第21話 好きな人の隣を選んだ翌朝、幼馴染はいつもの場所に座っていませんでした
火曜日の朝、午前五時三十六分。
目覚ましが鳴るより四分早く目を覚ました私は、枕元のスマートフォンへ手を伸ばしかけ、そのまま止めた。
画面を見なくても、今日の予定は分かっている。
昨日の夜、春斗とは最後に『明日、五分』とだけ確認した。私も『うん』と返し、それ以上は何も話さないまま会話を終えている。
だから今日も、岩瀬駅のいつものベンチへ五分早く行けば、春斗がいるはずだった。
けれど、その約束を思い出した瞬間、胸へ浮かんだのは楽しみだけではない。
昨日の帰り。
私は春斗の目の前で、竹下くんの隣を選んだ。
竹下くんと一緒に帰りたいと伝え、電車では竹下くんの隣へ座った。春斗が立ったまま窓の外を見ていることに気づいても、途中で席を変えず、自分が決めた時間を守った。
あれは間違いではない。
竹下くんと帰りたかった。
普段は部活動があって一緒に帰れないからこそ、偶然できた時間を大切にしたかった。竹下くんが嬉しそうにしてくれたことも、肩が触れる距離で座れたことも、今思い出しても胸が温かくなる。
それでも。
春斗が傷ついたことも分かっている。
駅までの車内で窓の外を見ていた横顔。送迎車の中で「嫌だった」と迷わず答えた声。それでも明日の五分は行くと言い、竹下くんを選んだ私が、それでも自分へ会いたいのか確かめたいと話した。
私は会いたいと答えた。
今も、その気持ちは変わっていない。
「……会いたいけど」
布団の中で小さく呟く。
今日、春斗はどんな顔をするのだろう。
昨日のことを責めるだろうか。
竹下くんの隣に座ったことを聞くだろうか。
あるいは、何も言わないのだろうか。
何も言われない方が怖いかもしれない。
私はゆっくり身体を起こし、カーテンを開けた。窓の外には昨日の雨が残した水滴があり、朝の光を受けて細かく輝いている。空は薄い青色で、昨日の重たい雲はもうほとんど見えなかった。
雨は止んだ。
けれど、昨日の選択まで消えたわけではない。
今日は、その続きから始まる。
◇
午前六時を少し過ぎた頃、朝食を終えて玄関へ向かうと、母が台所から顔を出した。
「今日は春斗くんの家の送迎だったよね」
「うん」
「車、もうすぐ来ると思うよ」
「分かった」
私は靴を履きながら返事をした。
昨日の帰りは、春斗のお母さんが運転する車で一緒に帰った。車内で春斗と話した内容を、母は知らない。
けれど、母は私の背中を見ただけで、何かを感じ取ったらしい。
「昨日、何かあった?」
「何で?」
「朝から顔が硬い」
「みんな顔で分かりすぎじゃない?」
「真理が分かりやすすぎるのよ」
母は笑いながら近づき、私の制服の肩へついていた小さな糸屑を取った。
「竹下くんと一緒に帰ったんでしょう?」
「知ってるの?」
「春斗くんのお母さんが、帰りの車でずいぶん静かだったって」
「そこまで話すの?」
「何かあったのかしらって聞かれたから、真理が竹下くんと一緒に帰ったんじゃないかって言っただけ」
「何でそれで分かるの」
「最近の真理を見てればね」
大人たちの情報網が怖い。
特に母親同士が昔から仲の良い私たちの場合、秘密にしようとしても生活の動きだけである程度は伝わってしまう。
「春斗、嫌だったって」
「そうでしょうね」
「でも、竹下くんと帰りたかった」
「うん」
「だから変えなかった」
「それで今日は春斗くんと五分早く会う?」
「うん」
母は少し考えるように私を見る。
「真理」
「何?」
「昨日、竹下くんを選んだことを春斗くんへ謝りすぎない方がいいよ」
「どうして?」
「謝って許してもらって、また元通りに戻りたいみたいに聞こえるから」
胸へ刺さる。
私は昨日、何度も春斗へ謝った。
けれど、竹下くんと帰ったこと自体を後悔しているわけではない。
「傷つけたことは謝りたい」
「それはいいと思う。でも、自分の選択まで間違いだったみたいにしないこと」
「うん」
「春斗くんが傷ついたからって、竹下くんとの時間を小さくしたら、竹下くんにも失礼でしょう」
「うん」
「逆に、竹下くんを選んだからって、春斗くんへ会いたい気持ちを嘘にする必要もない」
最近。
誰に相談しても、似たようなことを言われる。
二つを同時に本当として持つ。
簡単そうに聞こえるけれど。
実際にやろうとすると、どちらかを守るためにもう一方を消したくなる。
「難しい」
「それはそうでしょう」
「もっと簡単だと思ってた」
「恋愛が?」
「うん」
「好きな人へ近づいて、付き合って終わりだと思ってた?」
「終わりではないけど、始まると思ってた」
「始まる前から大変ね」
母が少し笑う。
私も苦笑した。
ちょうどそのとき、家の前へ車が停まる音が聞こえた。
「来たよ」
「うん」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関を開ける。
朝の空気は昨日の雨を含んで少し湿っていた。道路脇の草にはまだ水滴が残り、遠くから新聞配達のバイクが走ってくる音が聞こえる。
見慣れた車の後部座席には、春斗が座っていた。
◇
「おはよう」
ドアを開けて声をかける。
「おはよう」
春斗はいつもと変わらない声で答えた。
窓側。
膝の上には鞄。
今日は本を持っていない。
私は少しだけ迷ったあと、隣へ座った。
「おはよう、真理ちゃん」
運転席から春斗のお母さんが明るく挨拶する。
「おはようございます」
「昨日より天気よくなってよかったね」
「はい」
「春ちゃんも体調、大丈夫そうだし」
「大丈夫って何回も言ってる」
「昨日まで熱出してたんだから心配するでしょう」
「久保にもずっと言われた」
「真理ちゃんに心配してもらえてよかったじゃない」
「母さん」
春斗の声が少し強くなる。
私は窓の外へ顔を向けた。
昨日の帰りも。
今日の朝も。
春斗のお母さんには、私たちの間へ何が起きているのか分からない。昔から一緒にいる幼馴染同士が、いつものように送迎車へ並んで乗っているだけに見えている。
実際には。
隣へ座っているだけでも、以前と同じではない。
春斗の左手は、膝の上に置かれている。
私の右手も。
間には、握ろうと思えば届く程度の距離しかない。
でも、触れない。
春斗も動かない。
車が曲がるたび、肩が少し近づく。
そのたびに、私は意識してしまう。
「真理」
春斗が小さな声で呼んだ。
「何?」
「昨日」
胸が強く鳴る。
「うん」
「竹下と帰って、楽しかった?」
思っていたより直接的だった。
春斗のお母さんへ聞こえないように、春斗は声を落としている。運転席ではラジオが流れ、道路の交通情報を伝えていた。
「楽しかった」
私は正直に答えた。
「そっか」
「竹下くんの隣を選んだこと、後悔してない」
「うん」
「春斗を傷つけたのは、嫌だったけど」
「うん」
「でも、選び直したいとは思ってない」
春斗は何も言わなかった。
窓の外を見ている。
横顔だけでは、どんな気持ちなのか読み切れない。
「春斗」
「何?」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「うん」
「でも、それを聞くために会ったんじゃないだろ」
「違う」
「じゃあ何のため?」
私は少し考えた。
昨日、竹下くんを選んだあとでも。
今日、春斗へ会いたかった理由。
「顔を見たかった」
答える。
春斗の指が、鞄の持ち手を少し強く握った。
「それ」
「うん」
「昨日よりずるい」
「分かってる」
「竹下の隣選んで」
「うん」
「次の日に俺の顔見たいって」
「うん」
「俺が嬉しいと思うの分かってる?」
「分かってる」
「それでも言う?」
「嘘つきたくないから」
春斗は小さく息を吐いた。
「正直なら何言ってもいいわけじゃない」
胸へ刺さる。
愛ちゃんにも、以前似たようなことを言われた。
本当の感情だから何をしてもいいわけではない。
「うん」
「俺が喜ぶ言葉を言って、竹下とも進んで」
「うん」
「どっちも待たせてる」
「分かってる」
「本当に?」
春斗が私を見る。
声は大きくない。
けれど、今までより少し強かった。
「昨日、俺の前で竹下を選んだ」
「うん」
「なら今日、俺に会いたいって言えば、俺がまた期待するのも分かるよな」
「うん」
「それを分かってて言うなら」
春斗は一度言葉を止めた。
「真理も、その期待に責任持って」
意味を理解するまで少し時間がかかった。
「責任?」
「俺が勝手に期待するって、今まで言ってた」
「うん」
「でも、全部俺の勝手にするのやめる」
春斗の声は静かだった。
「真理が会いたいって言った。幼馴染だけじゃないって言った。触られても嫌じゃないって言った」
「うん」
「それを俺が期待するのは、俺だけのせいじゃない」
胸の奥が重くなる。
春斗は正しい。
私は今まで。
期待するのは春斗の自由。
私が答えを出せないこととは別。
どこかでそう考えていた。
でも。
私の言葉が春斗をそこへ向かわせている。
「ごめん」
「謝って終わらせないで」
「うん」
「今すぐ俺を選べって言ってるわけじゃない」
「うん」
「でも、俺へ言う言葉も選んで」
春斗は前を向く。
「俺との五分が嬉しいなら、それは言っていい」
「うん」
「会いたいなら、それも言っていい」
「うん」
「ただ、言ったあとで、俺が期待するのを面倒そうにしないで」
私は何も言えなかった。
期待させたくない。
でも、会いたい。
だから言う。
そのあと春斗が苦しめば、私は謝る。
ずっと、その繰り返しだった。
「分かった」
私は小さく答える。
「何が?」
「春斗が期待することを、春斗だけの問題にしない」
「うん」
「私の言葉のせいでもあるって思う」
「うん」
「でも」
少しだけ迷う。
「会いたいって言わなくなるのは嫌」
春斗がこちらを見る。
「何で?」
「本当に会いたいから」
「うん」
「言葉を選ぶのは必要だけど、嘘で離れるのも嫌」
春斗はしばらく私を見ていた。
それから。
ほんの少しだけ、表情を緩めた。
「じゃあ、ちゃんと持って」
「何を?」
「俺が期待すること」
「うん」
「俺が傷つくことも」
「うん」
「それでも会いたいなら、来て」
私は頷く。
「来る」
春斗の目が少し揺れた。
それ以上は何も言わなかった。
◇
岩瀬駅へ着く。
春斗のお母さんへ見送られ、私たちは改札を通った。
朝のホームには、昨日と同じように制服姿の生徒が並んでいる。雨上がりの線路は少し濡れており、朝日に照らされた金属が白く光っていた。
私はいつものベンチへ向かう。
けれど。
そこに春斗は座らなかった。
ベンチの前を通り過ぎ、少し離れた柱の近くで立ち止まる。
「春斗?」
「今日はここ」
「何で?」
「座らない」
「体調悪い?」
「違う」
「じゃあ何?」
春斗は柱へ背を預け、鞄を足元へ置いた。
「五分の使い方、変える」
「どういうこと?」
「今までは、真理が来るの待って、隣に座って、普通に話してた」
「うん」
「それだと、何も変わらない」
春斗の声には、決意のようなものがあった。
「昨日、竹下を選んだだろ」
「うん」
「竹下は、真理に選んでもらうために自分から動いてる」
「うん」
「俺は待つって言って、毎朝ここにいるだけだった」
「そんなことない」
「ある」
春斗は私を見る。
「俺、幼馴染だから隣にいられることに甘えてた」
思ってもいなかった言葉だった。
春斗は私よりずっと早く、自分の気持ちへ気づいていた。
それでも。
今まで大きく関係を変えようとはしなかった。
私が竹下くんを好きだと言ってから、ようやく告白した。
「真理が来れば話せる」
「うん」
「帰りも一緒」
「うん」
「家も近い」
「うん」
「だから、竹下みたいに誘わなくても時間があると思ってた」
春斗は自嘲するように笑う。
「昨日、分かった」
「何が?」
「時間があるだけじゃ選ばれない」
胸が痛む。
昨日。
私は竹下くんの隣を選んだ。
春斗とのいつもの帰り道より。
竹下くんと帰る時間を選んだ。
「だから」
春斗は柱から背を離した。
「俺も、欲しい時間は自分で言う」
胸が鳴る。
「何を?」
「今日の帰り」
「うん」
「俺と二人で帰りたい」
春斗は真っ直ぐ言った。
昨日の竹下くんと同じように。
私が誰の隣へ行きたいかを待つだけではなく、自分の望みを口にした。
「竹下くんは部活だと思う」
「関係ない」
「うん」
「部活があってもなくても、今日は俺と帰ってほしい」
春斗の声は少し硬い。
緊張している。
私が断る可能性を考えている。
「昨日、竹下と帰ったから?」
「それもある」
「取り返したい?」
「少し」
正直だった。
「でも、それだけじゃない」
「じゃあ何?」
「昨日、真理が竹下を選ぶところ見た」
「うん」
「今日は、俺を選んでほしい」
ホームの音が遠くなる。
電車を待つ生徒たち。
線路の向こうを飛ぶ鳥。
風に揺れる制服の裾。
春斗の目だけが、真っ直ぐ私を見ている。
これまで。
春斗はよく「待つ」と言った。
私が決めるまで。
無理に選ばせない。
でも。
今日の春斗は、待つだけではなかった。
「帰る」
私は答えた。
春斗の表情がわずかに動く。
「俺と?」
「うん」
「竹下に何か言われても?」
「今日は春斗と帰る」
口にした瞬間。
昨日とは別の重みが胸へ落ちる。
昨日は竹下くんの隣を選んだ。
今日は春斗。
どちらも同じ意味ではない。
竹下くんへの恋が後退したわけではない。
ただ。
昨日、傷ついた春斗を慰めるためでもなく。
春斗から望まれた時間を、私も一緒に過ごしたいと思った。
「分かった」
春斗は少しだけ俯いた。
「何で下向くの?」
「顔見られたくない」
「嬉しい?」
「かなり」
「見る」
「見るな」
私は少し横へ動き、春斗の顔を覗こうとする。
春斗も顔を逸らす。
「春斗」
「うるさい」
「耳赤い」
「朝から見るな」
「昨日の竹下くんみたい」
言った瞬間。
春斗の表情が止まる。
私も。
しまったと思った。
春斗との時間へ、竹下くんを比較として持ち込んだ。
「ごめん」
すぐに謝る。
「今のは本当にごめん」
春斗は少し黙った。
それから、小さく息を吐く。
「分かったならいい」
「うん」
「でも次は嫌」
「気をつける」
「今、俺が嬉しいことと、竹下が昨日嬉しかったことは別」
「うん」
「比べるな」
「うん」
同じことを。
これまで竹下くんにも何度も言われている。
私はまだ。
無意識に二人を同じ場所へ置いてしまう。
「春斗」
「何?」
「今日は春斗と帰りたい」
比較ではなく。
春斗だけへ言う。
春斗は少しだけ私を見る。
「うん」
今度は。
静かに笑った。
◇
電車へ乗ると、いつもの二人席が空いていた。
春斗が窓側へ座り、私は隣へ座る。
昨日の帰り。
私は竹下くんの隣へ座った。
春斗は少し離れた場所で吊り革を握っていた。
今日は。
春斗の隣。
それを意識すると、身体が少し硬くなる。
「何?」
春斗が聞く。
「昨日のこと思い出した」
「竹下?」
「うん」
「今は言わないんじゃなかった?」
「細かいことは言わない」
「なら何?」
私は言葉を選ぶ。
「昨日は竹下くんの隣に座った」
「うん」
「今日は春斗の隣」
「うん」
「違う」
「何が?」
「気持ち」
春斗はすぐには答えなかった。
「どう違う?」
聞かれる。
竹下くんの隣では。
恋をしている感じがした。
手を繋いだ相手。
彼女になってほしいと言ってくれた相手。
隣に座るだけで、胸が高鳴った。
春斗の隣では。
安心する。
昔から何度も座ってきた場所。
でも今は、それだけではない。
触れたいと言われた。
ただの幼馴染ではないと自分で認めた。
そのことを知ったうえで隣にいるから、以前よりも少し緊張する。
「竹下くんの隣は、恋してるって感じ」
正直に言う。
春斗の表情が少し曇る。
「うん」
「春斗の隣は、安心する」
「それだけ?」
聞かれる。
私は春斗を見る。
「少し緊張もする」
「何で?」
「春斗が私を好きって知ってるから」
「うん」
「私も、ただの幼馴染じゃないと思ってるから」
「うん」
「だから、前と同じ安心だけじゃない」
春斗の目が少し揺れる。
「それ」
「何?」
「期待する」
私は今度、止めなかった。
「うん」
「いいの?」
「私が言ったから」
「うん」
「責任持つ」
春斗が少し驚いた顔をする。
「どうやって?」
「面倒そうにしない」
「それだけ?」
「今は」
春斗は小さく笑った。
「真理らしい」
「悪い意味?」
「少し」
「ひどい」
二人で笑う。
その瞬間。
以前のような空気が少し戻った。
でも。
完全に同じではない。
笑いながらも。
互いの手が近いことを意識している。
春斗は触れない。
私も触れない。
それでも。
昨日までより。
少しだけ近かった。
◇
水戸駅へ着き、学校へ向かう。
朝の人通りは多い。
春斗は昨日よりも体調が戻ったらしく、歩幅も速くなっていた。
「今日は速い」
私が言う。
「昨日より元気」
「本当に?」
「また聞く?」
「確認」
「朝から何回目」
「二回」
「車でも聞いた」
「あれはお母さん」
「真理も顔見てた」
「見てたけど」
「期待する」
「体調」
「分かってる」
同じやり取り。
でも。
昨日までとは少し違う。
春斗は。
待つだけではなくなった。
今日の帰りを、自分から欲しいと言った。
それが。
私には嬉しかった。
竹下くんのように積極的になったからではない。
春斗が、自分の望みを私へ預けてくれたことが嬉しい。
「春斗」
「何?」
「帰り」
「うん」
「楽しみ」
春斗の足が一瞬だけ遅くなる。
「それも期待する」
「うん」
「竹下に会ったあとでも?」
「うん」
「変わらない?」
私は少し考えた。
学校へ行けば竹下くんに会う。
昨日、一緒に帰った。
次の土曜日も会う。
竹下くんへの気持ちは変わらない。
でも。
今日、春斗と帰る約束も変えたくない。
「変えない」
答える。
「今日は春斗と帰る」
「分かった」
春斗の声が少し明るくなる。
そのとき。
校門の近くで。
見慣れた姿が見えた。
竹下くん。
サッカー部の友人たちと歩いている。
竹下くんも、こちらへ気づく。
目が合う。
胸が高鳴る。
昨日の帰り。
竹下くんの隣を選んだことを思い出す。
竹下くんが少し笑い、私へ手を上げる。
私も手を上げた。
隣の春斗は何も言わない。
でも。
歩く速度を変えなかった。
「おはよう」
竹下くんが友人たちから少し離れ、こちらへ近づく。
「おはよう」
「春斗くん、体調どう?」
「もう大丈夫」
「よかった」
昨日と同じように。
竹下くんは春斗へも声をかける。
それから私を見る。
「昨日」
「うん」
「一緒に帰れてよかった」
胸が温かくなる。
「私も」
答える。
春斗が隣にいる。
それでも。
昨日を否定しない。
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「今日、部活あるから」
「うん」
「昼」
「一緒に食べる」
「覚えてた?」
「約束したから」
「よかった」
竹下くんが笑う。
その笑顔を見て。
私も嬉しくなる。
そして。
春斗との帰りの約束も、胸の中にある。
「真理」
春斗が呼ぶ。
「何?」
「行くぞ」
声は普通だった。
竹下くんの前で、帰りの約束を見せつけるようなことはしない。
でも。
私を置いていかず。
隣へいる。
「うん」
私は竹下くんを見る。
「また教室で」
「うん」
三人で昇降口へ向かう。
途中で。
春斗は別の階へ。
竹下くんと私は同じ教室へ。
いつもの分かれ道。
けれど今日は。
それぞれとの約束がある。
昼は竹下くん。
帰りは春斗。
私は。
その二つを。
どちらも自分で選んだ。
◇
教室へ入る前。
竹下くんが私を呼び止めた。
「久保さん」
「何?」
「今日」
少し迷うように言葉を止める。
「帰り、春斗くんと?」
聞かれる。
どうして分かったのだろう。
顔に出ていたのかもしれない。
「うん」
私は嘘をつかなかった。
竹下くんの表情がわずかに固くなる。
「そっか」
「春斗が一緒に帰りたいって言った」
「うん」
「私も帰りたいと思った」
竹下くんは黙る。
朝の廊下には、生徒たちが次々と通り過ぎていく。教室からは愛ちゃんの明るい声や、小野寺くんが誰かと話す声が聞こえていた。
「昨日は俺を選んだ」
「うん」
「今日は春斗くん」
「うん」
「それ」
竹下くんは少し苦しそうに笑う。
「かなり嫌」
「うん」
「でも、言ってくれてよかった」
「本当?」
「知らないまま待って、あとで見る方が嫌だから」
「うん」
「昼は?」
「竹下くんと食べたい」
「帰りは?」
「春斗」
「土曜は?」
「竹下くんと会う」
私は一つずつ答えた。
竹下くんは私の顔を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「分けてるんだね」
「うん」
「俺は、全部俺にしてほしい」
真っ直ぐ言われる。
「分かってる」
「春斗くんも同じだと思う」
「うん」
「いつまでこうする?」
胸が重くなる。
いつか。
決めなければならない。
竹下くんも春斗も、もう待つだけではいられない。
「ずっとじゃない」
私は答える。
「考えてる」
「次の土曜までに?」
「全部は無理かもしれない」
竹下くんの表情が少し曇る。
「でも」
私は続ける。
「土曜は、竹下くんとのことを考える」
「春斗くんじゃなく?」
「うん」
「俺の彼女になりたいか?」
「うん」
「それを考えて」
「分かった」
竹下くんは小さく頷いた。
「今日の昼」
「うん」
「俺との時間にして」
「する」
「帰りのこと考えないで」
「努力する」
「そこは、するって言って」
以前にも。
同じように言われた。
私は少しだけ笑う。
「する」
「約束」
「うん」
竹下くんも少し笑った。
そのまま二人で教室へ入る。
◇
自分の席へ着くと、愛ちゃんがすぐに近づいてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「朝から顔が忙しい」
「何それ」
「春くんと何かあって、竹下くんとも何か話した顔」
「全部分かるの?」
「だいたい」
愛ちゃんは私の机の横へ立つ。
「春くんとは?」
「今日、一緒に帰りたいって言われた」
「春くんから?」
「うん」
「珍しい」
「待つだけやめるって」
愛ちゃんの表情が少し真剣になる。
「それで真理は?」
「帰るって言った」
「昨日は竹下くん」
「うん」
「今日は春くん」
「うん」
「竹下くんには?」
「言った」
「反応は?」
「嫌って」
「そりゃそうだね」
愛ちゃんは少し考える。
「でも、竹下くんとの昼は守る?」
「うん」
「土曜も?」
「うん」
「春くんとの帰りも?」
「うん」
愛ちゃんは私をじっと見る。
「真理」
「何?」
「今、かなり危ないところにいるよ」
「分かってる」
「二人の時間を分けるのは大事。でも、分ければずっと両方と進んでいいわけじゃない」
「うん」
「昨日竹下くん。今日は春くん。明日はまた竹下くんって続けたら」
「うん」
「二人とも、自分も選ばれてると思う」
胸へ刺さる。
実際。
どちらも選んでいる。
今日の時間。
明日の時間。
その日ごとに。
「でも、嘘ついて断るのも違う」
「そうだね」
「じゃあどうすればいい?」
「期限を決めるしかないかも」
「期限?」
「いつまでに選ぶか」
私は何も答えられなかった。
竹下くんは。
次の土曜日までに、自分の彼女になりたいかを考えてほしいと言った。
それは答えを出せという意味ではないかもしれない。
でも。
確実に。
選択へ近づくよう求めている。
「次の土曜」
私が言う。
「そこまでに、少し決めないといけないかも」
「全部?」
「分からない」
「春くんには?」
「まだ言ってない」
「言った方がいいと思う」
「何て?」
「竹下くんとの土曜までに、自分の気持ちを考えるって」
春斗は。
どう思うだろう。
その土曜日が、竹下くんとの答えへ近づく時間だと知ったら。
「嫌がる」
「嫌がるよ」
「それでも?」
「隠す方が嫌だと思う」
また。
嘘よりいい。
どちらもそう言う。
「今日の帰りに言う」
私は決めた。
「うん」
「春斗と帰る時間で」
「うん」
「竹下くんの話を全部するんじゃなくて」
「自分がいつまでに考えるかを伝える」
「うん」
愛ちゃんが頷く。
「それなら、春くんとの時間を竹下くんの話だけで埋めることにはならないと思う」
「難しい」
「でも、もう簡単なところは過ぎたから」
その言葉が。
静かに胸へ落ちる。
もう。
恋愛相談をしているだけの頃ではない。
竹下くんと手を繋いだ。
春斗へただの幼馴染ではないと伝えた。
昨日は竹下くんの隣を選び。
今日は春斗と帰る。
誰かを選ばないまま。
何も変わらない場所へ留まることは。
もうできなかった。
◇
朝のホームルームが始まり、教室の声が少しずつ静かになる。
担任が出席を取り、黒板へ今日の予定を書いていく。私はノートを開きながら、昨日の夜まで使っていた比較ノートのことを思い出した。
左に竹下くん。
右に春斗。
二人への気持ちを分けて書く。
それで少しずつ答えへ近づけると思っていた。
でも。
今日。
新しく考えなければならないことが増えた。
誰が好きかだけではない。
誰と、どんな未来を望んでいるのか。
竹下くんと付き合えば。
手を繋ぎ。
休日に会い。
昼休みを一緒に過ごし。
恋人として隣へいる。
春斗とは。
今までのように毎朝会うことも。
何でも話すことも。
同じ距離では続けられないかもしれない。
春斗を選べば。
今まで積み重ねた安心が。
恋へ変わる。
幼馴染から恋人へ。
でも。
竹下くんとの手を繋いだ時間も。
彼女になりたいと思い始めた気持ちも。
手放さなければならない。
どちらを選んでも。
何かを失う。
今までは。
二人を失いたくないと思っていた。
けれど。
選ぶということは。
失わないための行動ではなく。
失う可能性まで引き受けることなのかもしれない。
担任の声が教室へ響く。
私はペンを持ち。
ノートの端へ小さく書いた。
『次の土曜日までに、誰を失いたくないかではなく、誰と恋人になりたいかを考える。』
書いた文字を見て。
胸が苦しくなる。
それでも。
消さなかった。
斜め前。
竹下くんの背中。
今日の帰りを待っている春斗。
どちらも。
大切。
だからこそ。
そろそろ。
大切という言葉だけでは。
足りなくなっていた。




