第23話 幼馴染に誘われた放課後は、いつもの帰り道より少しだけ近すぎました
火曜日の放課後、終礼を知らせる教師の声が止むよりも早く、教室の空気は帰宅と部活動の気配へ切り替わっていた。
椅子が床を擦る音が重なり、窓際ではサッカー部の男子たちが練習着の入った鞄を肩へ掛けながら、今日のメニューが走り込みらしいと愚痴をこぼしている。購買へ寄ってから帰る相談をする女子生徒たちの声や、委員会の資料を抱えて慌ただしく教室を出ていく生徒の足音も混ざり、昼間まで授業を受けていた場所とは思えないほど、教室の中は一気に騒がしくなった。
私は教科書を鞄へしまいながら、斜め前の席へ視線を向けた。
竹下くんは、すでにサッカー部の大きなバッグを肩へ掛けていた。
昼休みには、土曜日に行く場所を夜に一緒に考えると約束した。卵焼きを交換し、次も一緒に昼食を食べようと話し、春斗と帰ることを正直に伝えたうえで、それでも今日の昼を楽しかったと言い合った。
だから、放課後に竹下くんが教室を出ていくことは分かっていた。
それでも、こちらへ歩いてくる姿を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「久保さん」
「うん」
「行ってくる」
「頑張ってね。今日は昨日の分まで走らされるんでしょう?」
「たぶん」
竹下くんは少し嫌そうに眉を寄せたが、すぐに笑った。
「夜、連絡する」
「土曜日の場所?」
「それもあるけど、普通に話したい」
周囲にはまだ多くの生徒が残っていた。小野寺くんは少し離れた場所で靴紐を結び直しながら、明らかにこちらの会話へ耳を向けている。愛ちゃんも隣の席で帰り支度をしていたが、私たちの邪魔をしないようにしているのか、鞄の中を必要以上に丁寧に確認していた。
「私も話したい」
答えると、竹下くんの表情が柔らかくなった。
「何時くらいなら大丈夫?」
「帰って、ご飯食べてからなら」
「八時?」
「うん」
「じゃあ八時頃」
「分かった」
約束がまた一つ増える。
今日の昼。
土曜日。
今夜八時。
竹下くんとの時間が、学校の外にも少しずつ積み重なっていく。そのことが嬉しくて、私は自然に笑っていた。
「竹下、行くぞ」
教室の入口から小野寺くんが呼ぶ。
「今行く」
「五分前にも聞いた」
「まだ一分も経ってない」
「恋する男の一分は五分」
「意味分からない」
竹下くんが呆れたように返すと、近くにいた生徒たちが笑った。
小野寺くんも自分で言っておきながら恥ずかしくなったのか、首の後ろを掻きながら廊下へ出ていく。竹下くんはその背中を追いかける前に、もう一度だけ私を見た。
「八時」
「忘れないよ」
「帰り」
竹下くんは少し言葉を止めた。
今日、私は春斗と帰る。
竹下くんは、それを知っている。
「楽しんできて、とは言えないけど」
「うん」
「でも、土曜の約束は変えないで」
「変えないよ」
「本当に?」
「竹下くんと会いたいから」
自分の口から、以前よりずっと自然に言えた。
竹下くんは一瞬だけ目を見開いたあと、照れたように顔を逸らした。
「それならいい」
「部活、遅れるよ」
「誰のせいだと思ってるの」
「小野寺くん?」
「久保さん」
「私?」
「行きたくなくなったから」
冗談のように言いながら、竹下くんは笑っている。
私も笑った。
けれど竹下くんが教室を出たあと、その言葉が思っていたより長く胸へ残った。
行きたくなくなった。
もっと一緒にいたい。
竹下くんは、自分の気持ちを前よりも隠さなくなっている。
それが嬉しい。
同時に、今日の放課後に待っている春斗のことを思い出すと、胸の違う場所が少しだけ騒がしくなった。
「真理」
愛ちゃんが隣から声をかける。
「何?」
「今、竹下くんが教室出た瞬間に、春くんのこと考えたでしょう」
「何で分かるの」
「顔が切り替わった」
「私、そんなに分かりやすい?」
「かなり」
愛ちゃんは鞄を肩へ掛け、私の顔をじっと見た。
「春くん、今日どこへ連れていくか言ってないんだよね?」
「うん。放課後、帰る前に寄るってだけ」
「楽しみ?」
「少し」
「少しだけ?」
聞かれ、私は答えに迷う。
楽しみではある。
春斗が、待つだけをやめると言った。自分から私との時間を望み、放課後に誘ってくれた。それが嬉しかった。
竹下くんとの土曜日を楽しみにしている気持ちとは、少し違う。
竹下くんとの約束は、恋をしている実感が強い。どこへ行くのか、何を着るのか、また手を繋ぐのか。考えるだけで胸が高鳴り、少し先の未来が明るく見える。
春斗との放課後は。
何をされるのか分からない。
どこへ行くのかも知らない。
昔から知っている相手なのに、今はそれが少し怖くて、同時に楽しみだった。
「……かなり」
正直に答える。
愛ちゃんは少しだけ眉を上げた。
「竹下くんにも同じ顔してたよ」
「どんな顔?」
「会いたい人に会える顔」
胸が小さく痛む。
「私、やっぱり二人を振り回してるよね」
「うん」
愛ちゃんはすぐに肯定した。
「そこは否定してよ」
「でも真理、自分でも分かってるでしょう」
「分かってる」
「なら、今は一つずつ大事にするしかないよ」
「今日の放課後は春斗」
「うん」
「竹下くんの話をしない」
「必要なことまで隠す必要はないけど、比較はしない」
「分かってる」
「本当に?」
「昨日よりは」
私が言うと、愛ちゃんは少し笑った。
「その言い方なら信じる」
教室を出ると、廊下には部活動へ向かう生徒たちが集まっていた。
運動部の生徒は大きな鞄を抱え、文化部の生徒は作品や楽器を持って階段を下りていく。窓の外では、サッカー部がすでにグラウンドへ向かっており、その中に竹下くんの姿も見えた。
一瞬だけ立ち止まりそうになる。
けれど、今日は春斗との時間。
私は視線を戻した。
愛ちゃんがそれに気づいたのか、何も言わずに隣を歩いてくれた。
◇
昇降口へ着くと、春斗はいつもの柱の近くにはいなかった。
下駄箱の前には帰宅する生徒たちが集まり、靴を履き替える音と話し声が広い空間へ反響している。何人かの生徒が友人を待ちながらスマートフォンを見ていたが、その中にも春斗の姿は見えなかった。
「まだ来てない?」
愛ちゃんが辺りを見回す。
「いつもは先にいるのに」
「教室で何かあったのかも」
「連絡は?」
スマートフォンを確認する。
新しい通知はない。
待つだけをやめると言った。
放課後に誘った。
それなのに、春斗がいない。
ほんの数分のことなのに、胸の奥へ小さな不安が生まれた。
「先に帰ったとか?」
「それはないと思う」
「どうして?」
「約束したから」
自信を持って答えた。
春斗は、約束を軽く扱わない。
それを私は昔から知っている。
「じゃあ、少し待つ?」
「うん」
愛ちゃんは私の隣へ残ってくれた。
昇降口の人は少しずつ減っていく。外からは運動部の掛け声が聞こえ、階段を駆け下りてきた男子生徒が教師に注意されている。私たちと同じように誰かを待っていた女子生徒も、やがて友人と合流して校門へ向かった。
五分ほど経った頃。
階段の上から、女子生徒の笑い声が聞こえた。
「だから、今日中に返してね」
「分かってる」
続いて聞こえたのは、春斗の声だった。
胸の中へ安堵が広がる。
でも。
その直後。
階段を下りてきた春斗の隣に、見知らぬ女子生徒がいることへ気づいた。
肩より少し長い髪を一つに束ね、制服のリボンをきちんと整えている。手にはノートと数枚のプリントを抱えており、春斗へ何かを説明しながら歩いていた。
春斗は、私といるときより少し真面目な顔で話を聞いている。
女子生徒が笑う。
春斗も、ほんの少しだけ口元を緩める。
胸の奥へ。
何かが小さく刺さった。
「春くん」
愛ちゃんが先に呼んだ。
春斗が顔を上げる。
私へ気づく。
「真理」
「遅い」
「悪い」
春斗はすぐにこちらへ歩いてきた。
けれど、女子生徒もその隣へついてくる。
近づくほど、私は彼女の顔をよく見ることができた。
きれいな子だった。
派手ではない。けれど目元がはっきりしていて、落ち着いた雰囲気がある。制服も丁寧に着ており、胸元には商業科のクラス章がついていた。
春斗と同じ校舎。
同じ学年。
たぶん、同じクラス。
「待たせた」
春斗が言う。
「五分以上」
「委員会の資料、確認してた」
「委員会?」
「こいつが担当」
こいつ。
春斗は、私の知らない女子を自然にそう呼んだ。
胸の中へ、先ほどより少し強い違和感が広がる。
「こいつって何」
女子生徒が春斗を睨む。
「名前で呼べば?」
「石井」
「名字だけじゃなくて」
「普段も石井だろ」
「それはそうだけど、紹介するときくらいあるでしょう」
女子生徒は呆れたように息を吐き、それから私と愛ちゃんへ向き直った。
「初めまして。石井美咲です。春斗と同じクラスで、図書委員も一緒です」
春斗。
名字ではなく。
名前。
あまりにも自然に呼んだ。
胸の奥が、また小さくざわつく。
「大杉愛です」
愛ちゃんが先に名乗る。
私は少し遅れて口を開いた。
「久保真理です」
「ああ」
石井さんの表情が少し変わった。
私のことを知っている。
そう分かる反応だった。
「春斗の幼馴染の子」
言われる。
幼馴染。
間違っていない。
ずっと、そう紹介されてきた。
それなのに。
今日は、その言葉が少しだけ胸へ引っかかった。
「知ってるの?」
私が聞く。
「春斗から少し」
「話したの?」
春斗を見る。
「聞かれたから」
「何を?」
「朝いつも一緒に来るのかって」
「それだけ?」
「ほかにも少し」
春斗は何でもないことのように答える。
石井さんは私と春斗を交互に見たあと、少し笑った。
「本当に仲いいんだね」
「幼馴染だから」
春斗が答える。
その言葉へ、胸がまた少しだけ痛んだ。
今朝。
ただの幼馴染ではないと話した。
春斗も、それを喜んでいた。
それなのに、石井さんの前では幼馴染だからと説明する。
もちろん。
まだ恋人ではない。
ほかに何と説明すればいいのか。
分かっている。
それでも。
面白くなかった。
「久保さん」
石井さんが私を見る。
「春斗から話は聞いてたけど、思ってた感じと少し違う」
「どんな感じだと思ってたの?」
「もっと妹みたいな子かと」
「妹?」
「昔から面倒見てるって言ってたから」
春斗を見る。
「そんなこと言ったの?」
「言ったかも」
「何、その適当な返事」
「覚えてない」
「私は妹じゃないから」
思ったより強い声が出た。
周囲に残っていた生徒が、一瞬こちらを見る。
春斗も少し驚いた顔をする。
石井さんは、さらに意外そうに目を瞬かせた。
「ごめん。嫌だった?」
「嫌というか」
何が嫌なのか。
自分でも分からない。
妹扱いされたこと。
春斗が私とのことを、石井さんへ話していたこと。
石井さんが春斗を名前で呼ぶこと。
春斗が、私の知らないところで普通に女子と話し、少し笑っていたこと。
全部。
胸の中で、きれいに分けられないまま絡まっている。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「行くぞ」
「うん」
今日の放課後。
春斗との時間。
そのことを思い出す。
石井さんが少しだけ首を傾げた。
「二人で帰るの?」
「今日は寄るところあるから」
春斗が答える。
「どこ?」
「別に」
「委員会の資料、今日中に確認してね」
「分かってる」
「忘れそうだから言ってる」
「忘れない」
「昨日も忘れたでしょう」
「昨日は休み明け」
「言い訳になってない」
二人のやり取りは。
自然だった。
同じ教室で。
同じ委員会で。
普段から話していることが分かる。
私の知らない春斗。
私の知らない時間。
それを石井さんが知っている。
「真理?」
愛ちゃんに呼ばれ、私はようやく自分が黙っていたことに気づいた。
「何でもない」
答える。
でも。
何でもなくない。
胸の奥が、ずっと落ち着かなかった。
「じゃあ、また明日」
石井さんが春斗へ言う。
「うん」
「久保さんと大杉さんも、また」
「うん」
愛ちゃんが答える。
私は少し遅れて頷いた。
石井さんは廊下の向こうへ歩いていく。
その背中を見送りながら。
私は。
春斗が明日も石井さんと会うことを、当たり前のように嫌だと思っていた。
◇
「行くぞ」
春斗がもう一度言う。
「どこへ?」
「来れば分かる」
「石井さんは?」
「帰っただろ」
「そうじゃなくて」
「何?」
春斗は本当に分かっていないような顔をしている。
そのことが、余計に腹立たしい。
「何でもない」
「さっきからそればっかり」
「春斗が分からないならいい」
「分からないから聞いてる」
「分からなくていい」
言葉が少しずつ強くなる。
愛ちゃんが私と春斗を交互に見た。
春斗も、私の機嫌が悪いことには気づいたらしい。
「真理」
「何?」
「石井のこと?」
直接聞かれ。
胸が大きく鳴る。
「違う」
反射的に答えた。
「違わない顔」
「違う」
「名前で呼んでたから?」
「それも違う」
「じゃあ何」
「分からない」
自分でも整理できていない。
ただ。
嫌だった。
春斗の隣に、私の知らない女子がいた。
春斗のクラスでのことを知っていた。
委員会の資料を渡し、昨日忘れたことまで知っていた。
春斗を名前で呼んだ。
春斗も、その距離を不自然だと思っていなかった。
「真理」
春斗が少し近づく。
「嫌だった?」
聞かれる。
私はすぐには答えなかった。
愛ちゃんが、少し離れた場所から私を見る。
誤魔化さない方がいい。
その目がそう言っている気がした。
「……嫌だった」
小さく答える。
春斗の目が少し見開かれる。
「何が?」
「全部」
「全部?」
「春斗が石井さんと一緒にいたのも、名前で呼ばれてたのも、私のこと話してたのも」
「真理のことは聞かれたから」
「それも嫌」
「何で?」
「分からない!」
思ったより大きな声が出た。
昇降口に残っていた生徒が、またこちらを見る。
恥ずかしい。
でも。
感情を止められなかった。
「私、竹下くんのこと好きだよ」
「うん」
「今日も夜に話すし、土曜日も会う」
「うん」
「なのに春斗がほかの女の子と一緒にいるの、嫌だった」
口にした瞬間。
自分がどれほど勝手なことを言っているのか、はっきり分かった。
竹下くんとの約束を重ねている。
春斗には待ってもらっている。
そのくせ。
春斗がほかの女子と話すだけで、嫌だと言う。
「最低だよね」
声が少し震えた。
「分かってる」
春斗は何も言わなかった。
怒るかもしれない。
呆れるかもしれない。
そう思った。
けれど。
春斗は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「何で笑うの」
「嬉しいから」
「私、最低って言ったんだけど」
「知ってる」
「じゃあ何で」
「嫉妬したんだろ」
「嫉妬じゃない」
「今の説明で違うは無理」
「でも」
「真理」
春斗が私の言葉を止める。
その声は。
少しだけ強かった。
「俺は嬉しい」
「何で?」
「真理が、俺をほかの女に取られたくないって思ったから」
「取られたくないなんて言ってない」
「違う?」
聞かれる。
答えられない。
石井さんが春斗を好きなのかは分からない。
春斗が石井さんをどう思っているのかも知らない。
それでも。
二人が並んでいたことが嫌だった。
明日も会うと言ったことが嫌だった。
妹みたいな幼馴染だと思われたことが嫌だった。
「……少し」
認める。
春斗の表情が、さらに柔らかくなる。
「それならいい」
「よくない」
「俺にはいい」
「竹下くんにはよくない」
言った瞬間。
春斗の笑顔が少しだけ消えた。
「今は俺との時間だろ」
静かな声だった。
愛ちゃんにも。
竹下くんにも。
何度も言われてきたこと。
私はまた。
春斗との感情へ、竹下くんを持ち込んだ。
「ごめん」
「今日はそれ、やめる約束だった」
「うん」
「今、真理が嫉妬したことは、俺と真理の話」
「うん」
「竹下に悪いか考えるのは、あとにして」
春斗が真っ直ぐ私を見る。
「今は俺を見て」
胸が大きく鳴った。
竹下くんにも、同じ言葉を言われたことがある。
けれど。
今は比較しない。
春斗が。
私へ言っている。
今は俺を見て。
「……うん」
私は答えた。
春斗は少しだけ安心したように息を吐く。
「じゃあ行くぞ」
「どこへ?」
「俺が真理と行きたい場所」
春斗はそう言い、先に歩き出した。
いつものように、私がついてくることを当たり前にはしない。
数歩進んだところで振り返り。
「来る?」
と聞いた。
私は春斗を見る。
その向こう。
廊下の角には。
もう石井さんの姿はない。
それでも。
胸の中には。
名前で呼ばれた瞬間の違和感が残っている。
「行く」
私は答えた。
「春斗と」
春斗は少しだけ笑う。
愛ちゃんが後ろから、私へ小さく手を振った。
「また明日」
「うん」
「真理」
「何?」
「今の気持ち、なかったことにしないでね」
愛ちゃんはそれだけ言い、別の出口へ向かって歩き出した。
私は返事をしなかった。
でも。
忘れられるはずがなかった。
竹下くんを好きなのに。
春斗の隣へ別の女子がいるだけで。
胸が苦しくなった。
その感情へ。
まだ、きちんと名前をつける勇気はなかった。
ただ。
春斗の背中を追いかける足は。
いつもの帰り道より。
少しだけ速くなっていた。




