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『好きな人がいるので、幼馴染に恋愛相談していたら、なんだか様子がおかしくなりました』   作者: 伊佐波瑞樹


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24/58

第24話 幼馴染に連れて行かれた場所には、私の知らない春斗の時間が残っていました



 昇降口を出たあと、春斗は校門ではなく、校舎の裏手へ続く細い通路へ向かった。


 放課後の校内には、部活動へ向かう生徒たちの声がまだ色濃く残っている。グラウンドからは笛の音と掛け声が響き、体育館の方角からはボールが床を跳ねる乾いた音が一定の間隔で聞こえてきた。校舎沿いの植え込みには夕方の光が斜めに差し込み、雨上がりの土からは湿った匂いが立ち上っている。


 私は春斗の少し後ろを歩きながら、何度も背中を見ていた。


 いつもの帰り道とは違う。


 春斗は駅へ向かわず、どこへ行くのかも教えてくれない。振り返って私がついてきていることを確認すると、また前を向いて歩いていく。


 その距離が、いつもより近く感じられた。


 春斗の隣を歩くこと自体は珍しくない。小学生の頃から何度も並んできたし、通学も帰宅も同じだった。けれど今日は、ただ家へ帰るためではなく、春斗が私と行きたい場所へ向かっている。


 その意味を考えるたび、胸の奥が落ち着かなくなる。


「どこまで行くの?」


 私は三度目の質問をした。


「もう少し」


「さっきも聞いた」


「同じ質問だから同じ答え」


「教えてくれてもいいでしょう」


「来れば分かる」


「そればっかり」


 少し不満を込めて言うと、春斗は前を向いたまま笑った。


「帰る?」


「帰らない」


「じゃあ来て」


 春斗は歩みを止めない。


 その言葉に、胸がわずかに跳ねた。


 以前なら「勝手についてこい」とでも言いそうだった。けれど今の春斗は、私が来ることを望んでいると、ちゃんと言葉にする。


 待つだけをやめる。


 その宣言を、少しずつ行動へ変えている。


「春斗」


「何?」


「さっきのこと」


「石井?」


 名前を出され、胸の奥がまたざわつく。


 私は反射的に「違う」と言いかけ、止めた。


 違わない。


 石井さんが春斗を名前で呼んだことも、同じクラスで図書委員まで一緒だということも、二人が普段から自然に話しているらしいことも、まだ胸の中へ残っている。


「石井さんって、春斗のこと好きなの?」


 口に出した瞬間、自分でも驚いた。


 春斗も足を止める。


 少し遅れて振り返り、私の顔を見た。


「何でそうなる」


「名前で呼んでた」


「俺も名字で呼んでる」


「でも向こうは春斗って」


「クラスの何人かは名前で呼ぶ」


「女子も?」


「いる」


 胸の奥がさらに落ち着かなくなる。


「何人?」


「数えてない」


「どうして?」


「数える意味ないだろ」


「ある」


「何の意味」


 聞き返され、言葉に詰まる。


 私は竹下くんが好きだ。


 今夜も八時から話す。


 土曜日には三回目のデートへ行く。


 その私が、春斗を名前で呼ぶ女子の人数を気にしている。


 勝手だ。


 分かっている。


 けれど、感情は理屈通りに小さくなってくれなかった。


「真理」


「何」


「石井が俺を好きだったら嫌?」


 春斗の声は静かだった。


 私はすぐに答えられない。


 先ほどは「全部嫌だった」と感情のまま口にした。けれど改めて聞かれると、その重さがはっきり分かる。


「嫌」


 それでも、誤魔化さなかった。


「かなり?」


「かなり」


「何で?」


「分からない」


「また?」


「だって分からないんだもん」


 声が少し強くなる。


「竹下くんが好きなのに、春斗を誰かに取られるのは嫌。春斗が私じゃない女の子のことを知ってて、私の知らない話をして、名前で呼ばれてるのも嫌」


「うん」


「それを嬉しそうに聞かないで」


「無理」


「何で」


「好きな子が嫉妬してるから」


 春斗は少しも隠さず答えた。


 顔が熱くなる。


「好きな子って簡単に言わないで」


「何で」


「心臓に悪い」


「それ、俺が言われたかった」


「何を?」


「俺の言葉で真理がそうなること」


 春斗はまっすぐ私を見る。


「竹下に言われて赤くなる真理ばかり見てたから」


 胸の奥が締めつけられる。


 春斗は、何度も見てきたのだ。


 私が竹下くんの話をして浮かれる姿を。


 好きだと認めて照れる姿を。


 デートを楽しみにし、服を選び、手を繋いだことへ喜ぶ姿を。


 その全部を見ながら、自分の気持ちを押し込めていた。


「春斗」


「何?」


「ごめん」


「今は謝るな」


「でも」


「今日は俺との時間なんだろ」


「うん」


「なら、今は俺を見て」


 また同じ言葉。


 けれど、昇降口で聞いたときよりも近くで言われ、胸が大きく鳴った。


 春斗は少しだけ私の返事を待つ。


 私は逃げずに頷いた。


「見る」


「本当に?」


「うん」


「石井のこと考えない?」


「それは無理かも」


「正直」


「でも、春斗を見る」


 春斗の表情が少し柔らかくなる。


「それでいい」


 再び歩き始める。


 今度は、さっきより少しだけ歩幅がゆっくりになった。


     ◇


 校舎裏の通路を抜けると、使われなくなった旧校舎の脇へ出た。


 水橋高校には、今の校舎が建てられる前に使われていた古い建物が一部だけ残っている。ほとんどの教室は倉庫として使われ、放課後に生徒が近づくことは少ない。窓ガラスは古く、壁の塗装もところどころ剥がれていたが、夕方の光を受けると、どこか懐かしい雰囲気があった。


「ここ?」


 私が聞くと、春斗は首を横へ振った。


「もう少し先」


「まだ行くの?」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「なら来て」


 旧校舎の裏には、小さな坂道があった。


 木々の間を抜ける細い道で、学校の敷地と住宅街の境目へ続いている。舗装はされているが、ところどころに落ち葉が積もり、雨上がりの水溜まりも残っていた。


「こんな道あったんだ」


「知らなかった?」


「うん」


「学校入って三か月以上経ってるだろ」


「第三校舎から来ないもん」


「俺の校舎からは近い」


 春斗は水溜まりを避けるため、少しだけ道の端へ寄る。


 その拍子に、私との距離が縮まった。


 肩が触れそうになる。


 私は反射的に一歩離れかける。


 春斗はそれに気づいた。


「嫌?」


「違う」


「じゃあ何」


「近いから」


「近いの嫌?」


「嫌じゃないけど」


「じゃあそのまま」


 心臓が忙しい。


 春斗は以前なら、こんなことを聞かなかった。


 私が離れれば、そのまま離れた距離で歩いていたはずだ。


 でも今日は、近いことを自分から意識させる。


「春斗、変わったね」


「何が」


「前なら言わなかった」


「言わないで竹下に取られかけたから」


「取られかけたって」


「まだ取られてない」


「私、物じゃないよ」


「分かってる」


 春斗は少しだけ眉を寄せる。


「でも、選んでほしい相手ではある」


 その言葉へ、胸が静かに熱くなる。


 竹下くんも、私に選ばれたいと言った。


 けれど、比較しない。


 今は春斗を見る。


「春斗」


「何?」


「今日、どこへ連れていくか決めたのはいつ?」


「昨日」


「私が竹下くんの隣に座ったあと?」


「うん」


「怒って決めた?」


「半分」


「半分?」


「もう半分は、前から連れてきたかった」


「どうして連れてこなかったの?」


「真理が竹下の話しかしてなかったから」


 春斗の声は冗談ではなかった。


「俺が何を見せても、竹下ならどうするかって考えそうだった」


 胸が痛む。


 以前の私なら、確かにそうしていたかもしれない。


 春斗と来た場所でも。


 春斗から何かを渡されても。


 竹下くんならどう思うか。


 竹下くんに話したら距離が近づくか。


 その基準で考えていた。


「今日はしない」


 私は答えた。


「竹下くんのことを忘れるわけじゃないけど、今日は春斗とのこととして見る」


「うん」


「だから連れてって」


 春斗は少しだけ目を見開いた。


 それから、前を向いたまま小さく笑った。


「今の言い方、かなり嬉しい」


「顔見せて」


「嫌」


「何で」


「調子に乗るから」


「春斗が?」


「真理が」


「ひどい」


 いつもの会話。


 でも、空気はいつもと違う。


 どちらも、互いを異性として意識している。


 その事実が、言葉の間へ残っていた。


     ◇


 坂道を上りきると、小さな公園へ出た。


 住宅街の外れにある、古い公園だった。広くはなく、錆びたブランコと滑り台、木製のベンチが二つあるだけ。周囲を背の高い木々に囲まれているため、学校側からはほとんど見えない。


 夕方の公園に人はいなかった。


 雨上がりの遊具には水滴が残り、風が吹くたび、木の葉から小さな雫が落ちている。遠くからグラウンドの掛け声は聞こえるが、ここまで来ると随分小さく、別の場所の音のようだった。


「ここ?」


 私が聞く。


「うん」


「春斗、こういうところ好きだね」


「何で」


「静かだから」


「それもある」


 春斗はベンチへ向かった。


 座る前にハンカチを出し、濡れている座面を拭く。


「そこまでしなくても」


「制服濡れるだろ」


「春斗は?」


「隣も拭く」


 二人分を丁寧に拭き、春斗が先に座る。


 私は少しだけ迷った。


 隣へ座る。


 間には、拳二つ分ほどの距離。


 いつもの駅のベンチより近い。


 春斗も、それを分かっているはずだ。


「近い」


 私が言う。


「空いてるけど」


「じゃあ離れる?」


「嫌」


 春斗はすぐに答えた。


 胸が鳴る。


「真理は?」


「……このままでいい」


 自分で答えたあと、顔が熱くなる。


 春斗は何も言わなかった。


 けれど、少しだけ呼吸が浅くなったように見えた。


「ここ、初めてじゃないよね」


 春斗が言う。


「え?」


「覚えてない?」


 私は公園を見回す。


 錆びたブランコ。


 低い滑り台。


 木々の奥に見える細い道。


 どこかで見たことがあるような気もする。


「小さい頃?」


「うん」


「来た?」


「何回か」


 春斗は少し笑う。


「真理、滑り台から落ちた」


「嘘」


「本当」


「覚えてない」


「俺が下にいたから、そこまで怪我しなかった」


「春斗が受け止めたの?」


「半分」


「半分?」


「一緒に倒れた」


 言われ、遠い記憶が僅かに浮かぶ。


 夕方。


 土の匂い。


 膝を擦りむいた春斗。


 泣きそうな私へ、「大丈夫」と言っていた顔。


「……思い出したかも」


「遅い」


「だって小さかったし」


「俺は覚えてる」


「どうして?」


「真理が泣かなかったから」


「私、泣き虫だった?」


「かなり」


「ひどい」


「でもあのときは、俺の膝から血が出てるの見て、先に絆創膏探してた」


 少しずつ、記憶が戻る。


 私の家へ帰ればある。


 そう言って、春斗の手を引いて歩いた。


 自分も怖かったはずなのに。


「覚えてる」


 私は小さく言った。


「春斗、痛くないって嘘ついた」


「心配させたくなかった」


「昔から?」


「何が」


「そういうの」


 春斗は少しだけ黙った。


 自分が苦しくても。


 痛くても。


 私を優先する。


 今までの恋でも、同じだった。


「昔からかも」


「やめてよ」


「何を」


「勝手に我慢するの」


 口から出た。


 春斗がこちらを見る。


「竹下くんのことも」


 そこまで言いかけ、私は止まる。


 今日は比較しない。


 春斗も、私が言葉を止めた理由に気づいたらしい。


「続けないんだ」


「今は春斗との話だから」


「うん」


 春斗は少しだけ嬉しそうに頷いた。


「でも、勝手に我慢しないで」


「真理が困るだろ」


「困っても言って」


「嫌って言っても竹下と行った」


「うん」


「意味ある?」


「ある」


 私は春斗を見る。


「知らないままよりいい」


「傷つくのに?」


「うん」


「変」


「春斗に言われたくない」


 二人で少し笑う。


 でも、すぐに沈黙が落ちた。


 風が木の葉を揺らす。


 夕方の光が、公園の地面へ細かく落ちている。


「春斗」


「何?」


「ここへ連れてきたかった理由、思い出だけ?」


「違う」


「じゃあ何?」


 春斗は答えず、鞄を開けた。


 中から一冊の本を取り出す。


 見慣れた文庫本。


 表紙は少し擦れており、何度も読まれていることが分かる。


「これ」


「春斗がいつも読んでるやつ?」


「最近は読んでない」


「どうして?」


「真理が邪魔するから」


「私のせい?」


「竹下の話聞かされて、内容入らなかった」


「ごめん」


「今は謝っていい」


「どっちなの」


 春斗は本のページをめくる。


 途中に、一枚の古い紙が挟まっていた。


 折り目のついた、少し黄ばんだ紙。


「何それ?」


「覚えてない?」


 渡される。


 開くと、幼い字が書かれていた。


『はるとへ

 まりをたすけてくれてありがとう

 こんどはまりがはるとをたすけます』


 自分の字だった。


 丸くて、ところどころ形が崩れている。横には、絆創膏らしい絵と、二人の棒人間が描かれていた。


「これ」


「この公園で転んだ日の次の日」


「私が書いたの?」


「うん」


「何で持ってるの」


「本に挟んでた」


「ずっと?」


「ずっと」


 胸が大きく鳴る。


 春斗は、本を何冊も持っている。


 よく読むものも変わる。


 それでも、この紙を長い間残していた。


「何で今日見せるの?」


 聞く。


 春斗は少しだけ視線を逸らす。


「真理に助けてもらったこと、昔から結構あるって言いたかった」


「私、何した?」


「覚えてないだろ」


「だから聞いてる」


 春斗は少し考える。


「小学校のとき、俺が朗読で詰まったとき、後ろから続きを小声で教えた」


「春斗、怒ったよね」


「恥ずかしかったから」


「中学の部活で先輩と揉めたときも、真理が先に顧問へ言った」


「春斗が言わなかったから」


「高校の入学前、商業科でいいか迷ってたときも」


「それは覚えてる」


「真理が、春斗がやりたい方でいいって言った」


「うん」


 春斗は本を閉じる。


「俺は、真理を守ってきたつもりだった」


「うん」


「でも実際は、結構助けられてる」


 春斗が私を見る。


「だから、幼馴染だから好きなんじゃない」


 胸が止まりそうになる。


「昔から一緒だからだけでもない」


 春斗の声は静かだった。


 それでも、逃げない。


「真理が、俺のことをちゃんと見てくれるから好き」


 風の音が遠くなる。


 私は何も言えなかった。


 竹下くんから「好き」と言われたときとは違う。


 竹下くんの言葉は、胸を強く高鳴らせた。


 嬉しくて、眩しくて、恋をしている自分をはっきり感じた。


 春斗の言葉は。


 もっと深い場所へ落ちた。


 昔の自分まで知っている相手から。


 これまでの時間全部を見たうえで。


 今の私を好きだと言われる。


 安心と、恥ずかしさと、痛みと、温かさが一度に押し寄せてきた。


「春斗」


「何?」


「ずるい」


「何が」


「そんなの、急に言われたら困る」


「困らせるために言った」


「ひどい」


「竹下は、真理に俺のこと考えさせるだろ」


「うん」


「俺も、俺のこと考えてほしい」


 春斗は少しだけ身体をこちらへ向ける。


 距離が近くなる。


「土曜日まで」


「うん」


「俺と恋人になる未来も、ちゃんと考えて」


 真っ直ぐ言われる。


 竹下くんにも同じことを頼まれた。


 けれど。


 今は比較しない。


 春斗の言葉として受け取る。


「考える」


 私は答えた。


「本気で?」


「うん」


「幼馴染を失いたくないからじゃなく」


「うん」


「俺を男として好きか」


 顔が熱くなる。


 それでも、逃げなかった。


「考える」


 春斗の目が少し揺れる。


「今は?」


 聞かれる。


「何が?」


「男として見てる?」


 心臓が跳ねる。


 さっき。


 石井さんに春斗を取られたくないと思った。


 今。


 隣へ座るだけで緊張している。


 好きだと言われて、胸が苦しいほど高鳴っている。


「少し」


 答える。


「少し?」


「前よりかなり」


 春斗は息を止めたように見えた。


「真理」


「何?」


「それ、期待する」


「うん」


「止めない?」


「私が言ったから」


「責任持つ?」


「持つ」


 春斗は少し笑う。


「今の、今日一番嬉しい」


「石井さんのことより?」


 口から出た。


 春斗の表情が止まる。


 しまったと思う。


 でも、今度は比較ではない。


 純粋に気になった。


「石井は関係ない」


「本当に?」


「うん」


「春斗は石井さんのこと、好きじゃない?」


「好きじゃない」


 即答だった。


 胸の奥へ安堵が広がる。


 その反応を見て、春斗の口元が緩む。


「嬉しい?」


「少し」


「少し?」


「かなり」


 春斗が笑う。


 私は恥ずかしくなり、視線を逸らした。


「でも」


「何?」


「石井が俺を好きかは知らない」


 胸の中へ再び不安が戻る。


「知らないの?」


「聞いてない」


「分からない?」


「普通のクラスメートだと思ってる」


「向こうは違うかもしれない」


「そうかも」


「平気なの?」


「真理が気にするなら、少し気になる」


「私が?」


「嫉妬してるから」


「その言い方やめて」


「事実」


 春斗は楽しそうだ。


 私は少し腹が立つ。


「石井さんに、私のこと妹みたいって言ったの?」


「言ってない」


「でもそう思われてた」


「昔から面倒見てるって言っただけ」


「何で私の話したの?」


「石井が、朝いつも一緒に来る女子は誰か聞いたから」


「どうして聞いたの?」


「知らない」


「聞いてよ」


「何を」


「何で気になるのか」


「今から?」


「明日」


 そこまで言って、自分の言葉に驚く。


 春斗と石井さんが明日話すことを、自分から認めている。


 でも、聞いてほしいと思っている。


「真理」


「何?」


「それ、俺に石井の気持ち確かめろってこと?」


「違う」


「かなり近い」


「違うけど」


「石井が俺を好きだったら?」


 また聞かれる。


 私は唇を結ぶ。


「嫌」


 正直に答える。


「じゃあ、どうしてほしい?」


「分からない」


「断ってほしい?」


「春斗が好きじゃないなら」


「うん」


「期待させないでほしい」


 春斗は少しだけ真剣な顔になる。


「分かった」


「本当に?」


「真理がそうしてほしいなら」


 胸が鳴る。


「でも」


 春斗は続ける。


「真理も同じだからな」


「何が?」


「俺に期待させるなら、最後まで考えて」


「うん」


「途中で、竹下が好きだから全部忘れてって言うのはなし」


 胸が痛む。


 竹下くんを選ぶ可能性はある。


 そのとき、春斗へ応えられない。


「忘れてとは言わない」


「うん」


「でも選べないかもしれない」


「分かってる」


「それでも?」


「それでも、今は選ばれに行く」


 春斗は迷わず言った。


 その表情は、以前の受け身だった春斗とは違う。


 私が来るのを待ち。


 相談を聞き。


 苦しくても止めない。


 そんな春斗ではない。


 拒まれるかもしれなくても。


 自分から、私へ近づいている。


     ◇


 しばらく、二人とも何も話さなかった。


 公園には夕方の風だけが流れている。遠くの道路から車の音が聞こえ、木々の間を鳥が一羽飛び抜けていった。


 私たちの距離は、さっきより少し近くなっていた。


 意識して寄ったわけではない。


 話しているうちに、互いの身体が自然に傾いていた。


 肩が触れそう。


 竹下くんと手を繋いだときとは違う緊張。


 春斗とは、長い間近くにいた。


 それなのに、今は数センチの距離がとても大きく感じる。


「真理」


「何?」


「触っていい?」


 聞かれた。


 心臓が一気に速くなる。


「どこ?」


 自分でも変な質問だと思った。


 春斗も少し困った顔をする。


「手」


 右手を見る。


 竹下くんと繋いだ手。


 次も繋ぎたいと約束した手。


 その手へ。


 今。


 春斗が触れたいと言っている。


「手を繋ぐの?」


「そこまではしない」


「どうして?」


「真理が困るから」


「触るのは?」


「指先だけ」


 春斗の声も少し硬い。


 平静ではない。


 それが分かり、胸がさらに高鳴る。


「嫌ならやめる」


 春斗が言う。


 私は自分の気持ちを確かめる。


 嫌ではない。


 怖い。


 でも。


 触れてほしい。


「いいよ」


 答えた。


 春斗の手が、ゆっくり動く。


 私の右手は膝の上に置かれている。


 春斗の指先が。


 小指の横へ触れた。


 ほんの少し。


 触れているだけ。


 握らない。


 絡めない。


 逃げようと思えば、すぐに離せる。


 それなのに。


 竹下くんと手を繋いだときよりも、息が苦しくなった。


 春斗の体温を。


 私は昔から知っているはずだった。


 転んだときに手を引かれた。


 人混みで袖を掴んだ。


 眠い朝に肩が触れた。


 何度も近くにいた。


 でも今は。


 好きだと言われた相手の指として感じている。


「真理」


「何?」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「離す?」


「まだいい」


 答えた瞬間、春斗の指が僅かに動いた。


 私の小指へ。


 絡めるように触れる。


 完全には繋がない。


 でも、さっきより明確に近い。


「春斗」


「何?」


「これ、手繋いでない?」


「繋いでない」


「小指絡んでる」


「指先だけ」


「ずるい」


「嫌?」


「嫌じゃない」


 認める。


 春斗はそれ以上動かない。


 私も手を引かなかった。


 ただ、指先だけを重ねたまま、二人で前を見ていた。


 時間がゆっくり流れる。


 何も話さなくても。


 沈黙が苦しくない。


 でも、昔の安心だけでもない。


 胸が高鳴る。


 春斗を男として意識している。


 その事実が、指先から全身へ伝わってくるようだった。


     ◇


 どれくらいそうしていたのか分からない。


 私のスマートフォンが鞄の中で震えた。


 音に驚き。


 反射的に手を引く。


 春斗の指先が離れる。


 そこだけ、少し冷たくなった。


 胸の中へ寂しさが生まれる。


 その感覚に、自分でも驚いた。


「通知?」


 春斗が聞く。


「うん」


 画面を見る。


 竹下くんからだった。


『部活終わるの遅くなりそう。八時半でも大丈夫?』


 現実が戻る。


 今夜。


 竹下くんと話す。


 土曜日のデートについて相談する。


 さっきまで春斗と指を重ねていた。


 罪悪感が胸へ広がりかける。


「竹下?」


 春斗が聞く。


 私は少し迷ったあと、頷く。


「部活遅くなるって」


「そっか」


「八時半に話していいかって」


「うん」


「返す」


「好きにすれば」


 春斗の声が少し硬くなる。


 さっきまでの柔らかい空気が変わった。


「春斗」


「何?」


「今は春斗との時間」


「でも返すんだろ」


「連絡は必要だから」


「分かってる」


 春斗は前を向く。


 私はすぐに返信した。


『大丈夫。部活頑張って』


 それだけ。


 細かい話はしない。


 画面を閉じる。


「終わった」


「うん」


「春斗」


「何?」


「さっきのこと」


 指先を見る。


「なかったことにしない」


 春斗がこちらを見る。


「竹下から連絡来ても?」


「うん」


「土曜日会っても?」


「覚えてる」


 春斗の表情が、少しだけ緩む。


「それならいい」


「指先だけだけど」


「俺には大きい」


 竹下くんも同じことを言った。


 でも、今は比較しない。


「私にも」


 答える。


 春斗の目が少し見開かれる。


「大きかった」


 自分の気持ちとして伝える。


「春斗を、前より男として意識した」


 言葉にした瞬間、身体中が熱くなる。


 春斗も。


 しばらく何も言えないようだった。


「真理」


「何?」


「今日、連れてきてよかった」


 静かな声。


「うん」


「また来たい」


「春斗と?」


「俺以外と来るの?」


「来ない」


「なら聞くな」


「確認」


 二人で少し笑う。


 日が沈み始めていた。


 公園の影が長くなり、木々の間から差し込む光も弱くなっている。


「帰る?」


 春斗が聞く。


「もう?」


「八時半、竹下と話すんだろ」


「まだ時間ある」


「でも帰るのに一時間以上」


「そっか」


 離れるのが少し惜しい。


 そう思った自分に気づく。


「真理」


「何?」


「また来る?」


「うん」


「次は」


 春斗は少し迷う。


「指先だけじゃなくてもいい?」


 胸が大きく鳴る。


「それは」


「土曜日までに答えなくていい」


「うん」


「でも、考えて」


「何を?」


「俺と手を繋ぎたいか」


 竹下くんとは、すでに繋いだ。


 次も繋ぎたい。


 春斗とは。


 今日、指先だけ触れた。


 その先を望むか。


「考える」


 私は答えた。


「本気で」


「うん」


 春斗は頷く。


 立ち上がり、鞄を持つ。


 私も隣で立ち上がる。


 ベンチから離れる前に、もう一度だけ公園を見る。


 昔。


 春斗が私を助けた場所。


 私が春斗を助けると書いた紙を渡した場所。


 そして今日。


 春斗を幼馴染ではなく、一人の男として意識した場所。


 同じ場所が。


 全く違って見えた。


     ◇


 学校へ戻る坂道を、二人で並んで下る。


 来たときよりも、距離は近かった。


 肩が触れても。


 今度は離れない。


 春斗も何も言わない。


 歩幅を合わせ。


 同じ速度で歩く。


 旧校舎の裏へ戻る頃には、グラウンドの部活動も終わりに近づいていた。遠くからサッカー部の片づけをする声が聞こえる。


 竹下くんが。


 あの中にいる。


 八時半に話す。


 その約束は楽しみだった。


 でも。


 今。


 隣にいる春斗との時間も。


 終わってほしくないと思っている。


「春斗」


「何?」


「石井さん」


「また?」


「明日、話す?」


「クラス同じだから」


「委員会も?」


「あるかも」


「そっか」


 胸が少しだけ重くなる。


 春斗が私を見る。


「嫌?」


「うん」


「なら」


 春斗は少し考えたあと。


「明日、真理の話する」


「何を?」


「妹じゃないって」


 胸が鳴る。


「何て言うの?」


「幼馴染だけど、それだけじゃない」


「春斗」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「竹下に悪い?」


 聞かれる。


 私は少し黙る。


 罪悪感はある。


 でも。


 春斗へそう言ってほしいと思っている。


「今は春斗との話だから」


 答える。


「言ってほしい」


 春斗の表情が柔らかくなる。


「分かった」


「でも、私が言わせたって言わないで」


「何で」


「恥ずかしい」


「石井には分かるかも」


「嫌」


「顔に出てたから」


「そんなに?」


「かなり」


 春斗は笑った。


 少し腹が立つ。


 でも。


 その笑顔を見て。


 私も少し笑ってしまった。


 校門へ向かう道。


 いつもの帰り道へ戻る。


 でも。


 今日の私は。


 もう、春斗を以前と同じ幼馴染としてだけ見ることができなかった。


 指先へ残る感触。


 昔から持っていた紙。


 好きだと言われた声。


 俺を男として考えてほしいという言葉。


 全部が。


 胸の奥へ残っている。


 そして。


 石井美咲という女子の存在も。


 消えない。


 春斗の隣へいるかもしれない女の子。


 私の知らない春斗を知っている相手。


 そのことを考えるだけで。


 また胸がざわつく。


 竹下くんへの恋とは違う。


 それでも。


 確かに恋に近い感情が。


 春斗へ向かって動き始めていた。


 私は隣を歩く春斗を見る。


 春斗も同じタイミングでこちらを見る。


 目が合う。


 以前なら、何でもない。


 今は。


 それだけで少し照れる。


「何?」


 春斗が聞く。


「何でもない」


「またそれ」


「見ただけ」


「何で」


 私は少し迷い。


 正直に答えた。


「春斗を男として見る練習」


 春斗の足が止まりかける。


「真理」


「何?」


「それ、簡単に言うな」


「どうして?」


「嬉しすぎるから」


 春斗は顔を逸らした。


 耳が赤い。


 その反応が。


 思った以上に可愛く見えた。


 私は笑う。


「笑うな」


「春斗、分かりやすくなった」


「真理のせい」


「うん」


 今度は。


 その言葉を否定しなかった。


 春斗が変わったのは。


 私が竹下くんを好きになったから。


 私が春斗の気持ちを知ったから。


 そして。


 春斗自身が、待つだけをやめたから。


 これから。


 もっと変わるのかもしれない。


 私も。


 竹下くんへの恋を持ったまま。


 春斗へ向かう気持ちを。


 もう無視できなくなっていた。

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