第19話 好きな人との次の約束をした日の昼休みは、幼馴染の名前を出さないだけでも少し難しかったです
二時間目の授業が始まってからも、真理は何度か斜め前の竹下の背中へ視線を向けてしまった。
黒板では教師が英文の構造を説明している。教室の前方には白いチョークの粉が薄く舞い、窓から入る風がカーテンの裾をゆっくり揺らしていた。月曜日の午前中らしく、まだ週末の疲れを引きずっている生徒も多い。教師が教科書の一文を読むよう指名しても、返事が一拍遅れ、そのたびに教室のどこかで小さな笑いが起きていた。
けれど真理は、授業へ集中できていなかった。
次の土曜日。
竹下と会う。
春斗からあとで何か言われても、その予定を変えないと自分から伝えた。
たったそれだけのことなのに、胸の内側へひとつ新しい重みが生まれている。
約束というものは、決めた瞬間よりも、そのあとに何度も思い出すことで大きくなるのかもしれない。
昨日のデートは、竹下に誘われた時間だった。
けれど次の土曜日は、違う。
真理も会いたいと言った。
そして、自分から守ると決めた。
その違いが嬉しい。
同時に、少し怖かった。
竹下へ近づけば近づくほど、春斗との距離も以前のままではいられなくなる。
分かっていたはずなのに。
具体的な約束へ変わると、急に現実味を帯びてくる。
「久保」
教師の声が飛んだ。
真理は反射的に顔を上げる。
「はい」
「今の文、訳してみろ」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
黒板を見る。
教科書を見る。
どこを読んでいたのか分からない。
隣で愛が、教師から見えないように指先で行を示した。
「えっと……」
真理は示された英文へ視線を落とし、何とか意味を拾う。
「彼女は、答えを急ぐよりも、自分が本当に望んでいることを知る方が大切だと考えました」
訳し終えた瞬間。
教室のどこかから、小さな笑いが漏れた。
教師も少しだけ眉を上げる。
「随分、久保に合った文章だな」
教室の空気が揺れた。
誰かが吹き出し、小野寺が声を押し殺して笑う。前の席にいる竹下の肩もわずかに動いた。
「先生、それ教科書に書いてある文章です」
「分かっている。だから運がいいと言った」
「全然よくないです」
「なら、授業へ戻ってこい」
「はい」
真理が顔を伏せると、教室のあちこちでまだ笑いが残っていた。
愛は隣でノートへ何かを書いている。
少しして、その端が真理の机へ押し出された。
『今日、教科書まで真理に説教してる』
真理はその下へ小さく書き返す。
『授業中』
『さっきまで別のこと考えてた人が言う?』
『もう集中する』
『竹下くん見ない?』
『見ない』
紙を戻した直後。
斜め前の竹下が、少しだけ振り返った。
目が合う。
真理は慌てて前を見る。
隣から愛の押し殺した笑い声が聞こえた。
◇
二時間目の休み時間。
教師が教室を出ると、張り詰めていた空気が一気に解けた。
窓際では男子生徒たちが次の体育の内容について話し、前方では女子が購買の新しいパンを買うかどうか相談している。机へ突っ伏していた生徒もようやく起き上がり、眠そうな顔で水筒へ口をつけていた。
真理は教科書を閉じ、深く息を吐く。
「英語の先生、絶対楽しんでた」
愛が言う。
「人のこと面白がりすぎ」
「でも、訳は合ってた」
「そこじゃない」
「真理に合いすぎてた」
「愛ちゃんまで言うの?」
「だって本当でしょう」
愛は少し笑ったあと、真理の顔を覗き込む。
「考えてたの、土曜?」
「分かる?」
「竹下くんばかり見てたから」
「そんなに見てない」
「授業中三回」
「数えてたの?」
「真理が分かりやすすぎるから」
真理は机の中へ教科書をしまう。
「会うの、楽しみなんだね」
愛の声が少し柔らかくなる。
「うん」
「なら、その気持ちは大事にしていいと思う」
「うん」
「春くんに悪いからって、小さくしなくていい」
その名前が出た瞬間。
真理の胸が少しだけ揺れた。
「分かってる」
「でも?」
「昨日までなら、竹下くんと次に会う約束をしたら、すぐ春斗にどう思うか聞いてたかもしれない」
「うん」
「今は聞かないって決めた」
「それでいい」
「でも、聞かないって決めるだけで、こんなに意識するとは思わなかった」
愛は少し考えるように黙った。
「今まで春くんに話すことで、自分の気持ちを整理してたからね」
「うん」
「そこを急に止めたら、空いたところが気になるのは普通」
「じゃあどうしたらいい?」
「自分で考える」
「難しい」
「恋愛相談される側だった春くんは、もっと難しかったと思うよ」
真理は何も言えなくなった。
その通りだった。
自分の気持ちを整理するために、春斗へ竹下のことを話していた。
春斗がどんな思いで聞いていたかを知ってからも、すぐにはやめられなかった。
相談だから。
幼馴染だから。
そう言い訳していた。
「愛ちゃん」
「何?」
「私、かなりひどかったよね」
「かなり」
「少しくらい否定して」
「今さら?」
「今だから」
愛は困ったように笑う。
「ひどかった。でも、今やめようとしてるなら、それは別」
「春斗に許してもらえるかな」
「許してもらうために変えるの?」
「違う」
「なら、まずそこを考えなくていい」
愛は机の端へ指先を置いた。
「真理が竹下くんを好きなら、竹下くんとのことは竹下くんと考える。春くんとの関係は、春くんとの時間で考える。それだけでも前よりずっとまとも」
「まともって」
「前がひどすぎた」
「愛ちゃん、今日は厳しい」
「昨日の次の日だから」
愛の声は厳しいが、表情は少しだけ笑っていた。
真理も口元を緩める。
そのとき。
教室の前方から、小野寺の声が聞こえた。
「竹下、土曜も空けるの?」
真理の肩がわずかに止まる。
愛も同じ方向へ視線を向けた。
竹下は自分の席へ座ったまま、小野寺を睨んでいる。
「声が大きい」
「まだ何も言ってない」
「全部聞こえてる」
「いや、部活の話」
「絶対違う」
「午前で終わるだろって確認」
「何でお前に確認されるんだよ」
小野寺は笑いながら竹下の机へ寄りかかった。
「またデート?」
近くにいた男子たちが反応する。
「また?」
「昨日行ったばっかりじゃない?」
「次の約束したの?」
女子たちの視線も少しずつ集まってくる。
竹下が面倒そうに眉を寄せる。
「何で全部言うんだよ」
「言ったの竹下じゃん」
「時間だけ聞かれたから答えただけ」
「で、誰と?」
「聞くな」
そのやり取りだけで、周囲には十分伝わっていた。
何人かが真理の方を見る。
期待と好奇心の混ざった視線。
昨日の朝までなら。
真理はその視線から逃げていたかもしれない。
けれど今日は。
土曜日に会うことを、隠したくなかった。
竹下だけに言わせるのも違う気がした。
「私と会うよ」
真理が言った。
教室の空気が一瞬止まる。
小野寺がゆっくりこちらを見る。
「久保さんから言うんだ」
「何?」
「いや、前より強くなったなと思って」
「何が?」
「竹下の隣にいる感じ」
その言葉に、竹下が少しだけ顔を赤くする。
「小野寺、余計なこと言うな」
「でも間違ってないだろ」
周囲から小さな笑いが起きる。
真理も恥ずかしかった。
けれど、否定しなかった。
「土曜日、どこ行くの?」
近くの女子が聞く。
「まだ決まってない」
真理が答える。
「また偕楽園?」
「同じ場所はないと思う」
竹下が口を挟む。
「水族館とか?」
「映画?」
「水戸なら駅周辺?」
周囲が勝手に候補を出し始める。
竹下が困ったように真理を見る。
「まだ二人で決めてないから」
真理が言うと。
女子たちは少し残念そうにしながらも、「決まったら教えて」と笑った。
その空気は。
昨日より少し近づいた二人を、面白がりながらも受け入れているようだった。
けれど同時に。
誰もが次を期待している。
付き合うのか。
どこまで進むのか。
その視線が、真理の胸へ小さな重さを残した。
◇
三時間目と四時間目が終わる頃には、教室の空気は朝よりもずっと落ち着いていた。
授業の合間に何度か竹下と目が合った。
そのたびに、互いに少し笑う。
昨日までなら。
目が合えば偶然だった。
今は。
互いに見ていると分かる。
その違いが、真理にはくすぐったかった。
昼休みを知らせる鐘が鳴る。
教室の中へ一気に声が戻った。
机を動かす音。購買へ急ぐ生徒たち。弁当箱を広げながら、午前中の授業について話す声。窓の外からは、グラウンドへ出ていく生徒たちの足音も聞こえる。
真理は弁当箱を取り出した。
愛が自分の机を寄せる。
竹下も少し迷ったあと、弁当を持ってこちらへ来た。
その後ろには、当然のように小野寺もいる。
「何でお前も来るんだよ」
「一人で食べろって?」
「いつもの場所で食べればいいだろ」
「竹下が移動したから」
「戻ればいい」
「久保さん、大杉さん、俺いてもいい?」
小野寺が直接尋ねる。
愛は真理を見る。
真理は少し考えたあと頷いた。
「いいけど、昨日のこと聞きすぎないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「俺、学習する男だから」
「さっき土曜のこと教室中に言ったよね」
「竹下が悪い」
「何で俺だよ」
「声に出して答えたから」
「お前が聞いたんだろ」
二人のやり取りに、愛が小さく笑う。
四人で机を囲む。
以前にも何度かあった形。
けれど今日は、少し違う。
竹下が真理の正面に座る。
目が合う。
昼休みの明るい教室の中で、それだけで昨日を思い出す。
真理は慌てて弁当箱の蓋を開けた。
「今日、唐揚げ?」
竹下が聞く。
「うん」
「一個多い?」
「お母さんが入れすぎた」
「交換する?」
「何と?」
竹下は自分の弁当箱を少し見せる。
「卵焼き」
「竹下くんの家の?」
「母親」
「甘い?」
「少し」
真理は迷う。
昨日までなら。
友達同士の交換だと思えた。
今は。
竹下の弁当のおかずをもらうだけでも、少し特別に感じてしまう。
竹下も同じらしく、箸を止めたまま真理の返事を待っている。
「交換する」
「うん」
互いの弁当箱へおかずを移す。
その様子を、小野寺がじっと見ていた。
「何?」
竹下が睨む。
「いや」
「言え」
「夫婦みたい」
「違う」
真理と竹下の声が重なった。
周囲で聞いていた愛が吹き出す。
小野寺も笑った。
「息合ってるじゃん」
「小野寺くん」
「ごめん。でも今のは仕方ない」
真理は顔が熱くなり、卵焼きを口へ運ぶ。
少し甘い。
竹下の家の味。
それだけのことなのに、また胸が落ち着かなくなる。
「どう?」
竹下が聞く。
「おいしい」
「よかった」
「唐揚げは?」
「うまい」
竹下はすぐに答えた。
「本当に?」
「本当」
「お母さん喜ぶかも」
「久保さんが作ったんじゃないんだ」
「作れないわけじゃないよ」
「今度食べたい」
あまりに自然に言われ。
真理は箸を止める。
「いつ?」
「いつか」
「曖昧」
「土曜に弁当持ってくる?」
「急すぎる」
「冗談」
「顔が本気だった」
「少し本気」
竹下が笑う。
小野寺がまた何か言いかけたが、愛に先に睨まれて口を閉じた。
「小野寺くん」
「何?」
「今日は見守る日」
「大杉さん、強い」
「真理たちが今までより少し進んだから、外から余計なこと言わない」
「俺、友達なんだけど」
「ならなおさら」
「竹下」
「大杉の言う通り」
「裏切った」
小野寺は不満そうにパンをかじる。
そのやり取りに、真理は少し笑った。
昼休みの教室。
友人たちの声。
竹下と向かい合って食べる弁当。
昨日のような特別な景色ではない。
それでも。
こういう時間が増えていくことも、恋が進むということなのかもしれない。
◇
しばらくは、四人で週末のことや授業の話をした。
小野寺が日曜日の部活で転びかけたこと。愛が見ていた動画の話。次の体育で持久走があるかもしれないという噂。
会話は何度も別の方向へ流れた。
真理も竹下も、昨日のことばかり話していたわけではない。
それが少し嬉しかった。
手を繋いだからといって。
好きだと伝え合ったからといって。
急にすべてが恋愛の話になるわけではない。
以前と同じように笑える。
その中へ、少しだけ特別な視線が増えた。
「そういえば」
小野寺がパンの袋を畳みながら言う。
「春斗、学校来てるんだろ?」
真理の箸が止まった。
教室の空気は変わっていない。
周囲の生徒たちも、それぞれの話を続けている。
けれど。
四人の机の間だけ。
わずかに静かになった。
「来てるよ」
真理は答える。
「体調大丈夫なの?」
「朝は大丈夫そうだった」
竹下は黙って弁当を見ている。
愛も何も言わない。
小野寺は、真理たちの空気に気づいたようだった。
「朝、一緒だった?」
聞かれる。
「うん」
真理は嘘をつかなかった。
竹下の箸が少しだけ止まる。
けれど、顔は上げない。
「そっか」
小野寺はそれ以上聞こうとしなかった。
けれど真理の胸には、春斗の名前が残った。
今朝。
五分早く会った。
会いたかったと言った。
ただの幼馴染ではないと伝えた。
その時間は大切だった。
でも。
今は竹下との昼休み。
ここで春斗との朝を説明し始めるのは違う。
真理は弁当箱へ視線を落とす。
「竹下くん」
呼ぶ。
「何?」
竹下が顔を上げる。
「卵焼き、本当においしかった」
一瞬。
竹下は驚いたように目を瞬かせた。
そのあと、少しだけ笑った。
「唐揚げも」
「うん」
「また交換する?」
「次もお弁当一緒なら」
「じゃあ一緒に食べよう」
竹下はすぐに言った。
春斗の名前が出たあと。
真理が話題を戻したことを。
竹下は分かっている。
その笑顔には、少し安堵が混ざっていた。
「火曜日?」
「明日?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ明日」
「うん」
明日の昼休み。
また竹下と食べる。
小さな約束。
けれど。
真理はそれも大切にしたいと思った。
小野寺が隣で。
「俺は?」
と聞く。
竹下がすぐに答える。
「来なくていい」
「ひどい」
「愛ちゃんは?」
真理が聞く。
「私は来る」
「じゃあ小野寺くんも来る?」
「来る」
「何で大杉が決めるんだよ」
「四人の方が自然だから」
愛はそう言いながら、真理を少しだけ見た。
いきなり二人きりの昼食へ進めるのではなく。
今の真理に無理がない形を選んでくれたのだと分かった。
◇
昼休みの後半。
小野寺が購買へ飲み物を買いに行き、竹下も教師に呼ばれて一度教室を出た。
真理と愛だけが机へ残る。
窓の外では、雲の切れ間から差し込んだ光が中庭の木々を照らしていた。グラウンドでは短い昼休みを使い、何人かの男子生徒がボールを追っている。廊下からは、別のクラスの女子たちの笑い声が途切れながら聞こえた。
「今」
愛が小さく言う。
「うん」
「春くんの名前出たとき、固まったね」
「分かった?」
「竹下くんも」
「うん」
「でも戻した」
「無理やりかな」
「少し」
愛は正直に答える。
「でも、必要だったと思う」
「春斗のこと話さない方がよかった?」
「隠す必要はないよ。朝一緒だったのは事実だから」
「うん」
「ただ、そこから相談を始めなかったのはよかった」
真理は窓の外を見る。
「竹下くん、嫌だったよね」
「嫌だと思う」
「それでも聞かなかった」
「竹下くんも我慢してる」
「うん」
「だから真理も、必要以上に説明しない」
「うん」
「でも、春くんを存在しないみたいに扱わない」
「難しい」
「難しいよ」
愛は少し笑った。
「恋愛って、正しいことを一個やれば全部解決するわけじゃないから」
「愛ちゃん、経験あるみたい」
「ない」
「説得力あった」
「真理を見て学んでる」
「悪い教材」
「かなり」
真理も少し笑う。
けれど。
胸の奥にはまだ、小さな罪悪感が残っていた。
「愛ちゃん」
「何?」
「竹下くんと一緒にいるとき、春斗のことを考えない方がいいのかな」
「考えないようにできる?」
「無理かも」
「なら、考えたこと自体を責めなくていい」
「でも」
「その気持ちで竹下くんを雑に扱わない。それが大事」
愛は机の上へ指先を置く。
「今日の真理は、竹下くんとの昼休みを守ろうとしてた」
「うん」
「次の約束もした」
「うん」
「それでいい。春くんへの気持ちが消えてないこととは別」
「別にできてるかな」
「今はまだ、練習中」
その言葉が。
少しだけ救いになった。
最初から上手にできるわけではない。
誰かを好きになりながら。
別の誰かへの気持ちにも気づいてしまった。
そんな状況で、全部を間違えずに進む方が難しい。
それでも。
間違えたことをそのままにしない。
昨日より少しだけ良い選び方をする。
今の真理にできるのは、それくらいだった。
◇
竹下が教室へ戻ってくる。
手には教師から渡されたプリントの束があった。
「何それ?」
真理が聞く。
「委員会の連絡」
「竹下くん、何委員だっけ?」
「体育委員」
「今週忙しい?」
「少し」
「土曜は大丈夫?」
聞いた瞬間。
竹下が少し笑う。
「それ心配した?」
「うん」
「絶対空ける」
「無理しなくていいよ」
「会いたいって言ったの、俺だけじゃないだろ」
真理は一瞬黙る。
それから頷いた。
「うん」
「なら空ける」
「分かった」
竹下はプリントを机へ置く。
それから、少し周囲を見て声を落とした。
「さっき」
「何?」
「春斗くんの話」
真理の胸が少し固くなる。
「うん」
「朝一緒だったの、嫌だった」
「うん」
「でも、聞いたらもっと嫌になると思った」
「ごめん」
「謝らないで」
竹下はすぐに止めた。
「朝一緒なのは知ってる。幼馴染なのも」
「うん」
「ただ」
竹下は真理を見る。
「俺といるときは、俺を見てほしい」
「見てるよ」
「今日は」
「うん」
「ちゃんと見てくれてた」
その言葉に、真理の胸が温かくなる。
「だから」
竹下は少し息を吐く。
「嫌だったけど、前より安心した」
「本当?」
「うん」
「春斗の名前が出たのに?」
「そのあと、俺との話へ戻したから」
竹下は気づいていた。
真理が意識して戻したことを。
「無理やりだった?」
「少し」
「愛ちゃんにも言われた」
「でも嬉しかった」
「ならよかった」
「次はもっと自然にして」
「難しいこと言うね」
「俺も頑張るから」
竹下の声は穏やかだった。
責めるだけではない。
自分も我慢すると言っている。
その姿勢が。
真理には苦しくもあり、嬉しくもあった。
「竹下くん」
「何?」
「ありがとう」
「感謝されることしてない」
「待ってくれてる」
「待つって決めたから」
「でも、ずっとじゃない」
「うん」
「分かってる」
「ならいい」
竹下は少しだけ笑う。
その表情の奥には。
真理が自分を選んでくれる未来を信じたい気持ちがある。
真理はそれを知っている。
だからこそ。
曖昧な優しさだけを返してはいけない。
◇
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴る。
教室の外へ出ていた生徒たちが戻り始め、机を元の位置へ戻す音が重なった。小野寺も飲み物を片手に帰ってきて、竹下へ一本投げる。
「ほら」
「頼んでない」
「ついで」
「金」
「あとで」
「結局払うのかよ」
二人のやり取りに周囲が笑う。
竹下は自分の席へ戻る前に、真理へ視線を向けた。
「明日」
「うん」
「昼、一緒」
「分かってる」
「土曜も」
「空けてる」
「忘れないで」
「忘れないよ」
竹下は安心したように頷いた。
真理も自分の席へ戻る。
愛が隣へ座りながら、小さく言った。
「今日、約束増えたね」
「うん」
「明日の昼」
「うん」
「土曜」
「うん」
「春くんとは?」
聞かれ。
真理は少しだけ迷った。
「明日の朝、五分」
「そっちもあるんだ」
「うん」
「大丈夫?」
「分からない」
「正直」
「でも」
真理は斜め前の竹下を見る。
竹下も教科書を開きながら、少しだけこちらを見る。
目が合う。
今度は逸らさない。
「今日よりは、少し上手に分けたい」
真理が言う。
愛はその横顔を見たあと。
「それでいいと思う」
と静かに答えた。
◇
午後の授業が始まる。
教室には昼食後の眠気が広がり、教師の声も午前中より遠く聞こえた。窓から差し込む光は少し強くなり、机の上へ長い影を作っている。
真理はノートへ日付を書いた。
その下へ。
今日増えた約束を、小さく書く。
明日の昼休み。
竹下くんと一緒に食べる。
土曜日。
竹下くんと会う。
そして。
明日の朝。
春斗と五分。
三つ。
どれも小さな約束。
でも。
どれも誰かの時間を預かるものだった。
これまでの真理は。
約束を増やすことで安心していたのかもしれない。
誰かと繋がっている。
誰かが待っている。
そのことが嬉しかった。
けれど今は。
約束が増えるほど、責任も増える。
竹下との土曜日を守る。
春斗との朝を、竹下の恋愛相談に使わない。
竹下との昼休みを、春斗への罪悪感で曇らせない。
どちらかを大切にすることは。
もう片方を雑にしていい理由にはならない。
その難しさを。
真理は昼休みだけで、十分すぎるほど感じていた。
教師が黒板へ新しい式を書く。
チョークの音が教室へ響く。
真理は一度だけ深く息を吸い、ノートへ視線を戻した。
答えはまだ出ていない。
でも。
今日。
竹下との次の約束を、自分のものとして守ろうとした。
春斗の名前が出ても、その場を全部春斗へ渡さなかった。
完璧ではなかった。
少し無理やりだった。
それでも。
昨日までよりは。
ほんの少しだけ。
誰かとの時間を、その人とのものとして持てた気がした。




