第20話 好きな人と幼馴染が同じ帰り道に並んだので、私は初めて自分から隣を選びました
午後の授業がすべて終わる頃には、朝から明るかった空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
五時間目の途中までは、窓から差し込む陽射しが机の上へ白い帯を作っていた。それが六時間目の終わりにはすっかり消え、教室の中には夕方よりも少し早い薄暗さが広がっている。
窓際の生徒が外を見ながら、「降るかも」と呟いた。
その声につられて何人かが空を確認し、傘を持ってきたかどうかを話し始める。朝の天気予報では、夕方から局地的に雨が降る可能性があると言っていたらしい。
私は聞いていなかった。
朝は春斗へ会うことばかり考え、その後は竹下くんとの昨日をどう扱うかで頭がいっぱいだったからだ。
「真理、傘ある?」
隣で愛ちゃんが帰り支度をしながら聞いた。
「折り畳みなら」
「珍しく準備いいね」
「お母さんが入れた」
「真理の準備じゃなかった」
「私も確認したよ」
「鞄に入ってから?」
「入ってることを確認した」
愛ちゃんは少し笑った。
教室の前では、担任が明日の提出物について最後の確認をしている。すでに鞄を肩へ掛けた生徒たちは、終礼が終わるのを待ちきれず、椅子を小さく引いたり、友人へ目配せしたりしていた。
斜め前の竹下くんは、いつもなら終礼後すぐに部活動へ向かう。
机の横にはサッカー部の大きなバッグが置かれている。放課後に話せるとしても数分だけで、その後は私は春斗と帰ることになる。
朝、竹下くんと会えた。
昼休みも同じ机で食べた。
明日の昼と土曜日の約束もした。
今日はそれで十分だと思っていた。
それでも、竹下くんが立ち上がり、すぐに教室からいなくなることを考えると、少し寂しい。
そんな自分の変化が、まだ少し不思議だった。
「久保」
担任に呼ばれ、私は反射的に顔を上げた。
「はい」
「今日の終礼は終わってるぞ」
「え?」
周囲を見る。
生徒たちはすでに立ち上がっており、教室の入口へ向かっている。担任も出席簿を閉じ、呆れたようにこちらを見ていた。
「また考え事か」
「聞いてました」
「何を」
「明日の提出物」
「それは終礼の最初だ」
教室に笑いが広がる。
小野寺くんが前方から振り返り、「今日ずっとこんな感じ」と余計な報告をした。
「小野寺くん」
「事実」
「竹下」
担任が竹下くんへ視線を向ける。
「久保が授業へ戻ってくるよう見張っておけ」
「何で俺なんですか」
「原因の一つだろ」
今度はさらに大きな笑いが起きる。
竹下くんの耳が赤くなり、私は机の上へ顔を伏せたくなった。
「先生までからかわないでください」
「からかっていない。成績が落ちたら困るだけだ」
「もっと悪いです」
「なら明日は集中しろ」
「はい」
担任が教室を出ると、生徒たちの声が一気に大きくなった。
近くの女子が「久保さん、今日ずっと竹下くん見てたもんね」と笑い、別の女子が「昨日デートだったんだから仕方ないよ」と続ける。
「仕方なくないよ」
私が言っても、誰も本気には受け取らなかった。
竹下くんはサッカー部のバッグを持ち上げながら、困ったように私を見る。
「本当に授業、大丈夫だった?」
「大丈夫」
「先生に三回呼ばれてたけど」
「二回」
「三回」
「数えてたの?」
「見てたから」
その答えに、今度は私の方が言葉を失った。
小野寺くんがすぐに反応する。
「竹下も授業聞いてないじゃん」
「俺は答えられる」
「そういう問題?」
「お前よりは聞いてる」
「比べる相手が俺なのはひどくない?」
周囲に再び笑いが広がった。
私は恥ずかしさを誤魔化すように鞄を閉じる。
そのとき、廊下の向こうから低い雷鳴が聞こえた。
遠くで何か大きなものが転がったような、重たい音だった。教室に残っていた生徒たちが一斉に窓を見る。
少し遅れて、窓ガラスへ小さな雨粒が当たり始めた。
「降ってきた」
愛ちゃんが窓際へ近づく。
初めは点々とついていただけの雨粒が、数十秒もしないうちに数を増やしていく。校庭を歩いていた生徒たちが屋根の下へ走り、グラウンドでは朝から出したままだった用具を運動部の生徒が慌てて片づけ始めた。
「これ、部活できないかもな」
小野寺くんが言う。
「雨だけなら室内で筋トレ」
竹下くんが答える。
「雷鳴ってるけど」
「待機だろ」
「帰りたい」
「始まる前から言うな」
二人が話している間に、竹下くんのスマートフォンが震えた。
画面を確認した竹下くんの表情が、少し変わる。
「何?」
私が聞くと、竹下くんはサッカー部の連絡画面を見せるように持ち上げた。
「今日、中止」
「本当に?」
「雷の予報が続いてるから、グラウンドも室内施設も使用禁止だって」
小野寺くんが小さく拳を握る。
「よし」
「喜ぶな」
「でも帰れる」
「明日の練習増えるぞ」
「今日の俺には関係ない」
「明日の自分を他人扱いするな」
男子たちの笑いが教室へ広がる。
その隣で。
私の胸は、別の理由で少し速くなっていた。
竹下くんが部活動へ行かない。
つまり。
今日は一緒に帰れる。
けれど。
春斗も待っている。
いつものように、昇降口か校舎の下で合流するはずだった。
春斗と竹下くんと私。
三人の帰り道が重なる。
その事実へ気づいた瞬間、嬉しさより先に困惑が生まれた。
◇
「一緒に帰れるね」
愛ちゃんが、私にだけ聞こえる声で言った。
「誰と?」
「竹下くん」
「春斗もいる」
「うん」
「どうしよう」
「私に聞く?」
「相談」
「春くんへの恋愛相談をやめたと思ったら、今度は私へ全部来るね」
「愛ちゃんはいいでしょ」
「何で」
「好きって言ってないから」
「その基準やめなよ」
愛ちゃんは呆れたように笑ったが、すぐに少し真剣な顔へ戻った。
「三人で帰れば?」
「気まずい」
「別々に帰れる?」
「電車同じだと思う」
「なら避けられないでしょう」
「春斗、嫌だよね」
「竹下くんも嫌だと思う」
「私も少し嫌」
「何が?」
「どっちかが傷つくのを見るの」
愛ちゃんはすぐには答えなかった。
窓の外では雨がさらに強くなっている。屋根へ落ちる音が教室の中まで聞こえ、遠くで二度目の雷が鳴った。
「真理」
「うん」
「どっちも傷つけない帰り方はないと思う」
母にも似たことを言われた。
誰も傷つけずに選べるとは限らない。
「でも、ただ一緒の電車へ乗るだけだよ」
「真理にとってはそうでも、二人には違うかもしれない」
「うん」
「だからって、二人に好きな席を先に取らせて、真理は空いたところへ座るとかは駄目」
「やりそうだった」
「だと思った」
「じゃあどうする?」
「自分で決める」
「またそれ」
「恋愛なんだから当たり前」
愛ちゃんは鞄を肩へ掛けた。
「今日、誰との時間を優先したいか考えれば?」
「春斗とは毎日帰ってる」
「うん」
「竹下くんは、部活があるから一緒に帰れない」
「うん」
「なら?」
答えは。
分かっている気がした。
それでも。
口にするのが怖い。
「竹下くんと帰りたい」
私は小さく言った。
「じゃあ、そう伝えればいい」
「春斗に?」
「竹下くんにも」
「嫌な顔されたら?」
「されると思う」
「そこは励まして」
「嘘は言えない」
愛ちゃんは私の肩へ軽く触れる。
「でも、選ばないで曖昧にするよりいいよ」
私は頷いた。
今日。
初めて。
帰り道で自分から誰の隣へ行くかを決める。
それは、ただ座席を選ぶだけではない。
春斗との当たり前より。
今日は竹下くんとの偶然にできた時間を選ぶ。
そういう意味になる。
◇
帰り支度を終えた生徒たちが、雨の様子を見ながら教室を出ていく。
傘を持っていない者は、家族へ迎えを頼むため電話をしていた。何人かの女子は駅まで相合い傘をすると相談し、男子たちは濡れて走るか、雨が弱まるまで待つかで揉めている。
竹下くんはサッカー部のバッグを普段の鞄へまとめ、小野寺くんと帰りの電車を確認していた。
「竹下くん」
私が呼ぶと、竹下くんはすぐにこちらを見る。
「何?」
「今日」
言葉が少し詰まる。
周囲に人がいる。
けれど。
ここで曖昧にしたくない。
「一緒に帰れる?」
竹下くんの目が少し大きくなる。
「俺と?」
「うん」
「春斗くんは?」
やはり、最初にそこを聞かれた。
「春斗も帰ると思う」
「三人?」
「電車は同じになるかも」
「そっか」
竹下くんの表情へ、嬉しさと警戒が同時に浮かぶ。
「でも」
私は続ける。
「今日は竹下くんの隣にいたい」
周囲の音が、急に遠くなった気がした。
竹下くんは何も言わない。
小野寺くんも。
近くで話していた何人かの生徒も。
こちらを見ていた。
「久保さん」
「うん」
「それ、本当に言ってる?」
「うん」
「春斗くんがいても?」
「うん」
「俺の隣?」
「うん」
竹下くんは、少し俯いた。
耳が赤い。
口元を隠すように手を当て、短く息を吐く。
「竹下くん?」
「今、かなり嬉しい」
顔を上げた竹下くんは、本当に嬉しそうだった。
「ありがとう」
「私が一緒に帰りたいから」
「それが嬉しい」
小野寺くんが隣で、何かを言いたそうに口を開いた。
しかし、愛ちゃんから鋭い視線を向けられ、すぐに閉じる。
「俺、何も言ってない」
「これから言う顔だった」
「みんな顔で判断しすぎ」
「小野寺くんは分かりやすいから」
「久保さんまで」
少し笑いが起こる。
張りつめていた空気が、わずかに緩んだ。
けれど。
春斗へ伝えることは、まだ残っている。
◇
昇降口は、帰宅する生徒で混雑していた。
外では強い雨が降り続いている。透明なビニール傘が次々と開き、色とりどりの傘が校門へ向かって流れていく。
真理は靴を履き替えながら、何度も昇降口の外へ視線を向けた。
春斗は。
いつもの柱の近くにいた。
鞄を肩へ掛け、スマートフォンを見ながら待っている。
朝より顔に疲れが見えるが、立っている姿は安定している。保健室へ行くほどではなかったという言葉は、本当らしい。
竹下くんも春斗へ気づいた。
少しだけ歩みを止める。
「行く?」
私が聞くと、竹下くんは頷いた。
「うん」
小野寺くんと愛ちゃんも、少し離れて後ろを歩いてくる。
春斗が顔を上げた。
私を見る。
その隣にいる竹下くんを見る。
さらに後ろの二人へ目を向ける。
状況を理解するまで。
ほとんど時間はかからなかった。
「部活」
春斗が竹下くんへ言う。
「中止」
「雷?」
「うん」
「そっか」
それだけ。
春斗は私を見る。
「帰る?」
「うん」
私は答えた。
そして。
続ける。
「春斗」
「何?」
「今日」
喉が少し乾く。
春斗の目が。
静かに私を見ている。
「竹下くんと一緒に帰りたい」
雨音が大きかった。
傘を開く音。
生徒たちの話し声。
靴底が濡れた床を踏む音。
それでも。
私の声は春斗へ届いた。
春斗の表情が。
わずかに止まる。
「そっか」
返事は短かった。
「嫌?」
聞く。
春斗は一度だけ視線を逸らした。
「嫌」
「うん」
「聞かなくても分かるだろ」
「分かってる」
「じゃあ聞くな」
「でも、ちゃんと聞きたかった」
春斗は少し眉を寄せた。
「俺が嫌って言ったら、竹下と帰らない?」
答えは。
もう決めている。
「帰る」
私は言った。
春斗の目が細くなる。
竹下くんも。
愛ちゃんも。
小野寺くんも。
黙っている。
「なら、俺に許可取るみたいに聞くなよ」
春斗の声は強くなかった。
けれど。
苦しさは隠れていない。
「ごめん」
「謝るな」
「うん」
「真理が決めたんだろ」
「うん」
「なら、決めたって言え」
私は息を吸った。
今度は。
春斗の反応を確かめるためではなく。
自分の選択として伝える。
「今日は竹下くんの隣で帰る」
春斗は黙った。
雨の向こうを見ている。
少しして。
「分かった」
それだけ答える。
「春斗」
「何?」
「一緒の電車にはなると思う」
「そうだろうな」
「春斗を置いていきたいわけじゃない」
「それ、言わない方がいい」
「何で?」
「俺は置いていかれる気分だから」
胸が痛む。
でも。
ここで竹下くんとの時間を撤回することは違う。
「ごめん」
「また謝った」
「……うん」
春斗は少しだけ苦笑した。
「でも」
私は続ける。
「決めたことは変えない」
「うん」
「竹下くんと帰りたい」
「分かったって」
春斗の声は。
やはり苦しそうだった。
それでも。
止めなかった。
◇
五人で昇降口を出る。
雨は強く、地面へ落ちた水滴が白く弾けている。
真理は折り畳み傘を開いた。
春斗も自分の傘を持っている。竹下くんは大きめの黒い傘。愛ちゃんは明るい色の傘を開き、小野寺くんは鞄の中を何度も探したあと、絶望した顔で立ち尽くした。
「傘ない」
小野寺くんが言う。
「さっき確認してなかった?」
竹下くんが聞く。
「家にあることは確認した」
「久保さんと同じこと言ってる」
「私は鞄にあるの確認したよ」
「小野寺、走れば」
「雷鳴ってる中?」
「じゃあ迎え」
「母さん仕事」
愛ちゃんが呆れたように傘を少し持ち上げる。
「駅まで入る?」
「大杉さん、優しい」
「その代わり鞄持って」
「はい」
小野寺くんは愛ちゃんの鞄を受け取り、傘の端へ入る。
二人の距離が思ったより近くなり、小野寺くんが少し緊張した顔をした。
「何?」
愛ちゃんが聞く。
「近い」
「濡れたい?」
「このままで」
「なら黙って」
そのやり取りに、周囲の何人かが笑った。
竹下くんも少し笑い。
春斗も。
ほんの僅かに口元を緩めた。
重かった空気が。
愛ちゃんと小野寺くんのおかげで少しだけ軽くなる。
校門を出る。
私と竹下くんは並んで歩く。
傘は別々。
昨日のように手は繋がない。
それでも。
今までの帰り道では、私の隣には春斗がいた。
今日は竹下くん。
春斗は少し後ろ。
その配置を意識するたび。
胸が痛み。
同時に。
竹下くんの隣へいることが嬉しかった。
「久保さん」
竹下くんが小さく呼ぶ。
「何?」
「本当にいいの?」
「何が?」
「俺の隣」
「私が決めた」
「うん」
「春斗に言われたから」
「そっか」
「だから、何回も確認しないで」
「でも嬉しくて」
竹下くんは雨の向こうを見ながら、少し照れたように笑う。
「昨日より嬉しいかも」
「昨日より?」
「手を繋いだのも嬉しかった」
「うん」
「でも今日は、春斗くんがいる前で俺を選んでくれた」
その言葉に。
真理の胸が少し重くなる。
「勝ったとか思ってる?」
「少し」
竹下くんは正直に答えた。
「嫌?」
「分からない」
「俺は勝ちたいよ」
「うん」
「春斗くんより、久保さんの隣にいたい」
竹下くんの声は穏やかだった。
でも、譲るつもりはない。
「今日だけじゃなく」
「うん」
「毎日」
それは。
恋人になるということ。
これからの帰り道を。
竹下くんの隣にするということ。
「考えてる」
「うん」
「今日のことも」
「うん」
「ちゃんと考える」
竹下くんは頷いた。
それ以上は急かさなかった。
◇
駅へ着く頃には、制服の裾や靴が少し濡れていた。
改札前には雨を避けて立つ人が多く、ホームへ向かう階段も普段より混雑している。
私たち五人は改札を通る。
春斗は少し離れた位置を歩いていた。
何度か話しかけようと思った。
でも。
今は竹下くんとの時間。
春斗の機嫌を確認するために離れることは。
自分で決めた意味を壊す気がした。
ホームへ着く。
雨のためか、いつもより電車が少し遅れているらしい。屋根の下には多くの人が並び、濡れた傘から落ちる水が足元へ細い流れを作っていた。
竹下くんが私の隣へ立つ。
春斗は少し離れた柱の近く。
愛ちゃんと小野寺くんはその間。
誰も。
どう並べばいいのか分からないようだった。
「春斗」
私は呼んだ。
春斗がこちらを見る。
「体調、大丈夫?」
聞く。
春斗は一瞬。
何か言いたそうな顔をした。
「大丈夫」
「疲れてない?」
「少し」
「座れるといいね」
「真理」
「何?」
「今は竹下との時間なんだろ」
言われ。
私は黙る。
「うん」
「なら、俺の顔見て確認し続けるな」
「でも心配」
「それは分かる」
「うん」
「でも今、俺を気にして竹下の隣にいるなら、竹下も嫌だろ」
竹下くんは何も言わなかった。
でも。
春斗の言葉を否定しない。
「ごめん」
「俺にじゃなくて」
春斗は竹下くんを見る。
竹下くんも春斗を見る。
「ちゃんとそっちにいろ」
胸が痛んだ。
それでも。
私は竹下くんの隣へ立ったまま頷く。
「うん」
春斗は視線を逸らした。
◇
電車がホームへ入ってくる。
雨で遅れていたため、車内は混んでいた。
扉が開くと同時に、人の流れが動き出す。私たちも順番に乗り込む。
二人分の座席が一組だけ空いていた。
誰も。
すぐには動かなかった。
竹下くん。
春斗。
私。
三人が同じ座席を見る。
この瞬間が来ると分かっていたはずなのに。
実際に目の前へ現れると、胸が強く鳴った。
「真理」
春斗が言う。
声は静かだった。
「決めたんだろ」
私は春斗を見る。
その表情は。
苦しそうだった。
でも。
試すような顔ではない。
私へ決めさせようとしている。
私は竹下くんを見る。
竹下くんも。
何も言わず待っている。
手を引かない。
座れとも言わない。
私の選択を待っている。
「竹下くん」
私は呼ぶ。
「うん」
「座ろう」
竹下くんの表情が柔らかくなる。
「うん」
二人で座る。
窓側が竹下くん。
通路側が私。
春斗は少し離れた吊り革へ手を伸ばした。
愛ちゃんと小野寺くんも、その近くへ立つ。
電車が動き出す。
身体が揺れ。
私の肩が竹下くんの腕へ軽く触れた。
昨日と同じ。
でも。
今日は春斗が見える場所にいる。
反射的に離れそうになる。
竹下くんは何も動かない。
私は。
少しだけ息を吸い。
肩をそのままにした。
見せつけるためではない。
春斗を傷つけたいわけでもない。
ただ。
今日は竹下くんの隣へいると決めた。
その選択を。
途中で曖昧にしたくなかった。
「久保さん」
竹下くんが小さな声で呼ぶ。
「何?」
「ありがとう」
「何回目?」
「何回でも言う」
「大げさ」
「俺には大きい」
竹下くんの声は。
ほんの少し震えていた。
私は前を見る。
春斗と目が合う。
一瞬。
胸が痛む。
それでも。
視線を逸らさなかった。
春斗も。
しばらく私を見たあと。
少しだけ頷いた。
その意味は分からない。
選んだことを認めたのか。
今はそれでいいと言ったのか。
あるいは。
もう見たくないと思ったのか。
春斗は窓の外へ顔を向ける。
私は竹下くんの隣へ座ったまま。
その背中を追わなかった。
◇
車内では、大きな会話はしなかった。
周囲に人が多く、愛ちゃんたちも近くにいる。昨日のように手を繋ぐこともない。
それでも。
竹下くんと肩が触れる距離で座り。
時々小さく話す。
「雨、土曜は大丈夫かな」
「まだ分からない」
「晴れてほしい?」
「うん」
「俺も」
「場所は?」
「今考えてる」
「どこ?」
「まだ秘密」
「決まってないだけじゃなくて?」
「半分」
「正直」
二人で小さく笑う。
それだけ。
普通の会話。
でも。
今日の真理には。
春斗の前で竹下くんと普通に話すこと自体が、ひとつの選択だった。
これまでなら。
春斗の顔色を何度も見て。
竹下くんとの会話を控えて。
その結果。
竹下くんへも寂しい思いをさせていた。
今は。
苦しくても。
選んだ時間を守る。
その練習をしている。
◇
岩瀬駅へ着く。
雨はまだ続いていたが、学校を出た頃より少し弱まっている。
ホームへ降りると、竹下くんは迎えの連絡を確認した。
「あと五分くらい」
「待つ?」
私が聞く。
竹下くんは少し迷った。
春斗も。
同じ駅で降りている。
「久保さんは?」
「春斗の家の車」
今日は送迎当番が春斗の家だった。
そのことを思い出した瞬間。
帰りの最後は。
また春斗と同じ車になる。
竹下くんの表情が少しだけ固くなる。
「そっか」
「うん」
「駅までで終わり?」
「今日は」
「うん」
竹下くんは少し寂しそうに笑う。
「でも、嬉しかった」
「一緒に帰れたこと?」
「俺の隣、選んでくれたこと」
「うん」
「土曜も」
「空けてる」
「忘れない?」
「忘れない」
竹下くんは頷く。
「じゃあ、また明日」
「明日」
「昼も」
「一緒に食べる」
その約束を確認し。
竹下くんは駅前の待合場所へ向かう。
数歩進んで。
振り返る。
私は手を振った。
竹下くんも。
少し笑いながら手を上げた。
◇
竹下くんが離れたあと。
春斗が隣へ来るまで。
少し時間がかかった。
愛ちゃんは別の迎え。
小野寺くんも家族の車を待つ。
春斗と私は。
駅の出口へ向かって歩く。
朝とは違う沈黙。
隣へいる。
でも。
春斗は何も言わない。
私も。
すぐには話しかけられなかった。
外へ出ると。
春斗のお母さんの車が見えた。
後部座席へ乗り込む。
運転席から、春斗のお母さんが明るく声をかけた。
「おかえり。二人とも濡れなかった?」
「少し」
春斗が答える。
「真理ちゃんは?」
「大丈夫です」
「春ちゃん、体調平気だった?」
「平気」
「本当に?」
私と同じことを聞かれ。
春斗は少しだけ笑った。
「みんな同じこと聞く」
「心配してるのよ」
「分かってる」
車が動き出す。
窓を雨粒が流れていく。
春斗のお母さんはラジオへ耳を傾けており、私たちの間の沈黙には気づいていないようだった。
私は隣の春斗を見る。
春斗は窓の外を見ている。
「春斗」
小さく呼ぶ。
「何?」
「今日」
「うん」
「嫌だった?」
「嫌だった」
即答。
「うん」
「でも」
春斗は少し間を置く。
「真理が自分で決めたのは、前よりいい」
「本当?」
「俺にどうしてほしいか聞いて、その通りにするふりして、結局竹下を選ぶより」
「そんなことしてた?」
「前ならしてた」
「うん」
「今日は、嫌って言っても決めたこと変えなかった」
「うん」
「俺は嫌だけど」
「うん」
「真理が何をしたいかは分かった」
胸が少し痛みながら。
同時に。
少し安心した。
「怒ってる?」
「怒ってる」
「明日の五分」
「行く」
すぐに答えた。
「いいの?」
「嫌なら来るなって言う」
「うん」
「でも行く」
「何で?」
春斗は窓の外を見たまま答える。
「今日、竹下を選んだ真理が」
少し言葉を止める。
「明日の朝も俺に会いたいのか確かめたい」
胸が鳴る。
「会いたい」
私は答えた。
「今、言うな」
「何で?」
「期待するから」
「でも本当」
「分かってる」
春斗は苦しそうに笑った。
「だから困ってる」
車内には。
雨音とラジオの音が流れている。
春斗のお母さんは前を向いている。
私は。
竹下くんの隣を選んだ。
それでも。
明日の朝。
春斗へ会いたい。
二つを持っている。
今日も。
答えは出ない。
でも。
ひとつだけ。
以前とは違う。
私は初めて。
春斗が傷つくと分かっていても。
竹下くんの隣を選んだ。
そして、その選択を途中で撤回しなかった。
それは。
竹下くんの方へ進んだ。
はっきりとした一歩だった。
同時に。
春斗は。
明日の五分を手放さなかった。
私も。
会いたいと言った。
まだ。
二人との約束が続いている。
けれど。
今日からはもう。
どちらの隣にも同じように立つことはできない。
選ぶたびに。
誰かが傷つく。
それでも。
選ばなければ。
もっと深く傷つける。
窓の外を流れる雨粒を見ながら。
私は今日、自分で選んだ竹下くんの隣を思い出した。
嬉しかった。
同時に。
吊り革を握り、窓の外を見ていた春斗の横顔も忘れられなかった。
その二つを抱えたまま。
車は、雨の中を家へ向かって走り続けた。




