かったね」
「少し寄ってきた」
「誰と?」
すぐに聞かれる。
以前なら、春斗と、と何も考えずに答えていた。
今日は。
春斗と二人で公園へ行き。
昔の手紙を見せてもらい。
好きだと言われ。
指先を重ねた。
同じ「春斗と」でも、今までとは意味が違う。
「春斗と」
それでも答える。
母の目が少し細くなる。
「竹下くんじゃなく?」
「今日は春斗」
「何してきたの?」
「話した」
「それだけ?」
胸が鳴る。
「昔行った公園へ行った」
「どこの?」
「学校の近く」
「春斗くんが誘ったの?」
「うん」
「へえ」
母の声には、明らかに何かを察した調子が混じっていた。
「何?」
「春斗くんも動き始めたのね」
「知ってたの?」
「何を?」
「春斗が私を好きなの」
「本人から聞いてはいないよ」
「じゃあ何で」
「親は、子どもが思っているより見てるから」
母は火を弱め、台所から出てきた。
「真理は?」
「何が?」
「楽しかった?」
「うん」
「竹下くんとのデートより?」
「比べないって決めた」
「そうだったね」
「春斗との時間として楽しかった」
自分で言いながら、胸へ温かさが広がる。
母は少しだけ笑った。
「それならいいんじゃない」
「でも」
「竹下くん?」
「うん」
「今夜話すんでしょう?」
「八時半に」
「何を?」
「土曜日の場所」
「楽しみ?」
「うん」
「春斗との今日も?」
「楽しかった」
「じゃあ、どちらも本当なんでしょう」
母は簡単に言う。
でも。
その二つを持っていることが、苦しい。
「今日」
私は右手を見る。
「春斗と、指だけ触れた」
母の表情が少し変わる。
「手を繋いだ?」
「そこまではしてない」
「どうして?」
「春斗が、私が困るからって」
「真理は困った?」
「少し」
「嫌だった?」
「嫌じゃなかった」
「なら、それも本当ね」
「竹下くんには言わない」
「言わなくていいと思うよ」
「隠すことにならない?」
母は少し考える。
「真理が誰かと付き合っているなら、話は違うかもしれない」
「まだ付き合ってない」
「うん。でも、竹下くんは真理に彼女になってほしいと言ってる」
「うん」
「春斗くんも真理を好き」
「うん」
「二人と近づくなら、いつか隠せなくなるよ」
胸が重くなる。
「今すぐ全部報告する必要はない。でも、自分がどこまで進んだかは忘れちゃ駄目」
「うん」
「竹下くんと手を繋いだ」
「うん」
「春斗くんとも指が触れた」
「うん」
「どちらも真理が許した」
「うん」
「迷っているだけと言いながら、関係は進んでる」
愛ちゃんにも言われた。
私はただ待っているわけではない。
二人と、それぞれ違う形で近づいている。
「土曜日までに考える」
私は言った。
「本当に?」
「うん」
「今日の春斗くんとの時間も入れて?」
「うん」
「今夜の竹下くんとの時間も?」
「うん」
「なら、今日は一度ご飯食べなさい」
急に現実的な言葉へ戻り、私は少し笑った。
「お腹空いた」
「恋愛だけじゃ生きられないからね」
「お母さん、急に冷静」
「ずっと冷静よ」
◇
午後八時二十七分。
私は自室のベッドへ座り、竹下くんからの連絡を待っていた。
入浴は済ませた。
髪も乾かした。
机の上には、土曜日に行けそうな場所を調べるためのタブレットと、メモ帳を置いている。
けれど。
画面を開いても、なかなか場所を検索できなかった。
頭へ浮かぶのは、公園での春斗。
古い本に挟まれた手紙。
幼い頃の私が書いた、春斗を助けるという約束。
『幼馴染だから好きなんじゃない』
『真理が、俺のことをちゃんと見てくれるから好き』
その言葉が、何度も胸へ戻ってくる。
竹下くんから好きだと言われたときも、同じくらい嬉しかった。
けれど、種類が違う。
竹下くんには、今の私が恋をしている。
春斗には、過去から今までの私が少しずつ引き寄せられているような感覚がある。
どちらが強いのか。
まだ分からない。
スマートフォンが震える。
竹下くんから。
『今大丈夫?』
『大丈夫』
すぐに返す。
『電話でもいい?』
胸が少し高鳴る。
『うん』
数秒後、着信画面に竹下くんの名前が表示された。
私は一度だけ深く息を吸い、通話ボタンへ触れる。
「もしもし」
『久保さん?』
「うん」
『遅くなってごめん』
「部活だったんだから仕方ないよ」
『今帰って、ご飯食べた』
「疲れた?」
『かなり。でも話したかった』
その言葉へ胸が温かくなる。
「私も」
『本当?』
「うん。土曜日の場所も決めたいし」
『それだけ?』
昼休みの卵焼きのときにも似たことを言われた。
竹下くんは、私から恋愛らしい言葉を引き出そうとするようになっている。
「普通に声聞きたかった」
私は答えた。
通話の向こうで、竹下くんが少し黙る。
『久保さん』
「何?」
『今日、かなり嬉しいこと言うね』
「昼も言われた」
『春斗くんとの帰りがあったから、少し不安だった』
胸が僅かに固くなる。
「うん」
『楽しかった?』
聞かれた。
嘘をつきたくない。
でも、細かく話すつもりはない。
「楽しかった」
答える。
竹下くんの呼吸が、少しだけ変わった。
『そっか』
「嫌?」
『嫌』
「うん」
『でも、聞いた俺が悪い』
「悪くないよ」
『何したかは聞かない』
胸が痛む。
指先が触れた。
春斗を男として意識した。
竹下くんが聞かないと決めたことへ、私は安心している。
その安心が、少しずるい。
「竹下くん」
『何?』
「今日のことを、なかったことにはしない」
『俺との昼?』
「うん。卵焼きも、土曜日の話も、夜に話したいって言ったことも」
『うん』
「春斗と帰ったからって、小さくなってない」
竹下くんはすぐには返事をしなかった。
『それなら、少し安心する』
「うん」
『でも、土曜日』
「うん」
『俺の方へ来てほしい』
声は穏やかだった。
けれど、その奥には強い感情がある。
「考える」
『またそれ?』
少しだけ苛立ちが混じった。
今までの竹下くんには少なかった声色。
「竹下くん」
『ごめん』
「ううん」
『待つって言ったけど、今日春斗くんと帰って、楽しかったって聞くと』
「うん」
『俺ばかり待ってる気がする』
胸へ刺さる。
「待たせてる」
『分かってる?』
「うん」
『俺、久保さんと手繋いだ』
「うん」
『好きって言ってもらった』
「うん」
『次も会いたいって言ってもらった』
「うん」
『なのに、まだ春斗くんと同じ場所にいる?』
答えられない。
同じではない。
竹下くんとは、明確に恋愛が進んでいる。
春斗とは、今日初めて男として強く意識した。
でも、竹下くんから見れば。
どちらも私の心へいる。
「ごめん」
『謝ってほしいんじゃない』
竹下くんの声が少し強くなる。
『俺を選んでほしい』
「うん」
『春斗くんじゃなく』
胸が苦しくなる。
『久保さん』
「うん」
『土曜日、告白する』
息が止まる。
「もうしてるよ」
『ちゃんと』
「彼女になってほしいって言われた」
『もう一回言う』
竹下くんは迷わなかった。
『場所を決めて、俺から正式に言う』
「竹下くん」
『その場で絶対答えてとは言わない』
「うん」
『でも、俺がどれくらい本気か、もう一度伝える』
竹下くんも。
待つだけをやめようとしている。
春斗に負けないように。
私へ選ばれるために。
『嫌?』
「嫌じゃない」
『怖い?』
「少し」
『俺も』
「竹下くんも?」
『振られるかもしれないから』
声が少しだけ弱くなる。
その弱さが、胸へ痛い。
「竹下くん」
『何?』
「私、竹下くんを好き」
『うん』
「それは変わってない」
『じゃあ』
「でも」
言葉を続ける。
「簡単には答えられない」
竹下くんは黙った。
通話の向こうから、僅かな生活音が聞こえる。扉が閉まる音。遠くで誰かが話す声。竹下くんも、自分の部屋でこの時間を過ごしている。
『分かった』
やがて返事が来る。
『でも、土曜日は俺だけ見て』
「うん」
『春斗くんと何があったか考えないで』
胸が痛む。
指先を思い出す。
「努力する」
『そこは、するって言って』
何度も言われてきた。
「する」
私は答えた。
『約束』
「うん」
◇
土曜日の行き先は、話し合った結果、水戸芸術館と駅周辺へ決まった。
午後から待ち合わせ。
展示を見て、そのあと近くのカフェへ行く。時間があれば本屋にも寄る。
前回のデートより落ち着いた予定だった。
『服』
話の終わり頃、竹下くんが言う。
「何?」
『楽しみにしてる』
「また?」
『今回も、俺が最初に見たい』
胸が少し揺れる。
前回。
竹下くんに最初に見せた。
春斗へは見せなかった。
竹下くんが、そのことを特別に感じてくれた。
「うん」
答える。
『春斗くんには?』
聞かれる。
「見せない」
『本当?』
「竹下くんとのデートだから」
竹下くんが少し息を吐く。
『よかった』
「うん」
『今日は』
声が少し低くなる。
『春斗くんに会う前の服、見せた?』
「学校の制服だから」
『そうじゃなくて』
「何?」
『何か、俺が知らない特別なことした?』
胸が大きく鳴る。
竹下くんは知らない。
でも、何かを感じている。
私は唇を結ぶ。
「今日は話さない」
『あるんだ』
竹下くんの声が硬くなる。
「嘘はつかない」
『何した?』
「聞かないって言った」
『でも今、あるって分かった』
「竹下くん」
『手?』
息が止まる。
『春斗くんと手繋いだ?』
「繋いでない」
嘘ではない。
『本当?』
「うん」
『じゃあ何』
「今は言わない」
『何で』
「春斗とのことだから」
通話の向こうで、竹下くんが黙る。
長い沈黙。
胸が苦しい。
『俺とのことも、春斗くんには言わない?』
「全部は言わない」
『手繋いだことも?』
「言ってない」
『本当に?』
「うん」
『そっか』
竹下くんの声が少しだけ戻る。
『なら、分かった』
「怒ってる?」
『怒ってる』
「うん」
『でも、俺だけ全部話してって言うのも違う』
「うん」
『ただ』
少し間が空く。
『土曜日、俺を選んでほしい気持ちは強くなった』
胸が鳴る。
「うん」
『逃げないで』
「逃げない」
『約束』
「うん」
電話を切ったあと。
私はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。
竹下くんとの会話は、以前より甘く。
同時に、以前より苦しくなっていた。
互いに好きだと分かっている。
だからこそ。
ほかの誰かの存在を、簡単には受け入れられない。
竹下くんも。
春斗も。
もう優しく待つだけではなくなっている。
私が曖昧なままなら。
二人とも、もっと傷つく。
◇
翌朝。
水戸駅から学校へ向かう道で、春斗は昨日より少し静かだった。
「眠い?」
私が聞くと、春斗は欠伸を噛み殺しながら頷いた。
「少し」
「昨日、委員会の資料やった?」
「やった」
「石井さんに言われたから?」
「今日までだったから」
「連絡した?」
「終わったって送った」
また胸がざわつく。
「何て返ってきた?」
「ありがとうって」
「それだけ?」
「うん」
「本当に?」
「画面見る?」
春斗がスマートフォンを取り出そうとする。
私は慌てて止めた。
「見ない」
「何で」
「そこまでするのは嫌」
「嫉妬するけど確認はしない?」
「私にも一応、限度はある」
「一応」
「何、その言い方」
「昨日から真理、石井のことばかり聞くから」
「春斗が普通に近いから」
「同じクラスなら話すだろ」
「分かってる」
「図書委員も同じ」
「分かってるけど嫌」
春斗は少し笑った。
「今日は石井に言う」
「何を?」
「真理は妹じゃないって」
昨日の約束。
胸が大きく鳴る。
「本当に?」
「うん」
「幼馴染だけど、それだけじゃないって?」
「言う」
「どうやって?」
「そのまま」
「私のこと好きって言うの?」
「必要なら」
足が止まりそうになる。
「そこまで言うの?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ言う」
「待って」
「何」
「恥ずかしい」
「真理が言ってほしいって言った」
「でも、言い方」
「何て言えばいい?」
聞かれ、困る。
幼馴染だけど、それだけではない。
真理を好き。
どちらも事実。
石井さんへ伝えてほしいと思っている。
でも、実際に言われると考えたら、恥ずかしくて逃げたくなる。
「春斗が決めて」
「分かった」
「変なこと言わないで」
「真理が嫉妬してること?」
「絶対言わないで!」
思わず大きな声が出た。
前を歩いていた生徒たちが振り返る。
春斗は楽しそうに笑った。
「今ので学校着く前に広まるかも」
「春斗のせい」
「何も言ってない」
「言おうとした」
「真理が勝手に大声出した」
悔しい。
でも、否定できない。
◇
昇降口へ入ると。
石井さんは、昨日と同じ場所にいた。
下駄箱の前で、数人の女子生徒と話している。私たちへ気づくと、友人たちへ何かを言い、こちらへ歩いてきた。
「おはよう、春斗」
また名前。
胸がざわつく。
「おはよう」
春斗は普通に答える。
「資料見た?」
「見た。昨日送った」
「確認した。ありがとう」
石井さんは笑う。
そのあと、私を見る。
「久保さんも、おはよう」
「おはよう」
昨日より少し硬い声になった。
石井さんはそれに気づいたのか、僅かに首を傾げる。
「昨日、妹みたいって言ってごめんね」
「うん」
「嫌だったんだよね」
「嫌だった」
私は曖昧に笑わなかった。
石井さんの目が少し大きくなる。
周囲では、靴を履き替える生徒たちが行き交っている。私たちの会話へ強く興味を持っている者はいないが、近くにいた何人かは声を聞いているようだった。
「そこまで嫌だと思わなかった」
石井さんが言う。
「幼馴染なんでしょう?」
「そうだけど」
「昔から面倒見てもらってるって、春斗から聞いたから」
「私も春斗を助けてる」
「そうなの?」
「うん」
少し強く言う。
昨日の公園で見た手紙。
春斗が覚えていた、私に助けられた記憶。
私は春斗に守られているだけではない。
妹のように一方的に面倒を見られているわけでもない。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「俺が言う」
春斗は石井さんを見る。
石井さんも、少し不思議そうに春斗を見返した。
「真理は妹じゃない」
「昨日聞いた」
「幼馴染だけど」
春斗は一度、私へ視線を向けた。
逃げない。
その目がそう言っている。
「それだけじゃない」
石井さんの表情が僅かに変わった。
「どういう意味?」
「俺が真理を好きだから」
はっきり言った。
昇降口の音が、一瞬遠くなった。
私は息を止める。
近くにいた生徒が、思わずこちらを見る。石井さんと一緒にいた女子たちも、少し離れた場所で会話を止めていた。
「春斗」
私が呼ぶ。
「何?」
「本当に言うの?」
「言うって言った」
「でも、こんなところで」
「石井に伝えるならここでいいだろ」
「周りに人いる」
「今さら」
春斗は少しも後悔していないようだった。
石井さんは。
笑わなかった。
驚いたように目を見開いたまま、私と春斗を交互に見る。
「付き合ってるの?」
聞かれる。
「まだ」
春斗が答える。
「まだ?」
「俺は付き合いたい」
胸が大きく鳴る。
石井さんの視線が私へ向く。
「久保さんは?」
答えを求められる。
竹下くんが好き。
土曜日に正式な告白を受ける。
春斗も好きかもしれない。
昨日、指先が触れた。
全部を説明できる場所ではない。
「考えてる」
私は答えた。
「春斗と恋人になりたいか」
石井さんの眉が僅かに動いた。
「ほかに好きな人いるんじゃないの?」
知っている。
どこから聞いたのか。
春斗か。
クラスの噂か。
「いる」
「その人とデートしてる?」
「うん」
「手も繋いだって」
胸が固くなる。
近くで聞いていた女子たちの間に、小さなざわめきが広がる。
「石井」
春斗の声が低くなる。
「誰から聞いた」
「図書委員の一年生が、特進の子たちが話してたって」
「それ、ここで言う必要ある?」
「確認したかった」
石井さんの声も少し硬くなる。
「春斗が好きって言う相手が、別の男子とそこまで進んでるのに、春斗にも期待させてるの?」
胸へ刺さる。
言われたくなかったこと。
でも、事実。
「美咲」
一緒にいた女子が、少し離れた場所から止めるように名前を呼ぶ。
石井さんは振り返らない。
「久保さん」
「うん」
「それ、ずるくない?」
周囲の空気が変わる。
昨日まで。
石井さんに露骨な悪意はなかった。
けれど今。
春斗が私を好きだと知った瞬間。
彼女の中にあった感情が、表へ出始めている。
「ずるいと思う」
私は答えた。
石井さんが少し驚く。
「分かってる」
「なら、どうして」
「すぐに決められないから」
「でも春斗は待ってる」
「うん」
「好きな人とも進んでる」
「うん」
「二人から好かれて楽しい?」
その言葉は。
明確に痛かった。
胸の奥が熱くなる。
怒り。
恥ずかしさ。
罪悪感。
全部が一気に上がってくる。
「石井」
春斗が強い声で呼ぶ。
「それ以上言うな」
「どうして?」
「真理を責めるのは俺じゃないと違う」
「春斗は優しすぎる」
「違う」
「だって、別の男子と手を繋いだ子を待って」
「俺が決めた」
「でも」
「俺が真理を好きで、選ばれたいと思ってる」
春斗は石井さんから目を逸らさない。
「真理が悪いところはある。でも、石井に面白がられるために話したんじゃない」
「面白がってない」
「じゃあ何」
石井さんは口を閉じた。
目が揺れる。
何かを言いたい。
でも、言えない。
「……春斗が」
小さな声が落ちる。
「何」
「春斗が、そんな顔すると思わなかった」
石井さんの視線が、春斗から私へ移る。
「いつも面倒そうで、誰にも興味ないみたいなのに」
声が少し震えている。
「久保さんのことだと、そんなに必死になるんだ」
胸の奥で、何かが動いた。
石井さんも。
ただ面白がっているわけではない。
春斗の感情を知り。
動揺している。
もしかしたら。
「石井さん」
私が呼ぶ。
「何?」
「春斗のこと好きなの?」
昇降口の空気が止まった。
周囲にいた生徒たちが、今度こそ完全にこちらを見ている。
石井さんの顔が赤くなる。
「何で」
「昨日から気になってた」
「違う」
反射的な否定。
けれど、目を逸らした。
「違わない顔」
春斗が言う。
石井さんが春斗を睨む。
「春斗に言われたくない」
「俺?」
「何でもない」
石井さんは抱えていたノートを強く胸へ押しつける。
「もう行く」
「石井」
「資料は見たならいい」
春斗の横を通り過ぎようとする。
そのとき。
石井さんが私の前で一瞬だけ止まった。
「久保さん」
「何?」
「私は」
唇が少し震える。
「二人を同時に待たせたりしない」
強い声。
「好きな人がいたら、その人だけを見る」
その言葉を残し、石井さんは階段へ向かって歩き出した。
一緒にいた女子たちも慌てて後を追う。
昇降口には、気まずい沈黙と周囲の視線だけが残った。
◇
「見世物じゃない」
春斗が周囲へ低く言う。
近くにいた生徒たちは、露骨に目を逸らした。何人かは小声で話しながら廊下へ向かい、残った者も急いで靴を履き替え始める。
私は動けなかった。
石井さんの言葉が胸へ刺さったまま抜けない。
『私は二人を同時に待たせたりしない』
『好きな人がいたら、その人だけを見る』
正しい。
少なくとも。
今の私よりは。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「うん」
「大丈夫?」
「分からない」
「石井の言ったこと」
「正しい部分ある」
「うん」
「春斗もそう思う?」
聞く。
春斗はすぐに答えなかった。
「思う部分はある」
正直な返事。
胸が痛む。
「でも」
春斗は続ける。
「真理が遊んでるとは思ってない」
「うん」
「楽しんで二人を振り回してるとも思わない」
「うん」
「ただ、迷ってる間に俺も竹下も傷つく」
「うん」
「そこは本当」
私は俯く。
靴箱の床へ落ちた小さな砂。
行き交う上履き。
今までなら気にも留めないものばかりが目に入る。
「土曜日までに考える」
「うん」
「逃げない」
「うん」
「でも」
私は春斗を見る。
「石井さんのこと、放っておかないで」
「何で」
「春斗のこと好きかもしれない」
「だから?」
「傷ついたと思う」
「俺が好きなのは真理」
「うん」
「中途半端に優しくしたら、期待させる」
「でも、今のままは」
「真理」
春斗が少し強く呼ぶ。
「俺に石井を追わせたい?」
胸がざわつく。
石井さんが傷ついている。
追いかけて、話をした方がいい。
そう思う。
でも。
春斗が石井さんを追いかける姿を想像した瞬間。
嫌だった。
「……嫌」
答える。
「でも、放っておくのも嫌」
「どっち」
「分からない」
「真理が決めることじゃない」
春斗は静かに言う。
「石井とは、俺が必要だと思ったら話す」
「うん」
「でも、今すぐ追わない」
「どうして?」
「今日は真理と学校へ来たから」
胸が鳴る。
「それに、あいつが俺を好きでも、応えられない」
「うん」
「期待させることはしない」
昨日。
私が望んだこと。
石井さんが春斗を好きなら、期待させないでほしい。
春斗は、それを守ろうとしている。
「嬉しい?」
聞かれる。
私は頷いた。
「うん」
「なら持って」
「何を?」
「その嬉しさも、石井を傷つけるかもしれないことも」
春斗が私へ言った言葉。
期待することの責任を持って。
自分の言葉が誰かを傷つけることも、全部相手だけの問題にしないで。
今度は。
春斗が石井さんへ応えないことを望んだ私にも、同じ責任が生まれている。
「分かった」
私は答えた。
「逃げない」
春斗は小さく頷いた。
◇
教室へ向かう途中。
廊下のあちこちから視線を感じた。
昇降口でのやり取りを聞いていた生徒がいた。噂が広がるのに、それほど時間はかからないだろう。
春斗が真理を好き。
真理には別の好きな男子がいる。
石井さんも春斗が好きかもしれない。
昨日までより。
恋愛関係が一気に複雑になった。
「春斗」
階段の分かれ道で立ち止まる。
「何?」
「昨日の公園」
「うん」
「行ってよかった」
「今言う?」
「石井さんに言われたあとだから」
「どういう意味」
「二人から好かれて楽しいわけじゃない」
「うん」
「でも、昨日春斗といた時間は楽しかった」
「うん」
「石井さんに責められたからって、なかったことにしたくない」
春斗の表情が少し柔らかくなる。
「それならいい」
「指先も」
「うん」
「覚えてる」
「今日、繋ぐ?」
また聞かれる。
私は少し迷い。
周囲を見る。
廊下には多くの生徒がいる。
今は無理。
「人がいないとき」
答える。
春斗の目が少し大きくなる。
「それ、次はいいってこと?」
「そのとき考える」
「またそれ」
「でも、嫌じゃない」
春斗は少しだけ笑った。
「分かった」
「何を?」
「人がいないところへ連れていく」
「言い方が怖い」
「手繋ぐだけ」
「まだ決めてない」
「選ばれに行くって言った」
春斗はそう言い、商業科の教室へ続く階段を上っていく。
数段進み。
振り返る。
「真理」
「何?」
「石井に言われたことだけで、俺から離れるなよ」
胸が鳴る。
「離れない」
私は答えた。
「土曜日までは?」
「そのあとも」
口から出た。
春斗の表情が止まる。
私も、自分の言葉の意味に気づく。
春斗を選ばなかったとしても。
離れたくない。
でも、それはまた期待させる言葉だ。
「今の」
「分かってる」
「期待する」
「うん」
今度は止めなかった。
春斗は少しだけ笑い、階段の上へ消えていった。
◇
教室へ入ると、愛ちゃんがすぐに私の顔を見た。
「何かあった?」
「何で?」
「朝からすごい顔」
「どんな?」
「恋愛ドラマを一話分終わらせてきた顔」
当たっている。
私は自分の席へ鞄を置いた。
「愛ちゃん」
「何?」
「石井さん、春斗を好きかもしれない」
愛ちゃんの表情が変わる。
「本人が言った?」
「言ってない」
「じゃあ何で?」
私は昇降口で起きたことを、小さな声で話した。
春斗が私を好きだと石井さんへ伝えたこと。
石井さんが、竹下くんとのデートや手繋ぎを知っていたこと。
二人を同時に待たせるのはずるいと言われたこと。
好きな人がいたら、その人だけを見ると言われたこと。
愛ちゃんは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「どう思う?」
私が尋ねる。
愛ちゃんは少しだけ黙った。
「石井さん、言い方はかなり悪い」
「うん」
「みんながいる前で言うことじゃない」
「うん」
「真理を傷つけるために言った部分もあると思う」
「うん」
「でも、全部間違いではない」
胸が痛む。
「分かってる」
「だから余計に刺さったんでしょう」
「うん」
愛ちゃんは机の端へ手を置く。
「でも真理」
「何?」
「石井さんが春くんを好きかもしれないって分かったとき、どう思った?」
「嫌だった」
「春くんに断ってほしい?」
「うん」
「石井さんが傷ついても?」
答えに迷う。
「傷ついてほしくはない」
「でも春くんと付き合ってほしくない」
「絶対嫌」
今度は即答だった。
愛ちゃんの目が少し細くなる。
「それ、かなり大きいね」
「何が?」
「真理の春くんへの気持ち」
胸が大きく鳴る。
「竹下くんが誰かに取られるのも嫌?」
「嫌」
「同じくらい?」
聞かれ。
私はすぐに答えられなかった。
竹下くんが、サッカー部の女子マネージャーと並んで歩く姿を想像する。
別の女子から告白される。
その子と手を繋ぐ。
胸が苦しい。
嫌だ。
でも。
春斗が石井さんと付き合い、毎朝の五分がなくなり、帰り道も別になり、私の知らない春斗を石井さんだけが知る。
想像した瞬間。
息が苦しくなるほど怖かった。
「春斗の方が」
小さく言う。
「何?」
「取られる想像、怖かった」
愛ちゃんは何も言わない。
私自身も。
今の言葉の重さを受け止めきれなかった。
「真理」
「うん」
「それ、忘れない方がいい」
「うん」
「竹下くんへの恋が嘘って意味じゃない」
「うん」
「でも、春くんを失う怖さが、前よりはっきりした」
「うん」
「土曜日までに考えるなら」
愛ちゃんは静かに続ける。
「今日のことは、かなり大事だと思う」
私は頷いた。
好きな人がいたら、その人だけを見る。
石井さんの言葉が、まだ胸へ残っている。
私はまだ。
一人だけを見られていない。
それでも。
春斗を誰かに取られるのが。
竹下くんを失うこととは違う形で。
強く怖かった。
その感情から。
もう逃げることはできなかった。




