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『好きな人がいるので、幼馴染に恋愛相談していたら、なんだか様子がおかしくなりました』   作者: 伊佐波瑞樹


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18/52

第18話 好きな人と手を繋いだ翌日は、教室で目が合うだけでも昨日までとは違いました


 水戸駅の改札を抜けたあとも、真理はしばらく春斗の半歩後ろを歩いていた。


 月曜日の朝らしい人の多さで、駅前へ続く通路はいつもより狭く感じられる。通勤鞄を抱えた会社員が足早に横を抜け、同じ制服を着た生徒たちは週末の出来事を話しながら階段へ向かっていた。改札の電子音と案内放送、靴底が床を叩く音が重なり合い、街全体が一斉に動き始めているようだった。


 春斗は人の流れに乗りながらも、ときどき歩く速度を緩めていた。


 三日ぶりの登校だからなのか、病み上がりの身体がまだ重いのか。いつもの春斗より歩幅が少し狭く、肩へ掛けた鞄も何度か持ち直している。


「やっぱり疲れてる?」


 真理が声をかけると、春斗は前を向いたまま小さく息を吐いた。


「駅出てから二分で聞く?」


「歩くの遅いから」


「真理が速い」


「いつもは春斗の方が速いでしょう」


「今日は病み上がり」


「自分で認めた」


「認めないと保健室へ連行されそうだから」


「無理そうなら連れていくよ」


「どうやって」


「先生を呼ぶ」


「その前に自分で行く」


「じゃあ約束ね」


 春斗が呆れたように振り返る。その表情に熱の名残はほとんどなく、目元にもいつもの気だるさが戻っていた。


 それを見ただけで、真理の胸の奥に残っていた心配がまた少し薄くなる。


 今朝、岩瀬駅のベンチで春斗の顔を見た瞬間にも、同じように安心した。


 竹下と手を繋いだ翌日なのに。


 竹下を好きだと、昨日の自分で確かめたばかりなのに。


 春斗の顔色が悪くないことへ安堵し、いつもの調子で返事をしてくれることに胸を撫で下ろしている。


 その事実は、駅を出ても消えてくれなかった。


「真理」


「何?」


「さっきから遅い」


「春斗が遅いって言ったでしょう」


「今度は真理が遅い」


 春斗は信号へ向かう人の流れの中で、少しだけ立ち止まった。真理が追いつくのを待ち、そのまま隣へ並ぶ。


「考え事?」


「少し」


「竹下のこと?」


 聞かれた瞬間、真理の右手が鞄の持ち手を強く握った。


 昨日、竹下の手を握った右手。


 春斗はその小さな動きを見ていたが、視線をそこへ留めなかった。


「今は話さない」


 真理は自分でも驚くほど静かに答えた。


 以前なら、竹下との出来事を春斗へ相談するために、何を言うべきか考えていた。服を褒められたことも、景色を見ながら肩が触れたことも、手を繋いだときに嬉しかったことも、全部話してしまったかもしれない。


 それが春斗をどれほど傷つけるか。


 分からなかったわけではない。


 けれど、幼馴染だから聞いてくれると思い、春斗の好意を知ってからも、長い習慣へ甘え続けていた。


 今は違う。


 昨日の時間は、竹下と真理のものだ。


 春斗の反応で意味を変えたくない。


 同時に、今朝の時間は春斗とのものだった。そこへ竹下との昨日を細かく持ち込み、また春斗を相談相手へ戻したくなかった。


「そっか」


 春斗はそれ以上聞かなかった。


 返事は短かったが、突き放した声ではない。聞きたい気持ちを自分で押さえたのだと、真理には分かった。


「隠したいわけじゃないよ」


「分かってる」


「春斗に知られたくないからじゃなくて、今は春斗と歩いてるから」


 春斗は少しだけ眉を動かした。


「それ、前よりいい」


「何が?」


「今、誰との時間なのか分けようとしてる」


 図星を指され、真理は口を閉じる。


 春斗へ会えなかった三日のあいだに、二人の間には以前なら必要なかった線が増えた。けれどそれは、離れるためだけの線ではない。


 相手を恋愛相談の道具にしないため。


 誰かとの時間を、別の誰かの反応で測らないため。


 そうしなければ、竹下との恋も、春斗との関係も、どちらも大切にできない。


「ちゃんとできてる?」


 真理が尋ねると、春斗は少し考えてから答えた。


「今は」


「今だけ?」


「学校へ着いたら分からない」


「どういう意味?」


「竹下の顔見たら、真理また全部顔に出るから」


「出ないよ」


「出る」


「決めつけないで」


「昨日楽しかった顔で入っていくと思う」


 真理は言い返そうとしたが、言葉が出なかった。


 昨日は楽しかった。


 竹下へ会えることを、今も楽しみにしている。


 校門の向こうに竹下がいると考えただけで、朝とは違う緊張が胸へ広がっていた。


 その沈黙だけで、春斗には答えが伝わったらしい。


「ほら」


「何も言ってない」


「言ってないから分かる」


「春斗、そういうところ嫌」


「俺も知りたくないのに分かるの嫌だよ」


 軽い会話の形をしているのに、その声には少しだけ苦さがあった。


 真理は春斗の横顔を見る。


 朝の駅で、ただの幼馴染ではないと思うと伝えた。会いたかったとも言った。それを春斗は喜びながら、答えではないと自分で線を引いた。


 その春斗の前で、今度は竹下へ会うことを楽しみにしている。


 どちらにも嘘をつかないことは、正しい。


 けれど、正直であることが優しいとは限らない。


 そのことを、真理は少しずつ思い知っていた。


     ◇


 信号が青へ変わると、横断歩道の手前に集まっていた人たちが一斉に動き出した。


 真理と春斗も人の波へ入る。


 肩が触れそうな距離を、通学鞄や大きなリュックが何度も通り過ぎる。後ろから急いできた自転車が歩道の端を抜け、驚いた女子生徒が友人の腕を掴んで小さな悲鳴を上げた。


 以前なら。


 真理も、何も考えず春斗の袖を掴んでいた。


 小学生の頃から、人の多い場所ではそうしてきた。はぐれないため。転びそうにならないため。あるいは、ただ春斗が隣にいることを確かめるため。


 その動作に意味を考えたことなどなかった。


 今は、伸びかけた手を止める。


 昨日。


 竹下と手を繋いだ。


 今日。


 春斗からも、触りたいけれど触らないと言われた。


 ここで幼馴染だからという理由だけで触れれば、春斗が期待することを知っている。そして自分自身も、その体温を以前と同じようには受け取れないかもしれない。


 だから触れない。


 春斗も手を差し出さない。


 それでも、真理が人の流れに押されて半歩遅れれば、春斗は前で立ち止まった。


「来てる?」


「子どもじゃない」


「じゃあ早く」


「人が多いの」


「置いていくぞ」


「待ってるじゃん」


 春斗は何も答えず、真理が隣へ戻るまで動かなかった。


 触れない。


 けれど、離れない。


 その距離が、今の二人にはちょうどよかった。


     ◇


 学校へ近づくにつれ、同じ制服を着た生徒が増えていく。


 自転車を押しながら眠そうに話す女子生徒。部活動の大きな鞄を背負い、週末の試合結果を大声で語る男子生徒。校門前では、遅刻しそうなのか腕時計を何度も確認する生徒が、友人を置いて走り出していた。


 校舎の窓には朝日が反射している。グラウンドからは、朝練を終える運動部の掛け声と、ボールが地面を弾む乾いた音が聞こえた。


 校門が視界に入った瞬間、真理の胸の鼓動が変わった。


 あの中に、竹下がいる。


 昨日、手を繋いだ相手。


 好きだと言い合った相手。


 次も会いたいと約束した相手。


 春斗と一緒にここまで来たのに、竹下の顔を見ることも楽しみにしている。


 気持ちが切り替わるわけではない。春斗との朝が消えるわけでもない。ただ、校舎を見た瞬間に、竹下へ会える期待が胸へ加わった。


「顔変わった」


 隣から春斗の声がする。


「変わってない」


「学校見てから変わった」


「どんな顔?」


「竹下いるなって顔」


 真理は足元へ視線を落とした。


 否定すれば。


 春斗を守れるかもしれない。


 けれど、それは嘘になる。


「うん」


 短く答える。


 春斗の表情がほんの少しだけ固くなった。


 それでも、すぐに前へ向き直る。


「そっか」


「嫌?」


「嫌」


「うん」


「でも、今朝俺に会いたかったのも本当なんだろ」


「うん」


「なら、そこはもう分ける」


 春斗が自分へ言い聞かせるように言った。


「俺との朝と、竹下に会いたいこと」


「うん」


「一緒にすると腹立つから」


「正直」


「真理も正直にしただろ」


「そうだけど」


「俺もする」


 春斗の声には、痛みを隠そうとする軽さがあった。


 真理は何か言おうとしたが、適切な言葉が見つからない。慰めれば期待させる。謝れば、春斗はまた謝るなと言うだろう。


 結局、隣を歩くことしかできなかった。


     ◇


 校門を通り、昇降口へ入る。


 週明けの朝らしい賑やかさが高い天井へ反響していた。下駄箱の扉が開閉する音。上履きへ履き替えながら週末の出来事を話す声。廊下を走りかけ、教師の姿を見つけて急に歩き出す男子生徒たち。


 真理は自分の靴を下駄箱へ入れ、上履きを取り出した。


 そのとき。


「久保さん」


 背後から声がした。


 聞き慣れた声。


 けれど昨日までとは違って聞こえる。


 名前を呼ばれただけで、胸が大きく鳴った。


 振り返る。


 竹下が立っていた。


 制服姿で、肩にはサッカー部の大きなバッグを掛けている。昨日の私服よりもずっと見慣れた姿。少し乱れた髪も、首元の緩んだネクタイも、いつもの学校の竹下だった。


 それなのに。


 目が合った瞬間、偕楽園の木漏れ日が蘇った。


 並んで歩いた道。


 指が重なった瞬間。


 少し汗ばんだ手のひら。


 離したとき、そこだけ冷たくなった感覚。


「おはよう」


 竹下が言う。


「おはよう」


 真理も返す。


 声が少し硬くなった。


 竹下の声も、いつもよりわずかに高い。


 二人とも、次に何を話せばいいのか分からないように視線を揺らす。


 昨日までなら。


 学校で顔を合わせても、こんなふうにはならなかった。


 好きな人ではあった。


 けれど、まだ手の届かない場所にいる人だった。


 今は違う。


 手を繋いだ。


 好きと言い合った。


 彼女になってほしいと告げられた。


 その記憶を共有しているだけで、制服姿の竹下が昨日よりずっと近く見えた。


「もう大丈夫?」


 竹下は真理ではなく、春斗へ声をかけた。


 春斗は上履きへ足を入れながら顔を上げる。


「うん。熱は下がった」


「喉は?」


「ほぼ普通」


「本当に?」


「朝から久保にも何回も聞かれた」


「心配するでしょ」


「竹下まで同じこと言うのか」


 春斗が少し意外そうに眉を上げる。


「昨日まで熱あったんだから普通じゃない?」


「二人に言われると大病みたいだな」


「昨日までは病人だったでしょう」


 真理が言うと、竹下も小さく笑った。


「そうだよ」


「味方増やすな」


 春斗は面倒そうに言いながらも、本気で嫌がってはいない。その表情を見て、竹下も少し安心したようだった。


 三人の間に張りついていた硬い空気が、ほんのわずかに緩む。


 春斗と竹下は。


 恋愛では、明確に競い合う相手だ。


 それでも、人として嫌い合っているわけではない。少なくとも竹下は春斗の体調を本当に心配していたし、春斗もその心配を拒絶しなかった。


 そのことへ真理は安心してしまう。


 二人に仲良くしてほしいわけではない。


 けれど、自分を挟んで憎み合ってほしくもない。


 都合のいい願いだと分かっていても、完全に敵同士にならずにいてくれることへ胸を撫で下ろした。


 そのとき。


 竹下の視線が、真理の右手へ落ちる。


 ほんの一瞬。


 けれど、真理には分かった。


 昨日。


 繋いだ手。


 反射的に鞄の後ろへ隠しそうになる。


 しかし、途中で止めた。


 隠す必要はない。


 学校で手を繋ぐわけではない。春斗へ見せつけるつもりもない。


 けれど、昨日をなかったことにするように右手を隠すのは違う。


 真理は右手をそのまま鞄の持ち手へ置いた。


 竹下の表情が少しだけ柔らかくなる。


 何も言わない。


 それでも。


 覚えている。


 そう伝わった。


 その短いやり取りを。


 春斗は見ていた。


 真理の右手から竹下の顔へ。


 そして、真理へ。


 視線が静かに移る。


 聞かない。


 けれど分かってしまった。


 春斗の唇がほんの少しだけ強く結ばれる。


 真理の胸が痛んだ。


     ◇


「じゃあ、俺は上だから」


 春斗が先に口を開いた。


 春斗の教室は別の階にある。普段なら、ここで何も考えずに別れる場所だった。


 今日は。


 言葉を選ぶ。


「昼、無理そうなら保健室へ行ってね」


「分かってる」


「約束したから」


「はいはい」


「返事が軽い」


「ちゃんと行く」


 春斗は少し笑う。


 それから竹下へ視線を向けた。


「じゃあ」


「うん。また」


 竹下も頷く。


 短い会話。


 しかし、互いの存在を無視してはいない。


 春斗は階段へ向かい、数段上ったところで一度だけ振り返った。


 真理と目が合う。


 今朝。


 会いたかったと言った。


 ただの幼馴染ではないと思うと伝えた。


 その言葉を、春斗は覚えている。


 真理も覚えている。


 春斗は何も言わず、前へ向き直った。


 その背中が階段の上へ消えてからも、真理は数秒ほど同じ場所を見ていた。


「久保さん」


 竹下に呼ばれ、真理はようやく顔を戻す。


「何?」


「春斗くん」


 竹下は少し迷ったあと、正直に言った。


「見てた」


 責める口調ではない。


 けれど、寂しさは隠れていなかった。


 真理は誤魔化さない。


「うん。見てた」


「そっか」


「体調、まだ心配だから」


「それだけ?」


 竹下の問いに、真理は言葉を止める。


 それだけではない。


 今朝、春斗に会えて安心した。会いたかったと伝えた。ただの幼馴染ではないと思うと口にした。


 けれど。


 今、その全部を竹下へ説明することも違う。


「それだけじゃない」


 真理は答えた。


 竹下の表情が少しだけ固くなる。


「でも、今ここで春斗との朝を全部話さない」


「俺に隠す?」


「違う」


 真理は竹下を見る。


「今は竹下くんと教室へ行く時間だから」


 竹下の目が少し揺れた。


「それ」


「何?」


「嬉しい」


「本当?」


「春斗くんの話を聞かなくて済むから、じゃなくて」


 竹下は声を少し落とす。


「今、俺を見ようとしてくれてるのが」


 胸が温かくなる。


 昨日までの真理なら。


 春斗との出来事を竹下へ説明し、その反応で何かを確かめようとしていたかもしれない。


 でも、それでは竹下といる意味がない。


「昨日」


 竹下が続ける。


「なかったことにしてない?」


「してない」


「本当?」


「うん」


「手」


 その一言だけで、右手が熱を持つ。


「覚えてる」


「次も?」


「うん」


「繋ぎたい?」


 朝の昇降口には、多くの生徒がいる。上履きへ履き替えながら話す声も、廊下へ走り出す足音も、近くを通り過ぎていく。


 こんな場所で聞かれるとは思わなかった。


「今、聞く?」


「誰も聞いてない」


「そういう問題じゃないでしょう」


「嫌だった?」


 竹下の目は真っ直ぐだった。


 真理は昨日を思い返す。


 竹下の指が触れた瞬間。


 初めは歩幅が合わなかったこと。


 少しずつ、手を繋いで歩くことへ慣れていったこと。


 途中で離れても、また自然に手を重ねたこと。


 最後に離したとき、寂しいと思ったこと。


「嫌じゃない」


「じゃあ」


「次も繋ぎたい」


 答える。


 竹下の耳が少し赤くなった。


 真理も同じだと思う。


「学校で言われると、思ったより恥ずかしい」


 竹下が呟く。


「竹下くんが聞いたんでしょう」


「そうだけど」


「私も恥ずかしい」


「じゃあ同じ」


 二人で小さく笑う。


 周囲の朝の音は何も変わらない。


 けれど。


 その短い会話だけ、二人の間へ残った。


     ◇


 二人で教室へ向かう。


 手は繋がない。


 肩も触れない。


 廊下には多くの生徒がいて、友人同士で並んで歩く姿など珍しくない。それでも真理には、竹下との距離が昨日までより近く感じられた。


 互いに相手の手の温かさを知っている。


 それだけで、隣へいる意味が変わってしまった。


「昨日、部活大丈夫だった?」


 真理が聞く。


「少し遅れた」


「やっぱり怒られた?」


「少しだけ」


「ごめん」


「俺が長くいたかったから」


「でも」


「久保さんが帰ろうって何回か言ったの、俺が延ばした」


「うん」


「だから謝らなくていい」


 竹下は前を向いたまま続ける。


「それに、怒られても昨日の方が大事だった」


「部活の人に聞かれたら怒られるよ」


「聞かれないように言ってる」


「私には言うの?」


「言いたかったから」


 竹下の声は少し照れていた。


「昨日、帰ってから写真何回も見た」


「何回?」


「言わない」


「多い?」


「少し」


「絶対少しじゃない」


「久保さんは?」


 聞き返され。


 真理は昨日の夜を思い出す。


 竹下と撮った写真を何度も開いた。


 春斗へは見せなかった。


 竹下との思い出を春斗の表情で変えたくなかった。


「私も見た」


「何回?」


「言わない」


「ずるい」


「同じでしょう」


「じゃあ次」


「何?」


「もっと近くで撮る?」


 真理は歩きながら竹下を見る。


「昨日も近かったよ」


「肩だけ」


「十分近い」


「手、写ってなかった」


 また、手。


 顔が熱くなる。


「学校でその話ばかりしないで」


「久保さんが覚えてるか確認したい」


「何回確認するの?」


「春斗くんに会ったあとだから」


 声の温度が変わる。


 竹下は冗談を言っていたわけではない。


 真理が春斗へ会ったあと、昨日の気持ちをどのように扱うか。


 それをずっと怖がっている。


「覚えてるよ」


 真理は足を緩めた。


「竹下くんと手を繋ぎたかったことも、繋げて嬉しかったことも、次も繋ぎたいと思ってることも」


「春斗くんに会っても?」


「うん」


「今朝、何か変わっても?」


 真理は少しだけ迷う。


 春斗へただの幼馴染ではないと伝えた。


 それは変化だった。


 けれど。


 竹下への気持ちが消えたわけではない。


「春斗への気持ちは、昨日と少し違って見えた」


 真理は正直に言う。


 竹下の顔が固くなる。


「でも」


 真理は続けた。


「だからって、竹下くんとの昨日が小さくなったわけじゃない」


「本当?」


「今、竹下くんと歩いてるのも嬉しい」


 竹下は何も言わなかった。


 ただ、少しだけ歩く速度を緩める。


 真理の歩幅へ合わせるように。


「それなら」


 少しして、竹下が言う。


「今日はそれでいい」


「今日は?」


「ずっとは待たないって言った」


「うん」


「でも、昨日の次の日に全部決めろとも言わない」


「ありがとう」


「ただ」


「何?」


「俺も、昨日より近くにいたい」


 真理の胸が鳴る。


「学校で手は繋げないけど」


「繋がないよ」


「分かってる」


「じゃあ何?」


「目が合ったら逸らさないで」


「それだけ?」


「今は」


 竹下は少し笑った。


「それくらいから」


 その言葉が。


 竹下らしいと思った。


     ◇


 教室へ入ると、週明けの朝らしい賑わいが広がっていた。


 窓際では男子生徒たちが部活動の試合結果を話し、前方の席では女子たちが週末に見た映画の話で盛り上がっている。宿題を忘れたらしい生徒が友人へノートを借り、別の生徒は机へ突っ伏したまま、まだ眠りから戻ってこない。


「竹下!」


 教室の奥から小野寺の声が飛んできた。


 竹下の肩が少しだけ固くなる。


「朝からうるさい」


「まだ名前呼んだだけ」


「顔で分かる」


「何が?」


「昨日のこと聞く顔」


 小野寺は自分の席から立ち上がり、楽しそうに近づいてきた。


「偕楽園どうだった?」


 周囲の数人が反応する。


「昨日だったの?」


「デート?」


「竹下、偕楽園行ったの?」


 小さな声が教室の中へ広がっていく。


 真理は入口で足を止めそうになった。


 昨日。


 真理と竹下の時間。


 手を繋いだこと。


 好きと言ったこと。


 写真を撮ったこと。


 その全部を、教室の中へ簡単に持ち込まれたくない。


 竹下が真理の前へ半歩出た。


「朝から聞くな」


「細かいこと聞こうとしてないって」


「絶対聞くだろ」


「竹下の顔見て決める」


「決めるな」


 小野寺は笑っている。


 悪意はない。


 友人の恋が進んだことを面白がっているだけ。


 けれど。


 昨日の時間は、からかいのためにあるものではない。


「小野寺くん」


 真理が呼ぶ。


 小野寺がこちらを見る。


「何?」


「昨日のことは、竹下くんと私のことだから」


 声が少しだけ震えた。


 周囲の何人かが真理を見ている。教室の入口で、突然そんなことを言う自分が恥ずかしい。


 それでも、逃げなかった。


 教室の空気が一瞬だけ静かになる。


 小野寺の表情が変わった。


「あ、ごめん」


「うん」


「悪気はなかった」


「分かってる」


 小野寺はすぐに引いた。


 その様子を見ていた周囲の生徒たちも、少し気まずそうに視線を散らす。誰かを責めるほどのことではない。ただ、面白そうだから聞いただけ。


 それでも真理が嫌だと言ったことで、教室の空気は少し変わった。


「でも」


 小野寺は慎重に言葉を選ぶ。


「楽しかったかだけ聞いていい?」


 今度は。


 踏み込みすぎないように。


 竹下が真理を見る。


 答えていいかを確かめるような視線。


 真理は小さく頷いた。


「楽しかった」


 竹下が答える。


 思っていたより、はっきりした声だった。


 教室のあちこちから。


「おお」


「いいじゃん」


「それならよかった」


 小さな声が上がる。


 からかいだけではなく、純粋に祝うような空気も混じっていた。サッカー部の男子が竹下の肩を軽く叩き、近くの女子が真理へ目を向ける。


「久保さんも?」


 聞かれた。


 真理は一瞬迷う。


 春斗へ会った。


 顔を見て安心した。


 ただの幼馴染ではないと伝えた。


 だからといって、昨日を曖昧にしてはいけない。


「楽しかった」


 真理は答えた。


 教室の空気が少し揺れる。


 小野寺が目を丸くし、近くの女子たちが小さく顔を見合わせた。


 竹下の表情が。


 隣でゆっくり柔らかくなる。


 真理はその顔を見て。


 自分も嬉しくなった。


     ◇


 自分の席へ着くと、愛がすぐにやってきた。


「おはよう」


「おはよう」


「真理」


「何?」


「顔」


「また?」


「二人とも分かりやすすぎる」


 愛は斜め前の竹下へ視線を向けてから、真理の机へ手を置いた。


「目が合うたびに逸らしてる」


「竹下くんが逸らしてる」


「真理も」


「少しだけ」


「かなり」


「見てたの?」


「教室の端からでも分かる」


 真理は鞄から教科書を取り出しながら、斜め前を見る。


 竹下は小野寺に何か言われ、面倒そうに眉を寄せていた。けれど、その途中でふと真理の方を見る。


 目が合う。


 今度は。


 竹下が言った通り。


 すぐには逸らさない。


 ほんの数秒。


 それだけなのに、昨日の手の温かさが戻るような気がした。


 竹下の口元が少しだけ上がる。


 真理も小さく笑う。


「今の」


 愛が呟く。


「何?」


「付き合う前の二人って感じ」


 真理の胸が跳ねる。


「まだ付き合ってない」


「分かってる」


「竹下くんにも言われた」


「何を?」


「彼女になってほしいって」


 愛の表情が真剣になる。


「昨日、はっきり?」


「うん」


「返事は?」


「待ってもらってる」


「いつまで?」


「ずっとじゃないって」


 愛は少し息を吐く。


「春くんは?」


「朝会った」


「五分?」


「うん」


「どうだった?」


 真理は少し考える。


 竹下との時間へ春斗を持ち込まない。


 けれど、愛には相談している。


「安心した」


「顔見て?」


「うん」


「それで?」


「会いたかったって言った」


「春くんに?」


「うん」


 愛の目が少し大きくなる。


「昨日の翌朝に?」


「うん」


「真理、それはかなり期待させるよ」


「分かってる」


「他には?」


 真理は言うべきか少し迷った。


 けれど、ここで隠しても愛から正しい助言はもらえない。


「ただの幼馴染ではないと思うって言った」


 愛が完全に黙った。


 教室のざわめきが、二人の間へ流れ込む。近くでは女子たちが提出物の確認をしており、男子の一人が忘れたプリントを探して机の中身を床へ落としていた。


「愛ちゃん」


「真理」


「何?」


「朝からかなり進めたね」


「進めたつもりはない」


「気持ちを言葉にした時点で進んでる」


「春斗も、答えじゃないって言った」


「春くんが?」


「期待はするけど、選ばれたとは思わないって」


 愛は少し驚いたように瞬きをする。


「春くん、ちゃんと線引いたんだ」


「うん」


「それで、竹下くんには昨日楽しかったって言えた」


「うん」


「今朝、次も手を繋ぎたいとも言った?」


「言った」


 愛が片手で額を押さえる。


「真理」


「何?」


「両方かなり進んでるよ」


「分かってる」


「本当に分かってる顔じゃない」


「どういう顔?」


「難しくなったなって顔」


 真理は返事をしなかった。


 その通りだった。


 竹下と手を繋いだことで、竹下との恋は本物だと分かった。


 春斗へ会ったことで、春斗への気持ちは単なる幼馴染への執着ではないと思い始めた。


 どちらかが偽物なら、簡単だった。


 けれど、どちらも本当らしい。


 だから。


 前より難しくなっている。


「でも」


 愛が声を少し柔らかくする。


「今のところは、ちゃんと分けようとしてる」


「本当?」


「春くんとの朝を竹下くんへ全部説明しなかった」


「うん」


「竹下くんとの昨日を、春くんに会ったからって否定しなかった」


「うん」


「さっき教室でも楽しかったって言えた」


「うん」


「それは大事」


 真理の胸へ、少しだけ呼吸できる場所が生まれる。


「ただし」


 愛は続ける。


「このまま両方を進め続けるなら、どこかで本当に選ばないと駄目」


「分かってる」


「竹下くんとは、もう恋人になる直前まで来てる」


「うん」


「春くんとは、気持ちの正体を認め始めてる」


「うん」


「次に進むときは、昨日までより慎重に」


 愛の声は真剣だった。


「竹下くんと次も手を繋ぐなら、その意味をちゃんと考える。春くんとの五分をもっと増やしたいと思ったら、それも同じ」


「今は増やしてない」


「今はね」


 今は。


 五分。


 けれど、会えなかった三日で、その五分がどれほど大きいかを知った。


 もっと早く会いたい。


 もう少し一緒にいたい。


 そう思う日が来たら。


 自分はどうするのだろう。


     ◇


 朝のホームルームが始まる。


 担任が教室へ入り、出席を取り、週の予定を黒板へ書いていく。提出物。水曜日の委員会。体育祭関係の打ち合わせ。週明けらしく連絡事項は多く、生徒たちは眠そうな顔でノートを開いていた。


 真理もノートを開く。


 しかし。


 斜め前の竹下の背中が気になる。


 昨日。


 並んで歩いた。


 手を繋いだ。


 好きと言った。


 その竹下が、今は制服姿で前の席へ座っている。


 学校では。


 いつもの竹下。


 けれど、真理にとってはもう昨日までと同じではない。


 竹下が少しだけ振り返る。


 目が合う。


 今度は。


 竹下が自分の右手を机の上でわずかに動かした。


 意味が分かる。


 顔が一気に熱くなった。


 真理は慌てて前を向く。


 隣から、愛が小さな紙を机へ滑らせてきた。


『分かりやすすぎ』


 真理はその下へ、『竹下くんが悪い』と書く。


 紙が戻る。


『真理も見てた』


『少し』


『かなり』


『ホームルーム』


『担任見てる』


 紙を隠した瞬間。


「久保」


 担任に呼ばれた。


「はい」


「今週の水曜、放課後は何だ」


 頭が真っ白になる。


 愛が隣で小さく口を動かす。


 委員会。


「委員会です」


「そうだ。忘れるなよ」


「はい」


 教室のあちこちから小さな笑いが起こる。


 小野寺が。


「デートの翌日だから」


 と小声で呟いた。


 竹下がすぐに小野寺の肩を叩く。


「痛い」


「黙れ」


「照れてる」


「もう一回いく?」


「暴力反対」


 教室に笑いが広がる。


 真理も恥ずかしいのに、少し笑った。


 昨日のことをからかわれただけで、すべて嫌になるわけではない。


 手を繋いだことは。


 真理の中で。


 ちゃんと嬉しい思い出になっている。


     ◇


 一時間目が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。


 椅子を引く音。廊下へ出る生徒。次の授業の教科書を探す声。窓際では、誰かが月曜日から眠いと机へ突っ伏し、隣の生徒に笑われている。


 竹下とは。


 授業中、何度か目が合った。


 そのたびに、昨日の手の温かさを思い出した。


 しかし、話しかけるきっかけがない。


 以前なら普通に名前を呼べた。


 今は目が合うだけで恥ずかしい。


 竹下も同じらしく、席を立ちかけては小野寺に声をかけられ、また座る。こちらへ来るのかと思えば、教科書を取り出すだけで終わる。


 その様子が少しおかしくて、真理は小さく笑った。


「竹下くん、来たいみたい」


 愛が教科書を閉じながら言う。


「分かってる」


「呼べば?」


「私から?」


「嫌なの?」


「嫌じゃない」


「なら呼びなよ」


「恥ずかしい」


「昨日手を繋いだのに?」


「昨日は昨日」


「便利な言葉」


 愛は笑う。


 真理は少し迷ったあと。


「竹下くん」


 呼んだ。


 教室のざわめきの中、思ったより大きな声が出た。


 竹下がすぐにこちらを見る。


「何?」


「何って……」


 呼んだ理由を考えていなかった。


 愛が横で顔を伏せる。


 笑っている。


「呼んだだけ」


 真理が言うと、竹下は少し目を瞬かせたあと、ゆっくり立ち上がった。


 こちらへ歩いてくる。


 周囲の何人かが、何となくその動きを見ていた。昨日のデートを知ったばかりだから、二人が話すだけでも気になるのかもしれない。


 竹下は真理の机の横へ立つ。


「呼んだだけ?」


「少し話したかった」


 正直に言う。


 竹下の表情が柔らかくなる。


「俺も」


 その返事だけで、胸が温かくなった。


「昨日の写真」


 竹下が声を落とす。


「何?」


「朝見た」


「朝から?」


「うん」


「何回?」


「言わない」


「多い?」


「少しよりは」


「絶対多い」


「久保さんは?」


 真理は昨日撮った写真を思い出す。


 肩が触れた距離。


 二人とも笑っていた。


 手は写っていない。


 それでも、以前の写真より明らかに近い。


「私も見た」


「朝?」


「昨日の夜」


「何回?」


「言わない」


「ずるい」


「同じでしょう」


 二人で笑う。


 周囲の視線がある。


 けれど今は、それほど気にならなかった。


 竹下との昨日を。


 学校でも大切にできている。


 そのことが嬉しかった。


「次」


 竹下が言う。


「うん」


「土曜日、午後空いてる?」


「部活は?」


「午前で終わる」


「どこ行くの?」


「まだ決めてない」


「先に誘ったの?」


「会いたかったから」


 胸が鳴る。


 昨日別れたばかり。


 それでも、また会いたいと言われる。


 真理も同じだった。


「私も会いたい」


 答える。


 竹下の表情がはっきりと明るくなった。


「本当?」


「うん」


「じゃあ空けて」


「空ける」


「春斗くんとの予定」


 名前が出る。


 胸が少しだけ固くなる。


「今はない」


「そっか」


「でも」


 真理は一度言葉を止めた。


 昨日。


 竹下は言った。


 少しは自分の方へ来てほしい。


 今日手を繋いだことを、春斗へ会ったあとでなかったことにしないでほしい。


 なら。


 今度は。


 自分から示す。


「あとから春斗に何か言われても、土曜は竹下くんとの予定」


 竹下の目が少し大きくなる。


「変えない?」


「うん」


「本当に?」


「竹下くんと会うって決めたから」


 教室の中には人の声がある。


 椅子を動かす音。


 次の授業の準備をする声。


 それでも。


 竹下はしばらく何も言わなかった。


 真理の言葉を、確かめるように受け止めている。


「ありがとう」


 やがて小さな声で言った。


「うん」


「それ、かなり嬉しい」


 今度の土曜日。


 三回目。


 場所はまだ決まっていない。


 けれど。


 会うことだけは決まった。


 昨日のデートが。


 今日。


 次へ繋がった。


 そのことが、真理も嬉しかった。


     ◇


 次の授業を知らせる予鈴が鳴る。


 生徒たちが急いで席へ戻り始めた。


 竹下も自分の席へ戻りかけ、途中で振り返る。


「久保さん」


「何?」


「次も」


 声を少し落とす。


「手、聞いていい?」


 顔が熱くなる。


「今聞くの?」


「土曜の話」


「そのとき聞いて」


「また?」


「ちゃんと聞いて」


「分かった」


 竹下は少し笑う。


「でも、期待してる」


 昨日と同じ言葉。


 けれど。


 今度は真理も同じ気持ちだった。


「していい」


 答える。


 竹下の顔が赤くなる。


 そのまま自分の席へ戻る。


 愛が隣から小さく呼んだ。


「真理」


「何?」


「かなり竹下くんの方へ進んだね」


「うん」


「自覚ある?」


「少し」


「春くんとの朝があっても?」


「うん」


 真理は竹下の背中を見る。


「今は竹下くんとの時間だから」


 愛は少しだけ安心したように頷く。


「それならいい」


 次の授業の教師が教室へ入ってくる。


 生徒たちの声が少しずつ小さくなった。


 真理は教科書を開く。


 斜め前には竹下がいる。


 今朝。


 春斗に会えて安心した。


 ただの幼馴染ではないと伝えた。


 そのことは消えていない。


 でも。


 今。


 真理は竹下との次の土曜日を楽しみにしている。


 目が合うだけで、昨日を思い出している。


 次も手を繋ぎたいと思っている。


 その気持ちも、同じように本当だった。


 答えはまだ出ていない。


 それでも今日、真理は初めて。


 春斗との朝を否定せずに持ったまま。


 竹下との次を、自分から選んだ。


 それは小さく見えて。


 今までよりずっと大きな一歩だった。

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