第22話 好きな人との昼を楽しんだあとで、幼馴染へ答えを考える期限を伝えました
火曜日の昼休みを知らせる鐘が鳴った瞬間、教室の空気が一気に緩んだ。
午前中の授業が終わった解放感から、椅子を引く音と話し声が教室中へ広がっていく。購買へ急ぐ生徒たちは教師が廊下へ出るよりも早く立ち上がり、弁当を持ってきた生徒たちは、いつもの仲間と机を囲むために移動を始めていた。
私は教科書を閉じながら、斜め前の席へ視線を向けた。
竹下くんはすでにこちらを見ていた。
目が合うと、竹下くんは少しだけ口元を緩め、自分の弁当箱を持ち上げて見せる。昨日の昼休みに交わした約束を、忘れていないと確かめるような仕草だった。
もちろん、私も忘れていない。
昨日の帰りは竹下くんの隣を選び、今日は春斗と帰る約束をした。朝、竹下くんへそのことを伝えたとき、彼は嫌だと正直に言いながらも、昼休みは自分との時間にしてほしいと頼んだ。
私は「する」と答えた。
努力する、ではなく。
竹下くんとの昼休みは、竹下くんだけを見る。
その約束を守りたかった。
「真理、机動かすよ」
後ろから愛ちゃんに声をかけられ、私は慌てて立ち上がった。
「ごめん。手伝う」
「竹下くん見てた?」
「約束の確認」
「目だけで?」
「向こうがお弁当見せたから」
「それを見つめ合ってたって言うんじゃない?」
「言わないよ」
愛ちゃんは笑いながら、自分の机を私の机へ寄せる。昨日と同じように四人で食べるつもりらしく、小野寺くんもパンと飲み物を抱え、当然のように竹下くんの後ろからついてきた。
「今日もいるの?」
竹下くんが振り返る。
「昨日、大杉さんが四人の方が自然って言った」
「都合のいいところだけ覚えてるな」
「友達を邪魔者扱いするなよ」
「昨日から声が大きいんだよ」
「今日は気をつける」
小野寺くんはそう言いながら、周囲にも聞こえる声で答えた。竹下くんがすぐに睨むと、近くにいた男子たちが事情を察して笑い始める。
「全然気をつけてないじゃん」
愛ちゃんが呆れる。
「今のは普通の声」
「小野寺くんの普通が大きい」
「俺だけ悪い?」
「今のところは」
四人で机を囲むと、昨日よりも少し自然に席が決まった。
私の正面には竹下くん。隣には愛ちゃん。その向かいへ小野寺くんが座り、パンの袋を開けながら、竹下くんの弁当箱を覗き込んでいる。
「今日も卵焼きある?」
「あるけど、お前にはやらない」
「俺、まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
「最近みんな顔で判断しすぎじゃない?」
小野寺くんが不満そうに言うと、愛ちゃんが「分かりやすい人が悪い」と返した。
私は弁当箱の蓋を開ける。
今日のおかずは、鮭、ほうれん草のおひたし、昨夜の残りらしい小さなハンバーグ。それから、端の方に卵焼きが二つ入っている。
竹下くんも自分の弁当箱を開けた。
昨日と同じ、少し甘い卵焼きが入っている。
目が合う。
竹下くんが箸で卵焼きを示した。
「今日も交換する?」
聞かれた瞬間、昨日の昼休みを思い出した。
ただのおかず交換。
友達同士なら珍しくない。
けれど、昨日から私と竹下くんの間では、小さなことまで意味を持ち始めている。
「今日は私も卵焼きあるよ」
「味違うかもしれない」
「食べ比べ?」
「うん」
「じゃあ交換する」
私が答えると、竹下くんの表情が少し明るくなった。
互いの弁当箱へ、卵焼きを一つずつ移す。箸の先が触れるほどではない。それでも、向かい合って同じことをしているだけで、少し恥ずかしい。
小野寺くんは黙って見ていた。
けれど、口元が明らかに笑っている。
「何?」
竹下くんが聞く。
「今日は見守る日だから」
「なら顔も普通にしろ」
「無理」
「何か言ったら戻ってもらうぞ」
「昨日より扱いがひどい」
愛ちゃんが横で小さく笑った。
「小野寺くん、黙ってるだけでも偉いよ」
「大杉さんだけ優しい」
「まだ褒めてない」
教室の周囲では、別の生徒たちもそれぞれの昼食を始めている。
窓際の女子たちは週末に公開された映画の話をし、前方では男子生徒が購買で最後の焼きそばパンを取ったことを自慢していた。少し離れた席では、委員会の資料を広げながら食べている生徒もいる。
昨日は、私と竹下くんがデートをしたという話題だけで、周囲の空気が何度もこちらへ集まった。
今日は。
完全に気にされていないわけではない。
ときどき視線を感じる。
けれど、昨日ほどの騒ぎにはならなかった。
私たちが向かい合って弁当を食べることも、少しずつ教室の日常へ入り始めているのかもしれない。
「どっち?」
竹下くんが聞く。
「何が?」
「卵焼き」
「ああ」
私は竹下くんの家の卵焼きを口へ運ぶ。
昨日と同じ、少し甘い味。
噛むと、出汁の香りが広がった。
「おいしい」
「昨日と同じ?」
「うん。でも今日は昨日より甘く感じるかも」
「何で?」
「私のお弁当の方がしょっぱいから」
「そういう意味?」
「ほかに何があるの?」
竹下くんは少し残念そうな顔をした。
「何、その顔」
「もう少し違うこと言うかと思った」
「例えば?」
「言わない」
「聞いたの竹下くんだよ」
「今のは忘れて」
竹下くんの耳が少し赤くなっている。
おそらく、昨日より甘く感じる理由へ、恋愛らしい言葉を期待したのだと思う。
私は少しだけ迷ったあと。
「竹下くんと交換したから、少し特別には感じるよ」
と付け加えた。
竹下くんの動きが止まる。
「久保さん」
「何?」
「急に言うのずるい」
「竹下くんが言ってほしそうだったから」
「でも、実際に言われると思ってなかった」
「じゃあ言わない方がよかった?」
「よかった」
竹下くんはすぐに答えた。
愛ちゃんが隣で味噌汁を飲みながら、何も言わずに笑っている。小野寺くんは口を開きかけたが、竹下くんと愛ちゃんの両方から視線を向けられ、黙ってパンをかじった。
昨日の昼休みよりも。
私は竹下くんへ自然に言葉を返せている。
朝、春斗との時間があった。
帰りも春斗と約束している。
そのことは消えていない。
けれど今は。
竹下くんの嬉しそうな顔を見て、自分も嬉しいと思えた。
◇
昼食を進めながら、四人の会話は少しずつ別の話題へ移った。
次の体育で持久走を行うという噂。小野寺くんが数学の小テストで名前を書き忘れかけたこと。愛ちゃんが朝、駅の階段で知らない人の後ろについて行きそうになったこと。
「同じ制服だったから」
愛ちゃんが言い訳する。
「うちの学校じゃなかったよね?」
私が聞く。
「途中で気づいた」
「どこまで行ったの?」
「反対側の改札近く」
「かなり行ってる」
「朝は眠いから」
「元気が取り柄じゃなかった?」
「元気と方向感覚は別」
小野寺くんが笑う。
「俺より危ない人いた」
「小野寺くんは傘を家に忘れる人でしょう」
「昨日だけ」
「その昨日、雷雨だった」
「結果、大杉さんに入れてもらえた」
小野寺くんは少し得意そうに言った。
愛ちゃんが箸を止める。
「次は置いていく」
「何で?」
「その顔が腹立つから」
「感謝してる」
「見えない」
「本当に。昨日はありがとう」
小野寺くんが少し真面目な声で言うと、愛ちゃんは一瞬だけ黙った。
「……なら、いいけど」
「大杉さん、耳赤い?」
「赤くない」
「真理」
「私に聞かないで」
「赤いと思う」
「真理まで!」
今度は愛ちゃんが慌てる番になり、四人の間へ笑いが広がった。
周囲の生徒たちも何人かこちらを見て笑っている。
竹下くんとのことだけが、教室の中心ではない。
小野寺くんと愛ちゃんにも、それぞれの会話がある。ほかの生徒にも、週末の出来事やこれからの予定がある。
私が恋に悩んでいる間も。
世界は普通に進んでいる。
そのことが、少しだけ気持ちを軽くしてくれた。
「土曜日」
会話が落ち着いた頃、竹下くんが声を少し低くした。
「うん」
「行きたい場所、ある?」
聞かれた。
私は箸を置き、少し考える。
映画館。
偕楽園。
次で三回目。
竹下くんは、まだ場所を決めていないと言っていた。
「水戸駅の近く?」
「午後だけだから、その方がいいと思う」
「買い物?」
「久保さん、見たいものある?」
「本屋」
「前も行った」
「でも好き」
「俺も嫌じゃないけど」
竹下くんは少し考える。
「それだけだと、前と同じになる」
「前と同じじゃ駄目?」
「駄目じゃない。でも、次は少し違うことしたい」
「例えば?」
「まだ考えてる」
「秘密?」
「決まってないだけ」
「正直」
二人で笑う。
そのとき、小野寺くんが今度こそ我慢できなくなったように口を挟んだ。
「水戸芸術館とか?」
「お前に相談してない」
「場所決まらないって言うから」
「聞いてただけだろ」
「聞こえた」
「同じだ」
「でも、駅から歩けるし」
小野寺くんが言うと、愛ちゃんも少し考える。
「展示によるけど、静かに見られる場所ならいいかもね」
「愛ちゃんも行ったことある?」
「家族と一回」
「真理は?」
「ない」
私が答えると、竹下くんがこちらを見る。
「行ってみたい?」
「少し」
「じゃあ調べる」
「すぐ決めるの?」
「久保さんが行きたいなら」
竹下くんは自然に答えた。
私の希望を聞いて。
すぐに自分の予定へ入れようとしてくれる。
嬉しい。
でも。
「竹下くんも行きたい場所にしてね」
私は言った。
「俺は久保さんと行ければ」
「それ、何でもいいってこと?」
「違う」
「じゃあ竹下くんの希望も」
「分かった」
竹下くんは少し笑った。
「今日帰って調べる」
「私も調べる」
「じゃあ夜、相談」
「うん」
また、約束が増える。
土曜日の場所を。
二人で決める。
竹下くんが全部用意し、私はついていくだけではない。
私も行きたい場所を考える。
そのことが。
竹下くんの方へ、自分から進むことのように思えた。
◇
昼食が終わりに近づく頃。
小野寺くんが飲み物を買いに教室を出た。愛ちゃんも、友人から呼ばれて別の席へ向かう。
私と竹下くんだけが、向かい合った机へ残った。
完全な二人きりではない。
教室には多くの生徒がいる。
けれど、四人だった会話が途切れたことで、二人の間の空気が少し変わった。
竹下くんは空になった弁当箱を閉じながら、私の方を見た。
「久保さん」
「何?」
「朝の話」
胸が少し固くなる。
「春斗と帰ること?」
「うん」
竹下くんは、無理に明るく振る舞わなかった。
「嫌なの、変わってない」
「うん」
「昼は俺との時間って言ったから、帰りのこと考えないようにしてた」
「考えた?」
「少し」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
竹下くんが静かに言う。
「昨日は俺を選んでくれた。今日は春斗くん。それが続くのは嫌」
「うん」
「でも今日の昼、久保さんはちゃんと俺を見てた」
「うん」
「土曜の場所も一緒に考えるって言ってくれた」
「うん」
「だから、朝よりは少し落ち着いた」
竹下くんは自分の気持ちを、隠さずに言葉へする。
私は、それを聞く責任がある。
「私」
少しだけ呼吸を整える。
「次の土曜日までに考える」
「何を?」
「誰を失いたくないかじゃなくて」
朝、ノートへ書いた言葉を思い出す。
「誰と恋人になりたいのか」
竹下くんの表情が変わった。
教室のざわめきの中で、竹下くんだけが動きを止めたように見える。
「それ」
「うん」
「土曜日までに答え出すってこと?」
「全部出せるかは分からない」
竹下くんの目に、わずかな失望が浮かぶ。
私は逃げずに続ける。
「でも、少なくとも今よりは進む」
「俺の彼女になりたいか」
「うん」
「春斗くんと恋人になりたいかも?」
「うん」
答える。
竹下くんは少し俯き、閉じた弁当箱の蓋を指でなぞった。
「怖い」
小さな声。
「何が?」
「土曜日」
「うん」
「俺との時間なのに、その先に振られるかもしれない」
胸が痛む。
「竹下くん」
「でも、何も決めないまま会い続けるのも嫌」
「うん」
「だから考えてほしい」
「うん」
「本気で」
「考える」
竹下くんは顔を上げる。
「今日の帰り、春斗くんにも言う?」
「うん」
「俺との土曜までに考えるって?」
「竹下くんとのデートを基準にする言い方はしない」
「じゃあ何て?」
「次の土曜日までに、自分が誰と恋人になりたいかを考えるって」
竹下くんは少し黙った。
「同じように聞こえる」
「そうかもしれない」
「春斗くん、嫌がると思う」
「うん」
「それでも言う?」
「隠したくない」
これまで。
私は誰かを傷つけないためという理由で、必要なことを曖昧にしてきた。
でも、隠したまま時間をもらい続ける方が、もっとずるい。
「分かった」
竹下くんは静かに頷いた。
「嫌だけど、言って」
「うん」
「春斗くんにも期限があるって分かってほしい」
「競争みたいにしたい?」
「なってるだろ」
竹下くんは少し苦しそうに笑った。
「俺は勝ちたい」
「うん」
「久保さんに選ばれたい」
「うん」
「だから、土曜日」
竹下くんが真っ直ぐ私を見る。
「俺と恋人になる未来を、ちゃんと考えて」
「約束する」
私が答えると。
竹下くんは少しだけ安心したように息を吐いた。
◇
予鈴が鳴り、教室の外へ出ていた生徒たちが戻り始める。
愛ちゃんも自分の席へ戻ってきた。竹下くんは机を元の位置へ戻し、自分の席へ向かう前に一度だけ振り返った。
「夜」
「うん」
「土曜の場所」
「一緒に決める」
「忘れないで」
「忘れないよ」
「帰り」
竹下くんは少し言葉を止めた。
「春斗くんと話しても」
「うん」
「今日の昼、楽しかったことは忘れないで」
昨日も。
似たことを言われた。
春斗へ会ったあとで、竹下くんとの時間をなかったことにしないで。
「忘れない」
私は答えた。
「卵焼きもおいしかった」
「そこ?」
「大事」
「ならよかった」
竹下くんは少し笑い、自分の席へ戻った。
愛ちゃんが隣へ座りながら、私の顔を覗き込む。
「話した?」
「うん」
「期限のこと?」
「竹下くんには」
「反応は?」
「怖いって」
「そりゃ怖いよ」
「うん」
「春くんには帰り?」
「うん」
愛ちゃんはそれ以上、何も言わなかった。
次の授業の教師が教室へ入り、生徒たちへ着席するよう促す。教室のざわめきが少しずつ収まり、黒板へチョークが触れる音が響いた。
私はノートを開く。
昼休み。
竹下くんとの時間を守れた。
次の土曜日を一緒に考えた。
そして。
自分が答えへ近づく期限を、竹下くんへ伝えた。
残っているのは。
春斗へ同じことを伝えること。
◇
放課後。
終礼を終えた教室から、生徒たちが次々と廊下へ流れ出していく。
竹下くんはサッカー部のバッグを肩へ掛け、私の席へ来た。
「行ってくる」
「うん。頑張って」
「今日は雨、大丈夫そう」
「雷もないね」
「帰り、遅くなる」
「気をつけてね」
「うん」
竹下くんは少しだけ迷ったあと。
「夜、連絡する」
「待ってる」
私が答えると、竹下くんの表情が柔らかくなる。
「それ、嬉しい」
「場所決めるんでしょう」
「それでも」
「うん。私も楽しみにしてる」
竹下くんは小さく頷き、教室を出ていく。
小野寺くんが後ろから、「俺も行ってきます」と手を上げた。
「小野寺くんも頑張って」
「今日は扱いが優しい」
「早く行くぞ」
竹下くんが廊下から呼ぶ。
「今行く」
二人の姿が見えなくなる。
私は鞄を持ち、愛ちゃんと一緒に昇降口へ向かった。
「言える?」
愛ちゃんが聞く。
「分からない」
「言うって決めたんでしょう」
「うん」
「なら、上手に言えなくても言う」
「春斗、怒るかな」
「怒ると思う」
「今日、そればかり」
「真理が毎回聞くから」
「少しは大丈夫って言って」
「大丈夫じゃないもの」
愛ちゃんは少し困ったように笑った。
「でも、言わないよりはいいと思う」
「うん」
「春くんも待つだけやめるって言ったんでしょう」
「うん」
「なら、真理がいつまでに考えるか知る権利はある」
「権利?」
「待ってもらってるんだから」
私は頷いた。
◇
昇降口の外。
春斗は昨日と同じ柱の近くで待っていた。
朝よりも少し疲れているように見えるが、顔色は悪くない。私へ気づくと、持っていたスマートフォンを制服のポケットへ入れた。
「遅い」
「二分」
「二分は二分」
いつもの言葉。
でも。
今日は春斗から帰りを望まれた日。
ただの習慣として一緒に帰るのではない。
「愛ちゃん、また明日」
「うん」
愛ちゃんは私と春斗を交互に見たあと、余計なことは言わずに手を振った。
私と春斗は並んで校門へ向かう。
外は晴れていた。
昨日の雨で濡れていた地面もほとんど乾き、夕方の光が校舎の壁へ淡く反射している。グラウンドではサッカー部が練習を始めており、ボールを蹴る音と顧問の笛が聞こえていた。
私は無意識にグラウンドへ視線を向ける。
遠くに。
竹下くんがいる。
練習着へ着替え、ボールを追っている。
「見る?」
春斗が聞いた。
「少し」
「そっか」
「でも今日は春斗と帰る」
私はすぐに言った。
春斗は少しだけこちらを見る。
「分かってる」
「確認」
「俺が?」
「私が」
春斗は小さく笑った。
「じゃあ帰るぞ」
「うん」
校門を出る。
しばらくは、学校の話をした。
春斗のクラスで小テストがあったこと。隣の席の男子が消しゴムを忘れ、授業中ずっと小さく切った消しゴムを使っていたこと。石井さんから、休んでいた分のノートを見せてもらったこと。
石井さんの名前が出た瞬間。
胸の奥が少しだけざわついた。
「石井さん?」
聞く。
「うん」
「ノート借りたの?」
「休んだ分」
「そっか」
自分の声が少し硬くなったことへ気づく。
春斗も気づいたらしい。
「嫌?」
「少し」
「何が?」
「石井さんと話したこと」
「ノート借りただけ」
「分かってる」
「でも嫌?」
「うん」
正直に答える。
春斗は少しだけ口元を緩めた。
「嬉しそう」
「少し」
「何で」
「真理が嫉妬したから」
「嫉妬って決めつけないで」
「違う?」
私は返事に迷う。
違わない。
春斗が別の女子と親しくすることは嫌だ。
「違わないかも」
答える。
春斗の表情が、はっきり嬉しそうになる。
その顔を見て。
私は胸が痛くなった。
これから伝えることを考えると。
この嬉しさをすぐに傷つけることになる。
◇
水戸駅へ向かう途中。
私は何度も言葉を探した。
次の土曜日までに考える。
誰と恋人になりたいのか。
竹下くんとの時間も。
春斗との時間も。
どちらも大切だからこそ、もう期限を決める。
でも。
竹下くんとのデートを基準に決めるように聞こえたら。
春斗はどう思うだろう。
「真理」
「何?」
「さっきから静か」
「考えてる」
「竹下?」
「春斗に話すこと」
春斗の歩みが少し遅くなる。
「何?」
「駅で話したい」
「今じゃ駄目?」
「ちゃんと話したい」
春斗は私の顔を見たあと、頷いた。
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
◇
岩瀬駅へ着く頃には、空が橙色へ変わり始めていた。
ホームには帰宅する学生や会社員が並び、風には昼間より少し冷たい空気が混ざっている。線路の向こうでは、夕日に照らされた雲がゆっくり形を変えていた。
私と春斗は、いつものベンチへ座る。
昨日も。
今朝も。
何度も座った場所。
右側に春斗。
左側に私。
「話」
春斗が言う。
「うん」
私は膝の上へ鞄を置き、その持ち手を両手で握った。
「次の土曜日」
「竹下と会う」
「うん」
「それが?」
「そこまでに考えるって決めた」
春斗の表情が少し固くなる。
「何を」
「誰を失いたくないかじゃなくて」
朝、自分のノートへ書いた言葉。
昼、竹下くんへ伝えた言葉。
「誰と恋人になりたいのか」
春斗が黙る。
ホームへ入ってくる風が、制服の裾を揺らした。
「土曜日までに答え出す?」
「全部出せるかは分からない」
春斗の眉が寄る。
「またそれ?」
「でも、今よりは進む」
「竹下に言われた?」
「きっかけは竹下くん」
嘘はつかない。
「でも、自分でも決めた」
「土曜日、竹下と会って考える?」
「竹下くんと恋人になりたいかは考える」
「俺は?」
「今日」
私は春斗を見る。
「今日の帰りも、明日の朝も、春斗と恋人になりたいかを考える時間になる」
「俺といる時間、全部試験みたいにする?」
春斗の声が少し強くなる。
胸へ刺さる。
「そうしたいわけじゃない」
「でも、どっちが恋人に向いてるか比べるんだろ」
「比べないと決められない」
「前は比べるなって言ってた」
「時間の中で、竹下くんを出して春斗を測るのはやめたい」
「うん」
「でも、最後に選ぶときは、二人への気持ちを考えないと無理」
春斗は黙る。
正しい言い方が分からない。
でも。
逃げたくなかった。
「土曜日まで」
春斗が小さく言う。
「うん」
「短い」
「ずっと待たせるよりいいと思った」
「竹下に合わせた期限だろ」
「そう見えると思う」
「見えるじゃなくて、そうだろ」
春斗の声へ痛みが混じる。
「竹下とのデートがあるから、それまでに考える」
「うん」
「俺との時間は、その前に挟まってるだけ?」
「違う」
「何が違う」
春斗が私を見る。
「昨日は竹下。今日は俺。明日は昼が竹下で、朝は俺」
「うん」
「そうやって分けて」
春斗は少し息を詰まらせた。
「最後は土曜日に竹下と会って決める?」
「土曜日だけで決めない」
「でも最後に会うのは竹下かもしれない」
言われ。
私は言葉を失う。
順番。
最後に会った相手の気持ちへ引かれる可能性。
そこまで考えていなかった。
「春斗」
「何」
「嫌なら」
言いかける。
春斗の目が細くなる。
「嫌なら期限変える?」
先に言われた。
私は答えられない。
「それやめろ」
「うん」
「俺が嫌って言ったら、竹下との約束変えるみたいにするな」
「うん」
「真理が決めたんだろ」
「うん」
「なら、俺が嫌でも持て」
昨日。
竹下くんの隣を選んだときにも、同じように言われた。
許可を取るように聞くな。
決めたなら、決めたと言え。
「次の土曜日までに考える」
私は言い直した。
「春斗が嫌でも」
「うん」
「竹下くんが期待しても」
「うん」
「私が決める」
春斗はしばらく黙っていた。
それから。
少し苦しそうに息を吐く。
「分かった」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「うん」
「でも期限決めたことは、前よりいい」
「本当?」
「永遠に待つより」
春斗は正面を見る。
「ただ」
「何?」
「土曜日まで、俺も動く」
胸が鳴る。
「何するの?」
「真理に、俺と恋人になりたいって思わせる」
真っ直ぐ言われる。
「どうやって?」
「今考える」
「決めてないの?」
「急に期限言われたから」
春斗は少しだけ笑う。
でも。
その目は真剣だった。
「竹下みたいに、どこか誘う?」
「うん」
「いつ?」
「明日」
「明日?」
「放課後」
「帰り?」
「帰る前に寄る」
「どこ?」
「まだ言わない」
「決まってない?」
「半分」
昼の竹下くんと似た答え。
私は笑いそうになり。
すぐに止める。
比較しない。
今は春斗との時間。
「分かった」
「来る?」
春斗が聞く。
私は少しだけ考える。
明日の昼は竹下くん。
放課後は春斗。
また二人との予定が増える。
それでも。
春斗が待つだけをやめ、自分から望んだ時間。
私は一緒に過ごしたいと思った。
「行く」
答える。
「春斗と」
比較ではなく。
春斗だけへ伝える。
「明日の放課後、行きたい」
春斗の表情が少し柔らかくなる。
「分かった」
「それも、土曜日までに考えるため?」
「違う」
春斗はすぐに答えた。
「俺が真理と行きたいから」
胸が大きく鳴る。
同じように聞こえても。
誰かと比べる言葉ではない。
春斗が私と過ごしたい。
それだけ。
「うん」
私は頷いた。
「楽しみにしてる」
春斗は少しだけ目を逸らす。
「期待する」
「うん」
「今度は止めない?」
「私が言ったから」
「責任持つ?」
「面倒そうにしない」
「まだそれだけ?」
「今は」
二人で少し笑う。
重かった空気が。
ほんの少しだけ緩んだ。
◇
電車がホームへ入ってくる。
私たちはベンチから立ち上がり、いつもの車両へ乗った。
隣同士の座席。
今日は春斗から望まれた帰り道。
私はその隣へ座る。
窓の外へ、夕方の町並みが流れ始める。
「明日」
私が言う。
「うん」
「昼は竹下くんと食べる」
春斗の表情が少し曇る。
「言う必要あった?」
「隠したくない」
「うん」
「でも放課後は春斗」
「うん」
「春斗との時間にする」
春斗は少しだけこちらを見る。
「約束?」
「うん」
「竹下の話しない?」
「必要なこと以外は」
「必要なことも、できれば少なくして」
「分かった」
「俺も石井の話しない」
「何で石井さん?」
「真理が嫌なんだろ」
「うん」
「なら、わざわざ出さない」
胸が温かくなる。
「ありがとう」
「ただのクラスメートだけど」
「分かってる」
「嫉妬する?」
「少し」
答える。
春斗は嬉しそうに笑った。
私はその顔を見ながら。
次の土曜日まで。
あと四日。
その短さを考えた。
明日の昼は竹下くん。
明日の放課後は春斗。
二人とも。
もう待つだけではない。
自分との未来を選んでもらうため。
私へ近づこうとしている。
私は。
その気持ちを受け取る。
そして。
期限が来たら。
どちらかへ答えを出さなければならない。
誰かを失いたくないからではなく。
誰と恋人になりたいのか。
その答えを。
もう。
曖昧なまま、遠くへ置いておくことはできなくなっていた。




